トランプ政権に対する一部の過激なデモ行為によって、左翼の本性が明らかになったと言う人がいた。
でも、同じことはたくさんの人について言えると思う。
最近(昔からそんな人はたくさんいると思うが)、他人の意見に対して過剰なまでに攻撃を加える人が多いように思う。
その人の中では自分は正義であって、相手は悪であるから、自分の行為は正当化されるとでも思っているようで、質が悪い。
だけど正義というものは相対的なものであって、人によって違うのだと思う。
たとえば、人工妊娠中絶は殺人なのだろうか。換言すれば、お腹の中の赤ちゃんは「人」なのか。色々な考えがあるはずだ。
「正義」なんていうものは、その人がこれまで経験してきたことや、その人の政治的・宗教的信念などによって作られるものであって、極めて個人的なもののはず。
他人が胸に抱く「正義」を受け入れる必要なんてないけれど、自分の中にある「正義」が絶対的なもので、それを他人が受け入れてくれる(あるいは、受け入れるべきだ)なんて勘違いをしてはならないと思う。
民主主義の制度は、そういうことを前提に、人々がお互いの意見(そして、ひいては人権そのもの)を尊重し合うことができるようにするための、一種のツールといっても過言ではないと思う。
それなのに、どうして過剰なまでに他人の考えを否定し、相手を攻撃する人が多いのだろう。
自分にとって身近な問題としては、「法科大学院の存続問題」がある。
全国に法科大学院が発足し、旧司法試験が廃止されてから久しいけれども、法科大学院は廃止すべきだろうか。
ここでも、色々な考え方があると思う。法科大学院には、良い面も悪い面もあるはずだ。
ただ個人的には、法科大学院には是非とも存続してほしいと願ってやまない。
詳しい理由については割愛するが、法科大学院での日々は楽しかったし、学部では経験できないこともたくさん経験できた。
タイムマシンで昔に戻ることができたとしても、私はまた法科大学院に入学したい。
少し大げさに書いてしまっただろうか。それはいいとして、こうした意見が存在することすら許せない人たちがいる。
彼ら(彼女ら)はたとえば、「どうせ教授に書かされているんだろう」とか、「法科大学院関係者が自画自賛しているだけだ」などと言うのである。
たしかに、私の考えは個人的なものであって、それがすべての人たちに妥当したりなんてしない。
だけど、同じことは彼らの意見にもいえる。
こうした意見の相違は、ただ単に、法科大学院のことを好きな人もいれば、嫌いな人もいるというだけのことのはず。
どちらの意見も、正しくもなければ、間違ってもいない。
あるべき議論の方向性は、ただ一つのはず。そうした意見が混在する中で、お互いの意見を尊重しつつ、みんなにとって最善の答えは何であろうかを議論することなのではないかな。
間違っても、自分だけが正しいと信じて、自分の考えと相容れない人たちを頭から否定したり、攻撃したりなんてしてはならないと思う。
法科大学院出てるなら、さすがにもう少し論理的な文章書いた方が良くないですか? というかこれで弁護士とか目指してるのかと思うと軽くゾっとする
安心しろ。 そんな奴は落ちるから。
どうして過剰なまでに他人の考えを否定し、相手を攻撃する人が多いのだろう。 こんなことさらっと書いちゃってるけど 否定や攻撃が適切なのか過剰なのかはどういう基準で決まるの...
トランプに対するデモ活動で本性が明らかになったとか言っちゃう時点でお察しだよね。
どっちかと言うと、そういう「自分が悪と認定したものに対しては何を言ってもいい」とか、 自分と異なる意見が存在すること自体否定してかかろうとする姿勢とかって、 左翼の側によ...