はてなキーワード: 哲学史とは
美大の人が哲学の領域ですでに議論されることの入口の傍の石をつつき回して、不思議そうな顔で佇んでいるのをよく見かける。しばらくしてもあんまり理解や考えは深まってはいなそうだしなんか気づいたら勝手に病んでいるので、ちょっと本読んでみない?って言いたくなる。ちいかわがコケるのを傍観してる人みたいな、そういう余計なお節介心が芽生えてしまう。紀元前から今までうじゃうじゃいた暇人たちが、生涯かけて悩み尽くして置いていった思想の断片が哲学史には詰まってる。哲学をガッツリやるのは無理でも、哲学史をさらって巨人の肩に腰掛けてみたらちょっと進むんじゃない?芸術系ではそういうショートカット後の一歩より、真っ白な状態から数年かけた一歩の方が大切なのかな。分からないけど。
仕事→飽きた
セックス→飽きた
酒→やめた、飽きた
人付き合い→本を読み漁って努力した時期もあったけど自分は雑談や人にさほど興味がないと気付く
結婚→(上の過程で自分は明確に他人に興味ないということが分かってしまったので)どうでもいい
出産→退屈凌ぎでやるレベルのことではない(コスパ的にも道徳的にも肉体的にも)
ファッション→中国通販を知ってからユニクロすら高級に思うようになった
メイク/コスメ→ 美人のプチプラ>>(越えられない壁)>>ブスの諭吉と理解してからこだることをやめた
美容全般→50万のエステより5万のプチ整形と理解してから馬鹿らしくなった
趣味だった映画鑑賞→劇場の没入体験は魅力だがサブスク見放題(月額1000円ちょっと)を知ると一回1900円の娯楽は自分には分不相応だと思った。以来足が遠のく
趣味だった観劇→最前列から見切れ同然の席まで同額とかありえんだろと思った時点から純粋に楽しめなくなった(というかコロナ禍で行かなくても平気だったと気付く)
趣味だったひとり旅→観光客向けのぼったくり店があまりに多くて萎えた、飽きた。(国内のどこも然程景色は変わらないと知ってしまったことも理由)
アウトドア・スポーツ→目的が人付き合いではないのでどれも何回か経験したら単純に飽きた
食→健康志向にこだわるのも飽きた。ただ現代人は食い過ぎだという話はごもっともだと思う
SNS→人の食った飯などどうでもいい
YouTube→上に同じ、教養系は見るが同じ内容が多くて飽きつつある
健康管理→できる範囲の努力はするがそれでも人の致死率は100%だと思うと虚無を感じる
こいつ生きててつまらなそうだなと思われそうだけど実際つまらない。ハマると猿のように夢中になってここまで生きてきたのでこれまではある程度楽しかったのだけど、なんかもう全てに飽きてしまった。
人生は暇つぶしというけれど、これから何で暇をつぶせばいいんだろう。
スポーツ(観戦)→人に興味がないのでどうでもいい、他人の祭り
ギャンブル→一通り経験したがなにがおもろいのかわからなかった、時間と金の無駄という思いが強い
宝くじ→上に同じ
習い事→体系的に知識や専門技術を学ぶ場所ではないと理解してやめた。習い事って『教室』という名前を借りた社交場なんだと気付く、それを求める人たちの集まり(なんでそんなに人は人と交流したいんだろう)
家庭菜園→プロの栽培する大葉の方がずっと美味しいと気付き飽きる
自炊→ある程度できるようになり飽きた
創作→上に同じ、やればやるほど才能の限界を知り飽きる、おそらく承認欲求も薄いので他人に評価される喜びもあまり感じない
宗教→説法にはテンプレがあると高級時計を腕にはめた寺の息子に酒の席で聞いてからこんなもんかと思った。親の葬儀を仕切ったことで本格的に冷めた(布施の内訳を知りたい)。自分は戒名も墓石もいらない、できれば海洋散骨がいい。(八百万の神という概念の懐の深さは気に入っている、だから宗教は一応神道と答えるようにしている。新興宗教にハマる理由がわからない)
人の悩みを聞く→具体的な解決策を提示するなり行動し解決に導く人より、相手の気持ちを肯定し寄り添うポーズを取る人に対して人間は感謝すると知ってから馬鹿らしくなった、なにそれ怖いとすら思う
はてな及びSNSの炎上に参加→人に興味がないのでどうでもいい
人に興味がないことが全ての原因なのかもしれない。どうすればいいんだろう
サブスクじゃあかんのか→Netflixも見るが劇場通いが好きだったから少し趣旨がちがう
投資→ 生活防衛資金以外をインデックスに入れてるから基本やることない、投機に興味なし(マネーリテラシーの勉強はした)
子供/ペット→ どちらかと言えば反出生寄りなので命を自身の成長や暇潰しの目的にする感覚はちと理解に苦しむ。とはいえ子供も動物も好きなので寄付はしたい、将来マインドが変われば養子も大いにありだとは思うし、自分が死んでも世話をしてくれる人間がいるならペットもあり
小説→上手くはないが書ける、上と同じ
整形→した、飽きた、やめ時肝心
アナル開発→男だったら確実にやってた、らんまみたいにお湯をかぶったら男になりたい
俺が悦びを教えてやんよ→たのむわ
倒幕に立ち上がれ→すき
亡き前妻は、それで逝ってしまった→かなしいね、月並みだが奥様の分まで生きてくれ
通院/病気→大病経験済、以来肝が座ってしまった、鬱じゃないよ多分
転職→労働者から労働者にシフトするなら海外移住か起業(後者は向いていない気もする)
出家→前述の通り
ストリップ劇場→楽しそう、行きたい
歌舞伎→一幕見は経験済、コロナが落ち着いたら花道横を体験したい(大向を生で聞いた時は感動した)
「試しにやってみたけど何が面白いのかわからなかった」では? →ギャンブルや不倫はこれにあたるね
ただの三日坊主→経験値0と1は全く違う、三日坊主自体は悪いことじゃない、忘れていたような知識や経験が思わぬところで役立つこともある(Tedのマルチ・ポテンシャライトの概念は救われた)ただ今は三日坊主にすらなれないという話
プロと比較するから悪い→とはいえ餅は餅屋という分野はある、経験した上での見極は大事(香り高い大葉を作るプロ農家はすごい、私にはむりだ)
素人がプロに勝る唯一の武器が時間と愛だろが!→そうだよな、お前みたいな人が近くにいてほしい、すき
お遍路→やりたい
エクストリームアイロニング→なにこれおもろすぎる、やりたい
たくさん釣れてよかったね→前半に下ネタと不倫を書いたら皆読んでくれるかなとは思った(事実だし)にしても伸びすぎだよね
友達いなそう→ははは
捨てるならその命くれ→やだ
■※お礼
哲学やれ2→ 反出生主義を抱えながら脱出するにはどうしたらいいか、というスタンスもあると知った。個人的にこれは考える価値のあるテーマだと思った。あと飽きかけていたYouTubeの教養ジャンルに哲学史が増えたよ、ありがとう
海が山に行け→車飛ばして海眺めてきた、癒
映画館通い再開した方がいい→見る予定のなかったエヴァ行ってきた、(にわかの癖に)綾波の村暮らしやゲンドウの独白が今の自分に刺さりまくってボロッボロ泣いた、映画はいいねリリンが生み出した文化の極みだよ
海外行け→とりあえずTOEICの試験申込むときめたコスパ主義の欠点を生かして受験料を取り返すために勉強に励む(そうしないと飽きるので)
あの日はマジで空っぽになって書き殴ったけど、想像以上に多くの視点から意見が聞けた、ネガティブなコメント含め感謝してる
とりあえずまだ学べることもやれることはあんるだと分かった、ありがとう。
飽きることに飽きたました、人間の致死率は100%なので死ぬまで自分の祭りを楽しもうと思います
こんどこそ終わり
さて、後半やるか…。なんかもう嫌になってきちゃうな。ここから先、自閉症はおろか発達障害さえ出てこない代わりに、「男らしさ」がマジックワードとしてメキメキ頭角を現してきます。「男らしさ」の指標は論文によって様々であり、その点にrei氏は意識的かどうかは怪しいところですが、少なくとも段落ごとに「男らしさ」の内容が変転していきます。では読みましょう。
知らんがな。次。
テストステロン値の高い男性は顔の横幅が広くなる傾向にあり、テストステロン値の低い男性は顔の横幅が狭くなる傾向にある。そしてチー牛の元となったイラストの男性も面長であるが、先進国の女性全般に「面長の男性らしくない男性を嫌い、横幅の広い男性らしい男性を好む」傾向が確認されている。例えば、米国で若い男女を対象としてスピードデート研究を行ったところ、男性の顔つきの男らしさが短期的な関係に対する女性の関心の差異の34%を説明していることが示された。
https://ink.library.smu.edu.sg/cgi/viewcontent.cgi?article=2727&context=soss_research (論文d)
スピードデートっていうのはいわゆる婚活パーティ。この論文dでは、顔つきの男らしさを、テストステロンに影響されると考えられている顔の縦横比で表しているみたいです。多分婚活パーティでの女性の反応と男性の顔の縦横比の関係を調べたんでしょう。で、rei氏は"先進国の女性全般に「面長の男性らしくない男性を嫌い、横幅の広い男性らしい男性を好む」傾向が確認されている。”と書いてますが、この主張の出典はどこですか?論文dの先行研究に触れてる部分にもDiscussionにも、国の発展度合いは女性の嗜好と関連性がある、といった記述は見受けられません。関連性が本当はあるのだとしても、米国内の研究だけを例に挙げて、"先進国の女性全般に"と言い切るのは流石に通らないです。もっとも、顔の縦の長さや横の長さが女性にとってなんらかの関心を引く要素の一つであることは間違いなさそうです。これはさすがに誰か気づいて指摘してるだろうと思うんですけど、この論文dを出したのは米国の大学ではなくてシンガポールの大学なんですよね。ざっと見た感じ、アメリカで行われたともアメリカ人を対象にしたとも書かれてません。次の段落に移ります。
論文eの題は"Dominant looking male teenagers copulate earlier.”、和訳すると支配的な見た目の10代の男子はより早く性交する、ですね。このリンクをクリックしてもらうとわかるんですけど、Abstract(要約)しか書いてません。本文はどこでしょうか?試しにCitation(引用)って書いてる下のあたりのリンクを踏んでみましょうか。でもやっぱりAbstractしかありません。実は、論文ってタダで読める訳じゃないんです。検索して出てきた論文を読みたいと思っても、お金を払って電子ジャーナルや学術誌を購読しないと読めないことが多々あります。大学生や研究者の場合、基本的に大学が代わりに費用を負担しているので割り当てられたメールアドレスを使えば無料で読めます。私も大学のアカウントでサインインして読みました。大学生や研究者でなくても大学図書館に行ってコピーすれば印刷代はかかりますが、可能でしょう。しかしこのご時世、ほとんどの大学図書館は解放されていませんでした。以上を踏まえると、rei氏は電子ジャーナルを個人購読していると考えられます。なんと素晴らしい心がけ!一般企業勤務年収700万の会社員であるrei氏が支払う購読料で出版不況に喘ぐ学術誌業界はきっと大助かりのことでしょう。みなさんにこの感動を伝えたいあまり、すっかり前置きが長くなってしまいました。では論文eの内容を概説します。
アメリカの7thGrade、8thGradeの男の子、日本で言えば中一中二の男子に対して、男子の性行為経験の有無、身体の男性的成熟度、リーダーっぽい支配的印象の程度、イケメンな印象の程度の四要素間の相関を統計的処理にかけて調べました。その結果、身体の男性的成熟が進んでいて、支配的な印象を与える、イケメンな男子ほど性的活動が活発な傾向があると判明したそうです。
論文eは捉えがたい「男らしさ」を多面的に定義づけ、そして「男らしい顔つき」の男子はより早く性交渉する機会があると分析したわけで、なかなか面白いなあと思ったりするんですが、それをrei氏は"顔つきの男らしさは童貞卒業の早さを予測する因子であることが示唆されている”の一行で済ませてるんですよ。まとめ方が雑。情報取りこぼしすぎ。ちなみに論文eによると支配的な顔つきの男子やイケメンな男子は眼鏡をかけていない傾向があったそうですが、この記述から、眼鏡をかけているチー牛顔の男子は性的経験に乏しい、とまで言えるのかどうかは正直よくわからないです。次の段落に移ります。
しかしながら、チー牛顔がここまで忌避されるのは「豊かな先進国だから」という事情もある。たまにインターネットでは「所詮この世は弱肉強食強ければ生き弱ければ死ぬ」みたいな事を言う人間がいるが、この世は弱肉強食ではなく適者生存であり、また社会が豊かで平和だからこそ、そのように言ってられる面がある。人間は戦争や災害時など本当に弱肉強食な環境下では、所謂「群れ」になる。そして野生動物の群れを見れば分かる通り、群れ内では弱肉強食の摂理は働かず、互助や相互監視や役割分担といった形で群れ内は「平和」な形になる。これは考えれば当然の事であり、本当に厳しい環境下において同じ種で争っている場合ではない。要するに個人主義は社会が平和である事を前提とした価値観なのだ。
色々トンチンカンなこと書いてるrei氏のこのnoteで、最も意味不明な箇所がここです。何を言いたいのかマジで把握できなくて、読むだけで一時間くらい費やした。ここまで可読性が低いのはいくつか理由が考えられて、まず接続詞がおかしい。段落頭、「しかしながら」は逆接の接続詞のはずですね。前の二段落でrei氏が言いたかったであろう主張は「女性は男らしい顔を好む」のはず。しかしながら、この段落では突然、「平和な社会状況であることが人々の行動に与える影響」の話が出現します。新規情報です。新キャラです。「しかしながら」の前後で予想を裏切るような意味内容の反転は生じていません。もう一つ指摘するとすれば、対立軸が不明確な言葉遣いである点。「先進国」ときたら「発展途上国」、「弱肉強食」ときたら「共存共栄」、「個人主義」ときたら「全体主義」もしくは利己主義の逆という意味で「利他主義」。こうした対義語にリードされてあっち行ったりこっち行ったりしながら議論を進めていくのが一般的なリズムな訳です。現代文の定石です。ではもう一度読んでみましょう。
……………。何が書いてあるか、何を主張したいかわかりましたか?私にはわかりません。とりあえず”この世は弱肉強食ではなく適者生存"の部分に着目してみましょう。なにやら進化論じみた雰囲気がしますね。弱肉強食と適者生存、進化論については、科学史や哲学史関連の書籍を出版している吉川浩満氏のインタビュー記事がとてもわかりやすかったので、ちょっと長いですが紹介させていただきます。
https://synodos.jp/science/17264
この記事によると、弱肉強食を世界認識モデルに組み込んでしまうのは素人あるあるらしいです。rei氏も度々モテ/非モテ論の文脈に位置付けられる文章を書いていましたね。インタビュー記事は続いて「適者生存」概念の歴史的経緯へとトピックが移ります。吉川氏によると、ダーウィニズムは進化の目的や生物の序列を認めない立場なのだそうです。そして、絶滅を免れて生き残った生物種のことを適した生物、すなわち適者であると定めましょう、というダーウィニズムの考え方を端的に表すスローガンこそが、「適者生存」なのです。生存する者を適者とみなす「適者生存」とは、ダーウィニズムにおける議論の出発点にすぎなかったんですね。これをひっくり返して飲み込んでしまうと、お前は適者でないから生存できないんだ、俺は劣っているから勝負や競争に負けるんだ、となってしまいます。これはよくない、本当によくないですよ。優生思想ど真ん中、ナチスドイツの大虐殺。そんでもってこれがrei氏の手にかかると非モテだから結婚できないんだという同語反復に陥っちゃうわけです。
わかりましたか?rei氏は語の意味をまともに調べることすらせず、雰囲気だけで文章を練り練りしてるんですよ。キリがないんで次行きますね。
それは異性選好においても同様であり、34か国の異性愛女性4483人のサンプルを使用して、社会的、生態学的、経済的変数が女性の顔の男らしさの好みをどのように予測するかをテストするかを調べた研究では、国の健康指数と人間開発指数が高い国でより強くなると報告された。男らしい顔に対する女性の好みは、子孫の生存率が高く、経済状況がより好ましい条件の下でより強いことを示している。
アッ!前段落の最後の部分、"要するに個人主義は社会が平和である事を前提とした価値観なのだ。”の意味がわかりましたよ。社会が危機的状況に陥っているときは生存を目指して仲良く男女協力して生殖に励むけれど、現代の平和で裕福な先進国ニッポンにおいて女性は利己的に振る舞うために男性的魅力に乏しいチー牛顔の人々は選ばれないのだ、ってことですね?世が世なら俺たちには女があてがわれるはずだった、でも時代がそうさせなかった、とrei氏は言いたかったんですね?うぅ、頭がクラクラしてきた……。いや、確かに人間は動物の一種だけどさ、何もそこまで野山の猿やジャングルのゴリラと同一視するのはやりすぎでないか?なんだよ、"男らしさの好みをどのように予測するかをテストするかを調べた研究”って。日本語になってないじゃん……。
https://note.com/hiroko_yayane/n/n7970f9279b51
6/17追記 ↑リンク先が謎の理由で消滅していましたが、新しく書いて頂いたみたいなので貼り直しました。
そして男らしい顔つきの男性は攻撃性、不正行為、自己中心的な衝動性、欺瞞、搾取的行動など「所詮この世は弱肉強食」マインドを持つ傾向があることが示唆されている。要は豊かで自由で安定した先進国になるほど優しい男性はモテなくなる傾向が存在するのだ。
論文gでは、顔の縦横比と攻撃性の関係しか見てません。先進国の話もモテ/非モテの話もしてません。"要は"以下の部分は導けないと思います。
それにnoteのタイトルは「何故、我々は三色チーズ牛丼顔なのか?」でしたが、なぜか結論は「先進国ほど優しい男性はモテなくなる」に着地しているんですね。
話がめちゃくちゃズレていってるんですよ。rei氏もそれに気づいてないんですよ。
でね、ようやく全部読み終わったと思うじゃないですか。まだ喋らせてください、まだあるんですよ。この記事本当にすごくて、本文の下にあるコメント欄を見てみましょう。
https://www.nature.com/articles/s41598-017-09939-y#Sec17 (論文x)
ま〜た何をどう修正したのかよくわからん論文のリンクが貼ってありますね。
私が読んだ時には既に修正されていたんですが、他の方のツイートによると、もともとrei氏は、コルチゾール値が高くなってテストステロン値が低下するから発達障害男性は「男らしくない」顔つきになるという論証の根拠として、結論が真逆の論文を引っ張り出していたみたいです。
https://twitter.com/reefedgeswim/status/1265592680915931136
この論文xは、タイトルの「ASD男児及び女児における顔面形態学的な超男性化傾向と症候学との関連」からわかる通り、一番最初に読んだ論文aの結論「ASD男性の顔は両性具有で男らしくない」とは反対のことが書かれています。時系列的には論文aの方が先で、論文xは後。そしてDiscussionの中で論文aと相反する結果について考察しています。その考察によれば、論文aの実験2の対象として選ばれたのは二十歳前後の男女であるのに対し、論文xの実験対象は三歳から十二歳の児童であることが重要な違いを生んだ可能性があるそうです。思春期の間に男性は血清中のテストステロン値が女性と比べて爆発的に増加します。この思春期におけるテストステロンがなんらかの働きをしたせいで相反する実験結果が出た可能性がある、というわけです。しかし、これまたややこしいことに、成人の顔の形に関して出生前のテストステロンが与える影響の方が出生後のテストステロンが与える影響よりも大きいとする論文もあるそうで、研究者の間でもどちらがどうだと確定的な結論は出ていないっぽい。
文章の誤リンクの件に話を戻しましょうか。可能性の話をしますが、数多くの論文を渉猟しているrei氏のことですから、貼りたい論文と題が似ているのを間違えて貼っちゃったのかもしれませんね。訂正前の論文のタイトルは"Hypermasculinised facial morphology in boys and girls with Autism Spectrum Disorder and its association with symptomatology”で、訂正後の論文は"Enhanced Cortisol Response to Stress in Children in Autism”です。Autismとin、二つも単語が重複してるじゃないですか!論文のタイトルは全体の要旨を簡潔に書き表したものですから、その中の重要な単語が二つも同じであれば、内容が近い論文だったような…と曖昧な記憶が生成されてうっかり取り違えてしまうことがあってもおかしくないでしょう、とでも言うと思ったか?ちゃんと論文読み込んでるやつがこんな凡ミスするわけねえだろ。だいたいさ、何が正しいのか誰もわからない研究のフロントラインで色んな科学者が仮説を立てて検証してディスカッションしてるような事柄の、おそらくこうかもしれない、って部分を、論文だから百パーセント正しいんだとピックアップしてるのありえん不誠実でしょ。今後まだまだ検証の余地があるって書いてあることを揺るぎない事実として取り上げちゃってるってこと、わかりますか?
reiさん、あんまり疑いたくないんですけど、本当に論文読んだんですか?
rei氏の書く文章、noteでもtweetでも、どういう意図なのか全くわからないけど、ほぼ全て漢数字が半角数字に置き換えられてるんですよね。でも恐ろしいことに、このチー牛顔を取り上げたnoteでは、3色チーズ牛丼顔と書いてないんです……。
今更だけれど思ったこと書くね。
エンタメに飽きたら、世界史の勉強をするのがいいんじゃないかな。
この元増田の言っていることの全部が正しいとは思わないんだけれど(たとえば「海外ドラマはお子様向けを卒業した十二歳向け」みたいな表現ね)、娯楽をある程度摂取するとパターンが見えてきちゃうのは本当だと思うし、たくさんの作品を鑑賞していると、脚本術について詳しくなくても、「この場面で伏線を張っているな」とか、「今このキャラクターの物語をたたみに向かってるな」とか、何とはなしに見えてきちゃうよね。
それに、月9ドラマなんかだと作業しながらでもそれなりに理解できるようにストーリーを作っているので、まどろっこしく感じちゃうのもよくわかる。自分も全然見ない。映画なんかも、友達と付き合いで行く以外は、こじらせ芸術映画をたまに見る程度。なんでかっていうと、アート系映画は脚本術に従っていない、従っていたとしてもあからさまじゃなくて、どういうストーリーになるかほとんど予測がつかない。そこが楽しいから。
で、この増田は勉強することにしたみたいだけれど、なんだかんだ言って、教養を得ることに向かうってのは、いい考えなんじゃないかな。
自分なんかは、世界史をざっくりと勉強してみると楽しかった。ちょっと古い本だけれど、中央公論社から出ている「世界の歴史」シリーズ全三十巻を、数年前に読んでみた。正確には、学生時代に流し読みをしたものの再読だ。
世界史を知っておくメリットはいくつかある。ニュースを流し読みしても大体のことが頭に入ることだ。でも、それとは別に、そもそもすごく楽しいってのがある。いろんなファンタジーとかゲームとかの元ネタを見つけるとわくわくするし、遠い国の人たちの暮らしを知って空想するだけでも、毎朝の通勤時間が豊かになる。
それと、このシリーズは、歴史と地域ごとに分かれて書かれているので、ある出来事が複数の巻で重複して触れられることがある。たとえば、モンゴルによるバグダッドの破壊なんかはイスラームの勃興期と遊牧民を扱った巻にそれぞれ出てくるし、トルキスタンで起こったムスリムの反乱は、近代イスラームの巻と清朝末期を扱った巻の両方に出てくる。
それの何が面白いかっていうと、同じ出来事が見方によって評価が全然違うってこと。当たり前なんだけれど、ある国では救国の英雄だけれど、別の国では冷酷な侵略者になっていることなんてざらだし、時代が変化することで評価が逆転したり、忘れられていた人に急に光が当たったりする。チンギス・カンはモンゴルではヒーローだけれどほかの国では災厄以外の何物でもないし、バッハやフェルメールといった人物も、忘れられていた時代があった。この世界史のシリーズも著者によってバイアスがかかっていて、そこがかえって読みごたえがあるんだけれど、モンゴルを担当した人が個性が強くて、「遊牧民文化は定住民のせいで低く評価されすぎ!」みたいな本を出していて、おかげでモンゴルの残酷な行為が若干省かれちゃっているのが難点。
これってまさに芥川龍之介の「藪の中」みたいな感じで、互いの証言が矛盾しているから頭を使わないといけなくて、下手な娯楽よりもずっと面白い。いや、自分も現在起こっている日本と中国・韓国との証言の食い違いは、あまりいい気持がしないんだけれど、それがたとえば何百年も昔のことだと、それがとてもロマンチックに感じられる。聖地奪還の情熱に燃えていた十字軍も、アラブから見れば「なんか辺鄙なところから蛮族が来たぞ」みたいな印象しかない、みたいな話だ。
話がそれてしまったけれど、自分が言いたかったのは、頭の中に複数の物語を併存させておくことで、自然と物事に対して客観的になれるメリットがある、ってこと。しょっちゅう増田で表現の自由だとかセクハラだとかいろいろと炎上したりしているけれど、ある人の意見を絶対視しなくて済むようになる。Aという視点ではこうだけれど、Bという観点からだとこういう意見が当然出てくるだろうな、ってのが読めてくる。読めてくると、「この人ならこういう反応をするだろうな、この専門家ならこういう発言をするに違いない」ってのがわかってきて、こっちも必要以上に感情的にならなくて済む。元増田は「悪化する大衆のメンタリティ」という表現で、そういう荒れがちな場をちょっと下に見ている感じもないではないけれど、議論にすらなっていない議論から距離を取ることができるようになると、余計なストレスを感じなくて済むのは確かだ。
それに、複数の見方ができるようになると、例えばムスリムから世界史を見たらどう見えるだろう? 女性史の観点からならどうだろう? って、多くの人に受けいれられている歴史の見方を疑ってかかれるようになるので、やっぱり楽しい。
他にもいろいろメリットがあって、基礎的な知識があると、ほかのことを勉強していてもすごく楽しい。古典文学を読んでいてもすごく面白いし、百年前のあの憧れの人と同じ本を手に取っているって興奮できる。文豪たちと同じ詩を読んで感動するのはいいものだ。科学や医学の歴史についてざっくりとでもいいので学ぶと、自分の生活は先人のものすごい技術的蓄積の上に成り立ってるんだなって思うし、自然科学の基礎的な素養があると、ぽっと出のインチキ治療法には引っかからなくなる。哲学史について軽く触れるだけでも、学生時代にしたような哲学的思索は、ギリシアやインドが二千年前にとっくに通過した場所だってわかってはっとする。女性の地位がどう変化したかをたどってみると、「女性は『常に』被害者だった」みたいな極端な意見には大きな疑問符をつけることができる。
それと、こうやって三十巻ざっと読んで思ったのは、自分の歴史観はバイアスがかかっていたんだなってこと。たとえば、ギリシア・ローマの歴史は一巻にまとまっていて短すぎるって思ったし、中国の歴史ももう少し細かいところに触れてほしいって思ったけれど、たとえばムハンマドの時代からアッバース朝滅亡までが一巻ってのはちょうどいいって感じられて、これってつまり自分がイスラームのことをまだまだ知らないってことだよね、って思えたりして、バランスが悪いなあって。自分の考えは、ちょっと偏っているかもしれないって、疑えるようになるってのもまた、勉強する楽しさの一つだ。
あと、いろんな知識が増えると、いろんな人が自分よりも前に書かれた本について言及しているのをたくさん見つけることになるんだけれど、この世界がまるで巨大なシェアードワールドみたいな感じがして面白い。自分が古典を読むのが好きな一番の理由がそれかもしれない。さっき述べた、互いに矛盾するような証言でさえ、この世界がどれほど「作りこまれているか」、いいかえると複雑なのかを教えてくれているみたいで、興奮する。
自分は通勤時間と昼休みにしか読書をしないエンジョイ勢だけれど、こういう勉強ってのは一生やっても飽きない気がしている。娯楽を馬鹿にするわけじゃない。でも、「娯楽の場がぎすぎすして嫌だな」ってときには、ほかにも楽しいと思える遊び場を持っておくのは、いいことなんじゃないかな。
フェミニズムやLGBTの文脈で性的という言葉を使うなら「性」ということばを生物学的な意味だけに縮減することは避けねばならないし、身体的特徴のみならず、あらゆる場所に「性」が見出されるはずである。他方で「消費」という仕方を非難するのなら、そもそも消費されない表象など存在するのかという問題が残る。
したがって、「性的消費」なる概念が批判的に用いられるとき、そこには客観的な「性」と、表象として「消費」され得ない実在が想定されていることになる。
ところで、このような実在論的な思考はまさしくプラトン以来の男性中心主義的な哲学思想の延長であって、フェミニズムや「性的」マイノリティの依拠する理論として悪手なのではないだろうか。
【追記】
つまり何が言いたかったかと言えば、フェミニズムの理論的骨子はそもそも社会学以前にその大部分を哲学に依拠しているという事実であり、またそうである以上、哲学史的な文脈を理解しないままに「性的消費」というタームを無闇に振り回すことは本人が意図する以上の射程を含み得るということ。
哲学における運動とはつまり反省であり、思考の射程を掘り下げていくような運動であるのだが、その運動には自分という主体すらも揺るがされるような危険が伴う。しかし、社会学は哲学の成果の上澄みだけを掠め取ってこの運動をたんなる気持ちの運動に矮小化してしまった。そのような運動においてはもはや危険な反省は伴わず、ただ自分を肯定してくれるような物語だけが空虚なタームとして流通する。
川添 信介(かわぞえ しんすけ、1955年 - )は、日本の哲学者、京都大学文学研究科教授。
佐賀県生まれ。佐賀県立唐津東高等学校、京都大学文学部を経て、京都大学大学院文学研究科博士課程修了。大阪市立大学助教授を経て1996年より京大助教授、教授(西洋哲学史)。2003年「西欧13世紀中葉における哲学の諸概念」で京都大学博士 (文学)。西洋中世哲学史が専門。
西洋哲学専攻で京大を出てるのに、この程度の声明文で自らの正当性が世間に伝わると考えたのならもはや救いがたい。学生側の主張が何かを一切説明しないこの、外部の人間には意味不明な「説明」とやらから唯一分かることは、「話し合いを求めた学生に一切話し合いで応じていないこの人と京都大学の姿勢」だけだ。
学生に殴られたなら遠慮無く通報すればよい。そんなものは自治とは関係ない。だが、これはどう見てもそういうレベルの問題ではない。たかだか学生ごとき口先三寸で論破できない哲学教授に、最高学府の看板を背負わせてはいけない。
http://anond.hatelabo.jp/20170314125940
ルネサンス後発展
という風に区分されそうだ。啓蒙主義でフランス革命が起きたらしいし、ルネサンスからニューエイジまでは連続的だろう。
ショーペンハウアーから19世紀だと思う。時代に合わせて出てくるものが出てきているなという印象。
http://anond.hatelabo.jp/20170314125940
これ見ながら哲学史の流れについて考えていた。
https://matome.naver.jp/odai/2133741128006688401
関係ないけど。
「本田透」と聞いて、「ああ、あの人ね」と一人の男を思い出す人はもはや少ないかもしれない。
今から10年以上前の2005年、『負け犬の遠吠え』や『電車男』のブームに反発して、『電波男』というタイトルの本で最もラディカルなオタク擁護を行った人だ。
当時、オタクは恋愛弱者で「大人に成り切れない大人」として扱われていた。そんなオタクに対して『負け犬の遠吠え』ではオタクは恋愛対象にならない、大人に成り切れないオタクが増えたせいでまともな恋愛ができなくなった、と批判し、『電車男』では「オタクを卒業して真実の恋愛を見つけよう」と煽った。
本田はそんな風潮にたいして、「いやいや、真実の恋愛はオタク側にある」と180度傾倒した思想を展開した人だ。
現実社会の恋愛は打算が絡み合い、相手を傷つけあうような暴力的な恋愛だ。それに対してオタクが行っている脳内の恋愛は、誰も傷つけず、打算も絡まない純粋な恋愛だと反論したのだ。
本田の主張はセンセーショナルだった。熱狂的に受け入れるものもいたし、極論だと反発するものもいた。是か非か、で論争となり、当時の主要な思想家は彼の考えに言及した。ほとんど彼を批判するためだけの本も出た。
本田はオタクがキャラクターを愛でるときに使っていた「萌え」という言葉は、恋愛を超克したものだと位置づけた。ネット用語だったこの言葉は一躍ホットワードとなった。
彼の主張は岡田斗司夫の「オタクは情報社会に適合した最先端の人種」というオタク擁護を引き継ぎ、さらに先鋭化させたものだった。本田は自分の考えを深掘りし、哲学史や文学史とも接続させて思想的な裏付けをも与えようとした。
このうえ、本田はライトノベルも書き始めた。それは自分の思想の「実践」だった。人類が最高に萌えられるキャラクターを生み出せれば、恋愛で傷つけ合う人々もいなくなるはずだ、という考えのもとに行われた。2005年〜2012年にかけて、ほとんど毎月のように彼のライトノベルが刊行された。異常なペースだ。
オタク生活が「思想」や「ライフスタイル」じゃなくなって、「娯楽の一部」になってしまった今じゃ、彼の本を読んでも「何この人、こんなに鼻息荒いの?」としか思われないかもしれない。当時のオタクを取り巻く状況を込みで知らなきゃ、この本の勢いはわからないだろう。
「萌え」もすっかり死語になってしまった。当時纏っていた特殊な意味合いは今ではなくなっている。
本田は2012年に『ライトノベルの楽しい書き方』シリーズの最終巻を刊行して以来、一切、本を出さなくなってしまった。
もはや自分の考えを表現することに興味がなくなってしまったのか? セールス的な要因で出せなくなってしまったのか? あるいは大著の準備をずっとしているのか?
その理由は一切わからない。更新の止まった公式サイトだけを残して、彼は長い沈黙に入ってしまったのだ。「本田透、何しているんだろう?」と言う人もいない。あれだけ論争を巻き起こした人なのに、この扱いはちょっと、いや、かなり寂しい。
村上春樹が新刊を出して、小沢健二が復帰し、林原めぐみが初ライブをするって聞いて、ふとこの人のことも思い出してしまったよ。
Qiitaで騒がせている彼の量子論の文章を読んでの感想だが,まず彼の文章には,特徴がある.それは,彼が考えた独自の前提が,何も断りも無しに出てくるということだ.
例えば,まず一つに「数学的事実」と「物質世界」という区分けなのだが,ここで「数学的事実」とは何か,「物質世界」とは何か,というのが読んでいて全く要領が得ない.
この区分け自体は珍しいことではない(例としてポパーの世界1,世界2,世界3という3論を参照せよ).
少なくとも理論で構成されるような何かと,私たちが接している「花が咲いている」とか,あるいは「鳥が飛んでいる」という風に分かるということを区別する,という考え方は珍しくない.ただし,この二元論は,哲学的な歴史からすると,余りにも「素朴」すぎる.少なくとも,この二つを構成する「意識」の問題というのは出てくるし,だからこそ「人工知能」を考えるときに,厄介な問題をはらんでいる.そして,この問題は決してプラトン自体は解決していない問題である.
例えば,プラトンのイデアを「実は数学的事実のことです」と言っている.これはプラトン思想の解釈の一つとして,このように仮説を唱えることは悪いことではない.しかし,現実問題として,例えば「1 + 1 = 2」ということ,つまり「1に対して1を足したら2になる」ということを「数学的事実」と呼ぶ場合,数学史的には体系的に矛盾が出るためにルールが調整されていっているわけだから,実際のところ「1 + 1」という式自体が,彼の言う所の「物質世界」の現れに過ぎない.
もちろん,これに対しても反論は出来る.「1 + 1はそれこそ数学的事実を物質世界に置き換えたに過ぎない.だから,『1 + 1』が表わそうとする数学的事実を変換しているだけである」と.そうすると今度は実は彼が語っている「数学的事実」というわけではなく,「物質世界」と「物質世界」の変換であるという風に考えることだって出来る.
あとから精神世界という問題が出てきていて,では上のような「何が・何を持ってして,数学的事実を物質世界に変換しているのか」という問題,これが上手く扱えないのは,このような曖昧さ故だと思う.彼は心脳モデルとして,精神世界をイデアの影だとしている.この立場は哲学的な問題としてありうる.しかし,ポイントとしては,そのように退けた「精神世界」というものを100%イデアの影だとして,そうすればすべては「イデア」の現れにすぎない,と解決できたかもしれないが,そうすると,物質世界に住んでいる我々がなんで「イデア」のことがわかるのか,というよりそもそも数学をイデアとして理解できるのか,という問題は出てくる.
ポイントとして,彼の文章の問題は世界がそのようになっているということと,世界をそのように理解できるのは何故なのかということをイコールにしているか,あるいは曖昧であるが故に,この種の混合がたびたび出てくる事だ.そして他のプログラミング記事に関しても,この種の混合が見受けられる.このような解決を行うためには,結果として形而上学的な理性というものを何処かで誤魔化して入れないといけない.
彼の文章を読むポイントとしては,恰も歴史的な経路を経て結論しているように見えて,細かく見れば全くそれらの歴史を参考にしていないため,凡ミスが結構多発している,という一点だけを理解しておけばよい..
ちなみに哲学史的には,基本的にはこのような「意識」「精神世界」というものを,あたかも「物質世界」に担保させるような哲学的な営みは何度も繰り返されて,そのたびに失敗しているか(唐突に神を持ち出さないと始原がわからなくなる),あるいは「それはそれとして,それを説明したことにはならない」ということが繰り返されていて,どうも切り分けたほうが良さそうだということにはなっているようだ[独自研究].彼も同じ二の轍を踏んでいるので,頑張って下さい.
「哲学上の諸問題と言われるもののほとんど全ては、定義の問題に帰着する。」というのは、L.W.ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」における中心的な主張。そして『言語ゲーム』というのは、そのヴィトゲンシュタインの作った言葉であり、論である。
そこまでは正しい。
だけど、「言語ゲーム論」というのは、「論理哲学論考」を書いたあと、「これで全ての疑問は解かれた」と宣言して田舎に引っ込んだヴィトゲンシュタインが(田舎で小学校教師をやっていた)、小学生とのふれあいの中から、自分の過去の論(すなわち「論理哲学論考」における思想)の欠陥に気づいて、その欠陥を説明するために作った論なのね。その後彼は、「哲学探究」という本を出して、「論理哲学論考」が見落としていた問題について説明しようとした。それが成功したという人もいれば失敗したという人もいるが、この本も20世紀哲学史に残る偉大な書であることは間違いない。
便宜的に、「論理哲学論考」に代表される思想を「前期ヴィトゲンシュタイン」。「哲学探究」に代表される思想を「後期ヴィトゲンシュタイン」という。言語ゲームについてのアイデアは、「哲学探究」で初めて示された。つまり、前期の彼の哲学を「言語ゲーム」という言葉で説明したり、呼んだりするのは、全く間違い、ってこと。OK?
じゃあ、両者はどう違うの? …ってことが気になる人もいるよな。
暇な人向けに書くよ。忙しい人、知ってる人、自分で調べたい人は、以下読まなくて結構。
さて、「この世のあらゆる問題は、記述が論理的に正確であれば、簡単に解決できる。」と、前期ヴィトゲンシュタインは考えた。確かに、かなりの程度これは正しい。だがしかしそれは、「言葉」というものを、「思想」を記述するための単なるメディアとする言語観に基づく場合の話なんだよな。「言葉を正しく定義する」というのは、「言葉には定められた『意味』がある」ということを前提としてる。だが、後期ヴィトゲンシュタインは、その定義自体が危うい場合があることに気づいたんだよ。
どういう場合か? たとえば子どもが言葉を学ぶとき、どのようにして学ぶと思う? 「言葉の意味」を教えられることによって、子どもは言葉の意味を学ぶのだろうか? 考えてみてほしい。生まれた最初から言葉を話すことのできる子どもはいない。つまりゼロだ。その状態から、どうやって「意味」を教える?
身振り、手振り、ジェスチャー、雰囲気、表情、……いろいろな「言葉ならざるもの」に頼って、最初の「言葉」は身に付けるしかない。でも、「意味」が分かった、と確信できる瞬間なんて、あるのだろうか? とヴィトゲンシュタインは考えた。
たとえば、あるとき子どもに数の順序を教えていたヴィトゲンシュタインが、黒板に
「1、2、3、4、□、□、……」
と書いて、空欄を子どもに続けさせたわけだ。数を習っていた子どもらは、まあ、普通に「5、6…」と続ける。普通の人は、「ああ、子どもは数の並びを理解した」と思って、そこで安心するだろうな。でも、「5、6」の次に子どもが「8、10…」と書き始めたら、それはダメだ。台無しだ。仕方ない。もう少し教える必要がある…まあそんな風に考え、行動するね。
けど、それは、一体どこまで続けることができたら「数の『意味』」を理解したことになるのだろうか? 「10」までいけば、まあ大抵は大丈夫? でも、ひょっとしたら、「10」の次に「12、14、18」…とか続けるかもしれない。子どもはまだ何も「理解」していないかもしれないな、「100」までいったら? でも「102、106」とか続けるかも………でも、でも、じゃあそれはいつ「絶対大丈夫」と言えるのか?…と、「論理哲学論考」で「完全な言葉の定義」にこだわっていたヴィトゲンシュタインは考えてしまったんだ。どこまでいけば自分は、この子たちに、数という概念(意味)を伝えることが、本当にできた、と確信できるのだろうか?
そして、考えはじめたヴィトゲンシュタインは、もっともっと怖いことを考えてしまった。自分は、周りの大人が、一応みんな数の概念を理解していると思っていた。でも、そいつらが、数の概念を誤解したまま大人になっている可能性は、本当にゼロか? もっといえば、これは数の概念だけではなく、あらゆる言葉についても同じだ。我々は、お互いに言葉の「意味」を理解し、その理解を共有していると思っている。でも、それは証明できないね。言葉が通じてるって、単なる幻想じゃないの、と。
先に言っておく。これは、たぶん否定できない。ヴィトゲンシュタインの問題提起により、もし、「言葉」の体系を、「共通したルール(たとえば文法や辞書的定義)」を共有することで意味を伝達するシステム、と定義するなら、我々の言語が確かに「通じている(100%意味を伝達している)」ことを証明することは、たぶんできない。
嘘だろ? と普通の人は思う。オレが言ってることを、みんな分かったような顔をしてるじゃないか。あれで、分かってないなんてことがあり得るのか? と。
でも、誰もが考えたことがあるはず。オレは、赤色が、なんだかイライラするんで嫌いだけど、Aさんは、赤色がすごく好きらしい。ところで、オレが見、感じている「赤」という色と、Aさんが感じている「赤」という色は、本当に同じなんだろうか? ひょっとして、全然別の見え方をしてるんじゃないだろうか? ってことを。もし、オレが赤色を見て「赤ってイライラするね」と言い、Aさんが「そうかな、オレは赤が好きだな」と言うとき、オレとAさんの間で本当に「言葉」は「通じている」のだろうか? …ってことを。 後期ヴィトゲンシュタインが気づいたのは、つまりそういうことなんだ。
そして、すっかり参ったヴィトゲンシュタインは、草原でサッカーに興じる子どもを眺めていた。「オレは、言語というものを、きっちりと決められたルールに従って運用されるシステムだと思っていた。たとえば、目の前でサッカーをやってる子ども達のように。けれども、その根幹が、本当はこんなにあやふやなものだったなんて!」このとき、ヴィトゲンシュタインは、「言語の意味や定義さえ完璧なら、あらゆる哲学上の問題なんて一瞬で解けるんだよ!(ドヤァ」とやってた過去の自分(前期ヴィトゲンシュタイン)の思想が、完全に崩れ去ったことに落胆していただろう。
ぼーっと子どもらを眺めるヴィトゲンシュタイン。
そのうち、妙なことに気づいた。なんか、一人の子がボールをもって走り出した。「おい、サッカーじゃなかったのか? ラグビーか何かか?」。ところが、今度はボールをぶつけ合いはじめた。「おい、君ら何をやってるんだ?」そのうち、一人の子が高くボールを投げたのをきっかけに、なんだか高く投げ上げる競争のようなことをはじめた。「おい、一体何を……」「一体どんなルールでやってるんだ…どんなルー……」その瞬間、天啓が走った。ルールがあるように見えていたのは、幻想だった。ルールなんてなく、彼らはただ遊んで(ゲームをして)いただけだった。つまり、ルールなどなくても、ゲームをする上で支障がなければ、ゲームは続くのだ。人は言語を使って「ルールに基づき意味を伝える」という作業をしていると思っていたけれども、本当は、ただ「言語を使って遊んでいた(ゲームをしていた)」だけだった。ルールは「やりながら、その都度でっち上げて」いるんだ。それで物事は、進むのだ。
これがつまり、後期ヴィトゲンシュタインと呼ばれる思想の根幹となった「言語ゲーム」という思想だ。
前期ヴィトゲンシュタインが考えていた「ルール→意味」という静的なシステム論に対して、後期ヴィトゲンシュタインは「そこにルールなどない」。ただゲームをするときのように、言葉の「使用」が先にあって、意味やルールはあとから付いてくるものなのだ、(つまり、前期ヴィトゲンシュタインが主張した「先に定義を完璧にすれば」云々というのは、その前提となる言語観から間違っていたということになる。)言葉の意味とは、「言葉がどのように用いられているか」ということに過ぎない(「言語の意味とはその慣用である」)、という動的なシステム論を唱えたわけだ。この動的な言語観や、それに基づく汎用性の高い動的なシステム論を「言語ゲーム論」という。
先に言っておくと、この後期ヴィトゲンシュタインの思想というのは相当な極論であって、これをもって前期ヴィトゲンシュタインの思想が全て否定されるというものではない。前期ヴィトゲンシュタインの問題提起も、静的システム論の基盤を為したという意味で、現在でも非常に重要な思想に位置づけられる。ただ、その思想を含んだ上で、更に高次の問題提起(動的システム論)を行ったという意味で「言語ゲーム論」には非常に重要な意味があるので、前期の思想と安易に混同されると、ちょっと困る。
もう少しだけ、具体的に例を挙げて説明するな。
たとえばさ。「神はいるか」という問題に対して、「それは『神』という言葉をどう定義するかによるね」と答えるのが、前期ヴィトゲンシュタイン。そして、「万能で超自然的で創造主で…」と答える人に対して、「万能」と定義するなら「存在」もできるということだ。従って、「万能」と定義した上で「いるかいないか」議論するのは、トートロジーだ、とか、まあそういう批判をしちゃうだろう。
対して、後期ヴィトゲンシュタインなら、「神はいるか」と質問する人に、「あなたは『神』という言葉をどのように用いているのか」と質問するだろう。「『神』という概念で、あなたはどのようなゲームをするのか、そのゲームはどのような性質のものか?有益か、無害か?」…etc。(後期の哲学を書いた頃、彼は「宗教とは、一つの生活の形式のことだ。」「信仰は、言語ゲームに似ている」と述べています。)
この二つは、つまり問題の視座(あるいは取り扱い方)が全く異なるんだ。一緒くたにはできない。
だから、前期の論を「言語ゲーム」と誰かが呼んだりしてるのは、ヴィトゲンシュタインをかじった人間としては、ちょっと居心地が悪い感じがするんだ。まあ、そういうこと。
よろしく頼むわ。
思うんですけどね、ぼく、脳にチップを埋め込んで知識を頭に直接ダウンロード的な世界が本気で到達しないかなーと思ってるんですよ。でも一言で知識といっても。全知識のことでは無く、いわゆる理科学系的な知識のこと。
そのような未来感に対して在野の方は「知識を頭に叩き込んでも知識の使い方を覚えられない」という文句がでるんですが、僕はそんなもの詭弁に過ぎないと思うんですよね。
何故ってそもそも人ってあなたみたいな偉そうな人が言うほど馬鹿じゃないよって思うし、論理とやらは数学でも良く出来た人文系の本でも読めば会得できるものだと思うからです。
加えて理系的知識のみ頭に直接叩きこんでも構わないというのは、理系的知識が(複雑系的な言説が代表する最先端の知を除いて)すべてがファクト(らしい)だからです。
例えそれが原理的に「ファクトらしい」ことであるとはいえ、少なくとも恣意的では無いんですよね。それでですね、そしてそんなファクトらしいことをファクトとして扱って科学はここまで技術化され人類の進歩発展に帰依してきた(ここれ辺が人文知とは異なるところです。人文知はその恣意性が暴力的な力を持っている。そしてその暴力性が人文知の力。すなわち文脈を書きかえること。個人にとって一見関係無かったものを一つの視座を持って関係づけ、切実なものにする。それが人文知の力、だと思ってます。)(一方理化学的な知識にも別種の暴力性が当然あります。そのことに自覚的でない科学者はみんな根本的には自分勝手なクソ野郎なんだと思います。残念ながら。)
うう、かっこの中の話で本筋から遠ざかった…。
ぐだぐだ言ってきましたが、ここまで言ってきたことは一言です。基本的な理系知識というものは大抵が世代を超えて一個の人間がまた改めて一から学ぶほど価値があるわけではないということ。
いわゆる理系学生の中に以下の現実に気づいて憂鬱な気分になっている人は多いと思うんだけれど、若いころの時間を使って結果の分かりきってる学生実験をする価値なんて99%以上無いんですよね。
え、実験道具の使い方?レポートの書き方?全部別プログラムでやらせた方がよっぽど効率的です。だってどちらも理系的な知識を使わないじゃないですか。どちらかというと体育と国語ですよ。
そりゃ回数重ねてれば何かの偶然で新しいことが起こるかもしれないけれど、そこに若い学生の時間を使うのはいかがなものかと思います。どちらかというならこれから寿命がますます伸びた年配の方がおやりになればよい。しかも年配の方々は数が増えるのは分かりきっていることなのだから。可能性の伸びしろとしてはそちらの方が全然優位なはず。
そしてぼくはそのような年配の方(時間があって、科学とかゆるく好きで、しかも高校の教科書的な所から大学の2~3年程度の知識が頭に一括ダウンロードしてある方)が自由に研究を趣味的にできるような場がこれからあると良いなーと思います。
知識があったとしても大抵は無駄な研究もどきなるとは思いますいが、それでいいんです。無駄は文化になります。文化は物語化されてブランド足り得ます。
今までに比べてはるかに安いコストで、気軽に研究できる。しかも初めから自分の興味のある分野を。これってとてもいい社会だと思います。それにそのようなある種のハードルを下げるにはとても良くて、実際的に何がいいのかというと人材流入のハードルが下がれば在野の人の既得権の縛りが解かれる+競争激化+多様性が増しイノベーションが起こりやすくなるんですよね。(その弊害は例えばPixivなんかで散見されますね。すなわち雇用の問題。)
これからデジタルに親和性の高い世代が高齢者になったり、ある程度英語等でコミュニケーションで来て人材の移動性が高まる時代に、それを実現できたら、かなりのその地域引いてはその国のブランドになりえるし、いいことだと思うんですよね。
日本というのは自然災害がその立地条件からして根本的に多い国だし、今回の放射能ははそもそも強いと思われていた農作物のブランドの(程度はどうであれ少なくとも方向性として)下落につながった。その後の日本政府の立ち振る舞いも同様に日本全体をパッケージとして観たときのブランド価値は下がったと思う。
つまり日本というのは根本的に他国に比べブランド価値が強くなければ優秀な人材を引っ張ってこれない国だと思うんですよ。例えばわが身ひとつで立身出世しようと考える優秀な中南米人が「日本は色々災害とか身の危険あるけど○○があるからここで仕事をしよう」と思ってくれないとダメなんですよね。でなければきっとこれから日本という国は戦えなくなる。(経済的に豊かでなくなってくると無駄の確保ができなくなります。無駄の重要性は上に述べてきたとおり)。
さて、ここまでメリットばかりあげてきましたが批判も数多く考えられます。例えばその筆頭にしてもまっとうなものが「科学の発展が加速したらますます倫理の側が追いつかなくなるじゃないか」というものです。
しかし、僕はこの観点も保証できます。なぜなら時間に余裕のできたものは、退屈な事実の再確認や荒唐無稽な技術への信仰ばかりするのではなく、確かな今を見据える人文知的なものを学びたくなる欲求が高まるはずで、加えて言えば知識の記憶に費やす時間が短くなれば余暇が創出できるので、そのような歴史、思想史、哲学史を学べる機会は増えるはずなんですよね。たとえあなたが時間があるから大丈夫(=自身の倫理を構築できる)とは限らないなんては思えなくとも、学生実験をやるよりはよっぽど有意義な時間が過ごせるとは思いませんか?
以上のことがもっとも実現可能性の高い場はラボをシェアするという理念の元運営されているいくつかの団体だと思います。なぜなら人材の流動化がこれから激しくなる時代に情報系のものを除く理化学系研究が根本的に抱える問題とは研究はラボというその場でしかできないことで、その土地でしかできないならその場にしかいられない。そこをシェアをすることでより開放するサービスが圧倒的に人々に受け入れられるだろうからです。
また実現に向けて初めに脳内に知識ダウンロード、と言いましたが、それより若干コストは高くなるかもしれないけれど海外のよく勉強したにもかかわらず文系就職しそうな元理系学生とか先生に雇って、そのサポートに比較的リーズナブルに提供できれば十分今まで述べてきた未来の足場としては実現可能だとも思います。
まず思想と組織を分けて考えるところから始めたらいいんじゃないかな?
組織だったら、どんな組織があって明治維新からこんな風に変化してきて(そういう意味では福島みずほたんとか歴史上の人物)っていう流れをつかむ。
高校の日本史の教科書レベルでもある程度つかめる。で、現代の状況はこれこれこうなってるなと。
で思想だったら哲学史とかをやさしく解説してある本(おすすめはナツメ社の「図解雑学哲学」)とかをいくつか読んで(できれば記号論とかまで行ってる方がいいんだけど)、それをふまえてこの政治家たちはこうしてるのかとか(そんな風に考えて行動してる政治家とかあんまりいないだろうけどね)。あとは経済学とか社会学とかについてざっと解説してあるような本とかさ。
その辺ふまえて見てみるだけでもずいぶん違うんじゃね?かく言う俺も勉強中なんだけどね。
何もないクリスマスが終わって、これから特に変化の起こりそうな予定もまるでないことだし、自分にとって今年この一年がどうだったかを振り返ろう。具体的に何したかなんて言わない、というかただのニートだったけど、どういう心構えで一年を過ごしてきたか書いてみる。
自分が生きていく理由とか意味とか価値とか必要性とか、哲学史をかじったわけでもない(ソフィーの世界は一度通読したけど、理系学問は自分の範疇じゃない)のに自分なりにひたすら徒然と考えてた。時間だけは多くかけたけど、結局何度も大体同じ結論に行き着いて、
・理屈ではなく実感である
・他人との間に生まれるもの
・他人から見出されるもの
・正当に評価される実力を持っている
で自分が生きていくためのアイデンティティは形成されうる(主に一番最後)、ということになって、どうにかして自分がこの条件を社会の中で乗りこえられる人間であるように、考えてみたり行動してみたりはしたけど、「正当な努力の必要性」を年甲斐なく今更ながら実感して訴えてきた割には、(自分の出来うる)努力ではどうしようもない現実を見てしまって、自分がこの条件の不適合なことに余計裏づけをしてしまう結果になった。また、各ネット界隈に質問を投げかけながら、そもそも考え方を変えることでも生きる意味を見出そうともしたり、今ここに残されたリソースで自分がこれから(自分の納得できる)何ができる?とか考え続けてたけど、そもそも積み上げた努力がまるで足りないんだから、これからどう転んでも結局この人生誰にとっても(特に自分にとって)無意味だしつまんないだけだろ、って考えるのがしっくり合理的だし一番楽って気づいて、それからはほとんど考えるのも動くのもやめて、ただただ横になってるだけだった。日が経つのだけは早くなっていた気がしたけど、自分には意味の無いことだった。死に近づいてるだけ得な気がした。
意味について考える過程で自分に意味を見出せなくなったので、生きる楽しさも次第に無くなっていった。食べるご飯もちっともおいしくない。人間として腹がとりあえず減るから食べるだけ。退屈しないために誰にも評価されないような身についた手癖を時間潰しでしてるだけで、意味なんてまるで無い。何も楽しくなかった。ああ何も楽しくなかった。
今が自分が人生のどれだけの割合を生きたのかはわからないけど主観的にも客観的にも、人生の中で今年は頭抜けて最悪だったと思う。たぶん、来年はもっとひどくなるし、再来年はもっとだろう。それなら、自分なりに不幸の天井を見に行こうか。それを人に語ったらきっととびっきりの冷笑をされるんだろうね。というかその前にまず死んだほうがいいよね。
などと心にも無いことを叫ぶだけのダメな人間に、今年で完全に成り下がってしまったという実感が残った。
まあ自分にとってはずいぶんと厭世的な変化のあった一年だった。一年を振り返って、そこから見つかったものを以って来年からの人生に繋げて行くのは、ありきたりだけど、建設的だと思うよ。自分はそんな気さらさらないけど。だって、自分は生きている意味がないんだから。わずかばかりの可能性をも放棄した。
あと増田を見つけたのは今年からだった。「ブログなのに匿名」なのがツボにはまって、ほとんどROMってただけだけど、学術かぶり人間模様便所の落書きその他もろもろ、チラシの裏ながら色々興味深い話が見れたと思う。大体見たことは覚えてないけど、そのときに退屈は決してしなかった。
歴史は?
これを認められるんなら哲学も実は「哲学史」だということに気がつくはず。
まあそれもヴィトゲンシュタイン以降みたいなとこがあるんだけど。