はてなキーワード: ことのはとは
父子家庭だからとかタバコを吸うからとか世間一般で言われているからという基準に沿って判断する必要があるなら世間一般的な行動をとればいいだけ
自分の家庭にいくつ「世間一般」があるか今一度確認してみて「我が家独自」のものであるならそれは「世間一般」とはしないべき
ごみを分別するのは「世間一般」だが「分別するのにみやすく色分けしてる」は独自
「分別ごみを分別しやすく色分けをするのは世間一般的」ではない
うちは父子家庭だから娘がバカになったは「世間一般」ではない バカな娘は父子家庭に限られていないから
「うちの娘がバカになったのはうちが父子家庭だったからだ」というなら娘や彼氏をバカというまえに
この前、増田に投稿した記事がホッテントリに上がって、いくつかのコメントをいただいた。それをみていて思ったのは、ネットの世界には匿名の向こうに人間がいると認識している人と、記事をただのコンテンツとして認識している人の二種類がいるということだ。
匿名の増田が人間であることを認識している人は、それを書いている”人”に向けてコメントを書いている。
コンテンツと認識している人は”自分が求めていたことが書いてない”と文句を言い、あるいは自分の承認去って行く。
まぁそれはどっちでもいいのだけれど、そういうネットでの人の関わりを見て、そこに確かに人間がいるんだなと実感できる。テキストだけの関係は直接人の精神に触れるようなもので、そういうのを見ていると自分の他にもたくさんの人間がいるんだなと思える。
逆に現実で、たとえば街ですれ違う大量の人たちを見ていても、それが人間であるという実感がいまいちない。ただ、移動する障害物みたいなものだ。そして自分も移動する障害物の一部になっている。
近頃、毎晩実家の夢を見る。
夢に出てくる実家には普通に家族がいるが、そこにあるものは何もかもが実際よりも古くてボロボロだった。壁にあるカレンダーも、メモ帳も障子もボロボロで黄ばんでいて、穴が開いていた。テレビもなく、部屋は薄暗かった。
兄が癌でもうすぐ死ぬという話を夢の中で聞いた。それを聞いて、夢の中での自分は少しだけ不安に思った、と思う。
実際の兄は元気に仕事をしている。
自分は東京にある一人暮し用の狭いマンションの一室のベッドに寝ているのに、気がつくと実家の、かつて自室だった和室で寝ていた。金縛り状態だった。その部屋の障子もボロボロで穴が開いており、焦げたような穴の縁も鮮明に見えたのを覚えている。
部屋の外を、得体の知れない何かが移動していた。
手首から手が3つ生えているのを入り口の曇りガラス越しに見て、ああこれは夢なんだなと認識した瞬間に目が覚めた。
毎朝こんな調子で、起きたい時間より1時間以上も早く目が覚めてしまう。おかげで毎日寝不足だ。
現実と夢が混在していることもたびたびある。ベッドに入ってスマホをいじっているつもりだったのに、実際の自分は寝ているだけだった。
スマホは手元になかった。そうして目が覚めたときにどっちが現実かわからなくて一瞬混乱する。
さっきまで確かに、あるwebページを見ていたはずなのに、それが現実ではなかったのだから。
電車で運良く座れてウトウトしているとき、隣の席に座っている人が立って居なくなった気配がしたのに、気がついたらまだ座っていた。隣の人が降りたと思ったのが夢だった。
日に日に現実に近づく夢を見ていて、現実からは現実感が薄れつつある。
唯一人間の存在を感じるときがインターネットを見ているときで、そこで繰り広げられる論争を傍から見ているときや、Youtubeのなかで騒いでいる人を見ていると安心感がある。ここに確かに人が存在するんだという感じがする。でも、そこに自分は居ない。
おもしろいのが、例えば増田や他の匿名のインターネットで自分の体験を書いたときに、場所などを特定されないために多少のフェイクを入れることがある。
そうすると、投稿した後に自分の文章を読み返しても、本当に自分が書いたのか分からなくなるときがある。
たしかに自分がそれを書いた記憶があるのに、他人の文章のような気がしてくる。
基本的に増田は書いたら放置だけども、注目記事に上がっているのを目にするとものすごく違和感がある。
この違和感は、自分が現実に対して持っている違和感とよく似ている。
現実での行動も確かに自分の意識がやっていることのはずなのに、他人事のような気がしてくるのだ。
この感覚は去年の年末辺りから徐々に進行中で、どこまで行くのか興味がある。と、自分のことすらも他人事に思って観察している。
きっと私は誰かの一番はなれないし、私も誰かを一番に選ぶことなんてないんだろう。
私は誰かを好きになることもなく生きてきた。恋をすることなく生きてきた。
学生時代には友人の恋バナを聞いて、会社に入ってからは同僚や先輩たちの恋人の愚痴を聞いて生きてきた。いつかは自分もこうなるんだろうか、なんて考えながら。
小学生の頃、○○ちゃんは○○くんのことが好きだとかそういう噂話をよく聞いた。小学生の頃の「好き」は何だかおままごとみたいというか、噂する方もあまり真剣みがないというか、子供らしい遊びの一種というか、とにかくなんとなく「軽かった」。
中学生になってからは、そういう話は仲の良い子達だけでひっそりと語るようになった気がする。小学生の頃よりはそういった話題に慎重になった感じがするのだ。彼氏、彼女という言葉に現実味が出てきた。
テスト期間中、少し早く登校したときに、教室で同級生が仲睦まじくしているのに少し驚いた。邪魔をしてしまったなと思いながらも私は席についてテスト勉強をし始めた。
高校生。私の周りだけかもしれないが、恋人がいる、交際をしている……という子は少なかったような気もする。それでも中学生の頃よりは恋人がいる子が増えた。彼氏、彼女持ちは鞄にお揃いのディズニーのマスコットをつけていた記憶がある。一緒にディズニーに行ったんだろうな~。そんなことを考えていた。
高校生になる前はうすぼんやりと「高校生になったら私にも恋人が出来るんだろう」と思っていた。雪が溶けたら春が来るだろう、くらいの何の根拠もない漠然とした話だ。当然、私には彼氏も彼女もできなかった。
私は大学にはいかずに専門学校へいった。ちょっと特殊な学校で、私の在籍した科には十人ほどしか人がいなかった。男女比は極端に片寄っており、でもそれに何らかの不満も抱くことはなかった。ここでも恋人は出来なかった。けれど周りを見渡せば、恋人がいない方が珍しかった。バイト先や高校で知り合った人と交際しているのだ、という話に私は「すごいね」と笑った。自分には何だか現実的でない話のように思えたから、本当に他人事だった。
恋人が欲しかったか、と言われると返答に困る。人の話を聞くといたら素敵だろうな、お休みの日に出掛けたりしたら楽しいのかな、などと思えるけれど、女の子達の「彼氏とずっとラインしてる」や「三日もラインに既読がつかない」なんて話を聞くたびに正直『めんどくせぇな』と思った。そんなにこまめに連絡を取る几帳面さは私にはなかったし、そんなにたくさん話すことがあるものなのか、と驚いた。
でも、クリスマスになると男女問わず恋人に何をプレゼントしよう、どこでデートしよう……なんて頭を悩ませているのが素敵に見えた。恋人がいない身ながらも、プレゼントはこんなのがいいんじゃないかとか、こんなところでデートできたら素敵だとか、友人の相談にほんの少し乗ったこともある。
会社に入ってからも、私は恋人を作ろうとはしなかった。多分心のどこかで突然できるものだと思っていたのだろう。望まなくともそのうちなるようになるんじゃないか。今は恋人より仕事の方が大事だし。そんな風に考えて、結局ここまで来てしまった。
かつての同級生も結婚や出産をし始めている。二十三才の頃に「このままじゃいけないんじゃないか」と焦って婚カツをしてみたりもした。そこで私は気づくのだ。「私は恋が出来ない人間なんじゃないか」と。
そこまでの経緯は省くが、婚カツをしていてなんとなくいい雰囲気になった人がいた。何回か一緒に出掛けたりして、ランチしたりショッピングもしてみたりした。何しろ恋愛経験がないから男女が二人で連れ立って何をするものかもわからない。それでも何となくそれらしいように振る舞った。そのくせ、ショッピングしている間も食事をしている間も、私の頭の中には「何をしているんだろう」という疑問がずっとあった。
知らない人とご飯を食べて、買い物して、それで私は何をしたいんだろう?どうなりたいんだろう?
デートのような何かを終えて、別れ際に相手の人が笑顔で「またね」と手を振ってくれた。
本来ならこれはとても良いことなのだろうし、私に好意を向けてくれたのは本当にありがたいことのはずなのだ。けれど私は「ええ、また」と微笑む一方で「馴れ馴れしいな」と思ってしまった。
馴れ馴れしいな。そう思ってしまった瞬間に、私は「恋が出来ない人間なんじゃないか」とふとひらめいてしまった。
厳密に言えば私がしていたのは婚カツだし、婚カツとは結婚相手を探す活動だ。だからもしかしたらそこに「恋」を求めるのはお門違いなのだろう。
ともかく、好意を向けてくれたのであろう相手に「馴れ馴れしいな」と思ってしまった自分の最低さを恥じながら、私はその半月後には婚カツをやめていた。
恋人ってなんだろう、と思春期のような問いをずっと抱え続けている。婚カツをしている間にドライブに誘ってくれた異性も、夜の食事に誘ってくれた異性もいる。けれど、最終的には「面倒くさい」「ちょっと気持ち悪い」というような、本当に失礼な気持ちを抱くに至ってしまった。
ドライブといえば車の中でふたりきりなのだろうし、夜の食事といわれるとどうしても身構える部分がある。
「用心深すぎる」「隙がない」。知人友人によくそう指摘される私は、ここでも用心してしまった。
車で二人きりになって、そのまま知らないところへつれていかれたらどうしよう。食事で席をはずしたときに飲み物に変なものを混ぜられたらどうしよう。
書き出していて思ったが、これは都合のいい自分への言い訳なんだろうな。用心深く相手を見るということは、つまりは相手を信用していないというわけで、きっと私は端から相手のことを信用しようだなんて思っていなかったのだろう。でもそんな自分を正当化したくて「用心深い」なんて話を引っ張ってきたんだろう。
人を好きになるということは、その人を尊敬するのと似ているように私は思う。尊敬できる部分があるから好きになれるんだろうと思う。一緒にいて心が楽になるとか、楽しいとか、そういうメリットがある人間を人は「好き」になるんだと思う。自分にとってデメリットばかりの人間を好きになるひとがいるとはちょっと思えない。
私も友人や家族のことは好きだ。尊敬できる部分があるから。でもそれは「恋」じゃない。
恋をしてみたかった。
自分の中の何かを決定的に塗り替えてしまうような、その人のことしか考えられなくなるような、一言言葉を交わすだけで胸がドキドキするような、そんな経験をしてみたかった。
けれど、自分がそういうものを望めない人間だというのを何となくだがさとってしまった。
きっと恋をすれば、恋人になれば、手を繋ぐ以上のこと、キス以上のことにもなれていかなくちゃいけないだろう。しなくちゃいけないんだろう。私にはどうもそれが出来ない。
手を繋げるのはおそらく家族と友人の範囲までだろう。他人の体温は生ぬるく、どうも落ち着けそうにない。キスも同じだ。映画、ドラマ、アニメ、漫画。物語の中で交わされるそれはドラマチックだけれど、自分がすることを考えると鳥肌が立つ。
一人でいるのは気が楽だ。自分のことは自分で決めて、自分以外の何者にも振り回されないというのがすごく楽だ。
誰かの一番にはなれそうもないし、誰かを一番に思うこともなさそうだ。でも自分が一番楽ならそれでいいや。最近はそう思いながら、恋人がいないことに悩む二十代のふりをしている。
なぜいじめられても耐えて耐え抜いてまで学校にくるのはなぜなんだ。
なにかそこまでして、いのちを賭してまでやりとげるべき何かがあるのか。
そうだとしたらなぜその目的を達しない選択を目的と関係ないところでするのだ。
稼ぎがあるわけでもないのに家族のためを思って学校にいくとかあるかもしれんが
家族が捻出してくれている学費を非常に効率わるく消費しているのはとても家族思いではないだろう。
別の学校のほうが効率がよいから転校するくらいのほうが孝行ではないのか。
自分がいじめられているという主張をしないがために限度のわからない未熟な人間が
根性をためす要領で何事においても限界をさがしにくるひとつにいじめを追加しているのは
三日目にして限界、など底がわかればよいものを死ぬまで限界を察知させないのは問題があるのではないか。
ほかいろいろいったところで当人には逃げ道がないから追い詰められる、どうしていいかわからないから、ということがあるだろうが
いじめる側が悪いとさんざっぱら繰り返し続ける皆はその道をわかるようにしてやるべきではないのか。
逃げ道を用意してあげていないやつが逃げ道がないといって結局追い詰められる構図を崩さないのはいじめに加担をしているのではないのか?
逃げればいいだけだろ、いじめをうけていて苦痛であることを示せばいいだけだろ、その方法を断っているのはいじめている当人ではなく
救いの手を差し伸べているといっておいて少しも救っていない、当該者には逃げ道がみえていないといっておいて、それを知っていて
その道をまったく示してわかるようにしていない、逃げてきたいじめられっこを導いてやっていないのはいじめじゃないのか?
実数などは公表できず実際に成果のある行動をとっているところもあるだろう。それは確実に救っているだろう。
いじめだめよくないやめよう、といってなくならないのは目に見えてわかるし減っている実感もない。
いじめをさせないためにはいじめられたら逃げてる対抗措置をとる、そのためにいじめられっ子を助けるといっている、いじめは悪いといっている大人がそこらにわんさかいる。
いつでもこい、たすけてやるといっているはずだと思うので皆そのへんの大人に助けを乞え。そういうことのはずなんだろ。
なぜみんないじめられっこを殴り倒すことだけしか興味がなくいじめられる側をえさかなにかとおもっているんだろう。
自分がたすけるといっている大人にさえもいいようにおもちゃにされているいじめられる側の子は、自分がそいつらをぶん殴らないことが罪であることに気が付くべきだ。
俺は下戸だ。遺伝的に、俺の子は運が良くても飲むと必ず赤くなる。
運が悪いと全く飲めない。
つまり、俺が子供を作ると、この国の上戸人口が相対的にほんの少し減ることになる。
だから、俺が結婚できずに子供を作れないことは、下戸にとって喜ぶべきことのはずなのだ。
これを読んでる人が酒を飲めるなら、あなたは遺伝的に私が子孫を残す確率を高める行為を嫌わなければならない。
それが自然の摂理だ。
だから、上戸の人は、下戸の私が結婚式を開いたら、下戸の私に罵声を浴びせて攻撃しなければならない。
日本人の6割は上戸だ。日本は民主主義の国だ。多数である事が正義なんだ。
俺が数年前計算したところによれば、数千年ほど、下戸が子孫を残せない状況が続けば、この国から下戸は消えて浄化される。
下戸遺伝子は一万年ぐらい前にモンゴルあたりで生まれた東アジア人に特有の遺伝子だ。つまり、俺は、右翼が嫌いな大陸の人間の血を受け継いでいることになる。
せっかく少子化なのだから、下戸が子孫を残せない社会にしよう。数千年政策を維持し続けられれば、日本から下戸は消えて、浄化された酒の国日本が出来上がる。
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「発達障害は親のせい」はデマ。発達障害の診断は、これからを考えるためのステップ 児童精神科医・姜昌勲さんインタビュー - messy|メッシー
「発達障害は、親の育て方によらない、生まれつきの生物学的疾患です。だから親のしつけなんて関係ない。大間違いなんですよ。もう、アホかバカかって感じなんですけど(怒)。」
確かに、「診断結果と療育を受けることを受容するまでは」という条件付きなら正しいと思いますよ。
しかし、その後も「しつけなんて関係ない」と言えるのか甚だ疑問ですね。
もちろん、生まれつき=遺伝=親のせいという短絡的な話は論外として、親には「しつけ」る義務があるはず。
「当事者」と「親」、そして、「身近な支援者」が望んでいるのは、生き辛い状況を汲み取って=発達障害の特性を勘案して、世間の秩序と折り合いをつけて「当事者」が生きていくということのはず。
専門家の視点では、発達障害の特性を勘案して折り合いをつけられようにすることは「しつけ」ではないと言うかもしれない。
しかし、それは学術的に定義された用語を使用して表現をしなければ正確な議論が出来ないからであって、「当事者」と「親」、その他「悪意のある第三者」も含めた「周囲の人々」から構成される現実社会の実践の場では、「定義された」"それ"と「しつけ」を区別することに何の意味もないんじゃないか。
むしろ、「しつけ」という言葉を、「何が正しくて、何が正しくないかを教えて、世間の秩序と折り合いをつけられるようにすること」と再定義しなおして、『「当事者」の特性に応じた方法で、「親」や「身近な支援者」が「しつけ」を行えるように支援することが必要です』といった方が議論がしっくりと来るのではないのか、と思うのだが。
あと、インタビューでこの人が言っていることは正しいけど、デマを打ち消す意味では、少なくとも「もう、アホかバカかって感じなんですけど(怒)」はないんじゃないかと。
正直、「当事者」の問題行動は、対処方法があったら、「なーんだそんなことか」って場合もあるんですよ。
金八先生みたいな熱血先生に相談して「先生ありがとうございました」とかじゃなくても、幼稚園、保育園、小学校の先生などの「身近な支援者」に、ちょっと腹を割って話をして、「うちの子取説」を渡したら上手くいくケースも結構あるはずなんですよね。
それなのに、良く勘違いしている「当事者」の「親」達が居て、「発達障害についての勉強をして、ちゃんと支援してくれなきゃ困る」とか、ネットで仕入れた知識を振りかざして言いたい放題。
味方にしなきゃいけない「身近な支援者」を敵に回してどうするんですか??
幼稚園、保育園、小学校の先生などの「身近な支援者」は「運命共同体的な関係者」ですよ!!
頭下げてお願いして、一緒に「当事者」と向き合っていかなきゃだめでしょう。
ちょっと考えてみてくださいよ。
法整備がされて「発達障害」が特別扱いされる前のほんの10年くらい前までは、園長先生や校長先生に頭を下げてお願いしていたはずなんですよ。(まあ、所謂モンスターペアレントなるものはありましたが・・・)
10年前まで出来ていたことが、今出来ないっておかしくないですか? (まあ、出来てなかったかもしれないが・・・)
ちなみ、「周りの支援者」は「運命共同体的な関係者」なので、半年か1年に一回相談に乗ってくれる程度の専門家は入らないと思いますよ。
実際、幼稚園、保育園、小学校などの先生は上手く「しつけ」出来ないと現場で困るが、たまに相談に乗る専門家は全く困らないから。
つまり、専門家の意見は第三者的な助言であり、それを以て、「当事者」と「親」の運命を決定するなどというのはあり得ないということは、「当事者」の「親」には、気を付けてもらいたいと思っていますね。
トランプ政権に対する一部の過激なデモ行為によって、左翼の本性が明らかになったと言う人がいた。
でも、同じことはたくさんの人について言えると思う。
最近(昔からそんな人はたくさんいると思うが)、他人の意見に対して過剰なまでに攻撃を加える人が多いように思う。
その人の中では自分は正義であって、相手は悪であるから、自分の行為は正当化されるとでも思っているようで、質が悪い。
だけど正義というものは相対的なものであって、人によって違うのだと思う。
たとえば、人工妊娠中絶は殺人なのだろうか。換言すれば、お腹の中の赤ちゃんは「人」なのか。色々な考えがあるはずだ。
「正義」なんていうものは、その人がこれまで経験してきたことや、その人の政治的・宗教的信念などによって作られるものであって、極めて個人的なもののはず。
他人が胸に抱く「正義」を受け入れる必要なんてないけれど、自分の中にある「正義」が絶対的なもので、それを他人が受け入れてくれる(あるいは、受け入れるべきだ)なんて勘違いをしてはならないと思う。
民主主義の制度は、そういうことを前提に、人々がお互いの意見(そして、ひいては人権そのもの)を尊重し合うことができるようにするための、一種のツールといっても過言ではないと思う。
それなのに、どうして過剰なまでに他人の考えを否定し、相手を攻撃する人が多いのだろう。
自分にとって身近な問題としては、「法科大学院の存続問題」がある。
全国に法科大学院が発足し、旧司法試験が廃止されてから久しいけれども、法科大学院は廃止すべきだろうか。
ここでも、色々な考え方があると思う。法科大学院には、良い面も悪い面もあるはずだ。
ただ個人的には、法科大学院には是非とも存続してほしいと願ってやまない。
詳しい理由については割愛するが、法科大学院での日々は楽しかったし、学部では経験できないこともたくさん経験できた。
タイムマシンで昔に戻ることができたとしても、私はまた法科大学院に入学したい。
少し大げさに書いてしまっただろうか。それはいいとして、こうした意見が存在することすら許せない人たちがいる。
彼ら(彼女ら)はたとえば、「どうせ教授に書かされているんだろう」とか、「法科大学院関係者が自画自賛しているだけだ」などと言うのである。
たしかに、私の考えは個人的なものであって、それがすべての人たちに妥当したりなんてしない。
だけど、同じことは彼らの意見にもいえる。
こうした意見の相違は、ただ単に、法科大学院のことを好きな人もいれば、嫌いな人もいるというだけのことのはず。
どちらの意見も、正しくもなければ、間違ってもいない。
あるべき議論の方向性は、ただ一つのはず。そうした意見が混在する中で、お互いの意見を尊重しつつ、みんなにとって最善の答えは何であろうかを議論することなのではないかな。
間違っても、自分だけが正しいと信じて、自分の考えと相容れない人たちを頭から否定したり、攻撃したりなんてしてはならないと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20170205213323
あなたがやってきた”学問”で身につけたと思う(他人には見えないのかもしれない)ブランドと、
☆以下わかりにくい比喩:
①ジブリに在籍したことのあるアニメーターAが、今は普通の仕事をしている
②アニメに少し興味あるAの子供が、Aが昔ジブリに在籍したことを知ってか知らずか「アニメーションを作る意味って何だろう」と聞く
③Aは、昔アニメーターだったけど、アニメを作ること自体にそんなに思い入れがなかったので説明できない・・・と増田で愚痴
④そこで、地道に頑張ってきた現役アニメーターBがいきなり現れ、なぜか「お前なんでジブリに在籍したことがあるんだよ悔しい」と言う ←今ここ
「ジブリみたいな映画を、それを超えるアニメをいつか作ってやる」
ってことのはずでしょ?
それなのにBさんはなぜか
「『へー、ジブリにいたんだ、すごいね。アニメ詳しいんでしょ』と世間から言われたい!!!」
と嘆く・・・
ちょっと違うんじゃない?
ジャニヲタになってから、もうすぐ10年が経つ。最初は茶の間で、当時好きだったグループがテレビの中で笑っていてくれればそれでよかった。それが大学進学と共に東京に出てきて、現場に行きやすくなったことで私は様々なグループの現場に足を運ぶようになる。恐ろしい勢いで現場厨への階段を駆け上ったのだ。その中で、私は多ステというものを覚えた。多ステとは、1つのコンサートや舞台に複数回入ることを言う。今回はそんな私がノリと勢いだけでとあるグループのツアーをほぼ全ステした時の話をするのだが、せっかく匿名にしたので包み隠さず全部話そうと思う。私はこのツアーに25公演中の20公演参加し、地方も含めて約10会場回った。気分は共にツアーを回るバックJr.だ。そのくらいの達成感はあるし、その分時間もお金もかかる。ではこれから、この経験を通してわたし自身が考えたことを、つらつらと書き記していこうと思う。
単刀直入に言うと、私は定価主義ではない。こうしている今現在もチケット流通センターやチケットキャンプ、メルカリにヤフオクなど様々な媒体でチケットの高額売買が行われているが、私はそこでチケットを買うタイプのヲタクだ。もちろん定価でチケットが手に入るに越したことはない。誰だって出す必要のないお金は出したくないはずだ。
しかし、最近そうも言ってはいられないのが現状としてある。所謂"相場"の高い公演(ここでの相場とは、倍率が高かったり人気の高いタレント、バックJr.が出演する公演のことを言う)では、定価でその公演に入ることはほぼ絶望的だ。天下の嵐さんのチケットなんかだと、アリーナが25万円で取引されていたりする。そしてヲタクはそういったチケットの値段を、単位を省いて"25"というような言い方をするのだが、これによってさらに高額売買をしているという意識が薄れてしまう。"3"と言われると、"3万円"と言われた時よりも罪悪感が薄れてしまうような気がする。
そして、例えチケットが手に入る状況になったとしても今度は欲が出る。彼をもっと近くで見たい、あわよくば気づいてもらいたい。以前どこかで聞いたことのある言葉を借りるとすれば、見たいという欲求より、見られたいという欲求の方が強くなってしまうのだ。
このことから私は今回のツアーにおいて、チケット代だけで約30万使った。普通の人が見たら目玉が飛び出る金額なのかもしれないし、私の様に普段からチケットの売買をしている人たちからすればなんてことのない金額なのかもしれない。「お金を落とすこと」が愛になるとは言わないが、少なくともCDや雑誌を購入したりコンサートに行ったりすれば、彼の事務所内での立場は良くなる。ただし高額売買というのはこの限りではない。私が必死でバイトして稼いだお金は、どこの誰かも分からない人のお財布に入ってその人の生活を支えることになる。御門違いも甚だしいことは分かっているのだが、それでも買ってしまう、最早麻薬にも似たところがあると私は考える。
2時間半の幸福(かもしれない)な時間を数万円で他人から買うのだ。
少し前に「ファーストクラス」というドラマが話題になった。仕事やお金や持ち物、男などの様々な観点から主観で勝手に順位をつけることで会社での地位や立場を築いて、ファッション誌編集部という女社会でいかにうまく生き抜いていくか。そんなドラマである。ジャニヲタ同士もこれに近いものがあるのでは、と私は思う。どれだけ多く、より良い席でコンサートに入ったか。見た目に気を遣っているか否か。比較観点は様々だが、私は前者の「どれだけ多く、良い席で入ったか」に囚われてしまった。さらに言うと、この文章には"同担より"というワードが追加される。
自分の身の回りにいる同担よりも、より良い席に沢山入りたい。他の同担よりも自分に構って欲しい。女の汚い嫉妬だと言われてしまえばそれまでなのだが、当時私はとてつもなく真剣だった。それ故に、高いお金を出して入った席で同担と隣になってしまえば、この世の終わりかの様に落胆する。それが規定外うちわを所持した茶髪ゆる巻き花柄ワンピの女であったならばダブルパンチだ。
実際に私は一度この状況に直面したことがあった。頑張って生活を切り詰めてなんとか買ったチケット。物凄く楽しみにしつつ席に向かうと隣には、キラキラグリッターのどデカイ規定外うちわを掲げた所謂量産型ヲタク。それまでのウキウキしたテンションは、一気に地の底へと落ちる。
「終わった………………」
もうその公演で構ってもらうことは無理なんじゃないか、この人の隣にいる自分がこの人より先に目につくはずがない。そう思って、頭に回るのはチケットの金額だった。冷静に考えれば馬鹿馬鹿しいのだが、躊躇せずに買うくせに公演に入っている時にはどうしても「その値段に見合う価値」を求めてしまう。その価値とは所謂「ファンサ」のことで、せっかく目線の来る席を抑えたんだからこちらを見て欲しい、あわよくばファンサが欲しい。そういったエグい感情が自担が近くにいる時は常に金額と共に頭をぐるぐる回っている。食べ放題のバイキングで元をとらなくちゃ!と焦る感情と似たものがあると私は思う。それでファンサをもらえれば浮かれポンチでその後のことはよく覚えていないし、もらえなければどこか沈んだ気持ちでコンサートを終える。毎回ファンサをもらえる保証なんてないし、なんならもらえない確率の方が高かったりもする。楽しみに行くはずなのに、本末転倒だ。若手グループで、まだまだ狭いキャパでやっている間は仕方のないことだとは思うが、コンサートがファンサありきになってしまうのはとても悲しい。
これ。ほんとにこれ。多ステすると、感じなくてもいいことを感じてしまったりする。例えば「このセトリどうなん?」とか「このゲームどうなん?」とか。2、3回だったら普通に楽しんで終われたんだろうなってところにも目をつけてしまった。
あと単純に飽きる。ただこれに関してはもう仕方ないことだと思って、ある程度は覚悟した上で公演に入っていた。あくまで個人的な意見なのでもちろん全ステしたって飽きない人もいるだろう。しかし私には全ステは向かないんだな、と思った。というのも、6公演目を過ぎたあたりから自担の出ている曲以外はメモの整理時間or休憩時間になっていたのだ。ペンライトは腕にぶら下げてライトも消灯…いやチケ代勿体無いにも程があるだろ。自担が出ている曲以外もせめてペンライトを振っていられるくらいの回数で止めるべきだな、と確信した出来事であった。
ここまで私が多ステをして感じたことをまとめてきた。結論から言うと、私はもう全ステを目指すことはない。腹八分目がちょうどいいとはよく言ったもので、コンサートにしろ舞台にしろ、"ちょっと物足りないな"くらいで終わらせるのが1番気持ちがいいし、思う存分ロスに浸ることが出来る。最終的に交通費なども合わせるとツアーを回るために私は3ヶ月で50万使ったわけだけれど、ここまでやってようやくそのことに気づいたのは本当に馬鹿だったなとは思う。ただ逆に言えばここで気付けてよかったな、とも思っているのだ。
実際今回コンサート中に、高いお金を払って入ったコンサートで真顔でメモを取って野鳥の会をしている自分を客観的にみてしまって虚無感に襲われ、自担がステージで笑顔を振りまいている中で泣いたことがあった。自担のことを見るのは楽しいことのはずなんだから、今後は笑顔で楽しめるヲタクになりたい。馬鹿みたいに高いチケット代金を赤の他人に支払うために必死で働いて、稼いだお金をそのままATMにつぎ込む選択をしてしまう自分の心に待ったをかけられるような大人になりたい。
今現在の話をすると、私は未だにnot定価主義はやめられずにいる。入りたい公演があれば買ってしまうし、それによって家計は火の車だ。人間ってそうすぐには変われない。ただ、第一歩として見栄や意地でチケットを買うことはやめてみた。それだけでも私にとっては大きな第一歩なのだ。今後、私自身どこまで自制することが出来るのかは正直わからないが、あの虚無感をもう一度味わうことがないように祈るばかりである。
★9行でこの増田を短縮したものはこちら→ http://anond.hatelabo.jp/20160706230838
「あなたの一票で日本は変わる!」とか聞くけど、一票で結果は変わらないよ。村の選挙みたく人口が少なければ「一票差で落選」ってありうるけど、国の選挙だからね。
「投票へ行こう!」とか言うけど、投票だけ行きゃいいの?考えずに雰囲気で投票するヤツが増えてもいいの?
なんか浅いよね、投げかけが。だからテンション下がるし投票にも行きたくなくなる。
そりゃさ、「民主主義で選ばれた」といって多数派がやりたい放題やる口実を与えてるのはシャクだよ。その一票分の責任は俺にあるよ。
けど、だからって選挙行かない人を目の敵にするヤツに対しては、「もっと前向きな提案できないの?」って思うよ。
一票じゃ何も変わらない、
行かなきゃ文句言われる、
考えずに行くのもいいと思わない、
それがわかってるから行かない、
そんな状況わかってて「国民に選ばれた」とか政府が言うのもシャク、
でもこの悩みをわからずに「選挙行け」と上から言われるのもシャク、
で、シラける奴が増え、投票率が年々下がってるんだろう。
そして、政治家が不正しても、変な法律つくっても、選挙で落ちない。
俺だって、政治が俺らの命や暮らしを大きく左右するってことも、何やら色々進んでるってこともわかる。「ヤバい」って言うヤツもいる。
でも何が進んでるかよくわからないし、政治がヤバいのか、そいつがヤバいのかも判断つかない。気持ちいい状況ではない。
だから、八方ふさがりに見える現状で、何か針の穴ほどでも希望が見えないか考えつつ、この選挙についても調べてみたりした。
そして、俺なりに答えが見えてきた。
結論を言うと、
なのに、なんで「苦痛」になるんだ?
それは「投票へ行こう!」って投票する(させる)ことが「目的」になるから。
自分のベースになる意見がないまま、候補者のちまちました情報とか、コピペしたような政策とか知っても、違いがわからないしつまらない。
それよりも、「自分がいるのはどんな国で、どこへ向かおうとしてるのか」を知ることは、自分の生き方を左右する。政治を知ることは、自分のためになる。
俺にとって投票は、そういうことをちょっとでも勉強する「いいきっかけ」にすぎない。
候補者についてはせいぜい、「与党か野党か」「そいつが競ってるかどうか」だけでいい気がする。
「一票で変わる?」変わらねえし! 「一票の重み?」限りなく軽いし!
だからこそ、勉強の機会として、勉強を形で示す場として、気軽に投票を利用すりゃいい。
勉強を楽しむには、知りたいことに「選択と集中」するのはアリ。勉強対象を絞って深めれば、自分の血となり肉となる。
ここからは、じゃあ今回の選挙で何に「選択と集中」するかって話だ。俺は「自民党の改憲案」を知るのがコスパ高いと思う。
自民党は今の憲法を変えたくて、4年前の2012年に日本国憲法改正草案(改憲案)を発表した。で、この参院選で大勝ちしたら、その改憲案を国会で通そうとしてるらしい。
今回、俺はアベノミクスより保育園より「改憲」がぶっちぎり最重要テーマだと思う。なぜなら今回の選挙によって「憲法」が変わることはあっても、今回の選挙によって「政策」が変わる可能性はほぼないからだ。
というのも、ざっくり説明すると、憲法を変えるには議席の「3分の2」が必要で、法律をつくるには議席の「2分の1」が必要。そんで、今回は与党(自民・公明)+与党寄りの党(維新など)あわせて「3分の2」に届くかどうかの勢いだ。ってことは「2分の1」は余裕で超えるから、どっちみち政策(=法律つくる必要がある)は与党の望むように通る。
だから今回は「自民党の改憲案でいいですか?」って選挙、そう言っていいと思う。
まあ勉強したいこと勉強すりゃいいんだけど、俺は「改憲」に注目する。
俺、「憲法」って単なるお飾りかと思ってた。でもさ、全ての法律の上にあって、法律がつくられるベースになるのが憲法なんだってね。しかも、自民党の改憲案には、安倍首相も最高顧問の一人として関わっている。
国づくりのベースになる文書だし、自民党はそれを通したがってるから、自民党のホンネの部分が出やすい。改憲案が通ったら「憲法」と「政府のやりたいこと」が一致するから、もう「お飾り」じゃなくて、その方向に一気に進むよね。
だから、「俺の生きる国はどんな場所で、どこへ向かうのか」、改憲案を知ることで見えてくる部分は大きい。
http://constitution.jimin.jp/draft/
でも、右とか左とか○○党支持者とか、他人が言う意見に流されず、元の情報を自分で見て判断できる、という充実感ある。
それに、このPDF文書、見ればわかるけどすげえ親切設計だ。「自民党改憲案」と「今の日本国憲法」とを上下に並べて対照させて、「変更する部分」にだけ線が引いてあるから、どこがどう変わるか一目瞭然。パソコンが見やすいけど、スマホでも読めなくはない。
「へえー、自民党こんなこと考えてたんだ!」って発見が次々とある。
テレビとかでなかなか聞かない、かなり踏み込んだことが書いてある。
たとえるなら、歴史小説と、近未来SF小説と、暗号ものの推理小説と、ノンフィクションを同時に読んでるみたいで、身震いがする。
憲法が変わればもちろん、憲法が変わらなくても自民党政権である限り、そっち方向に少しずつ動く。
そして、もし国会で3分の2の「賛成」を得たら、改憲案は国民投票にかけられて、投票した人の半分以上が賛成すれば、新憲法は成立する。そのとき俺たち一人ひとりに問われる「改憲案」。どうせなら、この選挙のうちに勉強すれば、一石二鳥だ。
(4)今後もし改憲の国民投票が行われたときに、判断できる自分になる
(5)もし改憲案が成立したとき、日本が舵を切る方向をあらかじめ知れる
とりあえず、変更する場所(線が引いてある)だけ見ればいいと思う。
ちなみに俺がびっくりしたところ、意外だったところを挙げると、
上段(=改憲案)の第一条、第三条の2、第十二条、第二十四条、第二十五条の二、第三十六条、第百二条。20分あれば見れる。
太字のところだけなら1時間くらいあれば見れる。
まず直接見てみるってことが大事。見てわからなければ、解釈してる色んなサイトがあるから「自民党 改憲案」とかでググるとかね。
そんで、あるていど自分の意見ができたら、意見が合う政党や候補者に投票すればいい。意見のないまま「誰にしようかな」って選ぶことに時間を使うより、意見をつくるために知ることに時間を使えば、消耗しない。
http://constitution.jimin.jp/draft/
★9行でこの増田を短縮したものはこちら→ http://anond.hatelabo.jp/20160706230838
書いてみてわかったのは、はてなブックマークで月間1位を取ろうが年間ランキングに入ろうが世の中には何の影響もないということです。あきらめましょう(挨拶)
とは言え、ひさしぶりに参議院選挙前に何か書こうかなーと思いつつモチベーションが上がらずにいたら世界同時株安が起きたので、これにからめつつあれこれ書いてみようかなーと思います。ただ、国内の政治状況は変わってないですし、結論はたいして変わらないと思います。
リンク先のタイトルに書いてある政党がなくなったとか言われても知りません。
というわけで、まずは上記のエントリー冒頭部分を引用します。とても大事な前提なので。
ここ15年ぐらいずっと言われてきた「デフレ不況」、デフレとは、物価が持続的に下落している状態を指します。
単純に考えればモノの値段が下がることはうれしいはずなのに、なんでデフレが問題なんでしょうか。
そんなことわかってるよと思われるかもしれませんが、順を追って説明するために書いておきます。
物価が下がって企業の売上が減ると、企業収益が減ります。企業は利益を出すためには費用も減らさなければいけません。
今回はこのうち、人件費を抑える、というポイントにしぼって話をします。
物価が下落したのと同じ割合で社員全員の給料を減らせれば何の問題もないのかもしれませんが、そういうふうにはできないですよね。
正社員の給料は、物価が下落する割合ほどには下がりません。これを「賃金の下方硬直性」と言います。
リストラされずにすんで定収入がある人たちはデフレで少しずつ得をしますが、その分をリストラされて収入が無くなる人がかぶるんです。
結局この被害を一番受けるのは、これから社会に出て仕事をしようとする若い世代です。求人が減って有効求人倍率が下がります。
企業はすでに雇用している人を解雇するよりも先に、新しく入ってくる人を減らすので失業率が高くなります。真っ先にこの影響を受けるのは若者です。
これがデフレを問題視するべき大きな理由です。若年失業者が増え、世代間格差が拡大していきます。
物価上昇率と失業率にははっきりとした相関関係があって、フィリップス曲線と呼ばれていますが、物価上昇率が低いと失業率が高くなります。
==========ここまで引用==========
引用部分から続く2014年のエントリーで私は、現政権の金融政策(世の中に出回るお金の量を調整)を肯定して財政政策(どこから取ってどこに配るのか)と成長戦略(規制政策とか産業政策とか)を批判しました。
当たり前ですが、その内容は今回も変わりません。
まずは、最近よく聞く「物価が上がったから実質賃金は下がって国民の生活は苦しくなっている」という話についての議論から始めてみようかなと思います。
引用部分で、「リストラされずにすんで定収入がある人たちはデフレで少しずつ得をします」と書きました。
収入が変わらずに物価が下がるのでお得です。この状況が、実質賃金が上昇しているということです。
物価より先に賃金が動くことはありません。商品の値段を変えたからといって、会社の給与水準はいちいち変動しないですよね。
ほとんどの企業では多くても年に1回、春闘の時期に給与水準が変わるだけです。
だからデフレ下では短期的には実質賃金が上昇し、失業しなければお得ですが、失業者がその分の割を食います。
長期的には、デフレのせいで給料が上がらないので失業しなくても損するのは皆さんご存知の通りです。デフレスパイラルというやつです。
そして、デフレ下で金融緩和をして世の中に出回るお金の量が増えて利益が上がっても、企業はすぐに給料を上げるわけではないので、物価が上がった分、実質賃金は下がります。
利益が出る前に給与水準を高くする企業なんてあるわけないんだから当然なんですが、でもこれがむちゃくちゃ大事です。物価が上がるのが給与水準よりも先なので、まずは実質賃金が下がります。
下がった分だれが得をしているのかというと、それまで失業していて新しく雇用された人たちです。
失業率が高いうちは、給料を上げなくても新しく雇えるので賃金はなかなか上がりません。失業率が下がり人手不足になり労働市場が売り手市場になってはじめて給料が上がっていきます。
だから「物価が上がったから実質賃金は下がって国民の生活は苦しくなっている」とか主張するのは本当にやめたほうがいいです。
マクロ経済をきちんと学んだことがある人間には「デフレに戻せ」と言ってるのと同じに聞こえるんですよ。
じゃあ、どういうふうに現政権の経済政策を批判してどんな主張をすればいいのかについて書いていこうと思います。
クルーグマン、スティグリッツ、ピケティといった名前を聞いたことがある人はそれなりにいるかもしれません。別に知らなくても何の問題もないです。
クルーグマン、スティグリッツはどちらもノーベル賞を受賞した経済学者で、日本では今年3月に安倍首相が相次いで会談を行ったことがニュースになりました。
ピケティは2014年12月に日本語版が出版された「21世紀の資本」の大ブームで日本でも有名になりました。
ちなみに、上記リンク先のエントリーは2014年11月、ピケティブームの直前に書かれたものです。(エッヘン)
そんなことはどうでもいいんですが、この三人のマクロ経済政策に関する主張はかなりの部分でとても似ています。
三人とも主流派経済学の左派に属する人たちなので、まー当たり前っちゃ当たり前です。
どういうものかというと、失業率が高い状況においては、金融緩和と大規模な財政出動をすべきというものです。
金融緩和についてはもう問題ないと思います。世の中に出回るお金の量を増やさないといけません。
その上で、財政政策(どこから取ってどこに配るのか)については、財政出動(たくさん配ること)を主張しています。
金融緩和によって実質賃金はいったん必ず下がります。この実質賃金低下の影響が大きい層、つまり給与所得者層(中でも特に低所得者層)に配るんです。
必要な段階とはいえ、物価が上がったのに給料が変わってない人は消費を抑えようとしますよね。
せっかく出回るお金の量を増やしたのにうまく循環しないと困るので、実質賃金の低下の影響を財政出動によって和らげるんです。
当然、このタイミングでの消費税増税は、愚策中の愚策です。消費を増やすために財政出動しなければいけないのに、逆にその層からたくさん取ってどうすんだって話です。
現政権の経済政策について批判しなければいけないのはこの財政政策の部分です。
雇用は増やしたけど再分配がまったくできていない、むしろ逆行しているから、低所得者向けの積極的な財政政策をもっとやれという批判の仕方をすべきです。
金融緩和や実質賃金低下を批判しても、雇用を増やしてほしい人たちからの支持を失うだけです。
別にすべての人が経済政策について全体像を理解してなきゃいけないなんて私はまったく思っていません。
ただ、マスコミ、知識人、ジャーナリストなどの、情報や知性のハブになるべき人たちが、必要に応じてその時々できちんと説明できればいいだけです。
そして、経済の話については、ここがものすごく弱いところです。
マスコミに期待するのは無駄だとしても、他の分野の話については専門的・学問的な知見の積み重ねに対して謙虚な人でも、経済の話だとまったくそれを無視するのってなんでなんでしょう(泣)
クルーグマンでもスティグリッツでもいいから入門書を一冊でも読んで全体像を理解して、その全体像の中で個別の論点をそれぞれ掘り下げればいいのにと思うんですが、権威のある経済学者の言葉から、自分の思いつきにあてはまる部分だけでパッチワークを作ってばかりで、知識人とかジャーナリストって勉強嫌いなんですか?
いちおう私について言っておくと、学者でもエコノミストでもなんでもなく、ただの経済学部出身者です。むかしひととおり学部で全体像を学んだことがあるだけです。
知識のハブになる人たちは、「経済学者にはわからないだろうが」みたいなマクラのポエムを書く暇があったら現代の主流派の通説ぐらいは知っといてほしいです。(偏見まみれ)
さて、イギリスが国民投票の結果、EU離脱派が勝利しました。イギリス人が移民に雇用を奪われたことが原因だと言われたり、でも実際に移民が多い地域では残留派のほうが多かったりといった状況で、いろんな人が理由を分析しています。
私も、私なりに思い当たる理由を書いてみようと思います。というか小見出しにもう書いています。
財政赤字削減を公約に掲げて2010年に首相になった英保守党キャメロン首相の「改革」が、間違いなく理由のひとつになっていると考えています。
名誉白人様ことめいろまさんがEU離脱を解説した一連のツイートを読むとわかりやすいんですが、都市部のインテリ(気取り?)は、失業率増加や公共サービスの低下を移民増加と直接的に結びつけて理解していることがよくわかります。
移民が多い地域でむしろEU残留支持が多かったことからもわかるように、緊縮財政政策(政府がなるべくお金をつかわない政策)による不景気、公共サービスの低下が、なんとなくのイメージとしての排外主義を加速させるという意味で、経済学の視点からも学ぶことの多い出来事だったと思います。
クルーグマンの言葉を借りれば「欧米が日本の失策から学ばずに、日本よりひどい失策をしたことに対する反省と皮肉」というやつです。今度は日本が失策からきちんと学べるといいですね。
ここはちょっと箸休めです。あんまり関係ないから読まなくてもいいです。
よくニュースなんかでも使われる「財政再建派」という言葉があります。財政再建派という言葉は、財政政策(どこから取ってどこに配るのか)において、増税(特に消費増税)による税収増と緊縮財政を主張する人たちに使われる言葉ですが、すごく誤解を招きやすい言葉だなーと思っています。
消費税を増税すれば、増税した年の財政赤字を減らすことはできますが、消費を落ち込ませることにより不況の原因になります。
15年以上にわたるデフレ不況によって増え続けた国の借金を、単年だけの税収増でどうにかできると考えるなんて無理があって、好景気による税収増を続けていくことでしか財政再建は成功しないと私は考えているので、せめて「増税優先派」とかにしてくれないかなと思ってしまいます。
財政再建すべきという目的は変わらないのに、片方を「バラマキ派」、もう片方を「財政再建派」と呼ぶのはいくらなんでもなぁとよく思います。
さて、リベラルが主張すべき経済政策です。ここまで読んでくれた方はもうわかりきってるとは思いますが、「金融緩和と低所得者層や子育て世帯への財政出動の組み合わせ」です。
現政権の経済政策のアキレス腱は財政政策です。2014年のエントリーにも書きましたが、
雇用を増やして失業者を減らしたけど、それでもまだ失業している人や低所得者層への再分配だったり世代間格差の是正には興味がないのが現政権で、
再分配に興味はあるけどその原資のために景気を良くしたり失業率を下げるための政策を最後まで採らなかったのが前政権です。
金融緩和を継続するということを大声で主張しましょう。投票先のない経済左派が泣いて喜びます。
そーですね!(やけくそ)
私はリベラリズムが好きなので、候補者や政党が何をどう言おうが、候補者や政党が争点を決めることはできないと思っています。
それぞれの有権者が勝手に優先順位の高い争点を決めて、それぞれの優先順位にしたがって投票してしまいます。それでいいと思います。
その結果、全体としては、これまで有権者にとっての優先順位が高い政策は、雇用や福祉、経済でした。これからも変わらないでしょう。
このことは、本来ならリベラル政党にとってはありがたいことのはずなんです!だって雇用を増やして失業率を下げる政策を主張すれば勝てるんですから!!
なんで勝てないんだろう!?雇用を増やす政策を主張してないからですね!!!
雇用が争点になったら困るリベラルって斬新ですね!!!!新しい!!!!!
本当に情けない、悲しいです。経済左派が雇用を最優先に投票先を選んだら、自民党に投票するのがもっとも合理的になってしまうんです。
相対的に一番ロジカルな経済政策を主張してるのが自民党だからです。
しかも、ここまでに書いたように、よりロジカルな主張が存在するのに、私はそれを主張してほしくてしょうがないのに、リベラルなはずの政党たちは逆方向に全力疾走してます。
自民党一強の状況を、右傾化とかそういう言葉に回収して馬鹿にすることに意味があるとはまったく思いません。
自民党も安倍首相以外の執行部は緊縮財政派がずらりと並んでますし、次の総理が経済で失政したら政権交代のチャンスも生まれるかもしれませんね。
それまで寝て待ちましょうか。そのときにはどんな党名になってるんでしょうね、すごく楽しみですね(棒)
ただ、履き違えてはいけないのは、それはあくまで自分のものに対して使う時だけだということだ。
なぜなら、他人のものに対してもったいないという思う感情は、つまり、それを自分がほしいと思っていることを表明しているに過ぎないからだ。
他人が何かを必要としていない、もしくは何かの価値を見いだせず無駄にしている。
そんな時にもったいないと感じるかもしれない。
しかし、忘れてはいけないのは、必要とされていなかろうが、無駄になっていようが、それは他人のものだということだ。
それに対して、ただもったいないとだけ言葉を発すれば、それを欲しがっていると思われても仕方がないのだ。
もしそれを、その人の立場になってもったいないと思えたなら、すべきことはその活用方法を見出してあげることのはずだ。
それこそが本来の「もったいない=無駄にしない」という美徳であり、相手に対する思いやりのはずなのだから。
つまり、ただ人から押し付けられる「もったいない」は、人から価値を奪おうとする体の良い口実にすぎないのだ。
そんな人間にはこう返してやればいい。
「ご心配なく。あなたこそあなただけの特別な価値を無駄になさらないでね」と。
しかも、誰ひとりとして、その才能に活用を見出そうとするものはいなかった。
それほどまでに、日本は他人のことばかりを気にする国民ばかりになってしまったのだ。
これの国は本当に死んでしまったのかもしれない。
性に合ってることに気がついたのでjapaneseを除外する
日本人の声はくどい。気が散る。
でも見た目は日本人じゃないと厳しいんだよな。
今は競泳水着にハマっているので
swimwearとかswimsuitとか適当に検索をかけて探す。
案の定スク水が引っかかって舌打ち。
あのてのエロゲの出来損ないのような演技は何なんだ。全く趣味じゃねえよ。
そんなこんなしつつ、いい感じの動画を見つける。
水着がアシックスなのがいい。触り心地が良さそうでイマージネーション広がる。
乳も揉んだり出したり揉んだり、股を自分で触ったり触らせたり。
スターウォーズの怪物みたいな玩具の件りを経て、関西人はとうとうすっぽんぽんになる。
この辺りで自分はゴムを装着した。ゴムをつけるタイミングは大事だ。
続きを再生。関西人に合わせるつもりで自分のそれを振り続ける。
クライマックス、金髪が四つん這いで胸をプルプルさせながら悶えるなか
関西人と僕はほぼ同時に昇天した。作り物くさい画面のなかの白濁が自分のものにも見えた。
Fine
さてこれで眠りにつけるかな?というと僕の場合そうもいかない。
毛深くなることを恐れた思春期に編み出した、ホルモンバランスへのささやかな抵抗が由来である。
「白いものを出して白いものを取り込むってどうなんだか」とふと疑問に思うこともあるが未だに続けている。
マグカップ二つに合計400mlほど注いだところでパックの中身はきれいになくなった。
明日何かのついでに買うべきだが忘れそうで怖い。何だっけ?牛乳か。
牛乳を飲みつつスマホをいじる。テレビやらTwitterやらざっと見たあと増田を開く。
相も変わらずバカと辛気臭さとちょっぴりの知性でこのサービスは成り立っている。
といっても僕には貧乏たらしいオナニー談くらいしか特筆することがない。
それは僕も馬鹿な奴だから仕方ないことのはずだ。思うままに書いてみようじゃないか。
それにしてもやっぱり春はスク水の季節だよなあ。
そんな疑問が始まりだった。
わたしの周囲にいる人間は何に憚るでもなく感情的になる人間ばかりだった。
嫌なことがあればすぐに嫌だと口に出し、気に入らないことがあればすぐに気に入らないと首を横に振った。
全員がいい大人なのにもかかわらずだ。
それなりの立場にいることもあって、それに周囲が合わせることが当たり前になっていた。
それに、そんな人間なんて適当に合わせてればよいと思われてしまうことにもなりかねない。
そうした態度でい続けられるのも、わたしが周囲との間にはいっていろいろなことを調整してきたからだ。
それが原因でますます駄目な人間になっていくというのであれば、わたしのやっていることは悪だ。
だからわたしは、いちいち相手の気持ちなんて考えないで、思ったことを素直に口に出し行動するようにしたにすぎないのだ。
ところがだ、あれよという間に周囲の人間は更に態度を硬化させていった。
優しく言ってもわからないのだからはっきりと間違いを指摘してやったにすぎないのだ。
そんなわたしに対し、攻撃はさらに激しくなっていく一方だった。
だからわたしの反撃も激しくなっていった。もう譲る気はさらさらない。
今までしていた調整役もしていないのだから、物事の大半はうまくいかなくなり周囲もどんどんとストレスを貯めていった。
そんな環境の中で、1ヶ月もするころにはわたしは疲れ果てていた。
今まで許していた周囲のわがままに付き合うことをやめただけなのだ。
同人活動をやめた。
理由はとても情けないけれど、感想をもらえないことへの無力感だった。
割合で言えば、100冊売っても1件感想があるかないか。書店にも委託していたけれど、感想を一件ももらえなかった本もある。
もちろん当初は感想が欲しくて本を作っているわけではなかった。こんなの萌えると思うんです!という主張をしたい。それが一番の目的であって、誰かに褒めてもらいたいわけじゃなかった。
イベントに出る。本が売れる。嬉しい。最初はただそれだけだった。
けれど、数年続けていればそれなりに反応が気になってくる。
イベントの都度本を出す。幸い手にとってもらえる数も、誕生日席になる回数も増えた。けれど無反応。わたしの話は面白いと思ってもらえたのかな、それともつまらなかったのかな。反応がないからわからない。
ジャンル仲間と話をする。差し入れにお手紙をもらえたという。原稿中は勇気が出るという。
いいなあ。感想もらってみたいなあ。でもそれを表に出すと感想クレクレ厨のような気がして、素直に言えない。
感想が欲しくてやってるわけじゃないんだから、と当初の目的がだんだん言い訳じみていく。
今回もこれだけ売れた、前回の本より初動が少し増えた。つまり前回の本は「もう買うのを止めよう」と思うほど悪い出来ではなかったのだろう。
今回の売り上げ金が前回の感想。ありがたいことのはずなのに、それでも言葉が欲しくなる。
面白かったら一言ください!くらい軽く言えたらいいのにそれもできず、壁打ち上等とも割り切れず、ひとりで勝手に凹んでいる自分は本当にバカだ。こんなテンションで本を作っても面白いものは作れない。そう思って同人活動自体をやめた。
私の中のなんとかさんシリーズというのを見て、自分にとって印象に残っているブックマーカーって誰だろうと考えた時にふとtesta_kitchenさんという人がいたのを思い出した。
はてな批判大好きBOTみたいな人だったけどだれよりもはてなブックマーカーとしてはてな民ぽい振る舞いをしてた。
私は苦手だったけどこの前オフ会で知り合った人はははてな堕ちした姫騎士さんを想像して萌えると言ってすごく好きだったらしい。上級者には可愛い子扱いされていたのだろうか。
とにかくこの人ここ1年ほどみかけなくなって寂しい。
彼のツイッターを見に行ったことがあって東方でエロい絵を描く人らしいことはしっている
見に行ったらあんまり好みの絵ではなかったけれど、はてなとは違ってtwitterではすごくいい人そうだった。
なんで彼はそんなにはてなを使っている時だけキチガイみたいな言動をするのだろうと不思議に思っていた。
はてなブックマークの闇を体現するような人であり、だれよりもはてな村民らしいはてなブックマーカーであった
最近はどうされているのだろう。
絵が上達するかジャンルがぴったりはまって同人で成功してはてなを卒業されたのであれば嬉しい。
有村悠さんが艦これで成功して卒業たことだし、この人も艦これに移って成功されたのだろうか。
testaさんのおかげで
絵師でありながらはてな村にいちいち固執してる人は、絵で成功してないからルサンチマンを抱えてはてなブックマークで憂さ晴らししてるんだな
人と人の間をつなぐ手段として言葉が存在し、それが洗練されたのが文字だ。文章だ。
しかし文章というのは読み手にも(おそらく多くの書き手にも)大きな時間と労力をかけさせるものなので、なるべくならば、文章は書かれるべきではない。短く言いたいことだけを最小限に伝えてくれればいいはずだ。箇条書きだって体言止めだって図解だってよいはずだ。ロジカルピラミッドが重要ならピラミッド形に図解すればいいのだ。
ところが、世の中にはわずかながら、文章を書いたり読んだりすること自体が好きでたまらない人種がいる。こういう人種は、同じ情報を伝えるのであれば、いろんな表現を冗長に何度も重ねたり、関係ない話に脱線したり、場合によっては面白くもなんともないけど文章が闇雲に書かれてあることを好ましいと思ったりする。言うなればグラビアを眺めるかのように文章を読んで楽しんでいるようなのだ。
彼らにとっては文字列や文章こそがグラビアなので挿絵はもちろんのこと、図解どころか箇条書きですら忌み嫌う。文字だけで構成されたペーパーバッグとかが最高で、それば延々と果てしなく続くことが美徳である。レポートが分厚ければ好成績であり、本が分厚いほど権威があり、ページ数があるほど値段が高くても喜んで買うのだ。
そんなふうに文章を読み書きすることが好きな人たちが、勝手にシンジケートをつくって内輪で遊んでいてくれればいいのだが、困ったことに、文章力がある人は、世の中の情報を勝手にまとめ上げたり、上から目線で解説したり、さらにはおまえら文章を読み書きできない愚民は俺の考えに従えというような主張をして、それが政治的に合意されるように働きかけたりする。
情報を伝えるのは、文章を読み書きすることに苦痛が伴うことを知っている人だけにしてほしい。社会の大多数は、文章を読み書きすることが大変なのである。文章を書くことが人間の最低条件として要求することをやめてほしい。重要なのは情報を伝えることのはずである。