はてなキーワード: 繋ぎとは
一方、家庭用ゲーム機のXboxシリーズを展開しているマイクロソフトの人がツイッターで「同意しません。私たちは、ゲーマーに過去、現在、未来の最高のゲームをプレイさせたいと考えています。これはゲーマーが求めているものです(翻訳は@Kuraris_plus氏より)」と発言した。
んー
Xbox Oneは現状、販売シェアの面でライバルであるPS4よりも遅れをとっているわけで、互換機能の拡充はあくまでもシェア挽回のための付加価値向上策の一つでしかないと思う
本来であれば魅力的な独占タイトルの拡充こそが正道なんだろうが、それは時間もカネもかかるわけで、それまでの繋ぎとして打てる手を片っ端から打ってるだけだろう
昨年出た新型では大して需要もない4KBDにも対応したりしてるしな
思えばPS3も、本格的に普及する前はDVD映像の高品質なアップコンバート機能を実装したり、DLNAに対応したり、地デジ録画用のオプションを発売したりと、色々と足掻いていたしな
3km走るのがほんとに辛くて、夏が終わって大会に合わせて作られた駅伝部の活動が休止した時かなり嬉しかった。
中学1年の冬、何故か駅伝部の顧問に目をかけられていた僕は朝6時半に集合させられ30分ほど走るようになった。
辛かったけど先生が怖くて辞めたいと言い出せず言われるがまま走り続けた。
中学2年の夏になり、また駅伝部が設立され、当然のごとく僕は招集された。
1年生の頃はゴールした時「よくがんばったね」と教師陣に拍手されながら迎えられたドンケツの僕は、誰よりも速く3kmを走りきった。今度の拍手は心地よかった。
その年、一つ上の先輩と自分の力で県大会に進出することができた。東北大会の出場も圏内だったが、6区最後を走った先輩が失速し4位。東北大会に進めるのは3位まで、僕らの夏は終わった。
また冬が来た。
去年と同じように指導者に流されるまま朝から30分校庭をジョギングした。
「凄く速い生徒がいるらしい」と今年の活躍が口コミで広がっていたのか、ちらほら見学する生徒が現れていた。
真冬で太陽も出ていないのになぜかサングラスを掛けている顧問は何人かに声をかけ朝練習に合流させた。
一人で走り込んでいた僕に仲間ができた。
県大会に駒を進め、前年度の雪辱を果たす機会を得た。
僕が三区で襷を受け取った時順位は3位だった。
東北大会に進めるのは3位までの学校で、全国大会に進めるのは1位だけだ。残念ながら東北大会から全国にはつながらない。全国を目指すならこの県大会で優勝するしかない。
勾配の強い山道を駆け抜け、中間地点となる1.5kmを突破すると一気に下りとなる3区。
僕は前半2位との距離が極力開かないようにペースを抑えて走り、1.5kmを過ぎた時点で勝負をかけた。
ストライドを狭めて脚への負担が大きくならないよう気を付けながら、ピッチを上げてペースを速める。
2位を抜き、襷を受け取った時点で1分近い差のあった1位の後ろにつけて4区に襷を渡した。
そこからの流れは疲れ果てて休憩しているうちにレースが終わったので分からないが、僕らの学校は1位を取った。
設立から何十年と経つ学校だったか、特段スポーツに力を入れているわけではないので全国大会に運動部が出場するのは初の快挙だった。
僕らは涙を流しながら抱き合った。
顧問は「当然だ」とだけ言い拠点を黙々と片付け始めた。いつもはこういった雑務をしない人なので多分照れ隠しなのかなと思う。
数ヶ月が経ち、東北大会でのレースを済ませた僕らは全国大会の舞台に立った。
1区を出走することになった僕は、正直自信過剰だった。
実際3kmの持ちタイムは9分を切っていて、全国でも上位を争えるレベルだった。
全国大会当日、会場であった山口県は小雨の降る肌寒い日だった。
詳しくは知らないがまるでゴルフ場のような芝生とタータントラックのみのコースだったので7mmピンのスパイクで大会に臨んだ。
だがこの判断が間違いだった。
ほとんどスパイクで走ったことのない僕はスパイクの引っかかりの強さが予想以上に強かったことに焦った。対応できなかった。
下りになるたびに引っかかりのせいで止まってしまい、体力を無駄に使った。
集団に揉まれながらゴールへとたどり着いた時には全校50近い内20位ぐらいだった。
僕が入賞圏内でタスキを渡し、後半逃げ切りという作戦を立てていた僕らはそのままズルズル順位を落とし入賞県外で終わった。
僕は泣きながら仲間たちに「ごめん」と謝った。
仲間たちは僕のおかげでここまで来れた、むしろ僕らがもっと速ければともらい泣き?していた。
自信に満ちていて、いつも問題があれば僕らを叱った顧問は「この結果はすべて俺の責任だ」といい腕を組みながら謝っていた。
同級生たちが受験勉強に明け暮れる中、僕は色んな所からきた特待生の勧誘やらを前に迷っていた。
「これから先でも戦えるのだろうか」
全国大会で天狗の鼻はボキボキに折れていて、地元の友達皆が行く近場の学校に入学しようと考えていた。
そんな話をどこから聞きつけたのか駅伝部の顧問が僕を放課後呼び出し、スポーツ科の存在する学校への入学を促してきた。
僕はなんだかんだ付き合いは長いけれど、まだ顧問のことが怖く、流されるままスポーツ科のある学校へと進学した。ただ迷っていたのもあったのでこの言葉は当時嬉しかったと思う。
正直有名すぎるのでマニアにはバレるため詳細な情報は伏せるが全国大会3000mで異常な成績を残したとだけ書いておく。
結果を出さなければ殴られ、結果を出しても褒めることはせずもっと行けただろと怒られる。自尊心はボロボロだ。
それでもなんだかんだタイムや実績を残してきた僕には優しい方だったが、やはり大分精神的に消耗していた。
前述した僕より速いやつは相当に人間ができているやつだったし、他の部員たちも僕のことを知っていて仲良くしてくれた。
色々ありながら高校1年の夏を終え、雪が降る季節になった頃事件が起きた。
僕の身体は厳しすぎる練習に耐えきれず、股関節が剥離骨折した。
この事実を教師に伝えた所、「お前は逃げるのか?迷惑だから走れ」と練習を強制された。
当時はつらすぎて逃げ出したかったがスポーツ科だったため、部活を辞めれば学校もやめなければいけない。
僕は言われたとおり痛み止めを投与しながら練習を続けた。
そして怪我はよりひどくなり最終的に歩けなくなった頃、「もう限界です、休ませてください」と伝えたところ毎日誰よりも早く来てグラウンド整備をすれば許可しようと言われた。
今思えばおかしい条件な気がするが、当時は「ありがとうございます!」と心から感謝していた気がする。頭がおかしい。
歩くのも痛かったが処方された痛み止めを飲めば我慢できたし、走るよりはマシだったので頑張って毎日グラウンド整備をしていた。
この剥離骨折は結局治るのに1年近くかかった。
1ヶ月ぐらい経つと教師に「もう治っただろ走れ」と言われるので走り、また悪化させるという繰り返しがこれだけ怪我を長期化させた原因だと思う。
ようやく治った頃にはもう高校3年生で同級生や後輩に大きく実力差を付けられていた。
それでもなんとか自分なりに練習を重ねた結果冬場の駅伝には出場できた。3kmの高校生にとって繋ぎの区間だったが。
少し時期は前後するが3年の夏頃、僕は進路を迷っていた。
怪我はなんとか治っていたがこれ以上走るのは明らかに限界だと感じていた。
それでもなんだかんだ高校1年生の頃に5kmを14分台では走れていたので、タイムだけで弱小校ならスポーツ推薦が可能な状況だった。
僕は迷った。
でも中学生の頃卒業文集にも書いた「箱根駅伝出場」を諦めきれずスポーツ推薦を選択した。
少し走れば足首が、膝が、股関節が、どこかに痛みが出てしまい練習ができなくなる。
救いなのは大学はある程度自由にトレーニングメニューを組めたので、怪我をすれば悪化する前に休息を取れたことだろう。
ただこんな練習頻度で化物揃いの大学陸上を勝ち抜くことはできず、関東インカレの出場はできたが成績はダメダメで、結果は出せなかったし、箱根駅伝のメンバーに選出されることなど夢のまた夢だった。
県大会で全国出場を決めた時の高揚感、あれをもう一度でいいから味わいたいんだと思う。
正直箱根駅伝のメンバーにもなれない人間は実業団に進んだところで伸び悩み3年以内に首を切られるの分かってる。
でも頭ではわかっていても感情が走ることを求めてしまっている。
人の脳は脳細胞同士が連結、通信しあうナイーブな電気パルスから離れ、高次思考を言語で行うことに成功した。それが人間と他の動物の間にある知性の差であり、ナイーブな電気パルスのイミテーションにすぎないディープラーニング人工知能が未来永劫知性に達しない理由でもある。
人は言語により思考し意思決定し、本を読んで学習し脳をプログラミングすることも出来る。言語は電気パルスを離れ安定したテキストデータとして脳に貯蔵しておくことも出来、それを外部に文書として記述することで知識を共有し後世に伝えることも出来る。
脳は各部が機能を持ったパーツとして存在していて、特定の箇所を傷つけると特定の機能が消失することが知られているが、各部位で行われた電気パルスによる思考の結果は高次脳領域で言語データとしてエンコードされ、意識に送られる。意識は言語データを受け取り、口に出すかどうかを決定する。口に出さない場合は心に思うだけにする。そして必要な場合言語データをループバック回路に送り返す。ループバックされた言語データは新たに入力された感覚器官からの電気パルス信号とともに再び脳に入力されて処理され、また意識に言語データとしての処理結果を返す。
意識的思考というのはつまり、脳から出力された言語データを何度も脳に送り返すことで言語データを熟成させるプロセスのことだ。思考自体は意識が行っているわけではなく、脳細胞が電気パルスによって行っている。意識の働きは脳から出力されてきた言語データを評価し、口に出すかどうか、あるいは思考を継続するために脳に送り返すかどうかを決定している。そこで流れた言語データは電気パルスにデコードされ記憶領域に複製されていて、後から思い返すことが出来るため、そこに意識の流れが出来、時間感覚や自分が意識を持ち生きているという認識が生じる。
脳内の思考活動は脳内で閉じていて、外部からは存在が実証できないため、意識があるとかないとか自由意志があるとかないとかいった問題が生じているが、意識はあるし自由意志もある。意識は考え続けるか、考えるのをやめるか決定し、自ら行動を変化させることが出来るので、自由意志が存在するといえる。もちろんそれは決定論と矛盾しない。
追記:つまり実際の思考を行うのは各部位で行われる電気パルスであるが、意識はその言語化された出力を脳に戻すことで何度も思考をループさせ、それによって思考を高度化させている。その機能は、「言葉を口に出すかどうかを決定する」回路から進化したもので、「思ったことを口に出さずもう一度考える」という能力を獲得したことが、人と動物を分けた、という話。意識は言葉を口に出すかどうかだけでなく、言語で思考した内容を実際に行動に移すかを全般的に制御出来るが、言語によらない思考から発生した行動は制御できない。それが、意識は言語を処理する機能だという証拠になるだろう。
追記2:「自分には意識があるという実感がある」というのが不思議な感じがするのだろうが、事実として意識はあるし、実際に脳内で行われた思考の結果である、出力されてきた言語データの内容を記憶していて思い出すことも出来るから、自分はずっと意識を持ち生きているという実感があるのは当然である。意識はそういう機能だからだ。それは幻覚でも何でもない。
追記3:動物に意識はあるかという問題について。動物に意識はない。ハイデガーいわく「動物は私と言わない」というが、「私」が「思考している」という文を組み立てられるだけの言語的複雑さを動物の脳は持ち合わせていないので、「思考している私が存在する」という認識、つまり意識の認識に動物は至れない。
追記4:計算機が「私」や「思考している」という概念を理解し、「思考している私が存在する」という認識に至る可能性は当然ある。ディープラーニング人工知能の延長線上では無理だと思うが。
追記5:この機構が計算機上のニューロンだけで成立するかという話。まず、電気パルスを言語データに変換するアルゴリズムは、人類のDNAにハードコードされている。人の知性はニューロンに由来するのではなく、DNAに由来する。人間より脳細胞が多い動物はいくらでもいるが、人間のように知性がある動物は他にはいない。人間という生物種全てに知性が存在する以上、その人間を定義するDNAに知性の根幹があるのは疑う余地が無いだろう。人間であれば基本的に言語を操る力を身につけることが出来る。それは人類のDNAに言語を操る基となるプログラムが記述されているからだ。
だからこのシステムに必要なのはディープラーニングによる学習ではなく、DNAの解読だ。学習は動物であれば誰もがしているが、言語を自由に操れるのは人間だけだ。学習からは言語にも、知性にも到達することは出来ない。学習によって知性や言語を得ることが出来るように、脳細胞を構成しているDNAが、知性の発現のための必要条件となっている。
しかし、DNAを解読して得た 電気パルス⇔言語 変換のアルゴリズムが、計算機上のニューロンもどきで実行できるかはまた別の問題だ。適用できたとすれば、この機構は計算機上のニューロンでも実現可能なはずだ。
DNAの解読以外で、ニューロンに知性を発生させるメカニズムを実現するのは不可能だと考えている。大自然が何億年とかけて最後に到達した脳というハードウェアのプログラミングに、人類が独力で到達できるとは思えない。
追記6:なぜそれが意識であるといえるのか、について。それはもちろん、あなたが意識であると考えているものがなんであるのかによる。私は「人に動物にはない知性がある理由」と、「人が自分の思考している内容を言語で理解し、そこから『思考している私が存在している』と認識している理由」について語った。あなたの意識の定義がそれに含まれないのなら、もちろんそれは、あなたの考える意識が存在する理由にはならない。あなたの考えている意識がどのようなものであるのか聞いて、それについて考えてみたいと考えている。
追記7:私が「意識は脳の外部にあると規定している」という指摘があるが、それは当たらない。脳はただ情報を処理し、その処理した結果として「思考している私が存在する」という当たり前の事実を見て、私には意識が存在すると認識しているだけだ。脳の中の通常の情報処理過程、たとえばそこに石がある、とか、そこに月が浮かんでいる、とかと同じように、「思考している私が存在する」のを見て、「私には意識がある」と人は結論している、と私は規定している。
追記8:言語を伴わない音楽や絵画を通じても、情報処理過程は変容する。視覚、聴覚の情報処理は意識的情報処理によらず変化する。その変化によって、新たな音や色彩に対する感覚を得て、それを言語化し、意識することができるようになることもある。それは意識の変容ということが出来るだろう。
言語を伴わない芸術から深いショックを受け、寝込んでしまったという経験が私にもあるが、それは意識を経由せず直接脳の情報処理過程を揺さぶることで発生したのだと思う。それにより脳内の情報処理過程が大きく変わってしまったり、トラウマになってしまったりということもよくある。それを意識の変容ということも可能だろう。
追記9:チンパンジーや鳥類等のコミュニケーションについて。上にあるように、私はチンパンジーや鳥類が伝えようと思ったことをやめて心に思うだけにすることはなく、思考がループしないので知性に到達できないのだと考えている。もちろんそれだけでは足りず、自分の思考をより正確に言語で表現し、言語情報を受け取ってその思考をより正確に再現出来る個体が、狩りのコミュニケーション等で有利になることで、言語能力の高い個体が子孫を残していく。思考⇔言語の変換で損なわれる情報が少ないほど、ループの中での思考も正確さを増し、複雑な概念の理解に到達できる。それを言語表現する進化の過程で、複雑な発声を獲得し、それを聞き取る聴覚も発達していく。
複雑な発声や聴覚を獲得する前は、思考を言語で表現しようとして歌を歌っていたのではないかと妄想している。人類は歌でコミュニケーションし、脳内の独り言も歌で行って思考をループさせていたのではないか。歌を歌うと気持ちいいのはそのころに培われた本能に由来しているような気がする。頭の中で歌が流れて止まらなくなる現象もその辺に由来しているのではないか。
追記10:囲碁AIについて。AIはコンピュータだから、囲碁のようなゲームが強いのは当たり前である。何も絶望することはないように思う。グーグルの子会社が仕掛けているのはHypeだから、真に受ける必要はないと考えている。彼らがそのHypeを本物だと主張するなら、囲碁AIのソースコードを公開するべきだ。
追記11:思考のループに言語はいらないのではないかという指摘について。脳内の何百億という脳細胞で発生している電気パルスは、そのままではループさせることは出来ない。言語に一旦エンコードし、それをもう一度デコードして、思考の再現を行うことでループしている。また、思考の内容を言語として記憶し、思い出して思考を再開することで、移ろいゆく電気パルスによる無意識の思考とは違って、同じテーマについて何度も長時間考えることが出来、思考を深めることができるようになる。
追記12:夢について。夢は動物も見ている。動物や人間の脳内では出来事が記憶されている部分があり、そこに電気パルスが流れると追体験する。人間の場合でも、それが嫌な記憶だとふとしたきっかけで蘇り、叫んだりしてしまうのだが、そういう意識でコントロールしがたい無意識的な思考だ。睡眠中にはそこに電気パルスが流れて出来事が蘇り、いろいろな出来事が繋がった追体験が起こる。そうして出来事と出来事を並べて、因果を繋ぎ、ある出来事の後に起きることを予測できるような形で整理している。それによってパブロフの犬のようなことが動物でも起きる。しかし、出来事を並べるだけで、言語的な論理性を持たなければ、たいした知性には到達できない。
追記13:意識とは、言葉を口に出さずにもう一度考える回路から発達したもので、思考の内容を言語として受取り、もう一度考えるため脳に戻すことで思考を深化させる機能だ。そのループの中で言語能力が高まり、「私」が「思考している」という概念を獲得し、「思考している私が存在する」という文が脳内で紡がれて意識に送られた時に、意識は己の存在に気づき、自意識を持つ。
追記14:匿名ネットのレスバトルで見られる、用語を適当に用い、反論のように見えるが無意味な文を書いて、無意味ゆえの反駁不可能性から自分への反論を避けつつ、用語の意味を知らず文が無意味と気づかない人には、相手の論に反論できているように見せかけようとする手法が私は大嫌いである。
こちらにちゃんと書いた。 http://anond.hatelabo.jp/20170607213657
前回ここでリスニングの学習法を書いたところ思いのほか反響を得ることが出来た。
http://anond.hatelabo.jp/20170522214348
今回は実際のところどうやってリスニングしているかをまとめてみようと思う。
リスニングは無意識下で行われる実に精妙なプロセスで、自分でもどうやっているのか正確にはわからないが、注意して観察すれば大まかなところは分かってくる。
まず単語について。日本語は「交渉、高尚、考証、公傷、公称」のように同音異義語が多い言語だ。「こうしょう」は広辞苑で50の見出し語を持っているという。対して英語は単語の意味が時代とともに付け加わり多義的になっている。Random HouseでTakeを引くと126の意味が登録されている。
どちらにしても、音を聞いただけでは単語の意味を特定することは出来ず、文脈から単語とその意味を導く必要がある。
文脈が分かっているということは、あらかじめ相手のいいたいことが予想できているということだ。現在のトピック、話の向かっている方向、相手のいいたい結論がわかっていれば、リスニングは格段に楽になるが、我々学習者はそれを簡単に見失ってしまい、リスニングは著しく困難になる。
相手の表情や身振り、口調などは文化的な差が大きいが、これに慣れることで相手の話したい内容が事前に予想できるようになり、リスニング力が上がる。
文脈を踏まえ、相手の言いたいことを察知した上で、相手の話の最初の数語を聞く。そこで出てきた単語や文法構造を元にして、その後に続く文を人の脳は予測することができる。
正確に言えば、英語を学習した脳において、文の最初の数語、動詞が出て来るまでを聞けば、その後の展開として考えられるさまざまな可能性は、あらかじめ学習によって脳の回路に刻みこまれているので、その回路が後に続く文を効率的に解釈してくれる。
我々は学習によって脳の回路を育て、「始めがこうなら、文の続きはこうなる」という様々なパターンを繰り返し刷り込んで、文を解釈するために必要な脳の回路を作り上げている。そのおかげで、音を聞いてリアルタイムに文として解釈することが可能な脳が構成できている。
あまり適切な用語ではないが、これを便宜的に脳による予測と考える。あらかじめいろいろな展開に備えた準備を入念にしているので、「その展開は俺の予測の範囲内だぜ!」といった返しが、どんな文の展開が来ても出来るような状態にあるということだ。
予測の中に正解がなかったら、リスニングは失敗する。文のパターンを大量に仕入れて、最初の数語を聞いただけで引き出せるようにしておくことが必要だ。
相手の話が進むにつれて、予測された文の解釈の候補が次々と脱落していき、相手の話す一文の終わりにはその解釈も一つに定まる事が多い。
詩的な文では、それが何を意味しているのか一つに絞りきれないことがある。そういった場合複数の解釈が渾然一体となって聞き手の脳内に残り、深い味わいを残すことになる。
日本語と英語では思考の順序がまるで違うので、英語を最初から順番に解釈していくのは多大な困難を伴う。しかしそれが出来ない限りリスニングは不可能だ。このときに頭のなかで何が起きているのかできるだけ詳細に追ってみようと思う。
英語は単語ごとに区切りがなく、滑らかにつながって発音される言語で、それが日本人による聞き取りを著しく困難にしている。
ただ、最初の一語に関しては前に繋げるものがないので、ネイティブにとって少し無理をしたような発音になり、変な音が漏れることがある。これを単語と誤解しないようにしなければならない。
また、変な音の発生を避けるために一瞬「ウェ」という音が入ることがあり、これは喋ることを考えている時に文頭に出てくる単語"Well"とされ、日本語で言うと「ええっと」とか「まあ」にあたる。しかし実際は最初の一語をスムーズに発声するための準備運動という意味合いが強い。
最初は主語としてのHeとかIとかTheyとかWeのような、非常に出現率の高い単語が出てきやすい傾向がある。
日本語では主語の省略が頻繁に起こるが、英語では発音の省略が起こる。日本語では言わなくても分かることは言わずに省略するが、英語では言わなくても分かりそうなことは発音がいい加減になる。
文頭のTheyやWeなどは一瞬th音やw音が聞こえるだけということも珍しくない。一般的に、出現率が高い単語ほど発音がいい加減になる。
文頭が聞き取れないとその後も何を言ってるのか分からなくなってしまいがちだ。最初の語が聞き取れなかった場合、主語は重要でなかったのだと考え、とりあえず先に進んでみるのが重要である。
ちなみに英語でもIt isは省略されて全く発音されないことがある。しかし英語字幕の中では、ないと不自然なため補われていることがあり、学習者からすると「字幕と言ってることが違うぞ!」という困った事態になる。
英語字幕では話し言葉としては自然だが文法的に間違った表現が直されていることがよくあるため、注意しなくてならない。
主語の次は動詞か、あるいは助動詞がくる可能性が高い。その中でも、一般動詞ははっきり発音されるので聞き取れるはずだ。
助動詞、あるいはbe動詞は非常に出現率が高いため、ほとんど発音されないことがよくある。
w音が来た場合はwillかwouldである。ほとんど聞き取れない一瞬の休符を感じたらそこにはcanが入っている可能性が高い。r音を感じたらYou're, They're, We'reの'reの部分だ。
そういった出現率の高い音を覚えて一瞬の音を聞きのがさないことが重要だ。
助動詞の後には動詞がくる。その後に来る文のパターンはそれぞれの動詞によって変わってくる。
動詞はその次に目的語をとるもの、補語として形容詞も取れるもの、go toのように前置詞を置かないと目的語が取れないもの、目的語が二つ取れるもの、二つ目の目的語の前に前置詞が必要なもの、二つ目の目的語の位置に動詞の原形が入るもの、ing形が入るもの、to+動詞が入るものなど、様々なものがある。一つの動詞に様々な使い方があり、句動詞と言って動詞の後に続く前置詞や副詞のコンビネーションにより意味が大きく変わるものも多い。リスニングを成功させるためには、動詞ごとの文の展開の全パターンを把握し、脳に刷り込んでおく必要がある。
ちなみに、前置詞の後にくる目的語は、動詞の目的語と考えず前置詞の目的語と考えるのが正しい文法用語のはずだが、私は区別していない。正しい文法用語で思考している人には不便だろうが、ご容赦願いたい。
目的語の中には自分の言いたいポイントになる目的語と、そうでないどうでもいい目的語があり、どうでもいいものは弱く、ポイントになるものは強く発音される。
目的語を二つとれる動詞giveで説明すると、「I gave him a ○○」私は彼に○○をあげた、という場合は、何をあげたかに話の力点があり、彼にあげたというのは話の流れから明らかな場合が多い。
このhimのように、「出現率の高い単語の発音はいい加減になる」というルールに当てはまり、話の力点も乗っていない単語は、音が省略され聞き取りは非常に困難になる。例を挙げると、himは「イム」、herは一瞬「ァ」themは「エム」itは一瞬「ィ」といった発音になる。
前置詞も非常に出現率が高く、話の力点が乗ることもあまりないので発音が省略されやすい。ofは一瞬のv(ヴ)音、withは一瞬のth音といった感じになる。
thやvは日本語にはない音なので、聞き取るのが難しいが、注意して聞いていれば分かるようになってくる。正しい発音の仕方を覚えて、音読時に実践していると、さらに聞き取りやすくなる。
それでもやはり、日本人にとって、音から単語を正確に識別するのは難しい。それに英語にも同音異義語はある。
それが母国語であれ外国語であれ、単語は「音、文の形、文脈」の3つの要素から、無意識下で総合的にリアルタイムに判断される。
たとえばwantとwon'tの違いが音から分からない、という事が私にもある。この二つはそもそも発音が異なるので、ネイティブなら区別は容易なはずだ。しかし日本人にはなかなかそうは行かない。
助動詞は本来弱く発音されるが、否定形のcan'tとかwon'tのようなものは否定であることを強調するために比較的強く発音されるため、普通の動詞との判別が難しい。また、I want you to ~のように「君に~をして欲しい」の~の部分に力点が置かれる場合、I want you toの辺りはゴニョゴニョと発音されて弱くなるので、won'tと区別がつかないといった事が起こる。
しかし、ウォントの後にtoやyouが来れば「さっきのはwantだった」動詞が来たら「さっきのはwon'tだった」と判断し、名詞にも動詞にもなる単語が来たら、文脈やリズムから名詞か動詞か判断する、といったことで区別が可能だ。このように、様々な情報を無意識下で総合的に使うことでリスニングは成り立っている。
これは実は母国語でもそうで、日本人の話す日本語でも、発音が曖昧だったり、失敗していることは結構ある。注意して聞いていると、聞く側が自然に補って意味を汲み取っていることが分かる。音から言葉が分からなくても、他で補って総合的に判断するというのは、人の脳が持っている能力だ。
日本語と英語の発音は大きく異なり、日本人には英語の音を判別するのは難しい。けれど周りの情報を使うことで弱点を補うことが出来る。
たとえば一瞬しか発音されない前置詞を日本人が聞き取るのは難しいが、動詞から現れる前置詞のパターンが予測できていれば、一瞬の音でも聞き取りやすくなる。たとえ聞き取れなくても、予測した文の形に当てはめてみることで、文脈から前置詞を補い文を完成させる事もできる。
英語は動詞によって文の形のパターンが大体決まっていて、文の展開の予想を立てやすい。もちろん動詞を副詞で修飾したり、toやed形,ing形などを介して名詞を修飾することで文章を飾ったりもするが、修飾部は文の屋台骨である主語動詞目的語とは発音のリズムが変わるので区別できる事が多い。
それでも問題になってくるのは関係代名詞who、that、それと「関係代名詞の省略」のパターンである。
関係代名詞who,thatは出現率が高く、発音が省略されるので聞き取れないことがよくある。一瞬のh音やth音を聞き逃さないことが大事だ。
関係代名詞の中は修飾部なので、文のメインとなる主語、動詞、目的語よりも一段弱い感じで発音することが多いが、区別は難しい。話の力点が関係代名詞の中にある場合もあり、その場合は同等かより強く発音されることもある。
ちなみに英語において、弱く発音されるということはゴニョゴニョと、速く発音されるということであり、聞き取りにくくなる。英語は重要度が低い部分は聞き取りにくく、速くなり、重要なことははっきりと、遅く発音することで、文の構造をリズムで表現する。
主語や目的語のあとにいきなり主語動詞が出て来る、つまり「主語、主語、動詞」や「目的語、主語、動詞」の形が出てきたら、関係代名詞が省略されているか、あるいは関係代名詞が聞き取れていない。
関係代名詞が主語を修飾している場合は、その後でメインの動詞が来ることになるので、それを忘れないようにしなければならない。「主語 who 動詞」や「主語 that 動詞」で関係代名詞を聞き逃すと、ただの「主語、動詞」と認識されるので、その後に動詞が出てくると激しく混乱することになる。
関係代名詞を聞き逃さなかったとしても、文の途中で他の文を処理して前の文と頭のなかでつなぎ合わせるのは難しい。そういう複雑な文の構造を使いたがる人は、さらにandで繋ぎたがる傾向があり、そうなるとお手上げということになってしまいがちだ。
一文が長くなってくるにつれて、何の話かわからなくなるのは誰にでもあることだ。それが外国語であれば避けては通れないように思う。
文全体の構造を見失ったとしても、今いる部分の意味を追い続けることが重要だ。文脈、話の向かう方向さえ追えていれば、その先の話を聞き取るのに不都合が生じる可能性は低い。混乱しても立ち止まらずに話を追い続ければ、言いたいことの要旨は分かる可能性が高い。
関係代名詞whatや関係副詞where, whenなども弱く発音されるので聞き逃しやすい。I know where you live(あなたの住所を知っている)と言った時にはwhereとyouが弱くなってウェユリヴ、what it is(それが何であるか)といった場合はwhatもitもisも頻出語のため全部ごちゃっとなってワリリズといった感じになる。
英語において「場所、時」は文末にいきなり現れる。なのでwhere,whenはどんな文でもいきなり出てくる可能性がある。
さまざまな場面で、w音は聞き逃すと話を見失う原因になるため、注意して聞く必要がある。
英語において音の省略はインフォーマルな、友達や職場の同僚との会話の時などに起こりやすい。目上の人との会話や、フォーマルなスピーチでは、いい加減な発音は起こりにくく、日常の何気ないところでは発音が崩れて、聞き取りの難度が格段に増す。
これも結局のところ、フォーマルな会話は重要なのではっきりゆっくりと喋り、プライベートは重要な話ではないので発音がおろそかになって、ゴニョゴニョと早く喋っているということだろう。
私は英語があまりできない日本人が「日常会話ぐらいなら出来ます」といってるのをよく見かけるが、あれはおかしな表現だと思う。日常会話を聞き取るのはかなり難しい。
フォーマルな場では、日常使われるような基本単語を用いた分かりやすい表現は避けられ、婉曲で難解な言い回しが知的な感じがして好まれる。これはこれでとても難しいのだが、インフォーマルな場では砕けた発音やスラングが出てくるので、これもすごく難しい。そういった英語の癖を掴んで、そういうものとして受け入れてやっていくことが大切だ。
さて、いろいろ書いてきたが、実際のリスニングの場で意識してこれらのことを実践することはできない。リスニング中にゆっくり考えている時間はなく、全て反射的に無意識に行えなければいけない。
英語の理解を反射にまで高めるためには、音読や、集中して繰り返し聴くことを行い、反復して脳に刷り込んでいくことが必要になる。
頭の中で黙読している時でも、英文が自分のモノになっておらず、反射にまで至っていない場合、スルッと頭に入らず、引っかかる感覚がある。それに出会ったら、繰り返し音読したり黙読したりして、スムーズに頭に入るようにする。その積み重ねによって刷り込みが行われ、文が反射的に理解できるようになり、リスニングや、返り読みなしのリーディングが出来るようになっていく。
リスニングの上達は基本的に無意識レベルの刷り込みによるものだが、注意すべきポイントを理屈の上で意識していれば、脳内の処理も効率化されやすく、上達も早くなるように思う。
また、これらのポイントが意識できていれば、「何だこの発音は! 全く聞き取れないじゃないか! 納得いかない!」といった混乱をすることが少なくなり、学習がスムーズに行くのではないかと考えている。
私の英語学習は混乱の連続だった。日本語と英語がなぜこんなにも違うのか、私には今でも納得いかない部分がある。怒りと諦めがないまぜになったような感覚と、それでもいつか理解できるんじゃないかという希望が私を英語学習に駆り立てている。
それでも、納得できないうちは頭に入ってこないので、なんとか納得して折り合いをつけて、受け入れて学習をすすめなければならない。
字面と全く意味が違うイディオムを受け入れ、ゴニョゴニョした発音を受け入れ、増えていく単語の意味と勝手に作られていくスラングを受け入れ、知的すぎて難解な言い回しを受け入れ、優秀なキャリアウーマンが話す信じがたいほどの早口を受け入れなければならない。
ブラック企業を辞め、今の会社に入って一年がたった。派遣社員で入社したので次に就職するための休息と繋ぎのつもりだった。給料は減ったが定時で上がれるし、責任が少ないのでのびのびと働いていた。
そんな矢先、前職の繋がりで他社からのオファーを受けた。給料は今の1.5倍。前職はデザイン業の営業だったが、デザイナーの数が足りないため自分でデザインもしていて、それが原因でオーバーワークで体調を崩し退職したのだった。転職先では営業のみでいいとのこと。受けるつもりでいた。
そんな矢先、今の会社から正社員登用の打診と、チームリーダーへの昇進の話しをもらった。直属の上司の昇進に伴いポストが空いたらしい。前までは正社員登用に2年かかり、チームリーダーにはそれから5年はかかると言われていたのでびっくりした。派遣でないと入れないような大企業であるのでうれしく思うが、自分よりも社歴が長い人が部下になるためやりにくい。
転職か昇進悩み過ぎる。どうすればいいのか。
私たちは「手を繋いでもいい?」「繋ぎたいなら」で手を繋ぎ、「遊びに行きたい」「行きたいならどこかに行こうか」で遊びに行き、
「したいならいいよ?」でキスをして、「したいならいいよ?」でセックスをして、
「私たちって付き合ってるの?」「付き合ってることにしたいならいいよ。」で付き合い始めた。
「結婚したいならしようか。」で結婚して、子供が欲しいならそれ自体に反対はしないけれど、
経済的に自分は今以上に稼ぐのは厳しいだろうし、どう考えても苦しくなるがその覚悟はある?といったことを答えた。
一緒に生活するうちに精神を病んで体調を崩した妻が一時別居して実家に身を寄せることを提案してきたとき、
「君の体調にとってそれがベストだと君が判断するならそうすればいいと思う。」と言った。
しばらく経って、「電話してもいい?」「したいならいいよ」といったやり取りを経てかかってきた電話で、
住民票を実家に移したいと言われた時に、税金や保健料などの心配事をいくつか並べ、
「君にとっていくらか金銭的な不利益が発生すると思うけれど、私の方も体調を崩していて金銭的に苦しいのであまり支援はできない。それでいいなら構わないよ。」と返事をした。
「それだけなの?」と電話口で突然泣かれたので、
吃驚して「君が体調面を重視して考えた結果を尊重して、見落としている可能性のあった金銭面の心配をして、他に何があるの?」と尋ねてしまった。
「寂しいとか!一緒に暮らしたいとか!!」と泣き喚かれた。
私には残念ながら、なぜそこでそういった言葉が出てくるのか理解できなかった。
理解できなかったのでかなり混乱したが、自分にわからない力学が働いて彼女の機嫌が変化するマズい流れであることだけはわかった。
これまでの経験から、彼女が何を考えているのかを必死に想像した。理由はわからないが恐らく彼女は寂しくないという答えは望んでいない。
「もちろん一緒にいられないことは寂しいが、それは私の気持ちの問題なので今は何の関係もない。大丈夫だ。」
「(私の精神状態を)心配してくれているのなら、今のところこちらは一人でもなんとかやっている、本当にダメそうならSOSを出すから安心して欲しい。」
「それよりも君に早く心身ともに健康になって幸福になってほしい。そのための別居なのだろう?」
結局、自分の気持ちを上記のように率直に伝えることしかできなかった。
納得していない様子の彼女はしばらく黙って泣いていたが、私はそれ以上言うべき言葉も見つからなかったので黙って待った。
彼女の求めているもの、彼女が重要だと感じていること、なぜそれを大切だと感じるのか、
その辺りの事が私にはまるでわかっていないようだという雰囲気だけはわかったが、それがどういった感情の動きによるものなのかはまだよくわからない。
(補足しました)
息子は5歳。先日、保育園のお友達4人で遊びに行ったのだが、息子だけ仲間外れ気味だったのが私の心を重くしている。元々息子は少しのんびりした性格で、言葉の発達も遅かった。予定日より5週ほど早産だったことや、1歳の頃肺炎で入院していたことが関係しているかはわからない。3歳児検診で発達の遅れを指摘され、発達検査を受けたのだが、半年ほどの遅れだから様子を見ましょうということになった。それから2年の間、定期的に発達検査に通っていたが、4歳での成長が著しく、今年初めの発達検査で全ての項目が年齢相応ということになった。嬉しかった。保育園の運動会も学芸会も他の生徒と遜色なく活動できているようで、すっかり安心していた。
息子は他の男児の多くが興味を持つ乗り物や怪獣、戦隊ものには関心を持たず、興味を持っていることは、アンパンマン、ドラえもん、レゴブロック、おままごと、お絵描き、パズルといったところ。加えて、ハローキティやプリキュアなどの女の子が好きなものが大好きだ。保育園で好きなお友達は皆女の子。男の子は怖いという。保育園の先生は、男の子とも遊んでますよーというものの、やはり女の子が好きなようだ。
そんなこともあって、保育園外で男の子たちと交流をもつ機会があればと思い、ママたちに声をかけて企画した。他の3人の男の子たちは、決して息子が嫌いというわけではなさそうだ。お話もするし、おもちゃでも遊ぶ。でも、私から見ると、息子だけくっきり浮いているのが分かるし、他の3人の男児のノリが明らかに息子と違う。
遊んだ後の帰り道も、息子抜きで手を繋ぎ、ワイワイキャッキャッとじゃれあいながら走っていく。息子は慌てて仲間に入ろうと走るが追いつかない。男児の1人が息子とも手をつないでくれるが、すぐに手を離して他の男児と楽しそうにふざけあう。息子は寂しそうにまた追いかける。途中で転んで泣く。家に帰ってからもグズグズしているので、どうしたの?と問うと、「さみしかった。手をつないで帰りたかった」と言う。
私は何をしてあげられるだろうか。何もしてあげられない。自分が大人になった今は、1人でも別にたいしたことないと思えるが、やはり息子には友だちと仲良く過ごしてほしいと願ってしまう。これから小学校、学童、中学校、塾、高校と多くの出会いが待ち受けるが、息子に楽しい時間を過ごして欲しい。1人だったとしても、孤独に耐える心、孤独を楽しむ力を持ち得て欲しい。私にできることは見守ることだけだろうか。有効な方法があればどうか教えて欲しい。集団スポーツを習わせるとか、3人以上ではなく2人で遊ばせてみるとか、親が思い悩まず何も意識しないほうがいいとか、何でも結構です。よろしくお願いします。
補足
コメントくださった方、ありがとうございます。補足しますと、男の子4人で遊ばせる計画は3週間ほど前から決まっていて、息子に伝えると大変楽しみにして、毎日あといくつ寝ると遊ぶ日が来るの?と聞いて来たほどです。企画時点で息子が嫌がっていたら私も連れて行きませんが、息子が心底楽しみにしている様子でしたので、本当は男の子とも仲良くしたいのだと判断した次第です。先日の遊んだ出来事も、数日経った今は息子はかなり楽しかったと話しており、その日の様子を絵に描き、また遊びたいと何度も言っております。だから、私がくよくよと悩んでいるだけで、気にせず何度も企画すればいいのかとも思ったりもします。
自己アピールなり、自己推薦なり、自己紹介なり、自分を売り込むときが必ずある。
そんな瞬間がたまらなく辛い。
自分には堂々と出来るような実績も、証明も、肩書きも無いからなのだろうか。
それだけじゃない、「自分でこれだけの事をやった」と言い切るような気持ち自体に不快感がある。
結果が出ること自体、タイミング次第で変わったりするもので、それを自分の実力だと言い切れる確信すら得られない。
周囲の助けがあったり、環境の変化、時勢柄、理由を挙げたらきりが無い。
そんな点が繋ぎ合っているだけの現状を、「自分はこんな結果を出した!」と言い切れる事ができない。
通り魔に刺された被害者を横目に、「自分は日頃の行いが良かったから助かった!!!」と誇らしげに語っている様でならない。
たまたま助かったことをさも「自分の実力」と胸を張ることと同じような感覚に陥ってしまう。
「なんでこの程度で褒められるのか?馬鹿にしているのか?」と思ってしまう。
言わないだけで自分の目標点みたいなものはもっと上にあると信じている。
目標値まで着いてないのに評価されても、「自分はもっとできるはず」という気持ちがあって素直に受け取れない。
そんな気持ちが染みついているからか、自分を売り込む時が来ると途端に弱くなってしまう。
なにを売り込んで良いのかわからない。
それだけとしてしか認識できていないので、アピールなんて到底出来ない、している自分が情けない。
当然、人の目につくかどうかが需要に変わっていくわけで、出来ないものは淘汰されていく。
仮に実力がある者だろうと、主張しなければ日の目を見ず終わる。
それが現実。
確かに自分も変わりたいし、売り込みたいのだけれども、どうしても染みついたこの感情を捨てきれない。
語らずとも評価され、行動のみで主張が出来る、そんな立場を目指せば良いのだろうか…?
そうだとすると、まだまだ実力が足りないのだけなのか。
後輩「そういえば〜♪わたしジビエ好きなんですー!美味しくてー!!めっちゃ好きでー!けっこう食べに行くんですー!」
A「ジビエって何?」
後輩「え、ジビエけっこういま流行っててネットとかでも記事になってますよね〜???」
A「へ〜何の肉食べたの?」
後輩「新宿にあるお店でそこそこの値段なんですけど〜肉の種類もいろいろありますよ!けっこうマニアックな感じのとか〜。」
後輩「あ!けっこうクセないんでなんでもいけますよ!わたし結構行っててー、ポイントカードもけっこうたまってきてるから次いったとき500円オフなんです!ほんと好き〜はまった〜〜♪」
AB「・・・そっか〜〜〜〜好きなんだね〜〜〜^^(何肉だったんだろう…)」
後輩が会話のキャッチボールできないから親戚の未就学児と話してる感覚になる。
子供と一緒でよくしゃべる。
子供と一緒で、全然「そういえば〜」じゃない繋ぎ方で会話泥棒する。
まじうるせえ。掘って埋めるぞ。
新規パートがあるとか、本編とは違う結末っていうのなら百歩譲って見に行くのも分かる。
けど殆ど一度見た物じゃん。中には新規パートすらない完全な総集編すらある。また見たいならBD買えよ。
大体アニメ12話を放映時間内にまとめるとかどだい無理があるでしょ。じゃあ前後編にしますってそれもどうかと思う。
ちなみに今まで見た総集編映画で酷かった物
「小鳥遊六花・改 ~劇場版 中二病でも恋がしたい!~」→開幕夢オチ。場面の繋ぎ方がとにかくクソ。初見の人じゃ話を理解できず、視聴済みならぶつぎりな繋ぎ方が気になってしょうがない。二期への繋ぎ。
「劇場版 蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ- DC」→終始イオナのポエムナレーション。後半の新規パート"だけ"は良い。後編への繋ぎ。
「アクセル・ワールド INFINITE∞BURST」→テレビでやった話しか知らずに見たら、いきなり知らないキャラのオンパレード。82分中半分がテレビ24話のぶつ切り編集とナレーションによる説明。それが終わると今度は原作既読者しか楽しめない新規パートが始まる
メスはオスとバンバンやりつづけて自分の体も痛めて次の子供作るより
今居る子供の世話に注力する方が賢い
それに共通の遺伝子を持った子供をある意味人質にとって居るので
オスが離れにくい筈という打算もある
オスもメスも、生まれた子の世話や教育に熱心なほどセックスに積極的でない
お前と嫁は戦略の方が違ったのかもしれんね
子供が生まれた途端妻子を省みなくなり他所でセックスするようになる
父親からのリソースが注がれなくなる為生まれた子供1人1人の生育クオリティは落ちるが代わりに沢山種ばら撒けるという戦略
スザンヌの旦那みたいに何度結婚しても浮気して際しいじめて別れるようなオスはその戦略の遺伝子持ってる
お前の嫁の受胎になったメスがまたセックス好きになることはほとんどない
それだけ出産子育てに慎重なメスは仮に性欲を持つとしても同じオスの子を再度は産まない
最後に嫁が自分でセックスの相手しないくせに他の女をシャットアウトしたがるのは
「描きたいシーンが先にあって繋ぎがおろそかになっている」という評価が下されがちな作品でもむしろ最近好きになる傾向が多くなってきて自分でもわりと不思議だったりする。
昔は自分も「描きたいシーンがあるのは分かるけどそこに至るまでちゃんと説得力のある描写をしろよ」と思っていた方だったのだけども。
なんか「制作側が描きたいシーン」が本当に気合の入った凄い良い場面になってるならもう周囲おざなりでも許しちゃうというか。
以前は説得力がなくて決めシーン見ても白けるだけだったアニメも見返すと「決めるところは決めてるし悪くないなあ」と感じられるようになったので、やっぱ自分の中の受け取り方みたいなもんが変わったのかなと思ってる。
きっかけがあったとすれば、信者化するレベルで本気で好きになった作品が所謂繋ぎスカスカ系だと批判されがちだったことだろうか。
そこまで繋ぎおろそかじゃないよな…と若干落ち着いた頃に見返した時、その「おろそかでない」根拠の一部が自分の脳内補完だったということに気がついて愕然としたのは結構な衝撃だった。
でも結局その見方を変えることは出来なくて、お陰様ですっかり説明されてない部分は自分の脳内で補完する癖がついてしまった。
制作側の甘えを許すダメ視聴者なのかもしれないなあと思いつつ、まあ自分にとってはアニメも娯楽だし楽しんで見れればいいかなと思って今日もアニメを消化している。
この命題はこれから語られる三つの命題のいちばん根本に位置する第一命題である。
神は存在しない。
私たちを私たちの外側から定め、その実在を保護してくれる神というものは存在しない。
今まで神が存在したのは各々の神が一致していると思っていたからだ。
神は存在しない。
私たちは神を信じることで繋がることができる。
各々が各々を各々の世界に繋ぎとめ、各々を各々として生かすことができる。
なぜなら、それは私たちの可能性を封じ、まったく不自由なものにするからだ。
それは近代という神によって、考える葦という自己認識を与えられたからだ。
しかし、人々はこの知恵を授けられた瞬間に、呼吸不全になった。
そのために、私たち個人は一致して、近代という神を自らの不信によって殺した。
しかし、私たち個人は造物主を失った途端に、この世界を失った。
私たち個人は今、究極の虚無に、剥き出しの世界に相対している。
失われた過去を取り返し、
時に神擬きに騙されるかもしれない。
神なんていないと斜に構えたくなるかもしれない。
例えば、ある件でAと言っていたことが、類型の別件ではBと言う。矛盾があるのだ。
そこで、両件はあれこれが共通する類型と言えるので、BではなくAもしくはA'ではないかと提案すると、
いくら共通項が多かろうがある点で異なるのでBだと言う。そう決めたらそうなのだそうだ。
こういう例が数多あり、ストレスが溜まっている。
物事の関係性を多角的に観察して抽象化し、他の類型事案に適用してみることは、僕にとっては当たり前の思考方法だ。
感情をなるべく削ぎ落とし、点と点を線で繋ぎモデル化することが必須となる。
妻のように、ある一面にのみ焦点をあてて条件反射で対応することは、矛盾が生じて対外的な信用を失いかねないだけではなく、
種々の矛盾が重なることで自由な思考に制限がかかってしまったり、経験から知識への変換効率が悪化するように感じている。
最近妻と会話をしていて目に浮かぶのは、様々な事案が雑多に散乱し、その個々に感情が付着することで論理的に分別することができず、
「思い出」で溢れかえった妻の頭の中のゴミ屋敷だ。
何か重いものが入った箱には「重い」、
涙が滲み出るビニル袋には「ステキ」、など、
やれるかも、と思える状況になれた時点でやれる。
だからやっとけ。後悔するなら。
(無理やりは絶対いかんぞ、無理やりは。かまかけてみて嫌がってたらやめろ。少しずつボディタッチを大胆にしていっていけるかどうか確かめるんだ。まずは手繋ぎだ。)
後悔を楽しみたいなら別だ。甘酸っぱいぞ。それはそれでいい。宝になる。
私は地方都市に住んでおり、
どういうことだ?と。
にも関わらず連絡が取れないと空白にした神経が理解できない。
事の発端は、先日、家族が私以外インフルエンザに罹ったことだ。
看病はもちろん家事も行うために、
その後、快方に向かってきたため、
他に出られる日はないか?と連絡が来た。
就活も中断状態になっており、面接の予定も延ばしてもらっている状況だったので
分からないと返信しておいた。
それからしばらく経って、
〇〇日は入れないか?と。
私はそれを無視した。
連絡があったことに気づいたのは
そして私のシフトは空白だった。
再三繰り返すが、
それでも店長は私に言った。
連絡が取れなかったから、と。
『でもどうする?入れるなら入る?』と。
バカにするのもいい加減にしてほしい。
頭がおかしい。
それで入れるなら入る?だと?!
既読スルーだ。
おそらくクビだろう。
しかし、私は間違っているとは思わない。
具体的な社名、屋号は避けるけれども、
生きる意味とは。
はっきりとした答えが欲しい。
そんなものは、得られることがないと 分かっているけれど。
過去の忌々しい記憶を辿れば、それらしい症状は確かに出ていた。
自傷行為をしてみたり、自殺未遂をしてみたり、部屋に何日も引き篭もって外界との連絡を絶ってみたり。
ただ少し、酷くなっているだけなのだ。
初診とは実に厄介だと思う。
ハッキリとしたもの言いは出来ない。しかし、然るべきなにかをしなければならない。
いわゆる"精神科"というところは、そういう所だと、聞いたことがある。
いつか突き当たる病名まで、只管耐えねばならぬそうだ。
決して不満があるわけではない。
ひたすら耳を傾けてもらえるという、その事実だけで、少し、軽くなるのだろう。
軽くなった気分は、全くしていないが。
隙きがあれば、死んでしまいたいと思う。
少しずつ、死への道を作っているのだろう。
身辺を綺麗にしたら、きっとそれは簡単に訪れる。
今はまだ、しがらみが多すぎる。
でもそれらが全てなくなったら、迷うことなど無くなる。
自分の死んだあとの事に、なんの心配も無くなったら、それが行動の時。
目標に向かって使う時間だと考えれば、そう苦痛ともならないだろう。
努めを辞めて、人間関係を綺麗に整理出来たとすれば、あとは人知れず何処かで死んでしまえばいいのだ。
そうやって、冷静に 死への近道を 探している。
確かに残された者は悲しいと思うだろう。
実際、自殺をした友人の話を聞いた時は、ひどく動揺した。
でも、だんだんと、「どうして1人で死んでしまったのか。」「一緒に逝かせてくれれば良かったのに」と
思うようになった。
君は僕の超えられなかった一線を、簡単に超えてしまったんだ、と、泣きながら思った。羨ましいと。
向精神剤が処方された。
薬で何かが変わるのなら、そんな楽なことはないと、思ってしまう。
生まれながらの、性格上の問題だとしたら、薬品に頼ったところで、何の意味もない。
今の状態を他人に話すことすら、ひどく労力を使い、出来ることならしたくない。
説明を求められても、上手く話せる自信は無いのだ。
頭に浮かんだ項目を、纏められないまま垂れ流すようなもので、理解はされない。
そう考えると、伝える意義も見失う。
親しければ親しいほど、情けない状態を曝すことなど出来なくなる。
小さな小さなプライドを、後生大事に抱え込んで大切にしているようなもので
それを失えば本当に自分の生きる意味も、意義も、何もかも失ってしまうのではないかと不安になる。
元々何も持っていないのに、些細なプライドすらも捨ててしまったら
一体自分には、何が残るというのだろうか。
残るものなど、有りはしないんだ。
死にたいと
でも、死にたいと思いながら、生きることを望んでいるのではないのだ。
そこだけは、違うのだと、理解されなくても、信用されなくても伝えなければいけないのだろう。
死にたいと思いながら、生きながらえているのは、死ねない理由があるからだけだ。
今はまだ、死ねない。だから、薬でもなんでも飲んで、やり過ごさなければいけない。
本当は今すぐにでも逃げ出して、死んでしまいたい。
この思考は一度思い付いたら止められない。
それしかないのだと、思い込んで、思考に囚われる。止まらない。
時々それをとても抑えられなくなるときもある。
準備が整ってはいないのだ。
それがなければ、医者になど行かず、どこかでふらっと死んでしまっているだろう。
僕を此処に繋ぎ留めているのが
以前じゃ考えられなかっただろうに。
本来はとても喜ばしいことだが、今は無性に、煩わしくも感じる。
もうあとは、海へ転がり落ちる石ころと同様に
止められないまま身を投げてしまうより他、無いのだろうな。
俺は文の説得力に言及しているのであって、炎上騒動の是非なんて知らんぞ
元増田は自分が第一線で活躍しているクリエイターだと言うことを持論の補強に使っているが
「第一線で活躍しているクリエイター」と言う前提がはっきりしなければ、「私たち」が成り立たない
そうなれば発言の半分以上の説得力が無くなり、結果として私女だけどレベルだと言うことを指摘しただけ
ちなみに編集との打ち合わせで騒動を知ったという内容と、ネットで騒がれているほど第一線のクリエイターたちは気にしていないという現状を知る話が全くかみ合っていない
ここを繋ぎとめるのも、「自分という第一線で活躍しているクリエイター」とそれらのお仲間意識なわけで、前提が確立されていない以上話半分レベル
あるいはハッタリか
どちらにせよ説得力はその程度と言うこと
第一線で活躍しているクリエイターがわざわざ増田で言及しているのに、ネットで言及しているかどうかを確認する事に何か意味あるのか?
V6がテレビガイドとかテレビジョンのお正月特大号で、2017年にライブやりそうな発言をしてたせいで「この曲ライブでやってくれたらうれしい!」とか「この曲やるならこんな衣装だとかっこいいな~!」とか妄想作業がはかどるはかどる。
そんでもって気づいたら一個セットリストみたいなの作っちゃった。「自分による自分のためのV6コンサート2017年ver.」といったところですな。これきと一ヶ月に一回考えたら毎回違うセットリストできると思う(笑)
自分の中での縛りとしては
・Oh My Goodness!に収録されていないそれ以降のシングルはできるだけ入れたい
・「ハナヒラケ」と「足跡」は入れる
・2015年にしっかり歌われてない曲もいれたい
なんだけども、しっかりこの縛りを守れた気がしない!(笑)
というわけで、できたセトリがこれ!↓
SILENT GALAXY
SPOT LIGHT
グッデイ‼
ハナヒラケ
~MC~
Good Life
君がいない世界
君が思い出す僕は 君を愛しているだろうか
涙のアトが消える頃
IN THE WIND
Skys the limit
~アンコール~
僕たちの明日
~アンコール2~
\もーいっかーーーい!!!/
まずそもそもセットリスト考える妄想を始めるきっかけになった曲が【SILENT GALAXY】なんですよ。V6の曲をシャッフル再生しながら部屋の掃除をしていたら、このイントロが流れてきて手が止まった。勝手に脳内でコンサート始まった。このSILENT GALAXYで、まるで各々が六つの国の王集結したところを見せられてるように、壮大に、きらびやかに、ゴゴゴ…ってステージに上がっていたもん。暗い会場になぜか後光がさしてました。照明かな…演出として素晴らしかったわ…
だから、一曲目きっとないだろうけどSILENT GALAXYで静かに、だけどちょっと踊りもいれつつ歌ってもらって、2曲目【Cosmic rescue】、3曲目【BEAT OF LIFE】ガンガン踊って歌ってくれたらテンション一気に上がってブッ倒れちゃうかもしれない。最初の3~4曲くらいはガンガン踊ってほしい。コスレスのあの軽やかなステップで踊るV6大好き!!!!!!(BEAT OF LIFEは踊る前提)
で、そのあと【Don't Stop The Refrain】お願いしたい。「な?!なッ…え?!ここでこれ来たァ?!?!?!?!」ってぶちあがるのが容易に想像できる。最初の森田くんのラップを耳に焼き付けたい。もう感動しちゃって、ペンライトとかうちわとか楽しく振っている暇はない。
そしてがんがん踊っていただいた後は、まさかの【Swing!】。ちょっとここ迷ったんだけど、ここ最近アンコールでしかやってない気がする(私の鳥頭調べ)から本編にど~してもいれたかった…。フリーで走り回ったりするならピッタリかなって思ってここにいれた。森田くんの「さあ手をあげなぁー!」。カワイイね。(お気づきの方もいるかもしれませんが私は森田担です。六人みんな好きだけど!)
そしてアウトロからつながるように【SPOT LIGHT】!最近出た曲だから去年もやってるけど歌詞もいい、曲調もいい、鉄板にしてもぜんぜん盛り上がる!というかまた歌ってほしいんだー!ファンは絶対好きだよこの曲!!
盛り上がり、気分は最高!ってとこで【Train】。ちょっと落ち着くね。でも「ここで…ここでTrainだなんてッ‼︎」って卒倒します。最初の坂本君と森田くんのささやき(?)あれを聞きたいという自分の趣味です。ところでさっきから私何回も意識失ってません…?
その後の【WAになっておどろう】~【ハナヒラケ】の流れは、主観で曲調とイントロアウトロを吟味して並べたものです。歌ってるV6を想像しながら「あ~~ここでこれ歌ってほしい~~この流れイイ~~すてき~~」って考えながら作りました。
MC前の曲は【Beautiful World】がいいな。あの、タラララン♪タラララ♪タタンッ♪(下手)ってアウトロから、イノッチを筆頭に「いぇーい!!」ってなるの想像した。いい感じ!そこからあの楽しい楽しいMCタイムに入るとか微笑ましすぎて口角上がりっぱなしになると思う。
MC明けの曲は【明日は来るから】がいい!CDに収録されていたように入って歌ってほしい。イノッチが「じゃあ、森田くん。ねぇ!そろそろ…(にやにや)」みたいなかわいいフリをして、森田くんもにやにやしながら曲のタイトル紹介するでもなく突然に「じゃあ…ミュージック、スタート。」って言ってファンが「ん?」ってなるの。で、イントロかかって「おおお!」はいありがとうございますこれで次の日も頑張れます。もちろんちゃんとイノッチの「イェ~~~~」まで!
その次の【Good Life】はもう心が洗われる感覚(大げさ?)でいれました。イノッチの「イェ~~~~」からイノッチの「オーグッライ、グッライ、グッライ、グッラアイオーオーーオーーーィェイ」聴けるなんてすごくうれしい!あと、イエ~とかグッライとかホントごめんなさい。
【テレパシー】はパステルカラーとかホワイトとか、優しい色の衣装がいいな。めっちゃ目にいい感じ。椅子とかに座るのかな…立ってても座っててもいいなぁ。
その後の【君がいない世界】は、スポットライトを歌ってるメンバーだけに照らす演出がほしい。森田くんだけ→長野くん岡田くん…みたいな感じで。
で次は【君君】だから、ピアノ伴奏で君がいない世界~君君をうまくつなぐ。なんとかしてうまくつなぎましょう。
涙アトは去年の感じでいい。←雑なつもりはない!!
【不惑】はタキシードみたいなスラッとした、トニセンの抜群スタイルをしっかり堪能できる黒いスーツ(ハットのオプションが付くとなお良し)か、真逆の「日曜日子供と遊園地行く父」みたいなカジュアルな服着てたら嬉しい!ネクジェネ福島公録の時のような…(笑)どっちでも素敵。
不惑のあのばつっとした最後の終わり方から私がワンハーフあるいはフルで聞きたい【IN THE WIND】!ちなみにこのIN THE WINDからSky's the limitまではしっかりガンガンダンスタイムです。最年長が46歳になろうとしているグループだけど坂本くんが「いや…もう無理だわ…俺もう疲れちゃうわ…踊れねえわ…」って言ってるところは全然想像できないので大丈夫かと思います。
【Sky's the limit】でばっちしキマって、「フゥーーーーー↑↑↑」てなったところで私の大好きな曲入れさせてもらいました【キセキのはじまり】。いやでもまあ、自分による自分のためのだから…('▽')Sky's the limitのあの決めポーズのままキセキのはじまりのイントロかかって「うわぁぁ…(泣きそう)」ってなりたい。だって2015年のコンサートで間奏だけだったんですもの!ちょっと悲しかったわよ!
そしてここちょっと複雑で、想像するのも難しかったんだけど(笑)、キセキのはじまりからビリスマの二番のサビ前くらいまでフリーでお客せん(©坂本君)とワーーってやって頂いて、サビで真ん中のステージに集まり踊っていただく!【ビリスマ】のダンス大好きなんでお願いしたい。サビのステップとか何度でもいつまでも見たい…あとはあのLOCKの部分も!
もし本当にあのダンスを見ることができたなら…あ~…ありがて~…(合掌)
ビリスマの次はやっぱ【by your side】でしょ!ここの繋ぎは個人的に絶対!アンサーソングというか、公式で繋がりのある曲とされてますからね。OMGコンの時みたいに三宅くんから何らかの説明があってもうれしいな。
【足跡】はCMでしか聞いたことないんですけど最後の曲にぴったりだと思う。おそらく。曲調も落ち着いてるし、いったんここでしんみりと、歌詞をかみしめながらと曲と歌声を別れを惜しみたい。
でアンコール。【ハニビ】のイントロがかかってお客せん「キャーーー!!!」そののちスライドアップでステージにスタンドマイクとともに出てきてほしい。わらってー!わらってー!わらってー!!バーンっ!ってスモーク?火花?のような特効があったらうれしい!
…で、元気よく【僕たちの明日】。ソロパートも多いからこの曲好きです。なんかわちゃわちゃがあってもおかしくなさそう。
で【愛なんだ】。愛なんだ純粋に笑顔になれる素敵な明るい曲だから、アンコールで盛り上がりたいので入れました。つらい時でも愛なんだ~♪
またいったんはけて、またアンコール。
【上弦の月】のイントロがかかり「エーーー!!キャーーー!!」となりたい。(上弦の月大好き人間です)
そして一曲やって帰ろうとするV6。だがしかし、ファンは「もういっかい!もういっかい!!」コールをやめません。(妄想がものすごくエスカレートしていますスミマセン)
そこでよくやるやつ。2015年で言うと「せーーの?」\もーーいっかーーーい/「はぁらから声ださんかい!!」ってやつ。
そこで【シュガーナイトメア】がいいな。これがほんとの最後。最近聞いてないのを聞きたいというわがままが故に。
三宅くんの投げチューもいつものようにお願いいたします。毎回本当にありがとうございます。
本当に私の趣味・主観・妄想だけでこのセトリはできています。銀テはどこかで必ず飛ばします(雑)。だんだん妄想が激しくなっていますがお許しください!!不快な思いする人がいたらごめんなさい。
これ書いたの疲れたけど、すごく楽しい時間だった。気づいたら一時間半くらい経ってた(笑)
追記