はてなキーワード: 日本語使いとは
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に惹かれるものがあった。「自国」って何? とは思うが。もしかして「自分」の書き間違いか?
ポルトガルで学んだポルトガル語学習者、とブラジルで学んだポルトガル語学習者間で「さやあて」があるのだろうか、興味がある。
中南米のスペイン語の盟主というのがどの国かわからないが、同じような構図がありうるように思う。
cやzの発音を巡って話者の品定め的なトピックがあるのは知っているが、もっと具体的生々しい感情というものがあるのではないかと思う。
ともあれ、留学した先の言語や文化に自分を一体化するということは実際にあるのだな、
「新大陸のほうの分家が今や主導権を握っていること」に対する複雑な気持ちも共有できるくらいに自分を変えてしまうことができるのだな、と思った。
一方で、日本国内にも、イギリス人として生まれたわけではないのにイギリス英語(イギリス文化)にかぶれた人や、
フランス人として生まれたわけではないのにフランス語(フランス文化)かぶれた人もいる。
これらは少数派としての挟持、マイナーな選択をした自分に対する誇りを上乗せしている感じがあって、
それは自分語りの道具として、由緒の有りそうなものを利用しているのだと思っている。
つまり、「誇り」の有効範囲は日本国内までであるということを、おそらく自覚していると思う。
イギリスやフランスに行って名誉イギリス人、名誉フランス人として扱ってくれるとは、まさか思っていないだろう。
その意味では、このブログを書かれた人とはやや違うのかもしれないと思った。
後、旧制高校などではドイツ語選択、フランス語選択などを元に、自分の文化上の宗主国を主体的に選ばせるような習慣があったのだろうか、と思うこともある。
一方で、諸外国()では、ある国・ある地域の言語を学ぶことはその言語の文化圏の代理人になることを意味しない。
中国の王毅外相は、日本語の機微まで理解し、日本人も舌を巻くような日本語使いだが、彼にとって日本語は手段であり、知日派ではあるが親日派ではない。
サイデンステッカーやドナルド・キーンみたいな人もいるよ、と言われるかもしれないが、実務の人と文学者はまた別ではないかと思う。