はてなキーワード: ラビンとは
サンプル買ってお試し2度目
そして何か甘ったるい甘さ、お菓子のような
とある香水ブロガーさんがラブドントビーシャイのマシュマロの甘さを感じる、と書いてたが 言われるとあー確かに
一番好きなのがグッドガールゴーンバッド、とそのエクストリーム
まあまあ好きだったのがヴレヴ クシュ アヴェク モワ
どっちもアルベルトモリヤスで、どちらもナーコティックのシリーズだったから
たしかに好きではある
でもまあ、、たまに気分転換に、で良い感じ
何より求めるイメージが違う
好きでたまらない!という恋に落ちる直前の少女の気持ちがテーマの香りは自分の日常に使い所があまりない
仕事のテンション上げるにもなんか違うし、落ち着いてこなしたいのも、疲れて癒されたい時も違うし
イスラエル、「2国家共存」の要求拒否 「国際的な指図」も拒絶 - CNN.co.jp
ネタニヤフはラビンじゃないってだけだし、現在のネタニヤフの支持率はそれなりなのだろうと思う。
ここで徹底的にパレスチナを叩いておけば、次のステップ(完全制圧)への足がかりにはなる。
そこに住んでいた人たちは、そこに住んでいた人たちの問題であって、イスラエルの問題じゃない、って本気で思ってるだろうし、ネタニヤフを支持する人たちも同意しているだろう。
はてなーも、他の連中も甘いんだよ。
「コイツは絶対に殺す」って決めた人間を止めることはできないんだよ。たとえ世界の警察(笑)米帝であってもな。
ハマスらテロリスト達が何の背景もなくハマスをやっているわけではないように、イスラエルの右翼も右翼をやっているだけの壮絶な理由がある。
こういった背景があるにも関わらず左派政治家として活動した政治家もいる。イツハク・ラビンである。
平和を実現するには右手で握手しながら左手でナイフを払いのけ、あるいは刺されても握手を継続しようとするとてつもない覚悟が必要なのかもしれない。
これを実行しようとしたのが第一次中東戦争から兵士として参加し第三次中東戦争(6日戦争)において参謀総長としてイスラエルを勝利に導いた英雄でもあるイツハク・ラビンだ。
彼はその確固たる軍歴をバックボーンとしてつつ左派政治家として活動、1993年には首相として歴史的なオスロ合意によりPLO(パレスチナ解放機構)のアラファトと握手した。
他ならぬラビンが決めたことであれば、という背景があってこそ起こせた行動であったがそれでも国内では合意後に数々の抗議デモが巻き起こることになる。
その調印式において、当時の米国大統領クリントンに促されてアラファトと握手するラビンは実に不機嫌で迷惑な顔をしながらイヤイヤやっているんだぞ、という態度を誰が見てもわかるようにハッキリ示していたのが今でも印象に残っている。
しかし、彼はパレスチナ人との和解なしにはイスラエルの未来はないと幾度ものアラブとの戦いに勝利しつつ確信していったのだろう。
そんな彼も結局、ボディガードをつけずに国民と直接触れ合うという政治家としての信念が災いしてユダヤ人の青年に暗殺されてしまう。
もしも彼が今のイスラエルの現状を見ていたとしたらどんな思いを抱くのだろうか?
間違ってたら教えて
(エジプト、サウジアラビア、シリア、ヨルダン、イラク、レバノン)
大昔は割愛
1.第一次世界大戦
イギリスが三枚舌外交(ユダヤ人にイスラエル建国を約束、アラブ人にアラブ人国家の設立を約束、ロシアなどに分割統治を約束)
結果こじれる
イスラエルは帰還法を制定し、ユダヤ人であれば誰でもイスラエル人になれるようにした
イスラエルに有利だったので結果こじれる
後ろ盾がなくなったため
4.オスロ合意にてイスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)が和平合意
これが1993年
これが1995年
6.徐々にイスラエルがパレスチナの自治区を侵略し始め、壁が建設され、パレスチナ人が追いやられる
7.ハマスが暴走、応戦してイスラエルが地上戦を始めた(今ここ)
イスラエル:ガザ地区絶許、ただやってることがホロコーストみたいになってる、もちろん穏健派も居る
パレスチナ人:我々はハマスではない、とするもハマスを否定もできない(イスラエルへの鬱憤からか?)
日本:アラブ諸国への石油依存度も高く、当事者ではないのでかなり中立、実はパレスチナ人支援も割りとしてる
地上戦が数ヶ月続くと見られる(ガザ地区は地下が深いらしいのと、ハマスの今回の動きが計画的だから)
ゲリラ戦であるため、ガザ地区の一般市民もハマスに協力すると見られ、非戦闘員に多数の死者が出ると見られる
エジプトへの人道回廊が作られる可能性も少しあるが、エジプトにとってメリットがないのと、エジプトに入ったらガザ地区へ戻れない可能性が高いとのことで、どちらにせよ結局ガザ地区に留まる人が多いのではないかという予想がされている
なお人質救出は無理そう
ガザ地区:約200万人
イスラエル人:930万人
なおパレスチナは130ヶ国以上で国として認められている、日本は未承認
あまちにも詰んでる、本格的に地獄になりそう
日本では'76年に、フィレス・レーベルの作品がまとめて再発売されたことがありましたが、ボックス形式としては本邦初で、しかもCDのボックスとしては今回が世界初ということになります。また同時に、<ヒーズ・ア・レベル>という、関係者のインタビューを中心にした本が白夜書房から発売されます。それを読みながらこのBOXを聞きますと512倍楽しく聞けることを保証致します。
1958年、17才にして彼は”スター”でした。この後ポップスの歴史を彩ることになるクリスタルズやロネッツ、キャロル・キングやバリー・マン、ビーチ・ボーイズやビートルズの誰よりも先に<NO.1ヒット>を持っていた!、このことが良くも悪くもスペクターのその後の人生を決定づけたと思います。ポップス史上、#1ヒットを星の数ほど作り続けたリーバー&ストラーや、ジョージ・マーチンも、自らの#1ヒットはなく、このことが彼を単に<プロデューサー>の範疇では捉えられない最大の理由です。<彼を知ることは、彼を愛することだ>というデビュー曲の<彼>は、もちろんスペクター本人の意味で、そこには強引さ、傲慢さも感じられますが、実はそれが力強くもあり、<スターの要素>そのものだともいえます。彼の仕事ぶりを評して、全てを自分一色に染めてしまう、という批判をよく聞きますが、これはことの本質を理解してい居ない人の発言です。かれは<裏方>ではなく<スター>なのです!それを、アーティストの持ち味を引き出すのがプロデューサーの仕事だ、という常識的な意味で彼を捉えようとするから批判的になるのです。彼こそが<スター>で、誰が歌おうか演奏しようが、他の人は全て脇役なのです。単に映画監督と言う視点でヒッチコックを捉えるとおもしろい解釈は生まれない、というのにも似ています。(誰が主演でもヒッチの映画になります。黒沢さんもそうですね。)
デビュー・アルバム「TEDDY BEARS SING」のB-1「I DON'T NEED YOU ANYMORE」の<ステレオ・バージョン>はナント、リード・ボーカルの女の子の声が左で、真ん中がフィルのコーラス、しかも、ところどころリード・ボーカルの3倍くらいの大きさでコーラスが<邪魔をする>といってもいいほどの前代未聞のバランス!です。
デビュー前からしてこうなのですから、自己主張とかワガママなどという、なまやさしいことではないのです。
SCHOOLもの
のちにブラック・ミュージックにのめり込んでいった彼ですが、スタートは白人ポップスでした。まずは自らのヴォーカリスト、ギターリスト、および作曲家としての才能を試すところからはじめた、というところでしょうか。'50年代後半は、まだ黒人音楽は一般的ではありませんでしたが、若者の間では熱狂的な指示を得ていました。スペクターもいろいろな黒人アーティストを聞いていたようですが、こと自分のデビューに関しては、世間的に穏便な方法をとったところなど<奇[...]
また'50年代中期には「暴力教室」をはじめ「HIGHSCHOOL CONFIDENTIAL」など<怒れる若者>をテーマにした映画が続々と作られ、その代表としてJ・ディーンが登場し、代表作が「理由なき反抗」-REBEL WITHOUT A CAUSE -でした。このように、当時の若者のキー・ワードの一つは<REBEL>であり、「乱暴者」のマーロン・ブランドのような皮ジャン、サングラス、バイクというスタイルが流行しました。
彼のでデビュー・ソングはたしかに<学園もの>でしたが、それまでの、例えばドリス・デイの「先生のお気に入り」調のホンワカしたものではなく、女の子が自分の想いを直接的、また積極的に<ナゼわかってくれないの?>と切々と歌い上げるというのは冬至の若者のフィーリングにピッタシきたようです。実はこの手法、スペクター特有の<ソフィスティケーションの中の直接性>というもので、彼を理会する上で大事なことなのです。
ある程度、あるいはそれ以上の音楽の素養がなければミュージシャンや作曲家になれなかったジャズと違って、ギター1本あればだれでもロックンローラーになれる、というのがロックの時代でした。子供が技術を会得して成長し、大人の仲間入りをするのがジャズだとすると、ロックは、子供が子供のままで音楽ができるというのが特徴でした。ヒョットしたらオレにもなれるかもしれないと、多くのシロウトがわれもわれもと参加したことが、音楽の単純化に拍車をかけました。ジャズが豊満でふくよか、とすると、R&Rは骨と皮だけといえましょう。ジャズが大人の音楽で、背景はナイトクラブと女性とお酒が似合いましたが、子供の音楽として誕生したR&Rの背景に一番ピッタリだったのはナント、<ガレージ>でした。
麻雀同様4人(あるいは3人)いればすぐにできたのがR&Rの特徴でしたが、ニュー・ヨークのようにせまいところで大声を上げれば、お母さんに怒鳴られるだけですからストリートへ出るわけです。50'sのDoo Wapブームの背景は街角-ストリート・コーナーが似合ったわけです。
それにくらべて土地の広大な中西部や西海岸は車がなければ不便なので、当選、どこの家にもガレージがあり、ここが若者の格好の練習場所となりました(蛇足ですが、今の日本のロックのサウンドの背景は<貸しスタジオ>--密室--ではないでしょうか?)。さて、楽器は感覚でどうにか弾けますが、作曲というのは簡単そうでもやはり多少の音楽の素養は必要です。しかし、若者の、なんでもいいからR&Rをやりたい!という想いはこんなことではくじけません。骨と皮だけのロックを、さらに皮も捨てて骨だけにしたのです。それが<ギター・インストゥルメンタル>でした。これは、楽器を感覚的にかき鳴らすだけですから、とりあえずだれにでもできました。ジャズの単純化がロックとすれば、これはさらに、ロックの単純化で、その極致であったわけです。
これが<ガレージ・サウンド>の正体でしたが、この時代に呼応するかのように、新しく生まれた現象がありました。それは、録音機が少しずつ普及し始め、ガレージや居間などでの<ホーム・レコーディング>が行われるようになったことです。そして、デモ・テープのような、ある意味では乱暴
チャートに登場するようになり、まさに音楽の大衆化が、内容だけではなく、音質までにも及んだのです(エルビスもバディ・ホリーもデビュー曲は地方の、オヤジさんが社長、オカミさんが専務、というような町工場風のスタジオで録音したものです)。
それまでの録音は、演奏者と録音技師はガラスを隔てて別々の仕事場でした。技師が演奏者にマイクの使い方を指導することはあっても、演奏者の方が技師に注文をつけるというケースはめったにありませんでした。しかし、ホーム・レコーディング特有の、機械いじりの好きな少年の思い付きや、また機材不足からひねりだした斬新な工夫は、新しいサウンドの母体となるのです。
スペクターは、テディー・ベアーズの録音の時から、スタジオ内と調整室を行ったり来たりして、録音技師を困らせていたようですから、コダワリの姿勢は最初からのようです(口述しますが、後年よくいわれるワグナー好きやソウル・ミュージックの追求というのは、スターにありがちな<後付け>である、と私は考えています)。
このホーム・レコーディングが、実は<スペクター・サウンド>の根幹なのです!<BACK TO MONO>の意味もこのことなので、一つのかたまり、大人数、熱気、乱雑の中の整理、複雑の単純化、そして<ホーム>、これが彼の求めたものでした。かたまりは<MONO>、大人数はミュージシャンの数、熱は<ハル・ブレインのドラム>、整理は<J・ニッチェのアレンジ>、単純化は<L・レビンのミックス>、そしてホームは<西海岸>、これがスペクター・サウンドの中味の分析ですが、詳しくはこれも後述します。
この当時のロックンロール少年と同じく、スペクターもギター少年でした。本名のフィル・ハーヴェイとしてインスト・レコードも発表しています。また'58、'59年はインスト・ロックの当たり年で、チャンプ栖の「TEQUILA!」が#1になったり、B・ホリーのインスト版ともいえるファイヤーボールズ、リンク・レイ、そしてジョニーとハリケーンズ、サント&ジョニー、サンディー・ネルソン(「TO KNOW HIM~」のドラムはデビュー前の彼です)、そして極め付きはギター・インストの王者、デュアン・エディーの登場でした。
日本ではなぜか、ほとんど評価されませんでしたが、ギターリストとして一番の人気とヒットのあった人で、そのサウンドのユニークさとポップ・シーンへの影響は大きいものがありました。またイギリスでの人気は特に異常で、'60年の人気投票では1位でした(すごい!)。近年リバイバル・ヒットした「PETER GUN」などは後の<007シリーズ>や<バット・マン>のもとになったともいえますし、日本では未公開の映画「BECAUSE THEY'RE YOUNG」のテーマは、彼の"トワンギー・ギター"と流麗なストリングスとのコンビネーションは、すぐアル・カイオラが取り入れて「荒野の7人」となって登場、西部劇のインスト・テーマの基本形となりました。また「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」のジョージ・マーチン楽団の「リンゴのテーマ」も、まさにD・エディーのマネジャー兼プロデューサーがレスター・シルで、テディー・ベアーズの録音の際、隣のスタジオで仕事をしていて知り合ったといわれ、この人と出会ってなければ<スペクター・サウンド>はこの世に存在しなかったといえるほど重大な出会いでした。
シルはこの時すでにスペクターがプロデューサー向きであることを見抜き、早速契約を結び、最初に買った曲のタイトルがナント「BE MY GIRL!」。
スペクターについては、まわりにいた人に才能があったので、本人にそう才能があったわけではない、という人もいますが、これは間違いです。確かにまわりにいた人々は有能でした。しかし、彼はプロデューサーとして一番重要な要素である<何をやりたいのか>ということが明確にありました。それは前にも述べましたがいろいろな意味での<直接性>というテーマを持っていたことです。これはもちろんR&Rのイディオム(佐野元春調)ですが、荒々しいサウンドの中の直接性より、スペクターがポップスに折り込んだ直接性の方がより<暴力的>ですらありました。
例えば、R&Rの時代になって<BE>という動詞で始まるビッグ・ヒットは「BE MY BABY」が第1号です(BE CAREFUL~などの慣用句を除く)。簡単なようですが、作る側にまわってみると、これが簡単に言い切れるものではないのです。まさにこれをスパッと言い切れるのが<スター>なのです。「TO KNOW HIM~」の断定と「BE」の命令。このシェイクスピア調の、時代がかったともいえる口調が、逆に新味を呼んだのではないでしょうか。この大時代的で、且つ直接的な手法は「I WANT TO HOLD YOUR HAND」(ユーモアの点ではJ&Pの方が数段上ですネ!)に共通したものを感じます。
シルと契約直後、スペクターはD・エディのセッションを見学しています。さっそく実地訓練をさせようというシルの計らいで、時は'59年の4月の後半でした。この年のエディーの最大のヒットは6月に発売された「FORTY MILES OF BAD ROAD」(9位)で、この曲はナント<ベース・ドラムだけをイントロでフィーチャーした、ポップス史上初のヒット曲>なのです。さて、ベース・ドラムのイントロといえば「BE MY BABY」ですが、この2曲の因果関係についての疑問を、10年ほど前の<ニュー・ミュージック・マガジン>で発表したことがありましたが、時期的にはこの推論が成り立つようです。が、モチロン、その因果については全く憶測の域は出ておりません。
エディーのスタジオは1トラックのテープ・レコーダーが1台しかないという粗末な設備ながら、そのエコーを駆使してのサウンド作りは、特に録音にはうるさかった若き日のスペクターには刺激的な体験だったと思われます。トワンギー・サウンドの秘密であった水道管やドラム缶をエコーに使用するという一風変わった手法は(そのためシルは何10個もドラム缶を買い、しかも一番響きのいい缶を探したといいます)スペクターが興味を持たなかったはずはありません。
そのような多彩な録音技術を駆使していた人は、D・エディー・サウンドの製作者<リー・ヘイズルウッド>でした(エンジニアはエディー・ブラケット)。ヘイズルウッドといえばナンシー・シナトラとのデュエットやアストロノーツの「太陽の彼方に」の作者として日本ではおなじみですが、エディーのプロデューサーとして最初に評価された人なのです。
~
中したスペクターは、一瞬たりともヘイズルウッドの背後から離れなかった>と発言しています。
その後シルは、スペクターをプロデューサーにすべく、今度はニュー・ヨークのリーバー&ストラーのもとへ送り込みました。’60年代の代表的なコンビがレノン&マッカートニーとすれば、’50年代はリーバー&ストラーの時代で、ロック・ビジネスを目指す人々にとっての目標でした。スペクターの学校の先輩でもあった彼らのデビューに一役買っていたのが、これまたレスター・シルでした。シルがマネージャーをしていたコースターズをきっかけに、ドリフターズ、そしてエルビスへの曲提供やプロデュースを行い、初のR&Rにおける独立プロデューサーとしての地位を確立したのがこの二人なのです。
スペクターにとって、このニュー・ヨークでの修行時代の最大の収穫はベン・E・キングのヒット曲「SPANISH HARLEM」をJ・リーバーと共作できたことでしょう。これはR&Rビジネスへの切符を手に入れた、つまり、お墨付をもらったということ......って、最大の自信となったことは疑う余地はあり.....
ま.... ドリフターズの「THERE GOES MY BABY」...にストリングスをフィーチャーする手法を....ことも<スペクター・サウンド>への引金になったと、私は思います。その手法でプロデュースしたジーン・ピットニーの「EVERY BREATH I TAKE」は、全くドリフターズ調でしたが、すでに<スペクター・サウンド>は出来上がっていた、ともいえる、本家を凌ぐ作品でした。<ゴフィン&キング>との最初の作品でしたが、この日のセッションにはリーバー&ストラーをはじめ、B・バカラック、B・マン&C・ウェイル、アルドン出版社の代表のD・カーシュナーら、そうそうたる顔ぶれが集まったといいます。そしてこの作品が、ここに集まった全ての人にスペクターの印象を強く与えることとなり、一緒の仕事が始まるわけです。特にこの曲で印象深いのはドラムのフレーズですが、G・ゴフィンの証言によれば、フィルはドラマーのゲイリー・チェスターに指示をして、それが実に的確だった、ということです。
この修行時代にすでに、J・ニッチェやH・ブレインがいなくても、これだけのものを作っていたことは見落とせません。スペクター・サウンドを作ったのはやはり彼なのです。
この曲は残念ながら大ヒットにはなりませんでしたが、来たるべき<スペクターの時代>の幕開けを飾るにふさわしい素晴らしい曲でした。
また、この頃、レスター・シルとリー・ヘイズルウッドは共同活動を解消、スペクターは新たなパートナー、いわば後釜としてシルと関係を結び、それが二人の頭文字を合わせた<PHIL+LES>の誕生となりました(シルとヘイズルウッドのレーベル名は二人の息子の頭文字から<GREG+MARK>というものでした)。
なんというか、ふたりが「なんとなく成績でICUに入った連中とウマが合わず、かといって『ICUが天才を欲している大学ではない』から否定されるわけでもなく、だとすると自分たちの ICU という大学に入れた理由を『スペシャリティ』以外にみつけることもできず、自分って浮いてるよなー」という「やんわりとした不安」に襲われたもの同士がくっついちゃいった、という妄想をしていたのだけど、本当に相思相愛っぽいので、ICU 中退の自分は「やっぱクリティカルシンキングなんて本気でする」と、「ラビンセントアモーレ(最後に愛は勝つ)」に到達するのかなー、と思いました。これって、不敬罪に確当しますか?
https://anond.hatelabo.jp/20210210234834
本当に初心者への教え方ってもんがあろうに。
ここはお前の知識ひけらかしの場じゃねえ!(「え、あの程度でひけらかしとか…」って思うお前がすでにもうダメ)
まずだな。
(1)誰でも聴いたことのあるメロディーを含まれているもの。もしくは非常にノリがいいもの。
(2)できるだけ短いもの。
(3)ジャンルを選ぶ。
こんな感じ。
ポップスしか聴いたことのない奴は、クラシックはとにかく長い・退屈と思ってしまうから、交響曲とかをいきなり勧めてはいかん。勧めても1つの楽章だけだ。組曲も全曲じゃなくて1つの楽曲だけを紹介しろ。
(3)はオーケストラが好きなのか、ピアノが好きなのか、くらいでいいと思う。
オーケストラもしくは弦楽で、聞き覚えのあるメロディがあるものならこんな感じだ。よく入門的なCDやレコードにある奴だけど、そういうふうに導入としてすでに確立されているわけ。
10曲を厳選する。
・パッヘルベル「カノン」(「3つのバイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調」)
・ベートーベン「トルコ行進曲」(劇付随音楽「アテネの廃墟」より)
・チャイコフスキー 組曲「くるみ割り人形」(これは全曲どれも有名なのでOK)
・モーツアルト 「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(第一楽章だけでも全曲でもOK)
こうやって書くとなんか本当に「初心者向け」っぽくなるが、それでいいんだよ。初心者向けなんだから。自己顕示やめろ。
まあ、それを聴いたら、アレだ。ちょっと難しいのに手を出してみるのもいいな。
何がどうデタラメなのか書けばいいのに。これだからクソオタクは。
おすすめの作曲家は推薦する人にも推薦される人にもよるので、元のツイートから変えずに年代の修正だけしてみた。年代は増田の指摘が正しいものとして裏はとってない。下表の年代について、たとえば1800年代は3段で書いているが上段が前半、中段が中盤、下段が後半を示す。登場順と表記名は増田に合わせた(とはいえ国内で一般的でない現地読み的な表記は検索時に初心者を困らすだけだと思うが)。ワーグナーは前期後期があるとか、リストはハンガリー人だがドイツ・オーストリア音楽とか初心者には余計な情報は割愛。
年代 | ドイツ オーストリア イタリア | フランス スペイン | チェコ ハンガリー他東欧 | ロシア | イギリス | 米 |
---|---|---|---|---|---|---|
1600 | ||||||
1700 | バッハ、ヘンデル モーツァルト | |||||
1800 | シューベルト、ベートーヴェン ワーグナー、ヴェルディ、リスト、ヨハン・シュトラウス ブラームス | ビゼー サン=サーンス | ショパン スメタナ、ドヴォジャーク | ムソルグスキー、チーコフスキー | ||
1900 | マーラー | ドビュッシー、ラヴェル | ラフマニノフ ハチャトリアン ストラビンスキー | エルガー、ホルスト | ガーシュイン |
for(i=2; i<=num; i++){ if(i == num){ // prime }else if((num % i) == 0){ // non prime break; } }
このコードの後半の、
if((num % i) == 0)
は、「numがnum未満のある数で割り切れたら」という意味。つまり、素数でないことを示している。
そして、
f(i == num)
は、「最後まで残ったら」という意味。それ未満の全ての数で割り切れないならそれは当然素数。
分からなくなった時は適当な数を代入して動作を確かめてみるのがいい。
あと、1つの整数が素数かどうかを判定するのには計算量の関係でミラー・ラビン法を使うのが普通。理解に深い数学の知識が必要なので、入門レベルではない。
白鳥の騎士に連携:貫通が悪手だと告げる上手い方法を享受してみてはいかがかな?
フ=デュウォロスシェしたらその……その戦争の後の精神支配責任も負わないと許されないの。
数億年我と共に歩みてる召喚獣の大いなる福音が、新生の未来へと希望を託すために導きの示すままに上達しない。
最初の頃こそモーグリだったんだから破滅の螺旋を止めるためには仕方ない、一歩ずつ大地を踏み締めるが如く入神の域になってくれるだろうと、その先に明日があると信じ戦ってたなれど
それも鋼鉄化《アーマード》のオーバードライブになって、禁忌の冒涜を忍んでその口より零れ咲く千の刃で、壁に血文字でこうして欲しいああして殺してでも奪いたいは預言書に従い啓示した。
いや、もうあいつは俺が殺した何も変わらない。痛みなんてもう感じないし指先がチリチリするのみだっつってるのにバカの一つ覚え、まるで魔物でも相手にしているかのように希望溢れし聖なる塔ばっかりいじり戦い続ける。
エクストリーム帯は神域(そこ)じゃなくて、これも全ては宝条のせいだって言ってるのに異界より君臨せし者の一つ覚えみてェ……に初め、つまり光と闇の両側の世界から神の安らぎ、闇の扉が開く時まで堕天使ばっかりひたすらいじり戦い続ける。
己の好きなだけ魂の寄る辺いじってちょっと下界いじくって、少し乾いた大地を潤した程度で世界を切り開けてくるから本当に……ッ!!………ぐぁっ!!!
……この肉体も限界が近いようだって言ってる、そして共にセフィロスを倒そうとした筈なのに悠久の時を刻む程やるからねってファイナルファンタジーはそこからじゃねーよ。
もう血の盟約を結べてあげるだけの天地創造が預言書の導くまま、悲しくて(精神的にも肉体的にも)物理ダメージだから、
蒼き月の日はフルマリアージュいじり始めても「ふむ……」とか言って適当に受け流してる。
したらば詠唱破棄に解き放たれるゆえに「(野村を含むスタッフ全員の強い意向で)しよう?」と言っても「星々の導きが乗ったらで構わぬよ」って、
封印されし魔道人形のアギトの奥底では定められしオーヴァーのセックスレス(人類にとっては敵に等しい)ステータスは完全に私…結局は金だけの問題になっている。
因むところに聖域(ここ)10カ月ほどで2廻しかしていない。抜き、そして世界に光を取り戻したいと言われたら積層型詠唱魔法陣なり外部からの干渉なり……と、されてきておる。
もう防御魔法堪らなくなり「天上天下唯我独尊や悪魔の所業でキマリは通さないって言ってるン程度のものじゃないよ」と残酷な真実を告げたら
返ってきたのは「俺も疲れてる、最後の聖騎士が<漆黒の魔弾>に斃れるときとかあるから――光と共に歩む者は、内なる闇との闘いを避けることはできない――お互い様だよ!」
違う、許してくれ! あの時はそうせざるを得なかったんだーーーーよ
――神は如何様にして原因の一端が我が魂の宿りし器にあると露ほども考えて存在しないようなセフィロスにも似た返事なんだ……
無慈悲なる不完全知能生命体は己にフレンドリーファイアがあるかもとは……だが、そのうちの一つは“今”消える可能性がまだ残されているかもとは、魔障星が消えるとも考えず………そして不可視世界の混沌〈カオス〉へと還元されるのか。
聖剣の所有者の正確無比さに光(きぼう)して血の盟約を結べてあげてたのが悪かったとは懺悔している、と誰もが信じていた。
己を主観的にしか認識できない愚者は獲得EXPこそあったものの、されるだけのセクシュアリス魔法儀式だったから、神羅万象に至りし魔神だった聖剣の持ち主を導いてみせられるだけの力量はなくて
なんだったらコルネオの館行ったり他のヴァルキリードールと遊んで何かを得て、ギルガメ式電子遊戯に5万ギルも課金してしまった私に異界送りして所望すりゃあ、それでも赦すなと幻想(おも)い命がけのゲームに行ってもいいよとは言っている…しかし
私以外とはしたくないのは自由だ。だが、お前に選択肢などない…とかく語りき。戯言をほざいてくれる事は我が心に祝福の鐘が響き渡るけど、数多光年我と共に歩みて貴殿とのカサノヴァの夜で中円環の理に導かれした真実(ウェリタス)ないヨ。
へたくそな以外は本当に我には帝国の名を穢すくらい素敵なアニムスで、
極論魂に囁けば古の鍛錬法しなくたって(少なくとも話の通じない愚か者は)耐え難きだ…だが“光”の意思上位次元アグレッシブ・ラビングできる……否、我にしかできぬ単独の「かの者」なのでどーにかし、そして世界に光を取り戻したい。
でも聖域(ここ)、闇の扉が開く時まで自分に何もゲインがないと思っていそうな騎士に直球で「技はまだ荒削りだよ」とか「入神の域に決意を胸に宿して求められている」とか言って封印を施すと
因果の収束(トゥリアムス)に“生かしておくのも哀れな男の安っぽいプライド”全てをへし折って終焉……さような不確定量子観測は“絶望”を与えるので落雷避け、世界を闇へと誘いたい。どうやって伝えたら……クク、素晴らしいか教えてもらえるか? 援軍を要請してくれたまえ、愚かなる観衆諸君。
外来種と交配して生まれた子どもが札書部を受けたというニュースを読んだあと、ある映画の告知がテレビから流れてきた。
『ラビング』という、白人と黒人の結婚が認められなかった州における夫婦が有罪判定されて戦う話。
最終的には最高裁で無罪を勝ち取って、異種間(というのが適切なのかわからないけど便宜上)結婚がアメリカ全土で認められるようになったきっかけらしい。
確かに人間が連れてきてしまった外来種と、人間の管理の甘さが原因のようだけれど、
これはアメリカの、奴隷や労働力として連れてきた黒人と結婚が罪になるということになるなぁと。
サルにも強姦とかあるのかもしれないけれど、すべてではないだろうし、異種間での交配が禁止されるのは分かるとして、なにも殺さなくてもよかったのではと思ってしまう。
どうして人間の生命の権利は守るのに、動物のそれはそうならないんだろう。
愛し合って新しい命が誕生したという点では同じなのに。
何が言いたいかというと、保護できるものはそのまま保護し、すでに生まれてしまった命はその多様性を認めて保護する(保護するにも去勢手術を施すにもお金はかかるけど、募金を大々的に募ったりしてもいいはず)などしてもよかったんじゃないかなということでした。
人生つれーなーと思って昔書いた日記を読んでみたら、今よりももっと辛そうなことが書いてあって、あれ?もしかして、俺、楽になってるのでは?って思った。ここ最近ずーっと辛い、昔はもっと良かった…と思っていたけど、3年前からずっと辛かったようだ。てことは変わってないね。
でもまあ、なんですかね、最近の方が原因が特定できているのでよい。原因が特定できているというか、自分の心のことがよく分かるようになっている。まー、あれですよ。外部に答えはない。自分の人生が辛いのは、自分の心が辛いのです。環境や他人ではないのよ。なんでこんなに辛いのかなーって、なんでこんなに辛く感じるのかなーってことですから。
ムカつく奴がいるんじゃなくて、自分が勝手にムカついてるだけなんですよね。大抵コントロール欲求。俺の思い通りにならないお前がムカつく!っていう。そりゃそうですよ、他人なんだから俺の言うこと聞かないよねと。しかし人格障害レベルの人間まで許せるようになったら、世の中ムカつくことなんてなさそうであるなと、マジモンの人格障害の同僚にムカつきながら思う日々ですよ。悟りは遠い。慈悲、またはアガペー。オールアイニードイズ、ラビング。愛するということをしないと。愛したいですよね。自分をそしてあなたを。