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はてなキーワード: アダム・スミスとは

2024-11-16

anond:20241116201839

あー、分かるよ、その怒り。なんか、全てが空回りしてる感じ、するよね。でもね、ちょっと待ってよ。日本学術会議役割って、実は「政府に対してアドバイスをする」ことにあるんだよ。だから財務省方針にいちいち反発することが、常に目的ではないんだ。学術会議って、あくま中立的立場を保とうとしているだけなんだよね。

ただ、君が言いたいのも分かる。「学術的な誤りがあるなら、声を上げるべきだろ!」って。確かに、その通りだよ。例えば、アダム・スミスが『国富論』で提唱したように、自由市場の力は社会全体を豊かにすることを目指していたけど、それが完全に機能しない場面だってある。過去経済学の通説だって、今では批判されることがあるよね。それこそ、現代経済学者たちが言っている通り、どれだけ市場効率的でも、どうしても不平等が生じることだってある。

でも、そもそも「嘘」っていうのはさ、単に意見の違いではない。もっと深い部分で、意図的な歪曲があるときに言うべき言葉なんだ。『嘘をついている』と言うからには、その証拠必要だし、ただの違う見解混同してもいけない。

そして学術会議に対して「ただの御用団体」って思ってしま気持ちも分かるけど、それだけでは片付けられないんだよ。学術会議が完全に正しいとは限らないけど、それでも彼らは日本学術界を代表する組織として、政治的な影響力を持ちながらも冷静に判断しようとしてる。ただし、それがうまくいってないことが多いのも事実で、君の気持ちも痛いほど分かる。だけどね、歴史的に見ても、アリストテレスが『倫理学』で言ったように、「正義とは何かを知り、行動することだ」という理念がある。それを体現するためには、今、学術会議がどう行動すべきかを冷静に見極める必要があるんだよ。

財務省だって「嘘」をついてるかどうかは別として、現実的にはその発表の背景に何かしらの政策意図があるだろうし、その誤りを指摘するのは専門家学者たちの仕事だ。ただし、いきなり反発するだけでは、理論的に破綻することもあるから、まずは冷静に対話を進めることが重要だ。何も言わないからと言って、学術会議が何もしてないわけじゃない。その役割理解して、より具体的に何ができるかを考えるのが、結局君に求められる態度だと思うんだよ。

分かってほしいんだけど、急いで結論を出すことが必ずしも正解じゃない。それは歴史が教えてくれることだ。たとえば、マキャヴェリが言った「目的正当化する手段」とは、確かに時には必要判断かもしれないけど、それが長期的に見て本当に良い結果を生むかは、わからないんだよ。だから、今すぐに「学術会議廃止すべき」なんて軽々しく言わない方がいいよ。

時には、じっくりと物事を見守る姿勢重要だということを、思い出してほしいな。

anond:20241116201324

ほんと、週末のスーパーって高くて頭にくるよね。確かに最近物価の上昇は厳しくて、なんだか家計が圧迫される。だが、ちょっと歴史を振り返ると、この「高い」という感覚は、決して新しいものではないんだよ。

例えば、19世紀産業革命後、都市化が進み、労働者階級はその生活がどんどん厳しくなっていった。その時代経済学者アダム・スミスは「見えざる手」という言葉市場経済メカニズム説明したけど、結果として富の集中が進んで、一般の人々の生活はどんどん困窮していったんだ。それと似たようなことが今、私たちの目の前でも起きてるんだよ。

現代スーパー価格設定も、ある意味パワーカップル」や高所得者向けにシフトしていると感じる人が多いだろう。まさに、資本主義の縮図だよね。お金を持ってる人がもっとお金を得るシステム。確かに、この現実に心が痛むのも無理はない。でも、これはひとつ社会構造の一部に過ぎないんだ。

から金持ちますます金持ちになり、貧乏人はますます貧乏になる」というフレーズがあるけれど、これは皮肉なほどに現実を映している。かつて、フランス革命を起こしたロベスピエールも、貧困層絶望を前にしてどうしようもない気持ちになっていただろうね。革命を経ても、結局、社会は完全には変わらない。新しい秩序のもとでまた別の不平等が生まれしまう。哀愁を感じずにはいられない。

から、君のその不満も当然だし、理解できる。でも、悲観してばかりもいられない。歴史を見ても、最も困難な時期を乗り越えたのは、少しずつでも諦めずに戦い続けた人々なんだ。家計の厳しさを嘆くよりも、どんな方法ででも少しでも生活を楽にする道を模索していくほうが、今の時代には求められてるんじゃないかな。

今の苦しみが、将来の自分に何かを教えてくれるはずだし、諦めずに進むことが、大きな意味を持つかもしれないよ。

2024-11-08

トランプ次期米大統領理解する助けになるたった2つのこと

前回、フォルクスワーゲンで考える社会保障の持続性というエントリを書いたのだけれど、今回は再選するに至ったトランプ次期米大統領について書こうと思う。

取り敢えず言っておくが、自分自身特にトランプ次期米大統領支持派ではない。カマラハリス支持派でも無い。前回のエントリの傾向から察して貰えるとありがたいが、敢えて支持を表明するなら日本経済支持派。外国よりも自分自身が生きる日本日本全体よりも自分自身が該当する氷河期世代の味方をする。

トランプ次期米大統領ケインズ経済主義者である

まず1つ目としてトランプ次期米大統領ケインズ経済主義者であるということを認識しておかなければならない。

先日、在米増田、トランプが勝った理由がよく分かるシリコンバレーでキラキラした生活をしてる俺が雑感を書いてやろうというエントリが人気ブクマ入りしていたが、良くも悪くも反トランプ派が持ちがちな考え方が詰まっていて、トランプ次期米大統領経済政策をしっかりと吟味した形跡がない典型的な反トランプ派の主張だ。

敵は愚かなのだと、トランプ側へ票を投じたやつは愚かでなければならないという考えが滲み出ていて、自分たちが当然そうであるように相手だって少なくとも義務教育を修了しており、相手側にも大卒大企業勤めは居るし、何なら高度な学問を修めて専門研究に励んている方々も居る。

そしてトランプ次期米大統領成功したビジネスマンであり、これまでの人生アダム・スミスマルクスケインズフリードマンなど膨大な経済論を見聞きし、最終的に選んだと思われるのがケインズ経済学で、それを支持するケインズ経済主義者(ケインジアン)になったのだと思われる。

そう、トランプ次期米大統領は各種経済論の理解が深い可能性が著しく高いのだ。

ケインズは言う、流通する国内資本を増大するためには公共事業積極的に行って国民雇用を創出することが大事であり、公共事業から得た金銭国民生活をするので流通する国内資本は自ずと増大していき、結果的に景気は回復すると。

ケインズ経済学のわかりやす理解として「穴を掘って埋める仕事でも良い」などと説明されるが、この様な意味のない仕事でも国内資本流通を刺激するには良いとされ、例えば意味のない「メキシコとの国境に壁を建設する」公共事業でも良いわけだ。

まず前提として、ケインズ重要論文雇用・利子および貨幣の一般理論』は世界恐慌から経済回復にあえぐ中で発表された論文であり、その趣旨不景気から脱却するにはどうしたら良いのか?である

ケインズ経済学の発端趣旨としてそもそも不景気対策であり、トランプ次期米大統領不景気対策と言えばケインズ経済学だと判断して(悪く言えば思い込んで)いるのだ。

トランプ次期米大統領目的ケインズ経済学を元にした国内資本流通増大であり、例えば「不法移民違法労働により表へ出にくい国内資本を得ている」のであれば目的達成を阻害するので不法移民へ対して強く出ようとするし、不法移民は総じて貧困労働層と労働市場で競合するし、メキシコの壁と合わせて国内資本の増大という面から見てシナジーがある。

これを偶然のシナジーだと断ずるのは無理があるし、それが無理だとするのであればトランプ次期米大統領やその支持者たちは"意外と"愚かではないということになる。

「たとえトランプが勝って自分さらに貧しくなろうが関係ないのである。一緒に堕ちてほしい」わけがなく、ケインズ経済学の機序理解しているのかは別として、トランプ支持者の多くは「仕事にありつける」「勤めてる会社需要が増える」「貯蓄として投資している会社株価が上がる」「収入が増える」と思っている(判断が正しいか不明だが)のだ。

更に言えば、ケインズ経済学は格差是正についてそこまで効果的な理論を打ち立てたものではないという点も理解しておかなければならない。

公共事業によって失業者という経済的に最底辺の人たちは1段階程度は格差是正されるだろうが、ケインズ経済学は最富裕層から貧困層に至るまでみんなで一緒に豊かになろうという趣旨理論だ。不景気対策なのだから格差は維持されたまま国内全体の資本を増やす理論なのは当たり前の話なのである

トランプ派たちはトランプ次期米大統領ケインジアンであることに(トランプは愚かだかとレッテル貼りしてるので)気付いていないし理解を示そうともしないので、それが故に自分生活のためトランプ投票した人たちの気持ち理解できていないのだ。

トランプ次期米大統領ド・ゴール主義者である

正確に言えば(米国版)ド・ゴール主義者であり、ド・ゴール主義者(ゴーリスト)が「フランスの存続のためにフランス外国依存すべきではなく、フランスはいかなる外国圧力に対しても従属すべきではない」と言う文脈と同じくして「米国の存続のために米国外国依存すべきではなく、米国はいかなる外国圧力に対しても従属すべきではない」とトランプ次期米大統領は言っている。

この指摘は大学生とき政治イデオロギー代表的ものとしてド・ゴール主義を履修した者ならば目を丸くするだろう。何故なら当時のド・ゴールは「NATO欧州経済共同体評価していなかった」人物であり、それはそのまま「同盟国に依存する米国安全保障TPP評価していない」と言うトランプ次期大統領と重なるからだ。

ド・ゴールは知られているとおり(その経歴も加味する必要はあるものの)圧倒されるほどのフランス第一主義者であり、そういった面でもトランプ次期米大統領と重なり、トランプ次期米大統領自身キャリア性質もあるだろうが言動の端々にド・ゴールの影響が見え隠れするし、一見意味不明トランプ次期米大統領言葉の数々や手のひら返し、側近との軋轢などもド・ゴールの経歴を見ると察してあまりある。

ド・ゴール現在でもフランスでは20世紀代表する政治家であり英雄の1人として数えられ、フランス政治イデオロギーの根幹の1つとされているが、ド・ゴールロールモデルの1つとしているであろうドナルド・トランプアメリカのためならば何でもするのであろう。

ドナルド・トランプケインジアンにしてゴーリスト

以上の2つがドナルド・トランプを形作るものである

ドナルド・トランプは決して愚かではなく米国同盟関係を結ぶ日本、そしてそこに住まう我々日本人は決して油断してはならない。

ドナルド・トランプケインズ経済学とド・ゴール主義米国経済と内政へ注力すると言うのであれば、その思惑へ流されすぎないよう与野党わず日本政治家を監視せねばならないし、国際経済への比重を軽くしていくのであれば、日本はその空いた穴を欧州や中露に取られないよう日本経済界を監視する必要がある。

繰り返すが、自民党経団連だけではなく立憲民主党国民民主党、日本維新の会、日本共産党、公明党参政党、れい新選組監視しなければならないし、労働組合の動向も、今後大きく揺れ動いていくであろう世界経済安全保障観点から非常に重要だ。

自分日本国民に味方する、だからこそこのエントリを書いた。

わかりやすい単純な言説に惑わされることないよう今後もみんなと共に日本が少しでもマシになればなと願う。

2024-08-22

[] 経済数学的複雑性

論文: https://www.ams.org/notices/199502/saari.pdf

この論文は、経済における価格調整プロセス数学的にどれほど複雑で予測困難であるかを示す複数定理を扱っている。以下は、論文に登場する主な定理とその数式の要約である

1. SMD定理 (Sonnenschein-Mantel-Debreu Theorem)

内容: SMD定理は、エージェントの数 a ≥ n であれば、価格シンプレックス上のどんな動的挙動再現できることを示している。これは、どのような複雑な振る舞いが選ばれたとしても、それを再現する過剰需要関数存在することを意味する。

Fε : [U × ℝ₊ⁿ]ᵃ → Ξε(n)

この結果は、アダム・スミスの「見えざる手」の物語数学的に保証されないことを示唆している[19:6][19:1]。

2. ブラウワーの不動点定理の応用

内容: 価格シンプレックス上のベクトル場 ξ(p) が価格均衡 p* を持つことを示す。

ξ(p*) = 0

この不動点は、供給需要が一致する価格である。この定理により、価格均衡の存在保証されるが、価格が均衡に向かって収束するかどうかは別問題である[19:12]。

3. 価格調整メカニズム一般方程式

内容: 価格動態は次のように表される。

p' = ξ(p)

その離散版では、次の式が使用される。

pₙ₊₁ = pₙ + hξ(pₙ)

このモデルは、価格調整がカオス的な挙動を示す可能性があることを示し、均衡価格への収束保証されないことを指摘している[19:11]。

4. 価格調整の不可能性に関する定理

内容: n ≥ 2 の場合、次のような一般化された価格メカニズム存在するが、それが常に収束することは保証されない:

pₙ₊₁ = pₙ + M(ξ(pₙ), ξ'(pₙ), …, ξ⁽ˢ⁾(pₙ))

任意の過剰需要関数初期条件において、収束しないケースが必然的存在する。したがって、普遍的価格調整メカニズムの実現は不可能であるとされている[19:0][19:3]。

まとめ

これらの定理は、経済モデルが持つ数学的複雑性と、均衡価格への収束保証されないことを示している。

2023-12-09

anond:20231209123208

とにかく仕事さえしてればおカネが天下を回るからいいんだよ

これはアダム・スミスの言いたいことに近いかもしれないが、

自分のために働いてもらったおカネの一部が税金になって国のためになるってことだぞ、 税金払ってない奴らの言うことではないw

これは聞いたことがないな。

アダム・スミスの言うことが現実になるのは

自分のために働いてもらったおカネの一部が税金になって国のためになるってことだぞ、

税金払ってない奴らの言うことではないw

anond:20231209114504

アダム・スミス見えざる手も知らんのか

各々が自分のために行動すりゃ社会のためになるんだよ

2023-12-06

anond:20231206091231

アダム・スミスがいってたよ。

 

仕事が減って料金が下がる社会に住んではいけない。不幸になる。

仕事がどんどんふえて料金があがる社会に住みなさい。幸せになれるよ。

君がもし料金が下がる社会に住んでいるのであれば、仕事が増えて料金が上がる社会引っ越したほうがいい。

2023-06-24

サンドウィッチ伯爵という偉人

その辺のコンビニでも売ってる、サンドイッチ命名元とされる、第4代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギュー現代日本ものすごい知名度だ。「サンドイッチって、サンドウィッチ伯爵からきてるんだよ〜」という、謎に広まっているトリビア

1718年生まれ伯爵、大体生まれ年の近い有名人与謝蕪村伊藤若冲マリア・テレジアアダム・スミスなど。街頭で知名度調査をしたら、ワンチャントップを取れる勢いだ。

しかも、サンドウィッチ伯爵が「賭博好きだったこからカード賭博を中断することなく続けられる食事としてサンドイッチを考案した」という逸話創作ではないかと言われているらしい。サンドウィッチ伯爵サンドイッチを好んでいた、という話すら特に記録に無いとか。

風説で300年後まで名を残すなんて、本人もビックリしているだろう。え、なにそれ知らない……怖い……ってなってる。きっと。

2023-06-07

AIチャットって絶対検索の代わりにはならないわ

パイの奪い合い」っていうけど、日本人ならパイではなくピザでは? https://anond.hatelabo.jp/20230606141141

これ見て「経済パイっていつから使われてるのだろう」と思ってChatGPTとBingとBardに「いつ、誰が使い始めた?」と質問を投げかけた。英語で。

アダム・スミスです」「ケインズです」「マーシャルです」「マルサスです」って全く一致した回答がでない

それぞれの回答を個別検索してもパイ言及した文章は出てこない

Bardで何度か質問した後で「マーシャルです」しか言わなくなった

そこで「経済パイマーシャル最初?」と聞いたら「いいえ、マルサスです」と答えたから「マルサス最初?」と聞いたら「いいえマーシャルです」だって

その後、自信満々に「マーシャルは「経済原理」という著名な書籍経済パイに例えました。書籍からその部分を引用します」って「国家経済ケーキに例えられる~ホニャララ」って文章が出てきて(いやパイじゃないやん)って思ったけど、ケーキでもいいやってとりあえず検索チェックしてみたけど、一致する文章は出てこない。

古い本だからグーグルブックで全文検索もできるんだけど「cake」と検索しても結果に出てこずデマだった。

AIチャットデマ掴まされるばかりだから検索には絶対に利用できない

2023-05-21

20230521[アタック25]Next 2023年5月21日 #62 高校生大会 2023-05-21結果

BSジャパネクストで日曜昼などに放送

10月からの本放送は1時「25」分から

BS1からボタン2回とか

ケーブルテレビSTBでは見られない場合が多いようなのでBSパススルーとか

地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報確認

 

今日の答え(放送とは表現が異なる場合があります

・01 [ある人物名前]板垣退助 いたがきたいすけ

・02 ニュージーランド

・03 中(指

・04 ヨルシカ

・05 富山(県

・06 小満 しょうまん

・07 [すべて][4つ]フィリピン エクアドル メキシコ グアテマラ

・08 長篠(の戦い

・09 6

10 295万6900人

11 げんこつ

12 NMB48

・13 イースト

・14 フィガロ

・15 一万(円紙幣

・16 悲しき玩具

17 ルイ)14(世

・18 肩

・19 [ふるさとクイズ][鳴門市]れんこん

20 福岡(市

・21 新しい学校(のリーダーズ

・22 Venti

23 高橋尚子 たかはしなおこ

24 タングステン

・25 [AC]アダム・スミス

・26 松山(市

・27 [3択]ひまわり)9(号

28 五条悟 ごじょうさとる

・29 モナコ

・30 アンソロジー

・31e ラクダ

・xx [ある人物名前]棟方志功 むなかたしこう

2023-02-08

anond:20230208104557

お箸食事をする国で、お箸の持ち方は最低限だと思うけど。

経済を主流とする社会アダム・スミス理解は最低限と思います。個々人が自己利益を達成しようとすることで社会が良くなることが多いです。つまりある程度のマナー無視社会改善です。

2022-08-15

共感にあらがえ - 内田樹の研究室を読んで

これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。

ただ、内田が、

感情の器」って、あくまでも個人的身体条件のようなものから

というとき、何か逃げた回答のような印象を受けた。

たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミス道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会規範構成するに至るメカニズムが何かしらあるんだろうと俺には思えてならない。

そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。

家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。

アレックス・カー20年前に書いた本で『犬と鬼』という著作がある。

おりしも建設省代表される特別会計の闇が浮き彫りになった時代

アメリカの7倍のコンクリートを使って日本山河コンクリートで固めようとしていた、公共事業のあり方に疑問を呈した名著。

その『犬と鬼』のなかでカーは、そんな日本に至った問題を解明するヒントは「徳の逆説」にあるという。

「徳の逆説」というのは、国家も人も同様に、自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する傾向があるという、カーが常々思っている真理を彼なりに名付けたものだ。


A・カーは、フェアプレイ精神といいつつ、七つの海を支配した大英帝国の事例、平等を錦の御旗にしていた共産主義者トップ黒海に豪奢な別荘を保有し、人民実質的農奴と変わらない生活だったというソ連の例などを挙げつつ、最後に、和を貴ぶ日本人がなぜ明治開国後、対外侵略に夢中になったかという精神性に触れてゆく。

「徳の逆説」は、身近なところでも当てはまる。口うるさい親や上司説教ブーメランに思えてならない、という経験は誰もがしているはず。そして気が付くと俺も親父と同じことを子供に、という連鎖

最近、想起するのはやはり旧統一教会家族価値を高らかに謳いあげておきながら、その活動が原因で多くの家族崩壊している、といった、「おまゆう問題崩壊させているがゆえにますます高まる家庭の価値、という悪循環。これもA・カーのいう「徳の逆説」が見事に当てはまる。これは人が自分自身を規律しようとするとき動機付けメカニズムなのだ

内田永井議論テーマひとつである人権平等。あたか普遍的原理についても、

それを概念として具体化して社会が取り込んだ過程を決して忘れてはならない。

アメリカ建国者の一人、トーマスジェファーソン人権宣言を起草した当時、200人以上も奴隷を抱えていた。

これは矛盾というよりも、むしろ奴隷制にどっぷりと漬かっていたからこそ人権宣言が生まれたという「徳の逆説」のメカニズムを見るべきだろう。

どんなに薄汚れた社会であっても、一度高らかに掲げた理想は、その社会を真綿で絞めてゆく。欲望大全開の人民を前提にすると、民主政は成り立つのか。多数決をすれば少数者が圧政に苦しむのではないか、これがマディソン含め、建国者懸念だった。しかし、為政者の徳(アリストクラシー)と、欲望とは別に社会で正しいと思うことに投票する、二重人格的な資質人民に備わっていると信じて建国者デモクラシー設計した。裁判を通じ、繰り返し憲法価値観をテストする、という振り返りをビルトインした設計は本当に優れたものだ。結果として、最高裁が突き付けた奴隷制と財産権矛盾が、南北戦争北軍正当性を決定的にする。

内田議論に戻ると、外付けの人権というテーマと同時に、内発的なものとしての感情の器という、とても重要キーワードを出している。それは他方で外付け実装された人権と、どのような整理ができるのだろうか。

自分でうまく整理がつかなかった。内田はいう。

「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。

これは、親子を中心とした自分史と言い換えられるのではないかと思った。さらにいえば、自分史は必ずしも親は関係いかもしれないのではないか。つまりこれまでの人生、来し方がキーなのでは。

内発的なものと外付けのもの、この二つはやはり、きちんと切り分けて、そして二つが、どうつながってゆくのか。以下、自分なりに整理を試みる。

まず外付けの倫理から。どのように受容されてきたか

舶来の概念というのは明治以来、洪水のように入った。民法など契約法の世界は、ほぼほぼ圧倒されたし、戦後憲法のものアメリカ経験に基づいたものだ。

しかし、日本人権教育は、残念なことに、人権普遍性を論証することに熱を上げてしまって、そもそも誰の内発的な経験がもとになっていたかという成り立ちのメカニズムを忘れた議論が多い。公共の福祉論などをいくら学説定義を整理してきれいに論じても、だから何?の議論だった。

戦後人権を外付け実装してきた日本は、そのルール規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要がある。それは教養として。

現在、旧統一教会問題話題の、国家宗教というテーマにしてもそうだ。

政教分離キーワードとなるのは、恐怖から解放だ。宗教に悩まされ、その扱いに苦慮するのは古今東西課題だ。宗教いかに折り合いをつけた制度設計をするか、古代ローマ時代からずっと抱えてきた。宗教的寛容、これが統治のカギだと気が付いたのはカルタゴ勝利した古代ローマ

そのテーマに対して、新天地アメリカに到着したプロテスタントたちの子孫が18世紀になってメイフラワー号の協約を思い出して試みたのは、旧世界では試みたことのない壮大な社会実験だった。百家争鳴な多様性のなかで社会構成するには、誰が正しいことを言っているのかは誰も断定できない、という前提に立つ必要再確認された。それが言論の自由関係では、20世紀初頭にホームズ裁判官らに代表されるように、自由市場比喩が生まれる背景ともなった。

他方、旧世界フランスでは、唯一の正しさを神に代わって宣言するカトリック教会権威苛烈弾圧が恐怖であった。だから公共空間合理化を徹底し、宗教を一掃する制度設計になった。フランス言論の自由は、その意味カトリック否定する権利が原点となる経験なのだ。だからこそ、フランスでは今でも神を冒涜する言論というのが非常に重要意味をもっていて、先日、仏風刺紙シャルリー編集長が英作家ラシュディ氏襲撃を非難したこと歴史的な背景は深い。

このように、人権というものは、何に対して恐怖してきた歴史があり、生まれてきたものなのか、という原点に思いを致すことが大切だし考えるコツだ。利他性じゃなくね。

それは、実は国によって微妙コンテクストが異なるものであり、普遍的価値として昇華できなくもないけれども、むしろ司法を通じて、原点となった恐怖を大切に思い出す機会が重要で、その社会が、その真理を繰り返し確信し、制度を強化し、再生産する重要な仕組みなのだと思う。逆に言うと、普遍的価値なら、なぜ何千年も克服できなかったか意味を問うというか。

しかし、外付けの倫理として受け取ったものを、思い出すかのように歴史を振り返るのは容易ではない。戦後日本裁判所も含めて。

でも、それこそが日本人権教育に欠如したものだということは個人的には強く思うところだ。


その意味では、外付けではない、外国の借り物ではない、内発的なもの感情の器からみえてくる倫理、これは本当に大きな価値がある。

内発的なものを自省するうえで、もっとも大切なのは自分の国や自分家族自分自身の歴史だと俺は思う。

自分自分先祖が痛い目にあってきた経験、あるいは他者を痛めにあわせてきた経験というのは、その人固有のものであって、その自分史や国の歴史を忘れてしまうと、あとは外付けの倫理けが残る。国レベルで言えば、それは端的に明治以降の日本アジア欧米との対外関係であり、開国以降、アメリカに敗北するまでの戦争に明け暮れた体験に他ならないし、国家神道によって死生観まで国に洗脳されかけた手痛い経験だ。

歴史というと大げさだが、要するに「自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する」、おまゆう精神自覚することだ。これは教養として学ぶというよりも、もう少し内省的なものだと思う。

自分理想とするもの現実とのギャップを振り返る作業といってもいい。

自分に欠けている部分、そこにこそ追い求めている何か理想的な姿の反転がある、という振り返り。

ネイションとしていえば、戦争体験の振り返りが重要キーになるし、国家宗教というのは、国家神道と戦争という経験で痛い目をみているのであり、ある意味、輸入された欧米経験教養として追体験するだけではなく、日本人が原体験としてもっていた大切な教訓。愛媛県靖国神社玉串料訴訟(1997年)の最高裁判決行政戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料支出したこと違憲とした歴史的判決で、戦争経験がしっかり振り返えられた、という点で、司法仕事としてとても大きなものを残したと思う。建国精神を振り返るのが裁判所の仕事の一つだと思う。

しかし、戦後77年。戦争体験が風化するなかで、「あの時代を生き抜いた」という共通体験共通項として持っていたものがどんどん失われているのが今の時代

50年前の高度成長期だったら、戦争で死んだ部下を思い出しながら、仕事にまい進し、酒場で同期の仲間と語り合う、とか、厳粛に生きるための厳粛な死が記憶としてあった。

「あの頃は」という共通過去で人はつながることができた。それが内発的なものとして60年安保闘争を支え、水俣闘争があった。外付けの倫理ではない、思い出としての切実さの空気の共有があった。

まり、舶来の外付けの価値観と内発的な器は、その頃はわりと調和していた、といえるのだ。

それが、失われ、外付けの価値観だけがカラカラと空回りし始めているのが今の時代の特徴で、失われつつある寛容性の正体なのだろう。

永井氏はそんな時代に生まれ育った。彼は対談のなかで、大学時代

「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。

と、外付けの人権から始まったと語っているが、外付けのものにも普遍性のみに着目し、それが生まれてきたプロセスを振り返らない、人権教育の失敗が見て取れる。

また、日本憲法に組み込まれ歴史への反省(前文含め)も記憶の風化とともに、個々人の内省が、時代への共鳴という形で、共感を醸成しなくなってしまっている。

高度成長期に「あの頃」といえば戦争時代だった。

それはかろうじて80年代までは存在していた。「おしん」が異例の1年間の朝ドラで始まってしばらくすると、

視聴者からは、おしん私自身そのものです、という声が橋田壽賀子のもとに多数届いたという。

しかし、時代は変わって、平成から令和になって「あの頃」といえば、昭和の末期なのだ

しかもそれをノスタルジックに思い出す、三丁目の夕日的な振り返りだった。さらには、あさま山荘であり、学歴社会バイクを盗んで走る尾崎豊であり、バブルの思い出なのだ。それは、その遺産に苦しんだ次の世代にとっては共感を呼びにくいものであるし、自分たちの社会の重圧と、戦争記憶との関連が薄まった。当然、日本憲法リアリティが失われ、右派から改憲論議が盛り上がってくるのは必然的なことだった。そんななか、統一教会が国の内部を白アリのように巣くって愕然とした先月から今月にかけての出来事というのは、忘れかけた宗教国家の結びつきの恐ろしさを、突如呼び覚まされるものだったに違いない。

しかし、いずれにしても過去記憶憲法規範が直接に結び付かない、その世代経験、そこに、永井紛争国の辺境の地を自分テーマに選んだヒントがあるように思えてならない。

紛争リアルがそこにある。そこに普遍的価値として大学生ときに知った人権、そして憲法価値を、自分なりの振り返りとして再確認する、動機付けがあったようにも思う。

しかし、たとえ社会の人々と共有されないものであったとしても、ひとは自分史のなかで、どうふるまうべきかを動機付けられる。

永井氏が、内田氏との対話のなかで

私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこから自分母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親単身赴任でしたし。

といったときに、内田はそこにしっかりと気が付くべきだったと思う。

全然人権派じゃないね(笑)。」と返した内田に若干物足りなさを感じたのは、まさにそこだ。

動機付けられるものが、必ずしも、家風であったり、模範的ロールモデルとは限らないのだ。

この体験辺境の地での人権探し、自分探しは、多分無関係ではない。


ともあれアレックス・カー面白い

読んだのは20年前だが、年齢を重ねれば重ねるほど、彼のいう、逆徳精神の考え方が真理に思えてくる。

A clue to the problem may be found in what I call the theory of Opposite Virtues. Nations, like people in this respect, may pride themselves most highly on the quality they most lack. Hence “fair play” is a golden virtue in Great Britain, the country that attacked and subjugated half the globe. “Equality” was the banner of Soviet Russia, where commissars owned lavish dachas on the Black Sea and the proletariat lived no better than serfs. The United States prides itself on its high “moral standard,” while perpetuating racial and moral double standards. And then there is l’amour in France, a nation of cold-blooded rationalists. Or Canadians priding themselves most on being so distinctively “Canadian.” In Japan we must look at the time-honored ideal of Wa, “peace.” Wa means security, stability, everything in its proper place, “knowing what is enough.”Yet a persistent irony of Japanese history since 1868 is that for all the emphasis on peace and harmony, they are exactly the virtues that Japan did not pursue. At the end of the nineteenth century, rather than settling back to enjoy its new prosperity, Japan embarked on a campaign to conquer and colonize its neighbors. By the 1930s, it had already acquired a tremendous empire in East Asia; this inability to stop led to its suicidal attack on the U.S. base at Pearl Harbor, as a result of which it lost everything. Something similar is happening again. Perhaps Japan values Wa so highly for the very reason that it has such a strong tendency toward imbalance and uncontrollable extremes.

Dogs and Demons, 2002, A

2022-01-10

アダム・スミスって生涯独身だったのか

https://toyokeizai.net/articles/-/500544

アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』って本が話題になってるらしいけれど

なんで取り上げるのがアダム・スミスなんだろうか

「愛とケア無視した経済システムの始まりは、「経済学の父」と呼ばれるアダム・スミスだとマルサル氏は指摘する。スミスは生涯独身を貫いたが、人生ほとんどを母親ケアを受けながら研究に没頭し、受けたケア計算に入れずに経済学の基礎を作った。」

って事は、『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』の答えは、『彼の母親』って事?なら単なる製造者責任だし別にいいじゃんと思う

アダム・スミスが生涯独身だったってのが本当なら

少なくとも彼自身女性結婚して妻に家事を全て押し付けるような事はしなかったって事なんだろうし

槍玉に挙げられるのは可哀相じゃない?

なんで結婚して妻に任せっきりだった学者を例に出さないのか不思議

そういう学者も沢山いるだろうに

2021-09-16

民主党経済通貨制作問題点を書く

野口悠紀雄が「円高になったら、チョメチョメ理論」をはじめると、大概おかしくなるので、2010年初等の民主党「あのとき」の雰囲気を書いておく。

拝啓野口先生。「超」勉強法を読んで、先生のことがファンになりました。先生の言うことは、実生活で役に立っていますしかしながら先生本業であります経済学』の主張は、プレジデントの連載を読む限りでは、再現性が薄いように思われます

たとえば鳩山政権が始まったころ、先生は「円高になったら、円高に強い産業が生まれる」と主張されていましたよね。私も、そう思っておりました。先生も、私も、スティグリッツクルーグマンのような、いわゆる富国論のアダム・スミスを起点とする「神の見えざる手」を、信用していました。神はサイコロを振らない、そう信じておりました。だからインデックスファンドを買うのが天国への近道だと信じてきましたし、インフレ比率が概ね年利 7%ポイントのリターンを得ることができています。今のところはね。

野口先生、たぶん、あなたは正しい。正しくないのは、民主党を過信して、選挙に投じた国民だと思います。はっきりいうと、あのとき民主党経済政策は「国としての」主体性確立できていなかったのが最大の問題点だと思います2010年にさしかかる頃、円高になるメリットは確実にありました。あの当時は BRICS を代表とする大国が消費旺盛で、化石燃料も高く、円高にすると都市部労働者にとってはメリットがありましたし、地方にとってもメリットがありました。だから、ある程度の円高は好まれたのです。

問題なのは日本国民はが世界円高で勝てる価値提供ができなかったのです。先生は、民主党の連中の支持基盤である都市部労働者」の実力を過信しておりましたよね?おそらく「円高メリットのある層は、円安で抑圧されてきた」と考えておられたでしょう。実を言うと、私もそうでした。円高になると、円高メリットのある会社があって、そういう会社が伸びるだろう、と思っていました。

今となっては、性急すぎた政策についていけた国民がいなかった、ということです。そして、民主党支持基盤であった都市部製造業従事者を破竹の勢いで潰れていったという事実だけでした。311 以前に戻りますと、あの頃は東芝日産のような民間大企業が元気でした。しかしながら、民主党政策は「経済的メリットのないガソリン減税、高速道路無料化」「JR再雇用されなかった組合員に総額およそ200億円を支払う」「再生エネルギー強制購入させられる」という、ポピュリズムで場当たり的な政策うんざりさせられましたよね。どれもこれも継続性がなかった、そんな経済政策だったわけです。

それで、あの当時、為替領域世界では何が起きていたか適切に把握していた人は民主党にいたのでしょうか?私はわかりません。

ただ、当時はリーマンショック後の「通貨流通量マシマシ」にあって、日本以外はマネーサプライがダブダ状態にあったことは判明しています韓国朴槿恵大統領が「日本通貨安を誘導している」と、2014年頃に煩くなったのは自民党になってマネーサプライを加速したからでしょう。つまり日本けが通貨流通量の増量が相対的に遅かっただけでなかったのか?、それは民主党無能からと、当時は私は思ったのでした。そして、それは国民も、世界も、同じ感想を抱いたのではないでしょうか。

もしそうだとしたら、世界は「円安メリットのある国が円高是正しないのは、日本は(実質)内紛状態にあって、円安にできていないだけなんじゃないか?」と思われていたわけです。そうだとしたら、マネーサプライを上昇させて円高否定するやつがいない、つまり円高なのは、実力と無関係」とね。

じゃあ、マネーサプライを増やすとどうなるのか?、というと民主党から自民に変わった結果どうなったか思い出しましょう。物価インフレです。それは教科書どうりですね。いまの紙幣は兌換性が無い、信用紙幣ですから全く問題ありません。マンキューかスティグリッツでも読むほうが良いですから

それで、タイトルに戻りましょう。実力の無い国民による『円高』は持続不可能であり、その実力は『円高から育くまれもの』ではない、そういうことを民主党に教えてもらったし、国民は『円高に値する国民になれ』というべきなんじゃないですか?

2021-08-04

行動経済学とか好きなんだよな

計量経済学とかよりは納得行くのだよね。ミクロ経済学マクロ経済学は、まともな感じがする。個人的にはハイエクとかも好きだね。アダム・スミス哲学みたいな雰囲気が良い。マルクス経済学とかも好きだけど、まぁ唯物論が間違っているし、もう流行しないだろうけど。

anond:20190119130619

今の経済学部が無理やり数学するのは好きじゃないんだよね。数式をコネコネするぐらいだったら、アダム・スミスのような哲学のように徹底的に過去経済の洗い出しをするタイプ文系経済学と、理数系の金融学という分野に分離すべきだと思う。

2021-07-25

anond:20210725063243

俺の主張が精神論に聴こえるのは、経済学アダム・スミスのような哲学者たちを始祖にしているから仕方がないよ。

新自由主義だと一度不景気になったら二度と復活しないし、不景気故に設備研究投資をしなくなるし、儲かる前の基礎科学破壊するから。そこでイノベーションがおきれば良いとウロウロするが全然だめ。

新自由主義は「大きな政府による」だぞ。アメリカ場合は、公務員ですら失職するのに、解雇規制をそのままやって新自由主義なんてやってみろよ。またまた公務員さまという権利団体復権が起こるぞ。それに、「一度不景気になったら二度と復活しない」ってまさかスノーボール理論か?

かい要素がどうのこうのなぞ興味がない。「政府投資が良くない」に教条的にこだわって他のことを夢想的にふわふわ語って、それに騙されるかわいそうな人間いないかうごめいているクソみたいな存在がお前みたいな連中だ。万死に値する。

しろ利息がゴミのように増えていく無意味投資をするぐらいなら、無理に公共投資なんてするぐらいだったら、まだデフレのがマシ。

団塊様たちが死んでくれるまでは、デフレが「選挙民主的に選ばれた」人たちにとってメリットがあり、しか国内への投資が非効率な今は、たとえ国際競争力が下がっても良いかデフレの方が「若者未来を奪ってでも」得なんだよ。むしろ生産性の高い若者不要で、介護のような「安くで使える」若者の方が需要あるのかの。

2020-11-08

宇宙人が現れない理由フェミニズム

高度に文明が進んだ生命体は、高度なテクノロジー可能にした男女同権主義という究極の理想を追い求める結果として、地上の個体数を自ら減少させて(自浄作用?)やがて滅びていく、あるいは核戦争のような大量殺戮によって滅びる、そういう運命が決まってるんだろうな。このとてつもなく広大な宇宙人類より文明の発達した生命体はどこかにいるはずで、今の人類ですらハップ宇宙望遠鏡で多数の居住可能惑星発見できているのだから、彼らにとって地球発見交信することな造作もないはずなのよ。なのに今まで宇宙人が交信した痕跡がどこにも見当たらないということは、彼らはどの惑星においても、どこかのタイミングで皆滅びてしまったんじゃないかな。もしかしたら、人類もあと200年ぐらいで自浄作用によって滅びる運命になるかもしれない。

自浄作用は既に現れ始めてて、主要先進国と呼ばれる国々が軒並み合計特殊出生率の低下と将来の国の存亡の危機に直面しているのがそれなのよ。それはフェミニズム蔓延たからでしょ(※だからフェミニズムが悪いと言っているわけではない)。これに対する反論としてフランスノルウェーなんかで出生率は増加してるとよく言われるけど、それは移民という変数が大きく数値を押し上げてるだけで、もともと国籍を持ってる白人出生率はとても再生産できるほどの出生率じゃない。フィンランドなんかは究極のフェミニズム国家で高福祉国家だけど、じゃあそのような国の国民子供生みたいのかと言うと、むしろ個人主義が強まっていて、子供を産まないという選択をする無視できないぐらいの数の人がいる。

でも結局、文明が発達した生命体ならどの種族もこの流れに収束していく、もしくはしていったんじゃないかなと思うわけよ。アダム・スミスじゃないけれど、神の見えざる手が働いてるんじゃないかな。だから高度に文明化した種族は、自浄作用によっていつか滅びる。そうして宇宙の中の生命体は循環していくから地球にも宇宙人が現れることはないんじゃないかな、そう思うのよ。

で、こうやって考えていくと、ネット上の過激フェミニストの主張も寛容になれるかもしれない。ああ、人類文明は行き着くところまで行っちゃったんだな、あとは滅びるだけだなと冷静な気持ちで見れるしね。リチャード・ドーキンスじゃないけど、利己的な遺伝子の行き着く末を穏やかに傍観する、それもアリだと思いますね。

2020-06-26

anond:20200625144805

あくまリベラリズム派生であるネオリベラリズムと、リバタリアニズム全然系統思想

リベラリズム」は最初ジョン・ロックアダム・スミスを元にする(消極的な)経済的自由個人的自由をともに重視する思想だった。

20世紀になり、積極的自由のために市場への公的介入や財の分配を許容する福祉国家的、社会市場主義的な「ニューリベラリズム」が派生し、

次第に優勢になるにつれて名前から"ニュー"が外れて「リベラリズム」と呼ばれるようになった。

その後、「リベラリズム(ニューリベラリズム)」に対して個人自由市場原理を再評価し、経済的自由制限を緩和する方向として「ネオリベラリズム」が派生した。

1930年代戦後期に「リベラリズム」という言葉が指すものが今で言う古典的自由主義から社会自由主義へと変化した後で、

1960~70年代古典的自由主義を基礎とする消極的自由を尊ぶ思想が再興した際に、積極的自由を尊ぶ社会自由主義(現代リベラリズム)との混同を避けるためにリバタリアニズムと呼ばれるようになった。

アメリカでのリバタリアン党結党1971年

という歴史認識一般的だろう。

まり、今の言葉歴史を書くと、リバタリアニズム(古典的自由主義)→リベラリズム(社会自由主義)→ネオリベラリズム(新自由主義)という流れで同じ系統思想

(ただし、現状のリバタリアニズム古典的自由主義に加えて最小国家主義無政府資本主義の大きく3つの派閥に分けられて、後ろの2つは社会自由主義よりも年代的には新しい)

もっとも、消極的自由を尊ぶ古典的自由主義積極的自由を尊ぶ社会自由主義は、同じ"自由"という言葉を使っていても思想根拠全然うから

リベラリズム」の中で古典的自由主義社会自由主義に変化したのではなく、

社会自由主義という全く別系統思想古典的自由主義からリベラリズム」という名前を奪ったという認識であれば、

リベラリズムネオリベラリズムリバタリアニズムとは別系統という言い方も出来なくはない。

が、多数派とは言えないかな。

【参考】

http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/3S/si_neo_liberalism.html

自由主義 https://ja.wikipedia.org/?curid=1889353

古典的自由主義 https://ja.wikipedia.org/?curid=1004464

社会自由主義 https://ja.wikipedia.org/?curid=1061153

2020-02-13

anond:20200213103026

アダム・スミス増田が条件を下げ続ければどこかで必ず均衡するぞーん。仕事が見つからないは甘え」

2019-10-15

anond:20191015145906

アダム・スミスとかが創始した、反封建体制思想

アメリカ建国精神的支柱になったので、アメリカだと割とRもDもリベラリズムというか共和国理念を信奉してて、そのへん日本全然感覚違うよね。

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