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2024-07-28

1人の男がロリコンに目覚めた話

 私の大学将棋サークルの友人であるTの話をしよう。

 Tは、東京にある大学から千葉にある自宅まで毎日1時間30分くらいかけて帰っていた。

 時刻は夜10時過ぎで、Tは疲れていた。電車の中で彼はいものように、ぶつぶつと文句を言いながらスマホゲームに勤しんでいる。

 はー、つっかえねー。マジでこのチームくそ

 楽しむためのゲームで苛つきを募らせていたTがふと電車の周りを見渡してみると、すっかり乗客も少なくなっていることに気付き、着実に自宅に近づいていることを確認した。

 そしてTがまた無益な戦いに舞い戻ろうとした、まさにその時だった。

 ぼふ。なんと隣の席から幼女が彼の膝に倒れてきたのだ。

 慌てて視線を向けると、幼女は寝息をたてている。

 よりにもよって、こんなすいてる車内で、というか、母親は何しているんだ。

 Tはその事態に戸惑い慌てて横を向くと、幼女母親と思われる女性は手元のスマホを弄っていて、幼女のことは気にもとめてない。

 ちゃんと面倒見ろよな、母親失格だろ。

 幼女への戸惑いは母親への怒りに変わる。

 しかし、基本的内弁慶なところがあるTは、母親に対して注意することができなかった。

 何より、その時のTは幼女の熱を感じていた。

 もうスマホゲームをする気もしない。

 正確な時間は定かではないが、幼女を膝枕していた時間は、いつもの煩雑電車通学の時間ではなくなっていた。

 するとTの最寄駅を示すアナウンスが聞こえる。幼女はまだ彼の膝の上で寝ている。母親は何も言ってこない。

 そしてTも何も言わなかった。

 ただ幼女と一体化していた。

 結局、自宅の最寄り駅から大分離れた駅で幼女母親は降りて行った。

 母親は降りる瞬間に幼女を起こし、幼女は眠気眼を擦りながら、母親の手を握って歩いて行く。

 Tは一言何か声をかけるでもなく、その姿を目で追っていた。電車のドアが閉まり幼女が見えなくなるまで、ずっと、ずっと。

 もうすっかりTの中の幼女母親に対する怒りなんて消えている。

 Tに残ったのは、自分ロリコンであるという、そんなどうしようもない確信だけだった。

 

 いかがだったであろうか。もしかしたら、あなたもいつの日か、ふいにロリコンに目覚めるかもしれない。そんなメッセージがTの体験談からは読み取れるのではないか

 話はこれでは終わらない。Tはオープンで、社会不適合なタイプロリコン進化した。彼の中にはロリコンに対する罪悪感はなく、我はロリコンであると堂々と公言していた。

 その姿を見て、ある意味まだ捕まってないだけ、彼は頑張っているのかもしれないと思った。Tという男は、要は犯罪者予備軍であった。

 Tは電車に乗ると幼女を探し、学校の近くを歩けば幼女を探し、公園を見たら幼女を探す男だ。

 そんな彼が塾講師バイトをしていたのだ。事件が起きなかっただけ幸運状態であった。その証拠に、「小学生女の子距離が近いから懐かれると擦り寄ってくる」と嬉々として話していた彼の笑顔は、単純に気持ち悪かった。普通バイト代が出なくてブラックバイト文句を言う筈の居残り指導も、彼にとってはむしろご褒美のようだった。

 そんなTに大事件が起きる。なんと塾の小学生女の子から告白されたのだ。

 Tは大層悩んだ。教育者として。大人として。男として。そして1人の人間として。

 悩み抜いた末にTは、その告白を断るという決断を下す。なけなしの常識がTを踏みとどまらせた。1人の幼気な女の子ロリコンの魔の手から守られた瞬間でもあった。

 ここで終わったら凄くかっこよかったのだが、Tは告白を断ったのをひどく後悔していた。何ヶ月もその恋を引きずっていた。どうやら告白された女の子は、可愛い子で、付き合いたかったらしい。まあ社会が許さないのだが。

「どうせその子中学に上がり一旦塾辞めるんだから、俺も辞めてその子と付き合えば良かった」

 ある日の部室で机に肘をつきながらTがそう言った。誰も見ていなかったら悔し涙を流し始めるんじゃないかと思うほど、その日のTは打ちのめされていた。ロリコンガチ失恋なんて、誰も対処の仕方がわからない部室の空気は、異様に重たかった。

 その姿を見た私は、Tにとってロリコンというのは、無理矢理背負わされた重荷なんだと思った。

 果たしてTが幼女を求めてしまうのは、彼の自由意志か。それとも周りの環境のせいか。それとも親の教育責任か。

 否、それは性癖である

 学術的な根拠は分からないが、性癖とはきっと先天的ものだと思う。

 最近「親ガチャ」なる言葉流行ったが、これではまるで「性癖ガチャ」ではないか

 そのガチャの中でもロリコンは外れであることは疑いようがない。ロリコン世知辛い世の中をTは生き抜いていかねばならない。それは道なき道を行く覚悟必要で、もし自分性癖に身を預け、ロリコン道を突き進んだら最後、Tを待ち受けるのは社会的な抹殺だろう。

 もし、あの電車に乗らなかったら。隣の車両に乗っていたら。隣の席に座っていたら。

彼は違う道を進んでいたかもしれない。

 

anond:20240727190302

四隅につけるって言うと普通つの隅それぞれにつけることになるから、そこも気を付けた方が良いよ

「全ての間の関係」とはどういうことか

偉い人に「全ての間の関係を保存するシステムを作れねぇか」と言われたことがある

要件がざっくりしすぎてなんのことを言っているか全くわからないだろう、俺もわからん

で、数学的に分析した結果、関係とは、ノード集合Vがまず存在し、

r: ∪(V^{q+1}) → R

意味する。要するに、この世の森羅万象を表すノード任意個引っ張ってきて、そこに数値(あるいはラベル)を割り当てるわけだ。

ところが、森羅万象など事前に知ることは出来ない。どうするのか。

と、アイデアはいくつかあった。

結局、ビジネスの衰退によりそのようなシステムを作ることはなくなったが、以下のようなツールはそれに近いと思う。

Compare anything: https://www.diffen.com/

このツールでは、「関係性」を見つける代わりに、ノード属性説明比較させるような仕組みになっている。

なーるほど、こういうやり方があったかぁ、とこれを見たときは思ったね。

でも日本では流行らない可能性が高い。というのも、こういうツールは、Wikipedia編集レベルで熱意がなければ知識全然増えていかないのである

使い方としては、2つのアイテム名を入力してポチッボタンを押し、記事があればそれを表示、なければノード属性を表示、なければ編集ボタンを表示、となっている。

森羅万象ノード編集を誰が行うのか、という話である

だが、最近のLLMの進化により、関係説明属性抽出自動的に行える可能性が出てきた。

その場合、「○○(ジャンル)の属性A1,...,Anです。これらをインターネット上の情報から抽出してください」といったプロンプトになるかもしれない。

少なくとも「インターネット上に存在する」様々な物事関係性を、LLMを用いて自動抽出し、それを保存できるわけである

Diffbotというツールがあるが、LLMはそれよりも高価な代替案であり、成功すればかなり便利な知識グラフを構築できる可能性がある (ただしLLMとサーバーの利用コストは高い)

 

追記: 次のリンクのような議論は関連性が高い。https://community.openai.com/t/entity-and-relation-extraction-fine-tuning/35464

追記2:

いか、まず関係抽出ってのは知識DB任意エンティティ間の関係ベル予測するような問題なんよ

で、ネット情報などをクロールして関係ベルを見つけるってタスクがあるんだけど、LLMが出る前は精度の低い方法文書構造化するような方法しかなかったわけ

で今思い出したんだけど、「じゃあLLMつかえるじゃん」ってね

過去にできなかったことができるようになったという思いつきを書いたまでよ

チー牛が幸せである6つの理由

私は人生幸せである

いっておくが、結婚もしていないし彼女もいない。給料も低い。こどおじである

そんな私がなぜ幸せでいられるのか、ちょっと分析した

1. こどおじ=低コスト

こどおじということは、要するにアパートなどに金を支払う必要がないということである

私が親に渡している金額は月2万で、はるかに安上がりだろう

しか家事は分担される。私がやっている家事といえば、風呂掃除洗濯物の取り込み・皿洗い、ぐらいのもの

2. こどおじ=両親との関係

さらにこどおじであれば、両親が家にいるので、寂しくはない

両親との仲がいいので、些細な会話を楽しんだり、一緒にドライブへ出かけたりすることもある

3. 結婚しない=低コスト

結婚しなければ、子供などに費やすお金がなくていいということだ

4. 結婚しない=自由

結婚しなければ、結婚相手子供に対して時間を使わなくてもいいということになる。時間自由に使える

5. 給料が低い=仕事が楽

私の給料が低い理由根本は、リモートワークでぽちぽちやっているだけの簡単仕事から

6. 給料が低い=短時間勤務

さらに、私は短時間勤務で働いている。給料は下がるが、自由に使える時間が増える

私の一ヶ月の収支

収入+20
両親に渡す金-2万
奨学金-2万(1万ぐらい多く入れている)
通院費-7000円
サブスク代金-1万
ユニセフ募金-3000円
その他-1万
合計+13万

まとめ

小山田圭吾を許さない人たち

被害者小山田を死んでも許さないというならまあわかるが、単なる野次馬義憤みたいな何かは大概にしといたらどうなのかという素朴な感想がまずひとつ

バカでも思いつく台詞だが、お前らも今いじめる側で楽しんでるじゃん。

そしていくら平身低頭しても許されないなら認めないし謝らないし隠し通す方向へのインセンティブしかならないという現実的問題ひとつ

もう一つの視点として、そもそも許すってなんだろうか。犯罪被害者や遺族は恨みという重荷から解放されたいので赦したいと思うのだ。だからってそれにつけ込む形で許されてしま加害者はまるもうけである


無心にギターをさわってると脳のネジが緩んでずっと昔の些細なイヤな記憶ポコっと浮かび上がってくることが、よくある。

バイト先で変なマウント取ろうとしてきたバカとか、謎にイキり散らしてきた職質警官の顔がふと浮かんでくる。

俺はそいつらのことを全く許してない。山奥でふと出会ってたまたま自分拳銃を持っていたらサラダ感覚で射殺するだろう。山奥でふと出会ったりしないしたまたま拳銃持ってないしサラダ感覚って何のことかわからいからしないだけだ。

たぶん俺は人生で誰のことも許してない。

いやでも小5の時にタイマンボコられたいっこ上の田中や小3のときに僅差で負けた村井のことは何一つ恨んでない…というか勝負なんだから恨む理由がないか村井にはその後リベンジたから俺を恨んでいるかもしれないが。

2024-07-27

なんのために働くのか

なんのために働くのか。

つのキーワードにする。

それを意識する。

歳を取って最近Youtuber面白さが分からなくなったという悲しみ

俺が気に食わないとあるYouTuberがいる

気に食わない理由はまぁ8割くらい嫉妬だ。儲かってそうだし。18歳なのに普通に増田にいるようなリーマンよりはちょっとだけ多く稼いでる(月収300~500万くらい?)っぽいし、それが適当動画アップロードしてるだけで稼げるんだから人生楽しいだろうな

残りの2割はまぁこつの動画の何が面白いか分からないのにみんながちやほやしてるからだな

動画スタイルはまぁ…メインのスタイル一言で言えば「サムネ詐欺」で、過激サムネタイトルクリックさせて、動画内では適当雑談をして尺を稼ぐ、みたいなことを2年ほどやっているようだ

後は届いたスパチャを読み上げるだけの動画とか、歳下の女子実況者?とイチャコラする…?みたいな動画を出しているらしい。嫌いだから最近動画は見ていないのだ。

こいつは事実たくさんの再生数を得て、たくさんの登録者を得て、スパチャも大量にもらってるから世間はそういうサムネ詐欺とかスパチャの読み上げが好きなんだろうなってのは分かるんだよな。事実こいつスパチャ読み上げしてただけの月で登録者10万人くらい増えてたし。数字は嘘を付かないから、これが世間にとって面白いものであり、これが普通、ということは分かる。

となるとズレてるのは俺の方なのだろう。まぁ子供向けの動画なのは分かるのだが、理屈として、知識としてなぜ面白いのかくらいは理解できるはずなんだ。だけどこいつは分からなかった。なんでこれが多くの人にウケてるのか分からなかった。

増田人間はまぁ最後だけ読むとかやると思うから簡単にまとめると、こいつ視聴者の女とヤり放題なのいいなっていう話です

老害になった

歳のせいか思考に柔軟性がない。

自分の非を認めることにも抵抗感があり、相手の指摘は正しいと思う部分はありつつも、態度では頑なに「自分は間違っていない」姿勢を貫こうとしてしまう。

意固地な性格なのかもしれないが、自分老害になったことを知る。

40歳初老だ。十分老害と呼ばれる年齢だろう。

 

妻に「あなたは自立していない」 と言われた。

ただ、納得できない。人は野生動物のように1つの個体だけで生きてはいけない社会的な生き物で、「自立」と言われても、支え合いながら自立するものだと思っている。コンビニスーパー必要で、店舗従業員がなければ生きていけない。竹藪でタヌキを見つけて殺して食べる生活なんかできるわけがない。人間関係感謝しつつ、他人と支え合うのが人間だと思っている。じゃあ「自立」って何だ? 人間は一人では生きていけないだろ。会社もある程度の規模なら、社長従業員必要とするし、従業員には元手がないか資本家(という言い方は古いだろうが)が必要だ。

 

「自立していない=子供」という意味であれば、自分にはそれは当てはまらない。ずっと一人暮らしで生きてきたし、友人もいる。親や家族のような特定の誰かに経済的に頼らなければ生活ができない状況ではない。

 

コミュニケーションは難しい。相手に分かるような言葉をその場で瞬時に言わないと、後で言えるチャンスがない。チャンスがあったとしても「なんで今更」と言われるだけで、言う意味が無くなる。第一、取り合ってもらえない。「ネチネチ言うな」と言われて終わりだだろう。知らんけどな。

 

うん、老害だ。

こんな文章増田に放流するくらいだからな。

怒りを体現した行動は、怒りを助長するため辞めたほうがいい

ムカついても、何もしないほうがいい。

そんな、とても当たり前のことに気づいたのでエピソードを添えて記録に残す。

先日、横に並んで歩く学生二人組とすれ違う場面があった。

道が狭いため、自分は少し横に寄った。

学生も少し横に寄ってくれれば、ぶつからずにすれ違える。

ただ学生側は全く避けようとしないため、このままだとぶつかってしまう。

腹を立てた自分は、少し横に寄った状態のまま真っ直ぐに歩いた。

当然、ぶつかる。詳細に書くと、学生カバン自分がぶつかる格好。

避けなかった学生が悪いと思い、謝ることもせずそのまま歩き続けた。

なぜ相手配慮して避けないのか、腹が立つ。

そしてしばらく、その学生二人組に対してイライラし続けた。

こんな感じの腹立たしい出来事は生きてると無数にある。

ただ今回の出来事は、不思議となかなか怒りが収まらなかった。

その翌日、今度は歩きスマホをしている人と同様の場面になった。

昨日と同じように腹が立ったが、もう諦めて自分が大きく避けることで衝突を回避した。

腹が立つと思いつつ、少し時間が経った後すっかりこの出来事を忘れていることに気づいた。

この2つの出来事は、発生した瞬間は同程度の憤りを感じた。とても腹が立った。

ただ、この怒りの感情生存期間が大きく異なった。

ふりかえってみると、怒りを体現した行動を起こしたか否かが違いだった。

怒りを体現した行動を取ってしまうと、その怒りが助長されて持続してしまう。

腹が立つと、相手にその怒りをぶつけたくなるが、自分のためにもそれは辞めたほうがよさそうだ。

中絶人権トリレンマ

トリレンマとは、「3つのうち2つしか選べず、1つを諦めざるを得ない」という状況である

中絶権利普遍的人権とのあいだにも同様のトリレンマが成り立つ。

我々は、

  1. 胎児人間である
  2. 人間出自によって差別されてはならない
  3. 中絶自由である

という3つの原則を持っているが、すべて満たすことはできないので、1つを諦めねばならない。

  1. 胎児人間であり、かつ、人間出自によって差別されてはならないのだとすれば、中絶全面禁止されることになる。しばしば挙げられる「家が貧しいから」とか「性犯罪によるものから」という理由は、「貧しい家に生まれ人間はいじめてもよい」「犯罪者の子供として生まれ人間はいじめてもよい」という主張が認められないのと同様に、認められるべきではない。子宮癌が見つかり、即座に胎児ごと子宮を摘出しなければ妊婦生命にかかわる、というような場合にのみ、緊急避難(一人乗りの救命ボートに乗っているとき他人を突き飛ばし溺死させても無罪)による中絶が認められる。
  2. 胎児人間であり、しか中絶自由であるのならば、人間が親の恣意によって、あるいは「貧しい家庭に生まれた」とか「犯罪者の子である」という理由によって殺されることを認めることになる。究極の人権侵害である殺人がそのような理由で認められてよいのであれば、それより軽度の出自による差別もすべて認められなければおかしい。「◯◯出身者は雇いたくない」とか「うちの大学入試女性の配点を低くしてるんでー」とかいった差別も解禁されることになるだろう。
  3. 人間出自によって差別されてはならず、かつ、中絶自由であるのならば、胎児人間ではない。そうであるならば、胎児を殺そうとした者を「殺人未遂に問うべきだ」などと主張するべきではないし、妊婦を殺した人間の罪は2人ではなく1人を殺したものとしてカウントされねばならないだろう(もちろん、情状によって重い刑を科すことは否定されない)。

小山田圭吾QJイジメ記事は当時からオカシイものだったよ

このオカシイというのは倫理的ものじゃなくて、コンテキスト的なおかしさのこと。端的に言うと「だせぇ陰キャ流行りの鬼畜系の真似をしてみたイキリ」だ。

https://anond.hatelabo.jp/20240724141703

最近で判り易い例で喩えると、石原伸晃報道ステーションに出て「ナマポゲット~」とか医療費削減の為に安楽死がいいとか言ってたヤツ。あれだ。

若しくは駅員の注意に弱そうな撮り鉄が細い声で暴言吐いてるのとか、江ノ電ニキに「金か?金なんだろ」と細い声を張り上げてるあれの同類

 

伸晃の場合ネットに触れるようになって良い年したオヤジネトウヨサイトに感化されてるのが明白で、当時としても「バカじゃねーのこいつ」と思った人は多かろう。特にネットをよく使う人なら文脈をよく知っているからおさらだ

から小山田QJ記事についても「バカじゃねーのこのダサ坊」という扱いであった。少なくとも神保町書泉ブックマート地下一階でQJ立ち読みした増田はそう思った。その理由を記す。

 

暴力コンテンツと不良文化

90年代少年マガジンは不良と暴力に全振りしていて、暴走族の抗争とか集団リンチして半殺し、不良同士の抗争で殺人、それへの復讐というようなマンガで埋め尽くされていた。

そうなると実際の不良文化にも影響は出てきて、どこそこの生意気な女を輪姦してやったぜとか友達の友達喧嘩相手の頭を執拗に殴って耳血が出て意識不明とか、そういう自慢が横行していたワケ。

自分暴力的だ、と云う以外に暴走族池袋チーマーなど暴力傷害殺人を犯した人間と繋がっている、というのが自慢になり得たワケだ。

 

鬼畜

同時に鬼畜系というコンテンツ流行ってたのだが、これは背後に外連味があるものだった。「夜想」とか「WAVE」とか「〇〇評論」とか、文化評論系のA5版雑誌流行していて、それらは外連味が溢れるサブカルものだったのだが、その雑誌群の編集者が興したのが鬼畜系だったのだ。

その代表人物自称中卒工員の精神障碍者村崎百郎は『夜想』などの編集者で、外連サブカルの中心に居る人物でもあった。後に自身精神異常者だとの嘘を恨まれた読者に殺される事になったが、相応しい最期と言えるかもしれない。

『危ない1号』の青山正明なども模試成績一位になった事がある元優等生であった。因みに青山ロリコンブーム仕掛人でもある。

 

鬼畜系はゴミ漁りによる個人情報漁り、麻薬精神世界(綺麗じゃない糞尿垂れ流しの方)、奇形趣味身体欠損、時代遅れになっていた新左翼セクト変態セックス特に獣姦など)を扱っていた。

だが、wikipediaの「鬼畜系」の項には過去変態春画や無残絵、宮武骸骨などが載っているように、「高尚な文脈」で関連付けがされうるもんである。それは単に良識人が目を逸らす悪趣味の羅列じゃなくて外連サブカル編集者達が興したブームであり計算されたものであったこと、それまでの文脈を踏まえていた事、それによって高尚な文脈の中で論じることが知的であるという文脈惹起されるからに他ならない。

 

単純暴力系と鬼畜系の中間路線

マガジンみたいな馬鹿向け暴力賛美と、知的に思われたいがそれは隠したい、自身個性的と思いたい馬鹿向け鬼畜系、二つの路線が同時に存在するとその中間路線活性化する事になる。

それで鬼畜系の中からドラッグタトゥーなどだけを特集したより実践的な雑誌群が刊行されるようになった。実践的というのは、実際にタトゥーを入れたり骸骨アクセサリをジャラジャラさせたり、アムステルダムで実際に飛びツアーをしたりという実際のファッションライフスタイルと結びついていたから。

こっちはワルだけどチーマー暴走族みたいなバカはやりたくない、或いはファッションワル向けだね。

 

小山田背伸び

さてそうすると今でいう陰キャとかオタクっていうのはこういうのに絡んでこないって事になる。鬼畜系とは親和性が高そうだが、なに分にもぶっ飛びすぎていて真似するのは難しい。

そんな中でクイックジャパン刊行されたのだ。

創刊号はよくあるサブカル雑誌という感じ。だが3号くらいから迷走をはじめるのである

芸能人インタビューを入れたり、オウム事件を扱ったり。芸能人記事を入れるのはメジャー路線化だ。多分1-2号が売れなかったのだろう。一方でオタク路線にも足を踏み込んでいた。その甲斐あって10号でエバンゲリオン特集が組まれてそれで話題になるのであった。

 

で、こういう迷走と試行錯誤の始まりに収録されたのが件の問題小山田インタビューだったワケだ。

そもそも小山田コーネリアス渋谷系に分類されるが、アンテナショップ役割タワーレコード渋谷店でもWAVE渋谷でも「渋谷系」の棚なんて無かった。商業主義HMVには渋谷系のコーナーがあったが、渋谷に来る若者には「渋谷系」なんて恥ずかしいものだったわけだなw(カヒミカリイやピチカートなどは除く)。

 

そんな渋谷系の彼がQJに登場して自慢したのが件の障碍者虐めであったワケ。

これはかなり見てられない。そもそもそんな良くない事をすでにメジャーデビューしてる小山田がわざわざいうのは自慢であって、鬼畜系や暴力標榜アピールだったのである

でもその内容は「学校での」「虐め」体験であった。

そもそもタトゥ入れまくりだの、悪趣味鬼畜系だのというのは、自分社会規範から外れている、反逆しているとのアピールが含まれている。そこで「学校での」「虐め」体験を語るというのは、学校というレールから外れずに来た子供のままで「デビュー」していないという事であって、かなり痛々しい、背伸びした陰キャ行為だ。いかにも悪ぶった陰キャの自慢という痛さに満ちている。

政治家のガキとして不自由なく育って齢50過ぎになってネットに触れて悪ぶってナマポゲット~」とか言ってた伸晃の痛さと相同である

 

共感羞恥

そういう訳でして、小山田発言は当時の悪趣味、反良識文脈を踏まえたものだったというのは確かにそう。

でもそこで学校での虐めを誇るというのは当時としても痛々しいし、背伸びしてそれかよというモンであって単に陰キャのイキリでしかない。実に恥ずかしい。

そしてそれが原因で後年に大舞台公職を解かれるに至っては自業自得の上にバカ屋上屋を架すと言った代物であり、撮り鉄江ノ電ニキ罵倒大会に伸晃(50代)が混じって「金だろ?ナマポゲット~」と一緒に叫んでるような恥ずかしさとバカ煮凝りの如しだと思うのである

アゴラ

池田信夫って、見るからに◯◯なのに、あいつの言ってること真に受ける連中もいるんだな。

アホな穀潰し楽園、略してアゴラってか?

anond:20240727114916

知のオープン化がなんなのか分からないが、例えば数学を考えてみよう。

数千年間にわたり蓄積されてきた数学の成果は、全て公開されているし、公教育にも取り入れられている。

にも関わらず、日本人数学知識はといえば、三平方の定理を示せたら上等な部類だ。

三平方の定理って、一体いつの成果か?パンピーは数千年前で足踏みしているのだ。

ガウスとかオイラーとかヒルベルトとかトップ学者はいつの時代学問最先端を切り開くけれど、パンピー数学知識は一個も増えていない。

なぜならば、数学パンピーには難しすぎるからだ。

翻って、知のオープン化が可能かどうか、意見を聞かせてもらいたい。

anond:20240726184013

こいつのような絵にかいたような歴史修正主義ウヨが松明片手に次々乗り込んできている

日本ゲーム文化は終わった

タコ寿命の短さについて




タコ寿命が短い理由は、主にその繁殖戦略生理的な要因に起因します。

繁殖戦略

タコは「セメルパリティ(semelparity)」と呼ばれる繁殖戦略採用しています

これは、一生に一度だけ繁殖し、その後に死ぬというものです。

オスは交尾後に寿命を迎え、

メスは卵を産んだ後に孵化するまで守り続け、

その間に餌を取らずに衰弱し、

最終的には死に至ります

生理的要因

タコ寿命が短いもう一つの理由は、その生理的特性にあります

タコ繁殖器官は視神経腺(optic gland)のホルモンの影響を受けて成熟しますが、

これにより消化腺が不活性化され、餌を取れなくなります

このため、タコ繁殖後に急速に衰弱し、最終的には餓死しま

具体的な寿命

一般的タコ: 多くの種は1年から2年程度の寿命です。

ミズダコ(Giant Pacific Octopus): 比較長命で、3年から5年生きることができます

深海タコDeep Sea Octopus): 一部の種は16年から18年生きることが報告されていますが、これは非常に特殊な例です。

繁殖後の行動

メスのタコは卵を守るために全てのエネルギーを費やし、孵化するまでの数ヶ月間、餌を取らずに過ごします。

この期間中、メスは自分体脂肪を消費し、最終的には死に至ります

このように、タコ寿命の短さはその繁殖戦略生理的特性に大きく依存しており、これがタコの一生を決定づける要因となっています

anond:20240726154243

実際に「黒人奴隷日本発祥だって白人が言いふらしてるううう!」ってポストに何万といいねがついて拡散されたという経緯があっての話でしょ。

お前が「注目集めたいやつの自己顕示欲モリモリの戯言」と評するのは勝手だけど、そう思ってない奴が大勢いるっていう現実直視しろよ。

増田でも先週にこんなのがいたぞ。

https://anond.hatelabo.jp/20240718034853

「真に黒人差別をしていたのは日本で、イエズス会はむしろ救済者」とか「日本人には黒人の血が流れてる」とか……あげたらきりがないそれら、反論しても聞き入れてもらえない現象が起きます。こういった面倒臭いパターン日本人ならよく知ってると思うのですが、慰安婦(に、限らず植民地時代の状況)とか。ここら辺持ち出すと変な人に噛みつかれそうですが、インフラ整備したのは日本だし、ハングル確立日本の功績大きいし、慰安婦自分からお金を貰うため売春した人たちで無理やりはしてないし、当時を知る人ほど親日の人多いし……と、いうわけ何ですがご存知でしょうか。

anond:20240727062428

逆にそれが問題伏字にした意図を問われるだろ

チンチン教とかもっと適当名前だったら

フィクションです錯誤も狙ってませんって言い訳が立つの

https://anond.hatelabo.jp/20240727042815

  無内容な糞祭り。  いつも客観的犯罪者出現率が高い赤羽ゴルフ場の暗やみは、8月3日の19時30分以降は、偽善者が大量に座り込んで花火を見ることになる。

   若者糞女は、8月2日の夜に長谷川にしごかれる夢を見て、当日だけ真人間になるし、少年の方も、花火大会のときだけ、あそこにブルーシートを敷いて苦しい顔をしている。

   オーベル川口並木で爆発した中国人とか裁判官の44歳で、一日中、リヴァージュシティにいる不審な男は、そもそも、見に行かない。

     ときわ台メリーガーデンの1200名も、決まっていないから行かない。

  出て来るのは、蓮根駅浮間舟渡駅と、もう1つの駅に行くことができる東京さいたま近辺の人間と、新河岸公共団地の人間だけ。

へい!AI南京虐殺推定最大被害者数と推定最初被害者数を教えて!

Perplexity

最も多い被害者数の推定: 約30万人(中国政府)。

最も少ない被害者数の推定: 約1万人(一部の日本の歴史家および修正主義者)。

 

Claude

最も多い被害者数を提唱する説:

中国政府公式見解では、約30万人の犠牲者があったとされています。これは南京大虐殺記念館などでも採用されている数字です。

 

最も少ない被害者数を提唱する説:

日本の一部の研究者や団体は、数千人から4万人程度という比較的少ない推計を提示しています。例えば、日本の「南京事件調査研究会」は、約2万人という推計を発表しています

 

戦後80年も経つのに、立場が違えば30倍も数字が変わるような話題人間の手に負える訳が無い。常温核融合による莫大な電力で動く量子コンピューター上で演算されるウルトラスーパーかしこ戦争犯罪断罪専門超公平公正絶対正義完全無謬AIの開発にかけるしかない。

「彼らが最初共産主義者攻撃したとき」を引用してくるやつ

専業主婦高所得者冷遇の話の時とかに

「彼らが最初共産主義者攻撃したとき

って詩を改変、引用してくるの大好きな奴いる

自分関係いからといってナチス放置してたら最後には誰も自分の味方してくる人はいなくなったって話なんだけど

 

牧師この詩を書いたのは牧師で、いわゆる特権階級なんですよ

しかもこの時代牧師エリート。今でいう子供の頃から成績優秀で医者なるみたいなルートで生きてる人

 

いつ声をあげようが常に誰も味方してくれない弱者の話ではなく

特権階級がその地位にあぐらかいてたら、ゼロになったって話で

 

特権階級でかつのうのうと暮らしているわけじゃない弱者にそれいうのはお門違いで

 

専業主婦高所得者ってむしろ自分には関係ないといろんなことに無関心で

味方がいなくなった牧師側なんじゃないですか?

というツッコミをしたくなる。

そろそろ『アサシンクリード』の面白さについて語っておくか

ストーリー

アサシンクリードは、理不尽支配に反発して権力者暗殺する「アサシン教団」と、時の権力者を操り社会を裏から支配する「テンプル騎士団」の、古代から続く戦いを描いたゲームである。「混沌・悪」VS「秩序・悪」という感じである

アレクサンダー大王も、始皇帝も、カエサルも、チンギス・ハンも、永楽帝も、チェーザレ・ボルジアも、実はテンプル騎士団の一員だったし、実はアサシン暗殺されていたんだよ!という世界観である。ちなみに過去作品ではフランシスコ・ザビエルテンプル騎士団とされているので、今回(シャドウズ)もイエズス会テンプル騎士団の手先だったりするのだろう。

アサクリのもう一つの軸が「イス」と呼ばれる超古代文明人の存在である。彼らは人類創造した神のごとき存在であり、実際にギリシャ神話北欧神話に登場する神々の正体は「イス」である。彼らが遺した強力なオーパーツを巡って、アサシン教団とテンプル騎士団争奪戦を繰り広げていく、というのが一つのパターンである

また、この「イス」の遺した技術に基づいて、現代では「アニムス」と呼ばれるバーチャルリアリティマシンが開発されており、それを使って過去の様々な時代アサシン記憶追体験している、という基本設定がある。つまり、実は主人公は、アサシン活躍仮想的に体験しているだけの現代人なのである。アサクリには「現代パート」もあるのだが、これは完全な続き物になっていて、シリーズを追いかけていないと意味がわからないので、なかなか評判が悪い。初心者現代パートなんかすっ飛ばしても問題ないぞ。

というわけで、リアリティのある歴史ドラマかと思ったら急に濃度の高いオカルト伝奇SF要素をぶちこんできて暴走しはじめるのがアサシンクリードの魅力である。詳しくは年表を見よう!

アサシン クリードシリーズにおける年表 - Wikipedia

ゲームシステム

アサシンクリードの特徴といえば何と言っても「オープンワールド」と「パルクール」だろう。「どこでも登れる」「どこまでも行ける」というオープンワールドアクション本家本元とも言えるシリーズなのである。窓のフチや壁のヘリなどを掴んで、するすると登り、飛び上がり、軽やかに街を駆け巡る。何にも邪魔されることなく思いどおりに移動できる楽しさがそこにはある。

そのオープンワールドで何をやるのかと言えば「ステルスアクションである。敵の拠点侵入し、見つからないように探索し、標的を殺して脱出するのである

まずは侵入するまえに敵拠点構造を入念に調査する。どこに敵が配置されているか確認し、それらの移動パターンを観察して、どういうルート侵入するかを考える。サッと壁を登って開いている窓から侵入しよう。いやいや屋根伝いに高所から標的を探すのもいい。手薄な裏口の敵をこっそり暗殺するのはどうか。もちろん正面から殴り込んで敵を全員ぶっ殺しても構わない。

まりオープンワールドとしての移動の自由度がそのまま、プレイヤーが取れる侵入ルート自由度に転化しているのが、アサクリの醍醐味なのである。「たった一本しかない正解のルートを見つけ出す」のではない。「数多く用意されたルートの中から一本を選び出す」のが楽しいである

さらに、この「街を自由に駆け巡る」「敵の拠点侵入する」といった要素からまれたのが、アサクリの「歴史考証」の部分である

そうしたゲームシステムでは「街並みをどう作るか」「建築物をどう作るか」がとても重要になってくる。なにせ「プレイヤー侵入する建物だけ作ればいい」「プレイヤーが移動するルートの周りだけ作ればいい」というわけにはいかない。広大な街を作り上げて、そこにいくつも拠点を建て、大勢NPCを配置して、そしてプレイヤーが隅々まで移動できるようにしなければならない。それがゲーム面白さに直結していくのだから

そこでアサクリは「歴史上の街を再現する」という方法を選んだ。完全にオリジナルの街を一から作るよりも、見本を用意したほうがある意味では作りやすかろうし、その副産物としてプレイヤーの没入感と知的好奇心を得ることもできた。建物文化風俗再現度は高く評価されており、アサクリの売りの一つになっている。

もちろん史料調査には限界があるし、ゲーム的な都合が優先されることも多い。過去シリーズでも「この年代にこのアイテムはまだない」「この街にこんな建物があるのはおかしい」といったようなツッコミが入っている。前々作『ヴァルハラ』などは特に批判が多かったというので、地域年代によってまた作りやすさが変わってくるのかもしれない。

とはいえ、アサクリがわざわざ歴史考証のチームを設置し、多くの史料確認し、専門家の監修も受けているのは事実であって、ただのゲームとしては相当に頑張っているのは間違いない。プレイヤーとしては、決して完璧ではないということは頭に入れつつも、巨額の予算によって作られた「自由に走り回れる歴史景観」を楽しみたいところである

オススメシリーズ作品

とりあえず現時点でオススメするなら前作『アサシンクリード ミラージュ』だろう。元は前々作『ヴァルハラ』のスピンオフとして制作されていたということもあり、『ヴァルハラ』の前日譚のようなストーリーになっていて、ボリュームも控えめであるゲームシステムとしても原点回帰を目指したシンプルな作りで「これぞアサシンクリード」という作品になっている。

ミラージュ』をクリアしたなら、続けて『ヴァルハラ』をやるのもいい。前述したとおりストーリー的に繋がりがあるし、『ヴァルハラ』はシリーズのなかではかなり変わっていて、「アサクリらしくない」作品でもある。主人公アサシンではなくヴァイキングなので、ステルスよりも正面切っての戦いのほうが得意だったりするし、各地の勢力ひとつひとつ同盟を結んでいったり、自分たち拠点を開発して発展させていったりするような、戦略的な側面が強い。

このあたり、近年のアサクリは「従来通りのステルスアクション」と「他のゲームのようなバトルアクション」のあいだを揺れ動いていて、『シャドウズ』ではついに「ステルス担当奈緒江と「バトル」担当の弥助のダブル主人公になったという経緯がある。

アサクリシリーズは、オープンワールドにおける一つのスタンダードを生み出した、現代ゲームの粋と言っても過言ではない名作であるプレイしないまま死ぬのはもったいない。いまのうちに『ミラージュ』『ヴァルハラ』をプレイしながら、日本舞台となる『シャドウズ』の発売を楽しみに待とうではないか

10年以上前に書いた小説を読み返した(追記あり

15年以上前アラサーだった自分新人文学賞などを目指して小説を書いていた。

土日の大部分は小説を書く作業と、小説を書く人が集まる社会人講座の授業に費やしていた。

5年位は続けていたが、やめてしまった。

自分が書くべきことが次第に思いつかなくなってしまたことと、他の受講者の作品本屋さんで売っている小説を読んでいるうちに、自分には向いていないしセンスがないことがだんだんわかってきたからだ。

ところが最近自分パソコンフォルダを漁っていたらその頃の小説pdfが出てきた。書くのをやめてばかりの頃は恥ずかしいし痛いから二度と読むまいと心に決めていたが、今の心情としては死ぬ前にあと1回位は読んでもいいかもしれない、小説の見え方も書いていた当時とは大分違うかもしれないと思い、斜め読みでもいいからとりあえず読んでみることにした。

読んだ作品はA、B、C、Dとして、以下にその感想を書く。

登場人物やあらすじについては触れない。

A

小説を書いてみたいと思って社会人講座に通い始めて間もない頃に初めて書いた。原稿用紙350枚ぐらい。

登場人物言葉遣いが汚い。直情的すぎる。登場人物の中でホモと疑われる教師がいたのだが、今の時代ではアウトすぎる表現だった。

物語の展開が都合良すぎる。

恋愛描写がくどい。多分これが、よく言われるところの、素人おっさんが初めて書く小説ありがちな痛さかもしれない。

書いてる時には恐らく頭の中で見えていたはずのもの文字になっていないからなんのことだかわからない記述がある。

過去の知り合いを物語の中で過剰に美化している。つまり自分の当時の人生観が未熟で甘いということだろう。

主人公がずっと目指していた目的地がいつの間にかすり替わっているのに物語中では一切理由がわからない。

親の心とかの描写が表面的すぎる。

内容をほとんど忘れていたので次の展開が読めないところは楽しみでもあった。

瑞々しい恋心みたいなのはちょっとよみがえった気がした。今よりも恋愛至上主義が強い世相の中で流されつつ抱いた渇望感みたいのを思い出した。

小説すばる新人賞に応募したが1次選考にも残らず。当時はなんで?なんで?って感じだったが(それも恐ろしいことだが)今読めば選考に残るわけないのは十分納得。

B

Aの2年後ぐらいに書いた。原稿用紙500枚。

主人公思考社会への目があまりにもすさんでいる。それは当時自分がそうだったことの裏返しだろう。

弱者執拗否定しようとする力の存在をことさら強調し絶大視しようとする描写がいくつかあって、それが自分人間的未熟さというか卑屈さを浮き彫りにした。

犯罪トリック稚拙USBメモリ紛失をでっち上げただけで大企業情報漏えい事件発生というのは無理がある。

簡単に人が死ぬ。こんなに登場人物をたくさん殺しているのにその必然性も後片付けもないと、当時通っていた講座の講師にも指摘された。

書いた当時の10年後つまりここ最近時代舞台なのに、現代キャッシュレス社会を予見できなかった。虹彩認証コンビニ1000万円までの現金を下ろせてしまうという設定にはあまりにも無理があった。

刑事がすぐに暴言を吐き暴力を振るう設定が安直すぎる。下手をすれば職業蔑視とも受け取られかねない。

いい奴の主人公最初のシーンだけめっちゃ嫌なやつ過ぎてその後のシーンでの性格とあまりにも整合性がつかなすぎる。

氷河期世代負け組アラサー男性絶望感と人生をやり直しの希望みたいのは出たと思う。

当時の自分成功したあっち側ではなく、だめなこっち側人間なんでこっち側の怒りや絶望を描いたつもりだったのが、その描写に卑屈なところがあるため、かえってこっち側の怒りを買いそうでなおかつあっち側から苦笑いか同情でもされそうな残念感が今も残る。

このミス大賞」に応募して、もちろん1次選考には通過しない。当時はそんなもんか、という印象だったが、今だったら通るわけないと十分納得。

C

Bを書いた後に、今度は誰も死なない話を、なるべく心温まる話を書こうと奮起して書いた。原稿用紙350枚。

登場人物で、モデルとなる実在人物がそれまでで一番多い。そのためか痛さが際立っている。

物語の展開にAやBほどまでの唐突さはないが、それでも十分唐突

今どき年寄りしか使わないような方言若者世代にまで喋らせていてあまりにも無理がある。

主人公恋人となる女子大学生の人物描写凡庸で表面的。

難しい命題を掲げておいて導き出した答えがあまりにも安直稚拙主人公大学生なのにこれじゃ中学生かよって感じがしてしまう。

書いている当時は見えていたものを本文に描写していない(書いた気になってる)のでなんのことかわからないシーンが一箇所あった。

主人公のイチャラブシーンがくどい。がそういうのがいい人はいるのかも知れない。ただし、人物描写に深みがないからやはり読む人が読めばつまらない。

もし登場人物モデルとなる実在人物にこんなのを読まれたらと思うと恐ろしい。

縁あって知り合いの編集者の方に読んで頂いたところ「よいところは何一つない」と断言され、大沢在昌小説入門のような書籍勉強することを真剣に勧められた。(一通り読んでみたが実践にまで及ばず自分の血肉とはならなかった)

小説すばる新人賞に応募し、もちろん1次選考に通過しなかった。当時の印象としては、やっぱそうだよなって感じだった。

D

Cを書いてから2、3年後に、通っていた講座の課題として書いた。原稿用紙100枚。

書くことがなくて無理やりひねり出した感が強く出てしまっている。

既存小説のシーンを堂々とパクっている(ある小説で、土砂を積んだダンプカーが横転して人が生き埋めになるのを見て笑う男のシーンがある)

書いている当時頭に思い浮かべていたシーンと実際に書かれた描写とでまだギャップがある。

 

(全体を通して…)

読み返す前は「小説家になろう」とかにupしてもいいかなーとか思ってたが、読んでみると、、やっぱり、、、無理だわ💦

追記

増田の反応が意外と生ぬるい称賛みたいのが多くて拍子抜けした。

きしょっ💦💦

クソワロタwwwwwww

みたいのを想像してた。

時間と労力をかけて書いたものでも、客観的に見るととても拙く、世に出るレベルに至ってないというのが、趣味としてやるにもなかなか難しいところであることを実感した。

しかもそうやって自分の作ったものをある程度客観視できるようになるのに10年以上も寝かせるというのもある意味めんどくさい。

よく、10000時間修練すればいろんな趣味技術はモノになる、というようなことを言われるけど、自分場合、多分10000時間には届いていないのでまだ努力を続ける余地はあったのかも知れない。

(今じゃほとんど)自分より若いデビュー小説家や芥川賞直木賞受賞者の方は努力もすごいがやっぱりセンスとか目指してるものとか見えてるもの自分とは全然違うんだろうなと改めて思う。

あと、時代の移り変わりが早いのを改めて実感した。

LGBT関係セクハラパワハラキャッシュレス社会スマホ携帯若者言動とか、書いてる当時は気にならなくてもたった10年程度で違和感ありありなのがすぐに浮き彫りになってしまう。

追記2)

ブコメの中で、自分以外の人に読んでもらったほうがいいというアドバイスをされた方がいたので補足すると、当時通ってた講座の受講生の方にはABCDいずれも読んでいただいたし、一部は友人数名に読んでもらう機会があった。授業で頂いた色んな人の講評などがノートに書かれていたはずだから、後でそれも引っ張り出して読んでみようと思う。特に、通っていた講座の講師先生には要所要所の指摘やアドバイスを頂き、温かい目で見守って頂けたので今でも感謝している。

つまんなそうとかこんな増田じゃものになるわけないみたいなブコメもあったが、まあその通りだと思っている。自分は、仮に誰もが有無を言わさず好きでも嫌いでもとにかく原稿用紙1000枚ぐらい書いてみればとにかく書きさえすれば100人中50人ぐらいは自分のより面白いのができると思っている。本当に違うのは、書くか書かないか、ただそれだけだと思ってる。

追記3)

E

ABCDより少し後に読み直した。

Dを書いたよりも1年前ぐらいに書いた。原稿用紙360枚。小説すばる新人賞に応募して、1次選考に通過しなかった。

地元に古くからあったドライブイン商業施設などを舞台として、20代の男女の恋愛とか和解などを描いた。

時代設定を明確に2011年としていたので当時と今とでは大きく時代が変わってしまたことを改めて実感した。

ブログとか掲示板、当時のネットスラング、どれもみな、今ではほぼ絶滅してるようなものばかりだった。

登場人物人間性に触れるような描写はそれまでの中では一番ましだったと思う。

一方で、あらゆる出来事現象理由理屈をつけなければならない、本文に記述しなければならない、というような思い込みを感じるところがあって、それが読者に違和感を感じさせる要因になるのではないかと思った。理屈じゃない出来事理屈説明しようとしている感じ。

ファッション料理に関する描写が出てくるシーンを書くのが難しかった。その方面知識経験の浅さ乏しさがどうしても浮き彫りになってしまう恥ずかしさがあった。

書き始めた頃よりは少なくなったが、登場人物の直情的で暴力的な部分への違和感が残った。自分の中で、世の中はそういうものだという固定観念がまだ残っているようだった。

ABCDに比べて、読むときもっと気恥ずかしさが残っていて、主観的視点が抜けきれてない感じがした。

物語テーマが大きく2つに割れしまっていて、片方は潔く捨てるべきだったのかも知れないが、どう捨てたらもっと面白くなるのかはちょっとよくわからない。

anond:20240725142420

これは弥助問題元ネタ論文でも何でもない可能性が高いので,論文ちゃんと読んでください。

っていうか,こういったテーマについては,藤田みどりアフリカ発見」――日本におけるアフリカ像の変遷』(岩波書店2005年)っていう研究書がちゃんと出ているので,ネット上でかしましい皆様におかれてはまずはそういった文献もあたってみてください(ちなみに,この研究書のもとになった博士論文国立国会図書館デジタルコレクションで読めます)。

以下,当該論文について解説します。

そもそもこれは何の論文

注をよく見てみましょう。おや? 日本語の文献が引用されていませんね。日本語の文献を引用せずに日本研究ができるんでしょうか? これは問題ではないのですか?

はい問題ありません。なぜならこれは,タイトルアジア人黒人あいだでの人種人種観の利用――日系・アフリカアメリカ人場合からも分かるように,日本史の論文ではなくアフリカアメリカ人主題にした論文からです。

論文にはどんなことが書かれているの?

要するに何の論文なの?

これはどう読んでも,アメリカ黒人日本人観および日系人との関わりについてカリフォルニアを中心に調査した論文,つまりアメリカ黒人歴史に関する論文であって,ロックリー氏や岡氏がこれを読んでいないと断言することはできませんが(誰しも専門分野外の本や論文を読むことだってあるでしょう),わざわざこれを「元ネタ」にするなどということはとうていあり得そうもないことです。彼らがこの論文を参考にして立論しているのでは? などというのは,馬の心肺機能に関する研究が『ウマ娘 プリティーダービー』を参考にしているのでは? と言っているようなものです。ジャンル違いすぎるわ! あとドリームジャーニー引けなくて凹むわ! っていうか今回のLoHは千直だから荒れそうって言ったの誰だよ! ふつうに安定して英雄譚取れたから拍子抜けしたわ!

こういうときは注を見て,どんな文献に基づいてこの話をしてるのか?  っていうのをチェックするんですよ。弥助が出てくる部分の出典は,第一にMichael Cooper, comp. They Came to Japan: An Anthology of European Reports on Japan, 1543-1640 (Berkeley: University of California Press, 1965)っていう本の66ページで,これはまあ当時のヨーロッパ人日本について書いたものをまとめて英訳した,っていうやつですから,多分日本語でも同じコンセプトの本はあると思うのでそれを探せばいいでしょう。第二は,Gary P. Leupp, Images of Black People in Late Mediaeval and Early Modern Japan, 1543-1900, Japan Forum 7, no.1 (1995)っていう論文で,ペイウォールの向こうに行ければ読めますhttps://doi.org/10.1080/09555809508721524)。要するに,著者のデイヴィド・ライス氏(カリフォルニア大学バークレー校所属)は日本語読めないので,英訳された史料英語で書かれた論文典拠にして,本題に入る前のマクラとして弥助についてちょろっと書いたということでしょう。

仮に彼が日本史の研究者なら日本語を読めないのは問題外ですが,論文の内容から察するにあくまアメリカ黒人史の研究者なので,それならまあ日本語の論文読んでないのも仕方ないかなという感じ。なんだろう,アーサー王伝説のものについて研究するなら,古い時代英語とかウェールズ語とかの史料が読めないといけないけど,「日本人がどんなふうにアーサー王伝説を受容したか」という研究なら,『Fate/stay night』が読めれば十分で,アーサー王については日本語の本を参考にしてても構わないじゃないですか。この論文もそんな感じです。

なので,ふつう日本中世史研究者が,この論文典拠として用いることはまずないです。だって普通に考えて,こんなの典拠にならないっしょ? 中世ヨーロッパ史の研究者が論拠として『Fate』を参考にするなんてあり得ると思います そりゃ絶対あり得ないとは言えないけど,そういう蓋然性が薄い推測をわざわざするならもっと直接的な証拠(本の中でこの論文引用してるとか)を持ってきてもらわないと……

(もちろん,最近中世ヨーロッパ史の研究者が日本におけるヨーロッパ表象研究に手を出していたりするので,そういう研究で『Fate』を史料として用いるのは全然あり得るっていうかもうやってる人はいたはずなんですが。そのへんの研究動向は,たとえばhttps://doi.org/10.34382/00003197とかhttps://doi.org/10.34382/00003198とかの論文を読んでもろて……あ,話がズレた)

この論文表象研究としてはまあ手堅いので,弥助論争に巻き込まれて変な受け止められ方をするのは気の毒だと思いました。ただそれはそれとして,日系サイドの話もアフリカ系の新聞に基づいて書かれているきらいがあるので,論文タイトルからアジア人」「日系」を外して黒人についての論文だと明確化するか,あるいは日系人についてもちゃんと彼らの出してた新聞を読み込んで「日系から見たアフリカ系」を調査しないとダメなんじゃないかなぁ,とは思います。まあ,当時の日系人が出してた新聞って日本語で書かれたやつがいっぱいあるので,単純に読めないのかもしれませんが,だったらなおさら「これは2つのマイノリティについての話です(キリッ」と謳うんじゃなくて,「これはあくま黒人史の話でっせ」という断りを入れた方がよいような。日系人歴史黒人史の添え物とちゃうねんで。

結論

論文ちゃんと読みましょう。

ちゃんと読むっていうのは,この論文テーマは何で,どういう史料を使っていて,という,基本的なことを確かめながら読むことです。そうすれば,どれが話のマクラに過ぎず,どれが本題なのか,っていうのがわかって,「アメリカ黒人史の論文日本中世史研究者の元ネタだったんだよ!」なんていうアホな主張をすることもなかったはずなので。

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