はてなキーワード: グラデーションとは
女で逆の立場です。
私は食事への興味が薄め、彼氏はかなり食事が好きでこだわりもあるタイプです。
逆の立場の人間がどういったことを考えているのか、彼氏とどう折り合いをつけているのかを一例として書きます。
長いですけどすいません。
私は1人の時はあまりちゃんとしたご飯は食べません。生野菜を齧ったり、シリアルを食べたりしてます。
なんとなく体感で「そろそろ普通のご飯食べた方がいいかな…」って思った時や、気が向いた時に外食したり、お弁当買ったり、自分で料理を作ったりします。
ただ1人の食事となると「面倒」な気持ちが勝つので適当に済ませてしまいます。
食事の内容を考えたり決めたりすることを「手間」「労力」だと考えてるので、基本的にやりたくないです。
自分が何食べたいか分かってる時はそれに従えばいいんですけど、基本的には無いというか分からないので考えるのめんどくさいし適当、決まったもの食べればいいやって感じです。
毎食ちゃんと美味しいもの、違うものを食べたいと思ってるそうです。
食べること自体も好きだし、何を食べるか考えたり店を調べたりするのも好きみたいです。
あんまり食べたくない気分だけど彼氏に付き合って食べてる時も正直ありますが、苦ではない程度です。
本当に食べたくない時は「今は食べたくない」と言うようにしてます。
「付き合わせてしまってるのでは…」と不安ならば、「本当に食べたくない時は言ってね」と伝えたら良いと思います。
彼氏は食べたいけど私は食べたくない時は、外だったら彼氏は食事、私はお茶するだけにできる場所(カフェやファミレス)に入ったり、毎回話し合って決めます。
常に毎食食べたいものが同じ人間っていないと思うので、程度は違えど毎回話して決めるしかないものだと思います。
1人だと碌な食事しないので彼氏に助けられてると感じる部分もあります。
色んなものが食べられるし、人と一緒に食事することは好きなので。
そんなに毎日毎食何が食べたいか分からないので、提案してもらえたり決めてもらえるのはありがたいです。
「何食べる?」って聞かれると、もう何食べるか考えなきゃいけないのか…考えるの怠いな…勝手に決めてほしい…って思う時もありますけど、私の意見を聞いてくれること自体はありがたいなと思います。
食へのこだわりってグラデーションだと思うので、こだわり度が離れていればいるほど共同生活はしづらくなるかと思います。
彼氏さんは全く食事が嫌いという訳ではないようだし、一緒の食事は楽しいと言ってるならそれを信じてあげれば良いんではないでしょうか?
不安に思うのは、彼氏さんの言うことを信じられてないからですよね?多分。
私みたいに食事に付き合わされることを割と助かってると感じてる人間もいるので、彼氏さんから不満言われたりしてないなら良くない?と私は思いました。
何を不安に思ってるのかいまいちよく分からないんですけど、自分でもそこがはっきり言語化できてないならちゃんと考えた方がいいと思います。
ただ彼氏さんが不満を言えてない可能性も0ではないのでそこは対話してください。
極端に決定的に食への方針が違う場合付き合い続けるのは難しいとは思いますが、本当にお互いストレスになるくらい折り合いがつかないのかは、食事について色々話し合ったりして判断するべきだと思います。
虫の話、かつ大変に不衛生な内容だが、気づきがあったので書いておく。
毎日食う米について、ビニール袋の肩口の一方を切ってそこから米を炊飯器に注ぎ、ものぐさなため、それをそのまま台所の床の上に置く、翌日になって再び持ち上げて炊飯器に流し込む、ということを繰り返している。
今年はたまたま、梅雨ごろに米を炊かない日が続いており、久しぶりに白飯を食うことになったのが、おそらく3週間ぶりぐらいのことだった。
炊飯器に米を入れたあと、普段ならそのまま水を加える。ただ、このときは他の料理の手間もあり、偶然そのままキッチンの上に置いて、しばらく別の作業をしていた。
人間の眼というのはすごいもので、白一色のはずの敷かれた米の上を小さい茶色っぽいものがちょこちょこしているのを、無意識のうちに、脳に警告を出していたらしい。
「うん?」と思って、なんだか気色悪いな、なんだろうな、と思ってなんとなく炊飯器の中を見ると、よくわからない、米の害虫としてよく聞くゾウムシとも蛾とも違う、甲虫に似ているけどそうじゃないヘンテコな虫が、泡を食ったように米から出たり下にもぐったりしている(調べたところ、チャタテムシというやつだと思われる)。
泡を食ったのは人間側も同じなのだが、「これは、炊飯器の中にたまたま最初からいたやつじゃねえな」という嫌な想像力が働いて米の袋の方を持ち上げて検分してみると、はたして同じような虫の姿がときおり見える。湧かしてしまったのである。
普通はあきらめて捨てるだろうが、俺は不衛生なうえに吝嗇なので、かなり悩んだ。5kgの袋の中の米は、まだ半分以上残っていた。
さらに言い訳がましいが、異常に大繁殖してしまっているわけでもないのである。よく見ているとときどき、姿が見えるぐらいなのだ。
また、例えば甲虫類のいわゆるああいう幼虫がここにいて、それが口に入るとなると俺も抵抗が大きいが、チャタテムシ(仮)は不完全変態らしく、このちょこちょこしたやつが最初であり最後の姿らしい。
いずれにしても、この中で増えてしまっているのは事実だし、いさぎよく捨てるのが理性であり、文明である。これを食うのはもはやケチというか、どちらかというと、もう野人の領域かもしれない。
ふと、頭に思い浮かんだ言葉があった。「まあ、そりゃ食わんだろうが、それとは別に、とりあえず、水に漬けてみたらどうだろうか」。
悪魔のささやきであった。
期待した通りというか、水に漬けて、研ぐようにしてかき回すと(無洗米なので普段はやらない)、比重? の関係か虫が浮かんできた。これを2回繰り返すと、ぱっと見は何の問題もない白米になった。
そういうわけで、いま毎日無洗米を研いで、この米を食っている。
一つ気づきというか、さすがに考え直さないといけないかな、と思うようになった変化があったのは、ここ数日のことである。
これまで、2回すすぐと見えなくなった虫の影が、3回を要するようになった。
想像するに、米を炊飯器に注ぐときは米の袋の上層から食っているわけである。そして、虫はそれより下の領域をエリアにしているのではないだろうか。
俺が米を食い進むことで、ある意味で本丸に近づいているのかもしれない。
「近づいている」というこの実感が、(いまさら何を言うんだという感じだろうが)我ながら生理的に不快感があり、3回すすいでもまだ虫が残るようならもう食えん、ということになる気がする。
このように、人間の意識では「一様に汚染された米袋」だが、その中にもグラデーションがあること、文明に背を向けたような逸脱者の気持ちにも「これ以上は自分で自分に引く」という一線が、米袋を食い進んだ先にあることに気づいたので、この機会に書いておく。
地方でメーカーの主要工場勤めだが、「高卒・30歳年収500万・既婚・家車持ち子持ち」くらいなら結構いる。
・職場自体は、院卒(管理職)と高卒で構成。大卒はほとんどいない。構成比は2:8くらい。大卒以上は有名大学の人しかいない。
・高卒組は転勤がないので、転勤の生じる管理職は大変だねって言ってる。
・高卒組はブルーワーカーだが、肉体労働だけをやっているわけではなく、デスクワークの比重もそれなり。自分もほぼほぼデスクワークのみ(30代役職なし)
・高卒組は必然的に地元民が多いので、結婚や出産等で家族のサポートを受けやすい。
・地形や地価の問題で都市部に工場を設けるのは無理。工場設立から100年近く経ってる。
こんな具合だから、そもそも世の中の大卒じゃなければできない仕事の範疇が眉唾。
内容だけを聞いてるとそれうちだと高卒がやってる仕事じゃんって感じる内容もチラホラある。
みんな都市部に暮らしたくて、一極集中の結果、過当競争で必要以上の費用を搾り取られてるだけじゃんって気がするんだよね。
地方で年間残業50時間、ほぼ定時退勤、年休消化、年収500万(交代現場だと+100万)って状況なので、都市部の労働時間やら聞くとエグいなって見てる。
数か月前に書いた内容が急に伸びてて驚いてるがブコメを見て補足する。
・国内に主要工場はいくつかあるが愛知静岡近辺にはない。(自動車関連ではない) 東京に本社やら研究所があるタイプ。
・BtoBが主なので一般消費者には知られていない会社。自分も働き始めるまで知らなかった。
そこそこの待遇の工場をもっているメーカー=自動車っていう一般的な先入観がやっぱりあるよなってブコメを見て思った。
・高卒枠という待遇を許容できるなら中途採用ある。特性上、事業所採用は通勤範囲圏内にしか求人情報を流していない。うちは高卒枠の2割が中途採用者。
※自分はニート(非大卒)→契約社員→正社員というルートだが、最近の中途採用は契約社員は介していない。
一例だが契約社員の採用倍率は7倍ほどで、正社員になるのはそのうち8割だった。ただ競争相手も高卒が大半なので数字ほど大変ではない。
・高卒枠→管理職枠へのルート変更制度はあるが利用する人は皆無。これは各社で違いそう。
・高卒枠だと交代勤務の部署に配属させる可能性があるので車の免許は必須レベル。電車が動いている時間帯に通勤できない。
・場内を車で移動するからうちの工場では自動車免許は必須。これは各々の会社(工場)の規模感によるかも。
・高専もいるが本社採用だと管理職枠、事業所(工場)採用だと高卒枠。
・当然ながら高卒枠の中にも能力のグラデーションがある。デスクワーク適正等。適正に応じて場内のジョブローテ。
・この手の工場で働いたことがある人が分かると思うが、細かいルールがクソ多いので、そういった縛りが苦手な人にはまったく向いていない。
その分コンプライアンス順守はしっかりしている方だと思う。
この漫画ってつまる所は「将棋と青春を通して描く人生という『一所懸命』」なんだと思うんですよね。
王と玉を取り合うシンプルで言い訳のしようがない世界である盤面の上で、夢や都合や老いといったモヤモヤしたものが絡み合って純粋さが失われていく将棋パート。
それとは反対に色々な物が混ざり合いすぎた絵の具みたいに鈍色と虹色の中間みたいな現実の中で、ハッキリと光るものによって世界がシンプルにほどけていく日常パート。
その2つの相反する世界の中で、純粋と混沌をグラデーションさせながら生きていくことを強要されていく世界を浮かび上がらせ、その複雑さと残酷さに押し潰されそうになる中をどう進むか、その答としての「一所懸命」がこの作品で描かれているものなんだろうなと。
この混沌とした世界で数少ない純粋なもの、将棋の勝ち負け、好きだと想う心、その光を一直線に目指す気持ち、それを絶対に譲れないからと必死に糸をたぐるように追い求めていけばきっと道は拓けるはずだという希望の唄なんですよね。
それを今自分が使っているような陳腐な言葉じゃなくて、比喩表現を駆使して少しでも深く掘り出そうとする思いがファイターを通して今なら分かる。
昔は分からなかった。
将棋という軸に繋ぎ止められた方向性のない群像劇だとさえ思っていた。
全然違った。
皆が光に向かって突き進んでいる。
自分の中から溢れてくる光、それが指し示す道へと向けて精一杯突き進んでいる。
なんで3月のライオンのテーマソングがこんなに力強いんだろうか不思議だった。
桐山零は物凄い強くて天才だけど、その印象は優男、いや優しい男の子っていう感じだった。
でもその歩みは物凄く力強かったんだ。
まっすぐ目の前に伸びる道をノッシノッシと何もかもを押しのけていくように踏みしめていく。
この力強さを奏でていたんだな。
そして、そうやって突き進むために桐山が傷つきながらもファイティングポーズを絶対に解かないで何ラウンドもリングの真ん中で拳を突き出し続けた姿を、そんな桐山の戦いの中に、将棋の勝ち負けだけじゃなくて温かいものが無数にあるんだって教えてくれた光に対しての祝福がこんなにも輝いてるから、こんなにもヒロイックに音が跳ねていたんだ。
俺、分からなかった。
10年もかかってしまった。
凄いな、プロは。
いや本当感心するわ。
うーん、それはわかるんだけど、政治判断を下す人に求めることと、ネットでああだこうだ言うだけの一般市民と、求めることが違うっていうか
政治判断を下す人はやるかやらないか、ゼロ100で動かざるを得ないから、増田の言う現実を迫られる
でも一般市民はなにも判断も行動もする必要がなく、目の前のことをどう受け止めるかだけだから、グラデーション付きの解釈のままでいい
90%信頼できそうだ、と思うことがあれば、「それはほぼ間違いないから100%信じよう」とする必要もないし、「10%足りないから全て棄却しよう」とする必要もない
90%信頼できそうだ、のままでいいのが一般市民なんだ
そこは区別して欲しい気がするよ
歴史的な瞬間だ
良い時代だ
金持ちでイケメンで頭が良くてスポーツができる人間が順当に勝っていく
金持ちだから裏口をたたかれ、イケメンだから嫉妬され、頭が良いと勘繰られる、スポーツができると脳筋だと蔑まれる、そんな時代は完全に去った
勿論、そこにはグラデーションは存在するけれども、優秀な奴は全てに優れ劣等は全て劣るという決定論が覆ることは今後ないだろう
最近「科学的に無害と明らか」みたいな言葉をよく聞くけど、そういう言葉って科学をよくわかってない人ほど言いがちで、言う人ほど科学を無邪気に妄信し過ぎている気がしている
「科学的に正しい=何があっても覆らない絶対正義であり真理」みたいに思っているのだろうけど、世の中でそのようなものはほぼないし、あってもごくわずか
例えば、1000人に飲ませれば999人に効く薬があったとしても1人には効かないこともあるわけだ
研究結果でも作用機序が明らかで、統計的にも薬に効果があることが間違いないなら「その薬が効くのは科学的に明らか」なんだけど、例外的にレアな遺伝子型や体質や、諸条件が揃わない患者には効かない、ということもあり得るのが普通
とすると「科学的に明らかなことだけど、例外も頻発する」みたいなことも起きるわけで、それは別に珍しいことではない
いかに科学で正しいと解明されたことでも、その証明のために行った実験では必ず色々な条件を定めている
実際に発生した条件が、確認実験をした条件と極端に異なる場合、予想外の事態も当然起こりえるわけだ
コロナのときもあった、「次亜塩素酸空間散布は効果がない」とする話も、実際はそんなことなくて、密閉空間で高濃度に散布したら当然だけど効果があるわけ
ただそんな空間は人体に有害だし、人体に無害なレベルまで濃度を下げたり換気しつつだったりすると、その除菌効果を確認することが困難、という話が真相なわけだよね
だけど、「あんなものは効果ないことは科学的に証明されている」と言う人はとても多かったと記憶している
「効果がある」「条件によって効果がある」「効果を確認できない」「効果がないことが証明されている」のような話はすっぱり線引きができるわけではなくグラデーションで、誠実な人ほど断言に躊躇する
STAP細胞の時も、一般の人は、あるんですかないんですか、が興味の対象だったけど、「現時点で再現性よく作り出すことはできないけど、そういうものが作れる可能性がある」みたいな、一般の人からすると意味わからん答えしかできないのが真実なことも多い
でも、一般の人はより断言されたはっきりした物言いを好むので、「科学的に証明されている」みたいな言葉は独り歩きしがちだ
色々悩ましいニュースは多いけど、
・その濃度は科学的に無害だとしてもその量でも無害か?(逆も同じ、その量は科学的に無害だとしてもその濃度でも無害か?)
・その行為は科学的に無害だとしても、長期間繰り返しても無害か?
・人体への影響が科学的に無害だとしても、我々がまだよく理解していない生物種や、微生物などにも無害か?
・根拠とする無害・有害のラインは人類が世界中で追試し確認してきたものなので信じるとしても、件のサンプルへのアクセスは当事者しかできない。サンプルの状態を示す数値は、本当に発表者の言う数値を信頼していいのか?
この辺は、報じられるニュースだけでは絶対に判断できないことだろう
だから我々科学者は「一般的に無害なのはわかるけど、懸念点も残るよね」と思うし、感情的に反対する人の考えていることもむしろ素直な疑問と思っている
そういう方を馬鹿にするように「科学的に大丈夫なのにw」みたいに言う人ほど、科学は科学ではなく魔法のカードのように思っているんだろうなと思ってしまう
「他人を人間扱いする」とはどういうことか?が話題になっていたから少し考えたい。
最近の例で言うとビッグモーター。報道なんかで伝え聞くかぎりビッグモーターでは社員が人間扱いされてないような印象を受ける。
あれはつまり、社員を「労働力」という単一の側面でしか捉えていないことが、人間扱いしていない印象をうける根底にあるのではないか。
ビッグモーターの社員ももちろん人間で、生物学的に両親がいて大人に成長できる程度には手間暇をかけて育てられてきた。
悲しむこともあれば喜びもあり、また病むこともあり大切な誰かがいるはずだ。
彼らにも多かれ少なかれ良心があったはずだが、売り上げを増やすために個人レベルの良心を押しつぶした。
彼らにも人生の目標があったはずだが、そのために会社としてするべき正当な人事評価を与えず、恐怖政治の棍棒として人事評価を使った。
彼らにも人の子として、あるい人の親として守られるべき尊厳があったはずだが、それを踏みにじった。
人の持つ多面的な側面を一切合切無視して労働力という側面だけで存在価値を測ることが「人間扱いしていない」ということになるのではないだろうか。
企業なのだから利益を追求することは当然だが、人が会社を動かしている以上人間性を無視して過剰に利益を追求するのは無理があり、その歪みが限界に達した結果現在報道されるような事態になったわけだ。
病気になることもあるわけだから業務にはバッファが必要で、それを用意する。
ミスをすることもあるから、それを前提とした仕組みを実装する。
会社レベルでの「人間扱いする」っていうのはこういう感じの施策群を用意することが人間扱いするということになるだろう。
では個人レベルでの「他人を人間扱いする」とはどういうことだろうか。
ビッグモーターの例に倣えば人間扱い「しない」とは「(本来多様な側面を持っている人間の)単一の側面、あるいはごく狭い側面しか存在を認めないこと」
例えば恋人同士であっても相手に対して性欲発散の側面しか認めていなければ、相手が勃起不全やあるいは生理になったときに、相手を労わることをしないで放り出すだろう。
他にも常にニコニコ上機嫌でいることが当たり前であるかのように求める、とか、病気なんかでお金を稼げなくなったときに相手を責めるとか。
老、病、気分が落ち込む、ハイになる、夢中になる、眠くなる、空腹になる、攻撃的になる、といういろいろな状態があるのが人間で、
人間扱いするとは一人の人間の中にも多様な状態があることを認め、多様な状態に対して相手にとって良い対応をする、ということになるだろうか。
ここまで考えたけど、実際それを完璧に遂行するのは人間には無理だ(自分もまた様々な状態に陥る人間なので、相手の変化に完璧に対応するという責務を自らに課すのは自分を人間扱いしていないことになる)
完璧じゃなく「ある程度」であっても他人を人間扱いするってすごく大変でハードルが高い。
生活においては
・同僚を50%人間扱いする
・道ゆく人を10~30%人間扱いする
みたいなグラデーションのある対応をしてる人がほとんどなんじゃないか。
既にいくつかの増田において触れられている点ではあるが、元増田の見解は類似性の解釈適用の面で、相当程度「アイディア」保護論的な立場に立っており、一般的な法解釈、裁判例の理解とは遠い立場となっているように見受けられる。ただ、その点の指摘よりも増田の大まかな論調に同意する反応も比較的多いようであるので、念のため著作権法を学部時代に諦めた現役ヘボ弁護士が言及しておきたい(著作権の基本書等すら引っ張り出さずに雑に書いただけなので匿名で。)。
そもそも、著作権は、実質的要件を満たしただけで、つまり創作をしただけで当然に発生し、他者に対する差し止め等、排他的独占的な行使をすることができる極めて強力な権利であるという性質を持つという基本的なところを押さえておきたい。知的財産法で言えば、特許権や商標権、実用新案権等、いずれもその強力な権利の代わりに、形式的要件として登録や公開などの制約が課せられていることと対照的である。
これは、著作権法の目的である「文化の発展」のため、創作活動を行った者を保護することが重要であると考えられたために作られた制度であるが、他方で表現は多かれ少なかれそれまでの表現の歴史との連続性の中にあるものであって、いかなる他の表現に一切依拠しない表現というものはあり得ない以上、創作者の保護にも自ずから限度も存在する。著作権の保護の範囲を過大なものとしてしまえば、強力な著作権の排他性ゆえに後続の表現が委縮してしまい、逆に文化の発展が阻害されることになってしまいかねないためである。そこで、アイディアとそれを具体的なものに落とし込む表現とを峻別し、具体的「表現」のみを保護の対象とし、「アイディア」は保護の対象にしない、という「アイディア・表現二元論」が著作権の保護範囲論の最も重要な原則として長く受け入れられてきているわけである。
類似性における「表現上の」本質的な特徴が何であるのかということを考える際も、この点は忘れてはならない点であり、その絵がどういう物を描いているのかという漠然とした「本質」ではなく、その絵をその絵たらしめる「表現」がどこにあるのかということを考えなくてはならない。
と書いていることや、
目の見えない人に、件の女性が描いたイラスト説明することを考えてみろよ。
・真横を向いてふりかえった構図
と書いていることはかなり「荒い」議論であることがわかってもらえるのではないだろうか。
もちろん、構図や身に付けているもの、ポーズ等の選択が表現と言える部分もあるが、「表現」となった部分には独占的な権利がこの作者に与えられるのだと考えれば、この程度の特定の仕方では「アイディア」に近いものと断ぜざるを得ないことはわかるだろう。元の絵の構図やポーズが、この作者にしか生み出せない創作的表現で、この作者のみが独占的に描くことができるものだとしていいのか、と考えれば、「いやいや、そういう抽象的な構図、ポーズはありふれたもので、独占的に他を排除できるほどオリジナリティがあるものではないだろう」と思う人が多いのではないか。ポーズの選択についても、せめてもう少し具体的な言及が必要である(「半身(横向き?)に構えて首を曲げて顔を正面に向けた状態で、奥側にある右手を顔の付近に持ってきてそこに画面を正面に向けたスマートフォンを持たせたポーズを、胸元から頭頂までをグラデーションの背景のみで画面中心に収める構図で描いていること」とか、絵の心得がないので適当だが。)。あえて言えば帽子は特徴的だが、全体として見れば帽子の比重は強くなく、塗りの特徴やくっきりとした主線等の「絵柄」、表情や体形、手に持った筆や鉛筆等の小道具の選択、スマートフォン画面の表示内容、服装の選択等といったあたりも、元の絵の「表現上の」本質的特徴に含まれると考える方が私としてはしっくりとくるところである。無論この辺りの具体的線引きは最終的には正解のないところであろうが、元増田のとらえ方は不正解と言ってもおかしくない程度に極端な議論であるとは言えるものと思われる。「本質的特徴」や「創作的表現」というテクニカルタームはその文字面に反して非常に解釈が難しく、安易な素人判断を信用するのはやめた方が良いだろう(それは私のこの投稿も同じようなものだが。)。
なお、依拠性がある以上類似性で争うのは無理があるだろうとか、AIが翻案したんだから翻案権侵害は確実だろうというような反応がブコメに見られるが、コーヒーを飲む男性の写真をトレースした事案で侵害が否定されている地裁事例からすれば単純化し過ぎた判断だろう
さて、突っ込みは以上だが、ついでにもう少し著作権の保護範囲について考えたい。完全に私見だが、著作権権侵害事件における本質的特徴とは、「その人にしかできないその表現の魅力はどこにあるのか」というところから考えれば少しわかりやすくなるのではないか。著作権法を運用するにあたって、何を保護し、何を保護してはならないのかと考えると、それを作った人が生み出した、その人らしさの表現こそが保護されるべき、でいいじゃないのというイメージである。恐らく、現実に絵を描くときには、構図や服装を考えることも大変で、そのためにいわゆるトレパクが嫌われるのだろうが、構図や服装だけでその人らしさが出るレベルとなると相当特異だと考えられ、それを保護してしまえば逆側の弊害(委縮)が大きすぎるのではないかと考えるし、その人らしさの部分が保護されれば、いくらトレパク等の邪魔が出ようとその人が創作をする価値は失われないはずなのではないだろうか。無論、この辺りの創作側の主観的「大変さ」と法的保護の乖離の部分はまた難しいところではあるが、意図的に特定の作家からのトレパクやそれのみを材料にしたAI学習、出力が続けば場合によっては不法行為等を構成することはあるだろうし、ばれた時の社会的制裁は大きなものになるだろうというあたりでバランスをとるしかないのではないかと今のところは考える次第である。
1枚のレイヤーから下地のピンクを残したままグラデーションのみ分離したいってんなら不可能だと思う。アナログで言うと一枚の紙に混合した絵の具が浸透しちゃってる状態だもん。
グラデーションがかかってると思う部分を目視しながら丁寧に選択範囲を作成して切り取って新たなレイヤーにするより他ないと思う。
趣味の能動的・受動的って1か0かみたいな話じゃなくて、グラデーションだと思ってる。
例えばゲームに限って話しても、そのジャンルによってプレイヤーの操作量・思考量って結構違う。
アクションゲームなら言うまでもなく、その場の状況を逐一判断して、時にはミリ秒単位で正確にボタンを入力している。
一方ノベルゲームは、どちらかというとその名の通り小説を読む感覚に近く、ゲーム内で思考するとしたら選択肢のときくらい。
どちらも一応プレイヤーが考えてゲームを遊んでいる(攻略している)けど、その程度は違う。
俺はアクションゲームの方が動かしていて楽しいから好き。ノベルゲーはちょっとかったるくて肌に合わない。よほど惹き込むシナリオがあれば別だけど。
人によってはノベルゲーは受動的なゲームだと言う人もいるだろう。なんならゲームそのものを受動的と言うかもしれない。
なんか話が逸れた気がするが、まあ価値観は人それぞれよ。
○ご飯
朝:コーンフレーク。昼:ナポリタン。夜:豆腐、えのき、ベーコン、にんじん、オクラ、玉ねぎの鍋。たまごやき。間食:チョコ。
○調子
・はじめに
ケムコとウォーターフェニックスのコンビが送る文明が崩壊した世界で何故か稼働し続けるVRMMORPG「アーキタイプ・アーカディア」を巡る、熱く燃える熱血ノベルゲーム。
作中人物達が遊ぶ「アーキタイプ・アーカディア」はゲームの設定が作り込まれていて、それを遊ぶ様がまず楽しい。
そしてそんなゲームを遊ぶ日常がいつの間にか世界の命運を巡る壮大な物語に広がるんだけど、あくまで個人の良いところもあれば悪いところもある生き様の格好良さで魅せる展開が多めの沸るシナリオが面白かった。
主人公のルスト、その妹クリスティンの二人っきりの旅から始まる物語が数多くの人を巻き込んでいきどんどん話が広がっていくのも群衆劇っぽくて好み。
メインキャラ、サブキャラ問わず、どのキャラも重要な役割があるを序盤から繰り返しやってくれるので、回想シーンやサブキャラの掘り下げが繰り返されるパートもダレずに楽しめた。
VRMMORPG「アーキタイプ・アーカディア」内の出来事が物語の大半を占めているが、このゲームがよく考えられている。
ゲームにログインすると、今までの人生で印象に残っている記憶のカードが4枚入ったアルバムもらえる。
アルバムからカードを取り出して呪文を唱えると、その記憶を媒体としたアバターが召喚されるので、アバター同士で戦うPvP。
アバターは人それぞれで、ごっこ遊びの記憶から剣や銃や石といった直接攻撃系もいれば、愛し愛されの記憶から回復系、単純な乗り物の移動系、辛い出来事を耐え忍んだ防御系、複雑な事情が能力からも伝わる状態異常系などなど、記憶の出来事とゲームっぽさとが融合している。
他にも色々とルールはあるのだけど、記憶と共に戦うから、戦闘を通じて対戦相手の過去も理解していくストーリーと密着したシステムになっている。
そのため、ゲームの中のバトルがそのままキャラクタの掘り下げになっていて、バトル描写が退屈しない。
お歌で戦うアバターだから元アイドルなのかな? 縄のアバターで縛る子はSM好きか? など敵の記憶を予想しながら楽しく遊べた。
全員分の掘り下げがあるわけじゃないのが残念なところだが、主人公が持つ4枚の記憶カードについてはじっくりたっぷりストーリーが楽しめる。
他人と記憶カード交換することもできて、そうするとその能力だけでなく記憶そのものも受け取ることになるので、主人公だけでなく他のキャラクタ達の掘り下げも多い。
物語が進むと色々なシステムによってそれだけじゃない手段でも記憶カードの中の記憶を辿るストーリーが楽しめる。
・翔太が可愛すぎる
そんなカードのやり取りで記憶の一端が描かれるメインキャラの中でも一際惹かれたのが翔太。
見た目と表向きの態度は可愛い思いやりのある女の子で記憶カードでは回復を使える優しい子なんだけど、VRMMORPGのキャラメイクシステムを使って女性を演じている22歳の青年男性。
ネットゲーム用語でいう「姫プレイ」のような遊び方をしており、取り巻きを作り閉じた人間関係の中で悪循環を回している中々に攻めた設定だ。
他人に依存し自立できない幼さがある癖に、すぐ調子に乗り増長する愚かさが愛らしい。
男であることがバレるのを怖がっているが、性自認が女性というわけではなく、あくまで他人から都合よく愛されたいがために異性装している打算あるキャラ。
とまあ嫌な視点ばかり書いてきたが、そんな人間の愚かさをある意味肯定的に、ある意味否定的に描く、人間は人間であるだけで尊いそんな弱くて愚かだけど強くて可愛いキャラだった。
主人公やその他の男性キャラとそういう雰囲気になる展開こそないものの、22歳男性が自立できずに大人の男の人に依存して甘えた態度を取るのはエッチだった。
攻略対象として専用ルートも用意されており、男性キャラながらゲーム内の見た目が女性なのでヒロイン的なポジションとも言える。
なお「ぷぷぷー騙されてやんのー。残念! 男でしたー。おじさん男相手にエロいことしようと思ってたのウケるんですけどー」な二次創作がPixivに投稿されていると予想したが一切されておらず涙した。
記憶カードの掘り下げこそないものの、他のサブキャラ達も魅力がいっぱい。
特に防衛隊の隊長リゲルさんは出番こそ控え目ながら、相手をカメラで撮影すると閉じ込める状態異常系のアバターと、竣敏な動きで攻撃する猫の攻撃系アバターと、バイクの移動系アバターの三種類を同時に使いこなす屈指の強キャラだ。
アバターの同時併用は二つでも高等技術扱いなので三つでかつそれぞれの役割が被っていないのは強キャラの風格があった。
防衛隊なので物語の都合上どうしても負けシーンは多いが、彼ほどの実力者が負けることに毎回きちんと理由があるし、それが主人公の乗り越えるべき大きな壁になるので、主人公の師匠キャラっぽさもあるリゲルさんは美味しいキャラだった。
他にも映画大好きなキャンディさん、翔太の取り巻きながら男を魅せる集落の代表、最後の最後で良いところを持っていく奇妙な倫理観のローズ、肉体を使った「癒し」が得意なカーラのお母さんなどが印象的なキャラだった。
メインキャラだけでなく彼らサブキャラたちの想いも乗った熱い展開が幾つもあるので、サブキャラの書き込みが上長に感じず楽しめた。
先に翔太という例外と魅力的なサブキャラ達の感想を書いてしまったが、この作品のメインは記憶カードをぶつけ合って戦う思想の殴り合いだ。
VRMMORPG「アーキタイプ・アーカディア」のシステムを利用した作戦や工夫のシーンも沢山ある。
この作戦を立てるシーンは楽しく、実際に何か3Dのキャラを動かしたりステータスが変動する要素は一つも無いのに、このゲームを実際に攻略しているような気分になるのが面白い。
しかし、毎回色々、本当に色々あって、最終的には主人公ルイスが妹のクリスティンと遊んだ記憶カードと、章毎のメインキャラ達の思想のぶつかり合いが主題となる。
最強を目指して奪い取った様々な記憶カードに成り切り演じるリア、自身の犯した罪の意識から自死の願望が強いオリーブ、恋人が再起不能になったことから世界を憎むアレグロなど、様々な理由の「楽しい」以外の感情や記憶と対峙する。
これらを主人公のルイスはどのように破るのか、どの章でもここが見どころになってくる。
この思想バトル通じて得た仲間たちの輪がどんどん広がっていくのも良かった。
特にアレグロは表紙に映っているだけあって超重要キャラで対立が一度や二度じゃないのが、物語に深みが生まれていた。
主人公と表裏の関係にあるエピソードなんかもあり、名実共にもう1人の主人公だった。
彼らのエピソードはどれも単純な否定で終わらず、考え続けていくことで、作中でも後々には意見が変わることもあるのが、単純じゃ無さが伝わる難しい話だった。
良い/悪い、正義/悪のように一言で分類できないグラデーションのある多様な意見のぶつかり合いは読み応えがあった。
自己言及型のメタミステリのような物言いになるが、このゲームの主題を要約するとこれに尽きる「ゲームは楽しい」だ。
ゲームは楽しい、シンプルな主張だが、多種多様な様々な状況においてもこの主張は繰り返される。
「悲しい時ほど遊ぶ」作中で何度も引用されるクリスティンの台詞。
どのような意図なのかを細かに解体する必要もなく、遊んでいるプレイヤー自身もまたゲームは楽しいから遊んでいるのだから、この主張には納得しかない。
そんなメタ的な構造の話では終わらず、作中ではきちんと噛み砕いて説明してくれ、ゲームは殺し合いと違って次があること、次があるからこそ工夫をしたくなること、工夫するから技術が進歩すること、終わったら勝っても負けても楽しいこと、誰かと時間を共有することの楽しさなどなど、ゲームの魅力をこれでもかと手を変え品を変えアピールしてくれる。
間違っても何度でもやり直せるように取り返しのつかないことだけはしない、そして自分も相手も許す、ゲームを肯定することがいつの間にか人間を肯定することになっているテーマ性の広がりが最高に決まっていた。
・さいごに
主人公の妹クリスティンが興したギルドで使われていた仲間の中だけで通じる内輪ネタ「ラスモス・ゾティーラ・トゥーラッカ」の意味がオーラスもオーラスで明らかになるんだけど、これこそが正にゲームだった。
ゲーム遊ぶことを肯定するどころか、ゲーム的でないものを否定するような強いメッセージ性のある強烈な作品でありつつも、そのような良い意味で脱力する展開で、緊張がすごく解けてスタッフロールに迎えた。
ゲームは楽しい、そんな当たり前の感情を丁寧に解体して色々な部位で楽しませてれた。
僕もテキストが主体のアドベンチャーゲームを一人で遊ぶのではなく、ステータスやゲーム的技術が求められる人と人との交流がある類のゲームを遊びたくなった。
そりゃもちろん戦争なんかない方がいい。
戦争といっても色々ある。ちょっと大雑把に分ければ、一つは相手が自分より弱そうと判断したら「テメエちょっと金貸せ(返す気はない)」「俺の子分になれ」といって植民地支配する侵略戦争である。
かつての大日本帝国はこれを行い、南京では大虐殺を行い、朝鮮半島では男性を徴用工として強制労働させ、女性は慰安婦という名の性奴隷として凌辱した。東南アジアなど南方でも日本軍による非人道的な支配や虐殺は行われた。このような侵略戦争に反対なのは当然だ。
一方、理不尽な侵略に抵抗するための戦いもある。現在ロシアの侵略に対して対抗しているウクライナの例だ。
ウクライナの抗戦も「戦争」といえば「戦争」である。では「戦争」だから悪なのか?
橋下徹などは一時期「ウクライナはさっさと降伏した方が良い」とか言っていた。
抗戦せず降伏していれば、確かに戦死者の数は減るかもしれない。そのかわりウクライナ語は完全に禁止され、街でウクライナ語を話そうものなら警官に警棒でブチのめされたり、ロシア兵の気分を害するとブチャのような虐殺が起こるかもしれない。
そんな状況になるよりは抗戦しよう、と考えるのは十分に理解できる。
「戦争反対」と言っている人達は、ウクライナの抗戦にも反対なのだろうか?
「戦争反対」と言っている人達によくある理論として、「戦争は政府が勝手に起こすものだから、市民はそれに従わなければ良い」とかいうものがある。では、ロシアではいまだに「特別軍事作戦」を支持する意見が7割近くあるということをどう説明するのだろうか?
戦前の日本でも大本営発表の戦勝報告に日本人の大半が大喜びしていた。国民が戦争を支持したのに、戦争を起こすのは政府が悪いのであって国民は被害者、みたいなご都合主義には違和感がある。
話を戻すと、一口に「戦争」と言っても侵略戦争もあれば防衛のための戦争もある。現実にはその中間にどちらとも言えないような戦争がグラデーションのように存在するのも事実だ。
しかし理解できないのは侵略戦争も防衛戦争の全部一括りにして「戦争」だから「反対」で「戦争反対!」といっているような人達である。
暴漢がやってきて「テメエ金よこせ」とか「テメエの顔が気に入らないから殴らせろ」という場合に、その暴漢に「暴力反対」というのはわかる。だが、たまたま付近ににいた柔道家がその暴漢を投げて寝技で制圧したのに、その柔道家に「暴力反対」というのは迷妄である。
今日本で「戦争反対!」と唱えている人達は、「戦争反対!」という呪文を唱えれば戦争は起きないという妄信にはまっているのではないだろうか?
○ご飯
朝:なし。昼:カラムーチョ。夜:手羽元、白菜、人参、大根、舞茸、ネギの鍋。たまごネギおじや。リンゴ。間食:チョコ。
○調子
○SeaBed
・はじめに
田舎から上京しデザイン事務所を立ち上げたサチとタカコ、二人の日常と休日を丁寧な文体で淡々と描く公称ジャンルは百合要素を含むミステリーなノベルゲーム。
まずミステリという言葉には多様な意味があり、パズラーや本格だけを指す言葉ではなく、衒学趣味だの狂人の解放治療だのをアンチミステリーだと喜んで受け入れた当時の評論家たちが悪いのであって、そのようなものをミステリと呼称することの是非は呼称する側にはないのだ、と言った面倒臭いミステリオタクの言い分はこの一文だけで終わりにして、以後の感想でもミステリ部分への言及は抑えることにする。(なお虚無の幻想描写だけ否定しないのは流水によって解体済みだからなんだよなあ(何が何やら))
そんなわけで公称ジャンルはさておいて、百合作品女性同士の恋愛ものとして僕は楽しんだ。
様々な時系列が入り混じりながらお話が進んでいき、未就学児時代、小中高、社会人、現在と長い時を過ごす二人の女性のエピソードの回想がたっぷり遊べる。
エピソードと書いたものの、所謂起承転結のような物語的な起伏はかなり薄いものもある。
食べたご飯、気持ちのいい温泉、美しい風景、自然の中で感じるニオイや音などなどの、ただそこにあるものの描写、それとそれを二人で楽しむことのかけがえのなさが淡々と描かれる。
良い意味で二人は仲良しなのだ以上の物語のスジが無いエピソードが多い上に、キャラクタの内面の描写もお互いのことが好きなこと以外は控え目。
おそらく文学的な言葉でなにか括ることが出来るのだろうけど、僕の語彙には無いので情景の描写にたっぷりと尺がつかわれているということを伝えたかった。(自然派が自然の描写、森とか山の描写を書く意味でないことぐらいは僕も流石に知っている)
伏線が云々と評価することも出来るのだろうが、これらの美しい文章をありのままに楽しむだけでも十分面白い作品だと思う。
勿論、それだけのゲームではなく、あくまで回想シーンはそのような作風になっていると感じた。
明るくていつも元気で突飛な行動をするが結果をちゃんと出すタカコのカップル。
恋愛に関するフィクションって付き合うまでのドキドキがキモなものが多いけど、今作ではその辺はかなり控えめ。
二人はもうすでに付き合っているところから物語が始まり、回想シーンの大半も付き合って以降のものになる。
そのため、駆け引き無しキス有りセックス有りで、ひたすらにラブラブなシーンばかり。
全年齢向けゲームではあるものの、かなり直接的な表現も多くイチャイチャ度合いをたっぷり楽しめる。
性欲強めなタカコに渋々付き合うサチなパッケージと見せかけて、サチも普通にノリノリなシーンもあったりとシチュエーション豊富。
恋の鞘当て的なシーンもなくもないが、基本的には二人の関係値は最初から最後まで揺るがない。
一番揺らぐのがタカコが性欲ベースで他の女性に手を出そうとするシーンで、それがかなり「らしさ」に思えてしまうのは好きが別れそうだ。
冷静で落ち着いているサチが視点人物のパートでは、最初のうちは一歩引いた客観的な描写のように思う。
事実その通りなシーンもあるのだけれど、ストーリーが進んでいくにつれサチへの理解が進むとなかなかそう単純な話ではないことがわかる。
文体が落ち着いている上に、サチが「怒った」とか「悲しんだ」のような感情を表現しないため気づきにくいだけで、めちゃくちゃ感情補正をかけて客観的に見ている風を装っているように読める。
これは作中でも主観を完全に排除できないことへの言及がされているため、間違いなく自覚的な演出なのだろう。
なかなかに凝った趣向で、読み進めていくにつれファーストインプレッションからずいぶん離れたところにいるサチを見るのが楽しかった。
・タカコの前向きさに救われる
そんな複雑なサチに対して、タカコは最初から最後までほとんどブレない。
公式の粗筋の範疇だけでも彼女にはずいぶんと辛いことが起こるのだけど、それでも前向きの色々なことをしてくれる。
パーティや旅行などのイベントごとが好きなので、彼女が様々な話の起点になるのが特に良い。
サチを引っ張るタカコという繰り返される構図に慣れ親しめば慣れ親しむほどに、SeaBedにハマっていける。
そんな魅力的なサチとタカコについて語ってきたが、彼女達二人っきり以外のシーンだと同僚を交えた職場での会話劇も楽しかった。
大人の女性ながらぬいぐるみ大好きな文と、真面目でちゃらけない犬飼の二人がタカコに振り回され、それをサチがツッコミして締めるのは、他者が混ざることでよりタカコとサチの分かち難さが伝わってくる楽しいシーンだ。
先に述べた食事シーンの豊富な文量はここでも活かされていて、オヤツを巡るいくつかのシーケンスなやり取りが面白かった。
どれも序盤に集中していて後半になるにつれて出番が激減するのは残念なところ。
中盤以降はかなり出番が多く活躍するんだけど、なんといってもサチを誘惑シーンの頭の良さと淫猥さが凄かった。
まず、客観視が得意なサチを納得させるためにペラペラと理屈を捲し立てる。
サチに上手く言い訳を与えつつ自分の欲求を飲ませようとするのが頭良くて賢さを感じた。
その上で、まあ普通にエッチな格好もするという二段構えさが、頭イイ淫猥だ。
中盤ということもあり、サチとタカコの関係値、分かち難さを嫌というほど体験した後にも関わらず、ワンチャンいけるかもかもかな? と思わず七重さん側を応援してしまった。
そんなかなり策を練ったであろう誘惑シーンだが、サチとタカコの関係はブレない。
誘惑しているセリフの量と、断るときのセリフの量の差がえげつなくて、全然笑うシーンじゃないのにクスっときてしまった。
・生と向き合うことで死と向き合える重たいシナリオ
明るくて楽しい見所ばかり書いたが、それだけのゲームではない。
悲しい、落ち込む重たいシナリオの部分もたくさんある。
それが生と向き合うことで死と向き合える重たいシナリオだ。
ここでいう生と向き合うは、考えることを辞めないことのような意味で、思考し理解することを解いていると僕は感じた。
ただその重さも、サチの独特な客観視の妙と、それでも頑張るタカコの朗らかな様が、そんなざっくりした一言ではまとめきれない多様なグラデーションのある感情になる。
読む人によってかなり受け取り方に違いがありそうで、全編ずっと悲しい話じゃんと思う人もいそうだし、同じぐらいと思う人も、いや楽しいの方が多いという人もいるかもしれない。
僕はミステリやコメディにようなエンタメを求めてゲームを遊んでいるところがあるので、明るい楽しいところばかり感想を書いてしまったかもしれない。
(何しろ公式粗筋にいる3人の主人公内2人の感想は書いても、最後の1人については触れてすらいないからね)
・おわりに
女性同士のイチャイチャラブラブの先に重苦しい生きるとは、死とはを問うシナリオが待っていた。
かなり好みが分かれそうだけど、僕は公称ジャンルの是非以外についてはかなり好きな作品だ。
テーマ的な部分以外だと美味しい食事に舌鼓を打つシーンが多いのも好きな理由。
今回の話で「じゃあ◯◯って作品に登場した核実験はどうなんだ」みたいな話とか、
「いうて日本だって核兵器の否定はしてないじゃん」みたいな話とか出てきてるけど、
今回の問題は「原爆をパロってお笑いのネタにした」ことが逆鱗に触れたわけじゃん。
人間の感情も問題意識の閾値もグラデーションがあるもんじゃん。
「肩に他人から物理的衝撃を受けた」という事象があったとして。
1.軽く肩を叩かれた
2.肩をつつかれた
3.肩をぶつけられた
4.肩を殴られた
5.肩を刺された
5をされて怒らない奴はいない。いきなり肩刺されたんだが!?って言ってる奴に
でもお前、昨日隣の席の奴に肩つつかれても怒ってなかったじゃんって言うやつはバカでしょ。
肩つつかれるのを許容してるんなら刃物で刺されることも許容しろよ!って言い出したら、
え?そこまで説明しないとわかんないの?って普通はなるじゃん。
俺はそこまで信じてるわけでもないけど、核の抑止力というものがあると信じている人が
全ての核を同時に廃棄できないから核兵器を持ち続けることは必要悪であるとして
核兵器の存在をを許容してるんだから原爆をお笑いのネタにすることも許容しろよ!って言うのは
なんで核兵器の存在を許容する=核兵器に関するすべてのことを許容するになるんだろう。
今回の核のことにかぎらず、本来はグラデーションの話であるはずなのに
0か100かの両極端な話にして議論をめちゃめちゃにしたろwって人が多くない?
(追記あり)
昔障害者が多くいるグループにボランティアしに行ってた時によく見たパターン
人間関係や物事に曖昧さやグラデーションがあることに耐えられない感じで、何ならこっちから何も話していなくても急にニュースの話題やらで喧嘩売ってきたりするから相手してるとエネルギーをごっそり吸い取られる。
反抗挑戦性障害ってやつらしいけどマジで死んでくれって言いそうになった。我慢したけど。
喧嘩売ってきた奴が落ち着いているときに話しかけてきて薬が良く効いているときだけ人間でいられるって泣いてたけど、あれを毎日やられる家族はたまったもんじゃないだろ
無理に社会参加なんてさせずに福祉だけで生きていけるようになった方がお互いのためにいい。俺はもう実社会でもネット上でも関わりたくない。
追記:
てか俺がそいつらに病名症状をつけた訳じゃ無いんで勝手に精神病扱いしてるみたいに言われても困る。
昔からボランティアには興味あるし今も別のところでボランティアを続けてる。困り事がある所に行ってそれを解決するのを手伝うのが好き。