はてなキーワード: 絵画とは
デッサン(形取りの練習)の講評で「デッサンが狂ってる」と言わないのは当たり前(ややこしいから)。教育の現場ではない美術評論の場などで完成図としての油絵や日本画に「デッサンがしっかりしてる/おかしい」なんてことばは普通に使う。この場合の「デッサン」は油彩や水彩という「画法」の技術と形取りの問題を切り分けるために使われている。
そもそも「デッサン」ということばが日本語に取り入れられた経緯からして、洋画のリアリティにコンプレックスを持った日本の画家が「洋画に負けないデッサンを」とか何とか言って、もともとの狩野派みたいな「日本の絵画」から、今あるような西洋の「デッサン」に和の画材を合わせた「日本画」を新しくつくり上げた運動に由来する。
日本美術界において「デッサン」は、もともとが不正確な印象論のことばとして、「西洋画のリアリティ」に対するコンプレックスとともに使われて来たことばである。
K-POPでアホみたいに挑発的なダンスを踊っている整形美人たちを見ていて思うんだが、
物凄い挑発的なダンスではあるのだが、下品なエロさを感じにくい。むしろ格好いい。
あれが男性受けのいいグラドルのような適度なぽちゃっり体型だったら、相当に下品になる。
プロのバレエダンサーも(必要に迫られてだろうが)ガリガリに痩せている人が多い。
あれがAV女優に多いちょいムチ体型だったら、残念ながらエロ目線でしか見られなくなるだろう。
半裸に近い格好になりがちなファッションモデルも同様だ。
つまり、女は痩せると肉欲的な下品なエロさが消えて、爽やかで上品な色香に変わる。
ヌード絵画のような芸術的な美の世界に達する。「ナン・イェッソリヤ」だ。
よく世の中の与沢翼やトランプに代表される勝ち組実業家みたいな連中に限って、
高身長でスリムな美人を横にはべらせたがるが、あれは身近に芸術品を置いておくことで、
自分の下劣なオーラを紛らわせたい欲求に由来するのかもしれない。
結論を言えば、K-POPのガールズグループは最高だ。韓国では160cm以下の女性は人間扱いされないらしい。
個人的には、HelloVenusが一番の注目株。
http://www.youtube.com/watch?v=BmcIRWguItU
上野 東京国立博物館 「生誕150年 黒田清輝―日本近代絵画の巨匠」 -5/15
上野 東京藝術大学奏楽堂 「サティとその時代 世紀末からベル・エポックへ 今日は一日、サティの日」 5/15
渋谷(神泉) 渋谷区立松濤美術館 「頴川美術館の名品」 -5/15
新宿(初台) 刀剣博物館 「鈴木嘉定コレクション寄贈品展」 -5/15
清澄白河 無人島プロダクション 「小泉明郎展『空気』」 -5/15
銀座 教文館ウェンライトホール 「偕成社子どもの本とあゆんだ80年」 -5/15
銀座 メゾンエルメス・フォーラム 「YÔKAÏNOSHIMA シャルル・フレジェ展」 -5/15
両国 江戸東京博物館 「近代百貨店の誕生 三越呉服店」 -5/15
http://anond.hatelabo.jp/20160413011057
正のエネルギーとは必ず正しいエネルギーたりえるでしょうか。仮にそうだとしても絶賛派の持つエネルギーはそれにふさわしいものでしょうか。
恐らくその根拠としては何事も賛美することや推進することこそが正のエネルギーだという思想なのでしょうけれど、悪事や間違いを推進することは正のエネルギーと呼べるのでしょうか。悪事や間違いを批判することも負のエネルギーなのでしょうか。
そしていきなりそのような立場に立ってしまうと、議論する物事の善悪や正誤の考察をする前提をすっ飛ばしてしまっているように思われてしまいます。そしてそのような所に絶賛派ラブライバーが宗教的だとか、盲目的で妄信的だと呼ばれる所以があります。
また、そもそも私的な体験の話をすれば、アニメ1期の時点では自分もアニメの内容の嫌な部分に目をつぶりながら作品全体の動向をポジティブに応援しようとしていたのです。しかし2期以降、先述のように作品展開の裏切りと汚染が加速拡大していくのを目の当たりにし、目を覚まして絶望するしか無かったのです。
とありますが、肯定をしている様子も殆ど見受けられません。ただ踏み台として蹴落とされるべき歴史としての存在を認めているだけに過ぎないでしょう。先述のメディアミックス理論の持ち出し方にもそれが現れているように思います。
アニメ版を叩くだけの負のエネルギーを注ぐのでなく、自分の好きな初期作品の素晴らしさをポジティブに語るべきでしょう。
自分の好きな作品を褒めるために他の作品を叩く行為は忌み嫌われることを増田もご存知のはず。増田が良いと思うものをポジティブに語る事で初期作品への注目も上がるのではないですか?
アニメ版を叩き貶める事で初期作品が注目されるのでしょうか?むしろその行為はラブライブ!作品群の全体を貶める行為となっている事実に気づいてほしいのです。
と、絶賛派ラブライバーは最終的にとりあえず批判する奴が悪なんだという方向に持っていきたがります。そこがアイドルヲタクというよりジャニーズヲタク的で、女々しく感じます。
また、批判への批判ですら批判であることや、何かを肯定する時には別の何かの否定を孕んでいることが多いことも留意しなければならないように思います。
恐らく全てを好みの問題で済ませられると考えているから脳天気に、表立って批判する奴が悪いと言えるのでしょうが、盗作問題などをはじめとした不可解な部分、問題があると指摘した部分を深く検討していただけないと原案派への本当の理解や同情は難しいと思います。
悪い所があったり、悪いことをしていたりしてもそれを批判することは悪いことだという考え方にはぞっとするものがあります。まるで盲目的な自分達を認めてほしいから目を覚ますようなことを言わないでくれと言っているかのようです。
ただ単につまらない、嫌いというだけで批判しないで済む状態であれば態々大きく批判しなくていいかもしれませんが、そのような甘く生温い状況ではないことを2期以降に強く痛感したのです。その内容の説明は既に先の記事でも今回の記事でもしていますが…。
それと、乱雑な感情や論理から導かれる暴力的な賛美や批判と、真摯な感情や論理から導かれる賛美&批判を一まとめにして考えることはナンセンスだと思います。
そのような指摘をみても、やはりアニメと劇場版のラブライブや2013年以降の作品プロジェクト全体は、積み重ねや面倒臭い決め事を破棄して、表面的で浅いつながりで結ばれた妥協と馴れ合いの間に合わせで叶えた物語が好きな人に支持された作品だったんだなと思えてきます。
好きだからこそより高みを目指したい、好きだからこそ勿体ない部分を指摘する、批判するという発想がないのでしょうか。ラブライブはもはや好きとはいいがたい作品に成り果てましたが、自分は好きな作品でも問題のある部分については批判します。好きだからこそ正直で誠実に向き合いたいからです。その点の行動をするかしないかについては好みで問題ないとは思いますが。
あえて単純化して例えれば、ピカソのキュビズムの絵画に対して『もう少し現実に合わせてもいいんじゃないか』と主張するくらいナンセンスな議論なのです。
この点は先述のレストランの例えで説明もしましたが前提のズレがあります。ラブライブの場合、写実画というには写実的から程遠く、キュビズムの方向に傾かせたというには写実的すぎるという半端な状態です。それがいいといえばそれまでですが、それが悪いといえばそれもそれまでです。
そしてそれらが地味で不規則な所を見ると、ただのミスなのではないかという気がしてなりません。また、ラブライブは芸術作品という意味ではキュビズムの絵画と同じでも一枚の絵でも一つの彫刻でもありません。ストーリー作品、キャラクター作品、物語なのです。さらにあのアニメ内でも『みんなで叶える「物語」』などと言ってしまっています。
つまり、ラブライブという作品がキャラクター性や物語性の描写の在り方について審議されるのは当然ですし、ましてやそれを無視してしまうだけでなく、無視して見る方が正しいかのように主張する態度は、作品評価をする上で致命的な怠りがあるように思います。
増田の観たかったものは、キャラクターの内面をリアルに掘り下げたドラマ。誤解を恐れずに言えば、スクールアイドル版のアイマスじゃないのでしょうか?
アイマスといっても色々ありますが、本家のアイマスやシンデレラガールズ(一応双方アニメのとしておきます)などはアニメのラブライブよりはともかく、物語性などについても、キャラクターが多すぎることや、原作で主人公であるプロデューサーの存在が軸となりすぎていることもあって内面の掘り下げについて理想には少し遠い面があります。またアイマスは原作がギャルゲー風の育成ゲームで芸能界の作品ですし、そのような物語性やキャラクター性などの部分への描写を前提する要素がラブライブより少ないことがその部分において許されやすい部分はあるかもしれません。
ただ、アイマスは声優などの外部のネタをキャラや作品に持ち込む二次創作的な風潮がラブライブより強く、そこが支持されてもいますがそこは自分にあまり馴染まない部分ですし、そこはラブライブには真似してほしくなかったのですが結果的に追従するように似たような道を歩んでいってしまった印象があります。
それでも、アイマスの原作はゲームであるという絶対的な軸があり、キャラクター的にもその区分けを比較的大事にしているので、ラブライブよりはファンの棲み分けがしやすくなっているように思います。
自分はラブライブを応援する以前にアイマスが好きだったのですが、アイマス2の騒動で距離をとるようになりました。あれも作品公式の運営への不信感を感じる騒動でしたけれど、その後アイマスは先述の区分けのおかげでなんとか致命的に沈み込むことはなく持ち直していったように感じています。また、当時のファンの多くが大きく問題視して糾弾したのも現状に対して盲目的で内容に興味があるのか疑問を抱いてしまうラブライバーの多くとは違う点でしたね。あまり高く評価するつもりはないのですが、結果的にはアイマスの場合はファンの意思がある程度「プロデューサー」として作用し反映されたおかげかもしれません。
対して、ラブライブに期待していた広い意味でのコンテンツの在り方は前回の記事http://anond.hatelabo.jp/20160330020728で言及した通りですが、そこでも述べた通り、ラブライブというプロジェクトはファンの意思や存在を「みんな」の中から排除したものだったという気がしてなりません。
京極監督と花田さんは物語性の軛からラブライブ!を解き放った。漫画や小説では表現できないアニメならではの特徴を最大限利用してアイドルを表現したのです。
アニメならではの特徴を利用したとしても、アニメでも表現できることを怠りすぎていたので批判されていることも考えていただきたいように思います。
物語性を「軛」と表現していますが、それは致命的な配慮の怠りで思い上がりですね。絶賛派は似たようなことを言うのである意味信頼できますが苦笑します。
別のとある絶賛派の人はキャラクター描写について批判する人をキャラクター至上主義はダメと批判したりしていますが、裏を返すと絶賛派は表現至上主義なわけです。
また、キャラクター性や物語性の描写の拙さを批判する人達は別にアニメの表現や演出のあり方を否定していません。
対して絶賛派はあの表現と演出さえあれば物語性やキャラクター性の描写は不要だ、ない方がいいくらに否定的に捉えているわけです。表現や演出をそれらの免罪符のように扱っているのですから。
しかし、先述の例えのようにシリーズアニメにおいて表現演出というのはキャラクターや物語性の拙さを打ち消す免罪符に足るものではありません。
まあメタ的に、「アイドルやアイドルファンというのは実はこんなに狂気的で下らないものだ」というのを、アニメ全体を使って表現したというのであれば、それはある種のテロリズム的芸術として評価できるかもしれません。
そういうものはオリジナル作品で勝手にやったのであればそういう作品性も面白い、有意義だと手放しでいえた可能性があったと思います。しかし、元々の作品の指針としてコンセプトが違う原案が存在する作品を預かりながらそれを行い、それらを生かしたとは到底言い難い状態にある作品となったので好き嫌いを超えた善悪の問題で批判しているのです。
超現実的であったり表現主義的であったりする要素を作品にあってはならない要素だとは思っていませんし、何度もいうようにそこを特別に批判しているわけではありません。
せっかくのシリーズアニメ作品で、物語形式だったのですからそのような最重要の部分を十分生かして欲しかったのです。
そして批判派の多くは勝手なミュージカルをするなとか急に踊り出すなとかいうのを言っているのではなく、そのような表現主義的な意図があるとは思えない単純な所でもただのミスではないかというような違和感を抱く描写があり、その点への指摘や批判すら絶賛派が、全ては芸術的な表現だからそれでいいんだというように無理矢理擁護してしまうためにうんざりしているのです。
仰っているような表現方法などに特化しただけのものでいいのならオリジナル作品や、またはそれこそ、PVだけ作っていてくれればよかったと思います。
それに対して「いやあの形のアニメだからいいんだ」と主張する場合の理由は、おそらく知名度が上がりやすく人気が出やすいからでしょう。
確かにラブライブというコンテンツは人気が出て欲しかったですし、知名度さえ上がれば元のままで高く評価されることが可能なポテンシャルは十二分にあったと感じていましたが、絶賛派が表現主義的に評価するアニメを、あの形でアニメ化しなければならなかったとする根拠を考えると、人気が出た作品のファンを名乗りたいという表面的な所に帰結していくように思います。
今となってはアニメ化せずに人気が出なくてもアニメPV付きシングルがもう何曲も出ていた方がただのファンとしてなら幸せだったなと感じます。
表現方法などが優れているとしても、前の記事でも言ったようにかつての作品の在り方とそれらの表現手法などは両立できたでしょうに、最初からしない道を選んだことを批判しているのです。
また、それがオリジナリティに溢れていたならまだしも、元々の原案に沿うことを拒絶しながら他の無関係の作品は平気で参考にして適当になぞらせるようにストーリーやキャラクター設定を(前回の記事で説明したような)稚拙な配慮の下に歪ませてしまったことが甚だしく受け入れがたい問題点なのです。
自分はしがないオタクで絵を描いている者です。俗に言う絵師と呼ばれる人、だが自分では絵師と名乗るのはおこがましいので名乗りませんが。
この度、毎日のように描いてきた絵を描くのを一旦辞めようと思いまして。語る場が無いので、此処で身の上話をしようかと思い書き込みをしております。
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自分が絵が好きだと思ったのは、幼稚園から小学校低学年の頃。本当に好きで好きで堪らなくて、ノートに意味のわからない棒人間が楽しく遊ぶ様を描いたりしたものです。
友達から「何を描いているの?」と言われ、「分からない」が常套句。けれど宛もなく描くのが好きでたまらなかった。
三年生の頃に転機が訪れた。兄が通っていた絵画教室に通うようになる。その絵画の教室は基本的に自由に描き、時には粘土やロウソク作り方など芸術の幅広いことをする夢のような場所だった。勿論、教室なのでちゃんと技術も教えてくれた。絵を描く楽しみが増えた。
名前はいえませんが、夏休みに描いた絵がとあるコンクールで入賞や金賞を取るようになった。学校の先生や皆が拍手する感覚、正直アノ時はよく分からなったが、皆が喜んだり親が褒めたりする事は良いことである事はおおよそ分かった。
以来、絵は個人だけで楽しむだけじゃない事を学んだ。
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同時期、もう1つの転機が訪れた。夢中になる漫画や本との出会いだ。
自分はとあるジャンプの漫画と出会った。幼稚園の頃から好きだったモノを題材に、かっこよくて憧れるような内容で描いていた。キャラクターは皆魅力的で、特にボスキャラは強さとかっこよさを兼ね備え尚且つ絶対的な存在は読んでいて惚れ惚れした。
以後、学校の休み時間など空き時間にそのキャラを思い思いに描いたりした。好きなキャラを、好きな絵で表現する。凄く楽しくてたまらなかった。
結局その漫画はそれから連載が終わったが、今まで兄のお下がりで暇だから読む漫画が、自ら買って楽しむ漫画へと姿が激変した。
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それからは激動の時代に入った。漫画だけではなく、小説やゲームにもハマった。中学の休み時間は専らオタク仲間と絵を描いて過ごしつつ、部活は大好きな絵を極めたくて美術部に入った。
ここまで描けば幸せな学生生活だが、中学の頃から少しずつ狂い始めた。小学校の頃にいじめてきた奴が中学の時に再会し、以後3年間イジメを受けた。
美術部は自分の代は1人。友人と喧嘩となり、両親はいつの間にか異常なまでに勉強熱心になった。
それでも、絵は描き続け、何とか無遅刻無欠席で通い通した。
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受験して努力して入った高校、ただ、苦しい気持ちでいっぱいだった。勉強熱心な親と難しくなった内容により授業が苦痛になり、友達の作り方が分からず「仲間意識が強いから友達ができる」と思って入った美術部以外の部活は更に苦痛になり、弁当誘われた人達の話がよく分からず孤独感に苛まれ、遂にはトイレで弁当を食べている方が落ち着いた。
高校通ったのは実質半年。以後不登校になる。中学で疲れきった身体と精神に、高校は地獄でしか無かった。
それでも、絵は描き続けた。苦痛を和らげてくれたから。描いていて落ち着いたから。
この頃、自分は同人誌即売会と個人サイトに出会って更に絵の道を輝かせていた。好きなキャラを好きな絵柄で好きな内容の漫画を描く人達が、その頃の憧れであり希望だった。
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高校通わなくなった頃、絵やオタク関連以外では最悪の時代だ。毎日親と怒鳴り合いし、傷つき傷つけられてわけも分からず。徐々に友人も減り、何時しか独りが普通になる。先の見えない人生が怖く、自身の辛さを分からない周りの人達が嫌で独りが心地よく感じた。
そんなある日、高校を辞めた後も会うスクールカウンセラーから心療内科を勧められた。両親は嫌がっていたが、自分にとってそれは「一か八かの賭け」に思えた。もしかしたら……これで違っていたら本当に終わりだと。
結果、新たな肩書きが出来た。「広汎性発達障害」、所謂「自閉症スペクトラム」や「アスペルガー症候群」だ。
凄く、嬉しかった。
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思えば小学校の頃から思い当たる節があった。チャイムが鳴ってもと図書室で本を読み、じっとしていられなくて足をバタバタしていた。皆の話す言葉が訳の分からない呪文に聞こえ、机の中と部屋は常に汚かった。
そこに名前がつくと言うのは、長年探していた謎の答えが提示された事。嬉しくて涙が溢れた。
それからの人生は少しだけ良くなった。カウンセラーは自分の良き理解者になり、同じ障害仲間も出来た。高校も通い直し、アルバイトも始めた。
何もかもがうまくいく。そう思っていた。
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その頃から、自分も憧れの人達のように絵をネットにアップするようになった。まずはTwitter、pixivにも登録した。絵画のような絵だけではなく、イラストについても学んだ。好きな漫画、好きなアニメ、オリジナル作品も描いたりした。
だが、何故だろう。ネットアップするようになってから少しずつ絵を描く意味が変わってきた。楽しくて、自分が好きだから描いていた絵。次第に、皆も楽しんでくれるような絵を描こうとする。
他の人と比べて下手だと思い始め、技術を研究して上手く描く努力をした。色んなシチュエーションや絵柄、「イイね」と呼べる絵を描くにはどうすればいいかを考えた。
毎日毎日色んな絵を描き、好きなキャラで尚且つ人が喜ぶ絵を目指した。
次第に小さいが反応がつく。僅かな点数と1人以上のお気に入り、そしてちょっとだけ増えるフォロワー。やっとだ、やっと自分にも来た!嬉しくて堪らなかった。
が、それが絵を描く楽しさのピークだと知ったのは後々だった。
絵を見るのも好きで、Twitterやpixivで好きな絵師様をフォローする事はよくあった。彼等はとても上手くて魅力的な絵を描く。そして同時に、お気に入りやフォロワー数が高い。
絵が上手くて魅力的だから、それ相応の反応が来るのは当然だね。そう思っていた。
けれど、フォローして見ていて段々妙な感情が湧き上がる。何故、自分の絵と憧れの人の絵はこんなに反応が違うのか。
試しに自分ではなく皆が好きなものを描いてみた。いつもの反応、同じ評価だった。なら自分を好きになる人を探してみよう。タグでフォロワーを稼ごう。あまり反応がない。
もっと技術を上げて研究を重ねよう。きっと技術力不足だから皆「下手な奴に興味無い」と思っていた。
毎日毎日、いろんな絵、いろんなキャラを描いた。pixivの講座も見て参考にした。アンケートで描いて欲しいものを聞いたりした。
毎日の努力は報われる。絵を描くのが好きでやっている。好きなキャラがこうやって動く様を描きたくて描いている。全員とは言わないが、少しでも多くの同志が出来たらなー少しでも自分の絵を喜ぶ人が増えたら。その思いで描き続けた。
だがそれは、間違いだと知る。結果的に、状況は変わらなかった。誰も見向きもせず、ただただ流れゆく自分の絵。
一方で、自分が本気で描いた絵より何気ない落書きレベルの絵が百を超える反応をもらう。この差はなんだ?アレ……なんか訳が分からない。
自問自答を繰り返し、また研究と宣伝を重ねる日々。段々、好きで描いていた絵に無駄な着色が増えてゆく。何か違う。何が違う?これ描いて載せて喜ぶかな?きっと喜ぶ人居るはずだ、気づいていないだけ……。
何故絵を描くのか分からなくなってきた。
そんなある日、試しに友人にその事を相談してみた。
「pixivもTwitterも身内が盛上げてくれるから沢山の反応が来る。結局、魅力的な絵や上手い絵が反応を貰うのではなく、友達や仲間がいかに多いかなんだ」
自分はお世辞にもコミュニケーションが上手くない。いや、それどころか人と話す自体や感想を述べたり空気を読むといった基本的なものが出来ない。アスペルガー症候群だからもあるが、中学の頃を境に話すことが苦痛になっていた。故に、※友達の作り方が分からなかった。
ネットは顔見ないから話すことぐらいできるのでは?と言うかもしれないが、自分にとってネットもリアルも同じ人間との会話と思っていて変わらない。
※今いる友人は、カウンセラーの紹介により集まった障害仲間と小学校の同級生だけである。数え切れる数しかいない。
ハハハ、なんだ。リア充もオタクも変わらないのか。何がオタクはコミュ障だ!!結局魅力的な絵でも上手い絵でもなく、描いている人が魅力的だから人気なんだ。所詮、人望や人脈が全てなんだ。考えてみれば、オフ会や同人誌即売会出来る人はコミュニケーションが出来る人だ。
本当にコミュニケーション障害の人は、絵を描いて載せても無意味なんだ。そう考えた途端に、今まで描いてきた絵や握ってきたペンタブや画材、そもそも絵を描く行為が嫌なものに変わった。
好きで描いていたなら何故嫌いになる?そう思うならネットにアップするな?そうだね……その通りだね。やってきたこと全て間違いだったんだ。ほんと、後悔が込み上げてきた。なんで……もうあんなに熱心に描いていたのか分からないよ。
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今も漫画もアニメもゲームも好きだが、これから先ファンアートや好きな絵を見る目が変わるのだろう。自分は別に絵を仕事にしたかったわけではなく、趣味として好きなものとして最大限に楽しみたかった。ただそれだけ。
コミュニケーション障害の人に配慮して欲しいとかはいりませんし、絶対に言わない思わない。何故なら、コミュニケーション障害を公表している有名人は多々いるから。自分がコミュニケーション努力を怠った為に痛い目を見たのですから。
ただ、人望や人と楽しむ事に全力なリア充を叩くオタクも所詮リア充なわけで。
それに早く気づいたのは不幸中の幸いです。
最後に一言、絵の技術だけは努力しただけ伸びる。それだけは確かです。
では、失礼しました。
バカの壁ベストセラーと聞いてなんとなく避けてましたが、読んでみます。
ご指摘通り、スタート地点である個々人の感情がそもそも定量化出来ないんですよね。
製作者としては、伝える相手に正の感情値yをある一定以上想起=上昇させることができれば面白く感じる だろう。と、思い込むことが指標の限界でしょうか。
とすると製作者の技術、またはセンスで式の感情系数値の正しさや引き出しの大きさが変わってくるのも頷けます。
ブコメの指摘のギャグ漫画家の作品が面白くなくなる←常識とのズレが分からなくなる←感情系数値の判定が対象に通用しないものになっている、という感じですかね。
単に入力前と入力後の移動量の変化だけではなく、単位時間あたりの感情の変化量、勾配も考慮できそうです。
うん。ほとんど映画の感情曲線じゃんこれ・・・・。映画の感情分析にてついてもうちっと勉強してから出直します。
面白い、と感情曲線はあんまり関係ないんじゃないかと思ってたんですけどねえ。
しかし、統計的に処理すればなんとなくぼんやりした定量的Mapは作れなくは無い気もしますね。出てきたものは全く面白くもなんともない可能性が高いですが。
ここで、気づいた。
俺、人間が怖いんだ。
別に、対人恐怖とかじゃなくて、自分がゴキブリ並みの見た目であることからくる恐怖。
典型的なハゲタデブのチビを考えてくれればいい。そんな奴、ちょっと変なことをしたら変質者扱いである。
ちょっと変なことすると失点するので、できるだけ失点しないような対応ばかりする。
女と関わるとセクハラ扱いされる危険があるので、引いた風に。リア充と同じことすると馬鹿にされるから、リア充からは離れる。
適度な距離で、適度な付き合いってのは、いわばお客さんに対する店員に近い。
だが、家は違う。普通にしてても、特に俺だから、なんてことない。緊張感が無い。
この安心感なんだな。
俺は怖いから、引き篭もってネットばかりしている。ちょっとさびしくなったらキャバクラとか風俗。
自分が痴漢するとは思わないんだけど、痴漢するのが怖いので風俗もコマメに行ってる。
美容院とかもフレンドリーが苦痛だから、2,3回で変える。ブサメンがリア充丸出しの美容院と接するのって苦痛なんだよね。昔の損ばかりする付き合いの記憶ばかり出てくる。
でも、こういうのは、違うと思う。
もっと、絵画教室なり、将棋道場なりで、ゆったりした付き合いがいいんじゃないかと思う。
そういう場所では、不細工でも、居ても別にOK。そういう、老人ホーム的な場所で人付き合いを補給する必要を感じた。
もちろん、ブサメンじゃなきゃ、普段の友達付き合いでそういう部分を補充できるんだろうけど。
俺みたいな奴は、基本他人とカラムと他人にとって損なので、ナチュラルには無理。
実家で過ごそうってのもあるけど、5年くらいはまだ東京の仕事を続ける必要がある。
ってことで、老人ホームみたいな場所で、週1回くらいは人間性を補充したほうがいいような気がする。
で、こういうブサメン福祉みたいなのって、需要あると思うんだよね。
キモいゴキブリ扱いされてるけど、マジメに働いてるみたいな人達、そういう人達相手に訴求性のあるビジネスだと思う。
そういう場所を作ることが大切なんじゃないかなーって思う。
あ~でも。どういう場所を作っても、一定数リア充や、仕切りたがるドキュンみたいな奴が来るのかなあ。
ある程度、将棋やカードゲームみたいな頭使ってキモくて、老人趣味みたいなドキュン排除的なネズミ返しが必要か。
何人も18歳未満の者(以下、「児童」)に対する性行為、性的接触、性的搾取及び性的虐待並びにこれらに準する行為をしたいという志向・思想を抱いてはならない。
児童が上記の行為をされている、又はされている様な表現が含まれていると看做されるポルノは、これを全面的に禁ずる。
○写真・映像の場合、被写体・出演者の年齢・性別を問わず(例えば成人男性が女子児童としてポルノに出演した場合も)禁止の対象となる。
○CG、イラスト、絵画、彫刻、漫画、小説、アニメーション等によって、擬似的に児童への性行為等を表現したものもこれに該当する。
これらに該当する児童ポルノを製造・譲渡及び所持した場合、法律により摘発及び後述の施設入所義務の対象となる。
更に、全ての成人した国民は、定期的に国の定めた小児性愛検査を受ける事を義務付けられる。
検査により小児性愛者と判断された者や、上記の児童ポルノに関する規定に違反した者は、性癖矯正施設への入所を義務付けられる。
矯正施設へ入所した者(以下、「入所者」)は原則として施設に矯正が完了したと承認され出所するまで外出をすることはできない。
入所中は主に以下の行為が禁じられる
○児童の写真、絵やイラストが載っている書物を所持する。児童が出演している映像・番組を視聴する。
○その他、施設の許可を得ずに外出する等、施設が定めた規則に反する行為。
やむを得ず入所中に外出の必要がある場合、入所者は厳粛な条件の下で許可を得た上で指定時間の間だけ監視員の同伴で特別に外出が可能となる。
施設外での用事が完了したら、その時点で指定外出時間にまだ余裕がある場合でも速やかに施設に帰宅する。
・半径5m以内に入る。
・話しかける。声をかける。
・写真を撮る。
○児童の教育施設(幼稚園・保育園・小学校・中学校・高等学校等)の敷地内のみならず、付近1km以内に立ち入る。
○その他、指定された時間以上外出する等、施設が定めた規則に反する行為。
尚、入所者が上記の禁止事項に触れる行為を行った場合に於けるその場の処置については監視員の判断に委ねられる。
また、小児性愛者と判断された者が施設への入所を義務付けられたことにより生じた損害・不利益等はその責任・賠償を政府又は施設に問う事は一切できない。
何か映画を何百本観たとかそれは権威つけ云々とか読んでて、みんなバーカバーカ、お前ら黙って映画見てろって思ったが、これに便乗すれば自分のオススメ映画・監督を広められるじゃないかと思ったので書く、皆とにかく映画観ろ!!!
これはマジで滅茶苦茶意味が分からないけど凄い、ジャック・スミスはニューヨークのアングラ映画界の巨匠でニュー・アメリカン・シネマ(アメリカン・ニュー・シネマじゃない)を担う天才だったらしいんだけども、内容は女性の服を着た男性の集団がすごい絡み合う、それが45分間ずっと続く、何が面白いんだって聞くかもしれないけど、荒々しさとかポエジーとかオリエンタリズムとか色々な要素が絡み合って、観客の前に完全なカオスがドカンと提示される、マジで何だこりゃって最初観たときは度肝抜かれたよ、映画の原始的な力ってものを感じた!!!オススメだ!!!ビデオインスタレーションとか配信してる美術系サイトUbuwebってとこで配信してるから検索して即鑑賞だ!
これはなアレだ、女子の友情もの、13歳の少女が2人いて、凄い親友なんだけども片方が引っ越して別れが近づいてる、そんな2人の前に何と人魚が登場、彼女は地上で3日間のうちに婚約者見つけないと父ちゃんが用意した男と結婚しなきゃいけない、ってことで3人力合わせて良い男性を探そう!って映画。これが笑えるやら切ないやら、ひねくれた自分にも友情の大切さってものがもう痛いほど染みた、超素晴らしい!!あと人魚役がタイ・ウェストってホラー作家の良い感じに昔めいた洋館ホラー「インキーパーズ」って作品に出てきたサラ・パクストンっていうのも注目だよな!!!
3本目"Within our gates"監督オスカー・ミショー
グリフィスの「國民の創生」、あれは映画史に残る名画とか言われてるけど差別主義者の集まり糞KKKを美化した作品で、今年サンダンス映画祭で"Birth of Nation"ってアフリカ系のネイト・パーカーが作ってオスカーとかの人種差別のカウンターとし話題になったけど、「國民の創生」とほぼ同じ時期にこれへのアフリカ系映画監督からのアンサー的作品が作られてて、それがこの"Within our Gates"な訳だよ、日本未公開だけどパブリックドメインになってyoutubeに全編アップしてあるから、マジでお前ら絶対観ろ!!!
アメリカ映画ばっか紹介しちゃったから今度はオランダ映画な、これは正直有り体に言っちゃえば、夫とか子供とかいて自分も医者として活躍して幸せな生活送ってんのに、何か人生に不満抱えてて、それで患者とボコスカ不倫しまくる女性の話な訳、でもな、このあらすじを念頭に入れて本編見てみ、ヤバいから、ショットショット全部絵画みたいで度がすぎてるほど美しい、監督の美的センス超絶ヤバい、主人公に感情移入もクソもねーわって人も美術館で絵画を眺める感じで見れる、オススメよこれは!!!
去年、アンソニー・ウォンの「人肉饅頭」とか「エボラ・シンドローム」とかモラルとかそういう概念超越したドクソ不謹慎香港映画リバイバルされたじゃん?あれ好きな人、これ観たほうが良い、「燃え上がる生物」とは全く違う意味で意味分かんないし、ヤベえほど汚ねえ、ウジ虫とか何らかの虫は数千匹出るし、ワニの死体グッチゃグッチゃだし、仏教?何か仏教?が超ブワアアアアアアアんとかさなる、この凄まじい汚さはカラーな分「ムカデ人間2」とか「神々のたそがれ」レベル、香港が残した最も汚ならしい映画作品、だから大好きなんだ!
6本目「サンダーパンツ!」
英国映画史な、「黒水仙」とか「フォー・ウェディング」とか「ファクトリー・ガール」とか「モーリス」とか「怒りをこめて振り返れ」とか「人食いエイリアン」とか「if...」とかヒッチコックの初期作とか「英国に聞け!」とか名作色々あるよ、でもさ英国映画史上最高の映画って聞かれたら、俺は真っ先にこの「サンダーパンツ!」を選ぶね。オナラがコンプレックスの少年が親友の力借りてオナラで宇宙へと旅立つんだよ、俺はこれ毎回見るたび深く深く心を揺さぶられて号泣する、全人類にこれ見てほしいよ、それでオナラに泣きながら下積み時代のキーラ・ナイトレイがどこに出演してたか探してほしい!!!
北野武の奴も好きだけど、俺は断然こっちの寒々しいカナダ映画の方を推したい。少女2人の心がさ迷う姿を本当に侘しいまでに凍てついたトーンで描いてる、思春期っていうのは孤独の牢獄だよ、それで彼女たちが物語の最後にやること、これくらい切実な"私たちはここで生きてる!気づいてよ!"って叫び聞いたことないわ。ちなみこの傑作作ったミシェリーヌ・ランクト、これしか映画作ってねーのかなとか悲しく思ってたんだけど、実はバリバリ現役で映画作りまくってて、しかもIMDB見たら最近俺が観た映画に俳優として出演してたんだよ、もうマジでめっちゃビックリしたよ、でもマジで元気で良かったわ!!!
7本目「バチェロレッテ~あの娘が結婚するなんて~」監督レスリー・ヘッドランド
主人公は3人の女性で、ある日学生時代にクソデブっ思って見下してた女子が結婚するって聴いて、はああああ????って思いながら表面的には笑顔浮かべて彼女が開く独身最後のパーティーに行ってクソ騒動起こすって映画。まあ最後にはこいつらクズで最悪に迷惑かけるけど、自分達も良い男見つけて嫉妬心も無くなって最後には全員ハッピーハッピーヘヘーイ、とかなると思うじゃん普通?この3人マジでずっとクズ、救いようがないくらいクズ、結果1歩も成長なんかしない、ここでめちゃ評価別れるけど、でもこの映画は、人間成長なんかしなくたって生きていけりゃいいんだよ!!!ってある意味スゲーポジティブなメッセージ送ってくる、ここに感銘受けたね、人間いつかは成長しなくちゃとか成長できるよとかそういうオブラート包んだ欺瞞ばっかこっちに向ける映画ばっかあるけど、この映画はそこらの映画とは気骨が全く違う!!!
昼間から呑む!昼間から呑む!!昼間から呑む!!!昼間から呑む!!!!マジでこれくらい最高の邦題を俺は聞いたことがない!!!昼間から呑む!昼間から呑む!昼間から呑む!内容は彼女にフラれた青年が酒呑んで旅して女性に恋して酒呑んで旅して女性に恋して酒呑んで酒呑んで、そして酒を呑む映画だ!だけども観ているうちに、この映画がいかに脚本を丁寧に丁寧に組み立てまくってるかに驚かされる一作になってるってきっと分かる筈だ!!昼間から呑みながら観ろ!!酒呑めない人は何も呑みながらでなくていいから観ろ!!!
9本目「ジュリエット・ビノシュ in ラヴァーズ・ダイアリー」監督マウゴジャタ・シュモフスカ
みんな大好きおフランス映画だぜ!!監督はポーランド人だけどそれは気にすんな!!内容はビノシュ演じる雑誌の記者が2人の若い娼婦にインタビューすることで、移民がこの国で置かれる状況、学生の困窮ぶりがいかに厳しいか、性差別の実態、そういうのを知っていくうちに自分の人生も見つめ直さざるを得なくなるストーリー!!エロがあるからこんな邦題にされたけど、監督のマウゴジャタ・シュモフスカは一貫して、自意識が複雑化し、肉体と精神が解離を遂げていく現代において、私たちはいかにして私たちのからだを取り戻すべきなのかって深遠なテーマを扱っていて、唯一この映画だけが日本でも普通にDVDで見られるから、エロい邦題で敬遠してる人も是非観ろ!!!
最後に邦画を一本、俺的には「殺しの烙印」だとか「ツィゴイネルワイゼン」とかよりもこっちだ!!!プロゴルファーがテレビ出演して、その疲れからご近所トラブルに巻き込まれて全てが破綻する!!!あらすじ書いてて自分でも意味が分からなかったが、観ても意味は分からない!!だけど異様な熱量に圧倒されること間違いない、意味が分からないという快楽に身を浸せ!!!
ということでオススメ10本紹介終わりだ!!ネットで観られる奴と「ソナチネ」以外は全部DVD出てるから近くのTSUTAYA行くか、ディスカスで借りれるぞ!!本当はラリーサ・シェピチコの「処刑の丘」とか紹介したかったけど、日本じゃ観れないし独りよがりになるから紹介せず!!!でもラリーサ・シェピチコまともに観れねぇ日本はマジにファックだよな!!!
「籠の中の乙女」はゼロ年代最重要映画、最新作「ロブスター」もきっと頭がおかしい!!!
2.ミア=ハンセン・ラブ
「EDEN」の語りの独特さはテン年代の刻印、新作ベルリンで金熊賞獲ってくれ!!!
3.サム・エスメイル
映画「コメット」とドラマ「Mr.ロボット」でアメリカに殴り込みかけたスゲー奴だ!!
ハネケ直系、不穏なムードを醸し出させたら天下一!!新作はティム・ロス主演「或る終焉」!!
自分の好きな物全部ぶっ混みまくったスタイリッシュ・フェミニズム・ヴァンパイア・ホラー・ウェスタン「ヴァンパイア~残酷な牙をもつ少女」は何じゃあこりゃ!!!
アルゼンチンからやってきた異才だ!!「約束の地」は筆舌に尽くしがたい時間の感覚を持ち合わせた傑作だ!
再びのハネケ直系、「FORMA」は何でソフト化されないんじゃ!!!
8.ナ・ホンジン
「チェイサー」も「哀しき獣」もとにかく走って走って走りまくる凄まじい圧力と巧みなストーリーテリングに脱帽!新作が観てえ!!!
9.マウゴジャタ・シュモフスカ
10.ヨアキム・トリアー
この中で唯一作品が通常公開されてないけども、新作"Louder than Bombs"が日本公開決定したらしいので入れた!!ノルウェーの若き大いなる才能!!
精神科っていうと、心を扱ってると思ってる人も多いと思うけど。基本的には、脳みそっていう臓器を相手にしている。
たとえるならば、心臓が悪いときに血液を直すか?っていう感じ。心臓を直せば血液も治るでしょって心臓を良くするような。それが現在の精神科。
では、心を扱うのはなんなのか?
一応ちょっとだけあるんだけど。そういう精神科は世界的に廃止する流れになってる。廃止っていうか、精神病に対しては治療効果がはっきりしないし学問として成立しないから一旦ほうっておきましょう。っていうことになってる。
で、それはそれで精神科は確かに治療技術が上がってるし、患者さんもよくなってるんだから、いいことだとは思う。
でも、じゃあ普通の人の悩みとかはどうなるんだろう。
一応、俺が見つけられる範囲でいうと、
たとえばターミナルケア(ガンとかで死ぬまでの期間をケアする医療分野)では、死の痛みの中に、「スピリチュアルペイン(精神的な痛み)」ってのを書いている。
スピリチュアルペインってのは、「なんで生きてきたのだろうか?」とか「わたしが生きた意味はあったんだろうか?」みたいな痛みなんだけど。
まあ、それはそれとして。
こういう特殊な状況下でしか、医学は『こころ』を扱っていない。
でもさ、フロイトが夢分析とかやった頃の精神科は、人間のこころを扱っていた。つい数十年前も扱おう扱おうって頑張ってはいた。ここ最近は投げてる。
俺は普通に何も病気は無いけど、この手の『こころ』を考えたり解析する分野を医学が投げちゃったのすげえキツイ。
医学以外にも分野はあるんだろうけど、医学が一番金を集めて研究が進む分野じゃん。その分野がこころを投げてしまったのは本当にキツイ。俺が生きてる内に答えを得られる可能性が低くなってしまう。
小説とか、絵画とか、いろんな分野で心の扱いを考えているけど。
どうなんだろう。明確な答えとかはまだまだでない。
昭和の価値観からすれば、女とセックスできるなんて大層なことだった。
しかし、今ではネットで美女を見ながらオナニーできてしまうので、女とのセックスに大層な価値を感じられないと思う。
しかし、じゃあそれに対応した価値観ってなんなのか、昭和生まれのモテないおっさんである俺は知らない。
もしかしたら、当たり前に存在しているかもしれないその価値観が無いから、いまいち現実の事象を理解できない。
なぜ、価値が無くなった女が偉そうに恋愛における優位を仕事場なんかでも持ち込むのかが理解できない。
女性を大切にする価値観は、そりゃリア充はセックスできるから意味があるかもしれないが。セックスすることもない非リアにその価値観が押し付けられる意味が分からない。
セックスだけで言えば、オナニーでセックス以上が得られる世界になっちゃったじゃないか、と素朴に疑問に思う。
女は非リアに対してセックスチャンスゼロでいいし、それなら男同士のように対等な付き合いできてほしいんだけど。
なぜか、アファーマティブアクションもらってる側が偉そうにしている。おかしいと感じるが、何らかの価値観があるんだろう。その価値観ってなんなんだ。
論理的に異常に感じてしまうのは、昭和感覚からすれば当たり前だが、昭和とは社会構成が変わったから新しい価値観ができたんだと考えるのが妥当だろう。
その価値観ってなんなんだ。昭和的価値観しか持ってないから、その違和感をずーット感じている。
でも、現代に生まれる子供世代はそういう新しい価値観の中で生まれているわけだから、その空気を当たり前として生きる世代がいるんだろう。
その価値観、教えてほしい。子供達に頭を下げて授業してほしいくらいなんだわ。
俺が生まれた世代ってのは、戦争世代やバブル世代とはまた違った価値観を確かに持っていた。
だから、今生まれている価値観ってのもあるはず。だって世界がコンだけ変わったんだから。
でも今じゃネットでそこらの人の意見が簡単に分かるし、映画のまとめもウィキペディァで明確に分かる。
こうなってくると、映画評論で映画を感じていた人間とはまた違った価値観が生まれる。
俺は、映画評論的な時代の映画鑑賞には価値を感じなかったが、今はいくらでも見たそばから感想を見れるため、映画を見るのが好きだ。
『桐島、部活辞めるって』を見た後は、『リリイシュシュのすべて』や『大怪獣、東京に現る』や『ゴトーを待ちながら』といった関連作品をスグ知って速攻世界を広げられる。
こういう価値観の中で見る映画への価値観は、1990年代とは全然違う。
こういう価値観の中で映画を見ることは俺はマッタク抵抗ない。だって、その世界の価値観を知ってる側だから。
でも、セックスの価値観は未だに分からない。もしかしたら、皆も知らないんじゃないかとすら思っている。
俺と同じように、リアル女性と関わるリスクとリターンより、xvideosアサリやエロ漫画アサリのほうが当然いいよねって考えのほうが当たり前だしスタンダードなのかもしれない。
皆、この新しい世界での新しい理屈に対応できず、価値観がずれてるんだけど、対応できてないみたいな不安を感じているのかもしれないと思えてくる。
実は、20歳のアイドルやってる女と援助交際をした。デートして、飯食って、セックスした。4万円弱。
数回やったが、価値を感じなかった。素人とやった感はあるんだけど、昔なら感じていたレアリティーを感じなかった。
AVで美女を見れなかったり、二次元がこんだけ進んでいなかったら、多分相当価値があったことだったんだろうけど。昭和ならすごい価値あることだったんだろうけど。
マッタク価値を感じずビビッタ。むしろ、コンだけ金とってこの程度なのかってビックリした。
エロゲー買うほうがまし。DMMで見放題登録したほうがましだった。快感だけで言えば。
素人とやったとか、その女とやったみたいな価値がマッタクなかった。
これで、よく皆納得して彼女作れるもんだとビックリしてしまった。
もちろん、セックスだけじゃないんだろうけど。じゃあその価値観ってなんなのってのが伝わってこない。
たとえば、ユーチューバーのリア充を見ると、リアルでリア充を見る価値ってのが伝わってこない。
ネットで絵画や演劇を見て楽しんだら、リアルで見るのはダルイ。ってか、コスパ考えるとリアルに赴くコストに対して得られるリターンが小さい。
でも、もちろん、たまには行くよ。そりゃ行くよ。そこで得られるものもある。
でも、相当な部分がネットで代用されるから、相対的にリアルの価値は小さくなる。小さくなった価値を補填するだけのサービスを受けられない。
リアルでの活動は、これまでより値段が下がっても大きな買い物になっちゃったのに、それでも、価値観を変えずにリアルはリアルで続くんだろうか。
そこは違う価値観が生まれてると思うんだけど、じゃあその価値観ってなんなんだ。
でも、旧来の価値観や人間がそのまま受け継いでネクストステージを生きているように感じる。
新しい価値観、みたいなのってないんだろうか。
リア充。本当に皆好きなんだろうか。
『桐島、部活やめるって』みたいなのでリア充が非リアに敗北みたいなのやってたけど。
好きになれないが、周りがワイワイと誉めそやすから、仕方なく付き合わざるをえない。
俺は本当は、将棋とか、絵画とか、映画評論みたいな、クッソ地味な話がしたい。
しかし、そういう話はウケナイ。
リア充がウケル層ってどこかといえば、女だ。
イケメンとか、高身長みたいなのを取り込む力がリア充は強いらしい。
一方で、もしかしたら本当に皆リア充が好きなのかもとも考える。
ポジティブでないと、子供を残すという話にならないんじゃないか。
子供を残さない感覚ってのは、いくら正しくても否定するように遺伝子が働くんじゃないか。
イケメンが、非リアのほうがいいよーってなれば、多分この世は非リア推しの風潮になるように思うんだけど。
多分それだと女が楽しくないんだろう。女に受けないものをやってもリア充はセックスできないし、マスコミは煽れない。
でもさ。
純粋な楽しさや、レベルの高さで言えば、圧倒的に非リアだろうって思うけどさあ。
『グミ、チョコ、パイン』みたいなのでも、そんなの言ってたかなあ。
女は流されやすいし、流行に弱いから、バンドみたいな、クソ下らないリア充趣味が世の定番になるんだろう。
って思うんだけど。
なぜ世の中リア充ノリなのか、分からないんだよなあ。マジでつまらない。
『桐島、部活やめるって』みたいな感じで、イケメンが映画作りやってますみたいな風潮はやらないかなあ。だめかあ。イケメンにメリットないよなあ。
つか、仮にイケメンが来ると、女が来るから、女が来たらその分野がつまらなくなるから、ダメか。
そう考えると、リア充趣味って、女や馬鹿リア充を隔離するための分野で。
本当に面白い分野は非リアに任されてるってことか。
なるほどな。働き蜂と、女王アリみたいなもんか。
「俺はそれを知っている」という自意識を介在させて見ているから、そういう心理に陥るのではないか。
すこし余計なお節介、いやお説教をさせてもらいたい。その高尚な自意識を消し、赤ちゃんのような無地でフラットな心持ちで鑑賞するスタイルを会得すれば、きっとレパートリーは広がる。この手の自意識は、「SFとしてはガバガバ」「何々のパクリ」などと言い放ち勝手に冷めてしまうアンチ気質の人々と同じ種類のもの。そんな上から目線で、あまつさえ「あぁ、今だけ受ければそれでいいんだな」なんてメタな目線で作者と対決するような物腰では、作品に込められた繊細な表現や演出の意図を取りこぼし、美点を感じ取れずに素直に感動できなくなってしまうだろう。
作品鑑賞は自分と作者の知恵比べではない。美意識の対決でもない。そういう楽しみ方をする人もいるかもしれないが、元々は作品自体を楽しむために見ているはずだ。
作品鑑賞とは、作者のノリに合わせることで、作者の作りし世界に没入しようとするごっこ遊びだ(小説好きな人はこの能力が高い)。とはいえ、ごっこ遊びが苦手な人でも、没入できる作品はある。矛盾のないように記述を凝らした、完璧主義の脚本ならば、誰でも没入できるのだ。とくに海外の大作あたりなら、必然的に精緻で上品なストーリーになる。文化の壁もあるから「俺はそれを知っている」状態も起きにくい。でも、そういう創作姿勢は、一つの美意識ではあるものの、絶対正義ではない。絵画でいうと写実主義だけを評価するようなものだ。
幼児と会話するときにあなたはどう意思疎通を図るか考えてほしい。その時のあなたは柔軟に好意的に欠落を補完しようとする。その時と同じような創造的な姿勢が、作品鑑賞をする読み手にも求められるのだ。なぜなら、作品というものは幼児に等しいものだから。それほどに、独自の世界観を持っていて、少しずつしかその全容が見えてこない存在であるからだ。そう捉えてもなお、作品と向き合うのが厳しいと感じる、あるいは得たものが少ないと感じるなら、それはあなたには合わない作品なのだ。対象読者ではなかったのだ。そうしてただ去ればいい。でもそれは寂しいことだ。寂しさを生んだ原因を作品だけに求めないでほしいと思う。
去年の春ごろにWAIS-Ⅲ受けたときの結果が出てきた。
急に家から出られなくなって心療内科にかかり出して、その流れで受けたやつ。
そのうちブログでも始めたときのネタにしてみようかと思っていたけど、
めでたく復職もできたことだし、そこまでの時間を捻出できそうにないのでここに晒しておきます。
[27歳・男]
総合IQ | 120 |
言語性IQ | 116 |
言語理解 | 124 |
作動記憶 | 76 |
動作性IQ | 120 |
知覚統合 | 125 |
処理速度 | 92 |
平均は10、平均範囲は7~13、Hは有意に高い、Wは有意に低い
単語 | 17/18 | H |
類似 | 13/18 | |
知識 | 13/18 | |
理解 | 17/18 | H |
算数 | 12/18 | |
数唱 | 3/18 | W |
語音整列 | 4/18 | W |
絵画配列 | 15/18 | |
絵画完成 | 15/18 | |
積木模様 | 13/18 | |
行列推理 | 14/18 | |
符号 | 8/18 | W |
記号探し | 9/18 | |
組み合わせ | 13/18 |
個人内でできることとできないことの差が激しく、能力の凸凹がかなり大きい。
短期記憶系が弱いが、特に聴覚的情報の短期記憶が弱く、視覚的情報の方が得意。
(全体的に弱い)作動記憶の中では、算数が平均値に届いているが、問題の聞き返しがかなり多かった。
ちょっとした室外の話し声や足音で集中が阻害されたり、課題を聞き取れなくなる様子が多く見受けられた。
試験中に注意力を要する課題を課された際に、集中し始めると鼻歌やリズムを取るような動きをしていた。(本人は無自覚)
私の場合投薬も今のところしていないので、特に診断で何かが大きく変わったということはないですが、
自分が何が得意で何が苦手なのかの傾向がはっきりわかったことで、
自分の努力不足だと思って気合いや練習や他人のアドバイスとかで何とかしようとして失敗し続けてきたことに対して、
相手してくれてありがとう。ノンバーバルコミュニケーションを意識するってのはまあ俺も20年ぐらい前に通った道ですが、一周して(?)やはりそれって不要な情報なんじゃね?って思うに至ったんですよね。
会話時においても言語情報は7%なんて言われますけど、どうもそれを意識すると話がややこしくなるだけではないかとここ数年思っているのです。相手が言語化したものが、相手が理性をもって表現するに至ったものなんだから、それに集中すべきなのではないかと。話がそれましたけど。
絵画においても下地の状態とか絵具の盛り上がりなんてものは偶然の要素が大きく、そこに囚われると本質がぼやけてしまうのではないかと思うのです。