はてなキーワード: 論理哲学論考とは
言い訳じゃないよ。コミュニケーションエラーを訂正したかっただけ。多分俺を哲学者が全員バカだと思ってるやつだと決めつけてるからそう感じるんだろ?
例えば論理哲学論考とかは(前後の文脈を読み込んできちんと理解できてるとは決していえないが)すごそうと思ってるよ。
ソーカル事件について理解してないってのは、wikipediaからの雑な引用になってしまうが、下記の点からバカな哲学者の揶揄には使えないって話?
「ポストモダン哲学」において使われる比喩やアナロジーを執拗に嘲笑しているだけで、思想そのものの検討や批評はまったく行っていないため、ソーカルの行為は「単なる揚げ足取りにすぎない」「本そのものを読んでいない」として事件当初から厳しく批判されてきた[9]。
実際に、その後もデリダを中心とする「ポストモダン哲学」の学術的重要性が減じることはなく、現在にいたるまで彼らの思想が重要な研究対象でありつづけているのは、ソーカルによる批判が本質的なものではなかったためだとも指摘される[3]。
おっさんが飲み会で真実の愛について延々語るだけなので、哲学書の入門編にいいんじゃないかな。楽しそうにしてるおっさんはいいぞ。
どうしてフィクションで人は感動するかについて述べた本の走りで、後半は散逸しているんだけど、カタルシスについてはなるほどなあ、とは思った。作家になりたいんだったら普通にハリウッドの三幕構成の本を買ったほうがいいかもしれないが、この読書リストを読んでいる人は実用的な知識よりも読んでいて楽しいかどうかを求めている気もする。
読もうと思ったまま長い時間が過ぎてしまった本で、まだ読めてない。アウグスティヌスが若いころややりたい放題やっていた時期のことも書いてあるらしいので、宗教書として以外にも楽しめるんじゃないだろうか。
塩野七海がエッセイですごく推していたから読んでみたけれども、普通に面白い。例えば、中途半端に生かしておくと復讐されるから、いっそとどめを刺しておけ、みたいなことが書いてあって、優しいと人から言われてしまう自分には大いに刺激になった。ところで「孫子」もそうだが、戦争や政治学について書かれた本はたいてい「そもそも戦争は大悪手で、戦争になる時点で何かやらかしてる」という趣旨の言葉があり、全くその通りだと思う。
未読なんだけど、結婚とはある種の契約なんだから、まず処女と童貞がお互いに裸を見せ合ってからだ、みたいなディストピア的な描写もあるらしく、ディストピア文学好きの人は楽しめるんじゃないかな。あとは非モテ界隈の人とか。実際、完全な平等な社会を目指そうとするとどっかしら歪みが出るもので、それについて考えるのにも使えそう。
自然科学的な考え方、ロジカルシンキングのマニュアル。長くないのですぐ読める。得るものがあるかどうかはわからないけど、逆に普段している論理的思考がそもそも存在しない時代があったことは、実感しておくと歴史を学ぶ上で面白いかも。
平凡社の上巻を読んで挫折。純粋な理性っていうけれども、ヒトの心にはデフォルトで時間とか空間とかの枠組み、基本的な概念が組み込まれているよね? 的な話をやたら細かく述べていく内容だったように記憶している。長いので三行でまとめたくなる。
この本に限らず、いくつかの哲学書は「この本さえあればあらゆる哲学的論争をおしまいにできる」「この本からあらゆる結論が導き出せる」的なスタンスで書かれたものが多い印象。
エヴァヲタなら読まなきゃという謎の義務感から読んだ本。要は、どうすれば自分を信じることができるか、について語った本であったような気がする。自分は救われないだろうという絶望から、それでも神を信じるという境地に至るまでの道筋を延々と語ったようなものだった、はず。
自分は特定の信仰を持たないが、どうせ自分なんてと己を見捨てた境地から、まあ自分は自分だよね、的な気分に至った経験がある人が読むと楽しめるだろう。
「善悪の彼岸」と「ツァラトゥストラはかく語りき」なら読んだ覚えが。自分はカトリックの中高一貫校出身であったせいか、キリスト教思想にある欠点を指摘したこの本を面白く読んだ。キリスト教になじみがなくても、たとえば来世があると考えることで現在を生きることがおろそかになるといった指摘は、興味深く読めるんじゃないだろうか。あとは、増田で定期的に出てくるルサンチマンがどうこうとかいう話が好きな人にもおすすめ。マッチョぶってるところはあるが。
新潮文庫の「夢判断」「精神分析入門」「トーテムとタブー」「一神教の起源」なら読んだ。フロイト自身はヒトの心を脳から探りたかったらしいのだけれど、当時はMRIやら何やらはまだないので対話式の治療法を導入したらしい。
彼の理論は今となってはツッコミどころがたくさんあるのだろうけれど、クラインだとかビオンとかについて触れるなら頭に入れておきたいし、心理学特にパーソナリティ障害について読むなら知っておきたい。自分はフロイトやアドラーよりもユング派だが。
ラブストーリーの「ナジャ」だけ読んだ。謎めいた女のあるある的な話だ。
「論理哲学論考」だけなら読んだ。これもカントみたいに「俺が哲学のくだらない争い全部終わらせてやる」的な立場で書かれている。定理がずらずら並んでいるだけで、余計な表現がなく、簡素。
ただ、言語の限界について今の人が持っている感覚ってのは大体この時代の人が言っていたことだった気がするし、そういう意味では面白いんじゃないかな。この辺は数学ともかかわっていて、ペアノとかゲーデルとかヒルベルトとかその辺興味があったらいかがでしょう。
ちなみにウィトゲンシュタインがポパーとの議論でキレて火かき棒を振り回したヤバいやつだというのは哲学界隈では有名らしい。
シン・ウルトラマンの予告編でちらっと映っていたので読んだらいいかもしれない。
この本そのものは未読で「悲しき熱帯」ともう一冊なんか専門書を読んだことは覚えている。面白かったエピソードの一つは、ある民族は身分を入れ墨にするんだけど、入れ墨のない人間(白人たち)を見て面食らう。要するに身分証明書を持ってないようなものだから。
定期的に異民族と共に暮らすドキュメンタリーが読みたくなる性分なのだが、それはたぶん、自分のやり方や考え方が絶対じゃないってことをよく教えてくれるからで、これも本を読む効用の一つだろう。趣味なので効用なんて本当はどうでもいいが。
面白い。僕自身のスタンスとしては、日本人が海外で誤解されていることを批判するんだったら、自分も外国に対する偏見や無知を減らそうと努力するのが筋だと思っていて、それの理論的な補強をしてくれた本。身近に外国人の多い環境ではないが、すぐに役に立たないからと言って読まないというのはなんか違うんじゃなかろうか。自分はイスラーム世界やインドについて、どれほどわかっているのだろう?
どっからがいきでどっからが野暮なのか、直方体を使った図があった気がするが忘れた。
「遠野物語」しか読んだことがないし、それも「マヨヒガ」のことしか覚えていない。
自分が現代思想に出てくる名前がわからなすぎて最初に読んだ本の一つ。四コマ漫画だがかなり本質をとらえており、いしいひさいちの本業は何だったのかよくわからなくなる。素直に笑っておきましょう。勉強ってのは楽しみながらするもんだ。
上のリストでは省略した20世紀哲学者が実名で登場するミステリなんだけど、フーコーがサウナで美青年とイチャイチャしたり、七十年代の音楽を聞きながら薬をキメたりしているので、現代思想だのポストモダンだのをかじったことがあるならおすすめ。著者がやりたかったのは、たぶん上の世代の脱神話化というか、強すぎる影響の破壊なんだろうけれども、ここも素直に笑っておくのがいい。
以上。
なんか「ないものはない」とかいう深淵からやって来た命題がホッテントリに上がってたけれど、ブコメ欄で言及されていた「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」はオーストリアの哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの言である。我々が想定する哲学的真理の多くについて、我々は「ある」とか「ない」とかそのほか如何なる述語も設けずに、沈黙を守るべきなのだ――というのがこの発言の主旨だと思われるが、僕は学生時代、ヴィトゲンシュタインの代表著作である論理哲学論考を第四章だか第五章の論理式の辺りで投げ出してしまったので、正確な解釈がどうなっているかは分からない。もし貴方が正確な知識を求めるならば、岩波版の『論理哲学論考』を書店に探しに行こう。
ヴィトゲンシュタインは、ケンブリッジ大学にて当時の哲学の大家であるバートランド・ラッセルの元で学んだ後に、ラッセルへとこの『論考』のアイデアを書き送り、激賞を受け出版へと至りました。この『論考』の主旨は、簡単に言えば「世界は言葉でできている」といったものです。極めて凝縮された文体で書かれたこの異形のテキストは、当時の哲学界に激しい影響を与えたと言われています。
さて、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」の一節はこの『論考』のラストを飾る言葉であり、また彼は「梯子を用いて障害を乗り越えた後は、その梯子を投げ捨てなければならない。即ち、この書物もまた投げ捨てられねばならない」とも同書において語っており、彼によれば同書によって哲学界における諸問題は「完全に解決された」とのことでした(後年、彼はこの意見を覆すことになります)。
ヴィトゲンシュタインは極めてその人生に謎の満ちた人物で、ユダヤ系の影響を大きく受けた裕福な家系に生まれ、本人はカトリック教徒として一生を過ごしました。学業において非常に優秀な成績を収めた彼は、イギリスのケンブリッジ大学に進学し、当時の学壇を占めていた哲学ほか様々な学問の大家と対面し、議論と思索を深めていくことになります。
彼の人物史を巡ってしばしば取り沙汰されるのは、彼が人生の殆ど全てに渡り自殺への欲求に苦しんでいたというエピソードです。彼は、兄四人、そして姉三人の八人兄弟の内の末っ子として生を享けるのですが、彼の人生において四人の兄の内、四男のパウルを除く三人は自殺しています。そのため、ヴィトゲンシュタインの心には、常に死への憧憬が巣食っていたというエピソードは有名です。彼は、自分の死に場所を求めて第一次世界大戦に従軍したとも言われています。その過酷な戦場で、彼はトルストイの福音書解説を紐解きながら、砲声に震える塹壕の中で『論考』の原型を模索し、そして戦場の死に接する中で生への意欲を切り開いた、とも言われています。
さてタイトルの「クソデカ述語」に関してですが、いや、要するに「ない」って何なんですか? って話です。「ない」っていう述語なんなんすか、っていう話です。
とかくこの世の中には意味のない述語というのが多数存在していて、その内の一つがこの「無」だと思うんですね。つまり、「無」っていうものは言及できないから「無」なのであって、それに対して「ないものはないですね」とか平然と言及しているダ○ソーの店員ほかその他の店員の存在は一体なんなんすか? という話なのです。
要するに、「無」なんてものは「無い」のだから、本来であれば我々は「ありません」とか、「無いです」といった述語の使用を基本的には控えなければならないのであり、つまり、我々は沈黙しなければならないわけです。それでも、我々が何かについて「無い」だとか、「ありはしない」とか語れるということは、本質的に我々の言語が、その意味と対象との関係性に混乱を来しているからなのであって、要はこんな言葉のやりとりなんか単なるゲームのようなものに過ぎないんじゃねえか、みたいなことを考えるわけですね。クソデカ述語。
世界は「ある」? コップはここに「無い」? もっと正確な記述の方法があるはずです。空は青い? 空は青く「ある」? 「無い」について我々が多くのことを語ることができないにも関わらず、何故我々はその対義語とされている「ある」について雄弁に語ることができるのですか? もっと正確な記述の方法があるはずです。正確には「コップは移動している。あるいは、コップは現在別の形状を取っている」が正解なのです。クソでけえ述語は投げ捨てろ、梯子を下ろせ。お前らはもっと沈黙しろ。
ウィトゲンシュタイン『哲学探究』の日本語訳を読む。
流石にニーチェの翻訳家が手掛けただけあって、日本語は実にこなれていて詩的だ
(ウィトゲンシュタインは「詩的」な哲学を好んだ。ニーチェの哲学も従って高く評価していたという)。
悪く言えば情緒的で、こちらを刺激させるゴツゴツしたところのない滑らか過ぎる訳でもある。
ドイツ語が出来ないのにこんな生意気なことを言ってしまって申し訳ないが、好みとしては『論理哲学論考』の方が好き。
でも、「分かる」「伝える」「考える」ということがどういうことなのか再確認させる凄味はある。
脳科学の世界で聞けば瞬殺されそうな考え方ではあるが、仮に科学で解明されたとしてもではその科学がどうして正しいのか、という疑問は残る。
確かウィトゲンシュタインはそういう事態を指して「語りえぬもの」と呼び、黙れ、世界はそのようなものだからだ、と語っていたのではないかと思う。
「ソープに行け」と言われたわけではないけど、25歳でソープランドに初めて行った。
そこで「童貞」を捨ててきた。つまり、相手の膣に自分のペニスをいれた。
僕の今までの性体験の総決算だったと思う。おおげさに聞こえるかもしれないけど。
というわけで、まずその日のできごとについて書きたい。
近くのソープを調べてサイトまでいったものの、迷いに迷い、でも今やらなかったらいつやるんだ、と勢いでようやく送信ボタンを押した。10分くらいして電話がかかってきた。女衒っぽい?声音だった。電話が切れるとなにかふっきれてしまい、今まで何を悩んでいたんだという気持ちになった。
値段は思っていたよりかなり高かった(3万くらい)。というか料金表の見方がよくわからない。70分のコースにして、午前中だと安くなるというのでGWの早朝にぶっこんだ。もっと安いヘルスとかあったはずだが、事務的に「射精処理」されるのも困るのでやむをえないということにした。
起床して、風呂に入り、ひげを剃り、むだ毛を剃り、爪を切り、歯を磨き、髪を整えて香水を軽くかける。そこまで準備するかよと思うかもしれないが、人前に出る以上引け目を感じたくなかった。服は迷ったが、「男っぽく」しようと黒と白でまとめて、フェイクピアスをつけた。耳飾りをつけるとちょっと自信がつくので。
はじめてソープ街を歩いた。店の前に立っている呼び込みの人がこわい。どすの利いた声で「どうぞ」と言ってくる。世間の人はこれで入ろうと思うのだろうか。道に迷って、店に電話をかけて、やっと中に入ることができた。店内はなんというか…照明のうす暗いけどキラキラした雰囲気がカラオケボックスに似ている?かも。
待合室は席が仕切られており、雑誌や大きなテレビがおいてある。金正恩がうつっていた。水着姿の女性の写真が出され、指名料2000円で選べるといわれた。もちろん店にまかせた。反応に困ってしまって、「みんなきれいですよ」とか言った。お茶とおしぼりが出てきた。これだけお金を払うとサービスがよくなるのだ。
それなりにリラックスできたはずだったが、奥に通されて嬢と会ったときは緊張した。というかひたすら緊張しっぱなしだった。階段を上るとき腕に手をまわしてくれるけど、雰囲気にうまくついていけない。「こういうお店は初めてなので」と言い訳する。
部屋に入ると、お風呂があって、ベッドがあって、冷蔵庫があった。ラブホみたいだ。嬢が服を脱がせてくれる。僕は小柄で痩せているので裸になるとますます子どもっぽくなり、ますます自信がなくなり、ということで、そうそうに売り専で働いていたことを切り出してしまった。
ここまで読んで、なにが童貞じゃと思った人が多いと思うが、そのとおりです。男とならそれなりにセックスしてきました。しかし僕は男とセックスができるだけで、どちらかというと異性愛男性に分類されると思う。膣と肛門はなにか違うような気がする。
もちろんマンコに入れて童貞を捨てたなら、アナルに入れたときは何を捨てたのか、オナホに入れたときは何を捨てたのかという突っ込みがあるだろう。そういう難しいことは僕にはわかりません。
突然のカミングアウトにも嬢は冷静で、というかちょっと興味を持ってくれた。よかった。嬢もこの店で働き始めたのは最近で、その前は前立腺開発とかいろいろやっていたという。そうと知っていればシャワ浣もやってくるんだった。
ソープでどんなことをするか興味があるので、お任せするからひととおりやってくださいとお願いした。ということでまずお風呂に入り、マットでローションプレイというかマッサージっぽいことをして、ベッドでキスして、フェラして、セックスしてもらった。完璧なサービスでした。パイズリもキスもフェラもセックスも上手で、コンドームを口に含んでフェラをするように伸ばしてつけるのには感動した。コンドームで中断してしまう間をどうもたせるか困ることが多かったのだが、こういう方法があるのか。
特にフェラは上手だったのでその話をする。僕もフェラはずいぶんやってきたけど、いかに射精させるかを考えて、つばを多めに、カリへの刺激を強めに、亀頭を強く吸って、ずっと口だと疲れるから根元を手でしごいて、相手を上目づかいに見る。あと、動きが単調だと飽きる気がするのでときどきたまたまの裏や蟻の門渡りをなでる。まあ、こんな感じである。
嬢のフェラは手をあまり使わず、舌使いも優しく、しめつけて射精させようとする感じがまったくなかった。あたたかいもので包まれているという感じだった。くわえるまえに睾丸や根元を舐めるのが丁寧だった。
あと、僕はくちゅくちゅ音を出すようにするんですが、嬢は蕎麦を吸うみたいなずっずっという音を出すようにしていた。こういう音の方が受けるんだろうか?
ということで嬢のフェラをほめちぎる。「男の方が自分にもついてる分上手なのでは?」と当然の質問を受ける。オナニーとかけっこう強く握るし、激しくこするので、それと同じようにやってしまうのではないかと思った。
とはいえ全体的に緊張しっぱなしで、ちゃんと勃つようにと2日オナ禁してきたのだが、いろいろ話し込んだこともありフェラのときくらいしか勃たなかった。とうぜん射精もできなかった。まあでもいちおう膣の中に入れたので、童貞は捨てたのではないか。もうよくわからん。
途中で、初めて売り専の仕事をしたときに途中で萎えてしまったことを思い出した。あれはきつかった。動揺した。今回はお金を払う側でよかった…。
とはいえ、相手が勃たないとうまくサービスできているかわからなくて嬢はしんどかっただろう。僕もお客さんが勃たなかったら焦る。ちんこを思い通りに勃たせたり萎えさせたりすることが、なぜこんなに難しいのか。まだ経験が足りないのかもしれない。それにもう一度行ったらふつうに勃つ気がする。行かないけど。
名刺はもらわなかったが、楽しかったことは伝えたし、アンケートもいろいろほめておいた。アンケートもそうだが全体的に、男が女を買って性的に奉仕させる空間だということは伝わってきた。お風呂があってマットがあってベッドがあるのだから、本質的には異性愛男性がリラックスして射精する場なのだろうが、エンターテインメントとしても楽しめるほどの「男らしさ」が僕にはなかった。
…たぶん、今までの話は読者の予想をいろいろ裏切ったと思う。そこでこれから、男体持ちの僕のめくるめくセックス遍歴について、けっこう書きます。おつきあいください。
僕がはじめて女性と性関係をもったのは22歳の大学四年生のときだった。
その女性とは学園祭で知り合った。あるサークルでたまたま哲学の話になった。僕は哲学は多少身に覚えがある。なにしろ、論理哲学論考を中学生から読んでいた。その話をした。その人は小学生から論理哲学論考を読んでいた。なんじゃそりゃ。僕たちはウィトゲンシュタイン推しで気が合い、あとでgoogle:哲学宗教日記を貸してもらったりした。
そのあとデートに誘われた。街角の喫茶店でお茶をした。そのころの僕はいろいろ精神的にきつくて、大学の授業にずっとでていなかった。留年も確定して、そのことを両親にこっぴどくなじられていた。そんな話を少ししたと思う。その人も家庭のなかの問題がいろいろたいへんだと話していた。僕の両親もおせっかいだが、それと比較しても過度に束縛的だと思った。親の期待する「大人の女性」になれないことをその人は気に病んでいた。
しばらくして、その人からメールが来た。大事な要件だという。その人に会うと、他の人にあまり聞かれたくないから僕の下宿に行きたいというので、そうした。たいして片づけもしていない薄汚い部屋に入って、そこでその人は僕に告白した。とても劇的で、すごく大胆で勇気のある告白だったと思う。
その頃の僕は全ての牛が黒くなるほどのブラック夜勤バイトを週4で入れ、頭がまともに働くときはSTAP細胞の真相究明に熱中していた。自分は忙しいんだ、こんなに大変なんだ、ふつうの大学生とは違うんだ、と思い込むために必死だった。
典型的な非モテだったと思うけど、僕はその苦しみを異性に向けず、そういう興味をひた隠しにしていた(周りからオナニーなんかしなさそうと言われるタイプ)。もちろん女性を自分の部屋に招くというのが「どういうこと」なのかわかっていなかった。その人が告白しなければ、ウィトゲンシュタインの話でもして指一本ふれずに帰したと思う。この心境は、恋人で一発逆転を狙うタイプの人には理解してもらえないかもしれない。
そのあとふたりで散歩して、人気のない公園で夜が更けるまで話し込んだ。僕が提案して、別れ際にキスをした。「唇を奪ってほしい」というので、僕から口づけした。そのとき、相手の唇がぬれていたのと、いきなり勃起しかけことに驚いて、あわてて(軽く突き飛ばすような感じで)唇を離した。キスに動揺して勃起までしたことを気づかれたくなかった。
後日、その人がふたたび下宿に来た。とはいえ、僕はコンドームの用意もなく、セックスについての具体的なイメージもできていなかった。
僕もそれなりに性教育を受けて、コンドームの付け方や性感染症のことを知識としては知っていた(男子校だったこともあり、保健体育の教師はディルドにコンドームをつける実演までさせた)。それでもどうしていいかわからなかった。主体的に取り組まなければどんな知識もうわすべりになる。それはセックスも同じだ。
上半身だけ服を脱いでベッドに入った。そのとき、その人はパニックになり、ふとんをかぶって部屋の隅でうずくまってしまった。僕は落ち着いてほしいと真剣にお願いした。その人は小学生の時ひどい性暴力を受けたことを話してくれた。あまりの衝撃に僕は声を上げて泣いた。お前が泣くのかよ、と思うかもしれないが…。
その一方で、僕もネットで女性のエロ画像や動画を何時間も検索することがあるし、セックスへの興味を押さえられない衝動というのがわかる。僕は自分にそんな(女性を辱める)汚い欲望があることをオナニーを始めたときから気に病んでいたが、なくそうともがいてもなくすことができずにこの歳になっていた。その欲望をどこかで肯定できたら…と思っていた。でもやはり許されないのかと思った。
その日から、上半身だけ裸で抱き合うのが暗黙の了解になった。キスしてお互いの身体をなめたり噛んだりし合う「だけ」だったけど、文字通りいつまでも続いてほしい素敵な経験だった。その人はときおり、まんこにちんこをいれるセックスができないこと、「傷物」の体であることを気にして申し訳なさそうにしていた。ペッティングだけで僕はオナニーする必要がないほど性的に満足していたので、それを気に病む必要はまったくなかったのだが。そのことを伝えればよかったのに、僕は好奇心から一度下まで脱いでいいかどうか聞いてしまった(もちろん拒否された)。
結局、その人とは別れることになった。僕なりに整理すると、一番の要因は僕が結婚に対して本気にならなかったからだと思う。その人は僕が立ち直り、大学を卒業することを期待していた。僕はやっぱり大学に行けずバイトを止められず、その人の頼みで試験には出たものの2単位しか取得できなかった。
しかも、僕は「彼女」の存在を公にすることができず、両親はおろか友達にさえも、というかだれにも切り出せず、彼女のいない人が招待される「ぼっちクリスマス会」すら断れなかった。ひどい話だ。
結婚に対して前向きに努力してほしいという彼女の要求に僕はどんどん防衛的になっていき、敵意さえ感じさせることがあったかもしれない。そのひとは僕に見切りをつけ、別れ話を切り出した。僕は強がって「わかった」と応じたものの、一週間食事がのどを通らないほどショックを受けた。遠ざかって行く彼女の夢を何度も見た。
…そして、別れてから半年以上たったのに、その人の誕生日にメールをして、電話をかけてしまった(もちろん出なかった)。
バンクロフトのgoogle:別れる? それともやり直す? カップル関係に悩む女性のためのガイドを読むと、その人の決断が正しかったことがわかる。僕は二人の将来について責任のある態度をとらなかった。それにしても、その人は自分から告白し性関係に負い目さえ感じながら、別れることをよく自分の力で決めることができたと思う。
つづきます↓
ウィトゲンシュタインほんといけ好かない! 論理哲学論考は思った以上に短い本だったけど中見てみたら命題がいっぱい並んでるだけで、あんなのただの目次でしょ? 目次だけじゃ伝わるわけないじゃん、もっと何倍も紙数割いて解説パート入れなきゃだ~~れも理解できねえじゃん!
しかもさあ~! 「私の著作は、ふたつの部分から成っている。すなわち、ひとつは、ここに提示されている部分であり、もうひとつは、私が書かなかった部分である。そして、まさにこの第二の部分こそが重要な部分である。」とか言っちゃってさあ! 嫌な感じ~~!! どうせ頭いいんだろうけどさ、俺の思考についてこられないような奴に理解してもらう気はない、とでも言うつもりかい! 傲慢にもほどがあるっしょマジで! 工夫を凝らしてどうにか伝達しようという誠実さも見せずに圧倒的言葉足らずの独りよがり論考書いておきながら「言語の限界」とか提唱されてもハァ~~?? って感じですよ!! いけ好かねえ~~!!!!
「大学教師が新入生に薦める100冊: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」のCSVファイルを重複排除・ソート。出現数3回以上だけを抜き出してみた。記号が統一されていなくて漏れてしまっているのもあるかも知れない。(ゲーデル、エッシャー、バッハ─
の長音風記号はなぜか統一されていて、Amazonでも全く同じ表記)
「訳者あとがき」からうかがえるお説教についての訳者の考えについて色々考えさせられた。
ほんとに病的な反芻のような気もするので、書いて心を落ち着かせた。
「装飾は犯罪だ」は、それ自体が装飾された表現であるとともに、その表現からお説教のにおいがするように思う。
理由を少し詳しく書くと、もし何が装飾であるかを判定する明確な基準が定められ、
それが犯罪だとされているという制度的事実を指摘しているのでないならば、(多分そうだと思うが、)
「犯罪をしてはならない」という前提を共有する人々(あるいは未来の自分)に、
「装飾をしてはならない」というお説教を、修辞という、言語表現における装飾を用いてしているように思えるからだ。
また、「語ることができないことについては、沈黙するしかない」という表現からは、
「××歳にもなってそんなバカなことをするやつがいるわけがない」みたいな、婉曲的なお説教のにおいがすると思う。
相手に叱られているという自覚が伴いやすいという点ではお説教ではないとしても、
ひょっとしたら、気づかれずに影響を受けやすい人々を「倫理」に従属させるための表現かもしれない。
>岩波文庫では、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」と訳されている。
>ん? その気になれば、語ることができるのだろうか。
著者流の独特の意味で「語りえないもの」については独特の意味では「語る」こともできないのだろうが、
それ(あるいはそれであるかのようなもの)について普通の意味で語る(あるいは語ったつもりになる、お喋りする)ことは、
言い換えれば沈黙しないことはできるのかもしれない。
一応20世紀の哲学者だけど、最後の本である『哲学探究』を書いたのが、確かギリ第二次大戦の終わり頃だったと思うから、最近というほどでもない。「初歩的な勘違い」と言うけどさ、20世紀の初めごろなんて、それこそ「科学万能」の期待がまだあって、ヴィトゲンシュタインさんの分野である論理学にしても、「論理学が完全に言語の曖昧さを解消し、哲学の問題を解決する」という期待感だって、まあ、あったわけ。
というか、むしろ、それからたった半世紀で「言葉には定められた『意味』がある、というのは幻想だ」ということが常識として定着しちゃったということ自体が、すごいことなんだよ。
それに、前期の哲学だって、全く無効というわけではないんだよ。ごく日常的な場面とか、あらかじめルールが定まった言語の世界…たとえば、コンピューターによる日常言語の分析みたいな分野で、大きな力を発揮してる「生成文法」の考え方(N.チョムスキーさんなんかの)は、「論理哲学論考」がその出発点になったと言われてる。ネットの翻訳サイトとか、翻訳アプリとか、意外なところで前期の哲学の子や孫たちは、今でも活躍してるんだよ。
「哲学上の諸問題と言われるもののほとんど全ては、定義の問題に帰着する。」というのは、L.W.ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」における中心的な主張。そして『言語ゲーム』というのは、そのヴィトゲンシュタインの作った言葉であり、論である。
そこまでは正しい。
だけど、「言語ゲーム論」というのは、「論理哲学論考」を書いたあと、「これで全ての疑問は解かれた」と宣言して田舎に引っ込んだヴィトゲンシュタインが(田舎で小学校教師をやっていた)、小学生とのふれあいの中から、自分の過去の論(すなわち「論理哲学論考」における思想)の欠陥に気づいて、その欠陥を説明するために作った論なのね。その後彼は、「哲学探究」という本を出して、「論理哲学論考」が見落としていた問題について説明しようとした。それが成功したという人もいれば失敗したという人もいるが、この本も20世紀哲学史に残る偉大な書であることは間違いない。
便宜的に、「論理哲学論考」に代表される思想を「前期ヴィトゲンシュタイン」。「哲学探究」に代表される思想を「後期ヴィトゲンシュタイン」という。言語ゲームについてのアイデアは、「哲学探究」で初めて示された。つまり、前期の彼の哲学を「言語ゲーム」という言葉で説明したり、呼んだりするのは、全く間違い、ってこと。OK?
じゃあ、両者はどう違うの? …ってことが気になる人もいるよな。
暇な人向けに書くよ。忙しい人、知ってる人、自分で調べたい人は、以下読まなくて結構。
さて、「この世のあらゆる問題は、記述が論理的に正確であれば、簡単に解決できる。」と、前期ヴィトゲンシュタインは考えた。確かに、かなりの程度これは正しい。だがしかしそれは、「言葉」というものを、「思想」を記述するための単なるメディアとする言語観に基づく場合の話なんだよな。「言葉を正しく定義する」というのは、「言葉には定められた『意味』がある」ということを前提としてる。だが、後期ヴィトゲンシュタインは、その定義自体が危うい場合があることに気づいたんだよ。
どういう場合か? たとえば子どもが言葉を学ぶとき、どのようにして学ぶと思う? 「言葉の意味」を教えられることによって、子どもは言葉の意味を学ぶのだろうか? 考えてみてほしい。生まれた最初から言葉を話すことのできる子どもはいない。つまりゼロだ。その状態から、どうやって「意味」を教える?
身振り、手振り、ジェスチャー、雰囲気、表情、……いろいろな「言葉ならざるもの」に頼って、最初の「言葉」は身に付けるしかない。でも、「意味」が分かった、と確信できる瞬間なんて、あるのだろうか? とヴィトゲンシュタインは考えた。
たとえば、あるとき子どもに数の順序を教えていたヴィトゲンシュタインが、黒板に
「1、2、3、4、□、□、……」
と書いて、空欄を子どもに続けさせたわけだ。数を習っていた子どもらは、まあ、普通に「5、6…」と続ける。普通の人は、「ああ、子どもは数の並びを理解した」と思って、そこで安心するだろうな。でも、「5、6」の次に子どもが「8、10…」と書き始めたら、それはダメだ。台無しだ。仕方ない。もう少し教える必要がある…まあそんな風に考え、行動するね。
けど、それは、一体どこまで続けることができたら「数の『意味』」を理解したことになるのだろうか? 「10」までいけば、まあ大抵は大丈夫? でも、ひょっとしたら、「10」の次に「12、14、18」…とか続けるかもしれない。子どもはまだ何も「理解」していないかもしれないな、「100」までいったら? でも「102、106」とか続けるかも………でも、でも、じゃあそれはいつ「絶対大丈夫」と言えるのか?…と、「論理哲学論考」で「完全な言葉の定義」にこだわっていたヴィトゲンシュタインは考えてしまったんだ。どこまでいけば自分は、この子たちに、数という概念(意味)を伝えることが、本当にできた、と確信できるのだろうか?
そして、考えはじめたヴィトゲンシュタインは、もっともっと怖いことを考えてしまった。自分は、周りの大人が、一応みんな数の概念を理解していると思っていた。でも、そいつらが、数の概念を誤解したまま大人になっている可能性は、本当にゼロか? もっといえば、これは数の概念だけではなく、あらゆる言葉についても同じだ。我々は、お互いに言葉の「意味」を理解し、その理解を共有していると思っている。でも、それは証明できないね。言葉が通じてるって、単なる幻想じゃないの、と。
先に言っておく。これは、たぶん否定できない。ヴィトゲンシュタインの問題提起により、もし、「言葉」の体系を、「共通したルール(たとえば文法や辞書的定義)」を共有することで意味を伝達するシステム、と定義するなら、我々の言語が確かに「通じている(100%意味を伝達している)」ことを証明することは、たぶんできない。
嘘だろ? と普通の人は思う。オレが言ってることを、みんな分かったような顔をしてるじゃないか。あれで、分かってないなんてことがあり得るのか? と。
でも、誰もが考えたことがあるはず。オレは、赤色が、なんだかイライラするんで嫌いだけど、Aさんは、赤色がすごく好きらしい。ところで、オレが見、感じている「赤」という色と、Aさんが感じている「赤」という色は、本当に同じなんだろうか? ひょっとして、全然別の見え方をしてるんじゃないだろうか? ってことを。もし、オレが赤色を見て「赤ってイライラするね」と言い、Aさんが「そうかな、オレは赤が好きだな」と言うとき、オレとAさんの間で本当に「言葉」は「通じている」のだろうか? …ってことを。 後期ヴィトゲンシュタインが気づいたのは、つまりそういうことなんだ。
そして、すっかり参ったヴィトゲンシュタインは、草原でサッカーに興じる子どもを眺めていた。「オレは、言語というものを、きっちりと決められたルールに従って運用されるシステムだと思っていた。たとえば、目の前でサッカーをやってる子ども達のように。けれども、その根幹が、本当はこんなにあやふやなものだったなんて!」このとき、ヴィトゲンシュタインは、「言語の意味や定義さえ完璧なら、あらゆる哲学上の問題なんて一瞬で解けるんだよ!(ドヤァ」とやってた過去の自分(前期ヴィトゲンシュタイン)の思想が、完全に崩れ去ったことに落胆していただろう。
ぼーっと子どもらを眺めるヴィトゲンシュタイン。
そのうち、妙なことに気づいた。なんか、一人の子がボールをもって走り出した。「おい、サッカーじゃなかったのか? ラグビーか何かか?」。ところが、今度はボールをぶつけ合いはじめた。「おい、君ら何をやってるんだ?」そのうち、一人の子が高くボールを投げたのをきっかけに、なんだか高く投げ上げる競争のようなことをはじめた。「おい、一体何を……」「一体どんなルールでやってるんだ…どんなルー……」その瞬間、天啓が走った。ルールがあるように見えていたのは、幻想だった。ルールなんてなく、彼らはただ遊んで(ゲームをして)いただけだった。つまり、ルールなどなくても、ゲームをする上で支障がなければ、ゲームは続くのだ。人は言語を使って「ルールに基づき意味を伝える」という作業をしていると思っていたけれども、本当は、ただ「言語を使って遊んでいた(ゲームをしていた)」だけだった。ルールは「やりながら、その都度でっち上げて」いるんだ。それで物事は、進むのだ。
これがつまり、後期ヴィトゲンシュタインと呼ばれる思想の根幹となった「言語ゲーム」という思想だ。
前期ヴィトゲンシュタインが考えていた「ルール→意味」という静的なシステム論に対して、後期ヴィトゲンシュタインは「そこにルールなどない」。ただゲームをするときのように、言葉の「使用」が先にあって、意味やルールはあとから付いてくるものなのだ、(つまり、前期ヴィトゲンシュタインが主張した「先に定義を完璧にすれば」云々というのは、その前提となる言語観から間違っていたということになる。)言葉の意味とは、「言葉がどのように用いられているか」ということに過ぎない(「言語の意味とはその慣用である」)、という動的なシステム論を唱えたわけだ。この動的な言語観や、それに基づく汎用性の高い動的なシステム論を「言語ゲーム論」という。
先に言っておくと、この後期ヴィトゲンシュタインの思想というのは相当な極論であって、これをもって前期ヴィトゲンシュタインの思想が全て否定されるというものではない。前期ヴィトゲンシュタインの問題提起も、静的システム論の基盤を為したという意味で、現在でも非常に重要な思想に位置づけられる。ただ、その思想を含んだ上で、更に高次の問題提起(動的システム論)を行ったという意味で「言語ゲーム論」には非常に重要な意味があるので、前期の思想と安易に混同されると、ちょっと困る。
もう少しだけ、具体的に例を挙げて説明するな。
たとえばさ。「神はいるか」という問題に対して、「それは『神』という言葉をどう定義するかによるね」と答えるのが、前期ヴィトゲンシュタイン。そして、「万能で超自然的で創造主で…」と答える人に対して、「万能」と定義するなら「存在」もできるということだ。従って、「万能」と定義した上で「いるかいないか」議論するのは、トートロジーだ、とか、まあそういう批判をしちゃうだろう。
対して、後期ヴィトゲンシュタインなら、「神はいるか」と質問する人に、「あなたは『神』という言葉をどのように用いているのか」と質問するだろう。「『神』という概念で、あなたはどのようなゲームをするのか、そのゲームはどのような性質のものか?有益か、無害か?」…etc。(後期の哲学を書いた頃、彼は「宗教とは、一つの生活の形式のことだ。」「信仰は、言語ゲームに似ている」と述べています。)
この二つは、つまり問題の視座(あるいは取り扱い方)が全く異なるんだ。一緒くたにはできない。
だから、前期の論を「言語ゲーム」と誰かが呼んだりしてるのは、ヴィトゲンシュタインをかじった人間としては、ちょっと居心地が悪い感じがするんだ。まあ、そういうこと。
よろしく頼むわ。
本当だ。消えないうちにグーグルキャッシュからサルベージしておこう。
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