はてなキーワード: 教条的とは
フランス革命後の議会由来だというのはそうだが、フランス革命後の時点では保守対革新じゃなくて、重商主義者、対弱者重視者だと思う。
消極的自由主義(規制自体をなくす)VS積極的自由主義(結果的に自由に生きられるようにする)
とでもいいが。
ただ、封建主義を破ったあとの自由主義が格差拡大と景気低迷で行き詰まった。
解決策としてケインズ政策(国が国自身の借金、税金、金利政策で需要調整を行う)とマルクス主義(国自身が全部管理する)に分裂した。
上記の重商主義者の枠組みがケインズになり、弱者重視者がマルクスに流れていった。
相対的に自由主義から変化が少ないのがケインズで、変化が多いのがマルクスだから、保守対革新という枠組みになったが派生的なもの。
マルクスは結果的には負けたけど、ケインズもかつ直前にオイルショックがあって新自由主義に乗っ取られた。
で、ケインズ乗っ取り新自由主義が右翼を名乗ってる。だが、うまく行っているものから徐々に変えていくか、教条的に変えていくかであれば新自由主義は革新だ。
ゆえに、1980年代以前のケインズVSマルクスの時代だったら重商主義者=ケインズ=保守VS弱者重視者=マルクス=革新でよかったが、
また、重商主義者対弱者重視について、新自由主義とケインズ主義では、新自由主義=右翼が重商主義者で、弱者重視者=左翼がケインズとなる。
『劇場版 はいからさんが通る 後編 ~花の東京大ロマン~』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨です。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向け。
なんと100点。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。とは言え、これ、評価難しい。良いところと悪いところと混在しつつ、今の自分だからこの点数なんだけど、ちょっと違う自分だったらこの点数は著しく下がっていたんじゃないかと思う。いつにもまして主観的な点数であり他の人におすすめする自信がない。
アニメとしての出来は良かった。演出や音楽なんかも水準以上の仕事をしてたんだけど、キャラデザと脚本と声優の3点がそれ以上の出来だった。しかしそもそもの企画で疑問な点も多々ある。
大体の話原作マンガ『はいからさんが通る』からして相当ボリュームが大きい作品なのだ。TVアニメ42話やっても完結できてないのがその証拠で、その原作を100分ちょいx2の前後編にまとめるということが最初から無理難題。
だから素直に作れば駆け足どころかダイジェスト気味になり、点数なんて30点前後になるのが当たり前だと思うのだ。今回の劇場版は、その問題に対して、脚本とか演出技術とかをぶっこんで善戦してたことは確かなんだけど、それってつまり「ハンデを克服するための戦力投入」に他ならないわけで、100点から先に積み上げていく役に立ったかと言えば難しい。
原作ジャンルは一応ラブコメということになると思うのだけど、原作『はいからさんが通る』には実は様々な要素が詰め込まれている。主人公紅緒と伊集院少尉の間のラブロマンスを中心としつつも、大正期うんちくマンガの側面、スラップスティックなギャグの要素、膨大な登場人物の群像劇、そして女性の自立というテーマももちろん重い。
今回の映画企画では、これを前後編で本当にうまくまとめてある。駆け足感は否めないものの違和感は感じない。このへん優れた原作→映画脚本の特徴でもあって、印象は原作に忠実なものの、実を言えば改変は結構大胆にはいってる。
今回映画で例を上げれば、大震災後の炎上する廃墟をさまようのは映画では紅緒、少尉、編集長という3人なのだが、原作ではさらに鬼島を入れた四人だ。三角関係の描写とその解消をクライマックスの中心に持ってくる構成をシンプルに伝えるため、鬼島は退場させてあり当然セリフも再構成で圧縮されている。
しかし一方でそういう技術的な圧縮だけでは全く追いつかないわけで、群像劇的なキャラクターを絞り、ギャグパートもほとんど捨て去って、映画で残すのは「主人公紅緒を中心とした(はっきり言っちゃえば伊集院少尉と青江編集長との三角関係)ラブロマンス」と「大正ロマン期の女性の自立」というふたつの大きなテーマに絞った。その判断は正解だと思う。
正解だと思うんだけど、じゃあそのふたつが現代的な視点で見て満足な出来に達しているかといえば――この部分が評価に迷った原因だ。
『はいからさんが通る』の原作からそうなので、映画(だけ)の問題点というわけではないのだけれど、個人的な見解で言うと登場人物のメインどころのうち三人がダメんピープルだ。
初っ端から最大戦犯のラリサ=ミハイロフ。ロシア貴族である彼女は、満州出征中に部下を救うために突出して倒れた伊集院少尉を見つけ、その命を救う。しかし戦争の傷跡で記憶を失った伊集院少尉に、自分の旦那(死亡済み)の面影を見出し、都合よく嘘記憶を刷り込みして、自分の夫として病気の自分の世話をさせるのだった。
いやあ、ないでしょ。どんだけよ。しかも病弱な自分を盾にして伊集院が記憶を取り戻したあとも関係を強要するのだ。クズでしょ(言った)。一応言葉を丸めてダメんピープル(女性なのでダメンズではない)と呼んでおく。
じゃあ、そのラリサの嘘の被害者たる伊集院少尉(主人公紅緒の想い人)はどうなのかと言えば、彼もまたダメんピープルなのだった。記憶を失っていた間はまあいいとしても、記憶を取り戻し紅緒と再会したあとも、病弱なラリサの面倒を見るために彼女のもとにとどまり続ける。命の恩人だと言えばそりゃそうなのかもしれないが、周囲の誤解をとくでもなく、未来への展望を示すのでもなく、状況に流されて、紅緒のことが大好きなくせに「他の女性を偽りとはいえ面倒見ている関係」を続ける。続けた上でそれに罪悪感を覚えて、紅緒から身を引こうとする。
それだけなら海底二千マイルゆずってもいいけれど、ラリサが死んだあとは紅緒のもとに駆けつけるあたり、手のひら返しの恥知らずと言われても仕方ない罪人である(言った)。っていうか伊集院少尉とラリサの関係は明らかに共依存でしょ。カウンセリング必要だよ。
とはいえ、主人公紅緒もけして潔白とはいえない。病気のラリサに遠慮をして、二人の間の愛情を誤解して別れを告げられ、告げたあと、心がフラフラしている時期に、少尉の実家を助けてくれた編集長にほだされて交際を宣言。他の男性(伊集院少尉のこと)を心に宿したまま、編集長と結婚式まで行ってしまう。それは伊集院少尉に対してもそうだけど、青江編集長に対してはより罪深い。その嘘はやっぱり問題だと言わざるをえない。
――こういう恋のダメピープルトライアングルが炸裂して、映画の前半は結構ストレスが溜まった(この辺個人差はあると思う)。このダメんピープル共が。問題を解決しろ。
両思いの恋人がいい雰囲気になって決定的にくっつきかけたところで、理不尽なトラブルが起こり二人は引き裂かれる! どうなっちゃうの二人!? 以下次週!! で、次週になってトラブルを乗り越えて、またいい雰囲気になると今度は二人が(独りよがりの)善意から身を引くとか、ずっとお幸せにとかいい出して、誤解のすれ違い。神の見えざる手によってやっぱり二人は結ばれない!
「北川悦吏子だ!」といったけどそれは北川悦吏子女史の発明品というわけではなく、自分の中での代名詞が彼女だと言うだけなのだけど。もっと言うのならば、年代的にみても北川悦吏子が『はいからさんが通る』やら『キャンディ・キャンディ』に影響を受けた可能性は高く、むしろ原点はこちらだ。イライラは軽減されないが。
そんなイライララブロマンス時空において癒やしは青江編集長である。
光のプラスワンこと青江冬星はまっとうで良い人なのだ。登場時は女性アレルギー(と大正時代的な女性蔑視)があったものの、雇用主として新人編集者である主人公紅緒を導き、支え続ける。その人柄に触れて、紅緒に対する愛情を自覚したなら、変にこじれぬように即座に自分の口から誤解の余地のない告白を行う。これ以上イライララブロマの炎症を防ぐその手腕。良いね。
しかも「お前の心に伊集院がいるうちは土足で踏み込まない」「いつかその気になったとき思い出してくれれば良い」といって加護者の立場に戻る。見返りを求めず、高潔で、慈悲深い。癒やしのキャラだ。
読めば分かる通り自分は編集長推し(原作当時からだ)なので、そのへんは差し引いてほしいのだが、ダメんピープルの中にあった彼が一服の清涼剤であったのは確かなのだ。
この映画のおそらく二大テーマである「紅緒を中心としたラブロマンス」はダメ人間どもの間違った自己犠牲でイライラするし(加えて言えば、何の罪科もない編集長の貧乏くじも納得し難いし)、「大正ロマン期の女性の自立」については、無邪気と言えば聞こえはいいが無軌道で体当たり主義の紅緒の迷惑を編集長が尻拭いし続けるという構造なので、本当に自立しているのか怪しく、どっちもそういう意味ではスカッとしない。
でも、そうじゃないのだ。そうじゃなかったのだ。
上映終了後、イライラ&60点だと思っていたら、意外なことに結構穏やかな満足感があったのだ。この気持ちはなんだろう? 不思議な気持ちで、言語化に時間がかかった。
なぜなのか考えた。
やったことや構造を追いかけていく限りイライラキャラではあるはずなのに、可愛い。
現代的に変更したキャラクターデザインと、作画と、なによりその声が印象的なのだ。
作中、紅緒は本当によく「少尉」という言葉を口にする。二言目にはそれだ。
このおてんば娘は作中のセリフの大半が「少尉!」なくらい連呼なのである。伊集院少尉のいるシーンでは脳内その声でいっぱいなのだ。声の表情というか、演技が本当に良かった。
少尉の事で頭がいっぱいで、東京から満州に行き、馬賊の親玉に体当たりで話を聞き、少尉を探して駆け巡る。東京に戻ったあとも諦めきれず、その面影を探して、亡命ロシア貴族にまで突撃を掛ける。紅緒は、たしかに、周囲を顧みない行動主義で、無鉄砲なおてんば娘で、そこにはイライラさせられる要素があるにせよ、少尉を求めてさまよう姿は、涙を一杯にたたえた幼子のように見える。
それでようやくわかったのだけれど、結局紅緒は子供だったのだ。
愛する伊集院少尉とはぐれて、彼を探すために声の限りにその名を呼ぶ子供だった。
それが胸を打ったし魅力的だった。スクリーンのこちらからも彼女を助けたいと思った。
『劇場版 はいからさんが通る 後編 ~花の東京大ロマン~』は迷子の紅緒をハラハラドキドキしながら見守り、応援する映画なのだ。
「大正ロマン期の女性の自立」というテーマに対してイライラするのも当たり前だ。彼女は行動力だけは溢れていて、家を出てしまうわ、死んだ(と思いこんでいた)婚約者の実家に行って支える手伝いをするわ、女性ながら出版社に就職するわするのだが、どれも力が足りずに周囲に迷惑を掛けてばかりで、そういう意味では「自立」はしきれていない。むしろトラブルメーカーだ。でもそんなのは、子供だから当たり前なのだ。
彼女はその実力不足から失敗してしまうけれど、チャレンジをするのだ。失敗はチャレンジの結果であり、チャレンジをするという一点で彼女の幼さは正しい。
前述したとおり自分の推しは青江編集長なのだけれど、彼は作中、何らミスらしきことをしていない。つまり罪がない。罪がない彼が、恋愛において自分の望んだ愛を手に入れられない(紅緒は最終的に伊集院少尉とくっつく)のが納得がいかなかった。その理不尽さにたいして原作読了時は腹がたったのだけれど、今回映画を見終わってしばらく考えたあと、仕方ないのかもと、やっと思うことができた。
なぜなら紅緒は(この映画の物語の期間では)未熟な子供だからだ。その子供である紅緒が、青江編集長という加護者とくっついてしまうと、その保護力のお陰で自立できない。青江編集長は全く悪意はなく、むしろ大きな愛情で紅緒を守るだろうし、その実力がある人だろうけれど、その愛情は空を羽ばたく紅緒にとっては重すぎる。
『はいからさんが通る』は紅緒が自立していく物語ではなくて、未熟な子供である紅緒が、自立のスタートラインに立つまでの物語なのだ。だから作中で自立してないのは当たり前なのだ。
無鉄砲で子供で、何かあればすぐべそべそと泣き、でも次の瞬間笑顔で立ち上がり再び駆け出す紅緒は、この映画の中でとても可愛らしく魅力的だった。
その紅緒は自分の心に嘘をつくという罪を犯し、同じく自分の心に嘘をつくという罪を犯した伊集院少尉と結ばれる。伊集院少尉も少女漫画の約束として「頼りになる加護者」として登場したが、罪を犯して紅緒と同じ未熟者のレイヤーに降りてきた。降りてきたからこそ「これから自立するいまは不完全な紅緒の同志」としての資格を得た。
青江編集長は同志ではなくてやはり保護者だから、どんなに良い人でも、「これから一緒に成長していく同志」にはなれない。
考えてみれば、紅緒が少尉を好きになった理由は「優しい目で見てくれたから」だった。けっして「助けてくれたから」ではない。彼女にとって助けてくれる(実利)は重要ではなく、ただ単にそのとき自分を見ていてくれれば十分だったのだ。
そういう意味で、青江編集長はスパダリであり、伊集院少尉はスパダリから降りて結婚相手になったといえる。宮野Win。「立川オワタぁ!」とか「ちゃんかちゃんかちゃんかちゃんか♪」とか言い出さないんで、格好いい主要キャラみたいな演技だったからな。
そういうふうに言語化が落ち着くに連れて、紅緒の親友・環がしみじみと良かったな。と思えた。
「殿方に選ぶのではなく自らが殿方を選ぶ女になるのですわ!」と女学生時代気炎を上げていた彼女。大正デモクラシーにおいて「女性の自立」を掲げて紅緒とともに時を過ごした親友である彼女。
でも、彼女と紅緒の間にあるのは思想の共鳴なんかではなかったと思う。
「女性の自立」と言葉にしてしまえばそれはどうしてもイデオロギー的な色彩を帯びざるをえないけれど、本作においてそれは、そこまで頭でっかちな教条的なものでもなかったのだろう。
劇場版サブタイトルの元ネタはおそらく菊池寛の短編小説「花の東京」から来ているのだろうけれど、そこで描かれた女性(の自立と言っていいのかなあ)も、現代のフェミニズム的な意味でのそれではなかった。どちらかと言えば「どんな環境でもめげずに生き抜いてゆく」という、ただそれだけのことだった。
それはもしかしたら、現代の価値観ではむしろ非難される態度かもしれない。なぜなら、男性が支配的な社会で「めげずに生きる」というのは、ときにその男性支配社会に迎合しているようにも見えて、原理主義者には利敵行為とされるかもしれないからだ。
でも人間は結局与えられた環境でベストを尽くすしか無い。まだまだ男権社会的な大正期社会も、作中クライマックスで描かれる関東大震災で崩壊した東京も「与えられた環境」だ。
その与えられた環境の中で酔っ払って肩を組み、愚痴を言い合いながらも諦めずに笑い合う同志として、紅緒と環のコンビは尊い。
ことによると、紅緒と伊集院少尉のそれよりも確かな絆があったのではなかろうか?
いつどんなときでも、どんな環境でも、うつむかず、意気軒昂と拳を突き上げて、笑顔で生きていこう! 女学生時代の無鉄砲な友情のそのままに、二人は大正という時代に自分の人生を描いた。
「女性の自立」と主語をおけば、それは成功したり失敗したりしてしまう。でも彼女たちが持っていたのは、成功したり失敗したりするようなものではない。どんな環境でもくじけうず、へこたれず、転んでも立ち上がって歌を歌いだす。それはイデオロギーではなく心意気の問題なのだ。彼女たち二人のあいだにあったのはモダンガールとして時代を先駆ける思想などではない。ただ単に、お互いがかけがえのない友達で、楽しかったのだ。
「女の子は元気よく未来に向かって生きる!」。紅緒が愛しく思えたのは、多分その一点だったし、伊集院少尉が彼女を愛したのもその一点だった。本作では描写が欠如していた伊集院少尉も、そのテーマに沿うなら、大震災後の東京で意気軒昂と未来をつくるべきだ。紅緒同様「未熟者の仲間」になった彼はそれが出来るし、その義務もある(でないと編集長はほんとうの意味で道化者になってしまう)。
キズナアイがNHKのウェブサイトにおいてノーベル賞の解説記事に登場しておりましたが、そのことをきっかけに、千田有紀氏などが指摘をし、さまざまな方面から千田の議論に対する批判が寄せられ、さらには社会学そのものに対する批判もされているところです(これらをキズナアイ論争と呼びます)。
ですが、そのざまざまな批判を読んでいると、「これって実はコミュニケーション不足で、伝わっていないんじゃない?」と思うことが多くなりました。いろいろあって社会学を学んだ人間として、それはちょっと悲しいなという思いがあったので、千田氏の問題提起をちょっと分かりやすくお伝えできればと思います。
筆者は、社会学で修士号を得ています。今は大学から離れているのですが、離れてそう長くはありません。専門は千田とも重なる領域(家族やジェンダー)もありますが、教育やメディアでした。
あくまで、千田の問題提起がどのようなものに基づいて行われているのかを解説するもので、その意見の妥当性とかは議論しません。私個人としては、千田の立場に立てば理解でき一理ある議論ではあるが、だからといって、それは多くの人の理解を得る話法ではないし、その背景事情を一切踏まえていないのは、学術的に一定のポジションにある人のする作法としては疑問を感じているというところです。また、千田の学術的貢献はいろいろな批判があるようですが、私は一定程度は評価しています。
なお、アカデミックの作法は基本呼び捨てですので、ここでも、基本千田として書かせていただきます。
キズナアイ論争のはじまりは、千田の投稿記事です。https://news.yahoo.co.jp/byline/sendayuki/20181003-00099158/]
ちなみに、現在(10月13日)、追記もなされており、社会学者にはそれなりに分かる文章にはなっているのですが、一般の人はなおのこと分かりづらいことになっています。後に公表された、『「表現の自由」はどのように守られるべきなのか? 再びキズナアイ騒動に寄せて』記事による補足を踏まえて、まず、千田の議論の要点をまとめてみましょう。
(1) キズナアイはNHKの解説記事において「相づち」をする役割となっている
(2) 「相づち」をする役割は、従来から女性が担ってきた役割である
(3) 従ってキズナアイの解説記事における役割は、従来の女性が担ってきた役割を担っていることになる
(4) そのことは、理系と呼ばれる分野で活躍する女性などに対して、好ましい状況を生むようなものになっていないのではないか
というところに整理できるかと思います。
社会学、特にジェンダーやフェミニズムを学んだ人だと、この4つの間を頭の中でこうかな?と繋ぐわけですが、普通の人はフェミニズムを体系立って勉強するわけでもないと思うので、「はて?」となるわけです。更にいえば、一つ一つの要点が「え?!」という感じになるかと思います。
千田の議論を理解するためには、とりあえず(1)は正しいものとして引き受けておいてください。そこが正しくないとなると、そもそも議論の前提が崩れてしまい、議論はそもそも成立しなくなってしまうので、ご理解ください。
千田議論を理解するためには、いくつかの知識が必要となります。一つは、千田の専門でもあるフェミニズム、もう一つは会話分析というものです。順に簡単に紹介しておきましょう。
社会学は、社会を対象とした学問です。といえば、早いのですがそれではよく分かりませんよね。社会学は、社会がどのように成り立っているのか、つまり、社会の秩序はどのような形で形成されているのかを探求する学問です。例えば、古典的な社会学、特に日本の戦後の社会学では「農村」が特に注目されました。農村における人々のネットワークや、家族の在り方、そういうものに関心を持っているのが社会学です。
フェミニズムを正確に定義することは困難ですが、フェミニズムを雑にまとめると、「女性の地位を向上させようとする取り組みであったりそれを支える理論」というような言い方ができると思います。歴史的には大きく2つのターニングポイントがあったとされています。それが「第1波フェミニズム」と「第2波フェミニズム」です。
第1波フェミニズムは、1900年代ごろ、19世紀から20世紀へ移りゆくタイミングに起こりました。西欧諸国で主に婦人参政権を獲得する運動が中心に展開され、1920年代にはイギリスやアメリカで実現をすることとなります。(ちなみに、日本はというと戦後に婦人参政権が認められるようになるのですが、新婦人協会や青鞜社の運動は同時代の運動です。)
第2波フェミニズムは、1960年代頃、社会運動が盛んになった時期に、女性らしさへの問い直しが運動として行われます。代表例ではキリスト教社会では長らくタブーとされていた中絶の合法化が挙げられます。また、この時代には女性が自らの自由に性を語るということが積極的になされるようになります。
いずれにせよ、その理論的根底には、女性は男性と同等の状況にないという認識に立っているということがあります。
第1波フェミニズムで焦点化されたのは、法律や社会制度というものでした。第2波フェミニズムはというと、法的制度は平等であっても、職場ではお茶くみに甘んじてしまっているし、男性と同じように性を語ることはできないというような、日常の性差別に特に焦点を当てていくようになるわけです。
現代は第2波フェミニズムの延長線上にあります。#Metoo運動を始めとして、第3波フェミニズムがやってきているというような主張も時折みるのですが、第2波フェミニズムより後のフェミニズムの運動について、多くの社会学者が納得しているような分類はまだ確立していないのが現状です。
上野千鶴子の理論などを理解する上で重要なキーワードが、マルクス主義フェミニズムです。そういう立場だと、だから上野千鶴子はそういう立場なのね、と理解できます。千田議論もとりあえず、マルクス主義フェミニズムで解釈すると、理解がしやすくなると思いますので、こちらを説明します。
(フェミニズムにはさまざまな立場があります。ラディカル・フェミニズムやリベラル・フェミニズム等です。フェミニズムも一枚岩ではないと、理解しておくと良いでしょう。)
マルクス主義フェミニズムとは、先ほど、フェミニズムが女性は男性と同等の状況にないという認識に立っていると説明しましたが、そのような社会状況を生み出しているのは、今日の資本主義社会システムなのであるといいます。で、これを理解するためには家父長制というキーワードを理解しないといけないのですが、本題より長い解説になるので、そこら辺は上野千鶴子の『家父長制と資本制』をとりあえず参照してください。
(上野理論を厳密に言うと、上野は、従前のマルクス主義フェミニズムは教条的であるということで、それを乗り越える必要があると、主張をしています。)
シンプルにいってしまいますと、そのシステム(資本制)の成立と密接に性差別を生む家父長制制度が続くため、性差別は再生産(半分マルクス主義用語ではありますが)されていくということになります。
会話分析というのは読んで字のごとく、会話を分析するというものです。まずは、社会学で会話分析がなぜ重要になってくるのかをエスノメソドロジーというワードを使って説明したいと思います。そもそも、社会学は社会秩序はいかにして可能かを明らかにする学問です。そこで出てくる問いの一つにこの社会で生活を営む人びとがやっていることを、研究者はどのように理解できるのかという問題です。
この問題に答えたのが、ガーフィンゲルという人です。ガーフィンゲルはエスノメソドロジーという手法を提唱しました。エスノメソドロジーというのは、日常で生活している人々が言動をどのように理解し、成立させているのかを、日常で生活している人々の視点に立って記述するという手法です。
エスノメソドロジーは、私たちの当たり前が、いかに「うまいこと」成立しているのかを見せてくれます。例えば次のような実験は非常に有名です。
A 「いや、元気かどうかってことだよ。」
B 「元気かどうかって? どういうこと?」
こんな調子で話されると、本当に調子がおかしくなりそうですが、こういう実験をします。ここで浮かび上がってくるのは「調子」という言葉が、体調や近況を意味しており、それをお互い分かっているという「期待」をもって、Aは会話をしているということです。このような形で、秩序が形成されており、それらは記述可能な形で示すことができるとするというのがエスノメソドロジーです。
会話分析の多くはこのエスノメソドロジーの考え方を踏まえて行われます。つまり、先ほどの会話のスクリプトのようなものを読んで、そのなかで、AとBはどのような「期待」をそれぞれ持っており、そこにどのような秩序があるのか? ということを考えているわけです。
冒頭で、千田議論を強引に4点にまとめました。ここまでの道具を用意すればある程度説明ができます。それぞれの項目ごとにみていきましょう。
そもそも、実在の人物は「先生役」とNHKのサイトでも記載がありますように、ここで想定されているのは「先生」と「生徒」というコミュニケーションです。したがって「生徒役」となるキズナアイは基本的に「相づち」をする役割に当然のことながらなるでしょう。そもそも「生徒」の方が詳しいというのなら、「先生」が「生徒」の役割を担うことになるはずですし、「先生」と「生徒」という形で双方「期待」をもっていることは分かります。別にこれが、男子生徒であろうと、まあこういう会話になるだろうなという感じではありますよね。
これは、先ほどのフェミニズムの議論が役に立ちます。お茶くみとかの補助業務に当たっていたということは、先の説明でもしましたが、今日でも、「相づち」をする役割は、女性となっていることが多いです。例えば、新春の、一体誰がみるのかよく分からない県知事が語る!みたいな番組がありますが、あのとき大抵女性アナウンサーが話を聞いたりしていないでしょうか。このとき、女性アナウンサーは、多くは男性である知事に対して、その発言がしやすいようさまざまな配慮をしながら、質問を重ねていきます。
そこでは、主役はあくまで知事です。アナウンサーが主役となって、知事をいじめていくというような内容になっていないでしょう。これが、でも、田原総一朗との対談だったらどうでしょう。一気に様相が変わってきますよね。また、地元財界と知事の対談だったらどうでしょう。そこに「相づち」はあっても、「相づち」をする役割を知事の対談者は決して担っていないと思います。会話の主体になっているわけですね。地元財界の人が女性でも、この場合だと「相づち」の役割はまあしないかと。
ここでポイントになるのは、知事が一方的に語るというような形式を取る時には、女性アナウンサーがその役割を担うことになり、他方、双方共にしゃべる場合には、女性の活躍機会が途端に減ってしまうというということです。これは、私たちのイメージレベルでも大体共通しているのではないでしょうか。(もちろん、個別具体で違う話も多く、徹子の部屋の黒柳徹子をどう評価するかは難しいところですが。)
もちろん、これは、女性が知事と同等の立場や役割を担っている機会が開かれていないから、そのようにならざるを得ないという側面も当然ありますが、男性アナウンサーがそうそうなっていないということは、一つこのことを証明するものであるとも言えます。
(「相づち」をする役割も高度な役割であるということは決して忘れないでください。)
ここで、議論はもどってきて、キズナアイは「生徒」役ではありますが、「先生」の発言を引き出すという意味で「相づち」をするということで、記事のトップにも出てくる主役のはずが、補助的な業務を担わされていることになります。このとき、キズナアイを女性と見なすと、これまで女性が置かれていた立場、女性が積極的に前に出られる環境に制度上はなっているにもかかわらず、結局はそうはなっていないという状況と重なる部分はあるでしょう。
再び、徹子の部屋の黒柳徹子をイメージすると良いかも知れません。徹子の部屋における黒柳徹子は独特の立ち位置で、徹子の部屋を見て黒柳徹子は単に「相づち」をうつ役割だけではない、ということが理解できるでしょう。なんなら、黒柳徹子の方が目立っていたりします。対談の形式が、黒柳徹子がお客様を招いて話をしてもらうというホスト側であるためであり、従属的な関係になっていないというところに、このキズナアイ対談と徹子の部屋の決定的違いがあるのだろうと思います。
そうして比べてみると、キズナアイは女性の役割を再生産するということになったというわけです。これは、性別役割分業を進めていくものであり、女性にとって活躍の機会が減ってしまうというのがフェミニストたちの主張と結びつけて考えることが可能なのです。
この時、女性は従たる役割を担わされるわけで、その期待が持たれます。そうなると、女性は、主たる役割を担える存在なのにもかかわらず、その期待から、従たる役割を担い続けなければならない、そういった状況にはまってしまうのです。そして、そうした悪循環から脱却しなければならない、というのがフェミニズムの基本的な主張です。
このような女性観で考えられると、女性にとって好ましい立場ではないという千田の主張はそう的外れなものではないということは理解できるでしょう。
千田は議論をするという状況を作り出したことでは成功していると評価できますが、その議論の中で、自らの論理の妥当性を提示し納得してもらえたかというとそうではないと思います。後の対応によるところも多いのですが、それは、実は最初のきっかけともなった記事の一番最後の文章であると私は考えます。
なお10月3日、9時の時点で、スマートフォンから見ると、キズナアイはバストショットしか見えない(パソコンでは、へそなどの下半身が見える)。
この一文が最後にあることで、キズナアイの見た目(容姿)を問題にしたいのか、と思ってしまう人も多いと思います。千田氏は、後の議論でも、キズナアイの役割に焦点を当てており、容姿を問題にしていないといっているのですが、冒頭の太田氏の議論とあいまって、多くの人が混乱したと推察します。そもそもキズナアイってあくまでAIであって性別を超越した存在なはずなのに、性別二元論に回収されちゃうのって、なんだかなと。
さらにいえば、表現の問題に回収してしまったのがかなり難しい問題にしています。表現の問題にすると、結局妥当な表現は何かということに行き着き、その線引きは複雑になってしまい、誰も理解できなくなるため、神々の審判でも仰がなければ、なんとも言えないと思います。
本人が個人的に自説を語るのは「自由」の範疇だが、それを公共空間に置いたらどんな意味をもつのか、少しは配慮すべきだったのでは?
(https://twitter.com/chitaponta/status/1051615591004438529])
お前の新自由主義の定義は実情にあってない。教条的にこうだというのは勝手だが、実際は金持ちが好き勝手にすれば世の中上手くいく以上ではない。
なので、現場が実情に合わせていろいろケアしているのについて、横から金持ちの代弁者が「それは非効率だ、もっと給料下げろ」とやったのが新自由主義的世界だな。
金持ちが好き勝手にすればうまくいくを制御するのは一つは競争。一つは法規。
で、福祉について競争については金だすのは客でなくて国である以上、売値を上げて他にどこにもいきようもない人材に過重労働させても業者は儲かる。
公営、民営どちらがいいか、分野によっていろいろあるが、少なくとも福祉は、多くの客がそれに見合うだけの金を出していない以上フルの民営はなじまないよ。
オタクは自由で放任主義な右翼と親和性が高く、いろいろと口うるさい左翼とは親和性が悪い。
左翼は、その攻撃性でオタクを敵に回した自らの愚かさを悔いるべきと言う言説を最近良く見かける。
その言説について思うところを描いていく。
ヘイトスピーチや所謂「言葉狩り」については、間違いなく左翼と呼ばれる人たちが中心になっている。これらについては、人権の基本である「他人の人権を侵害しない」という原則の問題でもあるが、チャタレイ裁判に関する憲法学界隈からの反論(1)や、大日本帝国時代の児童文学や新聞の規制が言論統制そのものに変化していった前例が示すように、原則、否定するべき物ではない。
また、宇宙の戦士に対して、ファシズム的と言う評価(2)や、さらば宇宙戦艦ヤマトのラストシーンに対しては、それぞれ「軍国主義的」について言及があったことは確からしい(3)。
漫画関係の表現規制で真っ先にやり玉に挙げられる「悪書追放運動」では「軍国主義への回帰」と言う表現が使われてきた(4)。
これらの理由から、オタクが左翼的言説を嫌うことには一定の理由があることがわかる。
チャタレイ婦人事件からずっと、右翼はむしろ表現の規制側に回っていた。猥褻物や公序良俗を使用した最高裁の判決に対しては、保守派を批判する側の法律学者の方からこそ強力な批判が行われていたことを思えば、左翼が表現の自由に不寛容と言うのは、この手の表現の自由に関連する議論の実状からかけ離れているように思える。
悪書追放運動以来漫画の規制では政府与党が応援してきた。悪書追放運動の主体の一つである主婦層の応援をしていたのは、逆コースまっさかりだった当時の政権与党である。
所謂「左」が表に出ていたのは事実だが、思いっきり「右」がそれに乗っかっていることもまた事実なのだ。
84年の衆議院予算委員会で、マンガを規制するための法律の導入を求めたのは自民党の政調副会長だった三塚博氏だし、中曽根総理もそれに大いに賛同していた。
漫画関係でも、保守派の麻生議員とかは、漫画の規制に積極的な人だし、東京都でのマンガの規制が著しく深刻化したのは石原慎太郎が都知事だった期間だ(5)。
漫画に対して公序良俗に関するとして出版禁止のための法整備を実際に行ったのは自民党だ(6)。
つーか、なぜかよく言われる「左翼の側が、オタクの趣味をポルノ呼ばわりして規制している」と言う言説とは裏腹に、実際にオタクの趣味をポルノ扱いして規制しようとしているのは保守政権側のほうが明らかに多い。ってか、実際何度か規制に踏み切っている。
ついでに、戦前でも児童文学の表現に著しい規制が付けられていた。
表現規制の問題を見ていると右も左もオタクとは親和性が悪そう。
それどころか、この10年の間は、マンガの表現規制は保守の側から行われている。
だと言うのに、どう言うわけか保守層が放任主義と誤解している意見が不自然なほど目立つ。
幾度か、マンガの規制の法制化がされるときに反対に回ってきた共産党の立場がない。いや、共産党もちょくちょくマンガの規制するよう求めてはいたから濡れ衣ではないのだが(7)、法制化を阻止するために動いた(8)という一点においては、力が及んでいたかはさておき、むしろ表現の自由については無理解というわけではない。
にもかかわらず、左翼は教条的で何でも規制する頭の固い連中で、保守派は様々な価値観を認めてくれる懐の深い存在という、表現規制の法制化の歴史を紐解くと真逆としか思えない、訳の分からない言説が結構広まっている。
……本当に、どう言うことなの?
理由を考えてみると、実際の活動は兎に角、左翼系の攻撃の方がオタクの方に印象に残りやすかったのが問題なのではないだろうか。悪書追放運動の発言や、ウルトラセブン第12話、ジャングル黒べぇの封印や、さらば宇宙戦艦ヤマトや宇宙の戦士への批判(小説の批評・批判自体はまっとうな活動なのだけど)等、人気作品への影響が大きいこと為、実際の活動量以上に目に付く機会が多かった。
特に、ウルトラセブンの「第12話は欠番とする」と言う趣旨の文言は、兎に角目立つ。簡単に閲覧可能な人気シリーズに、「抗議による封印」の痕跡がポツンと残されているのは、イヤでも目立つ。
また、政府肝いりの団体でも、悪書追放運動の折りは基本的に「左翼」に同調する言動をとっていた。
恐らく、「左翼」の認識が悪くなったのは、ここら編が原因だろう。
その上で、90年代後半から2000年代初頭の「サヨク=人権を御旗に自由を侵害しようとしている連中」とか言う、自由主義史観発のいい加減な認識が、雑な認識と化学反応を起こして、いい加減な認識を加速させたと言うのが実状ではないだろうか。
00年代前半からの10年、警察や保守政権の側からによる表現規制が著しく深刻化していた時期に、そちら側からの影響が殆ど省みられていない現状を鑑みるに、自由主義史観発と言うか、小林よしのり発の「人権を美旗に世界の均質を試みている」と言う趣旨の認識の影響は少なくない気がする。
余談だが、戦前の表現規制に対する反省と言うことで使われた「言葉や表現が問題ではなく、実際に差別をなくすことこそが重要だ」と言う考えが、この保守派への契合に対する触媒になっている節があるのは中々興味深い。
実質的に、差別を助長していたり、差別に根ざしている表現を使い続けることによる、現状の肯定や差別の強化自体は問題にされてしかるべきだ。
キチガイと言う言葉が使われなくなったために、統合失調症の人の気持ちが幾分か楽になったと言う証言もある。言葉を狩っただけで問題が解決されるわけではないが、差別に使われるメインウェポンを使用禁止にすること事態を無価値と断定することも、非常に問題がある考えのように思える。
一方で、一片の理が合っても問題があるのは事実。だからこそ、チャタレイ裁判以降、多くの憲法学者は表現規制そのものを問題にしてきたし、前例がある以上、この手の批判は積極的に行われてよい。
兎に角、「表現を規制する要理も、現状の改善の方が重要」と言う言説が「表現は問題ではないのだから、どんな差別的な表現を使い続けたってかまわない」と言う理屈の正当化に使われ、惹いては、差別語を平然と使い続ける側の心強い理論武装になってしまっているのではないか。
いい加減話を終わらせるために、まとめに入る。
「どんな表現にも寛容な保守と、教条的で表現の規制を押し進めようとする左翼」と言う、表現規制の歴史に多少なりとも興味が有れば噴飯ものの理屈がネットの世まかり押し通ってしまうのは
・60年代の悪書追補運動の折りに、法制化を進める活動家よりも、直接行動を行う「左翼」側の活動の方が目立った
・「セブン12話」や「宇宙の戦士」批判など、容易な「左翼の抗議による作品の封印」の戦果に容易にアクセス可能
・00年代前半、個人サイト全盛期に自由主義史観初の雑な政治認識が流行した
・「表現だけではなく、現状を変える事こそ重要」と言う、それ自体はまっとうな言説の悪用
と言った要素が、悪魔融合を果たした結果ではないだろうか。
(1)浦辺法穂「全訂 憲法学教室」161~163ページ、岡田信弘「憲法のエチュード」86~91ページ
(2)ロバート・A・ハインライン「宇宙の戦士」483~484ページ
(3)牧村康正・山田哲久「「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気」第4章栄光は我にあり、広がりゆく波紋、第10段落
(4)長岡義幸「マンガはなぜ規制されるのか」100~102ページ
(5)長岡義幸「マンガはなぜ規制されるのか」177~180、196ページ
今回の参院選ではいつも以上に左翼陣営から『意に添わぬ投票行動をする人々』に対する罵倒が多かった。
それに対してはてブ等では、
「なぜ左翼は味方になりうる人に罵声を浴びせるのか。そんなことをして味方が増えるわけないじゃないか。非合理的だ」という意見が散見されたが、
これはとても間違っていると言わざるを得ない。
あるいははてブらしくもない、一面的、非リベラル的なものの見方だと言ってしまってもいいだろう。
左翼陣営にとって、「仲間になりうる人に罵声を浴びせる」というのは仲間を増やすうえで非常に合理的、あるいは合教条的行動なのだ。
基本的に、左翼陣営が仲間を増やすときに用いるのはアブラハム宗教メソッドである。
2、それを足掛かりに暴力をもって物理的制圧を行うか、精神的マウントをとる。
3、教化を行う
このような手順になる。
思想の輸入の際にメソッドも合わせて輸入されたのか、それとも敗戦の記憶がバビロン虜囚の代わりになったのか定かではないが、
日本でも左翼陣営が仲間を増やそうとしたときに行われる行動はおおよそこれで説明がつく。
ここまで書けばお分かりいただけるかと思うが、彼らにとって仲間を増やすことと相手を貶めることは不可分である。
仲間を増やしたい『のに』相手を罵倒しているのではなく、仲間を増やしたい『から』相手を罵倒しているのだ。
メソッド的には何も間違っていない。本来ならばこの後に続く、相手を圧倒する物理的暴力や知的能力を持ち合わせていないだけなのだ。
三宅洋平という人を知っているだろうか?
今回の参院選に東京選挙区から立候補していて、演説動画が異例の50万回再生、最近ネットでもちょっと話題になっている人物だ。
出馬当時はほぼ無名で全く話題にもならなかったが、演説動画の再生回数が増えるにつれ、
特にここ数日は区議会議員やブロガーなどそれなりの有名人も批判するようになっている。
確かに彼の考えは未熟だ。
ではなぜそれでもなお彼を支持するのか?
それは彼が「自由」と「対話」とに基づいた民主主義を重視する人物に思えるからだ。
「なんか悪の権化とか、安部やめろとか、安部倒せとかだけでは、
そこに、対話を阻害する要因があるんですよ。
安保法制に反対しているといえば「反日勢力」だの「脳内お花畑」だのと罵られ、
安保法制に賛成しているといえば「アメポチ」だの「ナチス」だのと罵られる。
改憲VS護憲、原発再稼働VS反原発、高齢者VS若年者、正規VS非正規、大企業VS労働者、…。
相手の本当の考えなど知ろうともせず、勝手に都合のいい言い分を想定し「敵」を批判する。
「味方」同士でしか通用しない論理で盛り上がり、「敵」からの批判には耳を傾けない。
そんな言論が硬直化し教条的となってしまっている現代において、
三宅洋平が語る、たとえ意見が違っても相手を尊重するという姿勢、相手の意見をちゃんと聞き、自分の意見をちゃんと言う、
「対話」を通じて問題を解決しようとする古くて新しい考え方はとても貴重なものだ。
しかしそれは彼の周りにいるブレインがダメなだけだと考えている。
したがって今の彼の主張が政策がダメダメなのは周りの仲間、そして彼に色々な知識を吹き込むブレインの考えがダメダメなだけなのだ。
もし彼がそういった陰謀論を盲信する狂信者なら私は彼を支持しないだろう。
でも彼は「対話」を大切にしている。
彼に「それって本当なの?」と疑問を投げかければ、「それっておかしくない?」と批判を投げかければ、
彼はちゃんと知らべ、考え、そして意見を返してくれる。
対話をすることで考えを改めたり深めたりすることができる。
まともで説得力のある現実的な政策に変えていくことが可能なのだ。
これは特定の支援者や組織に縛られた他の政治家では絶対にできない。
というわけで、私は三宅洋平を支持する。
かつて中央の大型私学にいて、現在は地方国立にいる大学関係者です。偏差値の議論がどこぞで上がっていますが。何処にとも書かずに心のなかにあった2つのお話を。
特に地方の大学にいると、それなりにかなり優秀な学生がいる。それこそ2つくらい上のランクを狙えるような。で、なぜ現在の大学にかよっているかを問いただしたところ、親が一人暮らしを許さなかったからという理由が多い。第一志望に落ちたからという理由はあまり聞かない。親が一人暮らしを許さないってのは、少し前までは女子学生に多かったのですが、最近は親にカネがないからか、男女問わず聞くセリフです。
偏差値はその学校に合格する最低ラインです。状況によっては偏差値以上の学生がゴロゴロいる大学も存在します、ってことは受験生らに伝えたい。
多くの予備校が公表する偏差値は、一般入試合格者数です。とくに大型私学を発端として、現在では国立を含む、多くの大学で、推薦、AOなどの複数回入試がとり行われています。
推薦、AO入学生の学力はその大学の偏差値には反映されません。結果どうなるかというと、推薦、あるいはそれに類似した名前の一般入試もどきを乱発させることで、一般入試の枠を狭くすることにより、一般入試の倍率を高めて一般入試合格者の学力を高める、ひいては偏差値を高めることができます。関西のR大学が率先して行ったこの方法は、いまや全国区になっております。
ちなみに推薦、AOで予め合格者を囲うのは、文科省の締め付けによるところも大きいです。文科省は定員より入学者が1.2倍(この数値は今後変更)を超えたら予算を減らしにかかります。なので、推薦、AOで予め入学者数を確定したいという意図が大学にもあります。
私学の場合は国公立の結果次第でかなりの数が逃げられます。そのことを考えると、一般入試合格者数はかなり年度による振れ幅が大きいので、そんな面倒なリスクを取って文科に睨まれるのはヤダという発想です。
で、ぶっちゃけ推薦、AOで入ってきた学生ってのは大学に入ってからがアレなので、内部者としてはできれば減らしたいのです。ただ上の理由があるから一筋縄ではいかない模様。
で、まぁ何を言いたいかというと、偏差値にはかなりの誤差があり、また実際の学生の幅は大学により大きく異なるということです。あまり教条的に見ないほうがよろしいかもしれません。
http://anond.hatelabo.jp/20130323205124
テキトーに取り留めのない長文で批評してみる30後半35病患者の感想。
>男性の場合平気で素面で下ネタを言い出す。若い女性にキモがられても平気。
>健康グッズに金を使い出す。
まあ年代的に健康が気になる年頃だからしょうがない。若い時は気にしないでいいだけで。
むしろ私はジジイ化が行き過ぎたのか逆にテキトーにおだてて流すことが多い。
その結果この人がやけに嫌う「面従腹背」になるわけだが。
Aを立てればBが立たないのは世の常だがそのうちこの人にもわかるだろう。
テキトーに折り合いをつけてやっていくしかないのよ…ってのは多分説教なのかな?
…てのはこの人の言う35病とは違う理由だと思う。あえてそれ以上は言わない。
>面従腹背。いずれにせよやたらと他罰的になる。
人の私に対する裏の評価なんか気にしない。
後、やたらと周りを見て他罰的と思うのなら多分彼の入った会社が悪かったのだろう。
まあ、レストランとかでたまに見かけるかな。関わらぬが吉。
>政府や社会に対して批判的な言動だけど自分では何もやらない。それどころか反原発でもとかをバカにしたりする。
社会が一番困るのは何もしないことだ。
少子化だのなんだのでその辺の恐怖をこの国は現在進行形で味わっているはずなんだけど。
何もやらない人ほど恐ろしいものはない。緩慢な衰退を生み対策のしようがない。
サイレントテロなんて言葉まであるくらいだし。それが嫌なのかもしれないが。
※私は基本無関心派で何もしない人だ。反原発デモもバカにしている。(原発はやむを得ない派なので)
私はいまさら生き方を変える気など全くないが、私みたいなのが増えると確かにこの国はまずかろうとは思う。
まあ、若い人は私みたいなのを反面教師にして頑張って(私もう若くないし笑)。
>あるいは失敗談を茶化して笑い話にする。
これはあるよ。否定しない。
失敗談をネタにして笑いを取るくらいが一番私的に話を持っていきやすいので。
まあ、裏でこの人が思うみたいに「こういうの迷惑」って思われてるだろうかねえ。
少々会社や店で横柄な程度ではああはならない。
世の中ああじゃない老人の方が多いだろう。
周りに抑えてくれる人がいればよかったのだろうけど彼らはちょっと地位が高すぎた。
この辺を例にするのはいささか極端にすぎる。
普通に生きてるなら多少は抑え要素がある。
>俺も今年で34だ。街で見苦しいおっさんおばさんを見かけると「俺もそのうちああなるのか」と非常に憂鬱になる。
なると見た。素質が十分にある。あるいは既になっている。気を付けた方がいい。
http://anond.hatelabo.jp/20130323124047
中二病、高二病、大二病、社二病を乗り越えて患うのが35病だと思う。30代後半から徐々に発症する。
若者のだったつもりがいつのまにかおっさんおばさんの仲間入り。こんな症状が出たら罹患を疑うべき。
正直、頭が禿げるとか加齢臭がするとか脂肪が増えるとか肌が荒れるとか、そういうのは年齢とともにやってくるものなのでしかたがないことだと思う。
でもこういう「会社や店で横柄な態度のおっさん」が年寄りになると、最終的に菅直人や石原慎太郎や田中真紀子みたいなジジイやババアが出来上がるのだと思う。
若いころ「武満徹を殺せ」なんてビラを巻いていた坂本龍一も、今ではすっかり説教クソジジイになっている。
35病の厄介なところは、中二病などと違って年齢を重ねれば重ねるほど悪化していくところだ。
最近は女性だけでなく男性向けにもアンチエイジングが流行っているそうだけど、年をとりたくなければまずは見苦しいおっさんおばさん言動と行動をやめるべきだ。
かく言う俺も今年で34だ。街で見苦しいおっさんおばさんを見かけると「俺もそのうちああなるのか」と非常に憂鬱になる。
「それ年齢関係なくて、そういう奴は若くてもそんなだ」というご意見を頂いている。確かに石原慎太郎も坂本龍一も富野由悠季も若い頃から尊大な嫌なやつだったと思う。
でもこの人ら、年齢を重ねるごとに尊大さが悪化して説教クソジジイになったじゃないですか。これって年齢とは決して無関係とは思えないんですね。人生経験がかえってマイナスに働くというか、成長ではなく老化していくというか。
この文章からにじみ出ていると思うけど、俺も子供の頃から世の中を斜めに見る嫌な子供だった。それが嫌な若者になり嫌な大人になった。このままいけばきっと嫌なジジイになるのだと思う。三島由紀夫が45歳であんな死に方をしたのは、そういうジジイになるのが嫌だったからだと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20130330190713
35病のサンプルとしてリンクしておく
「左翼小児病」は、ロシアの革命家レーニンの本にでてくる表現である。
http://kotobank.jp/word/%E5%B7%A6%E7%BF%BC%E5%B0%8F%E5%85%90%E7%97%85
社会主義運動で、公式論に立って、現実的でない過激な言動をとる傾向。レーニンがその著「共産主義における左翼小児病」で用いた語。
物事を観念的、公式的に考え何でもかんでも教条的に受け取り、カチンコチンにしか物事を考えられない。そして言葉遊びやレトリックに敏感でそれに踊らされたり、相手を踊らそうとしたりする。
左翼小児病という言葉は死語化してしまったが、昨今の左翼の言説をみるに左翼=中二病の等式が成立してしまったのであえてこの言葉を使うまでもなし。