しくじり先生のソニンを観ていて、まるで自分を見ているようで苦しくなった。
彼女の10代の頃の映像は、自分がそこにいて、わたしがやっているような気持ちになった。隣で見ていた母親の、「あーあ」「倒れる倒れる」という煽る響きもあるつぶやきが、わたしの子供の頃を思い出させる。惨めさ、悔しさ、怒り、恐怖、隣で見ている母親をなぐりつけたい感情がカッとよみがえった。
大人になったわたしは、ふと別の感情に気付く。わたしもまた、煽る側として楽しんでいるのだ。一人の人間を自らの手でコントロールし、破壊し尽くすことの快感みたいなもの、そして目の前で破壊されているのもまた自分であり、自分が惨めで苦しんでいじめ抜いていることへの快感、そういう暗いよろこびを感じている。
わたしは子供がいないが、もしいたら、虐待するんだろうなと思う。子供は自分の分身だから、自分を惨めなめに合わせ徹底的に破壊して追い詰めるだけ追い詰めたいという欲が、絶対湧くだろうし、子供とわたし一対一の関係性、そこにストレスが加われば我慢することはできないだろう。虐待とは他人を傷付けて快感を得るものでなく、自分を傷付けて快感を得る種類のものだと思う。そういう発想がそもそもない人は、かわいい我が子をどうして、と思うだろうが、わたしはよく分かる。自分のことをかわいいと、大事だと思わない人間もいる。そんな人間が我が子をかわいい、大事だと思うわけがない。幸せになることは許さない。
結婚とは、これを解決する手段ではなく、問題を抱えたまま持ち込んで生活するということだと思っている。それも生きるということだし、大なり小なり幸せもあるだろう。しかしわたしはもう、あのようなことを子供を通して追体験したくない。
気の毒だけどそれがいいんだろうな。こういう親を持つものは不幸を連鎖していくだろうから。