はてなキーワード: 二葉亭四迷とは
https://tree-novel.com/works/episode/07464104c8c86babd54079b4a15575d7.html
ペンネームが真面目につけたと思えない、という理由で減点対象になっているからだ。
ということで真面目につけていないだろうペンネームでぱっと思い付いたのを挙げていく。
→エドガー・アラン・ポーのもじり
→博多の方言で「人の考えないようなことを言う人」のことで、作品を読んだ父親にそう言われたから
→編集会議が行われていた修善寺へ行くのに三島駅を通り、そこから見えた富士山の白雪が印象的だったから
→年齢で数字を増やしていたがさすがに止められたため
→幼名の「「升」と野球をかけて
他にもあるだろうが、いったんはこれくらいで。
何より江戸川乱歩賞でこの講評を出したのがすごいと思う。
二葉亭四迷と「くたばってしめぇ!」
途中で自分で声優の話してるからうすうす気づいてるんだろうけど、セリフ音読してみろ
とてもいえないような「高速増殖炉もんじゅ」とかいれてねえか?
普通は「買った」ですむとこを「購入」みたいな硬い音読み言葉を自然にセリフにいれてしまってないかのチェックに、音読はなるんだ
一度発音してみれば「こうそくぞうしょくじょ、ええとアレ」みたいにどうしてもなることがわかる
どうしても原語のままつたえたければルビ(逆ルビ)を使う手もある
パン咥えたまま発音するやつのセリフの「んもももももっもっも」のルビに「んなこといったって」といれる 抑揚で大体伝わってるんだなってわかる
あと音便 促音便撥音便きっちりいれてこ 「なんでオレがンなことやんなきゃいけねんだ!」みたいな感じ
二葉亭四迷以来、耳で聞いたままのセリフを小説にかいていいことになったんだぜ、感謝だな
いっぱいブクマコメありがとう! 気になったコメントに返信するね!
щは日本語の慣用表記とロシア語の発音がすごくかけ離れてる例だよね! 日本語だと「シチ」って書くことになってるからね! だからЩербаковも「シチェルバコフ」なんだね! 議会図書館式だとshchになるけど、これもだいぶ実際の発音と離れてる感がすごいよね!
ヴ音の表記揺れが「ヴ」と「ブ」の違いの事なら日本語の問題で納得できるけど「ヴァ」と「ワ」じゃ音が全く違うやんけ。片方は英語読みベースでもう片方はロシア語発音ベースとかなんじゃないの?
ロシア語的には「ヴァ」と「ワ」はすごく近い音だよ! 口の形が似てるんだよね! むしろ「ヴァ」と「バ」は全然違うよ! Иванを「イワン」と読んだらワンチャン通じる可能性があるけど、「イバン」って読んでもぜんぜん通じないと思うよ! 試したことないからわかんないけど! 日本人の名前の「わ」もロシア語だとваで表記されるよ!
日本語のロシア語表記って、「ロシア語から直接に翻訳されて、一般化した語」よりも、「英語やドイツ語経由で翻訳された語」の方が遥かに多いので、英語とかの時点で表記ゆれが多いのではないか。
これは日本語史的に間違いかな! 幕末からロシア人とは接触があったし、明治時代になるとロシア語を勉強する知識人が増えたから、ロシア語から直接輸入される機会はいっぱいあったんだよね! 二葉亭四迷がロシアに留学してたのは有名だよね! 現在のロシア文学の慣用表記はそういう先人たちが作ってくれたものだよ!
"Бладимирは「ウラジーミル」なんだけど、「ウラジミール」って書く人"< 間違い続けたまま辞任した安倍晋三の立場が(笑) // 「綴りと発音が離れすぎ」って、ロシア語の正書法はきちんと整理されてる方だぞ?
調べてみたけど「ウラジーミル」って書いてある記事もあったよ! 安倍さん本人じゃなくて書いた記者が間違えてる可能性もあるし、ちゃんと本人の前で「ウラジーミル」って言ってたならいいんじゃないかな?
問題はファーストネーム呼び捨てにしてることだよ! ロシア人的にはめちゃくちゃ無作法なんだよね! ロシアでは、目上の人やそこまで親しくない人は「ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ」と名+父称で呼ぶのが普通で、親しくなったなら「ヴァロージャ」みたいに愛称で呼ぶのが普通だよ! ファーストネームを呼び捨てにすることなんてめったにないよ! 英語で話してる中で「ミスター・プーチン」と呼ぶのならまだしも、通訳越しに「ウラジーミル」って呼んでたとしたらスゴイ・シツレイだと思うよ! ロン・ヤス関係みたいに別荘に誘う仲なら「ヴァロージャ」でも許されると思うけど、そうじゃないなら素直に「ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ」って呼んでおくべきだったと思うよ!
ロシア人って基本的に礼儀正しいから公的な場で何度か会っただけの相手をそんな簡単に愛称で呼んだりしないと思うんだよね! フレンドリーなことに定評のあるアメリカ人ならまだしも、礼節を重んじることで知られる日本人がいきなりファーストネームで呼んできたら「なんだこいつ」って思われても仕方ないと思うよ!
後半部分、まあ英語よりはマシなんだけどね! 他のもっと言文一致してる言語と比べちゃうと、やっぱり綴りと発音違いすぎって思っちゃうよね!
日本産コンテンツのロシア人名がガバガバなのはもう仕方ないと思って諦めてるよ! ただいくつか良くできているのもあるからそういうのは褒めていきたいよね! 具体的に言うと「イリーナ・ウラジーミロヴナ・プチナ」は完璧だね! ちゃんとウラジーミロヴィチ・プーチンを女性形にしてあって芸が細かいよね! 「リーリア・イリーニチナ・メジューエワ」は「リーリヤ」だったらパーフェクトだったかな! 「アレクサンドラ・ウラジミーロヴナ・リトヴャク」は父称の強勢の位置が間違っているのが残念だね!
それなりに凝った名前にしてるのに「あと一歩」っていう残念事例が結構あるよね! 「ヴィクトーリヤ・イヴァーノヴナ・セレブリャコーフ」とか「アレクサンドラ・イワーノヴナ・ポクルイーシキン」とかね! お前父称まで設定したんなら苗字もちゃんとしろよォ! って思うよね! 逆に「ジーナ・ボイド」とかいうロシア感が欠片もない名前持ってこられるといっそ清々しいよね! よくそれをロシアキャラの名前にしようと思ったよね!
ポリワーノフ式だと正確にはХатэнаだよ! ポリワーノフ式っていうのは、日本語をロシア語のキリル文字で表記するための方式で、100年以上の歴史があるよ! ローマ字に直すときのヘボン式みたいな感じだね!
キリル文字で書いとくれ。
Букума ситэкурэтэ аригато!!!
それってЮрияна。
Дадияназанは×ダヂアナザン○ダディヤーナザン
ナズェゴマツノミャフキー・ズナークヲハブイタノディス!!!
感嘆符疑問符 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9F%E5%98%86%E7%AC%A6%E7%96%91%E5%95%8F%E7%AC%A6
感嘆符の役割と疑問符の役割を同時に表現する。文がなく、単独で使用されることもある。主に会話の表現で使用される。斜体にして使用されることもある。(⁉)
日本の文学では、小林多喜二の『蟹工船』や二葉亭四迷の『平凡』など、用例を多く見ることができる。漫画やライトノベルなどでは多用される表現手法である。
疑問符感嘆符 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%96%91%E5%95%8F%E7%AC%A6%E6%84%9F%E5%98%86%E7%AC%A6
疑問符と感嘆符の両方の意味合いを同時に表す。文がなく、単独で使用されることもある。
斜体にして使用されることもある。(⁈)
日本の文学では、感嘆符疑問符ほどは使用例はないが、小林多喜二の蟹工船などで用例を多く見ることができる。また、「知ってるつもり?!」などテレビ番組のタイトルに使われることもある。
こんなに月がきれいな晩にいうのも何だが、
何か物語があり、何かのカップリングがあると、すぐどいつもこいつも、
男「月がきれいですね」 女「死んでもいいわ」 ラブラブEND みたいな掌編マンガやドラマを書き始めるが、
あれはなんだ。
嫌いな理由①
「月がきれいですね」は漱石(が言ったことになってる)の気の利いたジョークであり、
その意味を汲めないやつが消費的に使っていること。
I Love Youをまんま和訳すると、当時の日本人には直接過ぎる。
だから「月がきれいですね」という当たり障りのない事を「そうですね」とやり取りすることで、
2人の気持ちは通じ合っていることを確認するから愛の告白なのだ。
「そうですね」とか「私もそう思います」だ。それで2人は見つめ合うーーーなら良い。いいじゃないか。
なのにさあ…なんなん…
嫌いな理由②
「月がきれいですね」と「死んでもいいわ」はまったくニュアンスが違うし、情の質も異なる。
なのにそれを無視して、無視して、ただ近代の文豪が言ったという権威に乗っかってキメラにして、
それでいてなお、ちょっと自分の作品を文学・詩的にしようとしてる姑息さが嫌いだ!
「死んでもいいわ」は二葉亭四迷がツルゲーネフの「片恋」を訳す際に用いた言葉だが、
(はい、もうこの時点で何人かは、「エッこれ漱石の言葉じゃないの!?」とか言ってるからな、ここで!)
ヒロインのアーシャが主人公に抱きしめられて返した言葉だ。唇が主人公の胸元に触れるか触れまいかの
アーシャは主人公に、片思いしてるわけ。そんな主人公に熱い抱擁をされて、
彼女はきっと、熱に浮かされたように頭に血が上り、緊張し、そして幸福の絶頂を味わったんだよ。
だ・か・ら・こ・そ、「死んでもいいわ…」なんて言うわけ。もう今の幸福を例えるなら、
死んでも惜しくないほど幸福だと。
分かる? 「死んでもいいわ」はなんなら、I Love Youやあなたを愛しています なんて生易しい沸点の言葉じゃないの。
これで「月がきれいですね」と「死んでもいいわ」の言葉の取り合わせがいいわけないよね?でしょ?
ほら。
ね、みんな嫌いになったでしょ?
共感というのは、相手と自分とが同じように思う、という意味の事だ。
例えば満月を見て「美味しそう」と同時につぶやくことが、結婚のキッカケになることもある。
そう、今オマエさんが思った「あー、プラネテスね、良い漫画だったね」と思ったそれが共感だ。
そして、「何のことだ?なんか有名なエピソードか?」と思ったオマエさんとは、共感できていない。
このズレが、コミュニケーション能力の高低として語られるわけだ。
ズレの補正は、たゆまぬ蓄積で可能になる。
情報の伝達という意味で言うと、これほど無駄なものはないし、同じ「辞書」を持ってないと会話にならない。
「おはようさん」
「Buenas tardes!」
「たる?なに?」
みたいなのは特殊だとしても、結局のところ相手と同期もしくは共感できなければ、会話は成り立たない。
こういう会話ができるようにしてあげたいんです。今は
「暑いですね」「いやーホント最悪ですよね、さっき犬の糞ふんじゃったんですよ」
コミュニケーション能力の鍛え方を教えて欲しい
この場合、一つ目の会話は「暑い」という天候の話題で雑談としたいという「意思」があるわけだ。
しかし、二つ目の会話を「今日はなんとなく嫌な日」という「意思」だと捉えると、さほど違和感のある会話ではない。
つまり、こういう補足を入れると、だ。
という風になる。
後輩は、先輩からの「ネガティブな日だよなー」という雑談に共感し、正しく応答している。
ポイントは、先輩から見れば「俺はそんな話題は振ってねーよ」という所にある。
二葉亭四迷が、「Ваша」を「死んでも可いわ」と訳したのは有名な話だが、
結局のところ、相手に伝わるように「揃える作業」を会話の時には無意識に行っている。
コンピューターはそんな無意識を持っていないので、通信し応答するという手順を定め、プロトコルとして定義している。
空気を読む、というのが最たるもので、つまりその場におけるプロトコルを推定する能力なわけだ。
先ほどの「こういう会話」に「共感」した人達は、無意識に次のような手順を踏んでいると言える。
実は、「A(今日は通勤中暑かったな)」だったりすると、会話としてはズレがある。
「(今日は昨日に比べて外気温が)暑いですね」と「(部屋の中が)暑いですね」とでは、意味が違う。
でも、大抵「A(あれ?部屋のエアコンの話してる?)」みたいにズレは無視されたり、摺り合わせがなされる。
世の中には、雑談や指示の受け取り方、命令伝達から意思疎通に至るまで、あらゆる面で特化した人達がいる。
「貴方が森を歩いていると煙突が有ります。どんな煙突でしょう?」
みたいな性格診断がソコソコに流行ったり盛り上がる背景には、全員が同じ答えを返さない、
つまりは、「全員異なる辞書を持ち、全員違う思考回路を持ち、全員まちまちな経験を持つ」からだったりする。
ただし、大抵の場合は、おおまかに一致する部分がある。
例えば、「たまごっちが流行った」だとか「8時だよ全員集合は観ていた」だったりすると、世代間の差として判りやすい。
でも、「暑いですね」と話しかけたり、「A案とB案とどっちが良いと思う?」という問いかけに対しての返答が、
過去のその人物の経験則から、一般的でない回答が返ってくる可能性がある/そういうこともあり得るというのは、理解されにくい。
「8時だよ全員集合面白かったですよね」「そうですね、面白かったですよね」
こういう会話ができるようにしてあげたいんです。今は
ここまでで判る通り、会話というのはノイズが多い割に省略されがちだ。
だからこそ、推測混じりに会話を成り立たせる必要があるし、推測にミスが生じる理由は、ベースが異なるからだ。
雑談に関しては、そのズレを楽しむ余裕がほしい。
「暑いですねに対して、犬のうんこの話しされるとイライラする」ならちょっとカリカリしすぎだ。
そもそも「暑いですね」と話しかけて「そっすね」と返されて、何がしたいのだ。
だが、仕事となると話は別だ。
意思伝達にズレがあると、業務に支障がある。
(恐らく、注意や質問にずれた答えを返すという記述から、業務において支障があると推定して良いだろう)
「AとBのどっちが好き?」と聞くと
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~という理由で、Cのこと嫌いじゃないです」と返してくる。
辛抱強く最後まで聞いてから、「で、AとBのどっちが好きなの?」と聞くと
「あ!Aです、すいません」と答える。
これを、単なる雑談ではなく、業務担当者としてA案とB案のどちらが良いか、という質問だと考えてみよう。
ポイントは、先輩から見れば「俺が聞きたいのはAかBかどっちが良いかだよ」というところだ。
先ほどの雑談と同じく、「後輩側は正しく応答している」と仮定すると、これは「後輩の共感ミス」という事になる。
「(先輩は、グループでどれが嫌いか聞いてるのだな?そのグループで嫌いなのは無いけど、あえて言えばCで、でも嫌いってほどでも)」
という想像をしていると、仮定してみれば良いのだ。
ベースが異なる異文化と交流をする際には、相手に対する敬意と知識が必要になる。
しかし、世の中はさほど生きづらくは無く、「聞き方が悪い」と断じても意味は無い。
・コミュニケーション能力が絶望的に低いことを気付かせ、
・コミュニケーション能力を鍛える方法を教える
ことに決めた。決めたのです。
さて、さらっと「聞き方が悪い」と書いたのだが、
共感力が低い相手に「お前と俺と経験が違うし、職業上の文法も違うわ」と言ったところで、伝わらないだろう。
例えばだが、
という聞き方をすれば、聞く方からすれば必要な情報は得られる。
しかし、そういう聞き方をしない相手と、そういう遣り取りをする必要が有ることに気が付かせるのは、相当に難しい。
これは、「共感力のベースを鍛える必要がある」事に気が付かせ「共感力のベースの鍛え方」を教えるということだからだ。
本人はそんな必要があると思っていないのに、それと気が付かせるのは至難の業だ。
この中で出てくる「先輩」に対して、「オマエの聞き方が悪いんだよ」と「自分から気が付かせる」には、相当な技量が必要だ。
ハッキリ言おう。
「業務に支障があるレベルで、共感力というか、会話をする時の推測がミスってる」
「その推測ミスに、悪意がないことも判ってる。だけど、推測ミスは業務に支障が出る」
「相手が言葉にしないで当然わかって欲しいことが、知識として蓄積できていない」
相手はショックを受けるかもしれないし、意味がわからないという顔をするかもしれない。
何かズレがあるにも関わらず言葉が多いのは、意思疎通に不安があるからだ。
目と目で通じ合える間柄でないのならば、言葉にする必要がある。
質問の意図を咀嚼して、相手に確認を取ることで、共感力のベースが育つ。
教えたり質問したり注意したりする方は、何度も何度も変な理解をする相手に苛立つかもしれない。
しかし、その後輩は、そうやって聞き返さなければ、先輩には見えない頭のなかでそう理解しているわけだ。
この「相手の質問の意図を確認し、まず結果から返答する」というのは、ビジネスにおいてマイナスになることは無い。
メモにとれば、その相手はどういう聞き方をするかが、物理的に残る。
先輩は、後輩の育成具合をメモの数で把握できる。指摘もできる。
突然関係のないことを人に話しかけられてパニックに陥る人間もソコソコいる。
想像してみよう。
言葉の分からない空港で、突然現地人に親しげになにか話しかけられた時に、しどろもどろに英語で何かを返す自分を。
「なんだよ、今日は良い天気だなって話しかけただけなのに、変な旅行者だな」と相手は思っているかもしれない。
職場をそんなふうに捉える人間が存在する、ということをまず理解し、受け入れよう。
そして、「そういう時は、暑いですねって返すもんだよ。意味のない雑談なんだし」と言えば良いのだ。
「(なんだこいつ)」と頭のなかで思うだけでは、相手には決して伝わらないし相手の挙動は変わらない。
伝えても変わらないかもしれないが、伝えなければ絶対に変わらない。
健闘を祈る。
自分の推測にミスがある、あるのではないかということを、まずは認めよう。
キミのAPIには、致命的な欠陥がある。
相手がAやBを返してほしいことは分かってる。
が、それはワイドショーで
僕は本心を隠したまま、ウソを付いて相手に合わせることになる。
Gの方が核心に近いと考えたからだ。
考えすぎてコミュニケーション能力が低い人へ
日本では、職能と職責と職分とが、渾然一体と混ざり合って、なあなあになっている。
ソコソコに有名な話だが、外資なんかだと
「AとBと、技術者としてどちらが良いと判断するか?」と聞かれて
「Gの方が核心に近いのでは?」と返すと
「それを判断するのはオマエではない。で、AとBとどちらだ」とハッキリ言われる。
技術的な提言をする人間と、判断する人間、選択肢を選ぶ人間が、きちんとわかれている。
そもそも、「AかBか?」と聞かれて「本心ではAやBが問題ではなく、Gの方が核心に近いと考え」るのは、僭越なのだ。
なぜならば、上司が判断するよりもオレの判断が正しいという傲慢さの現れだからだ。
そして、「先輩が聞きたいのは、AかBかではなく、○○という問題の解決策なのだな」という推測にミスがあるのだ。
繰り返そう。
コミュニケーション能力が低いのは、相手のクロック数が低く、相手が自分の処理能力に達していないからでは無い。
プログラマーなら、「驚き最小の原則(Principle of least astonishment)」を思い出そう。
Excelでsum関数を使った結果、突如C列の出費だけを合計して出力されたら困るだろう。
繰越金や入金をも合計するのには、理由があるのだ。
勝手に推測されて(その推測にマシンパワーを使われて)は、困る。
ついやってしまうのであれば、先ほどのアクションを実行しよう。
精神論ではなく、難しい手順でもなく、聞き返すだけだ。
そして、大抵の場合は、
「いや、そうじゃなくて、AかBかは部長の判断で絞られてて、どっちかしか選べないから」
と言われて、「じゃあAですね。Gが核心だと思うんですけどね、部長も判ってないっすね」みたいに繋がるのだ。
もしくは、「そうだね、AかB以外でも解決策があるなら、それも教えて」と言われて初めて、Gの話をすれば良いのだ。
これが「会話」だ。
どうもコミュニケーションが上手くいかないと感じた時に、傲慢さを捨て、謙虚になり、内省する必要は「無い」。
上司が本質を理解せず、先輩は無能でレベルが低く、誰も自分の抽象化についてこれないと思ったままでも構わない。
情報量に差があり、推測にミスがあるのなら、補正をかければ良い。
振られました。
前にも一人彼女がいたけど、本当に好きだと思ったのは初めてだった。
本当に人を好きになるとメタ認知なんてできなくて、論理で説明できるもんじゃなかった。
出会ってから今までずっと相手のことを考えてた。すごく楽しかった。
二葉亭四迷の「死んでもいい」もなんとなくわかった気がした。
俺みたいなんがあんな可愛い子とデートできただけでも奇跡だったな。
今でも好きだけど、今は感謝の気持ち。
自分なら幸せにしてあげれると思った。自分が幸せにしてあげたいと思った。でも俺と付き合っても幸せになれないと思われたならしょうがない。たぶん俺には頼り甲斐がなかった。
幸せになってほしいなって今では純粋に思う。うそ。未練たらたら。でも幸せになってほしい。これまでにいろんなことを学ばせてもらった。ありがとうございました。
こんなことネットに書くべきことじゃないのはわかってる。こんなことやる俺ってキモい。でもどこかに書き残しておきたいと思った。
こんなことされたら恥ずかしいだろ!もっと相手の身になって考えろよ!
http://anond.hatelabo.jp/20080315152400]
これを全部読んでいない人間は「猿」です。
ちなみに猿に人権はありません。ネットで表現をする権利も自由もありません。よく覚えておくように。
レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫
ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫
ハイデッガー『存在と時間』ちくま文庫, 岩波文庫, 中公クラシックス
ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』複製技術時代の芸術, 晶文社クラシックス
ポランニー『大転換 市場社会の形成と崩壊』東洋経済新報社
デリダ『グラマトロジーいについて』
海外文学
『唐詩選』岩波文庫
シェイクスピア『ハムレット』角川文庫、新潮文庫、岩波文庫、ちくま文庫
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小林秀雄『様々なる意匠』
保田與重郎『日本の橋』
吉本隆明『転向論』
江藤淳『成熟と喪失』
by 柄谷行人、他
追記
ネットにはほとんど「猿」しかいないんじゃないかと思うことも多いので、是非、脱「猿」してみて下さい。2chは「猿」の巣窟でもかまわないのですが、はてなが「猿」の巣窟であってはインフラ、リソースの損失だと思っています。実のありげな議論が起こっているなと思いきや、はてな「猿」が集団でやってきて議論を潰しているケースがほとんどなので。
これを全部読んでいない人間は「猿」です。
ちなみに猿に人権はありません。ネットで表現をする権利も自由もありません。よく覚えておくように。
レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫
ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫
ヴァレリー『精神の危機』
ハイデッガー『存在と時間』ちくま文庫, 岩波文庫, 中公クラシックス
ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』複製技術時代の芸術, 晶文社クラシックス
ウィトゲンシュタイン『哲学探求』大修館書店
デリダ『グラマトロジーいについて』
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有島武郎『或る女』
内田百〓『冥途・旅順入城式』
江戸川乱歩『押絵と旅する男』
谷崎潤一郎『春琴抄』
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埴谷雄高『死霊』
安部公房『砂の女』
野坂昭如『エロ事師たち』
島尾敏雄『死の棘』
古井由吉『円陣を組む女たち』
後藤明生『挟み撃ち』
円地文子『食卓のない家』
中上健次『枯木灘』
斎藤茂吉『赤光』
萩原朔太郎『月に吠える』
北村透谷『人生に相渉るとは何の謂ぞ』
正岡子規『歌よみに与ふる書』
石川啄木『時代閉塞の現状』
小林秀雄『様々なる意匠』
花田清輝『復興期の精神』
江藤淳『成熟と喪失』
by 柄谷行人、他
追記
ネットにはほとんど「猿」しかいないんじゃないかと思うことも多いので、是非、脱「猿」してみて下さい。2chは「猿」の巣窟でもかまわないのですが、はてなが「猿」の巣窟であってはインフラ、リソースの損失だと思っています。実のありげな議論が起こっているなと思いきや、はてな「猿」が集団でやってきて議論を潰しているケースがほとんどなので。
「日本で最も大きな都市のうちのひとつ」。日本語として、まったく矛盾した文章である。「最も」とは、"一"番程度が上であることを言うのに、複数ありそうな訳になってしまう。「『ベスト10』というのと同じようなものだからいいのだ」と説明を受けたが、腑に落ちなかった。
二葉亭四迷は「I LOVE YOU」を「あなたとなら死んでもいい。」と訳した。という文章を読んで奥歯がガタガタ言うくらいのショックを受けた。と同時に胸が苦しくなってドキドキがしばらく止まらなくなった。http://crash-log.cocolog-nifty.com/blog/2006/01/post_c727.html
"I love you."は、逐語訳すれば、言うまでもなく「私はあなたを愛している」となる。しかしそれを、かの二葉亭四迷は「あなたとなら死んでもいい」と訳したという。つまり、日本人はそのような文脈では「私はあなたを愛している」などとは言わないということ。
自分も昔からそういうことは考えていて、例えば、"Take it easy!"は、日本人の感覚では、このような励ますシーンでは、「気楽にな!」というよりも「がんばれ!」の方がしっくり来る気がする。しかし、四迷のすごいのは、「愛を伝える表現」からは想像もつかない、「死んでもいい」という、日本人の情緒にしっくりくるような表現を見つけ、当てはめたところにある。自分じゃあ「大好き!」くらいが限界である。訳すということは、このように、文化的なバックグラウンドを含めて行うべきであって、四迷のセンスには敬意を表する。高校時代の英語教師も言っていた、「英語を勉強するということは日本語を勉強することだ」、逐語訳ではなく、逐語訳の意味から本当に言いたいことを日本語の文脈で紡ぎ出しなさい、と。
日本の英語教育は、中学校から始まる。その主眼はコミュニケーションに置いているようだ(http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301c/990301i.htm)。高校でも同様だ。しかしながら、全入時代の到来した大学入試で問われる英語は、コミュニケーションとは掛け離れた、読解能力や文法の記憶を試すものである。いきおい、受験対策としてはコミュニケーションはおざなりになる。
だが、そんな対立軸ではなく、どうせどちらも両立することなぞ不可能なのであるから、日本語の文脈として捉えることの重要性を、もっと認識すべきだ。「日本で最も大きな都市のうちのひとつ」ではなく、「日本でも指折りの規模の都市」と訳せる能力を身に付けさせるべきだ。そうすれば、日本語の、という意味での「コミュニケーション力」(文章力)が高まるのではないだろうか。