はてなキーワード: 追体験とは
まずはWantedlyさん上場おめでとうございます。ITベンチャー業界の末席を汚す筆者と致しましても格別な思いで眺めております。
想定時の時価総額は40億円でしたが上場するだけで210億円と5倍以上に跳ね上がるのですから、ここには夢しかないと言っても過言ではないでしょう。
日々インターネットで炎上案件を追い掛けている皆さんにおかれましては、DMCAの件であれだけ燃えたにも関わらずこれだけ株価が爆上げしていることに納得がいかないと思います。そこであまり専門的な用語を使わず簡単な解説をしたいと思います。
長くなると読まれないので結論から先に書きますが「買いの需要の方が極端に多くなるように、供給を著しく絞った」からです。
またこの様な銘柄の一般的な今後の傾向ですが「今がバブルなだけで株価は適正な値に落ち着くことが多い」です。
すごく極端な話、株価は需要と供給のバランスでのみ決定します。というか市場はその様な前提で仕組み化されています。投資家が「この会社は実力の割に今は安いし将来伸びるはずだ」と思えば買いの需要が増えますし、「会社の実力が過剰に評価されすぎ」とか「不祥事起こして信用できない」とか思えば減ります。
ここで言う需要を発生させるプレイヤーですが、大きく分けて「個人投資家」と「機関投資家」が存在します。
通常時の株の売買は買い手と売り手の需給がマッチした瞬間に成立(約定と言います)しますので株価形成に時間的な分散が発生しますが、新規上場銘柄の初回の売買には時間的な分散がありません。従って初値の株価形成時には大量の資金が瞬間的に動きます。
大量の資金が瞬間的に動くと何が起こるかと言うと、動かせる資金が精々数百万から数千万の個人投資家の思いなどは誤差の範囲となり、要するに影響力などありません。
新規公開株への投資方針は各機関投資家のアセットマネジメントに依りますが、どんなに少なくても億単位にはなるので、公募株式の数を絞ることによって初値を高騰させる方向へコントロールすることはある程度可能、という話になります。
供給を絞って初値が高騰する事自体は特段珍しいことではありません。そもそも厳密なコントロールが可能な訳ではないですし。
むしろIT系のベンチャーがマザーズなどの新興市場に上場する場合、上場の目的を資金調達よりも社会的信用の獲得に設定することが多いので、大抵の場合は需要過多で初値が死ぬほど高騰します。
この増田というサービスを提供している株式会社はてなも想定時の時価総額は18.5億円でしたが、初値が付いたタイミングでは80億円を越えました。4倍強です。夢がありますね。現在でも60億円程度なので誠実に経営をしていると市場から評価されているのでしょう。
上場と言うと日本郵政やLINEなどを思い浮かべる方もいらっしゃると思いますが、あいつらは超巨大な規模でいきなり東証一部に上場しており、新興市場であるマザーズに上場する小型案件の話とは全く変わってきます。
一般に、VC(ベンチャーキャピタルの略)から調達するタイプの資本政策を行っているようなIT企業が市場からの資金調達を目的に上場することは、VCの利益確定のための上場(上場ゴールと揶揄される場合が多いです)と判断され嫌われます。
機関投資家は新興IT企業のやってることは理解できませんが、そこに投資をしているVCのやっていることは理解できるため「他人の利益確定に金など出さん」ということですね。今は上げてるけど当時のグノシーとかしょっぱかったよね。
もちろんベンチャー企業がVCから資金調達を受ける社会的なメリットもあります。
世の中には「あとは金さえあれば加速度的に成長できるのに…」という機会に恵まれる場合というのもありまして、まぁその多くが幻想なのですが、極まれにマジで成長出来てそして社会の役に立つ場合というのがありまして、そういうタイミングでまとまったお金を出せる可能性があるのはVCだけというシチュエーションは世の中には多々あり、そこでの投資行為の成功は社会全体のメリットとなりえます。
ややこしくなるのでここではベンチャー企業側やVC側のメリット・デメリットは論じませんが、もし貴方がVCから出資を受けているタイプのベンチャー企業・スタートアップ企業等で働いている場合は資本政策について敏感であった方が自分の身を守ることが出来ると思います。
端的に言いますが、SO(ストックオプション)を貰っていないならさっさと逃げましょう。やり甲斐搾取である場合が多いです。
いくつかありますが、
などが挙げられます。
会社には上場にあたって上場審査というものがあり、そこで「成長性」と「公益性」を求められます。というかその辺の準備に二年くらい掛かります。
なので「もう上場したし株式を現金化してはい終わり〜」とかされちゃうとヤバいんですね。なので創業者や初期の投資家など、大量に株を保有している人間は簡単に株を売れないようになっています。これをロックアップと言います。
しかし絶対に売れないとなるとそれはそれで夢がないので、売れる条件というのが付いています。その多くが「90日間」や「180日間」などの期間の指定、あるいは「株価が1.5倍になるまで」というような指定になっています。
「90日 or 1.5倍」とあります。
勘の良い方ならすぐに分かると思いますが、初値のコントロールが簡単である以上、このロックアップは実質意味を持ちません。つまり上場して即大量の株が売りに出され現金化される可能性があるということです。
株価は需要と供給のバランスによって決定されると先に述べましたが、今は供給を絞って値段を釣り上げた状態です。みんなが雰囲気で高い値段で売買している今の内に一気に売り抜けることによって利益を確定させられる状況にあるということです。夢がありますね。楽しみです。
ちなみに株式会社はてなの方のロックアップは180日と期間指定のみでした。誠実ですね。このまま頑張って欲しいと思います。
やまもといちろう氏がWantedly上場前夜にYahooニュースの方に職業安定法に照らし合わせた記事を上げられており、それに対する反応で「直前に出すなんて嫌がらせかよw」みたいなものがありましたが、初値バブルを少しでも食い止めた方が被害者が減る方向に働くと考えられるため、むしろ個人投資家や社会に対して誠実であるとさえ言えます。蓋を開けてみれば影響力なんて全く無かったんや…ということに気付かされただけでもありましたが。動画上げただけでAppBankを二日連続ストップ高まで操縦したヒカルを見習ってもうちょっと頑張ってくれよ!頼むぞ!
なるだけ平易な言葉と表現で書くことを心掛けましたが、それでもややこしくなってしまうのは過去に色々とやらかした人間が沢山いたせいです。経済活動というのは難しいですね。そういった視点でVALUなどの炎上を見ていると、今まで先人が踏んできた地雷を悉く踏み続けていることに気付かされ、こうやって人類は発展していったのだなぁと優しい気持ちになれます。こういった形で歴史の追体験が出来るとは夢がありますね。
この業界には夢がいっぱいあるようなので、みんなで幸せになっていけると良いなと思います。
狙おう一攫千金。こちらからは以上です。
「AVが教科書」のせいで女性は悩んでいる。"エロメン"一徹さんに聞く、男女のセックスがすれ違う理由
http://www.huffingtonpost.jp/2017/08/22/adult_video_n_17799470.html
にこういうブコメがついてた
男向けのAVを理想とするのは間違いなのは確か。だけど、そこで「女性向けのAV」がアドバイスとして出て来るのに毎回疑問を感じる。それは女性のファンタジーを男に強要することに変わっただけでしょ。そこに気付こう
いや言ってる主旨はわかるし正しいと思うよ。
けど女性向けAV1度見てみてほしい。
全然「女性向けファンタジーの強要」ってほど色ついてないから。
(但しセックスの前にトレンディドラマみたいな小芝居がついてるものもあってあれのドラマ部分は女性向けファンタジー色ある)
ていうか俺は男として男性向けAVが本当に楽しめなくて困ってたんよ
とにかく気持ち悪い
あれで気持ちよいって奴がどこに居るんだよ?
つまり男性向けAVを教科書にすると男にも気持ちよくないセックスにしかならないんよ
ここからは仮説だけど
春画はあれは絵だからエクストリーム体位や超ハイテンションシチュエーションや断面図のような局部描写や漫画的な台詞がちりばめられてたんだよね
そういう刺激性のある情報を過多なぐらい盛り込むのは正しかったんだよ
それがエロ小説やエロ漫画になって、AVってのはその後から普及したものでしょう?
最初に作った人達が「エロ漫画・エログラフィックノベルの実現」をモデルにやっちゃったんだよ
で、現代まで続いてる
女優と男優の身体を使ってエログラフィックノベルをしてるんだよ
エロ漫画として正しいのとVRや教科書として正しいのは全く違うというのが罠で、
男性向けAVは常に前者なんだよ
それが性差で生まれてるのか取り巻く文化の差で生まれてるのかなんなのかはわからん
実際にやるなら男性向けAVのセックスと女性向けAVのセックスは圧倒的に後者の方が気持ちいいんだよ、男にも
ゆっくり動くのとうおおおお!ドガガガガ!って動くのどっちが集中できて気持ちよいかだけでもこれは答が決まりきってる
だから俺は子供にどっちかを教科書に与えるなら絶対女性向けAVにする
それぐらい違う
ほんとに一回見て欲しい
たまにこの方向性っぽい売り文句の作品を出しても、期待してみてみると
やっぱり男優が気持ち悪い漫画でしかいわない笑っちゃう言葉責めをしてて
女優がアンアンアンアン!って萎えるわざとらしい喘ぎ声出してて
羊頭狗肉なんだよね
(※ このエントリは釣りエントリーです。どういう釣りなのかは言いませんので推理でもすればいい)
俺は重度のCoD厨。BOからハマり、新作が出るたびに買って「BOは良かったな」「BO2は良かったな」っていうクソ老害。
IWはなんだあれ。あそこまで行くともうオーバーウォッチしたほうがいいわ。
そんな毒づいた俺に友人が勧めてくれた「バトルフィールド1(以降、BF1)」。
正直、BFは4とハードラインをしたけど、戦車や戦闘機やヘリや車やらで苦手だった。室内戦だけしていたいと感じるぐらいに。
BF1も変わらないんだけど、すごく良いので、まとめたい。
もう、100人いて100人が賛同してくれる内容だと思うんだけど、ビームやレーザー、反射レーザー、異様に硬いドローン、投擲物どころかミサイルまでもを完全に焼き尽くすトロフィーシステム、透明になったり、一気に足がはやくなったり、空を飛んだり、ロボット兵士がいたり、そういうのがない。
出てくるのは世界大戦中の性能の悪い武器と戦争を変えたといわれる異様に強い重戦車。
CoDは家の中で人を簡単にバラバラにしてしまえる爆弾をつかっても家が異常に頑丈につくられているので問題ないが、BFの家は崩れるし、地面はえぐれる。
泥臭い。最高に。最高だ。
32vs32なので、チーム戦ではあるが自分一人が強ければ味方を勝利に導けるとは限らない。
自分は一兵士なので、どんだけ死のうが、どんだけ味方の足を引っ張ろうが勝つ時は勝つし、負ける時は負ける。
「じゃぁ自分が勝利に貢献してる感覚はすくないのか?」といわれたらとんでもない。むしろ、1人の勝利貢献が大した事ないゲームだからこそ「自分(または自分の分隊)がゲームを作ったな」というような勝利に立ち会えた瞬間に喜びは凄まじい。
基本的にコンクエスト(他のゲームでいうとドミネーションみたいなやつ。スプラトゥーンならナワバリバトル)の話だが、戦力が拮抗してなかなか盤面が動かないC陣地があったとして、そこを無視して1人で相手の陣地に忍び込んでうろちょろする。
そうすると5~6人が「奇襲をかけられているぞ!」と思って前線を離れて自分を狩りに来る。
自分一人で前線から5~6人の兵を退けることに成功してそのままC陣地に味方がなだれ込み拠点を制圧。この瞬間が本当にたまらない。そして自分が操作していた兵士は死んでしまうのだ。儚い…。
これは凄まじい。上記のように「自分がゲームを作った」という感覚はあるが、それでも結局は「みんなががんばったから」という感想が一番大きい。
激戦区を突破できたのは後方で拠点を守ってくれた味方がいたからだったり、奇襲をしかけて敵の戦力を削いだ人がいたからだったり、戦闘機で地上を支援してくれた味方がいたからであって、自分一人ではどうにもできない。どれも必要。だから、勝った時の喜びはみんなで分かり合える。負けた時には素直に「自分たちはここが相手とくらべて至らなかった」「相手チームの奇襲に完全にやられた」など前向きに負けを理解できる。
ガンダムでアムロは「自分がもっと強ければマチルダさんを生かせた」とウッディ大尉に言って「戦争はそんなもんやないで」という場面があるけどまさにそれ。
ガンダムの影響は大きいが、かといってガンダムがすべての戦局を左右したわけではない。
BF1でいうと、戦車は、銃弾が効かないし、爆弾一発で壊せるようなものでもないからまさに無双の如き活躍をみせるが、戦車だけが戦場を支配しているわけではない。
第一次世界大戦を追体験するようなキャンペーンなんだけど、まずは車の運転手から戦車の運転手になった人、戦時中にだまし取った戦闘機で最高のパートナーと一緒に戦った詐欺師、戦場で兄弟を探す兵士、若い人間を生かそうとする英雄の老兵、アラビアの部族の1人などいろんな主人公でプレイできる。どれも泥臭い。そして、いずれも儚い。
これに罹る人自体は、めずらしくない(私だってそうだ)。だが今後、きっと爆発的に増えていく。デジタルネイティブの若者に関しては特に著しく勢力を増やしていくだろう。
情報技術が発展し、情報リテラシーが高まり、他人の多種多様な生き様や頭の中をヴァーチャルに追体験できるようになっていくほど、そうなる。
あるいは、縮小し閉塞感に満ちていく社会において「○○のような人材」が求められれば求められるほど、他人の望む人間になることを是とする人は減り、真逆にあたるこの症候群が増える。
現代は多くの人が情報の海に晒されているが、基本的にはみな、好きで晒されている。
情報から距離を置けない理由には社会的欲求(横並び意識)も関係しているだろうが、根源的な部分で、人間の知識欲ははかりしれない。
ともかく数年もそういう情報収集に没頭するうちに、人はすべての情報を客観的に見るようになる。
言い方をかえると、すべてが他人事になっていく。自分の思想や行動様式と一致する主張ですら、他人事であり、移入することができなくなる。
感動しないわけではない。心酔しないわけでもない。でも、その素晴らしいものは(ゴミみたいなものもだが)、すべて、自分とは別の世界のことだ。無意識に距離を置くようになる。
自分の世界には、何もない。ゼロではないが、大したものはない。そのことに虚しさや悔しさなどを感じる時期も通り過ぎてしまった。きりがないのだ。自分は空っぽでいい。そうなっていく。
はてブなんていうメタツールを使っている人ならその感覚がよく分かるはずだ。
「自分の主観的意見」ですら客観視しだして、「これはくだらない、取るに足らないものだ」と思うようになり、いずれ黙るようになっていく。
自分が言わなくても、自分が思いつく程度のことは静観していれば誰かが必ず言う。それどころかもっと洗練された素養を感じる意見が次々と出る。
たまに黙るようにはならない人もいるが、そういう人は、自己の空虚さを完全に意識から消しているので、傲慢で上から目線な発言をするようになる。覚えがあるだろう。
自己を主体とすることを肯定することは、一人の人間としての人生に埋没してしまうことだ。
それは極めて当たり前のことだが、しかしそうではない、メタな視野の万能感を、我々はもう知ってしまっている。
他人、企業、社会、そういった観察対象の生き様、行く末を見るのは刺激的だけれど、自分がそれに加わろうとは思わない。
できることなら人間をやめて、電脳化して、この先数千年くらいの人類を観察していたい。
それはある意味で、死へのあこがれかもしれない。
そうでないのなら、これは静かなる反抗だ。
あまりにもできの悪い現実に対する?いや、違うだろう。情報を手にしてしまったことに対する、が妥当だろうか。
もう少し踏み込むなら、世の中にあふれる要素に対して、人生があまりにも短すぎることを知らされてしまったこと、
そして「実体験」の価値が相対的に見て瑣末なレベルにまで薄れてしまったこと、その2点に対するハンガーストライキだ。
だから何もせず、社会にも加わらず、ひたすら情報を摂取して、内なる膨張を続けながら生きる。
「労働者」になりたくない。
「親」になりたくない。
「男(女)」になりたくない。
「○○ファン/シンパ(=何かに従属するもの)」になりたくない。
ひとつひとつを見れば、中二病か高二病かといったものをこじらせたんだな、と一笑に付されて終わるかもしれない。
けれどもこうした「○○になりたくない」という思いはインターネットの海で練り上げられて竜となり、
それらが寄り集まった集合体として、漠然とした怪物の姿となる。
その影はどこにでもあり、その姿は気づけば心のどこかに転写されている。
その怪物こそが、何者にもなりたくない症候群の主たる発生源だと思う。
中年になっても、老年になっても、一言で表せるような身分を勝ち取る行動を頑なに起こさず、さまよい続ける境界者であり続ける。
そんな境界者とて、なにか巡り合わせた特定の状況に依存して生きているわけだが、決してその状況を肯定したり、堅持しようとするわけではない。
吹けば飛ぶような場所にいて、弱者であることにこだわり、風が吹くならば死んでも仕方ないと覚悟しつつも、防御行動を取らない人達だ。
そういう人の割合がふえてくると、これまで人類の築いてきたコミュニティの在り方は根底から崩れる。
それが悪いと言うわけではない。いち罹患者として言わせてもらうと、自然の成り行きなのかもしれないし、興味深いと思っている。
すさまじい叩かれぶりに驚いた。
kamayan1980:「『許されてはいけない表現はある』ねえよ、(略)」
ってほんとにそうか?
少女を騙して暴行を加える漫画は同人界隈では自由に描かれてしかるべきか?
漫画アニメに限らないだろ、という意見には同意しておくとしても
だって語彙に、思考のクセに、脳内モノローグに、影響を及ぼしつくしてる。
大好きなセリフが、目に浮かぶ情景が、頭で鳴りつづけるアニソンが、各人の性格形成に影響無いはずないだろう。
もしかして: と頭の中の言葉はグーグルの予測変換のように連想されて、
俺の場合の多くは漫画アニメから抽出される。思考の大部分を占めている。
体は?と聞かれたら「剣できている。血潮は鉄で心は硝子」だし
明日って?と聞かれたら「いまさ!」なんだよ。
なぜ助けた?って聞かれたときに「さあな そこんとこだがおれにもようわからん」って答える準備はバッチリだし
世話かけるな って言われて「いいよ」って返すのを待ち望んでいるんだよ。
勇気の出し方、
あげちゃってもいいと考えること、
ほんとのピンチには逃げること、
納得をすべてに優先すること
運命との決着のつけ方
もうだれも恨まなくていいこと
嫌なことあっても元気でいいこと
何者にもなれないこと
泥なんてなんだいってこと
飛べない翼に意味があること
世界を、自分さえも変えてしまいそうな瞬間はいつもすぐそばにあること
いくらでも思いつくし、ちょっとしたきっかけがあれば頭の中で音と色を伴って再生される。
浸って味わって、助けられ打ちのめされ勇気づけられてきた。
そういうプラスマイナスそれぞれの作用があること自体を否定はしないだろ?
言いたいのは、フィクション作品が現実に及ぼす影響は当然あるのに、抑制は本当に必要ないのか?ということ。
そこを見て見ぬふりして既存の文脈に乗っかるだけで表現の自由だけ叫ぶのは果たして正しいのか、とも。
少なくとも俺は、少女を誘拐して暴行するような様子を描いて追体験できる作品なんて、フィクションノンフィクション問わず、いかな魅力と興奮を伴う作品だとしても、ことごとく無くなっちまえばいいと思うんだよ。
それが実際には難しい問題だとしても、責任を負うことなく好き勝手に自由に描かれて流通していいものじゃないだろ。何かブレーキが必要という意見を支持するぞ。
だって多感な時期に出会う創作物に性的趣向が影響受けまくることに、各々自覚がないわけじゃないだろ?
追記:コメント返信。最速トップブコメに敬意を。他の皆様は→anond:20170615211337
whkr : 世の中の大半の人間は、創作で気分に変調をきたしても、いざ犯罪行為に及ぶ前に理性でブレーキをかけるものなのだが、そういうのに自信がない増田のような人間の責任を、表現者が負わなければならないのだろうか?
→そうそう俺の理性は危ういんだよ。そして貴方の理性も常時万全とは限らない。表現者が犯罪者の責任を負うことは俺も望まないが、「この作品が世に出てどんな影響があるか?」と想像してときに自主規制するくらいはするべきなんじゃないか。それは今十分?
人の脳は脳細胞同士が連結、通信しあうナイーブな電気パルスから離れ、高次思考を言語で行うことに成功した。それが人間と他の動物の間にある知性の差であり、ナイーブな電気パルスのイミテーションにすぎないディープラーニング人工知能が未来永劫知性に達しない理由でもある。
人は言語により思考し意思決定し、本を読んで学習し脳をプログラミングすることも出来る。言語は電気パルスを離れ安定したテキストデータとして脳に貯蔵しておくことも出来、それを外部に文書として記述することで知識を共有し後世に伝えることも出来る。
脳は各部が機能を持ったパーツとして存在していて、特定の箇所を傷つけると特定の機能が消失することが知られているが、各部位で行われた電気パルスによる思考の結果は高次脳領域で言語データとしてエンコードされ、意識に送られる。意識は言語データを受け取り、口に出すかどうかを決定する。口に出さない場合は心に思うだけにする。そして必要な場合言語データをループバック回路に送り返す。ループバックされた言語データは新たに入力された感覚器官からの電気パルス信号とともに再び脳に入力されて処理され、また意識に言語データとしての処理結果を返す。
意識的思考というのはつまり、脳から出力された言語データを何度も脳に送り返すことで言語データを熟成させるプロセスのことだ。思考自体は意識が行っているわけではなく、脳細胞が電気パルスによって行っている。意識の働きは脳から出力されてきた言語データを評価し、口に出すかどうか、あるいは思考を継続するために脳に送り返すかどうかを決定している。そこで流れた言語データは電気パルスにデコードされ記憶領域に複製されていて、後から思い返すことが出来るため、そこに意識の流れが出来、時間感覚や自分が意識を持ち生きているという認識が生じる。
脳内の思考活動は脳内で閉じていて、外部からは存在が実証できないため、意識があるとかないとか自由意志があるとかないとかいった問題が生じているが、意識はあるし自由意志もある。意識は考え続けるか、考えるのをやめるか決定し、自ら行動を変化させることが出来るので、自由意志が存在するといえる。もちろんそれは決定論と矛盾しない。
追記:つまり実際の思考を行うのは各部位で行われる電気パルスであるが、意識はその言語化された出力を脳に戻すことで何度も思考をループさせ、それによって思考を高度化させている。その機能は、「言葉を口に出すかどうかを決定する」回路から進化したもので、「思ったことを口に出さずもう一度考える」という能力を獲得したことが、人と動物を分けた、という話。意識は言葉を口に出すかどうかだけでなく、言語で思考した内容を実際に行動に移すかを全般的に制御出来るが、言語によらない思考から発生した行動は制御できない。それが、意識は言語を処理する機能だという証拠になるだろう。
追記2:「自分には意識があるという実感がある」というのが不思議な感じがするのだろうが、事実として意識はあるし、実際に脳内で行われた思考の結果である、出力されてきた言語データの内容を記憶していて思い出すことも出来るから、自分はずっと意識を持ち生きているという実感があるのは当然である。意識はそういう機能だからだ。それは幻覚でも何でもない。
追記3:動物に意識はあるかという問題について。動物に意識はない。ハイデガーいわく「動物は私と言わない」というが、「私」が「思考している」という文を組み立てられるだけの言語的複雑さを動物の脳は持ち合わせていないので、「思考している私が存在する」という認識、つまり意識の認識に動物は至れない。
追記4:計算機が「私」や「思考している」という概念を理解し、「思考している私が存在する」という認識に至る可能性は当然ある。ディープラーニング人工知能の延長線上では無理だと思うが。
追記5:この機構が計算機上のニューロンだけで成立するかという話。まず、電気パルスを言語データに変換するアルゴリズムは、人類のDNAにハードコードされている。人の知性はニューロンに由来するのではなく、DNAに由来する。人間より脳細胞が多い動物はいくらでもいるが、人間のように知性がある動物は他にはいない。人間という生物種全てに知性が存在する以上、その人間を定義するDNAに知性の根幹があるのは疑う余地が無いだろう。人間であれば基本的に言語を操る力を身につけることが出来る。それは人類のDNAに言語を操る基となるプログラムが記述されているからだ。
だからこのシステムに必要なのはディープラーニングによる学習ではなく、DNAの解読だ。学習は動物であれば誰もがしているが、言語を自由に操れるのは人間だけだ。学習からは言語にも、知性にも到達することは出来ない。学習によって知性や言語を得ることが出来るように、脳細胞を構成しているDNAが、知性の発現のための必要条件となっている。
しかし、DNAを解読して得た 電気パルス⇔言語 変換のアルゴリズムが、計算機上のニューロンもどきで実行できるかはまた別の問題だ。適用できたとすれば、この機構は計算機上のニューロンでも実現可能なはずだ。
DNAの解読以外で、ニューロンに知性を発生させるメカニズムを実現するのは不可能だと考えている。大自然が何億年とかけて最後に到達した脳というハードウェアのプログラミングに、人類が独力で到達できるとは思えない。
追記6:なぜそれが意識であるといえるのか、について。それはもちろん、あなたが意識であると考えているものがなんであるのかによる。私は「人に動物にはない知性がある理由」と、「人が自分の思考している内容を言語で理解し、そこから『思考している私が存在している』と認識している理由」について語った。あなたの意識の定義がそれに含まれないのなら、もちろんそれは、あなたの考える意識が存在する理由にはならない。あなたの考えている意識がどのようなものであるのか聞いて、それについて考えてみたいと考えている。
追記7:私が「意識は脳の外部にあると規定している」という指摘があるが、それは当たらない。脳はただ情報を処理し、その処理した結果として「思考している私が存在する」という当たり前の事実を見て、私には意識が存在すると認識しているだけだ。脳の中の通常の情報処理過程、たとえばそこに石がある、とか、そこに月が浮かんでいる、とかと同じように、「思考している私が存在する」のを見て、「私には意識がある」と人は結論している、と私は規定している。
追記8:言語を伴わない音楽や絵画を通じても、情報処理過程は変容する。視覚、聴覚の情報処理は意識的情報処理によらず変化する。その変化によって、新たな音や色彩に対する感覚を得て、それを言語化し、意識することができるようになることもある。それは意識の変容ということが出来るだろう。
言語を伴わない芸術から深いショックを受け、寝込んでしまったという経験が私にもあるが、それは意識を経由せず直接脳の情報処理過程を揺さぶることで発生したのだと思う。それにより脳内の情報処理過程が大きく変わってしまったり、トラウマになってしまったりということもよくある。それを意識の変容ということも可能だろう。
追記9:チンパンジーや鳥類等のコミュニケーションについて。上にあるように、私はチンパンジーや鳥類が伝えようと思ったことをやめて心に思うだけにすることはなく、思考がループしないので知性に到達できないのだと考えている。もちろんそれだけでは足りず、自分の思考をより正確に言語で表現し、言語情報を受け取ってその思考をより正確に再現出来る個体が、狩りのコミュニケーション等で有利になることで、言語能力の高い個体が子孫を残していく。思考⇔言語の変換で損なわれる情報が少ないほど、ループの中での思考も正確さを増し、複雑な概念の理解に到達できる。それを言語表現する進化の過程で、複雑な発声を獲得し、それを聞き取る聴覚も発達していく。
複雑な発声や聴覚を獲得する前は、思考を言語で表現しようとして歌を歌っていたのではないかと妄想している。人類は歌でコミュニケーションし、脳内の独り言も歌で行って思考をループさせていたのではないか。歌を歌うと気持ちいいのはそのころに培われた本能に由来しているような気がする。頭の中で歌が流れて止まらなくなる現象もその辺に由来しているのではないか。
追記10:囲碁AIについて。AIはコンピュータだから、囲碁のようなゲームが強いのは当たり前である。何も絶望することはないように思う。グーグルの子会社が仕掛けているのはHypeだから、真に受ける必要はないと考えている。彼らがそのHypeを本物だと主張するなら、囲碁AIのソースコードを公開するべきだ。
追記11:思考のループに言語はいらないのではないかという指摘について。脳内の何百億という脳細胞で発生している電気パルスは、そのままではループさせることは出来ない。言語に一旦エンコードし、それをもう一度デコードして、思考の再現を行うことでループしている。また、思考の内容を言語として記憶し、思い出して思考を再開することで、移ろいゆく電気パルスによる無意識の思考とは違って、同じテーマについて何度も長時間考えることが出来、思考を深めることができるようになる。
追記12:夢について。夢は動物も見ている。動物や人間の脳内では出来事が記憶されている部分があり、そこに電気パルスが流れると追体験する。人間の場合でも、それが嫌な記憶だとふとしたきっかけで蘇り、叫んだりしてしまうのだが、そういう意識でコントロールしがたい無意識的な思考だ。睡眠中にはそこに電気パルスが流れて出来事が蘇り、いろいろな出来事が繋がった追体験が起こる。そうして出来事と出来事を並べて、因果を繋ぎ、ある出来事の後に起きることを予測できるような形で整理している。それによってパブロフの犬のようなことが動物でも起きる。しかし、出来事を並べるだけで、言語的な論理性を持たなければ、たいした知性には到達できない。
追記13:意識とは、言葉を口に出さずにもう一度考える回路から発達したもので、思考の内容を言語として受取り、もう一度考えるため脳に戻すことで思考を深化させる機能だ。そのループの中で言語能力が高まり、「私」が「思考している」という概念を獲得し、「思考している私が存在する」という文が脳内で紡がれて意識に送られた時に、意識は己の存在に気づき、自意識を持つ。
追記14:匿名ネットのレスバトルで見られる、用語を適当に用い、反論のように見えるが無意味な文を書いて、無意味ゆえの反駁不可能性から自分への反論を避けつつ、用語の意味を知らず文が無意味と気づかない人には、相手の論に反論できているように見せかけようとする手法が私は大嫌いである。
こちらにちゃんと書いた。 http://anond.hatelabo.jp/20170607213657
大学生くらいになるとなぜかみんな、小中学生ぐらいの時にやったゲームまた引っ張り出してくるじゃん。
ヨッシーアイランドめっちゃ絵きれいだよね!とか、ドンキーコング2のBGMいいよね!とか、また『0%、0%、0%』wwwとか。
幼少期の追体験ってなんともいえない懐かしさで胸が苦しくなったり。
懐古厨って思われるかもだけど、今が大切なのと同じくらい思い出もかけがえのないものだよね。
懐かしい!あれやろうぜってなるゲームのいくつかはソシャゲなわけで、
大体はサービス終了しているであろう。
懐かしのスマホを取り出して、動くかな?動くかな?ってアプリを起動しても、画面に表示されるのは
『サービスは終了しました。長らくのご愛敬ありがとうございました』
なわけで、
なんか悲しくなった週ど真ん中の夜。
学校では、さまざまな教科が教えられる。しかし実際に社会で営まれるような協力作業を実践するカリキュラムは、実はあんまりない。
あんまりないが、ない訳ではない。そしてその教科で活躍するものは、スターとなる。その希少な教科が、体育の団体戦である。だから運動能力に秀でたものは自動的に、学校社会の上位へ繰り上がる。いわゆるジョックスである。こどもたちは、体育の団体戦の時間に社会というものを知る。
一方、運動能力の劣る人種はカーストの下位へ追いやられて劣等感を覚える。さらに体育の授業において足を引っ張ったことは「協調性がない」というレッテルに変換され、それが貼られる。かれらは劣等感によってすでにナイーブになっているため、やがて自身でも「協調性がない」という評価を受け入れ自覚するに至る。(つまりその自覚は錯覚であることも多々あるが、ともあれ)こうしてナードに、ナードの自我が芽生える。そしていずれ理想郷をファンタジーに見出して、オタクとなる。
冒頭に書いたとおり社会…特に会社という組織は協力作業の塊である。それも上述の、学生時代に相克した元ジョックスと元ナードの協力作業である。
元ジョックスやサイドキックは、学生時代に自分の居場所を維持するために秩序を重んじていた経験から会社においても、協調性を最重要視する。一方で元ナードは協調性がないと自覚しているし理想をファンタジーに見出しているので、秩序とか協調性とかは、技術や知識を用いて破壊してしまうべきだと考えている。
ここまで書いてきた元ジョックスのコンサバティズムや元ナードのラジカリズムが、うまく噛み合い作動している組織もあるがそれは極めて稀なケースであって、これをお手本として追体験しようという試みは、おおよそ失敗に終わる。なぜなら、おのおののおのおのに対する偏見は学生時代に刷り込まれていて、それを大人になってから覆させることは極めて困難だからだ。たとえば昔アメリカという国では偏見に基づく秩序を覆そうとした結果、国土を南北に二分する戦争に発展した。
ともかくかようにしてスクールカースト間の相克は大人社会へも継承され、いつまでもジョックスはナードが協調性のない世間知らずとレッテルを貼って会社から追い出そうとするし、ナードはジョックスに理想郷の話をしたがる。結果、ナードは転職を繰り返す。オチのない悲劇である。
しくじり先生のソニンを観ていて、まるで自分を見ているようで苦しくなった。
彼女の10代の頃の映像は、自分がそこにいて、わたしがやっているような気持ちになった。隣で見ていた母親の、「あーあ」「倒れる倒れる」という煽る響きもあるつぶやきが、わたしの子供の頃を思い出させる。惨めさ、悔しさ、怒り、恐怖、隣で見ている母親をなぐりつけたい感情がカッとよみがえった。
大人になったわたしは、ふと別の感情に気付く。わたしもまた、煽る側として楽しんでいるのだ。一人の人間を自らの手でコントロールし、破壊し尽くすことの快感みたいなもの、そして目の前で破壊されているのもまた自分であり、自分が惨めで苦しんでいじめ抜いていることへの快感、そういう暗いよろこびを感じている。
わたしは子供がいないが、もしいたら、虐待するんだろうなと思う。子供は自分の分身だから、自分を惨めなめに合わせ徹底的に破壊して追い詰めるだけ追い詰めたいという欲が、絶対湧くだろうし、子供とわたし一対一の関係性、そこにストレスが加われば我慢することはできないだろう。虐待とは他人を傷付けて快感を得るものでなく、自分を傷付けて快感を得る種類のものだと思う。そういう発想がそもそもない人は、かわいい我が子をどうして、と思うだろうが、わたしはよく分かる。自分のことをかわいいと、大事だと思わない人間もいる。そんな人間が我が子をかわいい、大事だと思うわけがない。幸せになることは許さない。
結婚とは、これを解決する手段ではなく、問題を抱えたまま持ち込んで生活するということだと思っている。それも生きるということだし、大なり小なり幸せもあるだろう。しかしわたしはもう、あのようなことを子供を通して追体験したくない。
閉じられた学校空間、たまたま席が近くて、気がつけば互いが好きだったらしくて、
共通の友人からそれを聞いて、両片思いから付き合い始めて、一緒に遊んで、ただそれだけで楽しくて、
でも彼女の親は不倫が露呈し離婚して、転校し、目の前から突然消えて、離れるしかなくて、ショックで、
しかし家族に裏切られて家庭が崩壊した彼女はそれ以上にショックだろうに自分は何もできず、何も言えず、
無力感と不信と、性と性欲への嫌悪感だけが今でもきっと拭い去れていないのだと思う
こうしてあの記憶を鮮明に追体験させてくる夢は、おっさんになってしまった今には完全に毒
今回はガンガンオンライン
7話の感想。
私の中で好きなギャグ漫画の法則性があって、その一つが「モブキャラが活き活きしている」こと。
なので今回とてもツボだった。
主役はいたって通常運転なのに、周りが変なテンションになって独特な空気が出来ている(まあ、“シュール”っていう便利な表現があるけれども、個人的にこの言葉を使うハードルはもう少し高くするべきだと思う)。
というより今回の主役は事実上電車に居合わせた学生たちで、彼らはモブキャラだからね。
これまでの話でも、魔族たちよりも周りの感性が現代的かつ異常に呑気であることで成立するギャグ展開が多かったけれども、今回のエピソードはその極致かもしれない。
続けて8話の感想。
やたらとタイミングよく出てきて、しかも不自然に大声で喋るモブキャラ。
ロクサーヌの失態を責めるためだけに、唐突に登場して喋らせている感が何だかツボだ。
問題解決のアンサーにまるで関係のないものが混じっていて、ケレン味がある。
前回の百合音の発言は多分そういう意味合いではないだろうなあ、と思っていたら高衛がそれを指摘してきたのはちょっと驚いた。
この手の構成のテンプレはエピソード終盤まで真意をネタバラシしないことなので、ここで作中で指摘が入るってことはもっと別の意味があるのだろうかと勘繰った。
結果としてメタ的に物語を読み解こうとした私が勝手に自滅する展開だったわけだけれども、これは逆に上手い引っ掛けじゃなかろうか。
それにしても、こういうときにKY野郎の言動が功を奏するっていうのはいいね。
でも、よくよく考えてみれば今回の問題の発端は高衛の発言なわけだから、自分の尻拭いしただけでグッジョブってわけでもないか。
あと、今回の見所はやはり最後らへんの市川の“あのセリフ”を言うシーンかなあ。
見開きかつ1ページ丸まる使っているのもそうだけど、構図が百合音視点なのもポイントだよね。
あの構図であることで、百合音の戸惑いを追体験させて読者までドキリとするように描かれている。
ツッコミ不在なので、余計に際立つ。
内容としてはいわゆる俺TUEEEE系作品を皮肉ったものなんだけれども、出てくる要素がちゃんとツボを抑えている。
この作者の、こういった読者が持っていそうなイメージを絶妙に寄せてくる具合は流石というか何というか。
少し前に公開された、『魔法陣グルグル』新アニメのビジュアル。
そうきたか、って感じ。
これ、原作のグルグルが特にノっていた時期の画風に近いんだよね。
今どきのアニメに合わせたデザインにするのではなく、原作の、しかも懐古的な方向でのビジュアルにしてきたのは意外だった。
でも考えてみれば、これまでのグルグルのアニメは、ビジュアルが原作にそこまで寄ったものではなかったので、今回は原作に寄せたってのは逆に目新しいかもしれないと思った。
そんなに嫌いじゃなかった。博物誌を読んだことはなかったけれど、漫画で追体験できるなら悪くはないかなって思っていた。
テルマエ・ロマエも嫌いじゃない。最後あたりはどうしてもご都合主義に走る嫌いのある作者だけれど、それでも致命的ではなかった。
そもそも全部本棚に並んでいるし。
でもプリニウスの新刊でトランプ大統領の揶揄をやったのはダメだった。すっと冷めてしまった。
ああ、あんたもあのリベラルとおなじなのか、あのクソ連中と同じことをするのかって思ったらもうダメだった。
黒板に落書きしてみんなで笑い飛ばすクソみたいな時間と同じことをするのがあんたたちリベラルなのか。
散々綺麗事を言いながら、あんたたちは気に入らない相手にだったら平気でひどいことをするのか。
オカルト要素が入ったのは新刊からだから既刊の分では問題なかった。
でも、クソみたいなリベラルが、誰かを揶揄するということを何の疑いもなく描くような漫画なら、それを読み続けるようなリスクはおかせない。
漫画でも小説でも、楽しむということは同化するという行為を含む。そして自分はこの漫画と絶対に同化したくないと思ってしまった。
ちなみにグロには興味ない
衝撃シーンとかどうでもいい
むしろ日常で起こりうることで、自分が体験し得ないことを追体験する場になるのが魅力だ
LiveLeakには、人間同士の醜い争いごとを映す動画がよく投稿される
銃撃や強盗、マフィア絡みの事件。Brazilの専売特許である
危険で荒っぽい運転とその結末である喧嘩・事故。Russia car crash, Russia road rageの専売特許である
エレベータ事故、女の集団いじめ China elevator, China bullyの専売特許である
CMを見て能年玲奈の演技がお世辞にも上手いとは思えないし、本人の顔が思い浮かんでしまってちょっとなぁと思ってた。でもキネマ旬報ってやつで1位になってるし、まぁ面白くなかったら寝てもいいかってぐらいで1人で見に行った。めちゃめちゃよかった。
自分と同じように思ってる人は騙されたと思って見に行って欲しい。
以下ネタバレ含む。
素晴らしい所は山程あるし、色んな所で語られてるから、今更自分があれこれ言ってもとは思うけど、語りたいという欲求には逆らえない。振り返ってみると、この作品の設定のユニークさに改めて感心したので、その事を書いていく。
一般に、映画や小説、ひいては音楽というのは非日常を描くものだと思っていた。例えば、君の名は。は体が入れ替わる。この作品も、戦争と言う非日常を描いている事に変わりはないが、日常と非日常のバランスが異なるように思う。初めこそ童話的なエピソードから始まるが、すずが北条家にお嫁にいってからは、炊事などの日常が主に描かれる。そこから戦争という非日常が始まる。場合によっては、日常を描く事は、非日常を際立たせる演出上のテクニックのようにも感じられてしまうこともある。しかし、この作品では、日常を描く事自体が1つのテーマとなっていると思う。つまり日常を際立たせるために非日常を描いている、とも言えるのだ。それほど力強く生き生きと日常が描かれている。
能年玲奈がクローズアップ現代+のインタビューで「ご飯を作るのって楽しいんだとか、洗濯をすることがとても誇らしいと思えるようになった。」と言っていたことがこの事を上手く表していると思う。
映画や小説では非日常が語られる故に、主人公は、人並み以上の能力持っていたり、特別な立場であることが多い。例えば、風立ちぬでは、零戦の設計者だった。一方で、この作品では、絵が上手くて、すこしとぼけている、どこにでもいると思わせるような女性である。第二次世界大戦という歴史的な出来事を、どこにでもある視点から、描くという点が非常に新鮮だった。戦争は、主人公が全くあずかり知らぬ所で起こり、理不尽にやってきて、そして唐突に去っていく。状況も殆ど理解できないし、ただただその状況に身を任せ、やれるだけの努力をするのみである。そのどこにでもある視点は、すなわち自分が、もしその時代に生きたらという視点であった。
3.物語への没入感
物語や演出の素晴らしさに加えて、上記の2点の設定上の妙により、物語へ没入してしまった。物語への没入感は、本当に面白いと思える作品の条件だと思うが、日常をどこにでもある視点で描く、ということはこの条件を成立しやすくしている。戦争といった非日常的なものは、非日常的に語られる事が多い故に、他人事だと思ってしまいがちである。例えば、歴史の授業で心を傷める人は稀だ。この作品では、日常をどこにでもある視点で描き物語へ没入した状態で、非日常が起こる。その当事者意識や衝撃度は凄まじい。
日常をどこにでもある視点で描き、そこに起こる非日常を追体験させる。こういう手法って今まであったのかな?自分では思いつかなかったので、映画でも小説でもあれば見てみたいので、教えて頂けると嬉しい。シンゴジラが、現実の中に虚構(ゴジラ)を描いたっていう点は非常に面白かったし、ちょっと似ていると思う。でもそれは虚構を際立たせるための現実であったし、視点も特別なものである。
最後に、映画を見終わってからテレビで、能年玲奈のセリフを聞いたけど、やっぱり違和感があった笑
でも映画を見てる時は、全く気にならなかったし、寧ろハマっていたのは間違いない。それ程物語に没入していたということであると思う。
ゲームで続編ばかり売れる現象から、思い出コンテンツは強いという仮説を立てている。
思い出コンテンツとは、文字通り思い出として心に刻まれてしまったコンテンツのことである。そしてその思い出がプラスのものであればあるほど良い。
なぜゲームで続編ばかり売れるのか?そこには、ゲームこそあらゆるエンターテイメントコンテンツの中で最も思い出となりやすいということがあるのだ。
映画、小説、漫画、エンターテイメントコンテンツは数多くあるが、ゲームはその中でもぶっちぎりで消費者がかける時間が長いという特徴がある。一つのゲームをクリアするのに2、3ヶ月かかるのはザラだ。3ヶ月もあれば、その間に日常では様々なことが起きる。そうした日常の記憶とともにゲームのプレイ記録も刻まれるのだから、思い出として心に残りやすいのだ。
人はいい思い出があると、それを追体験したがるところがある。写真を見返すことで思い出を追体験するのもそれだ。そしてゲームの続編も、思い出を追体験させるものとして機能するのだ。
みんなあの楽しかったゲームをまた体験したいから、面白かったゲームの続編に期待する。だから買う。そしてやっぱり面白かったのなら、その次の続編も買う。そうしているうちに、そのゲームのシリーズ全体に思い出が出来てくる。そうなったらますますそのシリーズを買うことになるのだ。
これ、詳しくは秘密なんだけど、東京某所に人生リセットできる場所がある。
そこで何をするかというと、ある夫婦役の赤ん坊(赤ちゃんプレイではない)になって1年を1ヶ月ぐらいの縮尺で生活していく。費用は教えられないが、かなり覚悟のいる金額が必要。ただそれを払う価値はあったと思う。
最初、プログラムに参加する前に、プログラムの全てのルールを覚えるテストがあってそのテストに合格しない参加できないので注意。といっても選択問題でそこまで難しくないので心配することはない。
プログラムの最初の一ヶ月は本当に何もできない。発話もしないルールになっている。食事から入浴、排泄の世話までしてもらう。1日の大半を寝て過ごす。ネットや外界との接触も一応禁じられて(接触すると効果が薄れるらしく)本当に自分がなくなりそうだった。他にも、部屋は自分が写り込まないように、反射するものが排除されたりとかの配慮が徹底的だった。自分じゃ何もできない状況に追い込まれる。だから甘えるしかない。けどそのうち慣れるとそれが当然になる。
そのあとは、ハイハイでの歩行と喃語を発語が解除される。色々なものが自分の世界として再認識させられる。ただ、喃語しか話せない苦痛はこの上なく、その時はしょっちゅう泣いてしまった。ただ、大声をあげて泣くのは想像した以上に気持ち良かった。
最後は、元の生活に戻るための、プログラムが用意されている。ジムに通ったり、友人と食事をしたりして復帰する。その時になって気づいたのはかなり自分は深い催眠状態であったこと。日々使われる言葉とか動作、一つ一つ意味があったと気づいた。
そんな感じで、人生リセットプログラムは赤ん坊を追体験するもの。時間も数ヶ月かかる上、費用もバカにならない。でも辞職ついでに参加して良かったと思う。正直リセットしたというよりは、新しく経験として蓄積されただけのような気もするが、持っていなかった何かを手に入れた気分になった。
この記事「1万冊読破した男が選んだ!人生を変えるオススメ漫画12選」
(https://qolhacks.com/manga-life-recommend12)を読んで思った感想としては、いやいや漫画ごときで人生変わりすぎやんって感想。しかもこの人の経歴みるとそんなに人生変わってなさそう。
いや、作品自体を批判してる訳じゃなくて、それぞれちゃんと名作なんだけどね。
で、すごい漫画大好きだけど(1万冊くらい読んでるけど)、人生変えるほどでもないなというのを、自分の体験を含めて、書いていきます。
もちろん漫画が自分の糧となってる(色んな事を追体験できたとか、知識の幅を拡げられたとか)という自覚はあります。
小学生の時のずっとサッカーやってたけど、スラムダンクの影響で中学からバスケ部に入った。
けどバスケ部も入ってみたものの、面白くもなかったので3ヶ月で辞めて、サッカー部に入り直した。(ちょうど日韓ワールドカップが開催されてた影響もあるけど)
けど、その性癖を人前に出すわけでもなく、彼女とかにも変な性癖を出すわけでもなく、ごく普通の性生活を送ってる。
ちょうど中学の頃に読んでて、矢野くんっていう男の主人公的なキャラがかっこよくて(女の子にモテそうな感じで)、服装とか行動とかちょっとだけ真似したりした。
結果、少しモテたりしたけど、所詮付け焼き刃で(通用するのは中学生くらいまでで)、社会人になったら自分の軸をしっかり持ってる人がリスペクトされる(モテたりする)よね。
これは漫画じゃなくてアニメ(ラノベ)だけど、センター試験2日前くらいにたまたま深夜テレビ見てたらバッカーノ!がやってて、めちゃくちゃ面白かったから、センター試験直前なのに全話観ちゃった。
ただ、意外と試験に影響なくて志望校に受かった。これでもし志望校落ちてたら人生変わってたかもしれない。
まぁ前日にアニメ観ただけで落ちるくらいなら、どうせ落ちてただろうし、あんまり影響はないと思われる。
・ピスはめ
これ読んで成年漫画にハマった。そしてそれがこうじて学生時代成年漫画を扱う書店でバイトしてた。
でもまぁそれは、ただの趣味でしかないし、そんな人生が変わったとかじゃないなぁ。普通に全然違う業界に就職したし。
■結論
漫画なんて、所詮娯楽でしかなくて、だいたいの人にとっては、人生なんか変えるほどの影響力なんてない。
てか、ハンターハンター読んで人生変わったってどんな人生なんだよ笑
ただ漫画家になったとか、編集者になったとか、中華一番!読んで料理人なったとか、本当に人生が変わった人はいると思うから、ちゃんと影響があった漫画って知りたい気持ちはあります。
もし、そういう人がいたら教えて欲しい。