はてなキーワード: わだかまりとは
他意はまったくないミスや失言に対して、普通に考えればただのうっかり事案なのに「それは自分に対して悪意があるからか?」とか「自分を軽んじているのか?」とかわざわざ悪く解釈して気を悪くする人々がいる。
それをするのは必ずと言っていいほど(イ)だ。
逆に、(ロ)はまったくしないと言っていい。
少なくとも、私の家族友人知人職場を観察する限り、(イ)はするし(ロ)はしない。
自分は(ロ)なので、(イ)にこれをされるたびに「またか。いい加減にしてくれ」と思う。
他意はなくただの純粋な過失だといくら説明しても「純粋なミスであることは理解したが、それでも気分は悪い」と言う。
心のどこかで疑ってるじゃん。
つきあいきれません。
バレを見た。
予想全部外れてた。よかった。
ミオリネがテロリストに殺されそうになって、スレッタがエアリアルで生身のテロリスト殺すとか……。
シャディクの「運が良ければ生き残れるさ」ってここにかかって来るんだな。
プロローグの「ろうそくみたいできれいだね」を今度はスレッタでやらせるのか。
しかも、9話の「皆でミオリネさん、助けるよ」が悪い方向に向く形で。
助けるために殺す。しかも、わりと無邪気に。
人殺しをするのがスレッタじゃなく、エアリアル&エリクトっぽいけど、それを外から見ているミオリネからすれば「人殺し」をしたのはスレッタになるわな。
デリングがミオリネに語った「ガンダムの呪いは重い」もここに結び付くんだな。
ほんの数十分前まで二人で絆深めてたのに、これってやばくねーか?
エアリアルから下りて、抱きしめあった余韻残ってる状態でミオリネに避けられるの必至じゃん。
現実と向き合うのは大切だけど、この展開だとスレッタのメンタルやばくねぇ?
ここでわだかまりを抱えたら、この二人バディになれるの?
嘘バレであってほしいけれど、今までのあれこれががっつりつながるから、本バレなんだろうな、あれ。
ここからどう巻き返すのかさっぱりわからん。さすが血染めのユフィを書いた人だわ。
とどめにグエルが父親殺すとかマジ?って感じ。
カシタンカが元ネタなら、グエルはテロリストの一味として捕まって、ジェタークに戻るんだと思ってたけど。
もし成功したらミオリネ絶体絶命だぞ。んでバディを信用できなくなってるとか、さらにニカの裏切りバレも待ってるから、ものすごくドツボにはまるんじゃね?
小学校からの腐れ縁のオタク仲間で、それぞれ住んでるジャンルは全然違ったけど沸った想いをお互いに語り合い聞き合い、インターネットミームでゲラゲラ笑ったりした。一緒に旅行に行ったり、同人活動を手伝ってもらったり、しょうもないネットの記事をLINEに送りつけてだらだら下らない話をしたりしていた。
ただ自分はアホだからたまに何か失礼だったり不快なことをやらかしてしまって、その度に相互フォローのアカウントでエアリプみたいにぼかして愚痴られてるのが昔からしんどかった。
しんどかったけど、こんなアホのポンコツ人間とこんなにも長く仲良くしてくれていい奴だな、自分が悪いな、またやらかしてしまったな、いつも申し訳ないな、優しいから直接言えないんだろうな、とずっと思ってた。
コロナ禍が始まった年だったか、自分の推しが大変なことになって、すごく精神的に荒れてた頃があった。
大変だから何とか応援したい+見納めになるかもしれないタイミングだった。だから元親友を今までイベント事に誘ったことは多分ほぼ無かったかもしれないけど、その時はよかったら今度有料配信があるから観て欲しいって誘ってみた。けど観れたら観るわ(観ない)で、当日は自分の推しの映画だか配信だかを見ていた。
あっちの推しのイベントや遠征にも付き合ったのに、こっちの推しには、推しが大変だって話してたのに付き合ってくれないんだと思って、それが結構ショックでTwitterで思わず愚痴ったら、それがド地雷だったみたいでまたTwitterで愚痴られた。
それについては結構長いこと愚痴られて、やっちまった感で申し訳無さと自己嫌悪で結構しんどくて、お詫びに誕生日祝いも兼ねてプレゼントをあげてとても喜ばれたけど、謝罪に対しては「いやお前の推し知らんのよ」って言われたのもまたショックだったし、その後も愚痴は止まらなかった。
以前はルームシェアでもするか、老後は一緒の老人ホーム入ろう、なんて言ってたのに、突然家を買うみたいな話をしだして、態度も一気によそよそしくなった。
謝ったから許されるとは思ってなかったけど、遠回しに独り言みたいにぼやかれるよりハッキリぶつけてもらいたいと思って、ビビりながらクソ長文LINE送ったけど「別にお前のことじゃないけど、誤解させたなら悪かった」「Twitterで愚痴られるの気になってたって言う割に、自分はこないだそういうツイートしてたよね^^」みたいなことを返された。
こんな人だったっけ?と思った。
それから、私が悪かったなと思った。
私は期待し過ぎてたんだと理解した。
いつも私の推しなんか別にいいよって10年以上言ってたのに、いきなり見てくれって何だって話だし。そもそも顔がどうしても覚えられないってずっと言われてたのに。その時元親友の推しもコロナで大変だったのに、自分本意だったなって反省した。
元親友の推しジャンルは自分からは好まないものの、親友の好きなものだから知りたいし喜んでる親友を見たいと思っていた。でも友達だから必ず付き合う必要も無いし、断るという選択肢あったのにそれを選ばなかったのは自分だった。
「何かあるなら直接言ってくれ」は、嫌な思いをさせた側のエゴでしかない。Twitterも私が誤解してるだけならフォロー外して見なければいいだけだ。
ただこれは私の悪意が含まれるけど、もしこの場は誤魔化されただけで、実は本当に私の愚痴だとしたら、本人が見られる場で「はぁ〜嫌な思いしたな〜いやお前のことじゃないけどね?」と繰り返し発言する神経が分からないなとも思った。
だからとりあえずTwitterのフォローを外した。相互フォロー必須の鍵垢にしてたから申し訳ないけどブロ解した。一言も言わなかったけどフォロリムご自由にって書いてあるからまあいっかと思った。自分のことじゃないとしても、もう元親友の愚痴を見たくなかった。
あまりのよそよそしさで、もう元親友は私のこと嫌いなんだろうな、もう遊ぶこともないだろうなと思い込んでゲームのフレンド登録も消してしまった。
まあ腐れ縁だし遠い将来に来たる訃報くらいはなと思って、LINEだけは一応残した。SNS一つ残ってれば連絡は取れるし、今までもLINEでよくやりとりしてたし。
もしかしてこのことでまた何か呟くかなと思ってTwitterを覗きに行ったら、やっぱり私の愚痴を話してた。「おっ向こうからフォロー外したかw助かるわw」なんて言ってた。
最終的に「私は何もしてないけど突然友達にTwitterで暴言吐かれた。後から謝りたいと言われた」「元々変な子だったし付き合いも長いからまあいいよって返したけど、結局その後Twitterもゲームもブロックされた。LINEもブロックされてるかもしれない」「多少モヤったけど、自分でも驚くくらい感情が動かなかった」「私のことを大事にしてくれる友達を大事にしていこうと思った」みたいなことをツイートしてた。
ああ、これが本音かぁ。そうだったんだ、今まで長らく本当にごめんね。でも本当にそんな人だったんだね、今まで気づかなかったよ、ごめんね。
昔から変な奴と思いながらも付き合ってやってたのに、いきなり地雷踏まれたらそりゃあ不快で嫌いになるよなって納得した。
今まで一緒にゲラゲラ笑ってた思い出も全部パァになるくらいどうでもよくなったみたいだし、そこまでになったら私ももう関係を取り戻すのは大変過ぎる。
冷静に考えれば黙ってフォローを外すなんてとても乱暴で、ともすれば強いショックを与える可能性のある行為だったと思う。でも何も感じなかったそうだし、変に断ってから外すとそれはそれでめんどくさかっただろうから、結果的にこれで良かったなと思った。
本当に他意は無かったのに私が勝手に気にし過ぎてグルグルしてるなんて精神的に不健全だったし、向こうからしたらどうでもいい奴が視界から消えたし、お互いにとってこれがベストだったに違いない。
きっともう二度と連絡し合うことは無いんだろう。「達者でな」ってツイートに心の中で、お前も元気で暮らせよ、いつか線香あげさせてくれたら、もしくは線香あげに来てくれたら嬉しいよと返しながら、晴れやかな気持ちでTwitterの検索履歴から元親友のアカウントを消した。
それから1年半くらい経って、突然連絡が来た。
遠慮がちに腰低く「連絡見るのも嫌かもしれないけど、良かったら忘年会でも」みたいな連絡が来た。
正直ねずみ講かどこどこに投票してくれみたいな話かと怪しんだけど、私のことが嫌いを超えて無関心になってたのに、どういう風の吹き回しなんだろうと思った。以前元親友のことを相談していた友達には止められたけど、応じてみた。クリスマスも近かったから、元親友の好きな食べ物を手土産に買って行った。
実際会ったら全然ねずみ講じゃなかった。腰が低かったのは直前にクソ長文LINEが残ってたから気を遣ったそうだ。
仕事で鬱になってしまって、死ぬことをふと考えた時に、死ぬまでにやりたいこととして私に会いたいと思ったらしい。
一方的に切られてもショックを感じないくらいどうでもいい嫌いな人間に会いたくなるなんて、鬱はやっぱり怖い病気だなと思った。自分もなったことがあるが、食が細くなったり不眠になったりで体力が削られることで余計に弱って考えや行動がおかしくなるから仕方ないなとは思った。
あと友達を増やすにはどうしたらいいかと相談された。元親友にとって私は「友達を大事に出来ない人間」「いきなり暴言吐いてくる変な奴」なのに、どうしてわざわざ会って訊くんだろうと思った。
私を含めて友達と言える人はすごく少なくて、でも私以外の友達には遠慮してしまって物寂しさを感じてるらしい。自分なりに友達に配慮して、大事にしてて偉いなと思うと共に、どうして大事にされてないと感じる私がまだ友達扱いなんだろうと内心首を傾げた。
色々不思議だったけど、鬱はどうしても一定ネガティブになるから思考の壁打ちは大事だし、自分なりに答えて、後は昔みたいに最近ハマってるジャンルの話とかして、よいお年をって解散した。手土産は素直に受け取って帰っていった。
まずプラスのパターン。これは「何かを投じてる」という意識が無く、ただただ楽しい・快と思える状態。
次にプラマイゼロのパターン。これは例えば「あの人すごいめんどくさい(=精神でマイナス)けど、高いご飯奢ってくれる(=金銭でプラス)んだよな」「あの人暴力振るう(=体力でマイナス)けど、一緒にいると幸せ(=精神でプラス)」みたいな状態。
最後にマイナスのパターン。これは「こんなに○○してあげたのに、ちっともお返ししてくれない」「本当は○○したいのに物足りない、寂しい」など、自分の投資に対してリターンが少ないと明確に感じている状態。
例えば同級生、同僚だとか同じコミュニティにいたり、妊婦仲間とかライフステージが同じだと、時間や精神が自動積立されるから関係性が維持しやすくて、逆に同じじゃない場合は維持したいなら自分から積極的に投資しにいかないといけないし、相手も自分に投資したいと思っていてくれないと成立しない。
あと精神に関してはFXとか暗号資産みたいなもので、突然高騰したり暴落したりする。一番不確定要素がデカい。先の例で言うDV彼氏みたいな、客観的には大損でとっとと手放した方がいいのに、本人にとってはリターンがすごくて手放せなくなる、みたいなこともあるから、ちゃんと自分の状態をメタ認知していかないと危ない。
更に人間関係は、アップデートをかけ続けていかないといけない。
もちろんしなくてもいい・必要としない関係もあるけど、例えば学生から社会人になる、結婚をする、子供ができる、みたいなライフイベントは、その人の暮らしがガラッと変わる。暮らしが変われば連絡の取り方だけじゃなくて、その人のトピックスもボキャブラリーも変わってくる。
人間関係ってどうしても現状に甘んじてアップデートをあまりかけないけど、例えば「独身同士の付き合い」があって、ある日どちらかが結婚・出産した場合、「独身と既婚子持ちの付き合い」に変えられないとどこかで破綻する可能性がある。
そういった時に「これからも仲良くしたいんだけど、連絡は独身時代みたいな感じだと迷惑にならないかな?」「もしよかったら子供の話してもいいかな?子供連れて遊んでもいいかな?」みたいな一言を投げかけられるか=アップデートをかけにいけるかが結構大事だと思ってる。
こういう明確なライフスタイルの変化はまだわかりやすい。環境とか置かれた状況、時間の流れで生まれた小さな小さな変化の積み重ねによって実はお互い色々変わっているのに、それに気付けていないパターンは結構重篤なのにきっかけが無くてアップデートがかけにくい。
そして人間関係はここまで語った内容に加えて、縁や運、偶然というものもあると私は信じている。様々な要素があるからこそ、出会って3日で入籍するようなカップルもいれば、数十年来の付き合いがある日突然終焉することもある。高齢者になって恋が芽生えることもあれば、若くして運命の出会いによってプロの道へ歩み出す人もいる。人間関係は面白くも難しくもあって、それらを感じて一喜一憂しながら生きるのが、高度なコミュニティを形成して暮らす生き物の醍醐味なんじゃないだろうか、と私は考えている。
自分の法則で言えば、我々は最初はプラスの関係だった。それは間違いない。
しかしいつのまにか「お互い嫌なところを感じながらも、一応楽しいから」というプラマイゼロの関係に成り下がってしまったのを自覚しながらも、そのまま漫然と維持してきてしまったツケを払ったんだと思う。
私が勝手に期待という莫大な精神を一方的に投じて、一人で損が出た時の一言で、相手の精神を大暴落させてしまった。
私も優良銘柄だと思って保有してたけど、長期的に続いていた地味に痛い損失にふと目がいってしまって、もうこんなに暴落してるから、今から挽回するにはかなりの投資が必要になるし、元々損失のある銘柄にそこまでのリソースを割く必要も感じない。これはポートフォリオに積極的に残しておいても仕方ないと考えてしまった。
向こうも長期的に小さく小さく不快が積み重なっていたからこその大暴落だったんだろうし、アップデートをかけずにいた古いままの我々はもうとっくにガタがきていて、たまたまあの時の私の一打がきっかけになっただけの、必然の結果だったんじゃないだろうか。
向こうにとって今の時点で私からどういうリターンがあったのか分からないけど、忘年会の席であの時の話はほとんど出なかったから、向こうとしては過去のことには蓋をしてアップデートをかける気は無さそうだった。
破綻したものを再構築するのはとても大変だし、仕事や生活、他の友達との付き合いで忙しいから、私としても助かった。とりあえず鬱は本当に怖い病気だから早く寛解するといいなと思う。
読み返すといやに卑屈で、それでいて根に持った文章になってしまった。根に持つ以前に、数十年の付き合いだったから後ろ髪を引かれた部分はあって、「人生の大半を過ごした友達だからこそ」、「私の期待を分かって欲しかった」「何が嫌だったのかちゃんと理解させて欲しかった」「あの時のことを腹割って話して、わだかまりを無くしたかった」みたいな気持ちがやっぱりあったんだと思う。
でも関係の年数そのものに価値は無い。これも所詮「過剰な期待」だし、時間も経ってしまったから流石にもうどうでもいい。記憶の経年劣化で私も、きっと向こうも、都合の悪いことは忘れて、被害者意識だけが強まっているようなレベルまで塩漬けにしたものに、腹を割って話すような大規模アップデートは相当しんどいものになるに違いない。
だからもういい。めんどくさい。何考えてるんだろう本音はどうなんだろうどうせ後でツイートするんだろうってグルグルするの疲れた。あの日の帰り道もきっと何かツイートしてたんだろうなと思ってしまう。この気持ちを訴えたところで「それは申し訳なかったけど、その場ではダメなとこ気付けないんだね^^」なんて言われるに違いない。
もし仮にものすごい相互の努力の果てに無事アップデートできたとしても、疑心暗鬼は多分一生拭えない気がする。
そう。散々偉そうに持論を垂れておいて、結局のところ私は久しぶりのコンタクトで、忘却の彼方にあった遺恨を思い出してしまったから、これを綴っている。書きながらネガティブ感情を反芻してしまった。あの時感覚的に捉えていたことを、書き綴ることで言語化して、あの時よりも強くはっきりと再認識している。
人は楽しかった思い出よりも嫌な思いをさせられた記憶の方が残る。今はもうありし日の思い出への後ろ髪よりも、根に持つ気持ちの方が強くなってしまった。この増田は、ただの被害者意識と、エゴの塊から来る、自分のしでかしたことを棚上げした八つ当たりの怨嗟だ。
それを心の内に留めておけず、隠れてインターネットに吐瀉物を撒き散らす自分の何と幼稚なことか。そんな自分を吐き切って、これを限りにもうこの2022年に置いていく。きっと元親友も、自分のことは本来ならとっくに置いていっていただろうから。
辛い時に思い出してくれたのは嬉しかったけど、無事寛解した暁には今度こそブレずに、トラウマにまでなる思いやりのない非常識な私のことなんて早く忘れて、自分のことを大事にしてくれる友達と仲良くしていって欲しい。
月曜日に話をしたばかりの同僚が亡くなったらしい。
4月に転職してきたばかりだった。席が近く同い年ということでよく雑談する仲だった。
話が転んで死生観みたいな話になったときに、「明日仕事来なかったら『あっ逃げたな』と思っといて~」みたいなことを聞いていた。結局その翌日は無事に会社に来たのだけれど、今思えばその時にもっと強く否定しておけば……と言うのはある。前の会社メンタルで辞めたとか聞いてたし。
今「今日仕事に来ない」という状況になってみても、「逃げたな!」とは到底思えないので、あいつは何を言ってたんだと考えないでもない。
いや逃げたのかもなあ。生に対して執着無さそうだったし。そういうことを思うくらいには話し込んだ。
でも結局1回も飲みに行けてなかったんだよな。酒が入れば何かもうちょっと強く言えたのか。そんなことないな。
29歳で死ぬとか、やっぱり30前に死にたいなとかそういう意識があったんかな。
最近仕事でトラブルあったらしいけど、別に月曜には元気に会社来てたし。
じゃあ月曜の帰り際にどう声をかければよかったのかとか。それこそおこがましいはなしだな。別に本人が納得してるんならそれでいいんだけど。
楽しい奴だった。自分と生まれも育ちも考え方も違うから話していてとてもおもしろかった。
きついなー。youtube見て笑うくらいの元気はあるけど。こんなもんなのかな。そら周りで人死にぐらい出る歳だけどさ。心の準備ができてないとつらい。
自分の生き方に影響が出るとか、そんなレベルで付き合ったわけじゃないから。「ありがとう」とかそういう文句は出ない。ただ悲しみしかなくて。
さっきも書いた通りそういうことをしかねないやつだったから、なぜだか分からないということもない。ただ「今かなあ」というわだかまりが残る。
本人がそれでいいんなら、こっちに何を言う権利もない。こちらが勝手に居心地の悪さを抱えているだけなので。追悼する義理も無い。
結論出ないな。20過ぎたぐらいの頃には結構希死念慮抱えてたけど、それすら枯れ果てたのかも。
そういう勇気があることを羨んだほうがいいのかも。惰性で老いていくよりよっぽどいい。
タイトルそのまま、オンラインゲームに疲れてしまった。(だと思っていたけど書き進めていくうちに友人に疲れた話だと気付いた日記)
オンラインゲーム経験皆無な自分がある日ふと思い立ってとあるMMOを初めてみてそれなりに経とうとしている。
元々ソロで遊べるゲームはがっつり遊ぶスタイルのゲーマーなのだが、MMOに関しては多少興味はあったものの伝え聞く他者との交流ありきなゲーム設計がコミュ症で人との交流が苦手な自分には合わないと敬遠してきた。
それがある日ちょっとした興味本位で、友人から「ソロでも出来る」という謳い文句で誘われたMMOを始めてみた。
人生何事も経験だし自分が踏み込んだことのない世界で遊んでみるのもいいかもな~~くらいの軽い気持ちだったと思う。
ソロで遊べると思い乗り込んだ世界で、実際半年以上ソロプレイを満喫した。
どうしても他プレイヤーと協力してこなす必要のあるコンテンツはあったけれども、それは一期一会のインスタントなマッチングをしてくれるシステムが用意されていたので特に苦労はしなかった。それくらいのオンラインプレイは他のゲームでも経験があったので抵抗も全くなく楽しかった。野良のマッチング相手にたまに変なのがいるのもよくある事だしね。
自分のペースでストーリーを追いつつ成果物をコツコツ積み上げていくゲームプレイは性に合ってる部分もあったし、それが自分の操るキャラクターの財産として形成されていくのも面白かった。
ちなみに自分はオタクなので、プレイキャラクターを己のアバターではなく俯瞰で眺めるその世界のキャラクターの一人として見る楽しみ方をしている。周囲にもてはやされる系主人公がそんなに好きではない自分は最初はいきなりヒーローのように担ぎ上げられる立場になった自機に困惑していたけれど、最近は色々乗り越えてなかなか頑張ってるじゃん…と愛着もわいている。
閑話休題。
ここからちょっと自分の醜い感情というか、あまり直視したくない部分になるんだけれど、まあ増田の独り言なのでいいか。
このゲームに誘ってくれた友人は元々他のMMOやオンラインゲームの経験も豊富でとても人脈が広かった。
それは各々の築き上げてきた環境の違いなので当然だし全く何も問題ない。熟練者のフレに支援してもらった話や、高価なアイテムをもらった話もMMOって温かいんだなあ、先輩優しいねえ良かったねえ、と楽しく聞いて装備も見せてもらっていた。
ただ、一緒に遊ぶうちにだんだんその感覚の違いがストレスになっていくのがわかってしまった。
初心者である自分が手探りでやり始めていることや味わっているストーリー、それらをちょっとでも話題に出すとすかさず友人が熟練者に聞いた話の披露や友人も知らない事はその場で直接熟練者に聞いてくれたりもする。そこには純粋に善意しかなくて、自分と一緒にゲームを楽しもうとしてくれる気持ちしかないのはわかるのだが、どうにも楽しみをスポイルされてしまっているような感覚が拭えなかった。
自分は手探りで自分自身で世界を知っていきたい、けれど自分が感じたこの世界の話を友人していると必ず熟練者からの知識やエピソードを披露され、一緒に考えてみたいと思ったことも即座に熟練者に聞いてみようと言い出されてしまう。
多分一緒に遊ぶたびに毎回一度はそういう話をされていた気がする。その都度、なんだか自分は好奇心や興味に水を差されたような気分になってしまう、の繰り返しだった。
友人から「先輩が」という言葉が出てくるとゲンナリしてしまうほどに嫌な気持ちになるワードとなってしまった。
…書いてて思ったけどこれってあれだな、友達とサシで遊んでる時に毎回その場にいないし自分の知らない「友人の友人」の話をされて微妙な気分になる不快感も含まれそうだな。
ああ、腑に落ちた。これが毎回されていたらそりゃなんだかな~という気分にもなるなあ。
自分がこのゲームを始めて友人は喜んでくれて、ゲーム内で一緒にいる頻度はめちゃくちゃ高かった。けどその一緒に遊んでいる際に毎回必ずこういう話が差し込まれるのが地味にストレスだったというだけの話。
元々自分は色々な友人と遊んでいても相手の知らない人の話をすることはほぼないタイプなのだけども、友人は楽しい話だと思えばどんどん知らない人のエピソードでも披露してくれるタイプだった。
適度な距離の友人としてなら気にならなかったけれど、MMOという世界で急激に距離がバグってしまった結果の悲劇ということかなあ。
多分自分と友人は、人付き合いの感覚もゲームの楽しみ方もあんまり相性が良くないのだろう。
自分が気難しすぎるのかもしれないな。
で、とりあえず現状は自分もそういうことを気にしないようにゲーム内で自分の交流を広げ始めてそれなりに楽しくやれているのだけども。
数年前にネットでちょっとした争いをしてしまった。私が悪かった面も大いにあるし、向こうが悪かった面も少なからずあると思う。喧嘩両成敗とはよく言ったものだ。
相手方からの批判は年単位で収まらず、私はひたすらに説明をし、謝り続けるしかなかった。
しかしながら相手方の溜飲も最近になりやっと下がったようだった。
相手方も私と同様に少し苦しんでいるように見えたので、馬鹿な私は「あのときはどちらもどちらでしたね」等という発言をしてしまった。
すると相手方の怒りは再沸騰し、瞬時に広まっていった。
結果私という個人は再度叩かれた。少々のわだかまりを解消したいだなんて願った私が本当に馬鹿だったのだと思う。
いずれにせよ、私は集団に叩かれ続けておけばよかったのかもしれない。ただ、それだって少し苦しいときがあるじゃないか。
「善きサマリア人のたとえ」という禅問答のような問がある。私はこれに全面的な同意はしないが、一定の共感はしている。
たとえそれが昔争った相手だとしても、現に苦しんでいる人が居たら私は手を差し伸べても構わないと思う。
勿論このような態度には一定の責任が伴うのであろうが、元凶となった争いがある程度鎮まったのであれば少しくらいいいじゃないか、と。
ちょっとした和解のようなものを望んでしまった私が悪いとしても、ここにまでマウントを取られてしまうと少し悲しかった。
なんにせよ、こんなことを考えずに済む社会になってほしい。悲しすぎるのだ。
もう長いことフリーターやニートを行ったり来たりしている。仕事に就いても長続きせず、職を転々とする日々。もうかれこれ十社以上職を転々としてきただろうか。就いた職業の多くは施設警備や物流倉庫でのピッキングなど責任の伴わない仕事ばかり。コミュニケーションの得手不得手以前に、人と関係を結んで生活していきたくないと考える。人に指示を出すのも嫌だし、人の上に立って何かを行うことも好まない。集団の中において自分は空気のような存在でいたい。そういうわけで人間と関係を維持することもままならない。まさか自分が将来このような生活を送るとは想像もしていなかった。子供の頃は学校を卒業したらどこかの会社に就職してバリバリ仕事に精励するものだと思っていた。それがこのありさまである。未来と言うのは本当に不確かなものだ。
陽キャと陰キャの二元論で物事を語るのは好きではないが、今日はそれについて語りたい。学生時代の自分は割とスクールカーストの上位の方にいて、やんちゃで明るくてクラスでもみんなの中心となるような人物に囲まれて学生生活を送ってきた。といっても自分から進んでそうした人たちとコミニケーションをとって親睦を深めたわけではない。何というか気づいたら仲良くなっていただけのことに過ぎず、自分の意思で関係を構築していたわけではなかった。
自分は公立の小中学校に通っていたが、公立の学校には実に様々な人間が存在する。所得水準の高い家柄に生まれて幼少の頃から様々な習い事に触れてきて教養がしっかりと身に付いている人もいれば、親の社会的地位が高く、幼い頃から多大な投資を受けてきたことにより校内でもトップクラスの成績を誇る者。またそれとは反対に、貧しいが故にろくに教育を受ける機会のなかった人や両親がやんちゃをしていたために子もそうした性質引き継いで不良の道へと突き進んでいった人などなど実に属性の種類は豊富である。自分はたまたま同じクラスにやんちゃなことをする人が多かったからなのか、なぜか彼らと共にいることが多かった。公立の学校というのは本当にいろんな人がいるので、たまたまそういう人たちが近所に住んでいたから仲良くなったのかもしれない。詳しい事は自分にもよく分からない。
彼らとは本当にいろんなことやってきた。定期テストをサボってゲーセンに入り浸って夜を明かしたり、ワックスで頭を塗りたくって度々生徒指導の先生にお叱りの言葉を受けたりといったようにやることと言えば平気で校則を無視してきたことばかりであった。そうしたことばかりしてきたので周囲の人間からも自分はいたずら好きな人間なのだと認識され、近寄ってくる人たちも自然と自分と近しい人達ばかりであった。
中学生活も終盤に近づいてくると高校受験という大きなイベントがやってくる。自分は一応塾に通っていたので高校受験の受験をするつもりでいたし、そのための準備もしていた。しかし、しばらくするうちに自分と彼らとの間に深い溝ができ始めていることに気がついた。それは彼らが、僕が受験勉強に励んでいるのを快く思っていないのではないかということ。想像するところによると、自分が高校受験に向かって勉強してるのがどうやら彼らにとって喜ばしいことではないらしいのだ。彼らの中でも自分はまだ比較的に経済事情が恵まれていたので、教育にお金を費やすことができた。だから高校受験もできるし、将来の選択肢もそれほど狭くはない。しかし、彼らはそうではない。経済的に貧しいが故に教育にお金をかけることができず、高校受験を受けると言う資格すら与えられていなかった。また受験できたとしても学業への意欲が湧かないことやどうやって勉強すれば良いのかわからないなどといった理由により、レベルの低い学校に行くかのいずれかしか選択肢がなかった。そうした中で自分だけ勉強して彼らのもとから離れようとしている。それは彼らにとっては喜ばしいことではなく、どこか心にわだかまりが残ることだろう。これはグループの一人が自分だけ集団から抜け出して別の道に進むことをイメージしてもらえればよい。ドロップの主人公が自分だけ輪の中から抜けることや、ビリギャルの主人公がグループの反対を押し切って難関大学の受験に挑むのと似たような状況である。結局、自分は難関校とは程遠い偏差値が50いくかいかないかくらいの自称進学校に入学した。もともと勉強とは無縁の人間で、定期テスト100点中30点位がほとんどだったので、これが自分にできる限界の学習であったと言えるので特に後悔はないのたが。
高校に入ってから彼らと連絡を取ることもなくなった。もうすっかり別の世界で生きているような感じだったし、実際に会うことも何度かあったが、会話を交わす事はなく、以前のように親しい感じで接することもなかった。そこには陸と島ほどの距離感があった。そこそこ勉強して高校に進んだからこそ、彼らは自分を自分達とは別の人間だと考えていたようだし、自分たちのような悪質な遊びをすることも好まないだろうと考えていたから昔のように悪ふざけをして遊ぶこともなくなった。
高校は高校で中学までの人とは別のタイプの明るい人達と仲良くなってそれなりに楽しく日々を過ごすことができた。それでもたまたま仲良くなったから仲良くしていただけで、自分からそうした人たちと仲良くしたいわけではなかった。別に友達など作らなくても、一人で何かに没頭するような事があってもよかったのだけど、生憎オタクのように何か一つのことに強い情熱を注いだこともない。自分は人生そのものに関心がなかった。
自分の性質に関心を向けるようになったのは大学生活も終盤に近づいてきた頃である。これまでの学生生活を振り返ってみて、自分はどうしてやんちゃなことばかりしてきたのだろう、どうしてクラスでも目立つような人間とばかり付き合ってきたのだろうというようなことばかりを考えた。彼らと自分はベクトルの向きが真逆の人間であるというのに。自分は目立つことが嫌いで、教室でも隅の方で目立たず静かに生活していきたいと考える人間だった。思えば、僕は自分から人に話しかけて友達を作ったことなどなかったような気がする。自分がどんな人間と仲良くなりたいかと言う考えも持っていなかったし、主体性を発揮して何かを行ったこともない。いつも周りに流されて生きてきて、自分の意思で自分の人生を生きているという感覚がなかった。昔から自分は一人が好きで、人と関わりを持とうとせずに、一人で何かすることを好んできた。つまり、昔から自分は自閉傾向のかなり強い人間だったのである。それでも何とか今までやってこれたのは環境の影響や周りの方から声を掛けてきてくれたことにより、そうした性質が隠蔽され、それが浮き彫りにならなかっただけの事に過ぎない。
周りに流されて生きてきて自分の性質を客観的に見る機会を持たない人間は本来の自分がどういう人間なのか分からなくなる。人間の人格形成には遺伝的要因と環境的要因の二つが大きく関わっているけれど、子供の頃はそうしたことに頭を悩ませることもない。
結果として今では陽キャのようなアクティブな遊びを好んでみんなでワイワイ仲良く時間を過ごすこともなければ、アニメオタクやアイドルオタクのようにある一つの対象に過度に没頭してコミュニティを形成し、そこでのコミュニティーに強い仲間意識を持って生活することもない。陽キャにも陰キャにもなれず、中立的な立ち立場にいて、どこにも属さずに社会から孤立しているのがが自分である。
もっと早いうちから自分の性質や人物像を客観視しておけば後の人生もまた変わったものになったのかもしれないが、当時はそうしたことも難しく、後から結果論として物事を論じるしかない。それが人生というものなのだろう。
もう長いことフリーターやニートを行ったり来たりしている。仕事に就いても長続きせず、職を転々とする日々。もうかれこれ十社以上職を転々としてきただろうか。就いた職業の多くは施設警備や物流倉庫でのピッキングなど責任の伴わない仕事ばかり。コミュニケーションの得手不得手以前に、人と関係を結んで生活していきたくないと考える。人に指示を出すのも嫌だし、人の上に立って何かを行うことも好まない。集団の中において自分は空気のような存在でいたい。そういうわけで人間と関係を維持することもままならない。まさか自分が将来このような生活を送るとは想像もしていなかった。子供の頃は学校を卒業したらどこかの会社に就職してバリバリ仕事に精励するものだと思っていた。それがこのありさまである。未来と言うのは本当に不確かなものだ。
陽キャと陰キャの二元論で物事を語るのは好きではないが、今日はそれについて語りたい。学生時代の自分は割とスクールカーストの上位の方にいて、やんちゃで明るくてクラスでもみんなの中心となるような人物に囲まれて学生生活を送ってきた。といっても自分から進んでそうした人たちとコミニケーションをとって親睦を深めたわけではない。何というか気づいたら仲良くなっていただけのことに過ぎず、自分の意思で関係を構築していたわけではなかった。
自分は公立の小中学校に通っていたが、公立の学校には実に様々な人間が存在する。所得水準の高い家柄に生まれて幼少の頃から様々な習い事に触れてきて教養がしっかりと身に付いている人もいれば、親の社会的地位が高く、幼い頃から多大な投資を受けてきたことにより校内でもトップクラスの成績を誇る者。またそれとは反対に、貧しいが故にろくに教育を受ける機会のなかった人や両親がやんちゃをしていたために子もそうした性質引き継いで不良の道へと突き進んでいった人などなど実に属性の種類は豊富である。自分はたまたま同じクラスにやんちゃなことをする人が多かったからなのか、なぜか彼らと共にいることが多かった。公立の学校というのは本当にいろんな人がいるので、たまたまそういう人たちが近所に住んでいたから仲良くなったのかもしれない。詳しい事は自分にもよく分からない。
彼らとは本当にいろんなことやってきた。定期テストをサボってゲーセンに入り浸って夜を明かしたり、ワックスで頭を塗りたくって度々生徒指導の先生にお叱りの言葉を受けたりといったようにやることと言えば平気で校則を無視してきたことばかりであった。そうしたことばかりしてきたので周囲の人間からも自分はいたずら好きな人間なのだと認識され、近寄ってくる人たちも自然と自分と近しい人達ばかりであった。
中学生活も終盤に近づいてくると高校受験という大きなイベントがやってくる。自分は一応塾に通っていたので高校受験の受験をするつもりでいたし、そのための準備もしていた。しかし、しばらくするうちに自分と彼らとの間に深い溝ができ始めていることに気がついた。それは彼らが、僕が受験勉強に励んでいるのを快く思っていないのではないかということ。想像するところによると、自分が高校受験に向かって勉強してるのがどうやら彼らにとって喜ばしいことではないらしいのだ。彼らの中でも自分はまだ比較的に経済事情が恵まれていたので、教育にお金を費やすことができた。だから高校受験もできるし、将来の選択肢もそれほど狭くはない。しかし、彼らはそうではない。経済的に貧しいが故に教育にお金をかけることができず、高校受験を受けると言う資格すら与えられていなかった。また受験できたとしても学業への意欲が湧かないことやどうやって勉強すれば良いのかわからないなどといった理由により、レベルの低い学校に行くかのいずれかしか選択肢がなかった。そうした中で自分だけ勉強して彼らのもとから離れようとしている。それは彼らにとっては喜ばしいことではなく、どこか心にわだかまりが残ることだろう。これはグループの一人が自分だけ集団から抜け出して別の道に進むことをイメージしてもらえればよい。ドロップの主人公が自分だけ輪の中から抜けることや、ビリギャルの主人公がグループの反対を押し切って難関大学の受験に挑むのと似たような状況である。結局、自分は難関校とは程遠い偏差値が50いくかいかないかくらいの自称進学校に入学した。もともと勉強とは無縁の人間で、定期テスト100点中30点位がほとんどだったので、これが自分にできる限界の学習であったと言えるので特に後悔はないのたが。
高校に入ってから彼らと連絡を取ることもなくなった。もうすっかり別の世界で生きているような感じだったし、実際に会うことも何度かあったが、会話を交わす事はなく、以前のように親しい感じで接することもなかった。そこには陸と島ほどの距離感があった。そこそこ勉強して高校に進んだからこそ、彼らは自分を自分達とは別の人間だと考えていたようだし、自分たちのような悪質な遊びをすることも好まないだろうと考えていたから昔のように悪ふざけをして遊ぶこともなくなった。
高校は高校で中学までの人とは別のタイプの明るい人達と仲良くなってそれなりに楽しく日々を過ごすことができた。それでもたまたま仲良くなったから仲良くしていただけで、自分からそうした人たちと仲良くしたいわけではなかった。別に友達など作らなくても、一人で何かに没頭するような事があってもよかったのだけど、生憎オタクのように何か一つのことに強い情熱を注いだこともない。自分は人生そのものに関心がなかった。
自分の性質に関心を向けるようになったのは大学生活も終盤に近づいてきた頃である。これまでの学生生活を振り返ってみて、自分はどうしてやんちゃなことばかりしてきたのだろう、どうしてクラスでも目立つような人間とばかり付き合ってきたのだろうというようなことばかりを考えた。彼らと自分はベクトルの向きが真逆の人間であるというのに。自分は目立つことが嫌いで、教室でも隅の方で目立たず静かに生活していきたいと考える人間だった。思えば、僕は自分から人に話しかけて友達を作ったことなどなかったような気がする。自分がどんな人間と仲良くなりたいかと言う考えも持っていなかったし、主体性を発揮して何かを行ったこともない。いつも周りに流されて生きてきて、自分の意思で自分の人生を生きているという感覚がなかった。昔から自分は一人が好きで、人と関わりを持とうとせずに、一人で何かすることを好んできた。つまり、昔から自分は自閉傾向のかなり強い人間だったのである。それでも何とか今までやってこれたのは環境の影響や周りの方から声を掛けてきてくれたことにより、そうした性質が隠蔽され、それが浮き彫りにならなかっただけの事に過ぎない。
周りに流されて生きてきて自分の性質を客観的に見る機会を持たない人間は本来の自分がどういう人間なのか分からなくなる。人間の人格形成には遺伝的要因と環境的要因の二つが大きく関わっているけれど、子供の頃はそうしたことに頭を悩ませることもない。
結果として今では陽キャのようなアクティブな遊びを好んでみんなでワイワイ仲良く時間を過ごすこともなければ、アニメオタクやアイドルオタクのようにある一つの対象に過度に没頭してコミュニティを形成し、そこでのコミュニティーに強い仲間意識を持って生活することもない。陽キャにも陰キャにもなれず、中立的な立ち立場にいて、どこにも属さずに社会から孤立しているのがが自分である。
もっと早いうちから自分の性質や人物像を客観視しておけば後の人生もまた変わったものになったのかもしれないが、当時はそうしたことも難しく、後から結果論として物事を論じるしかない。それが人生というものなのだろう。
ttps://twitter.com/tm2501/status/1553386446895345667
最終話「さらばシュナムル 最強のフェミ騎士よ」【ゆっくり解説】
シュナムルを屠ったのはこの人と、ピンフスキーさんだという話なんだけど…あまり同情の余地はないかな。
手続きとして感心しないが、あれだけ各方面で暴れまわったら、「外法」で対処する人も出るやろ
合法か違法かは別として、日本のインターネットには『外法』の民がいるんだよ。
目立つということは、内容の正誤にかかわらず、『外法』の目に触れるということなんだよ。
外法と外法の対決になってきてるから、フェミニスト界隈を調べ過ぎると、私でも気分が悪くなる。
気分が悪くなるのと、自分やオタク文化を愛してる人が「目的を失わないで済むように」ということで、別のアカウントでの投稿を頑張る方向にシフトしつつあるが
ttps://twitter.com/tm2501/status/1553399140234579968
ツイフェミ問題の周知活動は手伝うようにしてきたけど、ここに来て、私より発信力のある人・頭が良くていい記事が書ける人・リサーチを重ねて実力行使できる人(合法・外法両方)…がそれぞれにそろったので、あんまりタッチしなくて良くなった気がする。
興味がなくなったわけではなく
一段落ついたってことですよ。
今でもヤバい人や法律・議論が跋扈してるけど、収束に向かっていく道筋がついてきたって感じ。
本当にヤバい案件は取り上げ続けるけど、肩の力を抜いていいし、もっと自分のことやってもいい局面に戻ったような気がする。
一時期は本当に自分のこと手につかなかったが
私の得意分野は、「マンガを2000冊以上読んでて、なおかつそれなりに面白い文章で紹介できる」ってことなので、あくまでもそっちでオタク文化を守る方向からブレないようにしよう。
それ以外のことは基本的に「おまかせ」しよう
ttps://twitter.com/tm2501/status/1558122388512206849
本来ならやるべきじゃないんですが…外道で正論・話し合いの通じない相手が増えすぎると、嫌でもダークヒーローが出てくる
シュナムルさんと研究所の全てがわかる!シュナムル研究所パンフレット
よく勘違いされがちだけど、青識亜論さんみたいに
と、いつまでもたわごと・ざれごとに付き合ってくれる人は仏様ぐらいに優しい方です。
のはJ-popシンガーと青識亜論さんともへもへさんぐらいです。
ぼくはブロックして距離を置くし、ぼくより過激な人達は闇をスクショで保存して追い込んで退場させます。
もっと過激だと暇な空白さんみたいに特定めいたこともしますから…ほどほどに
そもそも、各種エンタメを楽しみたいオタクたちに、共産党や各種圧力団体を背景に持つツイフェミが土足で踏み入る時点で論外ですよ?
でも、後ろ暗い過去や嘘のありすぎる人が政治や圧力団体と一緒になって騒いだら、そりゃ…過激な方法で怒る人が出てこないわけがないじゃないの…。
それだけの話
私、暇な空白さんがピンフスキーとつながってる時点で、この人を諸手を挙げて称賛するつもりはないです。
ただ、こういう人が出てくるのも仕方がないぐらいに、ツイフェミ界隈は闇が深いのも事実だから
「本当はよくないんだけど」
「こういう方が出てきちゃうよね」
としか言えなくなるのよ…。
あまり流行ってほしくないやり方なのは間違いないのですが…結局「発端は何か」と考えた時に、相手がやりすぎたことにありますからね…。
良くないし、真似しようとも思わないけど、かと言ってリスクを取ってまで止めようとも思わないし、同情の余地も限りなくないですね…
かといって、相手も素直に聞くタイプでもないから最近はブロックして、スクショを撮ってくれる人や反論してくれている人越しに見てますね…。
嫌なものがかからないように1クッションをおいて見るようにして、色んな意味で自衛してます
ttps://twitter.com/tm2501/status/1561844016919941120
【AV新法】元AV女優を狙う郡司真子・仁藤夢乃さんの闇【ツイフェミ商人】
でも、この辺の案件は迷惑だし、犯罪(または悪質な脱法行為)の可能性があるから掘り下げてほしい
「シュナムルへの捜査も被害者を減らすために必要なことだったのでは?」
とご指摘があるかもしれないが、私は【本当に正義を語るならば、ピンフスキーを切れ。じゃないと暇で力がある人のネットリンチの粋を出ないぞ】と声を大にして言いたいのよ。暇な空白さんには。あの名を見て、評価が反転したし
というのもね、ピンフスキーは過去に表現問題で炎上してるのよ。comicLOを雑に悪く言って、ジェンダージェンダーうるさい人を焚き付けてるの
小児性愛者の本音をリアルに描いたコミックLOの漫画が話題に「"正しい好き"を持って生まれず、犯罪するしかない絶望」 https://togetter.com/li/1595455 #Togetter
と言ってるの。表現の事で大迷惑というならピンフスキーとだけは絶対に組むべきじゃない。
名前を出した途端に、行為は正当性を失い、好き嫌いにしか見えなくなる。
別に暇な空白さんが、ピンフスキー氏と私的なお付き合いがあることについては否定しません。
ただ、表現を守る・表現に迷惑をかけているやつにおしおきするというときに、ピンフスキーの名前は金輪際(いや、できればあの動画も修正版を出して一切合切)出さないでほしい。
正直、表現への迷惑度で言ったら、ピンフスキーのやったことって、シュナムル以上に迷惑なんだよ。
クジラックス事件を知ってたら、LOがフィクションだとわからない人が表現問題の最大のリスク。
少なくとも、私の中ではシュナムルより悪質
って言う人がいたら
「第二のクジラックス事件になりかけたんだぞ!クジラックス事件で失った名誉や、自主規制の風潮は未だに回復してない。全治10年以上の傷を文化につけようとしたやつをツイート消したごときで許せるわけ無いだろ」
ですわ
暇な空白さんは(@Z4mibyc8FYL06mB)はこの件を把握しているのか?どう解釈しているのか?
プライベートでピンフスキーさんと仲良しだろうが、ホテルで抱き合っていようがどうでもいいことです。
しかし、この件がある限りあの方は取り扱い注意では?
悩んだけど、やっぱりここだけは伝えて置かないとぼくとぼくみたいな視聴者も困るし、暇な空白さん自身もアキレス腱になる可能性があるから、今できる一番早い段階でスタンスをお聞きすることにしました。
終わりはいつか来るってわかっていても実際にとの時が来るまで意識なんてできなくて特にソシャゲはそれが唐突に来る。
ガラケーの頃から始まって今までサービスが続いていたんだからそりゃもうすごいことなんだろう。
楽しいことが沢山あったけれどどうしても思わずにはいられない。
あのタイミングで声がついていれば、あのタイミングで曲がもらえていれば。
メインで扱われる子はこれまでもこれからもずっと変わらずに運営の指先一つ。
大半の人は折り合いをうまくつけられていてこれを区切りとできるんだろう。
少しのわだかまりを抱えたまま、このコンテンツが発展していくのをこれからも見続けたい。
そして、ふとした拍子にまた思うのだろう。
サバイバルゲームあるいはホラーゲームの歴史を塗り替えた名作といえば、バイオハザードが挙げられると思う。
それこそ無限ランチャー取るくらいにはやり込んだ=敵の出現パターンと撃退方法をほぼ全て把握するレベルになった。
しかしそれくらいやり込んでも、このゲームはなんだか怖さがつきまとった。
そこまで行って、この恐怖演出は本物だし、故にこれは本当に名作だと実感したのだった。
聞けばこのゲームのディレクターがホラー映画マニアで、それこそ映画館で作品を観た日にはおおよそ先の展開が読めてしまい、実際その通りになってほくそ笑むレベルという。
(ちなみにそのシーン、隣で観ていた女子大生が飛び上がるほど驚いていたりする)
余談だけど武器のチョイスも安っぽさや子供っぽさとは無縁な独特の納得感があって、上述の恐怖に立ち向かう良き相棒になった。
(マグナムを当初はコルト・アナコンダにするつもりが、他のスタッフが皆「パイソンパイソン」と言うもんだからパイソンになった話も含めて好き)
だから、続編が出ると知ったときも本当に期待したのだが…結論から言えば大いにがっかりした。
武器のコレジャナイ感もさることながら、一番の問題は「全然怖くないこと」だった。
でもそこは2がダメでも3で是正してくるだろうと思い直し、これまた見事に裏切られた感じ。
それからかなりの時間が経ち、バイオも最近20周年?そんな続いてたのか。
そしてなんという巡り合せなのか、最近評判のVである壱百満天原サロメ氏の実況で、全くノーチェックだったバイオ7(おバイオ)を見る機会を得た。
するとどうだろう。実によく出来た名作になっているではないか。
それこそ、当時バイオからの離脱のきっかけになった恐怖演出も全く問題ないどころか、控えめに言って最高。
恐怖とそれに立ち向かうバランスが、最新の技術で表現されていると感じた。
これならVillageも相当な完成度であることが予想できる。
少々話は脱線するが、ゲーム実況に定評のある他のVの7実況のアーカイブも、この機会にチェックしてみた。
神エイムの湊あくあ氏、ナイフ格闘でも怯まず立ち向かう戌神ころね氏、オールマイティにゲーム慣れしている白上フブキ氏と、それぞれの個性がよく引き出され、その意味でも良作であることを実感した。
そんな7をきっかけに更に調べたところ、2と3もリマスターが出たというではないか。
これもハードを持ってない都合により解説動画のみの確認だが、もはや別物レベルのリファインで、しっかり「怖くなった」っぽい。
なんとも嬉しい限りで、本当に素晴らしい。
それ、早めに解決しといたほうがいい。
そこら辺を大した問題じゃないと許してたら離婚の話し合いにまで発展した。
うちは付き合ってる時にこの状態になりました。
早朝疲れて寝てるのに、ムラムラした夫(当時彼氏)が服の中に手を入れてきて起きる。何度も嫌だと言ったが聞かず。
ただ当時は恋愛真っ最中だったので、愛情表現に応じる気持ちで、嫌だったけど大問題にはしなかった。
結婚してからはセックスレスに。私がしたい気持ちで彼に触れてもやんわり断られる。
この辺りから『なんで結婚前は愛情を受け止めてあげたいと、望まない性的行為を咎めず受け入れてきたのに、逆パターンではこんなに拒否されるのか?』
と、自分が軽く見られてる気持ちになってきて相手に優しくできなくなってきた。
なんやかんや優しく出来ない気持ちからいろんな事で揉めるようになり、結局はセックスレスと、付き合ってる時に同意なく性的接触された事がわだかまりとして残ってたと言う話で離婚というワードまで出てくるようになった。
結局、何故自分は相手の嫌がる行為を押し付けたのか?何故逆になったら寛容になれないのか?と言うところを突き詰めて考えてもらい、離婚は回避。
腹を立てるほどのことでは...と私も思ってたけど、多分結局〝相手の嫌がっている事〟に向き合わない、向き合えない姿勢がどこかで露呈するはず。
母は十二分に愛情をかけてくれたけど、あなたが求める形ではなかったというような体験はないかな。
たとえば、話を聞いてくれなかった、頼りたいときに頼れなかったとか、反対に母がなんでも先回りして決めてしまったとか。
そういうことにどこかで怒りを感じていて、しかし表面上は愛情をくれたというアリバイが成立しているので、怒るに怒れない。
母は子のわだかまりを理解せず、自身の愛情を一切疑うことなく泣いている。その身勝手さへの怒りや母自身の哀れさや、母はこのようにしか愛せないのだという諦めで涙が出る。
子離れの辛さは相当あるにしても、あなたが親元を離れて生きていけるようになることは何より自然なことで、成長の証で、喜ばしいことじゃないか。
なのに母は泣くのをやめない。それが不思議。
結婚前の同棲について、私の持っている感覚が世間とズレているのか知りたい。
私は、交際期間がそれなりにあったとしても同棲期間は必要だと思っている。
一緒に生活をしてみて初めて分かることがあるだろうし、価値観(金銭感覚、生活リズム、清潔度合など)の擦り合わせ期間としても意味があると考えているから。
2人で共同生活する上で問題ないかを確認し、お互いが納得した上で結婚したい。
ダラダラと同棲期間が延びてしまって結局、結婚に至らないという場合もあると聞くので、結婚を前提に予め同棲期間を決める等の工夫は必要だと思う。
同棲した結果、どうしてもダメな場合は別れることもあり得るが、お互いバツがつかなくてよかったねくらいの価値観。
そんな私が、数年付き合っている彼女と結婚を意識するようになったので、上記の考えを基に結婚を前提に期間を決めて同棲することを提案したところ喜んでもらえた。
(この時プロポーズはしていない。同棲し期間満了に伴い正式に伝えたいと考えたため)
同棲にあたり、まずは相手のご両親に挨拶をし了承を得ようということになった。
いきなり押しかけて話をするのはどうかと思ったので、事前に彼女から同棲の話をしてもらったところ、断られてしまった。
彼女は、上記の私の考えを含め話をしたようだが、婚約していない男女が同じ家に暮らすのは受け入れられない、それなりの期間交際しているのに同棲をする必要があるのかといった内容で断られたようだった。
また、単に断られるだけではなく「結婚の挨拶に来るのかと期待していたのに、まさか同棲話を持ってこられると思っていなかった。そんな相手なら別れて欲しい。顔も見たくない。」とまで言われてしまった。
これまで何度も顔を合わせており相手の家にもお邪魔したことがあったことや、結婚を期待されていたことから、関係性はそれなりにあったと思われていたためかなり動揺した。
その後、数日掛けて会話してもらったところ、「顔も見たくないは言い過ぎた。あなたが(彼女)が納得しているなら別れろとまでは言わない」という内容に落ち着いた。
彼女から聞いたご両親の考えを要約すると、「自分の娘が試されているような感覚であり不愉快」というものであった。
また、この親子間での話を経て、彼女の考えも変化したようで同棲に対して否定的な意見を言うようになった。
曰く「同棲している期間、一挙手一投足を見られて審査されているような気持ちになりそうで嫌になった。もし無理になったら別れるの?同棲は不要で結婚したい(意訳)」
とのこと。
自分としては、いきなり結婚の話を持っていくより同棲を経て結婚する方が誠実な行動と思っていたので、正直かなり困惑している。
未成年の時から何となく交際→同棲→結婚という順序を経るものだと思っていたのでそれが崩れたためどうしたらいいのか分からない。
彼らの言い分を飲み込むのであれば、次は婚約なのだろうが、何を持って結婚したいと言い切れるのかが分からない。
結婚自体はしたいと思う。漠然とこの相手と結婚したいとも思う。
結婚に踏み切るための根拠というか、一緒に生活をしてみてその上で結婚したいと思ったから結婚するという順序を経たかった。
加えて、彼らの「試されているようで不愉快(意訳)」という感覚が、同棲を希望している自分としては理解できなかった。
試すという言葉を聞くと確かに、上からというか一方的に査定されているような感覚になるのは理解できる。
敢えて相手が不愉快なことして自分への愛情を試すといった行動をする人間がいるが、その感覚に近いのだろうか。
私はそのつもりはなく、暮らしの中でお互いに思うところがあった上で、それでも結婚したいと思えたから結婚するという流れを取りたかっただけである。
結婚に至るまでの交際期間であっても、お互いの言動を査定とまでは言わずとも自分の価値観に合うか、それを許容できるかなどをなんとなく考えているだろう。
恋人に限らず人間関係において、ある程度相手がどういった人間かを考えるタイミングはあるはずなのに、こと同棲することに限ってネガティブなイメージを持つことに理解が出来なかった。
むしろ、彼女が何を持って私と結婚したいと言えるのかが分からないことや、彼女の中で同棲したらボロが出る何かがあるのか、彼女の中に自分の考えはないのか、彼女の両親の気持ちを考えた時に、子供がパートナーと同棲したいという話を出した時に別れろ、相手の顔を見たくないと言うことが普通の感覚であるのか、またそのような相手を義理の両親とすることに自分の中で耐えられるのか等でモヤモヤしている。
そもそも、同棲の必要性ですらこれだけ考え方が違い、揉めるのにも関わらずそういった価値観の違いを見て見ぬ振りをして結婚することが自分の中で納得できない。
彼女は同棲は不要という考えで固まったらしく、このままではどちらに転んでも一方がわだかまりを抱えていくことになる。
そんなのでは次に進めないと思う自分と、漠然とこの相手と結婚したいと思う自分がおり、あれ以来なんとなくこの話は流れている。
世の中のSF作品には嘘が多くそれによって勘違いをする人が多く居て困る。
私は前々からそういった人達の勘違いからくる発言によって迷惑してきた。
取材だったり、質問だったり、若手の失敗、取引先の相手との行き違い、あらゆる場面で「SFから得た間違った知識」にストレスを感じさせられてきた。
同じような間違いを何十人何百人という人間が口にし、その度に指摘し続けることに疲れた。
巷でSF映画が話題になる度に、そういった勘違いをした人がまた自分のもとにやってくると思うとウンザリする。
映画のCMを見るだけで、作品の面白さが最優先で現実の科学なんてものはそのための触媒としか思ってないことが伝わってくる。
詳しい人間に大雑把な質問をぶつけるだけで好奇心を満たしてしまわずにもっと根源的な部分からしっかりと知識を積み上げて欲しい。
SF作品であっても、現実の事象をちゃんと再現しようという気持ちがあるのなら否定する気はなく、それらが「正しい知識」を多くの人に授けてくれる事さえ期待する。
私は前に「プラネテス」という漫画もまさにそういった作品であるかのように誰かに薦められた。
そのことを思い出してふと手にとって見たが、なんのことはないこれもまた嘘まみれの作品であった。
私は非常に強く傷ついた。
私が嘘にまみれたSFを嫌いだと知っているはずの人達からこんなものを薦められたことに苛立ち、孤独感に襲われ、この世界から断ち切られた絆を必死に取り戻そうと焦ってしまった。
私の頭の中で「プラネテスという作品」「その作品の読者」「フィクションから得た間違った知識を信じる人」「間違った知識を信じたことで宇宙事業の足を引っ張るような人」がごちゃまぜになっていた。
特に最後の「間違った知識を信じたことで宇宙事業の足を引っ張るような人」と「プラネテス」が結びついた時、過去のあらゆる悲しみの原因がプラネテスにあるかのように私の脳が錯覚を起こしたのだと思う。
幾千の作品の行く万という嘘によって作り出された幾億の人の勘違いの全てから産まれた苛立ちを、たった一つの作品にぶつけてしまった。
もしも私が突然「私は日本人に沢山酷いことをされたので、日本人である貴方を殺すことで憎しみを晴らします」とお互いに初めてあう相手同士で言われたらギョッとするだろう。
それと同じことをしてしまった。
私が理解してほしかったのは「作品としてしっかりしている」と言われるようなSFでも「サイエンスとしての考証がしっかりしていること」は全く保証されていないという事だったのに。
そして、その違いを切り分けることなく安易につなげて考え「この作品は面白いから、この作品は本当なんだ」というような勘違いはしてくれるなという事だったのに。
これも少し違っていて、実際には「勘違いはしてくれてもいいが、それが勘違いなのかどうかを自分で本を読んで学ぼうという姿勢を持ってくれ」なのだ。
漫画から得た知識を繋ぎ合わせてもどこまでも漫画から得た知識の連鎖にしかならない。
自分でしっかりと学んで欲しい。
面白いSFを読んだ次に向かう先が、次の面白いSFではなく、科学雑誌であってくれればいいのに、そういった自分の気持ちが世の中とすれ違っていると感じて、産まれた孤独感が暴走してしまった。
「作品の面白さは科学的な正しさを保証しない」ということを、世の中のすべての人に理解してもらおうなんて押し付けだったのかも知れない。
リアリティがある作品こそが素晴らしいという価値観が逆流していき、素晴らしい作品であればそれがリアリティであると世の中が歪んでいったのだなんてのは私の杞憂なのかも知れない。
兎にも角にも、私が自分の長年の苛立ちを特定の作品そのものにぶつけたのは度が過ぎたことだ。
ありとあらゆる罪の根源を特定の何かを生贄にして押し付けるようなことなどが許されるのは神様ぐらいのものだ。
人間のくせに「現在過去未来その全ての悪の象徴としてお前を断罪する」なんて口にしたのは「分を弁えない」ことだった。
人間に出来るのは、あくまで一度に一つの作品に対して、一人の人間に対して、一つの間違いに対して、一つずつ対処していくことだったのに。
長い時間の間に溜まってきた不満を一度にぶつけてはいけなかったのだ。
個人的なわだかまりや消化不良な怒りの積み重ねから出た99%の八つ当たりをさも100%正当な怒りのようにぶつけたことを謝らせて欲しい。
それでもわがままを言うならあの怒りに1%ほどは正当なものがあったということぐらいは許してもらえないだろうか。
私達はいつだって「フィクションから産まれた嘘によって現実がおびかやかされること」に怯えて暮らしてきたのだ。
有名な作品であれば有るほど些細な嘘がより多くの人を巻き込み大きな渦となって現実に襲いかかってくる。
「作品において嘘を書く」ということは、どこかで現実の科学と戦っている人間に突然の大嵐となって遅い来る可能性を生むとういことを知っておいて欲しい。
それでも、これは私達科学者が戦わなければいけない私達の問題なのだということから目を逸らすつもりはない。
ただ、「分かった上で、それでも誰かを楽しませるために仕方なくやっているだろう」と思わせて欲しい。
本当に、本当に不安になるのだ。
娯楽作品で安易に飛び交う嘘を見る度に、それがどんな形で自分たちを脅かしにくるのかが。
私達の臆病さを、慈悲を持って許してくれるとありがたい。
こんなもんかな?
なんで俺が言語化するのかって?
かんたんだよ。
あの爺さんはプライドも高いし半端に知識も有るしその癖ボケが進行しているからもう自分の口で自分が言いたいことも言えなくなってるからさ。
だからその代わりに俺が言ってやるのさ。
言語化ってなにも本人がしなきゃ駄目ってこともないだろ?
レコメンデーションというらしいが、楽天やAmazonでは「乳液買った後に乳液を勧めてくるな!」など思っていたこの機能に、まんまとやられている。
おかげで自分が嵐を好きなことに気がついた。
料理の番組内で、卵焼きを料理人が教える動画だ。生放送のテレビ番組を切り取ったものらしい。
理由は定かではないが、作られた卵焼きは、焦げていた。私なら食べられるレベルだが、子どもにはあげるのを躊躇するかもしれない、程度の焦げ方だ。
そこについたコメントに、色々と考えさせられた。
先生は、その分野では完璧でなくてはならない。そうでないと、笑われてしまう。それでお金をもらっているから。
たしかにそうなんだけれども、なんだか腑に落ちないのはなぜだろう。
ネットに動画を上げて笑いものとして晒されてるのが、自分の中でわだかまりになっているのか。
長年の経験と努力が技術となり、その技術が仕事となる。しかし、機械ではないので間違いもある。
笑っている人たちも間違いをするはずなのに。
一時期は「処女でもいいよ~」なんて言っていたけれど
現に女性と関わって遊ぶようになって、遊ぶなら非処女でもいいけど結婚するなら処女だなぁ~とうっすら思うようになってしまった
言うなれば「昔の男の名前のタトゥーが彫られてる」のに近しいものであって
それも「昔の男のチンポでつけられたもの」だと思うとちょっと引いてしまうと思う
気持ち悪い話ではあるが、ちょっとした明かりで女性の広がった膜を視認して
でもそこで何も思わない、傷つかないのは相手が遊び相手で、結婚する相手では無いという考えがあるからで
やはり根底には「男は女を養うものだ」というジェンダー規範があるのだと思う。
「自分の人生と命を捧げるのだから、相手は純潔であってほしい」という願いだろうか。
確かに結婚する人がバリキャリで自分を養ってくれて、普段はデートでもリードしてくれて、性についてもリードしてくれて、死にそうなときは身体を呈して守ってくれるなら別に非処女でもいいし
「彼氏が非童貞だった」という女性の悩みを聞く事もあるし、ジェンダー規範が薄くなる現代、逆の事象が増えているとも感じるが
ともあれ自分は基本的にはリードする側で、リードする側にとって「リードする対象」自体の能力(つまり見た目や性格)はそこまで重要視していない。基本的に自分が頑張ればなんとかなるからだ。
そう考えると対象の一番の違いは「純潔さが残っているか」になるのよね。
「じゃぁ処女と結婚すればええやん」って意見はあると思うけど、非処女にも素晴らしい人が居るのは事実で、
ひょっとすると処女厨ではなく、「今まで処女にチンポタトゥーを入れたことが無い=男として能力がない」みたいな思い込みがあるのかも。
だからどうにかこの「処女厨」であることを無くしたいと思ったけど、これはどうも「リードする側」「される側」に深く刻まれた本能的なものなようで
例えば「子供が欲しい」と言う不妊の女性に「養子でええやん」って言うようなものだと思う。
年収3000万と結婚したい30代の女性に「若い男を養え」というようなものだと思う。
ジェンダー規範って簡単に捨てればいいもんじゃないし、捨てればそれまでの悩みがすべてなくなるわけでは無いのよね。
「リードする側」を諦めたからと言って、「リードされる側」になれるわけでは無いし、「リードされる側」を諦めても「リードする側」になれるわけじゃない。
そういう規範って、「リードするモチベーション」「リードされるモチベーション」に深く関わると思うんだよね。
多分非処女と結婚したわだかまりは、「浮気」とか「離婚」という形で表れてしまうと思う。
ジェンダー規範を捨てた先に待っているのは、自分がジェンダーとしての価値が無くなった世界で、ジェンダーを捨てた一個の人間として評価されるってのは一般人には非常に難しいわけですよ。