はてなキーワード: 呉服とは
三代:茶屋四郎次郎 清次(ちゃやしろうじろう きよつぐ、天正12年(1584年) - 元和8年7月16日(1622年8月22日))
二代の弟で、長谷川藤広の養子となっていたが、兄の急逝のため江戸幕府の命で急遽跡を継いだ。呉服師の一方で藤広の長崎奉行就任後は長崎代官補佐役などを務める。1612年、朱印船貿易の特権を得ることに成功し、主にベトナム北部に船を派遣し、莫大な富を得た。その財産によって茶道具を蒐集し、本阿弥光悦らの芸術支援にも熱心であったが、1622年に38歳で死去した。
しばしば俗説では、徳川家康の死因はタイの天ぷらをたべたことであるとされ、その天ぷらを家康に勧めたのは清次とされる。『徳川実紀』東照宮御実記附録巻十六には、以下のような話が記載されている。元和2年(1616年)1月21日、駿河国田中で鷹狩を行った際、家康は清次に上方での流行を尋ねた。清次は「タイをカヤの油で揚げ、その上にニラをすりおろした物をかけた料理」が流行っており、自分も食べたがとてもいい香りがしたと答えた。家康は調理を命じてその料理を食べたが、その夜に腹痛を訴えたという[5]。
いわゆるアスペでなくても利害関係があったり信者ならどんなトンチキな庇い方だってするぞ
例:Valentino(ヴァレンティノ) が 2021年3月末頃にやらかした『帯(kimono-belt)踏み歩き広告』事件
日本和装の社長だが、広告に出演したモデルKokiの父、木村拓哉が『日本和装』のCMに出演して
利害関係があった為
アスペ夫・もしくは親にすがって生きなきゃいけない可哀想なあたしさんな気がするけど、
他人の感情・体験をトレース出来無いとか物事の認知の仕方とか定型発達とかの話以前に
増田が持っている良感情・良概念をそもそも持ち合わせていない、持っていても極めて薄い可能性がある
当たり前の話だが正しく実感として認識できている人は少ないのでインパクトのある言葉を使うと
『シリアルキラー(犯罪者)ですら持っている良感情・良概念を善良な一般市民であっても持ち合わせていない可能性がある』
社会的に得をするので良感情・良概念があるように振る舞っているだけで、実際はところどころ欠けてたりするもんだ
内容については、言いたいことは分かるし、概ね同意。
ただ、「振袖を成人式でしか着ないものと刷り込みをしたのが、呉服業界なら、そこから改めよ」という話は、少し疑問。
そもそも、「着物が売れないから、せめて単価の高い振袖が年に数着売れればいい」という発想で、「成人式という晴れの日で振袖を着よう」というプロモーションが打たれたのではないか。
「礼服だから、シーンに合ってればいいんだよー」と言われても、そもそも成人式でもなければ振袖なんて着ないのである。
(全ては着付けのめんどくささのせい)
まあ、頼みの綱である成人式が来年も無事開催できるか分からない今、業界が変わらなきゃいけないことは事実だ。
がんばれーーー。
悲しいことに俺の青春と人生は、オウム真理教の影響を大きく受けている。
杉並区の高校に通っていたことも、俺の精神をオウムで埋めることに拍車をかける要因になっていただろう。
彼らの一部は愉快な教祖のはりぼてを被り、ある者は象の着ぐるみに身を包み、あるいは象の帽子を頭に乗せている。
特殊なコスチュームを持たない信者らは、サマナ服と呼ばれる修行用の衣服をまとい、風船やら麻原彰晃のマンガを配ったりしていた。
もちろんBGMは例のマーチやらアストラル音楽という、キャッチーでありまた環境音楽のような不思議なものである。
俺は国語を筆頭に社会科、政治、そう言ったいわゆる「文系」科目は苦手ではあったものの、そんな俺でも「選挙権を持たない子どもをメインターゲットとしている活動」が、少々不自然であると感じていた。
そりゃそうだ。
風船はただの風船ではなく、教祖の似顔絵がプリントされているのだ。
高校生に配られる小冊子には、確か空中浮遊できるまでの修行の様子が描かれたマンガなどが掲載されていたが、しょせん高校生などアホの集団であり面白がってそれを貰うのだ。そして教室の後ろのロッカーの上には放置されたそのチラシが散乱していた。
男の子は好きなんだよ。
秘密基地のようなものや、仲間をコードネーム(ホーリーネーム)で呼び会う秘密結社感が、想像力をかきたてるのだ。
ではその秘密結社に入りたくなったのか?と言えば、残念ながらそれは無い。
「なぜこんな怪しげな組織に入りたくなるのか?」と、信者の心理や精神構造が気になって仕方なかった。
ずっとだよ、ずっと。
彼らが大きな事件を起こし、事態が収束していくまで、いや、それ以降もか。。
「そこに何かの救いがあったのだろう。」と漠然と思っていたが、なぜソレなのか?ソレでなければいけなかったのか?
彼らは事件を起こした。
自宅最寄り駅の野方駅近くには、呉服屋の上にオウム真理教病院があったが、そこもまた事件の舞台となってしまった。
震撼した。
にも拘らず、日々テレビで報道されるオウム真理教の情報は、心を揺さぶったのだ。
サティアンと呼ばれる施設には秘密化学工場があり、ヴァジラヤーナ号とかいうクルーザーを所有していたり、次々と明かされる関係者のホーリーネーム、挙げ句の果てに報道陣が居る目の前での暗殺まで……
笑えない、笑ってはいけない。
笑えるわけがないのだ。
……にも拘らず、興味が絶えないのだ。
事態が収束し報道される情報の減少に、軽い寂しさすら覚えたのだ。
終わりが近づくことは良いことであるはずなのに、だ。
心を返して欲しい。
俺の心も脳細胞も、そんなことを考えるためにあるわけじゃあない。
そんなことを覚えるためにあるわけじゃあない。
心と脳細胞を返して欲しいのだ。
教祖は死んだ。
これで本当に、人々の興味も、記憶も、薄れていくのだろうか?
それとも、まだあの教団から派生したいくつかの組織が存続している以上、しぶとく人々の記憶に巣食い続けるのだろうか?
人々の……というより、俺の、だ。
こんなに、こんなに興味を注ぎ続けてきたのに、一度たりとも「入りたい」と思ったことは無いのだ。
とある呉服屋さんが作ったアイヌ文様の浴衣が抗議を受けて販売中止になったそうだ。
知らないうちに起こって知らないうちに鎮火していた。
まぁそれはいい。販売中止は呉服屋の判断でありそこに異議を唱えるつもりはない。
気になったのは販売中止を求める人の多くが自身は『和人』であると自認しており、
これは我々『和人』がアイヌの文化の盗用しているケースにあたり『アイヌ』に失礼だ、という理屈で抗議していた事である。
「アイヌが着るならいいけれど…」というようなツイートを見かけて驚いた。
ここで言われる当事者のアイヌとは一体どういう人を指すのだろう。
このツイートをした人達の頭の中にいる許可を取るべき窓口としてのアイヌ、アイヌ文様の入った服を着てもいい当事者のアイヌとは一体誰なのか。
ひとりひとりに聞いて回るわけ?誰が?
と考えはじめたらなんかイライラしてきて今これを打っている。
「私もアイヌの血が流れているがこれの何が悪いのかわからない。
と言っているツイートを見かけた。
そう。これこれ。
私も同じ気持ちだ。
私にはアイヌの血が流れている。と自認している。
今は北海道には住んでいないが親戚はほぼ道内の一ヶ所に固まっている。
アイヌといってもアイヌ村とかアイヌ町とかに固まってるわけじゃない。
みなさんご存じの通り、残念ながら現在は今流行りの漫画の中に描かれているような暮らしをしているアイヌは存在しない。
単純にアイヌと呼ばれていた人達の血の連なりの中にいる人は、数の上ではそれなりに存在する。
「その血が流れている」という事を認識している“自称アイヌ”達が散り散りにいるだけだ。
と私は思っている。
私はこの年代にしてはアイヌの血について家族から比較的詳しく教わった方だと思うが、
そんなアイヌとしてのアイデンティティがある家族でもこれについては大体同じ感覚だと思う。
もちろん様々な歴史の流れの上でそうなったのだが、そういうのはwikiでも読んでくれ。
その散り散りに暮らす自称アイヌの中には文化研究や普及に熱心な方や殊更民族としての誇りが高いアイヌが居るのも事実だが、
他のアイヌが彼らこそが真のアイヌだ!と思っているかというとそんな事はないし、
逆に彼らのようなアイヌになかなか複雑な気持ちを抱いているアイヌも居るし、
活動家みたいな人もいるね、みたいな印象だった。
でも自称和人の皆さんだって正しい日本文化に精通し研究や普及に熱心な方を見て
これこそが真の日本人だ!とは思わないだろう。
そんな感じ。みんな色んな人が居る中のひとり。
少なくとも血が流れている私はそう思っているんですけど、
抗議した自称和人さんが言うところの当事者のアイヌって結局どこにいる誰の事なんですかね?
当事者に聞け当事者アイヌが見たらどう思うかって言いますけど、
じゃんじゃんやれどんどんやれ、誰がどう着てもいいです!!
個人の感想ですけどね。
指摘されてる方もいるけど実はアイヌ文様の和服は歌舞伎の舞台衣装などではなく、現行品としてすでにある。
なので今更感もある。某漫画が売れてるから便乗商売だろって言いたいわけか?だとしても別によくない?
あとTシャツとかスカートとかもあるからね。私も持ってますが。
でも私自身はアイヌ文様を見かけ親しみを感じデザインも気にいったので購入した。
それだけ。
でも今後着づらくなってくるよこんな流れになったら。
そもそも抗議した人からすれば意味もわからず身に付けてる時点で
私も不勉強で文化を踏みつけにする人間という事になるんだろうから。
もし私のような「アイヌの血が流れているだけ」の人間が自前のアイヌ文様のものを身にまとっている時に
赤の他人にリアルで「お前本当にアイヌか?そうじゃなかったら文化の盗用だぞ!」と迫られるという事態に遭遇したら、
逆にアイヌの血が流れていな人がそのように迫られた時は謝らなくてはいけないのか?
またどこからか正義の人が現れて「当事者アイヌに気持ちを聞いてみよう」と
言い出すのだろうか?
アイヌにも色々いるのですが、なぜ「当事者のアイヌ」なんて言葉が出てくるのだろう。
今回抗議した自称和人が想定している“呉服屋と直にやりとりすべきアイヌ”って一体誰なんですか。
もしや私が知らないだけでアイヌ協会が正しいアイヌ認定証でも発行してんだろうか?
もうはっきり言って今現在普通に暮らしているアイヌの血が流れてるものにしてみれば
『当事者のアイヌ』なんて言葉が自称和人から出た事の方が浴衣より拒絶感があった。
誰がお前はアイヌだと決めるのか。
その時にだけ出てくる正しいアイヌ。
こっちはあなた方一人一人が本当の和人かどうか確かめようなんて思ったことすら無かったのに。
突然「当事者のアイヌに聞いてみよう」なんて正義面して言われる。
正直なんか裏切られたような気持ちになった。いい事してると思って何の疑いも無いんですもん。
「アイヌの職人さんが自覚的に帯として作って収入を得るということならまだ良い」
協力するアイヌ、正しい知識のアイヌ、作って収入を得ていいアイヌ。
これ正しい事言ってるつもりでめちゃくちゃグロいですよ。
それを私が昔話として聞いて「クッソー!ムカつくな!」と思う事と
今現在タイムラインで正義面して我々がアイヌを守ろうという話をされる事や、
謎の反省をされる事や、
そのツイートをいい事言ってる!正しい文化を守ってあげるからね!といわんばかりに
自信満々にRTされる事に「うるせー!!」と思う事は両立する。
ムカついて一気に打ったので正直めちゃくちゃだが最後にもう一度。
今回呉服屋に抗議したような、自分達は政治的に正しいと思っている方々。
一体あなた達が守ろうとしてくれたアイヌって今現在どこにいるのでしょう?
私はその中に入ってますか?
最近よくある、○○ユーザーなら△△プレゼント!とか□□無料!みたいなやつ
あれに並ぶ人を見てめちゃくちゃ嫌悪感があって、なんでかなと考えてみたんだけど
そのただで貰えるものだけもらって帰る、みたいなのって恥ずかしくない?
うわーこいつただでハンバーガーもらうためだけに20分も並んでるよ、みたいな
「今度○○で食事のあと話題の△△の演目にご招待するツアーがあるんですけど」って声をかけてくれて
私も何も考えないでまぁ美味しいもの食べられるならってついていったんだけど
でもうちの親は今日は買う気ないし演目観に来ただけだしって何も買わなくて
販売所で1時間近く何もしないまま待ってて、劇場に移動するの待ってて
それが凄く恥ずかしかったんだよね
ただじゃないじゃん、ここで着物を買うこと前提で食事や観劇をプレゼントしてくれるっていう話じゃんって
でもうちの親はこないだ着物買ったからサービスで食事と観劇をプレゼントしてもらえるっていう感覚で
なんかこの思い出が強すぎるせいか、タダで○○あげます!みたいなのにのっかるだけのことを
凄く恥ずかしいと思うようになって
実家の呉服屋も、私の母が子供のころからすでに当然のように斜陽業種だったらしいけど、祖父が店を継ぐ時に方針転換して、粋筋や芸事や芸能関係の人が誂えるような少し特別なものばかりを扱う店に変えたんだって
呉服に関わる色んな職人さん、仕立て屋さん、洗い張り屋さんなんかも一流の職人さんに何とか続けてもらったり援助して後継者を育ててもらったりしてた
そして今でも生き延びてる。つーか他に頼める店がないってんで繁盛してるらしくて、祖父は亡くなったけど兄が継いでいる。
フィルム現像受注頼み、それも外注して利ザヤだけ取ってるようなお店は、そりゃ淘汰される側だってだけで、街の写真館でも生き延びているところもあるわけで
30年ぐらい前ですでに現像代無料!プリント一枚XX円!お安い!なんて過当競争状態だったんだし、デジカメが出る前からすでに生存戦略を間違ったのではと思う。
兄は酔うと、婚礼専門にしたところやB反を扱いはじめたところなんかは結局店を畳んだなぁ…じいさんは商才があったんだなってしみじみ言う。
上野 東京国立博物館 「生誕150年 黒田清輝―日本近代絵画の巨匠」 -5/15
上野 東京藝術大学奏楽堂 「サティとその時代 世紀末からベル・エポックへ 今日は一日、サティの日」 5/15
渋谷(神泉) 渋谷区立松濤美術館 「頴川美術館の名品」 -5/15
新宿(初台) 刀剣博物館 「鈴木嘉定コレクション寄贈品展」 -5/15
清澄白河 無人島プロダクション 「小泉明郎展『空気』」 -5/15
銀座 教文館ウェンライトホール 「偕成社子どもの本とあゆんだ80年」 -5/15
銀座 メゾンエルメス・フォーラム 「YÔKAÏNOSHIMA シャルル・フレジェ展」 -5/15
両国 江戸東京博物館 「近代百貨店の誕生 三越呉服店」 -5/15
日本和装といえば、無料着付け教室を全国で展開して、CMも打ってるアレ。受講生に着物やら帯やらを売って、そのマージンで運営しているわけで、当然講座中にも「着物買え」っていう機会を設けている。それが「セミナー」。メーカーから問屋を複数とおすのが通常のところを、メーカーから日本和装一カ所を通すだけなので、呉服屋から買うより安い、たぶんメーカーも問屋への卸より上乗せしているんだろう。で、講座終わっても勝手知ったるところに頼む流れになるので、生徒は長らくお客さんになる、と。そういう商売なのである。
着付けを習う=初心者=着物仕立てたことはない、というのが通常想定されている。だから、いろいろ見せられ、呉服屋で買うより安いですよ、と言われて、せっかくだし一揃えはいいものを、となって買ってしまう。恐ろしいね、セミナー。
しかし、だ。
着物をどれだけ着るかは、まだ未知数の段階と言っていい。そもそも、’いい着物’ではなく気軽な小洒落た普段着として着物を選んでみたい、という程度の人もいるだろう。今なら、ポリエステルの可愛い柄の着物や半巾帯が気軽な価格で手に入るのである。むろん、正絹の方がいいに決まっている。だが、高価で手のかかるものを最初から持つことが良いとは言えないだろう。
それを、「いいものを持てば、着る機会を積極的に作るようになる」「ポリエステルは良くない」「自分への投資」などと言い立てて30万円の帯(おそらく問屋を複数通ったものよりは安いのであろうが、一般市民がぽんと払うにはやはり高い)、30万円の着物を買わせるのはいかがなものか。
なお、私は普段着としてポリエステル、ウール、デニムの着物(自宅で洗えるのは重要)と半幅帯や作り帯を愛用し(帯で腰が支えられているのは、楽なのである)、つい先日別ルートで着物と帯の仕立てを頼んだばかりである。つまり、セミナーだろうが何だろうが要らんのである。金もない。ただし、仕立ての件についてはセミナーの場では告げない。面倒なやり取りを増やす気はないのである。「自分に使える金はない。すっからかんである。」という設定を貫く方向で臨む。ルールはこれのみである。
今回のセミナーとやらは、着物界隈では有名らしい帯メーカーのもので、会場には色とりどりの帯が持ち込まれ展示されていた。帯のほかに着物や襦袢の反物もある。これがミソなのである。
午前中は西陣織の製法や糸などが紹介され、帯に触ることもでき、なかなか興味深く面白いものであった。置かれている帯はたしかに質がよく、思いのほかモダンでお洒落で大変魅力的である。
午後からは、この素敵な帯を中心としたコーディネート、と称した販売(いくさ)である。
まず、好みの帯を展示されたものから選ぶ。せっかくだからと二つ選んだ。
「どんな着物と合わせたい?」
では、とひとつ面白い生地があったのでそれを選ぶ(なお、帯、着物とも、私が仕立てに出したものと色合いを似せた(特色は全く違うのだが))。
さっそく反物を着せられる…着物はほどくと反物に戻る、というのがこういうときによくわかる。反物も帯もとても良い。おしゃれである。金があれば買うな。しかし今は金がない。うん、ないぞ、金は。
やはり、この色は良いよね、と数日前の自分の選択にも満足したところで、戦のはじまりである。
「どっちの帯がいい?」と当然買う前提で言われる。
こっちがいいが、今は買う金がない、という旨を述べると(自分の名誉のために言っておくが、着物と帯ふたつ買う金はある。がこれ以上着物に使う金はない。)、
「月にいくらなら払える?」と言われる。
何言ってんだこいつ。しかも勝手に計算始めてひと月なんぼの何回払い、と、おいおい着物と帯2つのお値段じゃねーか。
分割でも払う金はない、と言うと「実家ぐらしで余裕はあるはず」(そんなこと言った覚えはない)「月賦があるから仕事を頑張れる」(追いつめられてるだけじゃねーか、アホか)「この機会を逃したら二度と買えない」(毎季新作出てるから、別のものでも気に入ったものには毎年出会えるだろ)と、まあ、想定問答集くらい作ってあるんだろうなと思わせるやり取りが続く。
人に借金させることに何らの呵責もないのである。この人、何パーセントもらえるんだろう、とうんざりと考えながら、ヒトヤマ当てたら何ぼでも買う、と言っておく。
分割払いは借金なのである。債務である。服のために借金するか?必要でない服飾品の購入による債務負担は浪費であって、破産の場面では免責不許可事由として申立書に記載すべき事情である。生活を圧迫してまで着物を買う義理などないし、そんな義理があったらすでに色々ヤバい。弁護士か精神科医に相談してくれ。
「ウールだとか木綿だとかは、ジャージみたいなもの。コンビニ程度にいくならまだしも電車に乗って出掛けるには論外」と人の持ち物をdisるdisる。うるせえ黙れ。
とっかえひっかえできる価格の範囲で、ポリのキュートな柄や、デニムやウールの素朴な風合いを楽しむのは、H&Mやユニクロの世代には普通の感覚ではないだろうか。そのなかで、一生ものと言えるような、自分の気に入ったものを買うこともあるかもしれない。だが、それを他者に強要されるいわれなどないだろう。
こんなことやってるから、和服廃れるんやで…と謎の関西弁を胸の奥で繰り返しつつ、右から左に受け流すこと数十分、私が頑に買うと言わないのでやがて売り役はスーッといなくなった。
ふう、やれやれ。
やっと解放されて、気になっていた草履を検分する。草履はなかなか足に合うものがなく、下駄と1000円草履でしのいでいたので、足に合えばこれを機にひとつ欲しいところではあった。まあ、現にはき心地もよく、台の色が選べ鼻緒も帯地のシャレオツなのを選べたので、5万と高額ではあったが買うことにした。草履ばかりはどこに行ってもこれ、というものがなかったのでよしとしよう。
さて、時間もなんぼかあったので、半巾帯を眺めていたら、またも帯を出してくる。いわく、両表の仕立てができるから、好きな柄を選べと。へーへー。片面10万ね。へーへー。でも、模様はシャレオツなのである。和柄スキーとしては眺めるだけで楽しいので、最後まで買うとは言わずじっくり眺めさせてもらった。最後には、金がないから、宝くじ当たったらな、と断ったが。すると、分割払いにして、宝くじ当たったら残額一括で払えばいい、と。てめえらの血はなに色だー、とレイの真似くらいしてもよかろうと思う。
個人的見解であるが、襦袢は普段着用なら自宅の洗濯機でガンガン洗えるものがいい。肌襦袢を着るとしても、こまめに洗いたい。絹では自宅の洗濯機で洗えないので、絹で襦袢を仕立てるとしたら、それは宝くじが当ったり石油王に嫁いだりして、洗濯ごときに煩わされないようになったら、である。肌触りやら着心地が如何に優れているとしても、洗濯という現実から目を背けるつもりはない。
と言うと、案の定
「ポリエステルじゃダメよ〜、襟の袷が決まらないでしょう云々」
あー、はいはい。言ってろ。デュポンの回し者ではないが、石油製品であるところの襦袢の洗えるという最大の利点に軍配である。
なお、いい着物用になる絹の襦袢はお下がりがあるので当面それをあてる予定である。
この頃になると、帯やら着物やらを見すぎて頭も朦朧となり、受け答えも面倒になっている。とにかく草履以外は買わねえぞコンチクショウ。
で、ほかの受講者は、というと。
私を含めて4名いて、2期以上受講している人はさすがに買っていなかった(既に数着買っている)が、少なくとも一人は買っていた。もうお一方は分からない。私はその行方を見届ける余裕もなく買え買え圧力と戦っていたからである。
要らないものは要らない。金はない。借金なんてもってのほか。という強い意志をもって臨まないと、ほわわん、としていくとつい買ってしまいそうであるおそろしや。
恐ろしいことに、これはたぶんクーリングオフ対象外となる…着物はクーリングオフ指定商品にはなっているが、店舗に消費者自ら足を運んで購入した場合は除かれる…セミナーに自ら申し込んでいるので、店舗に自ら足を運んだ形になっていると思われるのである。
クーリングオフではなくとも、強迫で何とかなるかもしれないが、なかなかハードルは高い。
なんかもうメンドクセーから、草履の代金払わないで講座の残りもばっくれちまおうかな…。と思わなくはないのである。だが、あの草履は気に入ったのであれだけ手に入れて、しかる後にばっくれるかな…。