はてなキーワード: 昭和20年とは
昭和20年の大東亜戦争終結以来、我が国は急速な復興を遂げ、GDP換算で世界第2位の経済国家となった。他方で、アメリカ合衆国(米国)を中心とするGHQによって拙速に作られ、我が国民の総意を反映しているとはおよそ言い難い憲法を保持することにより、国民精神の十全な発揚を伴った発展は掣肘を受けた。その結果、近年では共産党政権の一党独裁国家である中華人民共和国(中国)の経済成長に比して我が国経済の成長速度は鈍化し、世界第3位の経済大国という地位に甘んじている。拡大する経済力を基盤とした中国の軍事的拡張と、各地での侵略行為は留まるところを知らず、国際秩序の安定上、予断を許さない状況が続いている。
今こそ、軍事的圧力を背景に押し付けられた借り物の秩序から脱却し、我が国独自の政治・経済・社会的秩序を打ち建てる時が来ている。帝国主義的な拡張路線にひた走る中国、ロシアを凌駕し、我が国民がその潜在力を十全に発揮し、我が国が未来永劫にわたって繁栄を続けるための基本的条件は、古来より連綿と受け継がれたわが国独自の精神文化に立ち戻り、それ基づく政治・経済・社会へと変革を成し遂げることにある。以下ではこうした方針に基づいた変革のあらましを記述し、現在に至るまでの進捗状況について述べる。
現行憲法に起因する政治・社会制度上の根本的な問題は、国民主権あるいは民主主義の名の下に、収拾のつかぬ意見の多数性がいたずらに尊重され、急を要するあらゆる変革への掣肘となり、かえって衆愚政治に堕していることである。したがって、憲法を改正して大日本帝国憲法の天皇主権に立ち戻り、国民の強固な統合を図ることが最も枢要である。この目的に照らしてみれば、基本的人権、結社の自由、信教の自由が制限を受けることは当然である。引き続き憲法改正の議論を提起し、我が国の伝統的家父長制に基づいた国民の統合を進めねばならない。
大東亜戦争終結時、GHQにより天皇制廃止の議論が起こり、その方向で新憲法が起案された。先代天皇は連合国最高司令官マッカーサー元帥と面会し、象徴としての天皇制存続を取り付けることに成功した。天皇主権の国家が次に戦争をひきおこし、他国に国土が占領される事態に至った場合、万世一系の天皇家は確実に廃絶されるという教訓を、この経験は天皇家に与えた。
今上天皇はこの教訓を遵守し、天皇主権の憲法へと改正を進める論議が起こるにあたって、自らの退位によってこの流れを断ち切ろうと試みた。しかし象徴天皇制下において、このような越権行為は断じて許されるものではない。天皇が象徴となった現在、新憲法下で天皇主権の意味するところは、天皇に助言を行う内閣主権であり、ひいては、内閣の長たる内閣総理大臣の主権でなくてはならない。こうした主権の移譲が円滑に行われるよう、憲法改正の議論は続けていかなくてはならない。
現行憲法下での平等は機会の均等を国民に保障する根拠となったが、これはかえって我が国の発展を妨げることとなった。国家が永続的な発展を続けるには、強いものがさらなる発展を続けることが、より合理的である。したがって、豊かなものがさらに豊かに、強いものがさらに強くなるよう、あらゆる方面において既存の有力家への支援を一層拡大することが枢要である。
進捗度: 順調に推移している。
イノベーションとは畢竟、知的、金銭的、社会的な多様な資本の集約を要する。資源の限られたわが国において、すでに成長を遂げた企業への支援を継続することが最も合理的である。税制や労働法制の改革はこの路線に沿って行われなければならない。
強いものがさらなる発展を続けることが合理的である以上、国民の間に所得によって階層の分化が生じることは必然である。低所得者の納税額は高所得者に比して低いため、利用可能な福祉サービスを減らすことが合理的である。福祉サービスの削減について合意を得るためには、強いものは努力によって強くなったのであり、弱いものはみずからの怠惰からそうなったのであり、自己責任であるという当然の理路について、国民により一層の教育を図る必要がある。
進捗度: 順調に推移している。
科学技術は国家の経済的、軍事的発展を支え、国家の威信を高めるものでなければ、その存在意義を持たず、財政的援助を受ける必然性がないことは論を俟たない。したがって、産業への応用可能性が最も高い分野に集中的な投資を行い、投資の正味現在価値に対する監視を強め、投資判断と組織の改編は迅速に行うべきである。
我が国が独立独歩で中国およびロシアと軍事的に対抗するためには、軍事産業の育成が急務である。したがって、大学等の高等研究機関において軍事研究への投資を拡大し、軍事産業の発展に必要な技術および人材の育成をさらに進めるべきである。
大学における学問の自由は、天皇主権国家の発展を妨げないかぎりにおいて認められる。国立大学については財政上、人事上での国家の関与を一層強化し、国家の経済的、軍事的発展へ大学が確実に資するよう政府は導かねばならない。
進捗度: 順調に推移している。
http://www.meti.go.jp/committee/summary/eic0009/pdf/020_02_00.pdf
各論点はバズワード満載で耳触りが良いので、TLでは、概ね「今の論点がまとまっている!」や「日本ヤバい!」、「熱い!」みたいに、資料に肯定的な論調が目立つ。しかし、違和感を持つ人も少なくない。違和感の正体はなんなのか。
まず、経済産業省の資料として、一番不安を煽るのは、経済成長について正面から議論していない点。1人あたりの実質GDP成長の効用が逓減したとしても、デフレ環境下での生活満足度が信用できるのか、幸福度が指標としてワークするのか非常に疑問。ましてや経産省が経済成長から逃げてどうする。今では有名な話だが、人口減の先進国も普通に経済成長しており、日本だけが馬鹿真面目にデフレを継続させていて、立ちすくんでいた。
また、経済成長なしでの、資源の再分配は必ず社会的分断に繋がる。この資料では、1.若者への再配分が上手くいってない、2.女性への再配分が上手くいってない、3.高齢者へのパターナリズム的福祉抑制で予算捻出だと思うが、パレート最適はありえない。人口動態から、激しい政治的対立が予想される。高齢者にも現役世代の「産めよ殖やせよ」を忖度させるとする。それを全体主義と言う。
2.国家観の古さ
今更、「誰もが不安を不満を抱えている」(そうじゃないのは、不安や不満を表現できない共産圏くらいでは?)、「人生には目指すべきモデルがあった」(良い大学を出て、官僚になるとか?あと、共産圏)、「人類がこれまで経験したことのない変化に直面」(ここ100年くらいでも、明治20年代の日清戦争前、昭和20年代の敗戦期の方が大きくないか?)など、いろいろ古い。これでは、数十年前からバズワード(今だとAIやIoT、VR)だけ変えて立ち上がる、情報社会論やポストモダン社会学である。
行政が生活をどう定義しようが、定義した頃には既に生活が変わってしまっている。市井の生活はそもそもダイナミックなのに、今更エリートがそれを「発見」する。80年代、主にアメリカが考えていた、日本の高度経済成長が通産省によるものという神話に取り憑かれてるのではないか(79年ヴォーゲル、82年ジョンソン)。経産省がライフスタイルや個人の幸福に口出しは余計なお世話で、そんな不透明な指標で制度設計されてはたまらない。時代遅れの国家観、国民観は語らず、経済問題に特化すべき。「子不語怪力乱神」というわけだ。
3.具体的な政策
「バズったから議論の土台を作った」とか考えてたら最悪で、単に大衆がバズワードを使ってポジショントークしてるだけ。要は単なるポピュリズムで、当の女性やマイノリティは困惑している。何故ならば、「弱者」として「発見」されて、マウンティングに利用されている気分だから。では、何をすべきか。
そもそも、民主的なプロセスや市場の原理で実行されないことを目指すべき。官僚はそもそも民主的なプロセスで選出されていない。専門的な課題を解決するなは、必ずしも民主的なプロセスは向かないから(e.g.BrexitやTrump)。レポートで指摘するような、世代間の再分配は、確かに国家的な課題なので、1.経済成長を進め、2.馬鹿馬鹿しいポストモダンを捨てて、3.真面目に取り組むべき。
2017年現在、完全雇用を実現しているリフレ政策は、たまたま安倍晋三が、第一次安倍内閣後にマクロ経済を勉強したから実行された政策。全く民主的なプロセスとは関係ない(その継続は高い支持率に支えられて民主的)。短期的には、資産を持つ高齢者に課税して、若者含む雇用を生み出す政策(フィリップス曲線)だか、もちろん、消えてなくなるのも偶然。日本でもマクロンのような、見た目の良い構造改革派によって、民主的なプロセスに則り、消え去る可能性大。
また、日本やドイツのようなメインバンク制の強い国では、ゾンビような大企業でも存続し、新興企業に資金が還流しない。欧米に比べて資金供給が少ないのではなく、中韓などのアジア諸国と比べても後塵を拝しているのは国辱と言ってもいいだろう。もちろん、民主的なプロセスでは、既存の大企業が力を持ちがちだし、新興企業はそもそも争点にならない。これが原因で、生産性の低い、古風な企業に人材が滞留する。自然とto doではなくto beで働くようになり、モチベーションが落ちるわ、自殺するまで会社を辞められない。
シリコンバレーの金融環境も一朝一夕でできたものではなく、徐々に成功企業によるMAが増えて拡大したもの(9割以上はMAによるexit)。中国もBaidu,Alibaba,Tencentの活動に寄るところが大きい。日本でも企業の内部留保もデフレ環境下で拡大したので、資金がないわけではない。MAを行いやすくする環境を、政策により整備すべきである。これにより、流動的なキャリア形成(液状化した笑)の受け皿が整備される。若者や女性と雇用の問題も本質はここ。
2017年の完全失業率は2.8%で、ほぼ完全雇用状態にある。しかし、これはよく言われるが、労働市場が流動的な国では、自然失業率高く出る。国ごとの単純比較で失業の質は分からない。上記の流動的なキャリア形成を実現した場合、当然転職が増えることになるので、失業率は上がる。政治的な争点としては、もちろん批判の対象になるだろうが、雇用の質を改善するには必要な政策。また、現在のハローワークは若干懲罰的で、失業期間を支えるセーフティネット整備も合わせて必要だろう。
ただ、政治的な配慮の上、論点を探られたくなくて、わざと混乱した資料を公開したのであれば相当の策士だと思う笑
興味のある方はこちらもどうぞ
ほら、「ポンヌフの恋人たち」とか、
今年最大のヒットを飛ばした数寄屋橋での男女のすれ違いを描いたメロドラマ(違う)とか、
すずと周作は幼少期に広島の橋で出会って、嫁ぎ先の呉の橋の上で語らい、
シンプルなロマンスだなあと思うだけど、ここで広島の橋に注目したい。
この橋はストーリーには出てこないけど、昭和15年に橋の形がT型に改修されるんだ。
で、その目立つT字型が徒となり、エノラ・ゲイはこの橋を標的に原子爆弾を投下した。
とんでもない、二人のラブロマンスの舞台は広島の惨禍の中心地だ。
でも、この橋は原爆のすさまじい熱線と爆風に耐え、破壊はされたものの落橋しなかったんだ。
終戦後の橋の上で、周作は「この街もわしらももうあの頃にはもどらん 変わり続けて行くんじゃろうが」
すずは「この世界の片隅にうちを見つけてくれて、ありがとう」と、二人は爆心地の方角を見ながら語り合う。
このささやかな物語の中で戦争が始まる前から縁を紡ぎ、終戦後に夫婦の絆を深めた場所に選ばれたことで
パンフレットは売切れてた
転覆事故 | ? →水原さんのお兄さんの件ね。理解 |
新な傘 | たぶん初夜の作法的なことだったはずなのに干し柿を取るのに使ってた |
ご飯が突然二人分になり、夜には一人ないし0.5に | |
なぜ妊娠できなかったのか、誤解したか(痩せるすずさん) | |
白木リンとは | おばあちゃん家の座敷童? たしか回想場面も挿入されてた |
周作の選択した世界とは | ? →別の記事で見た(原作の)リン関係の話? 映画だけだとたぶんわからない |
登場キャラの名前の共通点 | すずさんとリンさん? あとはわからない |
減っていく子供たち | ? |
昭和20年8月に何が起きるか | 来月お祭りのあたりはドキッとした |
あの母親とあの子供 | 最後の? |
点く明かり | 灯火管制? |
なぜ誰かの前で泣かないのか | ? |
隣組が何故挿入歌になって居るのか | ? |
闇市ですずは何を買ったか | 砂糖だけではなくて? |
太極旗の意味 | 別の記事で見た |
すずと徑子の焼けていく肌 | そういえば日焼けしてたかな |
カラフルな煙 | togetterで見た |
妹の腕の痣 | |
謎の怪物 | 籠を背負ってた? ワニもよくわからなかった |
右手 | |
一隻も無い航空母艦 | ? |
青葉の結末 | |
初めて見た飛行機雲 | ? |
まだまだわかってないこと多いみたいだ
で、楽しさ度数は変わると思う。
あれ原作からして説明しないことが多いのだが、アニメもかなり説明しない。
感想検索したらある漫画家?が「原作にあった妊娠シーンが無くて」とか書いてて「ファッ!?」となった。
と、すると…やはりあの作品からどれだけの情報量を読み取れたかで、感想も少し変わるし、疑問点も変わりそうだ。
(君の名は。とかもそんな映画だったな。説明せずにガンガン進んでいく。おばあちゃんがパパを説得してたシーンとか)
アニメシナリオ作家に多い典型的欠点である『説明過多』がむしろもう少しあっても良いほど無い。
でも君の名は。もそうだが、そんなものを望んでたのかもしれない…。果たして自分は、いつも身の回りにある全ての物を理解して生きてるだろうか。
例えばこのシーンが理解しているかで、解釈が変わるのではないか。
全然書き切れてないけど、つまりこういう映画で情報量が半端ない。正直自分も全然把握しきれていない。
説明はしてくれない。だから一度見ただけじゃすべてを捉え切れない。
あのEDロールでアレが周作だと気づかない人も居るとか。
欲を言うなら円盤の方で監督のオーディオコメンタリー(解説説明)をつけて販売してほしいです。
※追記 わかりやすく訂正
リンについては読者は「分からない」って言うだろうけど分からない人は原作見たくなるし
映画だけでも注意してみれば察することができるようになっている
ちきりんの
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20161017
を見て、じゃあ政令指定都市はどうなっているんだと単純に疑問に思い調べてみた。
政令市名 | 市長名 | 生年 | 回数 | 経歴 |
---|---|---|---|---|
網掛け= | 女性市長 | 70歳以上 | 5期以上 | 中央官庁出身 |
札幌市 | 秋元克広 | 昭和31年 | 1期 | 市職員 |
仙台市 | 奥山恵美子 | 昭和26年 | 2期 | 市職員 |
さいたま市 | 清水勇人 | 昭和37年 | 2期 | 県議会議員 |
千葉市 | 熊谷俊人 | 昭和53年 | 2期 | NTT、市議会議員 |
川崎市 | 福田紀彦 | 昭和47年 | 1期 | 県議会議員 |
横浜市 | 林文子 | 昭和21年 | 2期 | 日産、ダイエー |
相模原市 | 加山俊夫 | 昭和20年 | 3期 | 市職員 |
新潟市 | 篠田昭 | 昭和23年 | 4期 | 新聞記者 |
静岡市 | 田辺信宏 | 昭和36年 | 2期 | 市議会議員、県議会議員 |
浜松市 | 鈴木康友 | 昭和32年 | 3期 | 衆議院議員 |
名古屋市 | 河村たかし | 昭和23年 | 2期 | 衆議院議員 |
京都市 | 門川大作 | 昭和25年 | 3期 | 市職員 |
大阪市 | 吉村洋文 | 昭和50年 | 1期 | 弁護士、市議会議員 |
堺市 | 竹山修身 | 昭和25年 | 2期 | 府庁職員 |
神戸市 | 久元喜造 | 昭和29年 | 1期 | 自治(総務)官僚 |
岡山市 | 大森雅夫 | 昭和29年 | 1期 | 建設(国土交通)官僚 |
広島市 | 松井一實 | 昭和28年 | 2期 | 労働(厚生労働)官僚 |
北九州市 | 北橋健治 | 昭和28年 | 3期 | 衆議院議員 |
福岡市 | 髙島宗一郎 | 昭和49年 | 2期 | キャスター |
熊本市 | 大西一史 | 昭和42年 | 1期 | 商社、県議会議員 |
こうして見ると、中央官庁出身者は20人中3人で多くはない。全員中国地方近辺というのは偶然か。
多いのは地方議員(6人)と自治体職員(5人)で合計すると過半数だ。
やはり地方の行政組織や選挙(政治)に密着しているのは強みなのだろう。
民間企業経験者は5人(うち2人はその後、地方議員経験あり)、女性は2人と、
ちきりんの言う「改革派」市長ばかりではないだろうが、都道府県知事と比較してみると概ね、
・若い
・期数が短い
・中央官僚は少ないが、政治・行政出身が多いことは変わらない。
というのは確かだ。
この結果として、非都市部と比べて、住民が利益を受けているのか、不利益を受けているのか、
あるいは、中央と対峙しているのか、そうではないのか、といったことは、よく考えてみると、
とても面白いのではないだろうか。それに、各都市の構造も一様ではない(大阪市と浜松市では中枢性が違いすぎるように)。
また、都市の中の都市である、東京23区の首長の経歴がどうなっているのかも、調べてみると興味深いだろう。
ぜひ誰か調べてみてほしい。
(たぼ)
上方(かみがた)(関西)では(つと)という。女性の結髪の後部に張り出した髪をたわめてつくった部分の称。
日本髪の美しさのポイントとなる部分でもある。中世以降、女性は下げ髪(垂髪)であったが、のち唐輪髷(からわまげ)となって
髷ができても髱はなかったが、江戸時代初期の被(かぶ)り物禁止以降、素顔で歩くようになって、後頭部に髪をまとめることが
おこり、これを髱とよんだ。当時の髱は鴎(かもめ)の腹の形から鴎(かもめづと)といった。18世紀に入ると、髱が垂れ下がって
着物の襟を汚すところから、髱差しを利用して反り返る形をとるようになり、せきれい髱、雀(すずめ)髱が生じた。
さらに18世紀後半になると、鬢(びん)が張り出してきた結果として髱は小さくなった。また19世紀に入ると鬢が縮小したのに
つれて、髱差しが再度利用されることになった。この結髪法は昭和20年代、洋髪が盛行するまで、和服を日常着とする女性の間に
普及した。
なにしろ九州が未曽有の大災害に襲われている渦中であるから、ひっそりとしか報じられていない印象だが、
安倍晋三が、今日から始まる靖国神社の春の例大祭に真榊を奉納したというニュースが流れている。
参拝は見送ったとのこと。
例のごとく、なぜ参拝しないのか、特亜に配慮なんかするな、戦没者の慰霊がなぜいけないのか、などと
最近はなんだが「マスゴミはなぜいちいちこんなことを報道して騒ぎにするのか?」などという発言も見られるが、
まあ「取り上げれば騒ぎになること」をとりあげるのはマスコミの仕事なのだから、取り上げてあたりまえである。
自分は、靖国神社の存在について、神道の伝統にしたがえばきわめて特殊な神社であると思う一方、
なにかと「首相の参拝実現を!」と叫ぶことには反対の立場である。
というか、首相などということよりも、もっともっと先に実現すべきことがあると考えている。
英霊たちは、岸信介の孫のパフォーマンスなんぞより、今上陛下の御心を待っているはずだ。
先帝陛下は、先の大戦に敗れて以降も、定期的に靖国に親拝されておられたが、1975年11月を最後に靖国を訪れることなく崩御された。
先帝陛下は、その大御心を無視して靖国神社がA級戦犯を合祀したことに対して不快感を持ったれており、
それが親拝されなくなった理由だという説がある
今上陛下がなぜ親拝されないのかということについては、現在の陛下のお立場から考えて、
少なくとも陛下のご在位の間には決して明らかになることはなかろうが、
「もし、今の状況で陛下が靖国に親拝されたりしたら、ハチの巣をつついたような騒ぎになる。
そんなところに、陛下がいかれるわけがない」と答えた、という話を読んだ記憶がある。
となれば、現在、行政の最高責任者である安倍晋三のなすべきは、
自らが「最高権力者でござい」という顔をして陛下を差し置いて靖国に赴くことではなく、
陛下が親拝されるとなれば、やれ軍港主義の復活だのなんのと騒ぐ輩が内外からでてこようが、
それは間違っている。
たしかに、先帝陛下は昭和20年まで大元帥として軍を統率されていたが、
敗戦によって軍服を脱がれて以降、荒廃する日本の各地に赴き、親しく国民と接せられ、
「四方の海 みな同朋(はらから)と 思う世になど波風の 立ちさわぐらむ」という明治大帝の御製を引かれて
その御心を示された方である。
軍服に威儀を正した大元帥陛下でおられるよりも、スーツとソフト帽の姿で民衆に手を振る象徴天皇でおられるほうが、
望みだったのではないかと、畏れ多くも推察する。
もしかしたら、庶民的な君主であろうとしたが故に、君側の奸に疎まれ、挙句は若くして病に倒れた父君
国籍や民族を問わず、先の大戦の悲劇を語り継ぎ、その犠牲者を慰霊することを
自らの責務として精力的に活動されていることは、近年の海外への慰霊の旅の数々をみれば、言うまでもあるまい。
先の大戦に敗れて「象徴天皇」という立場になって以降、日本の天皇というのは
英国の王族などは、軍務につき、結婚式では嬉々として軍服に身を包んでいたりするが、
現在、我が国の天皇はじめ皇族方は、けして軍服などという野蛮な服装に身を包むことなく、
我が国の事実上の軍隊である自衛隊の最高指揮官は内閣総理大臣であるから、その地位にあるものが靖国神社を参拝すれば
現行憲法下で今上陛下が靖国に参拝することが、軍国主義の復活につながるとはとても思えない。
もし、そのことで国内外に誤解があるのならば、その誤解を解くことこそが、首相の仕事であろう。
首相自身が靖国に行かないことで近隣諸国の懸念を防ぎ、陛下の親拝実現に一歩でも近づくのであれば、むしろそうすべきだ。
にもかかわらず、無用に近隣諸国との緊張を高め、陛下を差し置いて自らが靖国に行きたいなどという首相がいたならば、
それは、本当の意味で皇室を敬愛しているのでもなかれば、我が国のことを思っているとは、到底思えないのである。
そもそも現在でも陛下は、伊勢をはじめ、各地の神社や天皇陵を親拝されているし、
宮中では、日夜、神道の形式にのっとって、我が国の安定の民の幸福を祈っておられる。
もちろん、それは「象徴天皇」の「国事行為」ではなく、天皇家の私的な行事としてであって、
その区別は厳格にすべきだろうが。
皇室を敬愛する愛国者のふりをして、近隣諸国へのヘイトスピーチをばらまきつつ「首相の靖国参拝実現」を声高に叫び
結果として陛下の靖国親拝への道を遠ざけ、英霊の御霊の安らかなるを妨げるものは、
愛国者のフリをした不逞の輩というべきであろう。
九州のとある山の中に母の実家があって、そこは市街地から車で何十分という距離。
そういう山奥の村で母は育った。
母には妹がいるが、上に兄3人。
俺は、この母の実家がすごく嫌いだった。
全員、憎み合っていて、叔父や叔母には子供の頃から理不尽な暴言や馬鹿にされたような言葉をかけられていたから。
母以外の兄弟たちは全員上京し、大阪か東京に住んでいるが、殆どがうまくいかなかった。
ありていに、社会に適応できなくて職を転々としたり、人間関係屋金銭関係でトラブル多発の人生を送っていたのだ。
高度経済成長機をすごしたもろに団塊世代の彼らなのだが、本当に人格が歪んでいて言葉が悪く、子供相手でもひどい言葉を投げつけ合う。
昔、自分はなぜこんなに親族が集まる場でおじさんたちに馬鹿にされるのかな。。。笑われるのかなって不思議でわからなかった。
へらへら笑って、にこにこしておじさんの罵倒が収まったあと「あんたにはわからんだろうな、俺の言ってることは」とか言い捨てられて気分を悪くしたものだった。
畑道のすみで虫取りをしていたら、急にスコップで背中を殴られたこともある。
チンピラとかまだ上品なほうで、底辺低俗非常識の塊で、いじめや暴力はあたりまえの社会不適合の集まりだったのだ。
叔父の一人は小学校卒、他は中卒、残りが商業高校卒なので良い職業につけなかった。
叔父の一人はマッサージ風俗店勤めでバツイチ本国に子持ちの中国人嫁を持ち、生活保護費を中国人嫁に徴収されながら関東で暮らしてたまにうちの母に金を無心にくる。
ほかの人々もサラ金にはまったり、夜逃げみたいな生活を続けていた
それで、唯一、大阪で母から生まれて育った俺のことを何不自由ない都会で育った子供といびりたかったんだろう。
子供の頃からすごく暴言を吐かれて、本当に苦痛だった。(でも母も父の賭博で借金を抱えて離婚してからはどん底生活を続けていて、とても自分は裕福な家で育ってるわけじゃない)
ばあちゃんには悪いがばあちゃんの生んだ息子娘たちが俺は大嫌いだったんだ。
ばあちゃんが生んだ子供らは、本当にモンスターばかりなんだよ。
そのモンスターの子である自分も、本当にお里がしれてしまうことを恥と思っている。
ばあちゃんがとんでもない親でとんでもない育て方をしたから、あんなモンスターができたんだよってずっとずっと思ってた。
お正月に帰省しては子供を育てているってアピールをするため、自分を無理やり連れて行く母に「おばあちゃんちに行きたくないよお」って泣いて空港で引きづられていたのをいまでも覚えている。
あの頃から、俺は自律神経がおかしくて病気っぽかったし、(周囲には言えなくてずっと我慢してたけど、最近になってようやく治療に書かれた)、自分がとても大人たちのいじめていい餌になってるってことを無意識に覚えていたんだと思う。
今、俺は成人したけど、叔父叔母たちは祖母が亡くなったのをきっかけに急に連絡を取り合いだしていった。
長男、次男が病気になったり病気の嫁の介護をしなくてはならず苦境に立たされていたからだろう。
そんな奴らが、俺の母に看病や療養費の世話を無神経に頼みに来る。
そして、子供の俺にも援助を言ってくる。
この最低最悪な老害ども、早く滅びればいいのに。
今年もそろそろ終わる。
俺は来年40歳になる。10年前に何してたっけ?どんなことがあったけ?20年前は?
思い出そうとしてみたが、覚えていることはあまりなかった。
そこで大好きなウィキペディアを開いてみたら、おもしろかった。
西暦をたたけばその年に起こった出来事や流行ったものごと、世相がまとめられている。
すげえな。
「おっ」とか「へー」とか「なにそれ」と思った出来事で100年を振り返ってみる。
2014年の10年前と2015年の10年前。
1614年と1615年までさかのぼれば、それぞれ大阪冬の陣と夏の陣までいけるのだが、400年はけっこうしんどい。
とりあえず100年。
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・自衛隊イラク派遣の陸上自衛隊本隊第一陣がイラクのサマワに入る
・関西電力美浜原子力発電所(福井県)で蒸気漏れ事故が発生、作業員5人が死亡
・アテネ五輪(柔道の野村忠宏選手が五輪3大会連続で金メダル獲得)
・「新潟県中越地震」死者68名
2005年(平成17年)
・中部国際空港が開港
・アンゲラ・メルケルがドイツ首相に就任
・1年を通じて1899年以来初めて死亡数が出生数を上回る
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1994年(平成6年)
・関西国際空港が開港
・オリックスのイチローが史上初の1シーズン200本安打を記録
1995年(平成7年)
・警視庁の国松孝治長官狙撃事件(重傷)
・オウム真理教総本部前で村井秀夫幹部が刺殺される
・『新世紀エヴァンゲリオン』放送開始
・俺ハタチになる/この年はテレビばかり見ていた気がする。
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・中曽根首相が首相として戦後初の靖国神社参拝
1985年(昭和60年)
・東京都に新両国国技館が完成、横綱・北の湖が引退
・NTT(電電公社)とJTT(日本たばこ産業)が民営企業として発足
・豊田商事の詐欺事件についてマスコミが取材中、報道陣の前で永野一男会長が暴漢2人に刺殺される
・フジテレビで夕方のバラエティ番組『夕やけニャンニャン』が放送開始
・たこ八郎が水死
・阪神タイガースが日本シリーズで、西武ライオンズを破り4勝2敗で日本一
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1974年(昭和49年)
・永谷園が「あさげ」を発売
・日本赤軍がオランダ・ハーグにあるフランス大使館を占拠(ハーグ事件)
・ウォーターゲート事件でニクソン米大統領辞任
1975年(昭和50年)
・まるか食品が「ペヤングソースやきそば」を発売
・山陽新幹線博多まで開通
・広島東洋カープが初優勝
・イギリス保守党の党首にマーガレット・サッチャー選出
・沖縄国際海洋博覧会開幕
・俺が生まれた
……俺と同い年の人たち
・アンジェリーナ・ジョリー(女優)
・上原浩治(野球選手)
・高橋由伸(野球選手)
・俺(商店街で鮮魚店を経営)
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・本田技研工業が「S600」を発売
・日本人の海外観光渡航自由化。ただし年1度、所持金500USドルまでの制限付き
・東海道新幹線開業
・坂本九『明日があるさ』がヒット
1965年(昭和40年)
・淀橋浄水場廃止
・中国で文化大革命が始まる
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1954年(昭和29年)
・日本の高度経済成長期が始まったとされる年
・NHKが大阪と名古屋でテレビジョン放送開始
・ニッポン放送開局
・琉球放送(RBC)開局
・遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が米国の水爆実験によって発生した多量の放射性降下物を浴びる
・洞爺丸事故
・加藤芳郎の4コマ漫画『まっぴら君』が毎日新聞夕刊で連載開始→2001年終了
1955年(昭和30年)
・武田薬品工業が総合感冒薬「ベンザ」を発売。
・ワルシャワ条約機構結成、冷戦激化
・広辞苑初版発行(岩波書店)
・後楽園遊園地が完成
・自由民主党と日本社会党の二大政党制(55年体制)が始まる→1993年崩壊
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1944年(昭和19年)
・全国の新聞で夕刊が廃止
・日本軍がインパール作戦を開始
・連合軍によるパリの解放
・東海道沖で東南海地震発生/マグニチュード7.9、死者・行方不明者1,223人、建物全壊36520件
1945年(昭和20年)
・ 2月 4日 ヤルタ会談(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)
・ 2月14日 近衛文麿が昭和天皇に早期和平を提案(近衛上奏文)
・ 6月13日 大田実司令官が「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と打電した後自決
・ 6月23日 沖縄守備軍司令官牛島満が摩文仁司令部で自決/実質的な戦闘終結
・ 8月 6日 広島市へ原子爆弾投下
・ 8月 9日 ソ連軍が満州へ侵攻して対日参戦開始
・ 8月 9日 長崎市へ原子爆弾投下
・ 8月10日 御前会議(ポツダム宣言の受諾の可否について)
・ 8月27日 占領軍向け特殊慰安施設の第1号開業(小町園、東京大森)
・ 9月 2日 東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で、重光葵・梅津美治郎らが降伏文書調印(第二次世界大戦終結)
・ 9月25日 外国人記者2名が昭和天皇にインタビューを行う
・10月19日 駅名の表記が左書きに統一される
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1934年(昭和9年)
・日比谷映画劇場開場
・忠犬ハチ公銅像除幕式
・満鉄が大連―新京間で「特急あじあ号」の運転を開始
・東北地方で冷害が発生、凶作被害甚大
1935年(昭和10年)
・築地市場開場
・フランス人民戦線結成
・天理教本部が脱税で捜索
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1924年(大正13年)
・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と良子女王(後の香淳皇后)ご成婚
・日本でメートル法が採用
・阪神甲子園球場完成
・トーマス・マン『魔の山』
1925年(大正14年)
・イタリアのベニート・ムッソリーニが独裁宣言
・日ソ基本条約締結(日本はソ連を承認)
・治安維持法公布
・朝鮮総督府庁舎完成
・上海で五・三〇事件
・広東に国民政府が成立
・鈴木商店(後の味の素)設立
・芦ノ湖にブラックバスが放流
・娯楽雑誌『キング』創刊
……これ読んだ若い頃、スーパーのおさかなコーナーで働いてた。
まな板の上にレモン置いて帰ろうかと思ったな。
なつかしい。
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1914年(大正3年)
・孫文らが東京で中華革命党を結成
・サラエヴォ事件→オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに最後通牒
・『少年倶楽部』創刊
1915年(大正4年)
・第一次世界大戦:ドイツ海軍がイギリス周辺を交戦海域に指定して、Uボートによる無制限潜水艦戦が開始される
・サマセット・モーム『人間の絆』
・芥川龍之介『羅生門』
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数字と固有名詞と記憶と今がごっちゃになって、ちょっと気持ちいい。
自分がさかなクンと同い年なのは知っていたが、ぺヤングとも同い年とは知らなかった。
それと昭和、長いな。
明日も朝早いし、そろそろ寝る。
昭和20年8月6日。祖父は戦争に行っていてもおかしくない年齢だったが、子どもの頃の怪我の後遺症で戦争には行けない身体だったため広島市内の工場で働いていた。
その日その時間に祖父がいたのは広島市の外れの方だったので原爆で目に見える被害はなかったそうだ。
原爆投下から数日後に爆心地付近に行き何日か人探しをしたと聞いている。
戦争が終わると祖父は生まれ故郷の青森に戻り、昭和47年に亡くなった。
祖父は私が生まれる前に亡くなってしまったため祖母や父から聞いた話になるが、病気がちでいろいろと苦労したらしい。
今日は原爆が何なのかを少し理解できるようになった娘と一緒に平和記念式典の中継を見ていた。
「入っていないよ」
「ひいおじいちゃんは入れてもらえないの?」
私は原爆死没者として慰霊碑に奉納されているのは原爆により直接亡くなった方、あるいは被爆者健康手帳を持っていた方だけで
被爆者健康手帳を持っていなかった祖父は、原爆死没者として認定されないと思っていた。
しかし、娘の言葉を受けて調べてみたところ、原爆死没者名簿に登載されるには被爆者健康手帳の有無は問わないそうだ。
ではどのような人が原爆死没者名簿に登載されるのか。広島市のホームページによると
被爆者健康手帳交付の資格があれば原爆死没者名簿に登載してもらえるということだろう。
1 直接被爆者
(1) 広島市内
ア 戸坂村のうち、狐爪木
2 入市者
原子爆弾が投下されたあと、昭和20年8月20日までに爆心地からおおむね2キロメートルの区域内に立ち入った方
3 身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者
(1) 15人以上(病室などの閉鎖された空間の場合は5人以上)の被爆して負傷した者が収容されている収容施設等におおむね2日間以上とどまった人
(2) 被爆して負傷した者5人以上(1日当たり)と接触した人
(3) (1)、(2)には該当しないが、それらに相当する被爆事実が認められる人
4 胎児
私は原爆症と認定されたら手帳が交付されると思いこんでいたが、被爆者健康手帳を持っている人が発病したときに、その疾病が原爆に起因するのかどうかが判断されるということなのだろう。
原爆投下時に広島市内にいた祖父は被爆者健康手帳の交付の資格があったし、原爆死没者名簿に登載の資格もあると思われる。
今年は5507人の方の名前が新たに慰霊碑に納められ、原爆死没者は29万2325人となったという。
40年前に亡くなっている祖父を今更新規に名簿に加えてもらえるかはわからないが、そのうち広島市に問い合わせてみようと思う(今の時期は広島市の担当の方も忙しいだろうし)
今回の憲法改正の話も、これは現実論として、憲法改正をしておかないと、日本のいま置かれている国際情勢は、少なくとも(現行憲法の)出来た昭和20年と――21年頃とはまったく違うんですよと。この状況は。だから、単なる「護憲、護憲」と叫んでいれば平和がくるなんて思ったら大間違いだし、これが仮に改憲できたからといって「世の中はすべて円満に……」ぜんぜん違います。改憲はたんなる手段だもの。したがってこの手段をどうやって現実的にするかっていうときに、いちばん最初に申しあげたように、ウワアーッとなったなかで、狂騒のなかで、狂乱のなかで、騒々しいなかで決めてほしくない。ちょっと皆さんよく落ちついて。われわれをとりまくこの環境はなんなんだと。この状況をよくみてください、というヨロン*というもののうえに、僕は憲法改正っていうのは成し遂げられるべきなんだと。そうしないと[●●●にとって]間違ったものになりかねんと、いうことを思うわけです。
最後に。
僕は、いま「(現行憲法の改正を発議するには衆・参両議院においてそれぞれ)三分の二(以上の賛成が必要である)」という話がよく出てきますけど**――じゃあ伺いますが、ドイツは、ヒットラーは、あれは民主主義によって、きちんとした議会で(賛成)多数を握ってヒットラーは出てきたんですよ。ヒットラーというのはいかにも軍事力で(政権を)取ったように思われる――ぜんぜん違いますよ、ヒットラーは選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒットラーを選んだんですよ。[●●●は]間違えんでくださいね、これ。そして彼は、きちんとワイマール憲法という当時最もすすんだ憲法下にあって、ヒットラーが出てきたんだから。だから、つねに、憲法はよくてもそういったことはありうるということですよ。だからここは、よくよく[●●●の]頭に入れておかないといけないんであって、私どもは「憲法はきちんと改正すべきだ」とずっと言い続けてきてますけど、そのうえで、これをどう運営していくかって、これはかかって皆さんが選ぶ――投票する――議員の行動であってみたり、またその人たちの持っている見識であったり、矜持であったり、そういったものが最終的に決めていくんだから。
私どもは、周りにおかれている状況は、きわめて厳しい状況になっていると認識していますから、それなりに予算で対応しておりますし、事実、若い人の意識は――今回の世論調査でも、20代、30代の方がきわめて前向き。いちばん足りないのは50代、60代。ここにいちばん多いけど、ここがいちばん問題なんです、私らからいったら。なんとなくいい思いをした世代、バブルの時代でいい思いをした世代が。ところが、今の20代、30代は、バブルでいい思いなんて一つもしていないですから。記憶あるときから就職難。記憶のあるときから不況ですよ。
この人たちの方が、よほど喋っていて現実的。50代、60代、いちばん頼りないと思う、喋っていて。おれたちの世代になると、戦前・戦後の不況を知っているからけっこう喋る。しかし、そうじゃない。
しつこくいいますけど、そういった意味で、憲法改正は静かに、みんなでもう一度考えてください、どこが問題なのか。きちっと書いておれたちは(自民党憲法改正草案を)作ったよ。べちゃべちゃ、べちゃべちゃ、いろんな意見を何十時間もかけて作り上げた。そういった思いがわれわれにある。
そのときに喧々諤々やりあった。30人いようと、40人いようと、きわめて静かに対応してきた。自民党の部会で怒鳴りあいもなく。「ちょっと待ってください、違うんじゃないですか」と言うと「そうか」と。偉い人が「ちょっと待て」と。「しかし、君ね」と。偉かったというべきか、元大臣が、30代の若い当選二回ぐらいの若い国会議員に「そうか、そういう考え方もあるんだな」ということを聞けるところが、自民党のすごいところだなと。何回か参加してそう思いました。
ぜひ、そういう中で作られた。ぜひ、今回の憲法の話も、私どもは狂騒の中、ワーッとなったときのなかでやってほしくない。
靖国神社の話にしても、なんの話にしても、みんな静かに……参拝すべきなんですよ。騒ぎにするのがおかしいんだって。静かに、みんなで――お国ために命を投げだしてくれた人に対して、敬意と感謝の念を払わないほうがおかしいんだから。
静かに、きちっとお参りすればいい。なにも戦争に負けた日だけ行くことはない。いろんな日がある。大祭の日もある。8月15日だけに限って行くから、また話が込み入る。日露戦争に勝った日でも行けって、といったおかげでえらい物議をかもしたこともありますが。
僕は、4月28日――忘れもしません、4月28日。昭和27年。その日から「今日は日本が独立した日だから」といって――月曜日だったかな――靖国神社に連れていかれましたよ。それが私が初めて靖国神社に参拝した記憶です。それからこんにちまで、まあ、けっこう歳くってからも毎年一回必ず行っていると思いますけれども、そういったようなものでいったときに、ワァワァワァワァ騒ぎになったのはいつからですか、これは。昔はみんな静かに行っておられましたよ。各総理大臣もみんな行っておられたんですよ、これは。いつから騒ぎにしたんですか。マスコミですよ。違いますか、みなさん。いつのときからか騒ぎになった、と私は思う。騒がれたら中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。だから「静かにやろうや」というんで。憲法もある日気がついたら――ドイツの、さっき話してましたけども――ワイマール憲法もいつのまにか変わってて、ナチス憲法に変わってたんですよ。誰も気がつかないあいだに変わったんだ。あの手口、学んだらどうかね、もうちょっと。ワァワァワァワァ騒がねえで。ほんとにみんな――いい憲法ー―これがいいって――そういう――みんな納得してあの憲法は変わってるからね。だから、ぜひそういった意味で……僕は民主主義を否定するつもりもまったくありませんし、しかし私どもはこういったこれ、重ねていいますが、喧騒のなかで決めないでほしい。
* 輿論なんだか世論なんだかよくわからない。「納得」あたりをみるに世論か。
** 氏のこれらの発言は2013年7月29日に都内で行なわれた、国家基本問題研究所の7月月例会「日本再建への道」に於けるものである。同研究所の理事長は櫻井よしこ氏。
http://anond.hatelabo.jp/20110710020804
だいたいゆとり世代って何なのだ。別にゆとり世代という特別な性質がある訳じゃなく「近頃の若いもんは」の現代的用法だ。昔は「新人類」という言い方もあった。
そもそも昭和時代には「学校の勉強なんかできても仕事の出来には関係ない」と言われていた。だからたとえゆとり教育が量的に不足する物だったとしても、使える・使えないに直結するはずはない。
百歩譲ってゆとり教育が色々な意味で十分なものでなかったとしても、問題はゆとり世代側だけにあるのではなく、上司や先輩にもある。
上司・先輩にあたる30代後半〜40代は量的に潤沢な昭和20年代中盤〜30年代生まれのの先輩や上司から色々と指導を受けることが出来それを自分の物とすることが出来た(悪いところも含めて)。
一方30代後半〜40代は自分たちが上司・先輩世代になる過程で、日本は少子化が進みそもそも部下・後輩世代が少なくなり、部下・後輩指導を実践するチャンスを失った。
さらに悪いことに産業構造や技術の変化・革新で、自分たちが受け継いできた物が一気に陳腐化した。
人口減少と技術革新を所与の条件として業務プロセスを改訂しなければならないのに、多くの企業では旧態依然とした仕組みを崩そうとしなかった。いや、できなかった。再構築しようにも、対応する力などないのだ。50代の人なら逃げ切りを考えるだろうし、40代の人は自分で仕事をしなければならないので部下指導などやってられない。30代は非正規が多く死にかけている。要するに部下・後輩に対する指導力は消滅した。
ゆとり世代の人はそれより上の世代の人と比べて能力が劣ることはない。経験がないだけだ。ゆとり世代に対する揶揄とはいわば経験がないことについて責められているようなものだ。
そして、これは誰かのせいではないのだが、若い世代の人が成長するまで待つ時間的余裕が圧倒的に少ない。
しかし経験がないことは有利でもある。今、日本は、過去経験したことのない時代に突入している。経験という先入観に従っていては、為すべきことを見誤る可能性がある。
もちろん旧世代の持っている経験が全く役に立たない訳ではない。そういうのは上手く聞き出して利用してやることだ。
私は40代の社会人としてゆとり世代の方を適切に指導できなくて申し訳なく思っている(もっとも、指導する能力も不足しているのだが)。
ゆとり世代の方は決して腐らず、学び続けてほしい。
ttp://www2u.biglobe.ne.jp/~t-tutiya/cgi-bin/sf2_diary/sf2_diary/
沖縄返還に関する日米合意文書の行方が追われている。
結論を言えば、誰かが「廃棄」したに決まっている。誰が考えても国益に反する文書を廃棄するのは当然。
では、その合意に基づいて、我が国の平和と安全が守られてこなかったと言うのか。
アメリカの核の傘の下にあるから、日本を敵国扱いしている国も手を出せない。これは事実ではないか。
日本政府がまだ、毅然としているのならいい。しかし、中曽根内閣の時、GNP1%を防衛費が超えるか超えないかで野党は意味のない抵抗をした。そんな防衛意識、つまりは、主権意識しか持ち合わせていない政府の元で、この「合意」がなければ、とっくに竹島どころではない、対馬も奪われていただろう。
テレビのコメンテーターが「アメリカのオバマ大統領も核の均衡による平和の維持に疑問を呈している」と言っている。いつもはアメリカをこき下ろすのに、自分に都合がいいことだけ、断片的に引用する。
では、アメリカは具体的に核の削減を発表したかと言えば、単に「言っただけ」
事実、核の均衡によって、後進国の核武装に対して、その暴発を抑えているのが現実ではないか。
「核反対」と何と、後楽園にあるラクーアの石鹸売り場にあった。石鹸と核がどう関係するのか不思議だし、高価な香りのする石鹸を売り、買われているのは日本が平和だからと言う常識に気付かない、いわゆる「ファッションとしての平和」主張としか考えられない。
我が国はそんな手合いが多い。
国家が占領されればどうなるか、それを知ろうとしない。
占領下、どんな「違法」がまかり通り、日本人の人権も婦女子の貞操も犯されたか知ろうとしない、知っていても知らん顔と言う手合いだ。
無防備都市宣言も非核の町も同じ。
本当にそう思っているのなら、アフガンへ、イラクに行って街頭でそれを説いたらいい。バカにされるか、ゲリラに殺されるか、人質にされるかだ。
核があるから、何とか平和が保たれている。それでも、戦後、100を越えるな内戦、侵略があった。では、核がなければ平和か。
通常兵器での戦争が「残酷ではない」と信じるのは無知から来ている。
確かに核は一瞬にして人を殺す。
では、昭和20年3月10日の「東京大空襲」は残酷ではなかったか。十二分に残虐であり、国際法に違反している。
それを「非核」を唱える連中は、無視をして「非核」を主張する。
近頃ではタレントなどもそんなことを言っているが、世界の軍事情勢も何も知らずに、これまた「風景」としての「非核」を主張しているに過ぎない。
いい気なものである。
第一、非核三原則など、私が子供のころの話だが、そんなことは「あり得ない」と思っていた。
それはそうだろう。わざわざ核を手間隙かけて降ろすはずはない。
政府は正直にあらねばならないと、嘘の権化と言うべき民主党が言っているが、では、民主党に嘘はないか。秘密はないか。
答えはある。私がそれを体験している。
そんなことあたり前ではないか。
朝鮮進駐軍 ※Weblio辞書にて削除予定の為、全文コピー。
http://www.weblio.jp/content/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%B2%E9%A7%90%E8%BB%8D
概要
一般に朝鮮進駐軍と言ったときは、おおむね1945年昭和20年以後に現在特別永住権を持つ在日一世(朝鮮人・韓国人)、もしくは現在日本に帰化または半島に帰国した朝鮮民族によって作られた犯罪組織を指す。 戦後、日本がポツダム宣言を受け入れると日本各地で、婦女暴行、窃盗、暴行、殺人、略奪、警察署の襲撃、公的機関への襲撃、土地建物の不法占拠、鉄道や飲食店での不法行為等様ざまな朝鮮人による犯罪が多発した。 自称「戦勝国民」(正しくは戦勝国民ではない)であると主張し、自らを「朝鮮進駐軍」と名乗り各地で徒党組んで暴れ事件を起こした。GHQの資料にあるだけでも最低4000人の日本人市民が朝鮮進駐軍の犠牲となり殺害されたとされている。
戦後の混乱を利用し、日本刀等の刃物・鈍器以外に多くの銃火器を使用した。銃は三八式歩兵銃や機関銃など盗んだ旧日本軍の武器で武装し組織化を行った。朝鮮進駐軍では旧日本陸軍のパイロットの軍服を好んで着用したが、これは日本兵に対するあてつけとも、日本人(皇民)に対するあてつけとも言わた。 組織ではいくつかの本部設けたが、実際は各地域ごとに部隊名をつけその部隊が、個別に日本人を狙った犯罪行為を繰り返しすことが多かった。 朝鮮進駐軍総本部(在日朝鮮人連盟総本部)はのちの在日本朝鮮人連盟。更にこれが在日本大韓民国民団(略称「民団」)と在日本朝鮮人総聯合会に分かれ、これが現在の民団と朝鮮総連となる。
時代背景
当時の日本では戦場に男手が駆り出され極度の男手不足に陥っており、また都市部においても疎開や空爆による被害で人手が足りない状況が長く続いていた。 また警察組織においても、武器の使用が認められないなど戦後特有の制限があり。戦後朝鮮人犯罪が増加の一途をとどった背景には、このような犯罪に対する抑止力の空白化が背景にあったとされている。いまでは考えられないことではあるが、当時はヤクザ(現在の指定暴力団)が朝鮮人から、日本人の生活を守る役割を一部果たしていた。 この当時は朝鮮人の殆どが実名で暮らしており、通名を使用しだすのは朝鮮の姓に対して嫌悪感や犯罪者といったイメージを日本人が抱くようになってからである。ただしこれは、朝鮮人側からはもともと差別があったからとされている。
朝鮮人による犯罪
朝鮮進駐軍による犯罪は全国に及んだ。特に川崎・大阪・神戸・都心等当時朝鮮人が比較的多かった地域で多発した。特に東京では、原宿等を中心に三八式歩兵銃や拳銃・日本刀等で武装した朝鮮人によって占拠されており、のちに警察やGHQにより鎮圧された。
市民を狙ったものとして白昼に堂々と集団で婦女子に暴行を加えるなど、多数の犯罪行為を行った。拳銃や刃物で武装しており一般市民は無力であり繰り返し行われることも多かったため被害が拡大した。またGHQの調べでは少なくとも4000人の日本人市民が殺害されており、多い説では1万人以上であったとも言われている。
略奪・窃盗・密売・土地の強奪等においても組織的に関与していた。一般の露天商からの強奪や農作物・家畜の強奪(利根川水系の牛の強奪などが有名)等、さまざまな方法で集められた商品が朝鮮人によって売買され、その後の朝鮮人社会の資金源として利用されてきた。その他に、戦後土地建物の所有に関する書類の損失や強引な立ち退きにより土地・建物の収奪も相次いだ。
1945年12月翌1月におきた生田警察署襲撃事件では武装した朝鮮人50人が襲撃し警察署を占拠。翌46年には長崎県警察本部で、在日朝鮮人連盟と名乗る総勢約200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、10名に重軽傷を負わせうち1名は死亡にいたらしめた。46年には国会議事堂前でも集まった2000人の朝鮮人と応援出動した武装警官358名・進駐軍憲兵20名とが銃撃戦に発展。首謀者は軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。1948年4月には阪神教育事件では数千人の朝鮮人によって庁舎が占拠された。これに対して3000名の警官隊を動員して、朝鮮人を庁舎から強制排除し1800名の朝鮮人が検挙された。戦後はこのような事件が日本各地で続発した。
第八軍司令官ロバート・アイケルバーガー中将は、正規の大部隊を治安確保のため朝鮮人に対して街中に簡易陣地を引くなどして配備した。GHQダグラス・マッカーサー最高司令官は「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」と発表するなど朝鮮人に対する取り締まりにおわれた。 昭和26年に浅草で朝鮮進駐軍と思われる朝鮮人が起こした集団暴力事件では、米兵一名が死亡、二名が負傷した。
主な事件一覧
朝鮮進駐軍及びその後の在日本朝鮮人連盟が関わる事件の一覧である。
生田警察署襲撃事件(1945年12月24日、1946年1月9日)
大村収容所脱走企図事件(1952年5月12日~25日、11月9日~12日)
参考文献
横幕胤行、富久公、船越信勝『吹田・枚方事件について』1954年
宮城県警察史編さん委員会編『宮城県警察史 第2巻』1972年
警視庁富坂警察署編『富坂警察署100年史―新庁舎落成記念―』1975年
兵庫県警察史編さん委員会編『兵庫県警察史 昭和編』1975年
仙台市警察史編纂委員会編『仙台市警察史―仙台市における自治体警察の記録―』1978年
李瑜煥『日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実―』1980年
福岡県警察史編さん委員会編『福岡県警察史 昭和前編』1980年
竹前栄治、中村隆英監修『GHQ日本占領史 第16巻 外国人の取り扱い』1996年
コピー終わり。
[本]この世でいちばん大事な「カネ」の話
ttp://d.hatena.ne.jp/fujipon/20090116#p1
幼年時代から苦労を重ねたこともあり、Aは人情家であった。若い者が訪ねてくると、Aは決まって「メシを食ったか」と尋ねる習慣があった。少年・青年時代、満腹感を抱くことが少なかったAだからこその、温もりのある言葉である。Aが人望を集め、高い人気を誇ったのは、その根拠に血の通った人間臭さがあったからであろう。
Aの人身掌握術は天性のものだったかもしれないが、苦労によって磨きもかけられた。一方、Aの官僚操縦術は、昭和20年代に数々の議員立法を手がけたことによって習得されたものだといえる。昭和30年の国会法改正前までは、議員は1人でも法案を提出することができ、その数はきわめて多かったが、実際に成立したものは少ない。しかし、Aはみずから政策の勉強を重ねて低学歴のハンディキャップを克服し、先輩・同僚議員や官僚への根回しを行いながら、道路三法など実に30本以上の法律を成立させている。
もちろん、人心を掌握するため、人一倍、カネも使った。正確にいえば、苦労人のAにとり、カネこそみずからの気持ちを表現する数少ない手段のひとつだったのかもしれない。首相に就任したとき、ある祝賀会で小さな女の子から花束を贈呈されて感激したAは、すぐにその場で財布から一万円札を取り出して渡したという。周囲は驚いたが、それが「A」であった。「政治は数であり、数は力、数はカネ」との台詞からも、「A」が透けて見える。
この「A」って、誰のことだかわかりますか?
OKOK。話は大変よく分かるし筋は通ってると思う。特に誤解はない。
そうすると、あなたと私の立場の違いは、国歌というのはどういう観点から誰が選ぶものなのか、そもそも何のためにあるのか、という点に関する認識の部分だと思う。
以下、三行でまとめ。
・そこで「開き直り」はあり得なくね? (あと最後に大事なこと言った!)
以上終わり。…とりあえず、暇が有れば以下を読んで欲しい。
国民主権の民主主義国家にあって、国歌を選ぶ主体が国民であることはまったく問題がないし(だからこそ国会で国旗国歌法が定められた以上アレが国歌であることを否定はしないけれど)、その際国民でない人には一票を(たとえ間接的であっても)投じることはできない、というのは実際その通りだ。でもそれは純手続き的な意味でそうであるに過ぎないのではないかな。国の「歌」というのは単に象徴として存在するだけではなく、事実様々な場面で歌わされるものでありそれによって国民の自覚を高め団結を強めるための道具であるわけだよね。神棚に飾ってあるだけでなく、事実使う、という。
従ってそれは、大げさに言えば日本という国の国民が持つ「国家観」に関わるものだと思うのだけれど、日本という国は、私の記憶が間違っていなければ、その憲法前文で「国際協調主義」を謳っておるね。
われらは,いづれの国家も,自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて,政治道徳の法則は,普遍的なものであり,この法則に従ふことは,自国の主権を維持し,他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
我々は日本人として『国家の名誉にかけ,全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓』っているはずだと思うんだ。その点から見て、
つまり諸外国の認識がヒトラー=天皇であるかどうかは関係ない話では?
国民が納得するかどうかと、諸外国が納得するかどうかというのは違う話ですし、諸外国が納得しないから国歌として不適格ってのも変な話です。
…と、これを「関係ない」で押し切ることが適切かどうか、私は日本という国家の『名誉にかけて』この主張はまずいんではないかと思うがどうだろう。
さらに言うなら、そういう国際協調を憲法で唱える国が、諸外国から旧戦争指導者とみなされる存在を讃える歌(そうじゃないという解釈は所詮詭弁だと思うね。戦前に教育を受けた人で『君』が天皇を指さないと考える人など一人もいないよ。歌を変えないが解釈だけ都合良く切り替わるなんという説は『味噌も糞も同じにする』ようなものだ。)を「国民統合の象徴」として用いる、というのは、はたして日本という国の『名誉』の問題として、どうなのかね。
もちろんこれは、根っこのところでは天皇制を存置したことと同じ問題ではある。そして、私は先に述べたようにそれが「充分にやむを得なかった」とも考えている。昭和20年のあの時点で、占領軍には天皇制を存置する以外の現実的な選択肢は無かったという考え方に説得力を感じるよ。だから日本人と占領軍はいわば「コソコソと」天皇制を続行した。君が代はその余録で残ったようなものだね。確実に言えるが、敗戦時に天皇制が廃止され天皇の戦争責任が追及されていれば「日の丸君が代」は廃止されていたんじゃないかね。その状況なら「過去を振り返るためにこれは残そう」などという案は一顧だにされなかったことは確実だ。(…ただし、天皇を訴追していれば、軍の武装解除は進まず、結果確実に内戦が勃発していたと思うがね。)
そして多分その事情は現在もなお変化が無いんだな。法制化された現時点でもまだ「君が代」は「コソコソと国歌らしい何か」として存在するのが唯一やむを得ない正しいあり方であり、いかなる開き直りの余地もそこには無い、と考える方が妥当だと思う。開き直った瞬間に、確実に二つ三つと戦後日本を貫いてきた論理が破綻するからね。
天皇制を存置させた以上、君が代をおいて別の国歌を作ることもできず、かといって君が代を大手振って歌うことにも矛盾が残り……というダブルバインドから、我々は免れ得ないんじゃないかな。
いずれにせよ、「過去をきちんと振り返る」ということはとても大事だし、戦争を振り返ることはとても大事だ。その発想には同意する。同じ意味で「(押しつけであろうが無かろうがいずれにせよ唯一の存在としての)日本国憲法を愛し守ってきた戦後60年の日本人」の歴史の重みもきちんと振り返るべき時期にきている気がするんだ。