はてなキーワード: ことのはとは
https://www.gamespark.jp/article/2019/01/10/86544.html
食品擬人化キャラが店舗経営をするだけの全年齢萌えゲーなのに複数回にわたって理由の通知なくリジェクトされ、最終的にキャラの外見年齢をほんの少し上げたら通過
「児童労働」が宗教右派の怒りに触れたのではないかと噂されているが推測にとどまる
このルールはまったく一貫しておらず、審査員ガチャの運が悪ければ健全萌えゲーでもアウト、運が良ければ露骨なエロゲーでもセーフと悪名高い(なおエロ自体はSteamでは認められている)
https://techraptor.net/content/the-expression-amrilato-steam-release
最近の日本産ゲームだと「ことのはアムリラート」(エスペラント語と百合をテーマにした全年齢ノベル)が審査上の謎の理由によりSteam版のみ一時無期延期
「"マイノリティの性的消費"だと通告されたがまったくばかばかしい。そんな内容は含まれていない」「昨今の審査プロセスはますます不可解になってゆく」と海外パブリッシャがコメントして賛同の声が集まった
その後無事無変更でリリース
Google Playの例では、このポップな絵柄のゲームが「一番右のキャラの胸にほんのり谷間が描かれている」を理由に突然販売停止
挙げられている例文は文法的に正しくないものの,そこまで否定されるものではないと思う.
なぜなら,文法的正しさは言葉の適切さを評価するための限られた一側面でしかないから.
鉄道の車内アナウンスの場合,言葉の適切さを評価する観点には,例えば,文の短さ(簡潔さ),敬意の表現,文法的正しさがある.
これら全てを完璧に満たす文を作るのは難しい.
結果,重視する条件によって最適な表現は異なる.
※敬意あり/なし
1文目「怪我につながる恐れ」は,普通体を使用している(敬語でない).
「客観的事実として」怪我人が発生することを恐れている,つまり,例えば鉄道の遅延や乗務員の対応コストなど,鉄道会社の不利益が生じて欲しくないという含意が相対的に強い.
これに対し,2文目「怪我をされる恐れ」は尊敬の「れる・られる」を使用している.
「聞き手である乗客個人が」怪我をすることを恐れている,つまり,乗客自身に不利益が生じてほしくないという含意が相対的に強い.
また,この乗客への敬意を文法的に正しく表現しようとすると,例えば3文目のようになり,文が長くなってしまう.
要するに,文法的正しさ以外の観点も考慮すれば,上述の候補文は,全て一長一短がある.
一方で,(例え文法的に正しくなくとも)全ての文で,その意味は推論可能であり,使用可能である.
実際,車内アナウンスの内容は事前にある程度予想がつくだろうから,極論すれば「携帯,ゲーム,トラブル,怪我,禁止」という単語が含まれていれば,おおよそ言いたいことはわかってしまう.
その上で,この鉄道会社は,おそらく文の簡潔性を重視している.
鉄道の乗客は,必ずしも車内アナウンスに傾聴しているとは限らず,周囲の乗客との距離感,手元の端末,降車後の予定などに注意が向けられていることの方が多いだろう.
「丁寧な印象で,かつ,聞き取りのための認知負荷が小さいアナウンス」を追求した結果,文法的正しさが犠牲になり,このアナウンス文になったのではないか,と思う.
話し言葉とは音声で伝わる言葉,書き言葉とは文字で伝わる言葉とする.
話し言葉と書き言葉の差は,自由に聞き直せる/読み直せるかどうかと,記録として機能するかどうかだ.
話し言葉はその場で消えていく空気の振動だ.だから,一つの発話を聞き終えた時,自由に聞き直せない.また,録音しなければ,記録としても機能しない.
書き言葉は文末まで読んだ時,文頭に戻って読み直すのは自由だ.また,論文や本など,記録として機能することが多い.
話し言葉は発話を聞き終えた瞬間に十分理解されることが望ましいので,簡潔性が重要だ.
一方,記録として機能する書き言葉は,その内容の正確性が重要だ.書き言葉は読み直せるので,多少簡潔でなくても問題は生じにくい.
つまり,話し言葉は,書き言葉に比べて,正確性よりも簡潔性が重視されやすい.
私たちが後に学校教育で書き言葉(文法規範)を習うのは,自然に獲得される話し言葉と比べて,要求される条件(例えば,正確性)が異なるからだ.
ただし,教育が規範を与えるからと言って,話し言葉が,あらゆる場面で書き言葉のようであればあるほど(文法的であればあるほど)正しい,ということは意味しない.
なぜなら,上述のように,話し言葉と書き言葉では要求されるものが違うからだ.
もっと言えば,話し言葉/書き言葉の違いに限らず,言葉が使用される一つ一つの状況次第で,要求される条件は全く異なるからだ.
敬意を表現する,親しみを表現する,簡潔に表現する,微妙なニュアンスをほのめかす,話者の印象を制御する,など,言語の使用の際に要求される条件は無数にある.
文法的正しさを犠牲にした時に,替わりに有益なことが実現できる場合もある.
例えば,散文詩や広告のキャッチコピーに対し「非文法的だ」と非難する人は少ないだろう.要求されるものが,文法と異なることが自然に理解できるからだ.
同様に,バスのアナウンスは,文法的であるよりも簡潔であることが求められる状況だった(と判断された),というそれだけのことのはずだ.
正確な表現は長くなりやすく,状況によっては,聞き手に過度な認知負荷を要求する.
正確に,書き言葉のように話す人は,状況によっては,聞き手の認知負荷の軽減よりも,自分自身が「正しい」ことを優先しているとも捉えられかねない.
このため,「他人より自分を優先しそうだ」「他人の間違いにもうるさそうだ」「間違いを指摘したら面倒そうだ」といった印象に繋がる可能性がある.
身の回りの非文法的な表現を,単なる文法能力の欠如による産物と決めつけるのではなく,
何らかの合理性に基づく可能性のある産物として受け止め,どういう目的であえて文法を破っているのか,という背景に対する興味と想像力が必要だ.
ワンクッション。
俳優Sくんと私との出会いと私の思いを綴っただけです。各方面に配慮はありません。
登場する友人とはリア友で、Sくんファンでもありますが最推しは別の俳優さんです。彼女に頼まれ、この文章を公開することを決断しました。名前や日付は操作していますが内容は事実です。もう一度言います、各方面に配慮はありません。
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普段そんなにテレビを見ない私が偶然目にしたのは、某芸能事務所の若手俳優グループ結成記者会見だった。なにこれ?私のタイプのイケメンがいっぱい並んでるんですけど?!とTwitterで呟いたところ、友人からLINEが飛んできた。「それ私の推しいるんだけど、今度の初イベント行かない?」なんかよく分からなかったし知らない世界だったが、彼女の誘いならと同意した。
事前にネットで調べて、メンバーを確認した。舞台や特撮に出ている人気俳優さんもたくさんいたが、私にとっては知らない俳優さんばかりだった。ただ顔写真を眺める中で、すごく顔がタイプの俳優さんがいた。S、と名前があった。デビューしたてで実績はないようだが、なぜかフロントメンバーにいた。彼をチェックしてみるかと軽い気持ちで、私は友人と共にグループの初イベントに臨んだ。
初イベント当日。Sくんは慣れていない様子で、ほとんど喋らなかった。先輩の俳優さんがいっぱいいたからかもしれないが、マイクのないところで仲のいい俳優さんと話したりしていて、あまり前に出ることはなかった。こういうの好きじゃないんだろうか。芸能人向いてないんじゃないだろうか。そうとさえ思った。正直、あまり印象はよくなかった。
その日は終了後にハイタッチ会があり、私はSくんのターンで思い切って声をかけた。「めちゃめちゃイケメンですね!」時間も短かったし、そんなようなことを言ったと思う。彼は苦笑いのような微妙な表情を浮かべた。ただそれだけのことだった、彼だってデビューして初めてのイベントで慣れていなかっただろうし疲れていたのかもしれない。私の声のかけ方がいけなかったのかもしれない。でも私はすごくショックだったし、怖かった。
いつの間にかグループのファンクラブに入っていた私、友人に連れられ2ndファンイベント。Sくんは前回よりも慣れてきた様子で、笑顔が見られた。先輩俳優との絡みも増え、特技のギターや歌の披露も前回より緊張が少ないように見えた。
そして客降りの時だった。隣りの友人が手を振ったとき、Sくんはこっちに手を振り返してくれた。2人でびっくりしたし、すごく嬉しかった。だが私は前回の恐怖が拭えず、ハイタッチ会では彼に何も声をかけることができなかった。
そして3rdファンイベント。事件はおこった。よくあるオタクの勘違いだよと言われるかもしれない。でも少なくとも私と友人の2人の中では確信している大事な思い出だから、許してほしい。
それはサインボールを客席に投げ入れるコーナーだった。私達は運良く割と前方の席で、運良く斜め前辺りにSくんが立った。私達はSくんに手を振った。Sくんは私達を見てくれた。そしてこっちに向かってボールを投げてくれた。軽いボールは惜しくも私達から少しズレたところに落ちた。ドンと響くような悲しみをこらえSくんの方を見ると、彼は私達に向かって、ごめんねというように手を合わせた。私はボールを取れなかった悲しさよりも、嬉しさで泣きそうだった。もちろん彼は私達のことなんか覚えていないだろうけど、私にとってはあの1stの彼がここまでしてくれたことが感激だった。
その日のハイタッチ会で、私はまた思い切って声をかけた。「めちゃくちゃかっこいいですね!応援してます!」彼はありがとうと、今度はさわやかな笑顔を返してくれた。
その後もSくんの初舞台となるグループの旗揚げ公演を見に行ったり、(事務所のやり方が最悪で密かにボイコットしたこともあったけど)ブロマイドやグッズを買ったりした。だが無名の彼の露出は多くなかった。彼はSNSをあまり更新しないタイプだったし、私はもっといろいろなSくんの姿を見たかった。早く現場でSくんに会いたかった。早く売れて有名になってほしかった。
そんな中で発表されたのが、とある人気2.5次元舞台への出演決定だった。本当に驚いた。原作はほとんど知らなかったが、彼の役が人気キャラであることくらいは知っていた。発表のときにみんなが「誰?!」となっているのを見て、「見てろよ」と私はニヤニヤした。
それから必死で原作を勉強してチケットを探した。運良くお譲りいただけて公演を見たとき、あのSくんがこんな大きな舞台で輝いているのがとても嬉しくて誇らしかった。歌の上手いSくんの声がイベントホールではなく劇場に響くのがとても嬉しかった。iTunesやCDで彼の歌を聞けるのが、雑誌に彼の名前と姿が載るのが、とても嬉しかった。
Sくんは続編の公演へも同役で出演が決まっていた。最速先行もFC先行も落ちて伝手をたどり、友人と2人、なんとか劇場にたどり着いた。だが観劇の前にもまた戦場だった。ランブロ文化は滅びろ。人気キャラを引き当てても、彼演じるキャラのブロマイドとの交換がとにかく見つからない。選べるタイプのグッズもまず彼のキャラが完売。うそだろ。比べるのはあれだが、原作ではもう一人のキャラの方が人気だった。そのキャラを演じる俳優さんも、Sくんより歴もファン数も圧倒的に上なはずだった。私は既に泣きそうになりながら野口英世を羽ばたかせた。
もちろん劇はとても楽しかったが、ここでは感想を省かせてもらう。
最後の客降りだった。Sくんは客席に降りずにステージ上だった。そして私は彼が板の上から最前列に紙吹雪を振りまくのを見た。私は3階席で泣いた。彼がとても遠くなってしまったようで、堪えきれなかった。お芝居を見にきたのであって、こんなことで泣くのはおかしいと思った。劇場に入れなかった人もたくさんいるはずなのに泣くのはおかしいと思った。でも耐えきれなかった。
オタクとしてこんな真っ黒な気持ちになったのは初めてだった。Sくんには売れて有名になってほしいと思っていたし、思っている。でも売れないでほしいと思ってしまった。なんでこんな人気キャラ役なんだとも思ってしまった。彼が売れて人気が出ることはファンとして喜ばしいことのはずなのに、純粋に喜べなかった。そんな自分に自分でショックを受けた。こんなことを思ってしまうなんて、ファンとして恥ずかしいと思った。 いやファンを名乗ったらいけない気がした。
今の私は3rdイベの思い出にすがり、デビュー最初のイベントのブロマイドを持っていて、初舞台の初日を見たという事実を振りかざしてマウントを取りたがる、真っ黒なオタクでしかない。
それでも私は、ちょっとマイペースでコーヒーはブラックが好きで温度低そうだけど熱いものを持っていてぱっちり二重な彼が、やっぱり好きなんだ。
アーティスト志望だったはずがなぜ2.5次元なのかという疑念もある。Sくんが本当にやりたいことができますように。心や体の調子を崩したりしませんように。いつか彼名義のCDを買える日が来ますように。そう願う気持ちだけは純粋でいたい。事務所さん頼みますよ。
誰かに好かれることって本来嬉しいことのはずなのに、自分が尊敬したり気になってたりする人が露骨にこちらに好意を示してくると興ざめする
この程度なのか、と極めて身勝手な失望を覚えて自然と心の距離が開く
歳上なのに好意のチラつかせ方のハウツーも持ってないとすごくがっかりする
好意を示せばそれだけで相手も好意を示すと考えるのはずいぶん幼稚な恋愛観じゃないか?
生き方とか考え方とか、そういうところに好意を持てないと一時の好き嫌いだけじゃ大人は一緒にいられないだろ?
いきなり全部奢ったり特別扱いしたり、そういうこと(好意)で相手の気持ちを釣ろうとするのは大人じゃない。今までの人生で何を学んできた?
…まあ、求めすぎなんだよな。俺が相手に。
少し考えてみた
去年の今頃までは、遊びの予定が立ったら、たとえ締切日まで余裕があっても、レポートをそれまでに終わらせることができていた
確かに今はめんどくさいが、その日は気兼ねなく遊びたい
先の報酬を考えて行動することができていた
今は、締切日の前日になって終わってなくても、徹夜すらできない
終わってない いいや 出さんでも
そう思って、目先のめんどくさいに気を取られるばかり
どころか、一文字も書いてなかった
でもなんでかよくわからないが
書けなかった 書くことは決まっているのに
ずっと好きなことがあった
大学に入って、多少頻度は落ちたが
それでもテストやレポートから解放されて真っ先にやりたいと思うことはそれだった
でも、それはマイナスではなかったと思う
何かそれの他に、一生懸命打ち込むことがあったのはよかった
でも最近、好きなことのはずなのに、やってても全然楽しいと思えなくなってしまった
以前は確固としてあった理想形が全く見えなくなってしまっていることに気が付いた
周りの人々にも恵まれた
友人も、決して多くはないが、素晴らしい人々に巡り合えた
共通の趣味を持つ友人は、大学に入ってからほとんどできなかったが、特に苦ではなかった
もともと、趣味を他人と共有したり、趣味をコミュニケーションの道具にすることが好きではなかったからだ
一人で楽しみたいタイプだった
剥き出しの悪意に晒されたり、理不尽に踏みにじられたりしたこともない
誰しも人見知りな私のことを認めてくれた
もしかしたら、表面的な付き合いなのかもしれないが、
それでも、私は他人と接していて、他人によって、嫌な気持ちになったことがない
私の知り合いに、両親、友人知人、バイト先の人々、教師から病院の先生に至るまで、悪い人は一人もいなかった
みんな親切だった
自分で言うのもなんだが、私は世間から見れば非常に恵まれた位置にいると思う
思春期の少年らしく、容姿については相当悩んだが、今はさほど気にしていないつもりだ
自分にはまるでやりたいことがない
焦った
とりあえず並行してどちらの準備もしたが
色々調べたり、友人と話すうちにその焦りがどんどん自分の頭を食っていった
みんなやりたいことがある
もしくは明確でなくても、ちゃんと方向性を定めて、舵を切り始めている
少なくとも、『ある』フリをして、
やりたいことは何だろう
興味があることは?
関わりたいことは?
やりたくないことは?
好きなことは何だ?
将来何をしていたい?
何が欲しい?
でも、誰にも相談できなかった
なんだこいつ、まるで中身がないと思われるのが怖かったんだと思う
このころから、夜になってひとりで部屋にいると、涙が止まらなくなることが増えた
部屋にいると、どこまでも自分で、自分しかいなくて、自意識に押しつぶされそうになる
声をかけてくれる人はいなくて、気を紛らわしてくれるものもない
ネットを見ればキラキラして一生懸命な自分より若い子ばかりでつらい
結局誰にも相談せずに、まだ働きたくない、この気持ちだけで進学を決めた
勉強するうちにまた気持ちも定まってくるだろうという甘い気持ちがあった
けど、ちゃんと、興味ある分野が見つかった
夜になると涙が止まらないし
そしていま、やりたいと強く思うものがついになくなった
どうすればいいんだろう
誰かに話せばきっと呆れられる 早く人生をどうにかしなきゃ、そう思うけど、体が動かない
今日はついに、大好きな先生の授業を初めてさぼった 最終回なのに
悩みのないふりをして、ほとんど自分の中で消化してきたし実際できてた
それで問題なかった
だから、4月から今まで意味もなくほぼ毎日泣いてるけど、誰にも言ってない
恋人にも親にも友人にも言ってない
わかんない、こういうこと言うと、同情をひこうとか、健気アピールに見えてしまうのかもだけど、本当に、
ひとりじゃないときは、飄々として、何も考えていない人っぽくあろうとしてる
不真面目で、明るくて、てきとうで悩みのない人間を演じている、つもり
というかそういう人間だと自分でも思い込んで、それで悩みを消化していたんだろう
でも、そうやって問題の根本的な解決をせずに逃げてきた、その負債に今苦しめられてるんだろうな
確かに悲しかったけど、つい最近まで、この出来事が自分の今に影響してるとは思ってなかった
なんでかっていうと難しいけど、弟が亡くなってからも両親は今まで通りに接してくれていたし
学校も少し休んだけど、すぐ復帰した
それまで通りの日常はすぐに戻ってきたし、何より自分は幼かったから、あまりわかってなかったもんだと思ってたのかも
何より、それから十数年生きてきて、それによる自分の不具合は一度もなかったから
だけどよく考えたら、事故現場に私もいたし、そのあと友達の家で私だけ一時待機でご飯食べてたのも、
お母さんが「頑張ったんだけどね、」って迎えに来たのも、
棺を飛行機に乗せるために木板でまわりを固めてるのを見て可哀想って誰かが言ってたのも、
謎にガラス張りだった葬儀場の周りにいた野良犬も、幼稚園の同級生が来たお葬式も、
全部覚えてる 小学校低学年以前の記憶がほとんどないのに、そこだけ鮮明なのは、やっぱり強烈な記憶だったからだろう
それに、弟が亡くなってから私は一度も両親の前で泣いていない
これだけは断言できる
当時発症してた小学生特有の謎の天邪鬼の影響も多少あると思うが
今までの日常を失いたくないという一心で、何も気にしてないフリをしなきゃ、と思ってたのかもしれない
自分さえ我慢すれば、自分がちゃんとすれば、すぐに日常が戻ってくると考えていたのかもしれない
まあ正直この辺の思考回路は今の自分と照らし合わせて想像したものだから、本当のところはわからない
ただ自分がもともと、感情をむき出しにしている人間に出会うとかえって冷静になってしまうタイプの人間だった、というだけかもしれないし
この経験が今の、人に相談事をするのが苦手で、自分の中で決着をつけようとする自分につながっているのではないか、ということ
今現在の無気力代謝マシーンであるゴミ人間の自分まで、この経験に帰結させようとは思ってないけど
こういう不可避の経験に無理やりでも結びつけないと、やってられないです どーしよ
友人たちとの飲み会。あれこれ事前に話したいことに思いを巡らせていたせいか、思惑と違うことに僅かな戸惑いを感じながらも二次会まで楽しく騒いで過ごした。
明くる朝は祭りのあとの最悪な気分でベッドにしばらく横たわっていた。人とあって話せば話すほど孤独感が増す。それぞれの考え方とそれぞれの人生があり、みんなが肯定的に生きていることは喜ばしいことのはずなのに、寂しさや期待はずれを感じている。視線は随分と離れて、すれ違ってしまった。
結果でしか理解してもらう材料を提供できない。当たり前だが、そうではないことを期待してしまっていたのだろう。だからこそ孤独なのだ。依存がなく、互いに独立して成立しているのだから。六本木のプログラマ風のサラリーマン同士の食事中の会話に感じるよそよそしさと同類のものだ。
一人の人間として自立すればするほど、友人や仲間との付き合いがつまらなくなるのかもしれない。相手が退屈なのではなく、依存が無さすぎるから。
生活や仕事や仕事に関する考え方は相当に独立し自立してしまったが、対人に関してはあまり変化なく、依存的な態度のままなのだろうな、自分は。それが自分にとっての面白さの要なのか。
馬鹿がびっくりするほど多かった。
地方の元炭鉱町ということもあってか、基本的に知的水準が低かった。
そもそも授業が妙だった。
8歳の頃はひたすらエジプトの歴史と文化を習っていた記憶がある。
その時ですら「なんでエジプトなんだ。もっと他に順を追って習うことあるだろ。自国の歴史とか。」と思ってたけどひたすらエジプトだった。未だに謎だ。
算数は進捗別に何班かに分かれて、プリントが配られてそれを解くという方式。
どれも簡単なのだけれど山程問題があるので時間内ですべて解きることのはできなかった。
クラスの4分の1くらいが所属する一番下の班はもちろんまだ四則演算だ。
パソコンの授業もあったが、授業というよりパソコンに触れることがメインだった。具体的にはゲーム。
原始的なエアシュミレーターと、文字入力で進めるアドベンチャーゲーム。一台しかないので時間制限あり。
生物の授業はビデオを見て感想を書く。内容は面白いのだけれど、難しい英単語が多くて理解に苦労した。
自分は英語の勉強を一切させられずに地元の学校に放り込まれたのでコミュニケーションには難儀した。
言葉が通じないので、異邦人へのちょっかいには暴力で返す。泣くまで蹴る。親が何度か呼び出された。
それでも最終的には友達が何人もできた。英語は大して上達しなかったけれど。
あの年代の男子はみなフットボールの上手い下手でカーストが組まれていた。
フットボールの上手なやつは上位カーストで、それ以外の価値はあんまりなかった。
女の子も馬鹿だった。学力的には男よりも馬鹿だった。ときどきパンツを見せて見た男子をからかっていた。
その割に実際のエロいことには奥手で、実際女子に対してパンツを覗くなどのエロ行為を働くと友達から英雄視された。
キリスト教的な性に対する教育が家庭で行われていたのかもしれない。
教会の息子も友達にいたけれど、平均よりも少し頭が良いくらいで、まあ馬鹿だった。
「僕は大人なったら父のあとを継ぐよ」と言っていたけれど、あの程度でなんとかなるものなのだろうか。
中国人の子供の一人は算数がずば抜けてできるらしく、飛び級していた。それを全校生徒の前で褒められていた。
気のいいやつもいたけれど、話をすると周りからシカト対象になるのでほどほどにしていた。
性格の穏やかなユダヤ教徒とやつと仲良くして、他の生徒との橋渡しをしたら先生にえらく褒められた。
当時は宗教的な価値観がわからなかったので「あいつはジュー(ジュイッシュ)だからやめとけ」という友達の言葉の意味がわからなかった。
まあ言った本人も何がダメなのかわかってなかったと思う。聞いても回答がなかったから。たぶん親から何か言われたんだろう。
家も裕福だったし、あの調子ならたぶんフットボール選手になっただろうと思って検索してみたらチーム所属中に性的スキャンダルを起こしていた。
彼らは今や30代半ば。
とは言えそれを言及するほど踏み込んだマナーでもなく当たり前のことのはずですが、
昨年、漫画原作の某2.5次元舞台でそういう腐女子を見つけてしまい、肝心の舞台が全く楽しめず、途中で帰りました。
当方が過激派固定で、向こうが逆カプだったという私怨もあるかも知れませんが、
2.5次元とは言え公式の場で、同人グッズを持ち込むのは当たり前にルール違反だと思います。
昨今のノベルティやグッズはお洒落で、普通に使えたりもしますが、
オタクじゃなければ気付かない、と言われればそれもそうですが、
そのために若くやりたいことがたくさんある時期に節制しまくることになんの意味があるのだろう。
たらればだけどさあ。
定年したときに、全く貯蓄がないのはさ、だめだとは思うよ。でもさ、年収ベースが下がってて、税金やら物価は上昇、終身雇用が形骸化して退職金に頼りきれる保証もなく、金融商品を取扱う会社がばったり倒れることもある、こんな世の中で老後に何千万の貯蓄を!なんてさ。
悠々自適のために若いうちに我慢しまくらなくてはいけないって、ひどくない?
つらくない?
たぶん、近い将来定年制度がなくなったり、緩和されたりし、老人雇用枠をひろげて「働けなくなるまで働く」という選択肢もできるのだと思う。
「演歌は創られた伝統」というのは要するに、「演歌はニセモノの日本の伝統だ」ということですよね。
「ニセモノ」というのは、「ホンモノ」があるから成り立つわけです。ホンモノが明確ではないのであれば、ニセモノも明確ではないということになる。
だとすると、
これは正しい。
まずそもそも「日本」という単位自体がナショナリズムそのものといっていい。
ゲルナーは『民族とナショナリズム』において"政治的単位と民族的単位を一致させようとする政治的原理"をナショナリズムと捉えた。
肯定する場合でも否定する場合でも主語を日本にしてしまうとそうなる。
国家及び民族を主語にして語る時点でナショナリズム的と言っていい。
ということを自明であるかのように語る人がいっぱいいるけど、全然自明じゃないです。
もし仮に、日本は古来から文化的に排他的で海外のものを寄せ付けなかった、とかいう歴史的事実が存在するのであれば、
「演歌はもともと西洋音楽だから日本の伝統ではない」というのは正しいと思います。
箏も三味線も、もともとは海外のナウい楽器だったし、雅楽ももともとは海外のナウい音楽ジャンルだったわけす。
仏教がインド発祥だということはだれでも知ってることのはずです。
当該社会集団が何を選択的に残し、何を排除したか。何をナウいと考え、何をダサいと判断したか。
そういった当該社会集団による意図的な選択の連続としての受容史を単なる伝播、自然淘汰と読み違えている。
また、楽器で例えるなら韓国の伽耶琴と日本の琴は全く違いますよね。
文化は伝播してもそのまま伝わるわけではなく、ある種の選択と判断が生じている。
雅楽だって日本と韓国は昔ながらのスタイルのままだと主張しているが、実際には微妙な違いがある。
その価値判断を伝統の名の下にくだすのがナショナリズム的言説でしょ。
たとえばですよ、
正月によくかかる「春の海」という曲はたいてい「伝統音楽」の棚においてあります。この曲は洋楽と邦楽のハイブリッドです。形式的には完全に西洋音楽です。
だから、
という意見もあるわけです。
で、このふたつのどちらが客観的に正しいかということを実証することは不可能です。人それぞれ価値観が違う、としか言いようがない。
いやそもそも音楽学者で《春の海》をそういった視点で分析する奴は今日びいないです。
伝統かどうかというのはもはや何の問題提起にすらならないんですよ。
なぜならその枠組み自体が幻想だという前提で読むからね、まともな音楽学者は。
「伝統」とはなんなのか、「日本」とはなんなのか、「音楽」とはなんなのか、
とういうような哲学的な問いにきっちり答えないといけないはずなんですよ、もし演歌はニセモノだと言いたいのであれば。
「創られた伝統」という概念と「創られたわけではない伝統」という概念は、どこがどういうふうに違うのか、
ということを哲学の問題として、きっちり論理的に説明しなきゃいけないはずなんですよ。でも、そんな作業してる音楽学者なんていないですよね。いたら教えてください。
とっくに議論されています。伝統の創出についてはホブズボウムがまず前提。
ヘルダー、ダールハウス、タラスキン、ヴィオラ、リーマン、リッサ、アドラーも読んでどうぞ。
特に19世紀のヨーロッパはナショナリズムと芸術の関係が盛んに論じられていたので、
この分野の先行研究として学びがある。ロシア、スペイン、フィンランド、ハンガリーなどなど。
繰り返すけど伝統って自然に生じるものではなくて、外と相対化されて初めて気づくものだし
割と最近はテレビやラジオが地方の地方性を駆逐したのではという話もあって面白い。
北海道も沖縄も、東京の発信する音楽文化に染まってしまったという話で、
それが国家の音楽、民族の音楽だと大衆に勝手に読み替えられているという話ね。
音楽って人間の社会性そのものだよねってのはブラッキングの『人間の音楽性』の指摘だが、
あれ、演歌の話どこいった。
・なんかちょっとアメフト他コンタクトスポーツの実情を知ってる人とそうでない人の間に乖離がありそうなので書いてみました。
・といっても一部リーグでバリバリやってるようなチームではないです。
・そこそこ真面目にやってたつもりですが僕自身はド下手くそでまともに試合でたことがなかったぐらいです
・アメフトに関してはルールをそこそこ知っててテレビでやってたら見る程度です。アイシールド21は好き。
まあーーーなんていうか荒っぽい人が多いです。もちろん全員じゃないですが。
今回取り沙汰されている「最初のワンプレーで○○を潰したら試合に出してやる」なんて、
まぁ僕も言われましたよ。
まして日大フェニックスなんて群雄割拠のチームでレギュラー争いに居る選手なら言うし言われるし割と当たり前に飛び交う言葉だと思います。
その良し悪しはまた別として。
なんで、
撤回された元監督の「あのぐらいの気概がないと勝てない」発言とか、
会見後に出てきた「潰せというのは強く当たれという意味でよく使う言葉」というのは、
失言や言い訳でもなんでもなくその時点では当たり前のこと、ただの本心だったんだと思います。
チームの雰囲気はもしかしたらよくなかったかも知れないですが、
それ自体が問題となって取り沙汰されることはまず無いと思います。たぶん他のチームでも言ってるだろうし。
じゃあ何で今回は問題になったの?というと
「選手がルールを破り、監督やコーチがそれを容認してしまった」
これに尽きると思います。
直接殴りあう格闘技に至るまで、
「ルール無用で相手をぶちのめしていい」なんて競技はありません。
(NFLクラスになると化け物しかいないのでルール無用に見えますが・・・)
なので、反則行為に至ってしまった彼は、ルールの中で正当に相手を「潰す」べきだったし、
仮に間違った行為に至るような指示をしてしまったとしても、監督やコーチはルールを逸脱してしまった彼を強く嗜めるべきだったと思います。
確かに口の悪い人なんかは「相手が怪我して出れなくなったらラッキー」みたいなことを言う人もけっこう居ます(僕は嫌いですが)。
ただ、逆に、ルールを守っている以上は
「これは相手が怪我するかもしれないな・・・」と思って手加減することは
まず無いです。
なぜなら重篤な事故や怪我を起こさないのが大前提としてルールが組まれていて、
またそうならない為にプロテクターを着けているんです。
「今のファールじゃねえのかよ!」って。(※審判に対する暴言はダメですよ)
今回の彼がやってしまったプレー、
仕方の無いこととまでは言いませんが、
「厳しい状況下でアメフトをプレーしている選手なら起こりうること」
また、監督やコーチの「潰せ」という指示やそのほかの厳しい発言も、
その時点ではそこまで問題ではなかった・・・とまでは言いませんが、いちいち取り沙汰されることではなかったのかなと思います。
ただ、ルールの中でやらなければいけないことは絶対条件ですから、
普段から「クリーンなプレーを心がけよう」という意識付けをチームとしても個人としても徹底する
(パワフルなプレーをしない、の意味ではない)のは絶対ですし、
万が一もしそれを踏み越えてしまったのであれば、
「指導が至らぬばかりに申し訳ありません」と選手ともども即座に相手に謝罪をしにいくべきです。
そうしていれば関学の選手や世間もここまで噴き上がることはなかっただろうと思います。
おそらく、元監督他は「相手もそういうこともあるかもしれないし許してくれるだろう」
それでも、関学は即座に被害届を出すことはせず、まず詳細の説明と謝罪を求めました。
おそらく「なんらかの事情や行き違いがあったんだろう」と同じフットボーラーとして日大にチャンスをくれたのです。
ここで「我々の指示や指導が良くなかった、プレッシャーのあまりやってしまったことで本人も反省している、申し訳ない」と素直に謝っていれば、
まぁせいぜいスポーツニュースで好き勝手言われるだけで済んだでしょう。
元監督他日大首脳陣は保身と揉み消しに走り知らんぷりを決め込んでしまいます。
なんなんすかね。謝ったら死ぬ病気なんですかね。
ていうか保身が透けて見えるくせになんにも守れてないのウケる(真顔)
日大の彼も「えっ被害届出されてんのに大学に見捨てられたら俺だけ悪者じゃん」ってなります。
(まして会見の内容からして「お前は悪くない、我々の指示だ」といったようなことをコーチから言われていたようです。
守ってくれると宣言した相手にいきなり手のひら返されたらそりゃ自己防衛に走ります。)
結果、選手本人が異例の顔出し謝罪会見となるに至ったんだと思います。
(関学の選手側の対応からも彼一人を司法の場に出すことは望んでいないように思います。)
が、それ自体は彼個人とチームとして、誠意ある対応をしていれば、
ところが実際の大学の対応は誠意どころか切捨てと保身に終始するという最悪なものでした。
プレッシャーに耐え、コーチや監督の悪口雑言にもチームが勝つ為と耐え、
日本代表の座を手放してでもチームに貢献したいと理不尽な条件で出場したにも関わらず、
ミスをすれば自分個人のせいにされなんなら前科者にされかねない。
そんな目にあったらアメフト辞めますってなっても仕方ないですって。
勝つことが目的となりそれが評価に繋がるというのは仕方の無いことですが、
だからといって「自分さえ勝てれば全体の品位や責任はどうでもいい」とはならないはずです。
(この辺はいわゆる企業におけるCSRの考え方にも近いものがあると思います。)
勝つことを目的としながらも、
アメリカンフットボールひいてはスポーツ界全体が健全に盛り上がり発展していくような手段を取らなければならないはずです。
その責任を果たさないどころか利己的な行動に走りアメフト界全体の品位を下げるようなことに至ってしまった以上、
(つーかどの界隈にいても害しかなさそうなので絶海の孤島の無人島とかで隠遁生活しててほしいぐらいです)
一部報道によると日大フェニックスの無期限出場停止の可能性もあるようです。
僕はそれは嫌だなぁと思います。(来期の停止ぐらいは仕方ないかなと思いますが)
が、せっかくこれでアメフトはクリーンなスポーツであることを主張していかねばならないときに、
厳しい目に晒されながら競技を続けていく方がきっとしんどいと思いますし、
何より日大フェニックスにいるほかの優秀な選手たちをアメフトから遠ざけてしまうのは忍びないです。
(解散して他所のチームが拾ってくれるってわけでもないでしょうし)
まぁこんなこと言うてもしゃあないですし可哀想ではあるんですが、
日本代表を辞退させられた時点で彼には何かがおかしいと気付いてほしかったです。
大学選手で日本代表に選ばれるというのはそれはチームとしては非常に名誉なことのはずですし、
いやまぁそりゃ内心では戦力ダウンは嫌だなあとか思うかもですが、
なんかおんなじように人間がぶつかるスポーツの経験者(ぬるめ)というだけでえらそうに語ってしまいましたが、
というのが僕の見解です。