Qiitaで騒がせている彼の量子論の文章を読んでの感想だが,まず彼の文章には,特徴がある.それは,彼が考えた独自の前提が,何も断りも無しに出てくるということだ.
例えば,まず一つに「数学的事実」と「物質世界」という区分けなのだが,ここで「数学的事実」とは何か,「物質世界」とは何か,というのが読んでいて全く要領が得ない.
この区分け自体は珍しいことではない(例としてポパーの世界1,世界2,世界3という3論を参照せよ).
少なくとも理論で構成されるような何かと,私たちが接している「花が咲いている」とか,あるいは「鳥が飛んでいる」という風に分かるということを区別する,という考え方は珍しくない.ただし,この二元論は,哲学的な歴史からすると,余りにも「素朴」すぎる.少なくとも,この二つを構成する「意識」の問題というのは出てくるし,だからこそ「人工知能」を考えるときに,厄介な問題をはらんでいる.そして,この問題は決してプラトン自体は解決していない問題である.
例えば,プラトンのイデアを「実は数学的事実のことです」と言っている.これはプラトン思想の解釈の一つとして,このように仮説を唱えることは悪いことではない.しかし,現実問題として,例えば「1 + 1 = 2」ということ,つまり「1に対して1を足したら2になる」ということを「数学的事実」と呼ぶ場合,数学史的には体系的に矛盾が出るためにルールが調整されていっているわけだから,実際のところ「1 + 1」という式自体が,彼の言う所の「物質世界」の現れに過ぎない.
もちろん,これに対しても反論は出来る.「1 + 1はそれこそ数学的事実を物質世界に置き換えたに過ぎない.だから,『1 + 1』が表わそうとする数学的事実を変換しているだけである」と.そうすると今度は実は彼が語っている「数学的事実」というわけではなく,「物質世界」と「物質世界」の変換であるという風に考えることだって出来る.
あとから精神世界という問題が出てきていて,では上のような「何が・何を持ってして,数学的事実を物質世界に変換しているのか」という問題,これが上手く扱えないのは,このような曖昧さ故だと思う.彼は心脳モデルとして,精神世界をイデアの影だとしている.この立場は哲学的な問題としてありうる.しかし,ポイントとしては,そのように退けた「精神世界」というものを100%イデアの影だとして,そうすればすべては「イデア」の現れにすぎない,と解決できたかもしれないが,そうすると,物質世界に住んでいる我々がなんで「イデア」のことがわかるのか,というよりそもそも数学をイデアとして理解できるのか,という問題は出てくる.
ポイントとして,彼の文章の問題は世界がそのようになっているということと,世界をそのように理解できるのは何故なのかということをイコールにしているか,あるいは曖昧であるが故に,この種の混合がたびたび出てくる事だ.そして他のプログラミング記事に関しても,この種の混合が見受けられる.このような解決を行うためには,結果として形而上学的な理性というものを何処かで誤魔化して入れないといけない.
彼の文章を読むポイントとしては,恰も歴史的な経路を経て結論しているように見えて,細かく見れば全くそれらの歴史を参考にしていないため,凡ミスが結構多発している,という一点だけを理解しておけばよい..
ちなみに哲学史的には,基本的にはこのような「意識」「精神世界」というものを,あたかも「物質世界」に担保させるような哲学的な営みは何度も繰り返されて,そのたびに失敗しているか(唐突に神を持ち出さないと始原がわからなくなる),あるいは「それはそれとして,それを説明したことにはならない」ということが繰り返されていて,どうも切り分けたほうが良さそうだということにはなっているようだ[独自研究].彼も同じ二の轍を踏んでいるので,頑張って下さい.