はてなキーワード: わだかまりとは
それ、早めに解決しといたほうがいい。
そこら辺を大した問題じゃないと許してたら離婚の話し合いにまで発展した。
うちは付き合ってる時にこの状態になりました。
早朝疲れて寝てるのに、ムラムラした夫(当時彼氏)が服の中に手を入れてきて起きる。何度も嫌だと言ったが聞かず。
ただ当時は恋愛真っ最中だったので、愛情表現に応じる気持ちで、嫌だったけど大問題にはしなかった。
結婚してからはセックスレスに。私がしたい気持ちで彼に触れてもやんわり断られる。
この辺りから『なんで結婚前は愛情を受け止めてあげたいと、望まない性的行為を咎めず受け入れてきたのに、逆パターンではこんなに拒否されるのか?』
と、自分が軽く見られてる気持ちになってきて相手に優しくできなくなってきた。
なんやかんや優しく出来ない気持ちからいろんな事で揉めるようになり、結局はセックスレスと、付き合ってる時に同意なく性的接触された事がわだかまりとして残ってたと言う話で離婚というワードまで出てくるようになった。
結局、何故自分は相手の嫌がる行為を押し付けたのか?何故逆になったら寛容になれないのか?と言うところを突き詰めて考えてもらい、離婚は回避。
腹を立てるほどのことでは...と私も思ってたけど、多分結局〝相手の嫌がっている事〟に向き合わない、向き合えない姿勢がどこかで露呈するはず。
母は十二分に愛情をかけてくれたけど、あなたが求める形ではなかったというような体験はないかな。
たとえば、話を聞いてくれなかった、頼りたいときに頼れなかったとか、反対に母がなんでも先回りして決めてしまったとか。
そういうことにどこかで怒りを感じていて、しかし表面上は愛情をくれたというアリバイが成立しているので、怒るに怒れない。
母は子のわだかまりを理解せず、自身の愛情を一切疑うことなく泣いている。その身勝手さへの怒りや母自身の哀れさや、母はこのようにしか愛せないのだという諦めで涙が出る。
子離れの辛さは相当あるにしても、あなたが親元を離れて生きていけるようになることは何より自然なことで、成長の証で、喜ばしいことじゃないか。
なのに母は泣くのをやめない。それが不思議。
結婚前の同棲について、私の持っている感覚が世間とズレているのか知りたい。
私は、交際期間がそれなりにあったとしても同棲期間は必要だと思っている。
一緒に生活をしてみて初めて分かることがあるだろうし、価値観(金銭感覚、生活リズム、清潔度合など)の擦り合わせ期間としても意味があると考えているから。
2人で共同生活する上で問題ないかを確認し、お互いが納得した上で結婚したい。
ダラダラと同棲期間が延びてしまって結局、結婚に至らないという場合もあると聞くので、結婚を前提に予め同棲期間を決める等の工夫は必要だと思う。
同棲した結果、どうしてもダメな場合は別れることもあり得るが、お互いバツがつかなくてよかったねくらいの価値観。
そんな私が、数年付き合っている彼女と結婚を意識するようになったので、上記の考えを基に結婚を前提に期間を決めて同棲することを提案したところ喜んでもらえた。
(この時プロポーズはしていない。同棲し期間満了に伴い正式に伝えたいと考えたため)
同棲にあたり、まずは相手のご両親に挨拶をし了承を得ようということになった。
いきなり押しかけて話をするのはどうかと思ったので、事前に彼女から同棲の話をしてもらったところ、断られてしまった。
彼女は、上記の私の考えを含め話をしたようだが、婚約していない男女が同じ家に暮らすのは受け入れられない、それなりの期間交際しているのに同棲をする必要があるのかといった内容で断られたようだった。
また、単に断られるだけではなく「結婚の挨拶に来るのかと期待していたのに、まさか同棲話を持ってこられると思っていなかった。そんな相手なら別れて欲しい。顔も見たくない。」とまで言われてしまった。
これまで何度も顔を合わせており相手の家にもお邪魔したことがあったことや、結婚を期待されていたことから、関係性はそれなりにあったと思われていたためかなり動揺した。
その後、数日掛けて会話してもらったところ、「顔も見たくないは言い過ぎた。あなたが(彼女)が納得しているなら別れろとまでは言わない」という内容に落ち着いた。
彼女から聞いたご両親の考えを要約すると、「自分の娘が試されているような感覚であり不愉快」というものであった。
また、この親子間での話を経て、彼女の考えも変化したようで同棲に対して否定的な意見を言うようになった。
曰く「同棲している期間、一挙手一投足を見られて審査されているような気持ちになりそうで嫌になった。もし無理になったら別れるの?同棲は不要で結婚したい(意訳)」
とのこと。
自分としては、いきなり結婚の話を持っていくより同棲を経て結婚する方が誠実な行動と思っていたので、正直かなり困惑している。
未成年の時から何となく交際→同棲→結婚という順序を経るものだと思っていたのでそれが崩れたためどうしたらいいのか分からない。
彼らの言い分を飲み込むのであれば、次は婚約なのだろうが、何を持って結婚したいと言い切れるのかが分からない。
結婚自体はしたいと思う。漠然とこの相手と結婚したいとも思う。
結婚に踏み切るための根拠というか、一緒に生活をしてみてその上で結婚したいと思ったから結婚するという順序を経たかった。
加えて、彼らの「試されているようで不愉快(意訳)」という感覚が、同棲を希望している自分としては理解できなかった。
試すという言葉を聞くと確かに、上からというか一方的に査定されているような感覚になるのは理解できる。
敢えて相手が不愉快なことして自分への愛情を試すといった行動をする人間がいるが、その感覚に近いのだろうか。
私はそのつもりはなく、暮らしの中でお互いに思うところがあった上で、それでも結婚したいと思えたから結婚するという流れを取りたかっただけである。
結婚に至るまでの交際期間であっても、お互いの言動を査定とまでは言わずとも自分の価値観に合うか、それを許容できるかなどをなんとなく考えているだろう。
恋人に限らず人間関係において、ある程度相手がどういった人間かを考えるタイミングはあるはずなのに、こと同棲することに限ってネガティブなイメージを持つことに理解が出来なかった。
むしろ、彼女が何を持って私と結婚したいと言えるのかが分からないことや、彼女の中で同棲したらボロが出る何かがあるのか、彼女の中に自分の考えはないのか、彼女の両親の気持ちを考えた時に、子供がパートナーと同棲したいという話を出した時に別れろ、相手の顔を見たくないと言うことが普通の感覚であるのか、またそのような相手を義理の両親とすることに自分の中で耐えられるのか等でモヤモヤしている。
そもそも、同棲の必要性ですらこれだけ考え方が違い、揉めるのにも関わらずそういった価値観の違いを見て見ぬ振りをして結婚することが自分の中で納得できない。
彼女は同棲は不要という考えで固まったらしく、このままではどちらに転んでも一方がわだかまりを抱えていくことになる。
そんなのでは次に進めないと思う自分と、漠然とこの相手と結婚したいと思う自分がおり、あれ以来なんとなくこの話は流れている。
世の中のSF作品には嘘が多くそれによって勘違いをする人が多く居て困る。
私は前々からそういった人達の勘違いからくる発言によって迷惑してきた。
取材だったり、質問だったり、若手の失敗、取引先の相手との行き違い、あらゆる場面で「SFから得た間違った知識」にストレスを感じさせられてきた。
同じような間違いを何十人何百人という人間が口にし、その度に指摘し続けることに疲れた。
巷でSF映画が話題になる度に、そういった勘違いをした人がまた自分のもとにやってくると思うとウンザリする。
映画のCMを見るだけで、作品の面白さが最優先で現実の科学なんてものはそのための触媒としか思ってないことが伝わってくる。
詳しい人間に大雑把な質問をぶつけるだけで好奇心を満たしてしまわずにもっと根源的な部分からしっかりと知識を積み上げて欲しい。
SF作品であっても、現実の事象をちゃんと再現しようという気持ちがあるのなら否定する気はなく、それらが「正しい知識」を多くの人に授けてくれる事さえ期待する。
私は前に「プラネテス」という漫画もまさにそういった作品であるかのように誰かに薦められた。
そのことを思い出してふと手にとって見たが、なんのことはないこれもまた嘘まみれの作品であった。
私は非常に強く傷ついた。
私が嘘にまみれたSFを嫌いだと知っているはずの人達からこんなものを薦められたことに苛立ち、孤独感に襲われ、この世界から断ち切られた絆を必死に取り戻そうと焦ってしまった。
私の頭の中で「プラネテスという作品」「その作品の読者」「フィクションから得た間違った知識を信じる人」「間違った知識を信じたことで宇宙事業の足を引っ張るような人」がごちゃまぜになっていた。
特に最後の「間違った知識を信じたことで宇宙事業の足を引っ張るような人」と「プラネテス」が結びついた時、過去のあらゆる悲しみの原因がプラネテスにあるかのように私の脳が錯覚を起こしたのだと思う。
幾千の作品の行く万という嘘によって作り出された幾億の人の勘違いの全てから産まれた苛立ちを、たった一つの作品にぶつけてしまった。
もしも私が突然「私は日本人に沢山酷いことをされたので、日本人である貴方を殺すことで憎しみを晴らします」とお互いに初めてあう相手同士で言われたらギョッとするだろう。
それと同じことをしてしまった。
私が理解してほしかったのは「作品としてしっかりしている」と言われるようなSFでも「サイエンスとしての考証がしっかりしていること」は全く保証されていないという事だったのに。
そして、その違いを切り分けることなく安易につなげて考え「この作品は面白いから、この作品は本当なんだ」というような勘違いはしてくれるなという事だったのに。
これも少し違っていて、実際には「勘違いはしてくれてもいいが、それが勘違いなのかどうかを自分で本を読んで学ぼうという姿勢を持ってくれ」なのだ。
漫画から得た知識を繋ぎ合わせてもどこまでも漫画から得た知識の連鎖にしかならない。
自分でしっかりと学んで欲しい。
面白いSFを読んだ次に向かう先が、次の面白いSFではなく、科学雑誌であってくれればいいのに、そういった自分の気持ちが世の中とすれ違っていると感じて、産まれた孤独感が暴走してしまった。
「作品の面白さは科学的な正しさを保証しない」ということを、世の中のすべての人に理解してもらおうなんて押し付けだったのかも知れない。
リアリティがある作品こそが素晴らしいという価値観が逆流していき、素晴らしい作品であればそれがリアリティであると世の中が歪んでいったのだなんてのは私の杞憂なのかも知れない。
兎にも角にも、私が自分の長年の苛立ちを特定の作品そのものにぶつけたのは度が過ぎたことだ。
ありとあらゆる罪の根源を特定の何かを生贄にして押し付けるようなことなどが許されるのは神様ぐらいのものだ。
人間のくせに「現在過去未来その全ての悪の象徴としてお前を断罪する」なんて口にしたのは「分を弁えない」ことだった。
人間に出来るのは、あくまで一度に一つの作品に対して、一人の人間に対して、一つの間違いに対して、一つずつ対処していくことだったのに。
長い時間の間に溜まってきた不満を一度にぶつけてはいけなかったのだ。
個人的なわだかまりや消化不良な怒りの積み重ねから出た99%の八つ当たりをさも100%正当な怒りのようにぶつけたことを謝らせて欲しい。
それでもわがままを言うならあの怒りに1%ほどは正当なものがあったということぐらいは許してもらえないだろうか。
私達はいつだって「フィクションから産まれた嘘によって現実がおびかやかされること」に怯えて暮らしてきたのだ。
有名な作品であれば有るほど些細な嘘がより多くの人を巻き込み大きな渦となって現実に襲いかかってくる。
「作品において嘘を書く」ということは、どこかで現実の科学と戦っている人間に突然の大嵐となって遅い来る可能性を生むとういことを知っておいて欲しい。
それでも、これは私達科学者が戦わなければいけない私達の問題なのだということから目を逸らすつもりはない。
ただ、「分かった上で、それでも誰かを楽しませるために仕方なくやっているだろう」と思わせて欲しい。
本当に、本当に不安になるのだ。
娯楽作品で安易に飛び交う嘘を見る度に、それがどんな形で自分たちを脅かしにくるのかが。
私達の臆病さを、慈悲を持って許してくれるとありがたい。
こんなもんかな?
なんで俺が言語化するのかって?
かんたんだよ。
あの爺さんはプライドも高いし半端に知識も有るしその癖ボケが進行しているからもう自分の口で自分が言いたいことも言えなくなってるからさ。
だからその代わりに俺が言ってやるのさ。
言語化ってなにも本人がしなきゃ駄目ってこともないだろ?
レコメンデーションというらしいが、楽天やAmazonでは「乳液買った後に乳液を勧めてくるな!」など思っていたこの機能に、まんまとやられている。
おかげで自分が嵐を好きなことに気がついた。
料理の番組内で、卵焼きを料理人が教える動画だ。生放送のテレビ番組を切り取ったものらしい。
理由は定かではないが、作られた卵焼きは、焦げていた。私なら食べられるレベルだが、子どもにはあげるのを躊躇するかもしれない、程度の焦げ方だ。
そこについたコメントに、色々と考えさせられた。
先生は、その分野では完璧でなくてはならない。そうでないと、笑われてしまう。それでお金をもらっているから。
たしかにそうなんだけれども、なんだか腑に落ちないのはなぜだろう。
ネットに動画を上げて笑いものとして晒されてるのが、自分の中でわだかまりになっているのか。
長年の経験と努力が技術となり、その技術が仕事となる。しかし、機械ではないので間違いもある。
笑っている人たちも間違いをするはずなのに。
一時期は「処女でもいいよ~」なんて言っていたけれど
現に女性と関わって遊ぶようになって、遊ぶなら非処女でもいいけど結婚するなら処女だなぁ~とうっすら思うようになってしまった
言うなれば「昔の男の名前のタトゥーが彫られてる」のに近しいものであって
それも「昔の男のチンポでつけられたもの」だと思うとちょっと引いてしまうと思う
気持ち悪い話ではあるが、ちょっとした明かりで女性の広がった膜を視認して
でもそこで何も思わない、傷つかないのは相手が遊び相手で、結婚する相手では無いという考えがあるからで
やはり根底には「男は女を養うものだ」というジェンダー規範があるのだと思う。
「自分の人生と命を捧げるのだから、相手は純潔であってほしい」という願いだろうか。
確かに結婚する人がバリキャリで自分を養ってくれて、普段はデートでもリードしてくれて、性についてもリードしてくれて、死にそうなときは身体を呈して守ってくれるなら別に非処女でもいいし
「彼氏が非童貞だった」という女性の悩みを聞く事もあるし、ジェンダー規範が薄くなる現代、逆の事象が増えているとも感じるが
ともあれ自分は基本的にはリードする側で、リードする側にとって「リードする対象」自体の能力(つまり見た目や性格)はそこまで重要視していない。基本的に自分が頑張ればなんとかなるからだ。
そう考えると対象の一番の違いは「純潔さが残っているか」になるのよね。
「じゃぁ処女と結婚すればええやん」って意見はあると思うけど、非処女にも素晴らしい人が居るのは事実で、
ひょっとすると処女厨ではなく、「今まで処女にチンポタトゥーを入れたことが無い=男として能力がない」みたいな思い込みがあるのかも。
だからどうにかこの「処女厨」であることを無くしたいと思ったけど、これはどうも「リードする側」「される側」に深く刻まれた本能的なものなようで
例えば「子供が欲しい」と言う不妊の女性に「養子でええやん」って言うようなものだと思う。
年収3000万と結婚したい30代の女性に「若い男を養え」というようなものだと思う。
ジェンダー規範って簡単に捨てればいいもんじゃないし、捨てればそれまでの悩みがすべてなくなるわけでは無いのよね。
「リードする側」を諦めたからと言って、「リードされる側」になれるわけでは無いし、「リードされる側」を諦めても「リードする側」になれるわけじゃない。
そういう規範って、「リードするモチベーション」「リードされるモチベーション」に深く関わると思うんだよね。
多分非処女と結婚したわだかまりは、「浮気」とか「離婚」という形で表れてしまうと思う。
ジェンダー規範を捨てた先に待っているのは、自分がジェンダーとしての価値が無くなった世界で、ジェンダーを捨てた一個の人間として評価されるってのは一般人には非常に難しいわけですよ。
男子2人の親。毎日のように喧嘩してるし、長引くこともあるけど、その日のうちに仲直りしている。
子どもには
「許すか許さないかはやられた側が決めること。だけど許さないことを選ぶのは、わだかまりを抱え続けるのと同じ」
「挨拶に答えるタイミングがあるのと同じように、許すのにもタイミングずれてこたえるのはダサい」
「いつでも許すことができるとは思わない方がいい、もし許すことができないまま、二人が離れ離れになっても後悔しないか」
というようなことを説き続けている。
2人とも高学年になり、その場の感情では収まらず許さなくても、きちんと自分の中で気持ちを整理して、何がイヤか、どうするのがいいか二人で最後は話し合い判断できるようになってきている。
ひと様の教育方針にあれこれ言いたくもないけど、たとえ衝突があっても建設的な会話ができるかどうか、後々大事だと考えている。
今読み直してきたけど冒頭でアメリカバレなんてミリもなかったな。
そして溶けたの件。溶けた現象と家族の何かが溶けた、例えばわだかまりが溶けたなどという比喩があればむしろ好評価点だった。
それもないとなるとよほど平坦な脳みそで簡単だろうなという感じ。
「転ばっかりで結がない」はふーん、君はそうよんだんだね、としか。
悪いけどこれは明確に目が悪いと想う。
正確に言えば起承転結を理解してないから、そういう無理解な結論で勝利したつもりになる。
はっきり言ってキャッチボールになってないんだよね。
象を語る、の主語があんたと俺の甲乙どちらに付いてるのかはしらないが、点数や評価に騙されやすい群衆、という形ははっきり見えたのでは?
それは、スタンド・バイ・ミーのメガネに向かっててめえの父親はクズで母は売女だ、みたいな罵倒を浴びせた男がいて、それも後のセピア色の思い出に変わる、みたいなことなんだろうが、話の見せ方と分かっていても、許容できない層がどうしてもいるんだよ。この話は先日のルックバックの統失の話とも関係はあるけど、あっちは明示はされてない。明示された差別表現を美化して語るってことは難しい。とんねるずにいじられていた定岡正二が例えば裏では別に仲が悪くないとか、電気グルーブでいじられていたまりんと石野らの関係性が別にわだかまりがないとしても、なんとなく良い気分にならない。力関係が完全に見えてきて嫌な気分になる。
こういう関係は割とちょいワルな連中に結構多く、ボス気取りのやつに子分みたいな友達が群がるという構図が現実にもよく見られた。それはもうまったく友達という概念ではなく、友達だとうっすら思ってるのは脳天気なボスだけという構図だった。大体の配下は顔色を伺ってて、傍から見てもプレッシャーを感じる力関係がそこにあった。セピア色になるのは立場が上のやつだけで、虐げられたものの色合いがセピアになることはない。思い出す度に灰色になるだけだ。
同級生やその家族がグシャグシャに崩れた自宅の前でさめざめと泣いているのを、自宅だったマンションの瓦礫の山で配給の乾パンかじりながらボケーッと眺めていたい。
商品棚がスッカラカンのコンビニで、絶体絶命都市みたいにレジカウンターの上に山積みにされている、善意の人々が店員がいなくても支払った料金をバレない程度に握り込んでこっそり貯金したい。
電気も通わなくなって監視カメラとかも機能してないことを確認したら未だにわだかまりを抱えてる同級生をこっそり殺したい。
スーパーの棚に残された人気のないラーメンをためらいなく食べて、初めて食べる味わいにちょっとテンションを上げてみたい。
避難所に指定されてる母校の小学校の体育館に行って、思い出に浸りたい。
震災関係なく、おいしくなかったから食べなかっただけで賞味期限がとっくに切れた買い置きを非常食のように振る舞って他人に感謝されたい。
ちょっとずつちょっとずつ復興する地元を見守りながら、これからこの街で起きた災害を忘れないように背負っていくとかインタビューでフカしたい。
勝手なこと言わせてもらうけどさあ、
いや、ひどい表現だけどね。
申し訳ないがもう亡くなってる前提で言ってるけど。
なら引き止めたのは悪かっていうと、それは弟として自分のすべき・したいと思ったことであり、自分の正解だわ。
信頼する人の心にわだかまりや傷を残して最終的には死ぬ、それって人としてのトゥルーエンドだよな。
ものすごい軽々しいのは重々承知ながら、文章読んでて「これは間違いだ、あってはならない」って要素感じないのよ。
兄貴の人生にはあってはならないことが起きたんだろうね。それは弟的には悲しみ悼むことであっておのれが後悔しなきゃならんことじゃない、兄の人生だから。
まあそんなこと思ったよ