はてなキーワード: マーケティング戦略とは
東大とかみたいにレベル高いところに通っているわけではないし、言ってしまうとMERCH以下の偏差値しか無い大学に居るので「お前が馬鹿だからそう思うだけ」と言われたら説得力のある返しができないのだけれど、それでも大学の授業が薄っぺらいと主張したい。
今年で大学生活も3年目に入り、順当に行けば後期には単位の取得が完了するペースなのだが、得たものが一切ないといえるほど大学での授業内容が頭に残っていないのだ。
単位取得はしているけれど成績という観点から見ればC評価が多く、ギリギリ赤点を避けている現状なので授業内容が頭に入ってないんだろうとも考えられる。
けれども単位取得の肝を担っている学期末テストの内容が『授業中に再生した動画で言及した企業のマーケティング戦略は何だったか?』というのはひどすぎるのではないだろうか。
自慢ではないがマーケティングについては当大学内で比較した場合に限るけれど、ある程度の知識を私は持っていると自負しているが、流石に特定の企業が行っていたマーケティング戦略なんて動画を見ていなかった私に解けるわけがない。
せめて、商品の販売個数を計測する戦略とか書いてくれれば何となく当たりをつけることは出来るが一切とっかかりになる情報がないので授業出席者しか解けないのだ。
授業に出席しないものは、いかなる知識を保有していようとも単位は上げませんと言っているようなものである。
そもそもの話私が大学に行かないのは、授業時間90分のうち、教授の雑談が半分以上を超えていてどのタイミングで本旨に触れるかわからないからである。
教授がゼミ生と一緒に福岡に行った時に食べた食事がとても美味しかった話など、至極どうでもいいのでとっとと必要な話をして終わらせてほしいというのはおそらく講堂にいる生徒全員が等しく思っていることだろう。
適当で面白みのない授業を展開する教授ばかりではないのはだが、どちらが多いかと言われれば上記のようなゴミ教授ばかりである。
こうやって教授を批判するかの言葉を連ねると「彼らは有名大学を出ていて高知能、その話を楽しめないキミは低知能」とマウントを取られる。
しかし東大を出ているとか、有名大学の院を出ているとか私からすればどうでもよいことなのだ。授業がつまらないという事実は私の中で変わることはないのだから。
やっていることは市販されている本(自著であることが多い)を朗読しているだけで、自宅で必要な部分は覚えられる。そんな「教授いる?」と感じるような講義内容でどこに「教授は頭いいなぁ」と感じる要素があるのか。私が異端なだけで世の中の人は資格や肩書だけで知能を判断する、判断基準が外部にしかない人ばかりなのだろうか。
つまるところ大学というのは教育ビジネスであり、肩書を得られるのを対価に金を払って、脳死しながら授業を消化し続ける場所なのだ。
私が声を大にして言いたいのは「大多数の人間にとって大学は一切必要ない」ということ。
企業が大卒を要求していて、大卒の給料が高いからしょうがないので大学に行って卒業しようと考えているだけで、そこで何を学べるかはどうでもいいのだ。
しかし私はそこまで割り切ることができず、大学を学ぶ場所と考えてしまったいたからこうして不満が爆発しているのだと思う。
私は運がいいことに文系大学に進学しているが、小さい頃にパソコンを祖父から貰い、そして2つ上のいとこがネット関係に非常に強かったため影響を受けIT関係に強くなった。
そして大学ではこれまた運がいいことにビジネスに精通した人間たちと仲が良くなり、今後の希望を得た。
情報量を多くする気はないのでこれを読んだ奇特な人は「騙された人間」と私を罵るかもしれないが、それはどうでもいいことだろう。
私の周りは大学に通うことを強く勧めたが、結局それは私に合わず、彼らに合わなければ日々鬱屈とした思いを抱えながら、ただ授業を消化する人生を歩んでいた。
アドバイスに従った結果、得られたのは大学と私が合っていなかったという知見だけである。
このことから「アドバイスと称して意見をぶつける人間は、個人を見ていない」というのが判明する。
彼ら助言をする人間は最大公約数的な、大体の人間にとってベストではないがベター程度にはなるはずという意見をぶつけることで自身の人生の正当化をしつつ、悦に入ってるだけなのだ。
確かに最終的に選択をしたのは私であるが、どれだけの人間が周りの人全てが自分と反対の意見を述べている中、自分の考えを押し通すことが出来るのか。
私は大学生になり人に恵まれたおかげで、本当の考えを通せたのであって、高校生の頃であれば貫くことはできないだろう。
結局、大学の授業が薄っぺらいというのはこの「多様性を認めず一般論を勧める人間」が大学への進学を勧めているからなのだ。
だから教育という存在はまるで利権を貪る団体のように怠惰でありながら肥大してしまった。
大学というのはそもそも専門性の高い話を学び、その専門的技術を社会のために使うのを目的とした教育機関だ。
特に能のない私のような人間が大学に行ったところで卒業したという事実を抱えて企業に入り、一切学んだことを使わないで終わるのが関の山である。
学歴社会は確かにフィルターとして有効な部分もあるが、その企業が学歴フィルターをかけているのが世間にバレればまるで現在の検索エンジンがハックされるようにそこに向けて最適化されてしまう。
つまり大学進学するものは優秀で専門性の高い人間だから採用するというのが前提にあって学歴フィルターは機能していたのに、そこがハックされてしまったがためにバツグンな効果を発揮するとはならなくなった。
ハックされていない採用基準は意図した人材を取得できるため優秀であるが、認知されてしまえばそこに注力できる人間を採用する弱い基準となってしまう。意図しない人材を確保することになる。
起業家の話を聞いてみると「東大生のほうが統計的に話がわかる」と語る。
つまり学歴フィルターは大卒で区別するのでなく、東大生などの超難関校とそれ以外で区別するようにしたほうが建設的だ。(給料も含め)
そうすれば無駄に大学に通う人間も減るし、ビジネス大学も少なくなる。大卒枠を争って貧困に悩む人間も減る。
私が問題提起したいのは以下の2点。
・何も考えずに一般論で「大学はいったほうが良いよ」と個人を見ずに語るやつは口を閉じよう
・企業は大卒で学歴をフィルタリングしても効果が薄いので、給料から難関大学(基準はMERCHかそれ以上?ここはわからない)とそれ以外で分けるべき。もしくは意図した人材を採用できてかつハックされていない新しい採用基準を見つける。
こうして大学が少数精鋭になれば教育者も生き残りをかけて力を尽くし、怠惰で肥えた教授も減ることだろう。
私はとにかく薄っぺらくて意味のない授業が大学から消滅してほしいので、教育機関こそ激戦のビジネス社会のように苦しみながら競争して欲しいと思っている。
確かに科学の力というのは重要だとは思うが、現在私の身の回りで生活に欠かせないと思うものを作っているのは企業であり大学で教鞭をとる人ではない。私が知らないだけで企業にその教授も協力しているのかもしれないが、それなら大学ではなく企業で研究させてもらえばいい。
つまり「安定してるー」とアホ面下げて年に数回、偉そうにゴミみたいな本を書きながら教壇に立つ輩は荒波にも稀ながら淀んだ精神を磨き上げるべきだということ。
そもそも大学はいま腐るほどあるわけだけれど、その全てが科学において必要ではないだろう。それならばなおのこと競争化させて精鋭化させなければいけない、なぜ「研究」という話になった途端嫌儲精神が発作的にでてくるのか。
何度も書いている気がするけれど、その大学の競争化をする上で最も邪魔なのは一般論を振りかざして大学に行かせようとする無能な働き者と大卒でフィルタリングする企業だ。
個人を見ないで、自分の人生訓を元にとりあえず精神でアドバイスするやつは総じて糞だし、対してその人を案じているわけではない。
こうした一般論で武装した人間に対して、正論に感じようが自分の感性と考えを元に対抗できるように成長することが、幸福につながるだろうしひいてはこの薄っぺらい大学の授業の減少につながる。
結局自分達の首を絞めるだけです。
そもそもパーフェクトな機種なんて存在しないんですよ。
iPhoneが優れているわけでもなく国産スマホが優れているわけでもないのです。
新型iPhoneを推しているブログはみんなappleのマーケティング戦略です。
apple→大手広告代理店→二次請け→個人ブロガーのようなピラミッド型が裏に存在しているんですよ。
国内メーカーが萎縮して、外国企業に技術を盗まれて、日本国内でおかしなプログラムが仕込まれた製品が流通する日も現実に迫ってくるでしょう。
出来ることから初めましょう
ちまたで日本語なのに読めないと話題の某Web製作会社代表のあいさつを理解しようと努めてみたがやっぱり読めない。
ていうかそもそも大事なことは何も言ってないから読む必要もないんだが。
この代表さんはビジネス書やマーケティング書ななめ読みしすぎだろw
http://liginc.co.jp/company/message/
2000年初頭に起こった枠組みの変化により様々な溝が取り払われ、各社の中核事業の経済価値が同質化された結果、先の見えない不況が我々の眼前に覆いかぶさってきています。
LIGは自社の強みでもある競争のない未開拓市場での事業展開、
顧客にとっての障害を取り除くことによって利益を創出する事業に集中する事で、安定的な成長を続けています。
『ソーシャル・ネットワーキングの人気者』
我々の資産でもある、知識として蓄積されたSNSにおける情報マーケティング戦略は、継続することで世の中に多様な影響を与えられると信じています。
さらに社員ひとりひとりが複数のポジションをこなすことのできる選手として活躍する事により確立されたリスク分散の手法は、
他業種との提携を積極的に結ぶ事で効率化を図り、いずれ社会における標準規格となっていくと確信しています。
(そんな社員を便利に使うことや外注することをリスクヘッジマネージメントって言っていいんかいw)
現実に必要なものは、自由な発想、機敏さ、そして創造性だと考えています。
縮小される(クライアントのWeb)予算をどのような企画で獲得していくのか、
挑戦を続ける気持ちを持ち続けながら「計画を立てる」「実行する」「行動を評価する」「改善する」という流れで仕事をまわしていくこと、
常に主体性をもって物事を考えて仕事に公平な評価を付与していく。
フォーク・メタルの世界をご存知ですか。フォークってさだまさしでも、ゆずでもないです。民俗音楽です。
メタルとアイリッシュ、中東、サンバから果ては和琴までがマリアージュ。
邪道という人もいるでしょう。でも好きなんだからしょうがない。
シャウトとバスドラ高速ダブルとという共通性が、様々なご当地音楽を消費しやすくする。
まるで共通インタフェースでラップされた個別ライブラリのよう。
各地域の旋律や、楽器への回帰は、背後に政治的メッセージを持つものも多く、掘れば掘るほど奥が深い。
今日はヴァイキング・メタル入門編として、カバー曲含み、比較的キャッチーなものを中心にご紹介します。
「海賊王に俺はなる」よりだいぶ汗臭くて酒臭いですが、お付き合い下さい。
のってきました、どんどん行きましょう。
MADはさておき歌詞は、朝まで乱闘と歌で酒を飲み明かす、本能のままに生きる漢たちのこと。
当時のマーケティング戦略ゆえ、酒場で格闘ドンジャラホイという素敵な邦題がついてます。
原曲は、あのドイツのディスコ音楽グループ「ジンギスカン」がモデルとしたとも言われるボニーM「怪僧ラスプーチン」
ヴァイキングじゃなくちょっとわき道、東欧〜ロシアをイメージした旋律がメタルに映えます。
赤黒に顔を塗り戦士を奮い立たせるアンセム。こちらに個人の和訳があります。http://ameblo.jp/aoyuki1212/entry-11887199554.html
「友よ、悲惨な話しを告げよう」で始まる、裏切りものがなぶり殺される怖い唄。
キールホールは、縄で人を括って船底をくぐりらせるという船上の私刑。PVの結末が...ヨーホーホー。
AVのセックスはファンタジー、というのは今時童貞でも知っていることなのだけれど、知性と理性を吹っ飛ばせたセックスとAVのセックスを混同している非童貞がいるというから驚きだ。
男女300人の絡みを撮影...知性と理性を吹っ飛ばせて見えた境地とは【大橋仁 INTERVIEW】|タブロイド - オトコをアゲるスマホニュース
300人っていう人数をもってSODみたいっていうブコメが多いけれど、本質はそこではないのだよね。
上の記事に当初掲載されていた写真は今は消されているので下のリンク先を見て欲しい。
【注意】スケールが違い過ぎる。300人のセックスを撮影した衝撃作「そこにすわろうとおもう」 - EG
仁王立フェラ()に、男性と女性の身体が垂直に交わる正常位、絵に描いたような後背位。
で、女性は揃いも揃って「感じている」例の表情だ。
流石に流石に。
こういう典型的な「AVらしい」描写っていうのは、際限のない多様性を持つ男性の性欲の中から、最も多数派のものに添うように規格化されたものなわけだよね。
知性と理性を吹っ飛ばせて手堅いマーケティング戦略をトレースするってどうなの。
こういう簡単なことが見えてなさそうで怖い。
IT会社のマーケティング戦略と色々こなしてきた中で1つの法則を見つけました。
これまで出会った飯食うのが遅いやつは、
フラストレーションが溜まる一方。
逆に仕事が出来る人間は一緒に仕事をしていてすごく気持ちがいい。
そういう人間とたまに打ち合わせで飯に行くとやはり食べるのが早い。
中には飯食うのが遅いけど仕事が出来るという人もいるのだろうけど
しかし、上記は俺の主観なのであなたの異論があれば是非ともお聞かせ願いたい。
ゆるキャラをみうらじゅん氏が取り扱い始めたころのことを思い出してもらいたい。
みうらじゅ氏は、「いやげもの」という価値基準をもうけて、もらっても困るたぐいのおみやげを集めていた。
文句をいうわけでもなく、「なんだかいいね」という評価を下すために集めていた。なかなか凡人にはできないことだ。
普通ならば、価値がないといって取り付く島もないところだが、「なんだかいいね」といって集めていた。
そんな当時のゆるキャラは、残念ながらマーケティング的には、効果を発揮していなく、仕事はしているけど、お金を生む状態ではなかった。
多分、マーケティングの訓練を受けていない人が急に白羽の矢を立てられて、やっていたのだと思う。
ちぐはぐで突拍子もなくて、誰も得しない感じ。うっかりすると業者に乗せられてお金だけを取られてしまう。
そんな感じのところもあった。
このシロウト同然のマーケティングのお仕事を手伝うとお金になることに気がついた人がいた。天才だと思う。
村おこし、町おこし、県おこしで、公的な機関からそれなりの金額のお金が出る。
お金を支出するほうも効果がない使い方では、たたかれるので、それなりのプランを提示してきたところにまかせたい。
シロウトは、思いつき、鶴の一声、お金をかけずにできること、これまでやっていたことのようにマーケティングのプランとしては戦略性が希薄なことをしてしまう。
それに比べるとある程度マーケティングの訓練を受けた人や会社の仕事は、一貫した戦略があるためにそれなりに効果を発揮する。
でも、お金がないとできない。
お金がないと、人に依存する構図になり、当たるときは一気に当たるが、こけるときは人もろとも崩壊する。
あやうい運営になってしまうこともある。
グレーゾーンを白として攻めていく力がある。
地域のお祭りにぜんぜん関係のないコンテンツをぶち込んだりする。関係性はないけど人は集まる。
さらに口コミをお金で作ったり、ブクマをお金で買ったり、日雇いで行列を作ったりのようなグレーゾーンのお仕事に抵抗感が低い。
それを仕事にする会社もあるのだろう。多重下請け構造を作って、ばれたら尻尾を切る用意も忘れない。
ゆるキャラにおいてもプロが介在すると、グレーゾーンを攻めてくる。
役所で朝一の仕事がコンテストへの投票になったり、出入りの業者にも協力をお願いする。
道義的にはハテナがつくが、投票のルールが守られているので、インチキではない。
このグレーゾーンを攻める強さがプロであり、シロウトとは価値観がことなる点だ。
プロの仕事としては、バイラルマーケティングはありのスタンスだろう。集客目標を達成する必要もある。新聞・テレビに取り上げられように花火を上げ続ける必要もあるのだろう。
乙女ゲームやテニスの王子様やハガレンのキャラクターにガチ恋していて、夢小説を読みあさっていた。
百合にもはまっていた。ゆるやかなBLにもはまっていた。ファンサイトめぐりが趣味だった。
アニメイトでグッズを買っていたし学校でそれを使っていた。イラスト集、設定資料集、缶バッジ……
当然のように、アニメキャラに満たされるし、グッズは無限にほしいし、アニメできゃーきゃーいっていた。
でも数日の間だけだった。
萌えアニメ、ゲームに出てくるデフォルメされたキャラクターがみんなダメ人間に見える。
この人は童貞こじらせ、この人は共依存、この人は執着心が強い、これは空気読めないタイプ、この人コミュ障じゃん……など
現実世界の感覚が萌えの世界にまで侵食してきて、萌えられなくなってしまった。
アニメイトで売っているアニメグッズのクオリティは恐ろしく低い。
とても買えなくなった。そんなグッズが作られているのが悲しくなった。
予算と人員が足りないと思うので仕方がないと諦めるべきなのだが、どうにもこうにもお茶の濁すにしてもグダグダで、田舎っぽかった。
自由がなかった。閉鎖された村だった。
前科ものなので今でも萌えアニメや乙女ゲームを見ると飛び込みたくなってしまうのだが
昔は勢いで黙殺できていたものが、できなくなった。
俺も30代前半であり、ミソジニーをこじらせた経験がある。ミソジニーっていったって、単なる女性恐怖症なのだが、これはミソジニーなのだが、それはおいておくとして、同年代の男も、またミソジニーをこじらせた。その話を効きながら、俺は本田透の『電波男』から7年くらい経つんだな、ということを考えていた。本田透も、ギャグとして「非モテ」といっていたのが、段々と30代が近くなってから、病的な印象を与えるようになって、あの本を書いた、みたいな話をきいた。
女性か、あるいはこじらせていない男子は覚えておくといいのは、30代になってから、急に「非モテをこじらせて暴れる」ということが往々にしてある、ということだ(ちなみに、これを書いた当初は「翁媼」と誤記してしまっていた)。
今となっては殆ど信じられないが、『電波男』に影響されたのかどうかわからないが、はてなで非モテの議論が熱心にかわされていたことがある。非モテを一言で語ることは難しいが、単純に「モテないという"自意識"を抱えている男」くらいのまとめ方でいいと思う。彼らが定形化した「※ただしイケメンに限る」という言葉は、彼らの"実体"とは余りにもかけ離れているように思われた。自分もちょくちょくとオフ会などで顔を出していたが、半分くらいは、少なくともフェミニズムもどきの話を出来るくらいには、インテリだった。実際に、男性学がどうのこうの、という話をしていた。
その後彼らの人生を見てたら、技術者として大成し、一人の「デベロッパー」として注目を浴びるようになった。また、海外で働くのを選ぶものや、あるいは大企業に勤めたり、あるいは定期的に同人雑誌を出したり、単著を出していた。そういえば革非同ってどうなったっけ?まあいいや。とにかく、そいつらは、殆ど非モテの話をしなくなった。なぜなら、それはもはや「センセーショナル」ではなくなったからだし、彼らは非モテを語ることよりもやるべきことが見つかっただけだ。
それは宇野(当時の仮想敵)か宮台か知らないが、当時に言っていた「小さな成熟」なのかもしれない。ある程度、彼らは自分の「自意識」に折り合いを付けて、卒業した。他人がどうあの空間を気持ち悪いと思っていたとはいえ(あとから、そう話をちらほら聞いた)し、実害を出していた。乱暴にまとめるが、結婚に付いて語るだけでフルボッコにされた。しかしあの頃を考えるに、それはイニシエーションだったのかもしれないな、と思う。要するに、自分の自意識とどう折り合いをつけるのか、あるいは、そういう話を通じて、自分が「モテない」という、主観的な意識を相対化していったように思う。
最近になって、比較的「リベラル」だと思われる男子が、30代を超えて「恋愛について全てを諦める」といい始めた。これが魔法使いの意識なのかとは思ったが、それはいい。彼は社会学の教育を受け、そしううて大学院に入り、ポスドクになったわけだが、急にそういう風にいい始めた。非モテはネタだし、リア充は爆発しろ、というのは若人にとってはネタではあるが、だんだんと周囲が結婚し、子供を生むにつれて、「それをやっていない自分と言うのは、世間から見て劣っているのではないか」と思い始めた。社会学を専門にしている人でもそういうことを思うのか、へぇ、とは思ったが、学問的な含蓄と実践というのが結びつかないのは往々にしてあるのは知っている。それは、鈴木謙介のクズさだし、東浩紀が単なる「哲学に詳しい中小企業のおっさん」になってしまったのと一緒だ。それも「小さな成熟」かもしれないが、それはよくわからない。
それはともかくとして、既に若者には「非モテ」より、ただ「2ちゃんねるまとめ」の気の利いた話を聞いたりしているが、彼らからは「自分がモテないという自意識をこじらせることについて」みたいな話をしているのか、というのは気になるところだと思う。だんだんと論客が減って、そこにこだわっているのはシロクマ先生みたいなものだが、宇野の「サークルクラッシュ研究」と似たようなもので、もう「脱非モテ」みたいなもので、それを語ることはない。まあ、東にしろ、宇野にしろ、単純に言ってしまえば「非モテなんて自意識をこじらせたやつは気持ち悪い」と心の底では思っているだろうから、そんな彼らの悩みなんて触れたくもないだろう。
はてな村が大好きな有村悠は未だに「童貞」をダシにしているが、あれも単純に童貞を捨てたら自分の価値が無くなるから、アイデンティティを必至に守っているだけでしかない。彼もまた「女性がエロ漫画なんて書くわけがない!」というのを定期的につぶやいて、ミソジニーをこじらせているっぽいが、もはやあれも芸であって、「自分の欠点を認めたくないが故に、自分の欠点を認めたフリをする」といったものなんだと思う。とはいえ、男性のホモソーシャル(ようするに男性中心で回っている共同体)なんつーのは、ただそいつが「童貞」だからという理由だけで同情して仕事を与えたりする。
ただ思うのは、そういう話題が出来なくなって、結果として「俺がモテない」という自意識について、半年くらい考える機会というのは、自分の恋愛経験を相対化して、消化して、自分がどうするべきか、について方向性を与える機会というのはあったと思う。チャーチルの名言(これも怪しいものだが)としてよく挙げられている「20歳までに左翼に傾倒しない者は情熱が足りない。20歳を過ぎて左翼に傾倒している者は知能が足りない」という言葉があるが、結局のところ、非モテを続けている人間は、芸風だけになってしまった印象だ。あれだ、童貞.comの人(勝手に検索してくれ)が、なんかロフトプラスワンでイベントをやるたびに女性を食いまくるために、童貞をダシにしていたのと似ている。あとえがちゃんか。えがちゃんという名前を聞くたびに吐き気がする人間は数人知ってるが、彼は上手く企業して、ぼちぼちと受託をこなしているそうで、彼は彼でまた「あがり」になった。
食堂で飯を食っていたところ、慶應大学生らしき学生二人組が隣に座って「俺たち非リアだもんなwwwwあーゼミの発表とか忙しいなー、○○ちゃんノートうつさせてくれねーかな」みたいな感じだ。もしかしたら、そっちのほうが健全なのかもしれない。だって「俺はモテる」というよりは、「俺がモテない」というほうが話題が進むからだ。(前者はただの嫌な奴だが、後者は「なんでーそんなことないのにー」みたいなキャバクラトークになる)
もしかしたら、今の「中途半端に真面目な人間」というか、「真面目系クズ」と呼ばれるような男子は、Facebookか、あるいはTwitterで、5年前と同じことを繰り返しているのかもしれない。これは観測範囲という問題なのだが、あんまりそういう話題をてんで見かけなくなったように思う。最近の流行りはどうやら「意識の高い学生を叩くこと」だが、そこには怨みたいなことはなく、おっさんの説教みたいなことが繰り返されている。俺がよくわからんのは、今のそういう「自意識をこじらせた男子」というのは、何処で話題を深めているのだろうか。それとも、結局これはインテリの遊び事であって、インテリの遊びが、そういう哲学ごっこではなくて、むしろ「売れている作品のマーケティング戦略を分析してわっしょいする」(これをインテリ界隈では「批評」と呼ぶと聞いた。濱野智史の新書はそういう本だって聞いた)ということのほうが楽しいのかも知れない。そりゃそうだ。誰にも頼まれないのに悩むなんてバカがやることだ。
しかし、この手の「リベラルな男子」が自分のミソジニーみたいなものをこじらせたとき、今は何処に行くんだろう?ゲンロンカフェか?まあいいや。こういうことを書きたくなったというだけで、おっさんであり、老害だ。「俺と結婚しろ」と書いて「まってました!」みたいな承認を貰ったほうが、インターネットは楽しくなったというだけだ。むしろそっちのほうが健全なのかもしれない。そういうのを気にするのは、「みうらじゅんは嘘つきだ」という今更の話をただずるずると引きずっているだけなんだろう。
「○○市ね」だの「○○どもをブチ○せ」だの、憤懣をヘイトスピーチとして発散なさる憂国騎士団のみなさま。
それ、逆効果です。
多分、皆様は、嫌いな集団(或いは国)に対する批判を、一まとめに「ヘイトスピーチするな」と頭ごなしに押さえつけられるのが嫌で反発をなさっておられる事と存じます。自分たちの憤懣が封殺されることへの憤りと恐れ、心よりお察し申し上げます。
でも、あなた方のやっている事は、国際的に見てドン引き行為です。先進国では禁止されている恥ずべき行為です。なおかつ、日本語圏に閉じた憂さ晴らしでしかありません。
一方、あなた方の憎む対象をご覧ください。在外国民や移民をも動員して、イメージ向上戦略、マーケティング戦略、そして日本のイメージ悪化に向けてグローバルに、そして各国でローカルに、そして理知的に動き始めているではありませんか。
してみれば、あなた方の現状は、猪武者の放つ罵声でしかありません。一方、あなた方のお嫌いな集団は、調略と外交に余念がなく、日本のイメージ悪化包囲網を構築する事に余念がありません。少なくともあなたがたの脳内では、そういう世界が見えているのではないでしょうか。
世界へとイメージ戦略に打って出るのであれば、内向きとヘイトスピーチの二点は足枷でしかありません。内向きで愚痴っていても世界には届かないし、ヘイトスピーチに及んでいる事を知られれば、皆さんの愛する日本のイメージは悪化する一方です。
ですから、不愉快なことがあるなら、反吐のように汚い言葉を吐き出すのではなく、相手をいかに嵌めて陥れるべきかを真剣に検討して欲しいのであります。
極めて一部の例で恐縮ですが、どこぞの国が文化財を返さないなんて話があったとします。この時、「泥棒国家」だの「また○○か」だのと日本語で吠えても意味はありません。
世界中の美術館なり文化行政なりに、「拝啓。○○は自国に持ち込まれた盗難文化財の返却を拒否している国家であり、貴国との文化交流や美術品貸出に措かれては十分注意されたし。恐惶謹言」くらいの事を英語にて注意喚起なさればよいのです。
結論。
Facebookで次のようなやりとりがあったので、貼り付けます。皆さんの思考の一助となれば。
(補足:本題は、AとC、Eのやり取りです。B、Dのコメントは前振りです。また、イメージがわきにくいので、男女の別と肩書きを付しました)
AKB48メンバーの恋愛・丸刈り問題、フランスの新聞「リベラシオン」にも掲載されました。
タイトルは「日本のダンサー少女の丸刈りに衝撃」で、事実を淡々と伝えています。You Tubeの画像が24時間で300万回以上再生されたとか、日本で大騒ぎになってるとか。彼女は「自分で決めた」と強調しているとか。それで、「第二次大戦後ナチの将校と寝たフランス女性の懺悔を思い出させる」という反応とか、「これが先例になったら困る。青少年への影響を考えろ」というツイッター上の反応とか紹介してます。そのうえで、。「このように日本の懺悔の伝統に少女を追い込んだことについても、恋愛を禁止したことについても、このような有名人プレッシャーをそれを負うには若すぎる少女に課したことについても、誰も罰せられない」と皮肉っています!
私は、You Tubeは世界中から見られるので、日本の恥を世界にさらさないで!と危惧していましたが、恐れていた通りになりました。 http://next.liberation.fr/musique/2013/02/01/surprise-chez-un-danseur-une-chanteuse-japonaise-se-rase-la-tete_878485
どこかで、次回出すCDに、切った髪の毛を入れて発売するという記事を読みました。すべては商業的に仕組まれたことだったのではと思います。本当ならば、なんとしたたかなことか。
Bさん、私も作為的なものを感じます。でも、それが商業的に成功する国・社会であってはいけないし、フランスはAKBのような存在そのものが成り立たない成熟社会です。
商業的に成功するんでしょうか?さすがに切った髪の毛をCDに入れるのには、ファンも反対すると思うのですが。まあ、ファン以外の人がたくさん買うと思うので、売れることは売れるかもしれませんけど…。
AKBのような存在そのものが成り立たないことを「成熟」と捉えることには反対です。
Cさん、反対の理由は何ですか?確かに「成熟」にはいろいろな意味があるので、ちょっと良い表現ではないかもしれませんが。
Dさん、そうでしたか。うっかり、ひっかかりました。(^^ゞ
端的に、成熟(その裏返しとしての未熟)といえる根拠がないと思うからです。逆に、成熟と捉える理由はなんですか?
ところで、フランスでは、AKBは人気がないですが、モーニング娘。は結構ファンがいるようです。どういう差なんでしょうか…?
私の考える「成熟社会」とは、自由、平等、法の支配がより行きわたる社会です。子ども、女性、障がい者等、弱者の権利がより守られる社会です。
もちろん、この問題1つだけで日本が未熟でフランスが成熟しているという根拠には不十分かもしれませんが、たとえば日本の新聞で、上のように「誰も罰せられないのはなぜ?」と疑問をなげかける新聞があるでしょうか?フランスにももちろん闇の部分はたくさんあるので、100%良い国だなどといいう気は全くないのですが、女性差別とか児童・暴力ポルノ問題への批判に関しては、日本の数歩先を行っています。モーニング娘やコスプレが人気と言っても、あくまで「しゃれ」の範囲で、今回のような丸刈り事件には大多数が反対するのがフランス社会だと考えています。
Aさんのおっしゃるような社会を「成熟社会」と呼ぶことには違和感はありませんが、AKBのようなアイドルが存在しえないことは「自由、平等、法の支配がより行きわたっていること」と関係がないように思います。
児童ポルノ問題については、日本はアメリカやヨーロッパ諸国に比べると遅れていますね。性差別については、議論が盛り上がっているということ自体は先を行っていると言えますが、議論の進展状況については、フランスでのヒジャブ禁止問題を見る限り、単純にそう言えるか微妙なところもあります。
今回の丸刈り事件については、日本でも批判的な見解が大多数だと思います。例えば、朝日新聞の記事はかなり批判的です(http://www.asahi.com/national/update/0201/TKY201302010381.html)。この記事は、むしろ、上記のフランスの新聞よりも問題状況を理解していると言えます(この件について、坊主にされたフランス人女性の話と比較させるのは的外れです。もちろん、単に市民の反応を紹介しただけ、という言い訳はできるでしょうが)。
Cさん、朝日の記事は読みましたが、私には批判的とはあまり思えませんでした。特に、後半の危機管理のプロとかいう方の「謝罪は成功」とか、「アイドルは商品。ブランドコントロールは何よりも重要です」というコメントで締めくくる記事構成は、それを是認しているととられる可能性大です。「反省してるから許してあげて」と言いますが、反省する必要はないし、それを売りにしていること自体が明治時代以来の処女神話というか、女性の商品化(差別)の表れと思うと私には耐えがたいのです。フランス社会はそれに抵抗があるからAKBのような存在が(ごく一部のマニアックな層に人気が出たとしても)メジャーになることはないと思っています。
へジャブ禁止令もそもそもイスラムの女性差別に対する批判からでてきた話で、しかも禁止は学校内だけですから、問題ないと思っています。
察するに、今回の件に関してどのような理由から批判するのか、という点について、Aさんと朝日新聞とでは視点が異なるのだと思います。朝日新聞は、「アイドルの恋愛禁止」をやや批判的に描き、「反省の手段として丸刈りにする」ということを体罰あるいはパワハラに類するものだと批判し、また、マーケティング戦略として失敗したのではないかという角度からの意見を紹介しています。そこには、「女性差別」の話は登場しません。
今回の件を女性差別の問題と捉えることは、的を失していると思います。もちろん、女性の商品化→即差別と考える人がいるのはわかっていますが、自分はそうは思いませんし、そういう考え方が一般的だとも思いません(これに対し、男性女性問わず、性の商品化自体が心地良いものではないという意見は多いと思います。それは差別とは別の問題です)。
ヒジャブ禁止は、フランスの差別解消についての独善性が出たものと思っています。ムスリム女性自身の反対を押し切って、よく施行に踏み切ったなと思います。
それはともかく、AKBが存在しえないことが成熟社会である、という言明は、Aさんのコメント内容から推測すると、結局、「女性の商品化は差別である」→「AKBは女性を商品とするものである」→「AKBの存在は差別である」→「差別のある社会は成熟していない」→「AKBの存在は未熟を表す」という思考過程を経ているという理解でよいですか?
女性の商品化=即差別とは私も思いません。それこそ大人の男女が自らの魅力を演出してそれを売りにすること自体は、職業として成り立つのでしょう。でも、そこに「恋愛禁止」のルールなど入りこむすきはないですよね?その自由の否定とそれを受け入れる社会が未熟だという考えです。校則なども一種の自由の制限として私自身は反対です。
なので、上記の「女性の商品化は差別である」という命題からは出発しません。AKBのような未成年を商売道具として利用する大人に対する批判はあるので、AKBに限らず、「10代のアイドルは大人が子どもを商品とするものである」→「特に処女性を売り物にするアイドル(たとえばAKB)は女性差別である」→「子どもを商品としたり、女性に限らず、差別を許す社会は未熟である」という思考過程を経ているかな?と思います。
このAKBの構成員たる若い女子の丸刈りが、いかに多くの女性から嫌悪感を帯びて見られているか、秋元某はわかってないでしょうね。この嫌悪感は、まさしく「女性がオッサンから商品化」され、「搾取」されていると嗅ぎ取っていることからきます。また、「若いにーちゃんがこれを見て喜ぶだろう欲求」を充たしたと、商業ベースから判断されていることを嗅ぎ取っているからでしょうね。
法や人権に携わる者が、これらのことに鈍感であってはならないと強く感じます。そういう意味での「嗅覚」、とても大切ですよね。頭で理屈づけることなど、後から暇な人がすれば良いことです。これが社会的に、また若い女性、若い男性に与える悪影響から考えると、即刻このような「性の商品化」はやめるべしだと思います。また、森美術館の例の展示も、いま問題の体罰も、根っこに同じものを感じます。
Aさんの仰ること、私には大変よく理解できます。ロースクールも法学部も、真面目にジェンダー法に取り組むべきでしょうね。
そうそう思い出しました。キャリア教育などでも「自分を商品と思って売り出すなら、なんて売り出しますか?」というフレーズを使う講師に、それは不適切だと抗議したことがあります。人間は売り物ではありません!それを、いけしゃあしゃあとやっている大人たち、買う人間がいるから売るという発想の大人、これは本当に断罪しなければなりません。
謝罪って・・・誰に対して?写真集の犯罪については責任者=男性・権力者の落とし前は社会的にも不問で、労働者=女子は人権も人格も否定される不平等が搾取だし、キモい。日本はジェンダーバランスの点では著しく未熟な社会である。
AKBの女の子と同じくらいの年齢の娘がおりますので、この女の子の丸刈り姿を直視できません…。これがもし自分の娘だったら…と考えるだけで、死にそうなくらいイヤな気持ちになります。そんな集団に入ることを許してしまった、親としての自分のあり方を呪うと思います。
この画像に対する嫌悪感は、表現しがたいほどです。女性が「罰として丸刈りにする」という行為自体が、ナチスの収容所に入れられた女性や、大戦後、ナチスとの付き合いがあったことで丸刈りにされた女性たちを連想してしまうのです…。
こんなことがまかり通る「幼稚」な国であるということを、臆面もなく世界にさらしてしまったことは、本当に恥ずかしいと思いますね。
私も朝日新聞の記事を読みましたが、あれのどこが批判的なんでしょ?しかも、その記事の横に「板野友美引退」ですよ?スポーツ紙か?と突っ込みました。
テレビのニュースも然りです。この気持ち悪さ、不快感の本質をついてくれない。
Aさんのスレッドを読ませて頂き、やっと胸のつかえがおりました。
>Aさん
女性の商品化というよりは、子供の商品化が問題であり、また、それとは別に、処女性を売り物にすることが女性差別だということですね。処女神話はたしかに女性差別の意識の発現と言えるでしょうから、処女性を売り物にすることが女性差別意識を払拭することを妨げると言うことはできますよね。
ただ、たしかに「男はあの映像を見て喜ぶ」と演出サイドが思った可能性はありますが、実際にはそんなことはおそらくありませんので(喜ぶ人もいることはいるでしょうが)、演出サイドを責めるならともかく、今回の件に対する批判の声が多い現状に鑑みると、社会を未熟と言ってしまうのは、卑下しすぎではないかと思わないではないですね。
少数派の意見を正当化しなければならないときには「嗅覚」だけではどうにもならないので、理屈付けが必要です。もちろん、問題発見のプロセスでは、理屈付けの前に「嗅覚」が先に立つわけですが、正当化のプロセスにおける理屈付けがなければ、味方同士の馴れ合いで終わりです。
>Cさん
「嗅覚」が働かないような人は、学者にも司法関係者にも人権に携わる人にもはなれませんね。どこぞの弁護士みたいに人権が飯のタネ、なら別ですが。かしこぶっても、痛みをわからない人に理屈をつけられるよりは、まずは気持ち悪さを「共感」できる人でないと、自分はおろか他者の「権利」なんて守れませんからね。「正当化のプロセス」を他者がしたり顔ですることが、問題発生のすぐの時点でそんなに必要とは思えません。それを味方同士の馴れ合いなどと断言されるというのは、やはり第三者である自分を安全地帯において評論する、というところからですかね。
Cさん、大衆論理は常に正しいんですかね。女性のことに関して女性の意見を聞かない男性に何がわかるのでしょうか。古代脳である嗅覚すらないならもはや生物とも思えません。
ゲン・コーポレーションから輸入された「種鶏」を日本の採卵養鶏会社が購入して
ゲン・コーポレーション
ごく一部の後藤孵卵場の鶏も使われている。
後藤孵卵場
下記記事を読んでみてください。
http://www.chunichi.co.jp/article/economics/news/CK2007073102037287.html
所秀雄氏が1963年に起業した。産卵数が多いなど優れた遺伝子を持つ外国産鶏の輸入を進め、
国内の養鶏業界の発展に寄与した。所氏は2004年9月に会長を退き、後任に、
EWグループを率いるドイツ人のエリッヒ・ウエスヨハン氏が就いた。遺族によると本人の意に反した
交代だったという。
所氏は今年4月、88歳で死去。生前、EWグループへの株式譲渡について「経営は日本側、所有は
ドイツ側という分離政策を信じた」と語っていた。EWグループはいずれ全株式を取得する見通し。
ゲン・コーポレーションは「所氏の退任後も日本人が社長を務めるなど、経営が日本側にあることに
変わりない」としている。
このような経緯で、ゲン・コーポレーションは外資系企業になってしまったようです。
日本ISD協会
http://ameblo.jp/amuse8/entry-10230517301.html
ISD協会の話をする前に
(種鶏って何?って人にもわかるようにします。)
皆さんは卵食べますよね?
そしてその卵は養鶏場で作られているというのはお分かりですよね?
つまり養鶏場には鶏がたくさんいてそこで毎日卵が作られているのです。
そしてニワトリは生き物ですから、歳をとるにつれてと卵を産まなくなります。
(お年を召したのを食用に出荷し、若いのを仕入れる)
そのときのために私達のようなヒヨコ屋さんというのが存在するのです。
そしてヒヨコ屋さんでは種鶏(オスとメス、卵を産む鶏のご両親ですね)を
飼育して受精卵をつくりその卵を孵化させてヒヨコ(これが将来卵を産む)を
作るわけです。
出来れば卵をたくさん産んで、病気に強くて、飼育しやすくて、卵が丈夫で
卵の盛り上がりもよくて、殻の形もよくて、餌はあんまり食べなくて、などなど
いろいろと要求があるものです。
そういう要求にこたえるために品種改良が行なわれるのですが
小さいところが一気に逆転が出来る状態ではなくなったのです。
その掛け合わせのトライアンドチェックとフィールドデータの採取が
出来るところが勝利する形になりました。
ちなみにヘンドリックスは卵だけでなくブロイラー、豚においても
EWは卵とシャケ、マス、トウモロコシなどの遺伝子を持っていて
なるほど様々な遺伝子は大きい会社に統合されてきているのです。
日本ではEWグループが強く卵においては91%、ヘンドリックスグループは
しかし今から20年前にはヘンドリックス(ここは上記9社のうち6社が統合されている)
当時、この6社の合計シェア(当時は別々に経営をしていたので)は80%を超えていたのです。
それが10年前には50%になり(それに伴い統合も進んだのですが)今では8%に
なってしまったのです。
日本ISD協会続き
http://ameblo.jp/amuse8/entry-10231057437.html
(当時はグループではなく、別々ですが)
ヘンドリックスの系統の種鶏は現在では8%になってしまいましたと。
そしてISD協会とはこのヘンドリックスの6系統(昔の6社が扱っていた種類)を扱う
もう一方EWグループ(日本の代理店はゲン・コーポレーション)のものも
扱っている会社もありますので協会のメンバー全体での日本のヒヨコの
シェアは95%はあるのです。
その会社の中でEWの比率がかなり高く、結果として日本のEWの
シェアが高くなっているということですね。
やっとここまでこれましたね。
ISD協会のこと、種鶏のこと、わかっていただけましたでしょうか?
さて、その日本ではマナーなヘンドリックス鶏(上記6系統)ですが
このたび大変革を行ないました。
その内容をお話しする前に
なぜ、EWグループがたった10年間で日本で90%以上のマーケットを持つ
EWグループ、日本代理店ゲン・コーポレーション(以下ゲンさんと呼びます)は
1990年代後半いままで農家の延長であった採卵養鶏・種鶏の業界に
マーケティングの理論を持ち込み、卵・ヒヨコの生産にコスト、効率などの概念を入れ
その成長にともないEWのシェアも伸びていったのです。
すなわち、今までは鶏の能力により選ばれていた種鶏が
そのニワトリの能力より、総合的な顧客満足度(様々なサービスも含めて)で
選ばれるように変化したのです。
両者の間に大きな差が認められなくなったというほうが
正しいのではないでしょうか?
(それ以前はヘンドリックス鶏が優れていて、
EW鶏は弱点があるという認識でした)
人に聞いてみてください。
(私がこう言っていたとかももちろん言わないで。)
そしてこのような日本におけるマーケティング戦略をおこなったのが
10年前アンディはアメリカハイライン社(EWグループのアメリカ
そして日本の卵は世界で一番厳しい(注文がうるさい)という認識のもと
(以前にも書きましたが生で卵を食べるのは世界でも日本くらいのこと)
日本の市場を制覇できれば世界を制覇できるとの戦略で上記の事を
行なってきました。
つまりアンディの立てた戦略で日本で92%、アメリカで72%のシェアを
持つようになったのです。しかもアメリカと日本は世界で一番卵の値段が高い
高く売れる場所で高いマーケットシェアを持つという経営的にもっとも効果の
高いことを行なったのです。(高く売れるということは利幅が多いということ
しかしこれだけ多くの功績を残したアンディですが、よる年波にはかなわず
4年前60歳を機に退職されたのです。
アンディ・ハンセン
http://ameblo.jp/amuse8/entry-10231427162.html#main
この日本における養鶏のレベルを格段に引き上げたアンディ・ハンセンは
その経験を生かし、アメリカで養鶏コンサルタント会社を立ち上げ、
更なる養鶏業の発展のお手伝いをしておりました。
そして今年1月、アトランタ で大きな動きがありました。
(私は現地におりましたし、本人から直接話を聞いていたので
知っていましたが、私から発表は出来ませんでした)
つまり、日本・アメリカにおいてライバル関係にあったアンディと
シェアが大きく変る可能性があるわけです。
そして今日初めてそのことがISD協会のメンバーに伝えられたのです。
3年以内に50%まで引き上げるとのこと。
普通に考えればそんなことできるか!となるのですが
私は本当に出来そうな気がします。
なぜなら私がアンディに育てられた人間ですし、アンディからの命令があれば
おかげといえるのです)
しかもその何人かですが、日本の養鶏レベルの向上を肌で感じていますし
なんかこういう業界の編成に立ち会えるのはとてもぞくぞくします。
そして情報をしっているのと知らないのとでは大きく違うのだなと。
3年後がすごく楽しみになりました。
ちなみにですが日本におけるヘンドリックスのシェアは8%ですが、
我が社においては50%。つまり両方と上手に?
お付き合いをしてきたわけです。
この理由はどこかで詳しく書きますね。
ま、いずれにせよヘンドリックスにアンディが加わったことで業界に変化が
おきることは間違いありません。そしてその中で私はどうすればいいのか?
ISDセミナー(2009-03-26?)
http://ameblo.jp/amuse8/entry-10231438826.html#main
これらのお話をアンディがしたのです。
正確には4つというのは、2番目のお話の中に
日本でのデータを日本シェーバーの方がやったということですね。
ま、一番最初のお話は経済新聞読んでいれば当たり前のお話ばかりで
当たり前のここといえば当たり前だし、
独自の分析をあえて入れていないようにも感じましたので
内容はともかく(聞いている人に合わせてくれていたのだと思います)
感じは良かった。当然ですが間違った分析はありませんでしたし。
大体において、小さな部分を大きく、深く掘り下げていて
いや、わかりますよ。人と同じことを話したのでは独自性がありませんし
講演に読んでもらえなくなりますからね。でも、間違ってはだめでしょう。
それから極端な例を話してもだめでしょう。
自分の頭の中身の整理にもなりましたし。
(どれだけ上から目線なんでしょう)
2番目のお話は以前オランダ(ヘンドリックスの本社があります)で
出しているものでしたので特に目を引くものではありませんでした。
より打ち合わせが悪い。アリアンが省略して話しているところの
くれたから私も理解できた部分がありましたが。
ニワトリの種類の差は現れにくくなっているなと。
例えがうまくはまっているかどうかはわかりませんが
トヨタのカローラとホンダのシビックと日産のティーダの差でしょうか。
車の性能の差よりもイメージとか価格とかそういったところでしか
差を見つけられないと。
そうなるとニワトリの開発は日本全体を満足させるより南国向け、
北国向けとかそういう方向で開発することになるのかなと
車なら北国向けに寒冷地仕様がいいとか、海岸沿い用に防錆が
うまいとかそういう局地使用で販売を伸ばすと。
名産、特産になっているところ向けに集中して作ったほうが売れるってもんですよ。
そしてそういう開発をさせたらアンディにかなう人はいないということです。
(私がこういう風にかんがえるのもアンディの影響なのでしょうが)
最後の講演がアンディ
これが噂の(私が勝手に話を大きくしているふしあり)
アンディ・ハンセンです。
正確には日本では
(そのくらい力を入れないとマーケットが取れないと判断した
アメリカ人です。
ちなみに、ファッコといって先日わたしのところで導入した
ニワトリのケージ(金網の箱)のメーカーがイタリアにあるのですが
日本人より日本のおもてなしの心を学んでいます。すごい人です。
わかっている人がたくさんいます。すごいですね。
ま、アンディの話の内容は前回書きましたが
それぞれを分析してみんなで成長して
いきましょうっていうお話でした。
いいことなのかも知れません。
むしろ弊社の成長を見て改善点なんか助言をもらえるとうれしいですね。
ま、繰り返しアンディのご指導を受けるためにはがんばって
あの人は天才です。(こう思っているのは私だけ?)
2009年の記事ですが、3年後を見据えての記事です。
今年でちょうど3年目。
調査してみてはいかがでしょう?
http://anond.hatelabo.jp/20081121001830
うーん、男性は論理的とか女性は感性が鋭いとか、そういうのはあまり関係が無いと思う。
例えば…まあ、こんな例で何なんだけど、男性の中にだって、「下着」と「ぱんつ」と「パンツ」と「パンティー」じゃ、全くニュアンスが違うよという人もいるのではないだろうか。傍から見ればそんなことに大して拘る必要は無いと思うものだけど、拘る人はものすごく拘るわけで。
ようは、自分が興味を持っていて拘りがあるものには、そういった微妙なニュアンスの違いや細かいフォルダ分けが必要になってくるが、興味がないものは皆一緒に見えるので、そういった名称の種類は無意味に映り、「洋菓子もスイーツも一緒だろ」「ぱんつもパンツも一緒だろ」と思えてくるのではないだろうか。そして、「自分にとって興味の無いもの・良さが理解できないもの=下らないもの」→「下らないものに拘っている人=馬鹿」と思ってしまう人もいるわけで。
スイーツ(笑)という感覚は、一般人が偏見を持ってオタクを見る感覚と似ていると思う。一般人にとってオタクとは、わけのわからないものに拘っている、わけのわからない人たちだ。オタク趣味に興味が無い人は、必然、オタク同士なら分かる違いもわからない。
まあ、「わからない」だけなら何ら問題は無いのだけれど、問題は、わからないにも関わらずわかったようなつもりになって、自分の頭の中で作り上げた偏見だらけの的外れな「○○像」をたれ流すことだ。メディア等で取り上げられるこういったオタク像に、当のオタクたちが失笑することはよくあるよね。ということは、女のことをよくわからない人が思い描く「スイーツ(笑)像」というのは、一般人が思い描くオタク像並に的外れであるということなんだよ。
ただ単に興味の分野が違うというだけ。スイーツは製菓とオシャレの流行には乗っても、オタクコンテンツの流行には乗らない。一方オタクは、オタクコンテンツの流行には乗っても、製菓やオシャレの流行には乗らない。まあ、スイーツ文化とオタク文化、双方に足を突っ込んでいる人はたまにいるけれども。オタクだって傍から見れば、オタク業界のマーケティング戦略にマインドコントロールされているかのように見えるだろうし。
とすると、完全に何の流行にも左右されない人というのは珍しいのではないだろうか。ある程度趣味があったり興味が引かれる分野があるならば、人間何らかの流行に左右されてしまうものなんじゃないだろうか。そもそも、どの分野の流行に乗る・乗らないというのは、自分で選択できることじゃないか。
あと、「この夏は愛されモテかわワンピース!」などと書かれた女性誌のキャッチコピーを見て、本気で「これさえ着ればモッテモテ!」などと思っている女などいないと思う。そういった雑誌に書かれたキャッチコピーなど、所詮は「全米が泣いた」程度の認識だろう。観る映画を選ぶとき、大抵の人は「好きな監督の作品だから」「好きな俳優が出ているから」「世界観が気になったから」「お気に入りのジャンルだから」などの理由で選ぶのではないだろうか。まあ女性誌に関してもそういうもんですよ。
いわずと知れたネットスラングである。
女性誌、特に女性向けファッション雑誌に多く見受けられるバズワード的なキャッチコピーを用いたマーケティング戦略にマインドコントロールされているかのような一部の人たち(主に女性)を揶揄するインターネットスラングである。
(略)
転じて、女性誌に限らずマスコミの恣意的な報道を鵜呑みに信じる者、メディア・リテラシーのない者、ひいては流行・快楽ばかりを追従し、一般常識や知識やモラルが欠如した若年女性を総称して指す風潮にある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%83%84%EF%BC%88%E7%AC%91%EF%BC%89
噛み砕いて言うと、「おいおい。マスメディアの戦略がつくった流行にのせられて菓子をスイーツとかいってんじゃねえよ(笑)」
という揶揄から始まり、
「こういうマスメディアが作った流行にほいほい乗っちゃう女って言うのはやっぱ頭ゆるいな(笑)」という種類の揶揄に繋がるのである。
女性誌が考えそうなキャッチコピーを利用して「マスコミに踊らされる女性を馬鹿にする」ことなんですね。
これを初めて知ったとき、私は「言いえて妙だなw」「なるほどねw」とかなり感心したものです。
というのも、確かに日本の女性ファッション雑誌の競争は激化しており、
より訴求力を高めるために情報の新鮮さや、感性に訴えるようなキャッチコピーが必要とされているのでしょう。
でもそれは単に女性が情報リテラシーが低いということを指すものなのでしょうか?
逆に言えば、ターゲット層の女性が感性の鋭さをもっており、情報を感性で取捨選択できるという言うことを指すのではと思いました。
(もちろん、スイーツ(笑)に代表されるような、“踊らされている”女性も確かにいることは私も否定できません)
時に「論理的でない」ことを男性は嫌がりますが、女性同士は感性・ニュアンスで事足りる場合があります。
どちらが高度なコミュニケーションだとは、一概には言えないとおもいます。
というより、ジェンダーが絡むと問題がややこしくなるので、「男は」「女は」という不毛な議論はやめておきましょう。
「スイーツ」
私は個人的にこう思います。
「スイーツは単なる西洋菓子でもデザートでもない、スイーツなんだ!」
つまりですね、「なんだよ、スイーツって。別にお菓子とかデザートとかで良いじゃんか。なんでわざわざスイーツとか言うの?」
という方に異論を唱えたいというわけです。
女性風に言うと、
「じゃぁ、なんでスイーツって言っちゃいけないの? “お菓子”とスイーツって、違うじゃない?」 ってね。
メディアを読み解くことからはじめてみましょう。
朝日新聞社「AERA」で1990年代には初出している。しかし女性向けに書かれたものではなかった。
現在の「スイーツ」と同じような意味で全年齢層に向けて書かれたのが、
2002年6月23日 朝日新聞朝刊 『アジアンスイーツ(ランランランキング)』
このころ(2002??2003)を境に、スイーツを関する記事が増えてきた。
また、自由が丘にあるスイーツテーマパーク「スイートフォレスト」ができたのもこのころ。
そしてスイーツ(笑)論争のターゲットにされる、『CanCam』(小学館)
こちらが残念なことにデータベースの範囲外で調べることはできなかったのです・・・。
(初出情報をお待ちしております。)
甘いもの。菓子、特に洋菓子をいう。【1990年代後半から】一般に使われるようになった。
[補説] sweetの複数形。
とある。
な、なに!1990年代?!
筆者は87年生まれなので、小学生のころには既にスイーツは一般的だったようだ。
(本当に?)
では、ネットスラングとして使われたのはいつごろなのだろうか?
筆者は2ちゃんねるを利用しないので、過去ログを検証することはできないので、聡明なネットユーザーの方にお任せしたい。
(まとめサイトなど初出と思われるものは存在しているのでしょうか?)
一応「バカ女語のガイドライン」というスレ?が初出なんでしょうか。(そうすると2007年?!意外と新しい)
しかし、少なくとも5年前まではスイーツ論争などは起こりえなかったのではないかと考えますね。
10年前に「ちょwwwスイーツwwww」なんて考えられないことです。
(そもそもインターネットはそこまで普及していないでしょうね)
しかし、90年代から使われてきたはずの「スイーツ」が、なぜ「バカ女の代名詞」として使われてきたのでしょうか?
90年代以降といえば、
・インターネットの普及
が相まって、それまで問題にされてこなかったような女性の特質が揶揄されるようになったのでしょうか?
この辺はよくわかりません。
で、本題に入りましょう。
女性が「スイーツ」というとき、それは大まかに言うと「西洋菓子」の事を指す。しかし、厳密に言うと西洋菓子でもないんですね。
感覚が鋭いかれらは、属するコミュニティの間でより微妙なニュアンスで物事を伝えたがるのです。
既存の形容詞だけでは言い表せない、微妙なニュアンスを伝えたい欲求があるのです。
同性同士結束したコミュニティを作る傾向にある女性は、(私の周りでは派閥抗争とかしていました。)
こうした「微妙なニュアンス」を感じ取る能力に長けています。 浮気などに勘が鋭い女性もいますね。(これは関係ありませんが。)
つまり女性が「スイーツ」とあえて言う場合には、マスメディアの戦略をある程度考慮しても、
それを選択した時点でまるで異なったニュアンスを感覚的にかぎ分けて使っている可能性があるのです。
この可能性を鑑みて、知り合いの女性たちにインタビューしてみたら、
スイーツにかんしては、「高級製菓」の事を指す傾向がありました。
“高級”の間は人それぞれですが、
「不二家はスイーツにはいらない」「コンビニ菓子ははいらない」「パティシエが作ったもの」「スフレやマカロンなどフランスの系譜のもの」「和菓子も入る」
など個人の線引きはあるように思います。
つまり、彼女達にとって「スイーツ」≠「菓子」であり、感覚的には別物なんですね。
もっと広い範囲で聞いてみるとおもしろいかもしれませんね。増田のみなさんはどこで線引きしますか?
「そもそもその感覚こそ、マスメディアに作られたものなんだ!」という人もいるかもしれません。、
そのことを全否定するつもりはありません。多かれ少なかれ我々はメディアの影響を受けているものです。そうでしょう?
しかし彼女達にとっては「スイーツ」は「菓子」でも「デザート」でもないようだということを主張して、駄文を終わらせていただきます。
豆知識(蛇足)
お菓子、という言葉は漢字が示すように昔は果物のことでした。実はイギリス英語(w)の「デザート」にも同じような意味があります。
まあ、CDプレイヤーなんてそう買い換えるもんじゃないわなあ。
ラジカセで音楽聴いてる層なんてそもそも音質へのこだわりなんて、ほとんどないだろうし。CDの規格は20年以上前から昔から変わってないし。
俺もCDラジカセからCD・MDつきラジカセに換えて10年くらいになるがいまだに使ってるし、不具合もない。
ちなみに自分はもともとミリオンヒットなんか興味なく、好きなアーティストのアルバムを欠かさず買うくらい。
「CDが売れなくなった」というのは、「流行ってるから買う」って層が買わなくなったってだけで、ヒットチャートには登らないけど、コアなファンから支持されてるアーティストのCD売り上げはほとんど変わってねえんじゃないの?ヒットメーカーだった小室さんはいま大変らしいけどね。
この仮定が正しいとすると、派手に広告を打たなくても確実に買ってくれる層はいるんだから、広告費のコストをカットして、綿密なマーケティング戦略を立てれば、利益は出せるんじゃね?
ミリオンヒットが出なかったら困るっていう人ってそんなにいないだろうし。
もうみんなわかってる事だと思うけど、自分の頭の整理のために書くよ。
iPhoneに熱狂してるのって、ほとんどが30代以上のおじさんだよね。PCやガジェットが大好き。「それで何が便利になるの?」とかはどうでもよくて、その「モノ」や「機能」自体に喜びを感じる人たち。
そういう人たちは、PCとは全く別の文脈から出てきたガラパゴスケータイに馴染めなかった。今まで情報機器っていうのはPCをベースに発展してきたはずなのに、ガラパゴスケータイは全くの突然変異種だったから。PDAとかスマートフォンとかは、ガジェット大好きおじさんたちのガラパゴスケータイに対するわかりやすい抵抗だ。
おじさんたちはガラパゴスケータイに馴染んでなかったから、iPhoneでおサイフケータイが使えなくても、顔文字が使えなくても、全然気にならない。曰く、「今までのケータイと比べるなんてナンセンス」。
一方、子供の頃からガラパゴスケータイに馴染んでいる若い人たち(ガラパゴスネイティブw)は、ガラパゴスケータイありきのライフスタイル、コミュニケーションスタイルを確立してしまっている。おサイフケータイが使えないって事は、コンビニに行くのにわざわざ財布を持っていかないと行けないっていうこと。絵文字が使えないって事は、まともなコミュニケーションが取れないってこと。
それが「ガラパゴスだ!」って言われても、困るよね。ガラパゴスの動物は、他とは違うかもしれないけど、でもガラパゴスの環境に適応するためにそうなっちゃったんだから。
殆どの庶民にはダブルホルダーっていうのが現実的な選択肢じゃない以上、ガラパゴスネイティブにiPhoneが論外なのも、当然だよなあ。
iPhone信者のおじさんたちがあんなに熱狂してるのは、それが「PC&ガジェット大好きおじさんたちにとってわかりやすい」コンセプトだから。それは、Applの意識的なマーケティング戦略なんじゃないかと思う(根拠ゼロw)。
もちろん、どっちがいいとか悪いとか、レベルが高い低いなんてのは無いよ。デコメ大好きな若者も、意味無くリュックにPCとiPhoneとEMONSTERを入れて持ち歩いてるおじさんも、みんな自分の好きなケータイで遊べばいいんじゃないかな。
だから、「iPhoneの魅力を理解できないのは老害」とか言ったりするおじさんは本当に見苦しいので、やめた方がいいと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20070805041650
JASRACって、既存の著作権形態が一番儲かるんだよね。このせいでJASRACは著作権者の権利を保護するのではなく、既存の著作権形態を保護する団体になっている。著作権の行使法のあり方が大きく変わりつつあるし、現状の著作権行使形態を維持する事は著作権者の利益とイコールではなくなったというのに。
当の著作権者がオッケーと言ったのに料金を徴収してくるとか、常軌を逸しているとしか思えない。それってむしろ権利を侵害してるだろ。著作権者には無料で自分の作品を使ってもらう権利だってあるし、それを利用したマーケティング戦略を行使する権利だってあるのに。
徴収金の上前を跳ねるのではなく、著作権者の寄付で成り立つようにしておくとか、NHKのように税金で運営するようにしておけば、今のように酷い団体にはならなかった、そう思うんだ。
ところで
うpられているものを削除しさえすればプロバイダは罪に問われないってのがアメリカの著作権法の特徴で、YouTubeはそれを前提にしたサイトなわけで、日本の法的バランス感覚でアメリカ企業と対決するのはそもそも間違っている。その辺の食い違いの話が一切触れられていないのは天下の日経様の記事としてはどうなのだろう。
あそことここがああやって繋がって、あのブロガーは提灯記事を書いているのかと薄く笑う。
ジャーナリズムを批判しとあるグループを忌み嫌っていたのに、いまや別方面ではがっちりと組み込まれている。
全体的に見るとこのマーケティング戦略は失敗でしょう。題材と社会との測定の仕方を誤って、信用を失墜させているのは某ブロガー氏だけではないようです。
目には見えない支配者に対して媚を売るような文章を書かざる得ない状況に今のネットの社会はなってしまっているのではと私は危惧しています。
おそらく、勝ち逃げにはならないように思える。 そう世の中旨くはいかないものであって、具体的事実の提示の後、違う誰かが知っていることを語り始めるのではないかという気もする。
そんなことより、あややはどこにいったのか。
http://anond.hatelabo.jp/20070314100032
もしレディースデーが公共機関(役所とか)における各種手続き・申請受理やにおける男女の差別を意味しているのであれば、恐らく差別に当たる。公民としての取扱の格差に当たるから。
しかし、マーケティング戦略における男女の扱いの相違については、原則として「差別」とはされない。何故なら、それは公民としての原則平等の上に立った「自由で理性的な合理的経済人」の行為に関するものであるから。不当な差別云々とは原則として政治制度の問題であって、市場経済におけるミクロ行為主体の意志決定という問題系の中で語られる話ではないのだよ。