はてなキーワード: ライプニッツとは
これも直接元増田と関係あることじゃないのだが、理論を理解することの難しさで学者としての評価を判断する人がいたらそれは違うと思う。
ぶっちゃけ誰にも理解できない理屈を作ること自体はそれ自体を目的とするかぎりではそこまで難しくないんじゃないかな。
誰にも分からない文字や暗号を作るのがそこまで難しくなさそうなのと同様に(まあこの場合は暗号とかの解読法さえ教えちゃえ解読できてしまうし、解読法を理解すること自体も容易なので、例として拙いかもしれないが)
望月の場合、問題を解決するのに必要だったのが、誰にも理解できないような理論だったというだけで、それはあまり重要な事実ではない。
問題を解決できたとされるのが望月一人だったということが重要なのだと思う。
そういう考え方でいけば、mRNAワクチンの根幹技術の理論を作った人も、その人がその技術を作った段階ではその人しか作り得なかっただろうという意味でやはり凄いのではないか?
(微分法をライプニッツとニュートンがほぼ同時期に独立して考え出した例もあるので、こういう書き方をした)。
望月とmRNAワクチンのもとを作った人のどちらが凄いかということについて現段階で社会に与えてるインパクトとしては後者のほうが上だろうが、そういう有用性みたいな視点から凄さなるものを判断するのは前者が数学である以上フェアじゃなくまた複雑な問題を孕むので、判断を留保すべきだろうとは思う。(役に立たないと思われた数学の証明が後世になって応用法を見出される例はざらにあるわけで、数学では現世利益みたいなものは考えず研究するのは基本だと思う)
ただ、mRNAワクチンの技術が望月の論文に比べて理解しやすいという観点から、mRNAワクチンの技術を作った人が望月に比べてすごくないみたいな考え方をするのは絶対に的外れだと思う。
理論を発見することの難しさと、理論を理解することの難しさはわけて考えないと。多くの人々がその難しさを肩代わりしてほしいと学者に期待しているのも普通前者なのであるから。
いまんとこ「新自由主義に対抗した全ての抵抗勢力は滅びた」という現実をもとに、「大きな政府・ケインジアン・人口増加」という『アンチ新自由主義』連呼くんが支持するロジックをクラッシュさせるがために努力してきた。今日も同じ方法で戦うのはしんどいので、こっち側から『アンチ新自由主義』連呼くんの琴線に触れそうなネタを提供して、議論していこうじゃないかと思う。
なんと言っても、今の政府は「大きな政府」をとると危険なの。1つはコストだ。アメリカのように「大きな政府」をやる連中ですら、トレード・オフで解雇規制を受け入れている。そのため、いちど採用すると解雇ができない日本にとっては、法律が基本となる労働の法律を改正する必要があるが、今はマスコミもうるさいので不可能だし、既得権益は拒否するだろう。もはや国土の開発が終えたこの国に、需要のない新規開発を公がする必要はないのです。そのため、「大きな政府」をやってもリターンを上げる領域が存在せず、人員を採用しても無駄になる。マルクスが「資本主義の果に」唯物論で解決できない問題があることに気がついたのは、正しいのです。ですが、問題は「唯物論」で実体経済は語れない、ということは当時の後進国のドイツ人同郷であったライプニッツが嘆いたように、先進国の人々は「後進国と同じことをしたら負ける」ということは既知の問題を『共産党宣言』で後進国民なら存続可能で教育可能な「エリート」という存在で勝てる、という妄信を先進国でも可能という認知誤認から起こりました。この欺瞞を暴いたのがハイエクであり、先進国においては「エリートは社会の負担を増やすだけ」という告発をする必要がありました。つまり、共産主義者なんて田舎のヤンキーのボスの「夜露死苦」というミームがクールだと思う馬鹿の集いだよ、って話だよ。
彼は資本主義社会においても「一定の規律をもったまま」に公共投資に投資するという方法を、世界恐慌のもとで実施可能だという主張を肯定することが可能だった瞬間があったから可能だったのよ。(若年層の犠牲を活用した)デフレは進むけど、(年齢階層がいびつなせいで票田にメリットがある)感覚としての経済が悪くなくて、下手に経済状況がインフレすると老人たちは生活が厳しくなるという現実を否定してまで、経済成長は必要かね?今の日本に投資されないのは、それなりにメリットがあるからだよ。それに GPIF という国家の投資機関は『現代ポートフォリオ理論』という金融工学の果てを知っていると、随分と日本へ投資してくれていると思うよ。もはや、我が国に「投資したら、こんだけ儲かるだろうなー」って場所が無い以上は、日本国には直接投資は不要です。海外に投資したほうが、本当にマシです。地方を切り捨てて、東京はシンガポール化したほうがもっと輝きますのに、大都市の資本はイオンは地方に投資してくれるので、地方民はイオンに感謝するし、地方が統一化するのを嘆くのは「東京人」の「理想の田舎」を押し付けているだけなので、差別の固定化を「アンチ新自由主義」でやることは、地方民からすると万死に値します。知っているかもだけど、地方自治体のモールは隣にイオンができると負けます。つまり、儲かる領域での役所の仕事なんて、令和の日本にはないんだよ。
という選択肢を、超賤民どもが単一人民として受け入れると権利団体になっちゃうという過去の嫌な例もあって、日本国民は「経団連の奥田」が発起したのを拒否したし、子どもの権利条約で批准された教育を受ける権利は否定できないし、金銭と労役の補助なんて都市部だとアホみたいにやっているのに増えないのだから、諦めるしかないんじゃないの?
昨日は「日本は人工肉がつくれなかった」という議論をして、一瞬「負けた」と思ったよ。だけど、「民間企業のキューピーが、模造卵を開発してコンビニが活用している」という事実を思い出したら、ますます公共投資が民間投資に負けている事例を見つけて、本当に嬉しかったよ。遊戯王世代なのはあたりだよ。今日も楽しくバトルしようね!俺のターンは終わり、つぎはアンチ新自由主義くんのターンだぞ。
ここでいう「ユークリッド幾何学」とは、座標空間、ベクトル、三角関数、微分積分などの解析的手法を用いないいわゆる総合幾何学のことです(*1)。2020年8月現在の高校数学のカリキュラムでいえば、「数学A」の「図形の性質」に該当する分野です。
ユークリッド幾何学が不要だと思う理由は単純明快で、何の役にも立たないからです。大学に入って、「補助線を引いて、相似な三角形を作って~」とか「コンパスと定規による作図」みたいなパズルゲームをやることは絶対にありません(*2)。これは常識で考えても分かると思います。たとえば工学の研究で、ある物体の弧長や面積などを測定しなければならないとして、ユークリッド幾何学の補助線パズルが適用できる多角形や円などしか測れないのでは話になりません。一方、座標空間、ベクトル、三角関数、微分積分などの手法は一般的な現象を記述する上で必ず必要になります。
もちろん、たとえば三角比を定義するには、「三角形の内角の和は180度である」とか「2角が等しい三角形は相似である」といった初等幾何学の性質が必要になります。そのようなものを全て廃止せよと言っているわけではありません。しかし、高校1年生で習う余弦定理:
を証明してしまえば、原理的にはユークリッド幾何学の問題は解けます。それ以降は、ユークリッド幾何学的な手法や問題設定にこだわる必要はないと思いますし、実際それで問題ありません。
現状、少なくない時間がユークリッド幾何学に費やされています。数学の1単元を占めているだけではなく、その他の単元にもユークリッド幾何学の発想に影響された例や問題が多く登場します。たとえば、複素平面において4点の共円条件や垂直二等分線を求めさせる問題など。そして最も労費されているのは生徒の自習時間です。以前よりマシになったとはいえ、大学入試等には技巧的な図形問題が出題されるため、受験生はその対策に多大な時間を費やしています。
高校数学では以下のような事項が重要だと思います。ユークリッド幾何学を学ばせている時間があったら、このような分野を優先的に修められるようにすべきです。
これらの分野は数学の手法としても非常に強力ですし、大学以降で数学を学ぶ際、現実的な問題を数学や物理の問題として正確に記述する際に必ず必要になります。仮にユークリッド幾何学が何らかの場面で応用されるとしても、微分積分などと同レベルに重要だと真剣に主張する人っていらっしゃるでしょうか?
ユークリッド幾何学を初等教育で教えるべきだとする根拠には、大雑把に言って以下の4つがあると思います。
まず①は明らかにおかしいです。ユークリッド幾何学に限らず、数学のあらゆる命題は証明されるべきものだからです。高校の教科書を読めば、相加平均・相乗平均の不等式、点と平面の距離の公式、三角関数の加法定理、微分のライプニッツ則や部分積分の公式など、どれも証明されています。そもそも、数学の問題はすべて証明問題です。たとえば、関数の極値問題は、単に微分が0になる点を計算するだけではなく、そこが実際に極値であるかそうでないかを定義や既知の性質に基づいて示す必要があります。したがって、ユークリッド幾何学だけが特に証明の考え方を学ぶのに有効だという理由はありません。
②もおかしいです。図形問題を扱うのはユークリッド幾何学だけではないからです。ベクトルや微分積分でも図形問題を扱います。たとえば、三角形の5心の存在や、チェバの定理、メネラウスの定理などはベクトルを用いても容易に示すことができます。また言うまでもなく、曲線の接線は微分で求めることができ、面積や体積は積分で求めることができます。また、ユークリッド幾何学の手法は問題ごとに巧い補助線などを発見しなければいけないのに対し、解析的な手法は一般に方針が立てやすく汎用的です。したがって、図形問題を扱うのにユークリッド幾何学の手法にこだわる理由はありません。
③は単なる個人の思い込みであり、科学的な根拠はありません。そもそも、数学教育の目的は「地頭」などを鍛えることではなく、「大学や実社会において必要な数学の素養を身につけること」のはずです。また、これも上ふたつと同様に「ユークリッド幾何学以外の数学では、『数学的直観』などは鍛えられないのか」という疑問に答えられておらず、ユークリッド幾何学を特別視する理由になっていません。
④もおかしいです。そもそも「歴史的に重要である」ことと「初等教育で教えるべき」という主張には何の関係もありません。歴史的に重要ならば教えるというなら、古代バビロニア、インド、中国などの数学は特に扱わないのはなぜでしょうか。もっと言えば、文字式や+-×÷などの算術記号が使われ始めたのでさえ、数学史的に見ればごく最近のことですが、昔はそれらを使わなかったからといって、今でもそれらを使わずに数学を記述するべき理由があるでしょうか。
数学で重要なのはその内容であるはずです。ユークリッド幾何学を擁護する論者は、「(表面的に)計算問題に見えるか、証明問題に見えるか」のようなところに価値を置いて、一方が数学教育的に有意疑だと見なしているようですが、そんな分類に意味は無いと思います。
大昔は代数の計算や方程式の解法(に対応するもの)は作図問題に帰着していたようですが、現代でそれと同様の手法を取るべき理由は全くありません。記述する内容が同じであれば、多項式や初等解析のような洗練された方法・重要な結果を導きやすい方法を用いればよいに決まっています(数学史家は別として)。同様に、ユークリッド幾何学も、解析的な手法で解ければそれでよく、技巧的な補助線パズルなどに興じたり、公理的な方法にこだわる必要はありません。
たとえば、放物線は直線と点からの距離が等しい点の軌跡として定義することもできますが、初等教育で重要なのは明らかに2次関数のグラフとして現れるものです。放物線を離心率や円錐の断面などを用いて導入したところで、結局やるのは二次関数の増減問題なのですから、最初から2次関数のグラフとして導入するのは理にかなっています。数学教育の題材は「計算問題か証明問題か」などではなく、このような観点で取捨選択すべきです。
三角比などを学んだあともユークリッド幾何学を教えたり、解析的な手法では煩雑になるがユークリッド幾何学の範疇ではエレガントに解けるような問題を出して受験生を脅したりするのは、意味が無いと思います。それは、「掛ける数」と「掛けられる数」を区別したり、中学で連立方程式を学ぶのに小学生に鶴亀算を教えるのと同様に、無駄なことをしていると思います。
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(*1)
現代数学では、n次元ベクトル空間R^n = Re_1⊕...⊕Re_nに
(e_i, e_j) = δ_i,j (クロネッカーのデルタ)
で内積が定義される空間上の幾何学はすべてユークリッド幾何学に分類されます。したがって、上にあげた座標空間、ベクトル、微分積分、一次変換なども敢えて分類すればユークリッド幾何学です。しかし、ここではその意味でのユークリッド幾何学が不要と言っているのではありません。飽くまでも、技巧的な補助線問題や、公理的な方法にこだわることが不要だと言っています。
(*2)
数学科の専門課程で学ぶガロア理論では、コンパスと定規による作図可能性が論じられますが、これは「作図問題にガロア理論が応用できる」というだけであり、「ガロア理論を学ぶのに作図の知識が必要」というわけではありません。
中学高校の数学から、いわゆるユークリッド幾何学は廃止してよい。理由は単純明快で、何の役にも立たないからだ。
大学に入ったら、どの学部に行っても、「補助線を引いて、相似な三角形を作って〜」などと言ったパズルをやることは絶対にない。メネラウスの定理を高校卒業以降(高校数学の指導以外で)使ったことのある現代人はいないだろう。こういうことは、別に高等数学の知識の無い高校生でも、常識で考えて分かると思う。たとえば工学で、弧長や面積を測定する機器が必要になったとして、補助線パズルが適用できるごく一部の多角形などしか測れないのでは話にならない。現代の数学および科学技術を支えているのは、三角関数やベクトルや微分積分などを基礎とする解析的な手法である。
もちろん、たとえば三角比を定義するには「三角形の内角の和は180°である」とか「2角が等しい三角形は相似である」等のユークリッド幾何学の定理が必要になる。そういうものを全て廃止せよと言っているわけではない。しかし、余弦定理まで証明してしまえば、原理的にはユークリッド幾何学の問題は解ける。また、実用上もそれで問題ない。したがって、余弦定理を初等的な方法で示したら、ユークリッド幾何学の手法はお役御免でよい。
これらはいずれも、高等数学を学ぶ際に欠かせない基礎となる分野である。仮にユークリッド幾何学が何らかの場面で使われるとしても、いくらなんでも微分積分などと同等以上に重要だと主張する人はいないだろう。
現在、これらの分野は十分に教えられていない。微分方程式と一次変換は現在(2020年5月)のカリキュラムでは教えられておらず、ベクトルは文系の範囲から除かれ、代わりにほとんど内容の無い統計分野が教えられている。また、高校生にもなって、コンパスと定規による作図みたいなくだらないことをやっている。本当に、どうかしているとしか言い様がない。
ユークリッド幾何学を教えるべきとする根拠の代表的なものは、証明の考えに触れられるというものだ。つまり、代数や解析は計算が主体であるが、ユークリッド幾何学は証明が主体なので、数学的な思考力を鍛えられるというものだ。
しかし、これは明らかに間違っている。別にユークリッド幾何学の分野に限らず、数学のあらゆる命題は証明されなければならないからだ。実際、高校数学の教科書を読めば、三角関数の加法定理や、微分のライプニッツ則など、証明が載っている。そもそも、数学の問題は全て証明問題である。関数の極値問題は、単に微分が0になる点を計算するだけではなく、そこが実際に極値であることを定義に基づいて示さねばならない。数学的思考力を養うのに、ユークリッド幾何学が他の分野より効果的だという根拠は無い。
小学校の円の面積の計算の問題でバズっているのを見かけたので便乗してみる。
初増田なのでなんかおかしなことがあったらごめんと先に誤っておく。
そして、わたしは計算が嫌いで物理と数学から逃げ続けた生物系研究者で、特に円周率に対して深い知識があるわけではないことも付け加えておく。
簡単に経緯を説明する。
「半径11センチの円の面積を円周率を3.14として計算した時の答えは、11*11*3.14=379.94は厳密には誤りで、
有効数字3桁で380の方が正しいのではないか?」
(ちなみに、半径11の円の面積を5桁の有効数字で表すと、正確には380.13である。)
円周率3.14は、実際には3.141592…という割り切れない値を3桁で表した概数である。
有効数字3桁で算出された計算結果は、やはり有効数字3桁であるから、正しくは小数点以下一桁目の9を四捨五入して380が正しい。
なお、379.94と回答した場合は、実際の円の面積とは異なる値となる。これをあたかも真の円の面積のように誤解してしまう可能性があるので、
小学生に有効数字の概念を教えるのは難しいので、設問に「上から三桁の概数で答えなさい」と入れれば万事解決
設問に「円周率は3.14とする」と書いてあるので、「円周率は3.1400000…」を仮定して解けば良いのではないか
あるいは、もう円じゃなくて円周率3.14000のなんかの局面を仮定すれば良いのではないか。
そもそも3.14だろうが3.141592(以下略)だろうが大して結果は変わらない(0.19なんて誤差)。これくらいの誤差は無視していい。
なんで理系はこういう細かいことを指摘してドヤ顔しているのか。こういうことをするから小学生は算数を嫌いになる。
私自身は「379.94は誤り」派です。おそらく理系の人の多くはそうだと思いますが。
「379.94でいいじゃん」派の意見もざっとまとめてみましたが、もし足りない点等ありましたら後で追記するので
教えて下さい。
以下に、「379.94は誤り」という意見を支持する理由を書きます。
円周率はπです。いつの時代も、どの世界線でも、関孝和が計算しようがアルキメデスが計算しようがライプニッツが計算しようがオイラーが計算しようが
そろばんで計算しようがスパコンで計算しようが円周率は割り切れません。
アルキメデスは古代ギリシア時代にあって、おそらく円に内接、外接する正96角形の周の長さを求める式から既に円周率が3.14の概数で表せることを導いていました。
しかし、古代から円周率の計算に取り組んできた誰もが、円周率を割り切れる数として扱った人はいないのです。
人類が何百年もの時間をかけて漸く得ることに成功したこの円周率を、「あ。3.140000でいいっすね」とか、たかだか小学校教諭の分際で勝手に変えることはできないのです。
ぶっちゃけ、言語は変わっても、数字の意味は不変です。これは自然界の法則だからです。
仮定はあくまで仮定です。それを元にした結果が解になることはありえません。
例えば、私は生物学者なのですが、「STAP細胞があると仮定して」実験を行って得られた結論は、信用に足るものになるでしょうか?
答えはわかりきっていますよね。
ちなみに、「円周率を3.14として」というのは「円周率を3.14と(近似)して」という意味です。
あと、比較として用いられていた「摩擦係数を0として」というのは仮定ではなくて想定です。地球上では作るのが困難ではありますが、
摩擦係数を0.00に近似できるくらいの環境なら作れるでしょ?その環境を想定してるんです。
それをあろうことかそのまま解にするなど、あってはならないことです。
結論から言うと、私は、小学生が「どれくらいの精度で円の面積を求められるか?」を、
誤解してしまうという点が、「円周率を3.14として有効桁数5桁まで求めてしまう」ことの
最大の欠点だと思うのです。
「んー、円周率3.14。半径11の円なら面積は121×3で363。
これよりちょっと大きいくらいだからまぁ、370くらいかなー?(正確には380です。)」
これくらいの精度で良い人間にとって、0.19(380.13と379.92の差)の違いなんて
もう誤差でしょ。そこに異論は無いのです。
しかし、小学生にとって、小数点以下二桁ってそりゃもうすごい精度ですよ。
半径の長さ11.0 cmと!魔法の数字円周率3.14さえ用いれば!
なんとなんと、数十平方マイクロメートル単位で円の面積が求まってしまう!
→実際には世の中そんなに甘くないわけですよ。
では次に、半径1111 cmの円の面積を円周率3.14で求めてみよう。
すごいですね~、どれだけ桁が増えても小数点以下二桁まで求まります。
ってんなわけあるか!!!!
1111*1111*3.141592654=3877733.79
これが正解。 ね?だいぶ違うでしょ?
でも、有効数字3けたなら、3880000。これならまぁだいたいこんくらいかーってのがわかる。
④−3で、「うわぁ、こいつめっちゃ細かいコト言ってるよ、これだから理系は。。。」
緑色の背景に、なんか動物っぽい白いものが写り込んでいますが、何の動物だかよくわかりません。
円周率3.14を使って半径11の円の面積を379.92と主張することは、この白い物体を「絶対馬だ!」って言っているようなものなんです。
有りもしないもの、本当にそうなのかよくわからないものを「絶対そうなんだから!私見たんだから!」と言っているどこかのOさんのようなものなのです。
私は最初、このツイート見た時、「まぁそんな細かいコト言わなくても。。。」
って思っていました。「379.94でいいじゃん」派的な考えだったわけですね。
その一番の理由は、
「3.14の次の値が1である」ということを知っているからです。
通常の概数だと、「概数で3.14」と言うのは、「3.135から3.144」までを想定してるんだけど、
まぁ大体3.14ってのはあってるんですよね。
でも、読んでいるうちに考えが変わりました。何故かと言うと、
「結構多くの人間が、円周率、有効数字の概念とその問題点を全く理解していない」
ことに気づいたからなんです。
挙句の果てには円周率を「3.140000」と「仮定」すればいいじゃん。
という人まで出てくる始末。
それでこの問題についてよくよく考えてみた結果、
「これはやっぱり、小学校であっても379.94を正解とするのはよくないな。。。」
と思ったんです。
このエントリーを読んでよくわからなかった人も、これだけは覚えていってください。
I. 数学とは、科学とは、世の中の真理を追求する学問であり、
人間に都合よく結果や値を変えることはできない。
πは3にも3.14にもならない。
II. 仮説は検証とセット。検証できない仮説を設定しては行けない。
仮説に基づいた結果を解にしてはいけない。
逆に役に立てるかと思い、書かせていただきました。
オモシロイと思って読んでいただければ幸いです。
こういう議論ができるのって、素敵ですよね。
たくさん反応があって驚きました。読んでくださった方々、ありがとうございます。
いろいろご指摘があり、自分自身勉強不足を痛感した点もありますが、
反論できるところは反論しようと思います。スター多めなブコメ中心に記していきます。
『ちなみに、「円周率を3.14として」というのは「円周率を3.14と(近似)して」という意味です』ここが違う。勝手に行間を埋めるのは科学者たる態度ではない。
違わないです。なぜなら「円周率」と書いてあるからです。そして、小学生は、「円周率」が割り切れない数であることを知っているからです。
もし、「円周率を3.14として」というのが「円周率を3.14と(近似)して」という意味ではなかった場合、
勝手に人間様が円周率を3.14ぴったりであると定義しなおしていることになり、それこそ数学への冒涜です。
そうですね。この表記をさせるのは流石に難しいです。
私は、「4桁目を四捨五入して3桁の整数で答えなさい」と、問題文に入れるのが良いと思います。
円の面積を求める問題ではなく、「11*11*3.14を計算せよ」というなら答えは379.94です。
でも、円の面積の求め方は、残念ながら小学校の先生が定義を勝手に変えられるものではありません。
真実は、この場合はたったひとつで、小学校の先生のほうが間違っています。
一辺の長さ3.14 cmの長方形を想定することはできますが、円周率3.14ぴったりの円を想定することはできません。
なぜならそれは円では無いからです。
じゃぁ円じゃなくて周率3.14ぴったりの変な局面を求めよといえばいい、と思うかもですが、
なんで小学生がそんなわけわからんものの面積を求めなければいけないのでしょうか?
私は、小学校で扱う整数は純数学的には整数だと考えていたので、11.00000…を想定していました。
もちろん11が有効桁数二桁の概数なら、380の3桁目を四捨五入することになります。
九九で扱う数は整数ですので、純数学で表すと、2.0000*6.0000…=12.0000…です。
「仮定」の結果得られたものが「解」になることはありえない→僕の好きな背理法を否定しないで。 理系といいつつ知識不足。中学生から勉強し直すべき。
私も背理法大好き。もちろん背理法も考慮に入れたうえでこの文章を書いた。
背理法では、仮定の結果得られたものが矛盾する→だからこの仮定は間違っているというプロセスをたどる。
仮定の結果をそのまま解としていないことに注意してほしい。
ルート2が既約分数p/qだと仮定して、結果的にはpとqが共通の約数を持つことで矛盾を証明する。
私は、例えば、
このまま「(2n+1)*(2n+1)=4n^2+4n+1 なので、奇数の二乗は必ず奇数。つまり4^2=16は奇数である」
この場合、間違った仮定から間違った結果が導かれているのがわかると思う。4も16も2で割り切れる偶数だ。
スターは少なかったがこれについてはぐうの音も出ない。
公理と仮定について理解が足りなかった。正直すまん。でも、やっぱりπを3.1400000と仮定するのはダメだと思う。
なぜなら観測的にもありえない上に、後から検証もされないから。
ただ、有効桁数3桁で算出される結果に5桁を求めるのは無意味だし間違っているという主張です。
「3.14と仮定して」とあるんだから、「3.14」の次の桁など問題文中の世界には存在しない。「3.14000」なんてどこから出てきた?
「a=3.14と仮定して11*11*aの解を求めよ。」だったらこんな議論にならないのよ。
円周率だから、3.14ぴったりじゃだめなの。ちなみに、3.14の次の桁は、あなたの頭のなかには存在しなくても、この世界には存在するのだ。残念ながら。
半径11の円の面積は12100だと主張するのか? 私は、あまり自身が無いけど、間違っているのはあなたなんじゃないかと思うな。
でも、円周率が100の世界を仮定して検証するとしたら、それはそれで数学への扉を開いているのかも。
もちろんそう。問で聞かれているのは公式を覚えているかどうか?
だけど、3桁目までしか信頼できなくて、残りの桁は全部意味がないことを、おとなになっても理解できない人がたくさんいることが分かったので、
問題だなと思ったわけ。
実際求められるよりも遥かに細かい精度で円の面積が求まると誤解するのが恐ろしい。
実際、多くの人が半径11の円の面積は?って聞いたら379.94と答えると思う。間違ってるのに。
おわりー!
結論としては、「3桁の概数で表わせ」と問題文に付け加えるのが一番しっくり来る。
これを小学生のうちに叩き込んでおけば、
中1の有効数字の概念もすんなり受け入れられるのではないかな?
以下おまけ
半径2、または1をピッタリ2.000、または1.000と答えるなら、
半径2の面積は12.56の6を四捨五入して12.6。半径1なら3.14と記すべき。
1とか2を一桁の概数として表すなら、
半径2の円の面積は10。半径1の円の面積は3と記すべきだとおもう。
知りませんでした。もっと知りたいのに検索かけても出てこなかったので、
ソースいただけると嬉しいです。
スターバックスが日本に来てからどれぐらい経つだろうか。近年まだ出店していない自治体で出店した所、大人気に…といったようなニュースを見た。
私は残念ながらスターバックスのあの店の感じも、あのコーヒーの味も元々苦手で、北米は元より、日本もできるだけ使わないようにしているのだが。
ここはネットだからまだいいのだが、この手の発言を未だにリアルですると、明らかに周囲がドン引きしているのがよく分かる。勘違いしてほしくないのだが、スタバがダメと言っているわけではない。私の好みでないだけで、それは彼らがまだトレンドだった遥か昔から変わらぬ想いだ。
自分には両親がいて幸いまだ健在であり、自分の結構な部分を彼らには話をしていて共有しているつもりだ。
明らかにどんなにそれが自分にとってはただの好みの話であると言っても、両親は自分たちが愛してやまず、よく通っているスタバの批判をされた事に明らかに機嫌を悪くしていた。
人間の理性とはなんなのか、そして批判精神とは何なのか。感情は不可分なのか。
ライプニッツはこういった。 Musica est exercitium arithmeticae occultum nescientis se numerare animi と。
パスカル氏談:
ライプニッツ氏談:
参考:
別々のものは別々のものであるから、それを同一視するのはナンセンスであるというのは自我に基づくものであって、他我の存在を無視していることに繋がる。
正直に言うと、この一行を正しく理解できている自信がないのですが
つまり、『「別々のものは別々のものである」という解釈は、主観的な解釈である』(他我の解釈を無視している)ということでしょうか
また、貴方が最終的に仰りたいのは、恐らく『自我と他我との断裂は埋め難く、それ故にレッテルと自己の内面との差異を言語によって証明することは不可能なのではないか?』ということなのだと私には思われました
もしそれが貴方の問いたい内容なのであれば、私はこう答えます。「実に全くその通りだと思います」
しかし、そう思うのと同時に、とある言説において反論が可能であるように思います。
というのも、それは『自我とはそもそも言語化するべきでないものなのだ、あるいは自我とは言語化できない存在なのだ』という言説です。
すなわち『レッテルを貼るという行為における地平を超越した地平に、自我は存在するのであり、そもそもそのようなことを証明する(レッテルを否定する)必要はないのだ』という言説です。
さてこの言説に則って更に反論を進めるとすれば『何故自己はレッテルの地平を超越していると言えるのか』ということに対して証明が必要です。
しかし前提として、このことの(言語による)証明は不必要であると先に述べてしまったので、証明そのものがナンセンス化しているのですが、しかし敢えて説明を行います。
関係性の地平は、実在性の地平、つまりレッテルの地平を超越しているといえます。
というのも、関係性とは『ものとものの間にあるもの』なのです。
では、どのようにして『関係性であるところの自己は、実在性(ものの地平)を超越しているのか』についてですが……これについては私も勉強中なので確たる答えが返せません! しかし敢えて言うならば、我々の自己意識(自我)が、ある単独なもののみによって構成されることでは、存在し得ないからだ、ということが言えるでしょう。
というのも、ある単独のもののみで構成されている世界には、存在理由がありません。
このように断定することができるでしょう。(ライプニッツのモナドロジーは否定されるべきだと私は思います)
存在する理由(存在における『How、及びWhyという双方の質問に対する説明としての理由』)がないのに物事は存在できません。
すなわち、自我が存在する方法としては、ある単独のものを用いるだけでは不十分なのです。
そして、相補的な二つのものにおける関係性としてでしか、人間の自我は存在できないのでしょう。
食い下がってんのはお前だろ。
いや、形式的にみても実質的にみても、撤回したはずなのにちっとも撤回して見えないのは君が食い下がってるからなんだが。
民主主義も自由主義も自然科学も、キリスト教と論理的に直結はしていない。
たまたまキリスト教圏で発生したから影響は見られるがな。
文学研究とか歴史研究という分野を知らんのかねこの人は。それからいうまでもなく東洋哲学とか仏教学がある。え?なに?広義の文系学問ばっかりだって?気象学とか地震学でも過去の記録は見るよ。
それが「一般人レベル」か? 高校で教える価値があるかどうかは微妙だが。
そりゃどんな学問上の専門知識でも使う分野では使うに決まっているわけだが。
近代(あんたのいう近代と中世の境界線はどこだ。ルネッサンスかウェストファリア条約かフランス革命か)
日本の古典の話をしてるんだが。とりあえず便宜的に日本の言文一致体以前以後で区切ってみようか。
なんか、今でも一般人が学ぶ意義のあるような文献がそれ以前にある?
論文のリファレンスにニュートンだのライプニッツだのの著書を挙げる奴がたまにいるが、あれを実際に読んでるのは物好きだし、読まなければ理解できないなんてことはまるでない。
欧米の政治思想の本なんかはそれこそニュートンの時代のとか普通に今でも重要でしょ。直接読まなくても現代語でまとめた書籍が存在するという意味でいらないと言っているのなら分かるが、そういう言い方をしちゃうと、そもそも必要な古典なんかひとつもなくなってしまうぞ?
お前のいう「役に立つ」の定義は何なんだ。「金になる」という意味ならそれこそ文化政策やステータスシンボルとしてでも十分日本の文化は役に立つことになるだろう。「過去の旧弊を断つために異文化を学ぶ」のであれば、「一般人」にとって英語が役に立つ例にはなってないよなあ。
君の言うステータスシンボルのような意味での「役に立つ」自体を俺は批判し否定してるんだよ。まやかしだってな。で、撤回したんじゃなかったか? やっぱ食いさがってんじゃんww
一方で、海外のほとんどのライブラリのドキュメントは英語で書いてあるから、英語はとても役に立つなあ。
「才能職」(笑)がどんなものかは知らんが、学問的なトレーニングという意味での努力が役に立つ仕事というのが情報工学の分野の主流なわけで
うーん、でも君のFORTRANやC,C++についての言及のとんちんかんぶりを見てると、そのトレーニング(笑)とやらはどうも成果が出てなさげに見えるんだがなあ。つーかそれなりに本を読んでれば言わないようなことばっか言ってるよなあ君。
おやおや、「本物のエリート」がえらく縮小したね。MITはそのレベルの大学だというのなら、人口比からいって日本にもそのレベルの素質を持った人間は毎年千人単位でいることになるし、MITと同レベルの大学はほかにもいくつもあるから、もっとすごい数になるだろうね。だったら、欧米先進国様に丸投げして済む数ではないね。
えーと、そういう主張をしたいのならまずソースよろ。
で、それが本当だろうがそうでなかろうが、そもそも君の突っ込みはずれてる。俺の言ってるのは、ただの東大卒程度でエリートなんて呼ぶ必要ないだろ、ってことなんだが。毎年数百人も生まれるのに。
本当に新天地を切り開くようなエリートってのは、せいぜい数人程度だろ。その数人にどういう教育をするかと考えた場合、国内でまかなおうなどと無駄な縄張り意識を発揮するよりは、とりあえず世界トップレベルの大学に送り込めばいいんじゃないの、と。
教育課程を見直すとして、国を背負うほどのものでもない普通の東大生数百人のレベルをギリギリにチューンすることに金を使うよりは、普通の大学を出る普通の何万人のレベルを上げるほうが安上がりだし価値があるんじゃねえの、と。だから、「公教育の目的は平均と底辺を上げること」と何度も言ってるんだよ。
確かに、スパコンとかを用いた理論物理の一部の分野でFortranが主流になっている分野は存在することは存在するらしいな。
つか、スパコンの対応状況の問題でそういうのがある。多分俺が知ってた頃よりだいぶ減ってはいるだろうが。
だが、そうした一部の分野の傾向だけを捉えてFortranが主流だなんていうと大間違いだろ。
俺はFORTRANを主流だとは言ってないと思うがね。スタンダード(標準)だとは言ったが。主流と標準の違いは分かるよな?
さすがにまだ標準の座はC++に奪われたりはしてないと思うんだが。
ちなみにあらかじめ釘をさしておくが、LAPACKとかそういう既製品の数値計算ライブラリがFortranで書かれてるから云々などと言うなよ。
そうか、じゃあライブラリが何で書かれているかはとりあえず別の話にしようか。
でも、コアの計算部分がライブラリに分離されちゃうケースが増えると、ますます低水準処理がどうこういう意味がなくなるような。
C++と、お前さんが「数値計算の実習はFortranではなくCを用いましたが」と表現したCとで、実際どの程度パフォーマンスが違うと思ってるの、と聞いてるんだけど。どっちも同程度に低水準な処理は書けるぞ。
不完全な引用でごまかさないようにw正しく引用しなおしてあげよう。
お前さんが「君も一応理解してるようにC++やましてJavaでの数値計算は「出来ない話じゃない」程度のことで、向いているとはお世辞にも言えないだろ?」と表現したC++と、お前さんが「数値計算の実習はFortranではなくCを用いましたが」と表現したCとで、実際どの程度パフォーマンスが違うと思ってるの、と聞いてるんだけど。
と俺は書いたんだ。
「君も一応理解してるようにC++やましてJavaでの数値計算は「出来ない話じゃない」程度のことで、向いているとはお世辞にも言えないだろ?」という文章内での君のC++評価と、「数値計算の実習はFortranではなくCを用いましたが」という文章内での君のC評価の乖離について俺は質問している。
いや、多分Javaに引きずられてつい実際より悪く書いちゃったんだろうとは思うんだけどな。だったらそう訂正すればいいんだよ。それにJavaが遅いのは低水準が云々以前の問題だしな。
そうか、お前は俺のことをウヨだと思ってたわけか。そういう前提で下らん決めつけをしてきたのだと考えると全て辻褄が合うが。で、なんだね?俺は近代国家なんてフィクションだと思ってるから敢えて分類すれば極左なんだがね。ワールドカップと同じで、わかった上でフィクションに乗るから楽しいんだよ。わかる?俺から見れば近代主義者ってのは保守反動なんだよ。というわけでお門違いだったな。
……じゃあなんで食い下がってるんだ?
食い下がってんのはお前だろ。お前が俺のことを捏造した発言に基づいて馬鹿呼ばわりすることに対して異を唱えているだけであって、文化は役に立たないで構わんということは何度も言ったはず。
いや、俺が助け舟出してやってるんだぞ?
なあにが助け船だよ。お前が食わず嫌いする論点をこっちから避けてやってただけじゃないか。偏狭なドグマを信奉してるのはお前なんだよ。カルト信者と宗教論争しないのは定石だろ。
それをいうとそれこそ、お前の大好きな欧米先進国様の思想は宗教的価値と直結しているんじゃないのか?
学問的知識で一般人レベルで近代以前の文献を参照しなきゃならんようなものはないだろうし(あったらそれを指摘してくれ。一発で納得してやるから)。
文学研究とか歴史研究という分野を知らんのかねこの人は。それからいうまでもなく東洋哲学とか仏教学がある。え?なに?広義の文系学問ばっかりだって?気象学とか地震学でも過去の記録は見るよ。そうでなくたって、自然科学研究だって近代(あんたのいう近代と中世の境界線はどこだ。ルネッサンスかウェストファリア条約かフランス革命か)以前の文献を実際に参照することはないぞ。論文のリファレンスにニュートンだのライプニッツだのの著書を挙げる奴がたまにいるが、あれを実際に読んでるのは物好きだし、読まなければ理解できないなんてことはまるでない。
お前のいう「役に立つ」の定義は何なんだ。「金になる」という意味ならそれこそ文化政策やステータスシンボルとしてでも十分日本の文化は役に立つことになるだろう。「過去の旧弊を断つために異文化を学ぶ」のであれば、「一般人」にとって英語が役に立つ例にはなってないよなあ。
端的に言って才能職だな。人それぞれ立場が違うのは分かってるよ。古典によるハッタリや学閥が幅を利かせる業種だってあるんだろう。
「才能職」(笑)がどんなものかは知らんが、学問的なトレーニングという意味での努力が役に立つ仕事というのが情報工学の分野の主流なわけで、工学のイロハのイである線型代数すら理解しないほど努力不足なお前が情報工学の本流を理解していることはあり得ない。いい加減に思い上がりを捨てたまえ。
おやおや、「本物のエリート」がえらく縮小したね。MITはそのレベルの大学だというのなら、人口比からいって日本にもそのレベルの素質を持った人間は毎年千人単位でいることになるし、MITと同レベルの大学はほかにもいくつもあるから、もっとすごい数になるだろうね。だったら、欧米先進国様に丸投げして済む数ではないね。
ま、MITがそこまですごい大学だと思ってるとしたら、どう考えても妄想ですよそれは。だいたい年に数人なんてレベルの人間を組織的に指導できるわけなんかなくて、非常に優秀な指導教官がそういうことをすることができるだけなんだが、そのレベルにある(つまり、ある学問分野の世界的権威の)研究者なら日本にも大勢いると言っているんだよ。
でも触ったことなさげだしなあ。
たとえ使わなくても、FORTRANが数値計算用の言語としてスタンダードであり、その利点は別に低水準な処理がどうこうというのとは関係ない、ということはこの議論では抑えてないとダメだろ。
俺には研究者の知り合いもそれなりに大勢いるが、Fortranの話なんて一度も出たことがなかったんだが、あんたが余りにも自信たっぷりにいうもんだから調べてみたわ。確かに、スパコンとかを用いた理論物理の一部の分野でFortranが主流になっている分野は存在することは存在するらしいな。
だが、そうした一部の分野の傾向だけを捉えてFortranが主流だなんていうと大間違いだろ。というわけであんたの話はハッタリか、少なくとも視野が狭かっただけだと確信できた。もう結構。
ちなみにあらかじめ釘をさしておくが、LAPACKとかそういう既製品の数値計算ライブラリがFortranで書かれてるから云々などと言うなよ。
C++と、お前さんが「数値計算の実習はFortranではなくCを用いましたが」と表現したCとで、実際どの程度パフォーマンスが違うと思ってるの、と聞いてるんだけど。どっちも同程度に低水準な処理は書けるぞ。
当たり前だろ。C++はCの(ほぼ)上位互換なんだから。誰がそんなことを言ったかね。重たいクラスライブラリの厚い壁を通して、数値計算という比較的単純な処理をやる奴はセンスがないだろうし、自分の書いたコードが計算機のなかでどういう風に動くかというイメージを持っておけば見通しがよくなるだろ、とそれだけのごく常識的なことを主張してるんだが、なんでこれだけのことを言うために(しかもこのことは何度か繰り返して書いたはず)お前の揚げ足取りに延々と付き合わないといかんのだよ。馬鹿馬鹿しい。
お前様の気に食う視点から、お前様の脳内の模範解答と一言一句違わない答えを書かなければ馬鹿だのウヨだのと認定されないといかんのかよ。どんだけ頭がいいんですかね。
本当だ。消えないうちにグーグルキャッシュからサルベージしておこう。
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