はてなキーワード: 心理学とは
https://anond.hatelabo.jp/20240425165849
生きづらい哀れなメス、年齢は1つ年上の30歳です。
中高女子校から共学の大学に進んだ時から人生が狂った気がしてる。
ちなみに私は「名だたる大企業に就職して、それなりに稼いでいる」はクリアしたけど一度も結婚してないです。
恋人ができたのも1度だけ。それ以降は本当に、男性から相手にされてない(性欲の解消相手とみなされるは除く)。毎日プレッシャーに押しつぶされそうになりながら、自分のためだけに働いている。
年収と預金残高は増えたけど使い道がなくはっきり言って持て余している。
幼い頃から自分の容姿が悪いことには気づいていた。両親は容姿が良く、姉や兄も美形だ。私だけが、両親や祖父母の顔のパーツで微妙なものだけを最悪の配置で受け継いでしまった(目だけは二重にしたけど浮いてて気持ち悪さが増した気がする)。
ちなみに美肌の家系なのになぜか自分だけ肌も汚い。食生活や化粧品にも気をつけ皮膚科に大金を払っても改善しなかった。
努力は、人並み以上にしてきたと思う。勉強もそうだし、就活、仕事、美容。心理学やコミュニケーション、恋愛に関する本も死ぬほど読んだ。でもモテない。
自分の生きづらさは自信のなさから来てるのは自覚していて、人から愛されたことがないのが根本原因だと思う(家族は除く)。
学歴や仕事の評価を得てプライドばかり高くなり、自己肯定感が育たなかった。
ないものねだりなんだろうけど、オス増田には親友がいていいな、あと一度は誰かの生涯の伴侶に選ばれたことも羨ましく思う。
私は友達はいるけど、親友はいない。複数人の集まりには呼ばれるけど、二人で遊ぶような子はいない。インスタを見てると、みんな結婚してても子供がいてもしょっちゅう会ってるように見える。結婚式に招かれて、ほかの友人が「あのふたりも色々あったけど、乗り越えられてよかったね」なんて泣いてるのを見ると、その「色々」の内容を自分が知らなすぎてさっと冷める。
増田の同僚の酒癖の悪い女の子は、きっとかわいいんだろうね。酔っ払ってたら介抱を口実にいちゃつきたくなるくらいには。
ブスはそんなことできないよ。ブスっておじさんみたいな扱いなんだよ。
おじさんが酔っ払った〜ってゼロ距離まで詰めてきても、苦笑いで逃げるし気持ち悪いし、ワンチャンなんて考えないよね?
学もあって、職もあって、顔の終わってないオス増田が需要ないとは思えない。
周りの友人達を見ていても「男は年収1000万ないと〜」なんて言う子はいないけどな。
マッチングアプリでモテてるっていうのがどういうことなのかわからないけど(モテてたらマッチングアプリやらないのでは?)、若くて「それなりの」女性からいいねをたくさんもらえるってこと?
私は学もある。職もあるし金もあるけど、顔が終わっているので恋愛市場では相手にされないよ。
ただこれは増田にも言えることだけど、お互い「自分にふさわしいと思える異性に」なんだろうね。誰でもいいわけじゃないんだよね?
わたしもマッチングアプリでは、60代実家ぐらしの男性からいいねが来たけど無理だったもん。不倫なりワンチャン狙いの性欲まるだしの誘いはあっても、私は性欲が強くないしそういう形で身体を利用されるとかえって傷ついてしまうので(オナホ扱いと思う)、オス増田のようにセフレがほしいとも思っていない。ちゃんと理解し合って愛されたいのに、それができない。
お互い結局、自己肯定感が低いのに自己評価が高くて「自分はもっと相手にされるべきなのに、なぜ!?(顔や金しか見ない異性が悪い)」と思っちゃうところが問題っぽいよね。
どうすればいいのかわからないけど、私はオス増田の幸福を祈ってるよ。セフレが本当にオス増田を救えるのかはわからないけど、気持ちが楽になるよう祈ってる。
オープンワールドのマップ設計って、まずは地質学とかをベースにして地形の生成があって
それに加えてそこに実際に村が形成されるとどのような文化になるか、みたいな文化学的発想が必要
アイテム生成系はバイオ系・物理系の知識をベースにやってほしい
ミニゲームやパズル要素・謎解き要素なんかは数学的な知識で難易度を上げて欲しいし
ストーリー展開は心理学を駆使してプレイヤーの心を揺さぶって欲しい
大学でポスドクやってる博士を連れてきて副業でやってもらえばいいと思うんだよね
海外とかの大型オープンワールドだと学者とかが監修してたりするけど
それでも片手間でやってるようなものなんだよね
アサクリとかだと時代考証がガチだけど最近はダメダメになっちゃったし
人間の心理は文化に影響を受けるから、地域差が存在する。文化が異なる地域で追試をしたならば、結果が再現できないこともあろう。
この記事は再現性の危機を訴えた論文自体に疑わしさがある、というようなことも述べているのだが
異なる地域の人々で追試を行ったから再現性に負の影響を与えたってあるんだけど、それなら同じ国で育った人間でも異なるバックグラウンドを持つわけで、つまりは一般化可能な知識を心理学は抽出出来ないってことじゃないのか?
と思った。
今就活中なんだけど、
企業が適性検査、とりわけ心理検査を重視してるのがよくわかる。
ましてや、4月の今の段階で辞めるような人間をとりたくないよな。
わかる。
てかさ、
その時点で心理検査の結果が適合しないのに働いてるのか?そいつ、企業風土に合わないんじゃないの?
人事は神か?
わけわからん。
説明会とかで
「私たちに合うような人はこんな人です」
「こんな後輩と働きたい」
って言われるの、ほんとは癪なんだけど、
これを百歩譲って許容するとしても。
就活の適性検査で、心理学に関する知識もないのに、MMPI心理検査を使ったり、
それで選考通過の可否を決定するの、
勝手に「こいつ辞めそうだよな」「こいつヤバそうだよな」とか言われてるんだろうね。
だから、皆嘘つくんだよな。
でもそうしないと入れないんだもんね。
ちなみにキャリアセンターの人は、心理検査で落とされることはないと言い張っていたが、
新卒がたっぷり辞めやがるから、心理検査の結果を重視するようになってきたんじゃないの?
(増田に書き込んでる時点で、企業さんが大大好きな体育会系じゃないんですよね、
(企業に内面を見られて、優劣つけられてるのが本当に嫌だ。「採用はマッチングです」とか、キャリアセンターは言うけど、それ詭弁じゃない?パーソナリティに関する情報、ちゃんと管理されてるのか?)
就活生が圧倒的に不利。
先に宣言しておく
どのような理由があろうと、どのような事情があろうと、どのような過去があろうと
即ち、罪を判断する判断材料が意志なのか行動・具体的な影響なのか、である
だから誤解を与えないようにもう一度書いておく
それとは別の話として、以下の事を書いていきたい
佐藤さんは「彼の一言がなければ確実に生きてなかった」というが、「家族の暴言が今も脳裏によぎり、夢にまで出てくる」。
そうすると、平静でいられなくなり、発作的に「ダメだ。価値がない」と自分を責めてしまうだけでなく、SNS(X)で繋がる知人にも被害妄想をぶつける。「そのたびに親交が途切れて後悔する」という。
当時は衝動的に荒らしをしていたというが、一方で「疑問系の投稿にすることで名誉毀損などのリスクは減らせるという気持ちがあった」「私自身がされて一番嫌なことを同じようにしたのではないか」と冷静に当時の状況を振り返る。
地獄がある
恐らく、この記事に対して「加害者に寄り添いやがって」のようなコメントが山積するだろうことも含めて、この記事にまつわるあらゆる状況が悲哀と苦痛の連鎖だからだ
私は以下の記事を思い出す
自己犠牲とは、「間違ったこの世界への復讐」という意味が込められています。
(この場合の世界とは、自分以外の全てです。親も兄弟も恋人もすべて世界の一部です)
なぜ「復讐」になるのかというと、
日常生活においては、この世界は不都合のない世界で、自分の力の及ばない巨人に映るわけです。
かたや自分は、小さな存在で腕力も経済力もなく、世間からも顧みられることのない人間だと思っています。
この世界が自分に送り込んできた使者と対決し、自分の正しさを証明し、相手の無能もしくは無慈悲を暴露することが、生きる目的になります。
この記事においては自己犠牲をテーマとして扱っているが、構造としては同じであると感じている
攻撃性の方向性が内側に向いているのか、外側に向いているのかの違いに過ぎない、と思う
自分が行った加害行為を罰して欲しい気持ちも、罰して欲しくない気持ちもあるのだろう
加害行為を止めて欲しい気持ちも、止めて欲しくない気持ちもあるのだろう
トラウマは再演を伴う、私はそう思う
「ほら。自分が受けてきたことと同じ行動を今しているぞ。親から受けてきた理不尽だ」
「お前らは平気でそういう加害をしてきたし、見て見ぬふりしてきた」
「だったら、私が同じことをしても何も問題がない、そうだろう?」
「なぜ許されない?だったら、どうしてあの時は助けてくれなかったのか、なぜ酷いことをしたのか」
「何故、何故、何故……!」
そういう怨嗟の声が聞こえる
なんて偉そうなことを言う奴が多いくせに
じゃぁ自己投資をどうやってすればいいのかを誰も教えていないから
拡張自我とは、要するに自分の身の回りにあるモノを自分の一部だと認識する心理学のこと
それは自分自身を褒められたり傷つけられたりしているのと同じだから、という感覚だ
本当に自分自身に対して投資をすると基本的に不可逆なので取り返しがつかない
と思われるかも知れないが、Apple Watchで良い
ただし、一番高いApple Watch Ultraを付ける
Ultraはデカくて物理的にどうしても無理ならノーマルで良いがバンドはHERMESにする
などと考える必要はない
ただただその価格が付けられている(そして値下がりしない)のであれば、投資額として相応であるからだ
株式投資をする際も、投資先の企業に対する価値を自分基準で計ったりはしないように
ちなみにAppleユーザーでないならGarminでもなんでも構わないがとにかく考え得る一番高いものを身につけよう
「オーダーのスーツとか?着る場面がないけど」
という意見も良く聞くが、たまにしか着ない衣服の値段を高くしても自己投資にならない
デカデカとブランドロゴが入っているようなモノは高くても「下品」と思われるリスクをはらんでいるため
茶碗、皿、カップ、箸、スプーン、フォークなどの食器もできる限り高級な食器を使う
これも食器棚に眠らせて
というようなことはしない
ちなみに食べるモノはなんでも良い
ただし食器は必ず高級なモノを使う
例えばグラスのボールにカット野菜と安物ベーコンを放り込んでドレッシングで混ぜるだけでかなり高級サラダになる
住居はできる限り高額なところに住む
ただし自己投資としては最大額を突っ込むレベルで高額なところに住む
例えば風呂は良ければ良いに決まっているが、拡張自我としてどうか、というのを自問自答する
人によっては風呂が好きな人がいるのでそこに投資するのは間違いではない
他にもキッチンやリビングが拡張自我としてどうか、をよく考える
簡単な判別方法は、上司に叱られたときに「でも俺の家は檜風呂だしな」と思ってストレスがなくなるなら拡張自我である
などという触れ込みが多いが、大半は意識が無い状態なので拡張自我としては希薄である
例えば英語を学習することで昇給や昇進、転職が約束されているような状況であっても
これは
という動機があるのにも関わらず
という行動に移せない状態になっているためで
内的動機付けは自発的に内面から出てくる動機付けのことで、よく「やる気」「モチベーション」などと言われる
一方で外的動機付けは他人から怒られたり、英会話教室の案内が届いたりするようなことが当てはまる
これらの動機付けに関するものに積極的に投資することで、高いリターンを期待できる
上の節で説明した拡張自我に基づいた自信への投資は自己の価値向上に繋がっている
ただし、自分が自分に感じている価値とApple Watchの価格が見合っていないと感じると、そこがギャップになる
そして人はそのギャップを埋めようとして自己の価値を高めようという「内的動機付け」が完成する
新入社員に「高いペンを買え」などという指導が昔は良くあったが
基本的に成長や成功のチャンスは何度でもあるのだが、内的動機付けができていないとそのチャンスを逃す
自己投資によるリターンを得るためには内的動機付けをしておくことは必須である
自己研鑽としてこの手のものが多いが注意したいのは外的動機付けに繋がるかどうか、である
例えばジムに通うときに高い年会費を払うと、それがそのまま外的動機付けになる
他にも週に一回のヨガを予約すると、行かざるを得なくなる
これが「安い」「いつでも気軽に」となると外的動機付けにならない
安物買いの銭失いと同じである
そもそも得られるリターンが投資額に見合ったものであるのかはよく考えた方が良い
チャンスはいくらでもあるとは言ったが、増やせるなら増やした方が良い
例えば古い友人関係、大学関係の付き合い、旧職場の付き合いなどには積極的に投資する
これは何も金銭に関するものではなく、時間を消費するという投資も含まれる
こういうときに
「あいつは目ざとい」「付き合いが悪い」
などという話に付き合う必要はない
ChatGPTちゃんセーフだった
近年の人権や平等の推進などを考慮し、単独親権と共同親権どちらがより望ましいと考えられる?
ChatGPT
人権や平等の観点から親権の形態を考える場合、多くの専門家や国際的な基準は共同親権の方向に進むことを推奨しています。その理由は主に以下の点に集約されます。
1. 平等の原則
共同親権は、離婚後も両親が子供の育児に等しく参与する権利と責任を持つことを保証します。これは、性別に基づく役割分担の固定観念からの脱却を促し、父親と母親が平等に子供の生活に関与する機会を提供します。この点は、性平等の観点からも重要であるとされています。
2. 子供の最善の利益
多くの心理学的および社会学的研究によると、適切に管理された共同親権の状況下で育った子供は、社会的、心理的にも健全な発展を遂げる傾向にあるとされています。子供が両親との関係を維持することで、安定感や自己価値感を高め、精神的な健康を保つことが可能です。
3. 法的および国際的傾向
国際的には、欧米を中心に共同親権が推奨され、実施されている例が多く見られます。例えば、欧州人権裁判所では、親権を巡る問題において子供と両親との関係を断つことは、家族生活の権利を侵害するとされることがあります。
4. 社会通念の変化
現代社会では、家族の形態も多様化しており、従来の「母親が育児を担う」という固定観念から逐次解放されつつあります。この社会通念の変化に合わせて、法制度も進化する必要があります。
ただし、共同親権には適切な実施が求められます。たとえば、親間の対立が激しい場合や、家庭内暴力が存在する場合など、子供の安全を確保するために単独親権が適切とされる状況もあります。そのため、共同親権を基本としながらも、例外的に単独親権を認める柔軟な制度設計が理想的です。
総じて、平等と子供の最善の利益を推進するためには、共同親権が望ましい形態と考えられますが、その適用にあたっては各家庭の具体的な状況を考慮する必要があります。これにより、全ての関係者の権利と福祉が保護されるようにすべきです。
心理学のまあまあニッチな理論に、対象関係論というのがある。赤ちゃん目線から見たお母さんとの関係に関する理論、という多分心理学に興味が無い人からしたら意味不明な理論がある。
この対象関係論に、「原始的理想化」がある。これは、「自分の好きな人がやる事をなんでも良いと思う事」である。もう少し言うと、「好きな人が自分にとって嫌なことをしても、それをその人がやったと思わない」事である。
この概念はSNSでの喧嘩とか炎上とかそういうのにも適用できそうだなと思う。たとえば熱狂的なファンが、アイドルがなんかヤベー事しても、いや〇〇は悪くない悪いのは××だ! ってなる奴あるじゃないですか。あれ立派な原始的理想化だと思うんですよね。
で、その原始的理想化の更に面白いところは、赤ちゃんが何故そんなことをしているかと言えば、自我の形成過程において相手の理想的な部分を自己に取り込んでるからそうなるんですよね。対象関係論なんで科学的根拠とか無いんですけど、面白くないですか? つまり、原始的理想化が起こってる時、「好きな人」はイコール「自分」なんですよ。だから原始的理想化が起こっている時に、好きな人を否定するということは、自分を否定することになるんですよね。
何か有名人に問題が起きた時、それを凄く擁護するファンとか一定数いると思うんですけど、それってまあ有名人を守ろうとしている一方ファンが自分達自身を守ろうとしている行為でもあるって事なんですよね(対象関係論的に言えば)。
まあ赤ちゃんとお母さんの関係の理論なんで、そういう行為自体が言うなれば"ガキ臭い"となるのも、また二重におもろいなと思ったりしますね。
ワイズ先生(@YS_GPCR)が、性交同意年齢の16歳以上引き上げについて合理的な根拠がないと主張されている。
ttps://twitter.com/YS_GPCR/status/1770800526998819269
こういうふうに、説明つかないでしょ?
ttps://twitter.com/YS_GPCR/status/1771143471996551171
??
「14歳は性教育が足りないため、成人は14歳と性交すべきではない、という理屈は、年齢差5歳以下なら犯罪とならないことと辻褄が合わない」
に対して
ttps://twitter.com/YS_GPCR/status/1771402538862150118
「権力勾配」って、学校の先生と生徒とか上司とかの関係を言っていると思うんですけど、権力を利用して手籠めにしたのか、同意のある関係なのかは、個別に判断すればいいわけで、一律で禁止する合理性がない
ttps://twitter.com/YS_GPCR/status/1771404710995779643
これは「砂山の詭弁」の変形ですね。今回の性交同意年齢の議論は、グラデーションがありボーダーラインを便宜的に決めるしか無いものの一種です。だから、14歳を主張する人に「13や15はいけないのか?」と詰問することはできる。
個人的には性交同意年齢引き上げには合理性があると思うが、改めてその理由を問われると即答できない。そこで、政府答弁による公式の制度趣旨を調べたので、メモとして共有しておこう。
強制わいせつ罪、強制性交等罪は、性的自由、性的自己決定権を保護法益としております。性的行為に関する自由な意思決定の前提となる能力がそもそもない場合には、暴行等の意思決定に影響を及ぼすような状況がなかったとしても保護法益が侵害されると考えられるところ、その能力がないと言える年齢として、現在は十三歳未満、すなわちおおむね小学生の年齢層の者は行為の性的意味を認識する能力が一律に欠けるということから、現行法では十三歳未満がいわゆる性交同意年齢とされていると考えられます。
もっとも、性的行為に関して有効に自由な意思決定をするための能力の中身といたしましては、行為の性的意味を認識する能力だけではなく、行為の相手方との関係において、行為が自分に及ぼす影響について自律的に考えて理解したり、その結果に基づいて相手方に対処する能力が必要であると考えられます。
そして、十三歳以上十六歳未満の者はおおむね中学生の年齢層でありまして、性的な意味を理解する能力が一律に欠けているというわけではないことから、一律に相手方や状況を問わず性的行為に関する自由な意思決定の前提となる能力に欠けるとまでは言えない一方で、先ほど申し上げた後者の能力は十分に備わっておらず、対等な関係の下でなければ性的行為について有効に自由な意思決定をする前提となる能力に欠けると考えられるところでございます。
そして、相手方が年長である場合には、一般に、その年齢差が大きくなるほど、両者の間の社会経験や知識の差異などによりまして、その年齢差自体から対等な関係にあるとは言えなくなると考えられるところ、この性交同意年齢の問題は、性的行為をしたこと自体で直ちに性犯罪が成立するとするものとする規定でありますことから、刑罰の謙抑性の観点から、双方の年齢が要件を満たすだけで例外なくおよそ対等な関係はあり得ず、有効に自由な意思決定をする前提となる能力に欠けると言えるものであるものとすることが必要であると考えられます。
本法律案におきましては、そのような観点から、心理学的、精神医学的見地も踏まえまして、いわゆる性交同意年齢を十六歳未満とした上で、十三歳以上十六歳未満の者に対する性的行為について処罰対象となる得る者を、その者が生まれた日より五年以上前の日に生まれた者としているところでございます。
アウトラインで要約すると、以下となる(なお、「意味認識能力」などは便宜的な表現で専門用語ではないことに留意。3/25一部修正)。
以上のように考えるとワイズ先生の議論に対する違和感は、被影響認識能力と関係対処能力が当事者の年齢差に大きく左右されることを無視している点に根差すことに気付く。直観的に考えても、14歳と15歳のカップルと、14歳と25歳のカップルの違いは何かといえば、年長者と年少者間の年齢による社会経験の差と、その差が年少者側に与える影響の度合いである。
もっとも、改正後刑法の年齢区分が関係対処能力などの獲得と本当に対応していると証明できるかと問われれば、なお議論の余地はある。しかし、その点は単なる科学的な問題にととまらず価値判断の問題でもあり、国会で多数決で決めるという民主主義によって決する他あるまい。
結論を書き忘れていた。
以上より、性交同意年齢を引き上げて性交を一律で禁止することに、少なくとも法が備えるべき合理性はあると自分は考える。もちろん、年齢区分の妥当性について、生物学のように厳密に実証することはできず、この点につき異論はありうるだろう。しかし、理論的、経験的根拠を有する制度趣旨が政府から提示され、国会で一定の議論が交わされた上で多数決で刑法改正をした以上、性交同意年齢引き上げは法としては十分な合理性を持つ。
ワイズ先生は年齢区分の客観的な妥当性について議論を続けそうな雰囲気だが、もともと法律というのは完全に客観的というわけではい。法は価値判断を包含するものであり、最終的には選挙で選ばれた国会議員が多数決するという民主主義によって制定する他ない。逆に、価値判断をほとんど含まない問題については民主主義は不要である。例えば、ある物理現象のメカニズムは何かは、選挙で選ばれたわけでもない物理学者達が数理モデル化と実験を行い、その論文化と討議を通じて合意を形成して決まる。ここには価値判断の対立がなく、ほぼ客観的に議論が決する。法律はそうではないので、多少の客観性の欠如は国会議員の多数決で補う他ない。
少なくとも、以下の「年長女性の嫉妬」という下世話な動機で法改正されたわけではないのは確かだ。
ttps://twitter.com/YS_GPCR/status/1771403509134758353
これはもともとの論点の「性交同意年齢を引き上げようとするのは結局年長女性の嫉妬」という根拠の一つだけど、権力勾配のある性的関係を一律で禁止しようとするのは、望んで高権力の相手を好きになる人の自由を踏みにじってるわけです。それを「グルーミングされただけ」などで押し切る強引さがおかしい
ttps://marshmallow-qa.com/messages/0ba4dc8f-aeef-493f-b199-88ebcde853fd?utm_medium=twitter&utm_source=answer
「不同意的、強制的な関係を防ぐために、成人と未成年で"真実の愛"が成立する例が一部あったとしても潰す」とほぼ同旨の政府側答弁が、既になされている。
(中略)
例えばなんですけれども、十五歳で高校に入学しました、それで、シングルの成人の教員と相思相愛、愛し合うんですね、気持ちで愛し合いました、そして、結果、性行為を交わしたとします。それで、高校卒業と同時に婚姻関係となるケースも考えられます。私が高校時代なんかは、同級生が高校卒業したら結婚しちゃったというのは割とあったんですね。
このケースなんですけれども、円満に、穏やかに結婚生活、夫婦生活を行っていたとしても、今現在行っている、営んでいるそういう御家庭があったとしても、当時、お連れ合いのどちらかが、男女限りません、どちらかが十五歳当時でした、そのとき性行為を交わしていましたということが判明すると、その片方のパートナーは、六月以上十年以下の、有罪、拘禁刑の罰則対象となりますね。
(中略)
十五歳の高校生と二十三歳以上の大卒の先生という前提で申しますと、その年齢差は五年以上年長という要件に該当いたしますので、結婚したとしても、それからその結婚生活が円満だったとしても、その行った当時の年齢差ということで判断すべきことでございますので、改正後の刑法第百七十六条第三項又は百七十七条第三項の罪が成立し得るということになります。
例えば無許可の拳銃所持の内、美術的な鑑賞目的の事例が極少数存在するが、その他のほとんどの事例はそうではなく何らかの犯罪行為の準備が疑われるので一律に所持そのものを処罰する、というロジックは十分に合理的である。同様に、成人と未成年で"真実の愛"が成立する例は極少数存在するが、他のほとんどの例はそうではないので一律に処罰する、というロジックは理に適っているように見える。
なぜワイズ先生批判派は上記のロジックを援用しないのだろうか。また、ワイズ先生はこのロジックならば異論はないのか。何が論争の争点だったのか、よく分からなくなってしまった。
結論としては、無理だが、ほぼ近いことは出来るようになるのではないかと思う。少なくとも、テクニックは知れる。
私は誰かと会って話す時、必ず手元を見る。言葉は幾らでも嘘をつけるが、ボディランゲージは嘘をつけない。嫌いな人と向かい合って話す時、誰しもが体に緊張を走らせる。それはおおむね、手元を忙しなく触ったり、目線を逸らす事、ないし足先が不自然に外/内側に向いている事で伺える。
手元を触るという行為は色んな意味がある。落ち着く時にしている人もいるし、緊張を宥めるためにする人もいる。前者ならばゆっくりと撫でるように行われたりするし、後者ならば親指で素早くさするように行われたりする。いかにも緊張していないという感じで堂々とプレゼンする人に限って、資料をめくる指が震えていたりして面白い。
はい、「ミソフォビア(mysophobia)」が思い出せてよかったです!
ミソフォビアは、汚れや細菌、感染症への極度の恐怖を指す言葉で、英語の "myso"(汚れ)と "phobia"(恐怖症)を組み合わせた言葉です。この言葉は、日本語の「潔癖症」よりも専門的で限定的な意味合いがあります。
ミソフォビアは、特定の対象(汚れや細菌など)への恐怖が特徴的な「特定の恐怖症」の一種で、パニック障害やPTSDなどとは区別されます。一方、潔癖症は、幅広い清潔へのこだわりを表す一般的な言葉として使われることが多いです。
ミソフォビアを含む特定の恐怖症は、日常生活に大きな支障をきたす場合、専門的な治療やサポートが必要となる場合があります。もし過度の恐怖心や不安感で悩んでいる場合は、遠慮なく専門家に相談することをおすすめします。
全然崩れてない。理系は、ほぼ物理的技術的要件を達成しに行こうとする。つまり化学/物理学の理屈で動く。一方で、文系は、コストとペナルティを天秤にかけ発注者にOKもらえば達成!として接待したり賄賂を出したり試験記録を偽造したりして懐柔してサボる。お金や心理学やコミュ力の理屈で動く。なので、文系がトップに来る組織では張りぼての建物やコンクリの薄いトンネルとか実際には試験に通っていない自動車ができる。一方で理系の理屈で正面からやっていてはリソースが持たない面もあり、上手にサボらないとダメな場合もあるが、いざというとき用をなさないか、あとの事故処理でより多くのリソースが必要になる場合がある。この2つの価値観は決して相容れない