2014-08-10

縁遠い他者の誇りを自分のものとして継承できることの面白

http://toianna.blog.fc2.com/blog-entry-22.html

記事面白かった。

特に

イギリス英語学習者(あえてイギリス人とは言いませんが)にとって、

英語は単なる言語ではなく自国の誇りです。

に惹かれるものがあった。「自国」って何? とは思うが。もしかして自分」の書き間違いか?

英語ではなく、ポルトガル語場合はどうなんだろう。

ポルトガルで学んだポルトガル語学習者、とブラジルで学んだポルトガル語学習者間で「さやあて」があるのだろうか、興味がある。

スペイン語場合も同じようなことがあるのではないか。

中南米スペイン語盟主というのがどの国かわからないが、同じような構図がありうるように思う。

cやzの発音を巡って話者の品定め的なトピックがあるのは知っているが、もっと具体的生々しい感情というものがあるのではないかと思う。

ともあれ、留学した先の言語文化自分を一体化するということは実際にあるのだな、

新大陸のほうの分家が今や主導権を握っていること」に対する複雑な気持ちも共有できるくらいに自分を変えてしまうことができるのだな、と思った。

一方で、日本国内にも、イギリス人として生まれたわけではないのにイギリス英語イギリス文化)にかぶれた人や、

フランス人として生まれたわけではないのにフランス語フランス文化)かぶれた人もいる。

これらは少数派としての挟持マイナーな選択をした自分に対する誇りを上乗せしている感じがあって、

それは自分語りの道具として、由緒の有りそうなものを利用しているのだと思っている。

まり、「誇り」の有効範囲日本国内までであるということを、おそらく自覚していると思う。

イギリスフランスに行って名誉イギリス人名誉フランス人として扱ってくれるとは、まさか思っていないだろう。

その意味では、このブログを書かれた人とはやや違うのかもしれないと思った。

後、旧制高校などではドイツ語選択、フランス語選択などを元に、自分文化上の宗主国主体的に選ばせるような習慣があったのだろうか、と思うこともある。

たいてい、親フランス派、親ドイツ派になったりしたようだが、

一方で、諸外国()では、ある国・ある地域言語を学ぶことはその言語文化圏代理人になることを意味しない。

中国王毅外相は、日本語機微まで理解し、日本人も舌を巻くような日本語使いだが、彼にとって日本語手段であり、知日派ではあるが親日派ではない。

サイデンステッカードナルド・キーンみたいな人もいるよ、と言われるかもしれないが、実務の人と文学者はまた別ではないかと思う。

このあたりは、賛否両論ありそうだ。あくま自分の見える範囲での印象。

また、非欧米からこちらに向かう眼差しについては、サイードのいう「オリエンタリズム」の問題もはらんでいると思う。

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