はてなキーワード: 真理とは
一見もっともらしく見える「正論」、上辺だけの空疎なきれいごと、
既存の権威から借り物丸出しの浅薄で一知半解な思想や主義主張・・・
などなどをしかつめらしく、物知り顔に、ナルシスティックに並べ立てて
ちょいとポーズをつければ、それで自分がさも頭がよく、人間として優れた、
特別な存在なのだと心底思い込めるというのがはてサの卓越した得意技な
わけだけども、時としてそれが容易に反転してしまう現象がまま見られるのだよね。
あるいは、その反転した理路こそがはてサな人たちの根源的な行動原理
なのかもしれないとすら思うんだけどさ。
つまり、「自分は優れた人間なのだから(はてサにとってのアプリオリな前提らしい)、
自分の言っていることは絶対に正しい真理であり、素晴らしく価値のあるものであり、
否定されることなど許されない。それを理解しないのは愚民であり愚民はしねばいいのに」
というようなね。
で。この理路を逆方向に言い換えただけですよね。 >カスが何を言っても(仮にそれが正しいとしても)
ちょうど貴方がやっていることが良い例。
すなわち、結論ありきで、相手の意向や意見を聞く前に結論を正しいとしてしまって、「だからお前の議論は駄目だ」というのが
まさに「可能性の話で議論」するということなんだけど。
誰かが詭弁は可能性が低いのにそれを誇張することだと言っていたが、それは不正確。
正確には、論理的に間違っているというその点でのみ詭弁かどうかが判定されるべき。
なぜなら、誇張かどうかは主観の問題が絡むので議論の正しさとは別である部分が大きいから。
この論理の正しさは説得力があるかどうかに関わらず客観的に正しいものである。
そのような客観的な態度がとれるかどうかが、議論を何かの勝負事や口げんかと混同せず、きちんと学問的誠実さを持って行っているかの分かれ目。
要は、説得力さえあれば詭弁でもいいというのは、教養がよほど無いか、歪んだ姿勢で学問に取り組んでいる人。
なぜこうまで学問的誠実さを口を酸っぱくして言うかというと、一つには学問は先行研究の積み重ねによって成り立つので、
先行研究が間違っていれば、それをもとにした後続研究も間違ったものになるから。
もう一つには、学問分野によっては、それを応用した時に事故などの危険をもたらしかねないから。
求められてないことをすると、疎まれるんだと思う。
例えば、mixi日記に自分の日々の勉強の記録とか書いてもマイミクの人にウザがられるだけだけど、
それを書くためのブログ(勉強ブログとでも名付ける)に勉強記録書いてもウザがられないよね。
だから、勉強のこと書きたいけど、mixiに書いても仕方ないし、新しくブログを作る。
それでしばらく使っていると、だんだん勉強ブログでも知り合いができてくるわけじゃない。
そうすると、mixiにおける自分と、勉強ブログにおける自分、ふたつの自分ができるんだよ。
だって、mixiのマイミクからみた自分と、勉強ブログの読者からみた自分に求められていることが違うんだもの。
勉強ブログに、モスバーガーの新商品がうまかったとか書いても、だから何?って思われるだけ。
ここで、たとえばはてブを使い出すとするよ。
そこにブックマークする自分は、mixiの自分?勉強ブログの自分?
面倒だから混ぜて考えると、どちらの人からも疎まれる。
かといって、2種類はてブ作るのも面倒でさ、誰のためにやってるの俺、ってなる。
(どちらの人にもそのはてブを教えない、ってのはとりあえずここではナシで)
いっそのこと、もうmixiと勉強ブログまぜちゃえば?って考える。
そんでわけわかんなくなる。
俺どうすればいいの?どうやって発言・行動すればいいの?
俺って何だよ。みたいにね。
これはいろいろ応用される。
オフラインの友達には教えてない趣味ブログと、オフラインの友達にも教えてる日常ブログとか。
あらゆる間で成り立つと思う。
・・・まあ、こうやって書いてみたわけだが、この文章は絶対にどっかで論理破綻している。
これが世の中の真理なら、世の中なんて成り立ってない。
ここで教えてくれ、どこがおかしいんだ。
そもそもウザがれらないのか、それで分けるのがおかしいのか、分けることを気にしすぎなのか。
わけわかんない。
この一瞬はもう戻ってこない、というのは真理だね。
じゃあ、この瞬間も無意味だよね。どうせ死ぬんだもん。
当人が満足できればそれで良いでしょうに。
というか、そもそもあなたの使っている「意味」って言葉は何を差しているの?
「死んだら無意味」と言う以上は、「当人にとっての価値」とか「世界にとっての影響」といった意味じゃないことは解るんですが……。
http://anond.hatelabo.jp/20090614204057
脊髄反射的なレスどうも。 俺は「何をやっても無駄」とは言ってないよ。 それに退廃的でも後ろ向きでもない。 この問題に対する一つの解答を持ってる。たいした答えじゃないから言わないけどね。 「希望はある」とだけ言っておく。 さて話を戻して、俺は、自分が真理だと思ってる事を述べただけだよ。 君にとっては不都合な真実というやつだね。 俺にとってだけの真実じゃないよ。 へたをしたら無根拠な宗教を信じてる人達にすら当てはまるぐらい強力な真実。 この真実に負けないへ理屈としては 「人間の脳じゃ理解できない、なにがしかの意味があるんだよきっと」 程度しか無いと思うな。俺もそう思いたいけど、残念ながら信じられない。
http://anond.hatelabo.jp/20090614035457
で、充実した人生を送って、死ぬ時に満足して、それがどうしたの? 次の段階として「でも死んだら何の意味もない」が来るんだよね。 何か宗教的な無根拠なものを持ってこない限りは「死んだら、何の意味も無い」が正しい理解じゃないかな。 というか「どうせ死ぬんだから、何をどうしようが、どうせ無意味」と言った方が俺の感覚に近いかな。 あなたがどれだけすごい偉業を成し遂げたとして、それがどうしたの? たとえばイチローとあなたと何が違うの?みんなにチヤホヤされました。だからどうしたの?チヤホヤされたいの? この一瞬はもう戻ってこない、というのは真理だね。 でも、死んだらどうせ無意味、というのも真理だよね。 じゃあ、この瞬間も無意味だよね。どうせ死ぬんだもん。 でも、なぜか充実した人生ってのを送りたいよね。なんでだと思う? それは、単に、あなたがそういう生物だから、ってだけ。 可愛い女の子とセックスしたい。豪華で広い家に住んで、周辺住民から一目置かれたい。 カッコイイ車に乗ってる俺に注目して欲しい。プライベートジェットでも良いな。 あと、何でも良いから業績を残して、他の人よりすごいと思われたい。 あなたの言う充実した人生って、どうせこんなとこでしょ。 これら全部「生物機械の本質」で説明できるんだよね。説明できるというか、本質から逃れられてない、というか。 反論したい? じゃあさ、じゃあさ、 不細工で性格も悪い、やる気の無い女と結婚して、ボロイ家に住んで、ボロイ服着てさ、ポテンシャルの低いガキが生まれてさ、 それでも大勢の人の役に立てられたら満足できる? 無理でしょw あなたは(俺もだけど)しょせん、そんなもん。 <|
政治と宗教を分けなければならないというのは、必ずしも普遍的な真理ではない。もともと、政治と宗教は一体のものだった。
ただ、キリスト教とイスラム教や、新教と旧教の対立によって、弾圧や戦争が絶えなかった西洋世界から出た、約束事に過ぎない。
東洋の宗教は、仏教にしろ、道教にしろ、日本神道にしろ、基本的に多神教であって、他の宗教に対して寛容なものが多かった。だから、大きな対立は無く、「政教分離」という考え方は生れなかった。
「政教分離」というのは、キリスト教が偏狭、または未熟であるが故の方便に過ぎない。
日本では、開闢以来、祭政一致が当り前であった。戦後、有無を言わさず政教分離を受け入れさせられただけ。
政教分離については、以下の文書に尽されている。
例えば、
6 「信教の自由」に関する問題点
第二十条のつくり方は、かなり混乱を呼んでいる。「学問の自由」と同様に、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」だけでよいのであり、あとは法律でつくればよい。「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」というのは、もとは国家神道のことを意図してつくったものだが、条文を正確に読めば、天皇制自体も、これに当たる。
また、第八十九条は宗教の範囲を制約して縛るものである。「信教の自由」の下に言うならば、政治的な宗教も、政治的ではない宗教も、当然ありうる。「政治は、宗教的なるものを、一切、反映してはならない」というならば、それは唯物論国家である。
要は、信教の自由と政教分離規定が矛盾している、というのが幸福実現党の主張である。憲法が禁止しているからこの種の主張をしてはならない、とするならば、同様に憲法第九条の改正の議論もできなくなる。憲法の方が間違っている(というか、憲法自体が矛盾している)と言うこと自体は、違法でも何でもない。
それから、
2 憲法は何を守ろうとしているのか
第九十九条の条文は、憲法遵守の義務は国民にあるのではなく、公務員及び公務員の上にある天皇や国務大臣等が守らなければいけないとある。つまり、憲法は、主として権力者から国民の権利を守るためにつくられたもので、国民を縛りつけて、自由にさせないためにつくられたわけではない。
憲法を守らなければならないのは、支配者の側である。一般国民が守る必要はない。仮に当選して、議員として働くことになれば、その行動に於て憲法を守る義務は発生する。ただし、考え方や主張までは制限されない。
あと、よく、幸福実現党が天皇制を廃止を主張しているとか言う話も目にするけど、そんなことは一言も言っていないですから。寧ろ逆で、天皇制はあった方がよいと言っている。
天皇制自体は、何らかのかたちで遺しておいたほうが、日本の国にとってはよいだろうと思っている。ただ、外国から見ると、誰が元首なのか、誰が意思決定をするのかよく分からない。これが、日本が外国から信用されていない理由である。「内閣総理大臣に元首としての責任がある」と明確にするか、大統領制を敷くなどの、意思決定者をすっきりさせないと、日本という国は信用されない。
しかし、戦後日本の「宗教」に対する偏見は、抜きがたいものがある。信仰というのは、本来、地上で最も穢れのない、美しいものであるのに、全く逆のイメージを植え付けられてしまっている。GHQは、日本人のその驚異的な精神力の源を、信仰の力によると考えて、その背骨を抜いたのだ。信仰を持つ人は洗脳されている、なんて思ってるかも知れないけど、洗脳されているのは、無神論者の方なんだよね。
神仏は蔑むものではない、尊敬すべきものである。神仏の声を伝える正しい宗教家も、尊敬すべきである。これが世界の常識だと思う。
http://d.hatena.ne.jp/D_Amon/20090528/p1
http://d.hatena.ne.jp/a-kubota/20090530/1243663042
に便乗してみる。
分かりやすく今までのことを要約すると、
はてサのid:D_Amon氏、「南京事件否定論を真に受けるのは無知だ!きちんと歴史を勉強しろ!」と自分で歴史学の初歩とやらのエントリーを書いてそこらじゅうに爆撃する。(正直いやがらせかと思う)
↓
自称中立のid:a-kubota氏、「中立の俺が肯定派も否定派も分かりやすく説明してやるぜ!」とかいいつつwikipediaを信用して(笑)肯定論と否定論の要約をする
↓
はてサ諸氏、「歴史学の結果である肯定論とトンデモでしかない否定論をいっしょくたに扱うとはなにごと!ムキー!!」
ってのが今の状態。
それで中立のid:a-kubota氏が否定派と肯定派の両方を紹介してくれたので、なぜはてサ諸氏が否定論をまともに取り扱わないのか、
なぜ南京事件否定論をまともな論のように紹介したa-kubota氏がキレられているのか、説明したいと思います。
まず「南京事件肯定派ってどんなことを肯定しているのか、そもそも肯定派の言ってる南京事件って何か」を知って、
それから有名どころの南京事件否定派の本を読んで否定論者の言ってることって根拠があるのか調べてみるってのが、理想なんだと思う。
けれども、a-kubota氏のエントリを見て満足しちゃうような人って、絶対にそんな面倒くさいことしないのね。
id:D_Amon氏が「じゃあもっと要約してみた。これを読め!!」って言ってみても、それすら読めない。
なぜかと言えば、id:D_Amon氏が信用できるか分からないので、読んでみて結局無意味だったら嫌だし。
と言うわけで、中立のid:a-kubota氏が紹介した否定論と肯定論のうちなぜ否定論がトンデモなのかを短く、めんどくさくなく説明しようと思います。
と言ってもどう短くしても内容に立ち入ると面倒なので、内容には立ち入りません。
たぶん短い。
藤原彰・笠原十九司・秦郁彦は歴史学者ですが、東中野修道は歴史学者ではありません。(政治学、思想学の人)
他にも渡部昇一とか小林よしのりとか田母神さんとか否定論を唱える人はいますが、歴史学者は一人もいません。
否定派VS肯定派の順で紹介していきます。
李秀英の勝利。松村俊夫は「李秀英の言うことはこれこれこういう部分でおかしい。嘘っぱちだ」と言ったが、
裁判では「松村さん、あなたの言ってるこれこれこういう部分っていいがかりですよ」となって敗訴。
稲田は裁判長にほとんど相手にされずに本多勝一の勝利。本多勝一と言えば、初心者でも「胡散臭い人物」ってことは知ってると思う。
うん、そうなんだ。胡散臭い人物にも惨敗するのが否定論者なんだ。
夏淑琴の勝利。東中野修道は「夏淑琴の言うことはこれこれこういう部分でおかしい。嘘っぱちだ」と言ったが、
裁判では「お前別に問題のない証言をわざと英語を訳し間違えて辻褄合わなくしてるだけだろ」ってなって敗訴。
東史郎は南京事件で嘘の証言をしたってことで敗訴した。日本の司法が嘘の証言に甘いってわけじゃない。
証言者では敗訴した人間はいるけど、敗訴するような人の証言は学者はやっぱり重く扱わないし、肯定論の学者が敗訴したことはない。
http://www.mofa.go.jp/MOFAJ/area/taisen/qa/08.html
日本政府の南京大虐殺の定義は「日本軍の南京入城後、多くの非戦闘員の殺害や略奪行為等があったこと」でこれは事実としてる。
他にも文部科学省が「南京事件あったかどうかわかんないよ」って書いたつくる会の教科書に検定意見つけて「南京事件あったよ」って書きなおさせたこともあったでしょ。
例えば東中野に賠償命令判決だした三代川三千代裁判官は、保守的な判決出すのに有名な人だし、秦郁彦に至っては右翼、「つくる会」の会員だったこともあるくらいだから「極右」って言ってもいいかも知んない。
肯定論者は左から保守から右からいろんな人いるけど、否定論者って極右しかいないよね。
どっちがイデオロギーより事実を優先しててどっちが事実よりイデオロギーを優先してるか明らかだよね。
例えば、否定論の論法の一つに、
「1947年の東京裁判で出てくるまで、南京で虐殺が起きてるなんて話はどこにも無かった!東京裁判でいきなり話がつくられた証拠だ!だから南京大虐殺は嘘だ!」
ってのがある。さらに、
「1938年に、蒋介石が『南京で日本が残虐行為をしてる!』って宣伝するための証拠を捏造する部隊を作った証拠をつかんだ!だから南京大虐殺は嘘だ!」
ってのもある。ひどい時には同じ人が言ってる。
でもさ、1938年にしきりに南京大虐殺を宣伝してるんなら、1946年には広く知られてるはずだよね。同じように「南京事件を起こしたのは朝鮮人だった説」とか「便衣兵の処刑を大げさに言った説」とか互いに矛盾しあう説がいろいろあるって言うか、
「南京大虐殺」を捏造した勢力も捏造した理由も違いまくるのに、なぜか喧嘩せずにお互いに褒めあってるよね。
おかしくね?
対して肯定論者って、細かいことでも主張が違うと議論しまくる。
有名な例でいくと笠原VS秦とか。
お互いに「南京事件あった」って言ってることは同じで、南京事件の中身でも幕府山で起こったこと、下関で起こったこと、安全区内で起こったこと、新口路で起こったこと、大まかには同じこと言ってるのに、それでも例えば幕府山事件の詳細で細かい違いがあっただけでも喧嘩しまくる。
なぜかと言えば真理を求めてるからに他ならないと思うわけ。
--------------------------------------------------------------
最後の方は「初心者へ」って感じじゃなくなっちゃったかも知れないけど、「大まかに信じれることを知りたい」って人には参考になったと思う。
これを見ても、
「日本以外のすべての国と日本政府と日本の司法と自民党の大半と民主党のほとんどと公明党共産党社民党全員とマスコミが間違っている!俺が正しい!」
って言う人もいるだろうけど、そういう人は「初心者」では絶対にありえないからいいや。
--------------------------------------------------------------
後日追加。
おまけとして、これを紹介しておこう。
否定派のサイトだけど、第一話を読めば南京事件が大体どういうものか分かるんじゃないかと思う。
id:D_Amon氏のやつは文章がいっぱいで読めないって人向け。
もったいぶるのもバカバカしいので先に答えを出してしまうと
「作画は作品の良し悪しに直結しないけど、声優は作品の良し悪しに直結する」
いくら作画がよくても、キャラデザや前後の文脈とかけ離れたものであれば全くキャラクターの魅力に寄与しない。その点声優は、いい演技がそのままキャラクターの魅力になってくる。
ムントにしろ屍姫にしろ、神作画が糞声優で失敗作になった例は数え上げればきりがないけど、逆に神声優が糞作画で失敗作になった例はここ数年では見たことがない。全ての作品を確認したわけじゃないからひょっとしたら存在するのかもしれないが、少なくとも「探さなきゃない」レベルであることは確か。
つまり、いくら作画の良し悪しを議論しても、声優の演技を議論しなきゃ意味がないってこと。そもそも作画オタなんてのは「いい作画」さえ見れればキャラデザなんて気にしないし、下手すればシナリオすら作画を見る集中力の妨げになるってんでスポイルする連中なわけで。
まず触れておく。blacksorceryは言葉の使い方がまだ分かっていないらしい。
増田でも絡まれたので、マイノリティ=少数の者と思う人は、以下の文章に出てくるマイノリティは、弱者とか被差別側、被抑圧者にでも読み替えて欲しい。
昨日の記事に、女性はマイノリティって書いたのは失敗だったと後悔している。
元々、エロゲー愛好者はセクシャルマイノリティ、女性がエロゲーへ抗議するのはマイノリティへの差別だって人がちょこちょこいた。
で、こういう世界でマイノリティっていうなら女性だよと書いたことがある。
そのときのマイノリティは別に間違いでは無かったと思っているけど、これにも異論をもらった。
けど、今回独立させて書くときに、マイノリティって書くのは自分でもちょっと違和感があるし、誤解招きそうとも思ったんだけど、ここで書かずにいると前に異論出した人が喜びそうなのが癪に障って、いいや、マイノリティって書いておこう。と。
けど、やっぱりわかりやすくするべきだった。 (http://d.hatena.ne.jp/blacksorcery/20090524)
何度もいうが、「マイノリティ」は基本的に「少数(派)」のことだ。だから、とくだん数の多寡に重点をおかないのなら使わないほうがよいだろう。なぜか。重点となるものに関した用語(例えば被抑圧者、とか)を使うほうが自然だし、それについて語るときに問題点などがはっきりするからだ。これはくどいほど説明したし、辞書での定義ではこう、wikipediaの記述ではこう…と示しもした。「女性はマイノリティではない」という女性たちの声も示した。だが、blacksorceryはあくまでそれに抵抗しつつ、しかしちっとも「"なぜ"マイノリティは『少数派』の意味ではないのか」を語ろうとしない。そもそも、http://anond.hatelabo.jp/20090518024234で私が書いているのは
だ。別に、「マイノリティかつ女」などあり得ない、という話でもないし、だから女は守られるべきではない、という話でもないし、だから女は文句を言うな、といった話でもない(「人の間違った論を引かずに自分の意見を言え」「気分ではなく論理を結論にせよ、話し合いや権利の意味を考えて」というようなことは書いたが)。そしてもしこれが気に入らないのなら、「なんのことだ」という問いには「~が~だから、~ということだ」と論拠(むろん、マイノリティが基本的に少数派とかいう意味を持つ、という論拠と同レベル以上には説得力のあるもの)をもって語ればいいのである。ただそれだけのことをblacksorceryは語らない(ほかのブックマークコメント者もまるで語らないが。何の根拠も示さず、だが揶揄だけはできるようだから始末におえない)。また、マイノリティをどう遇するか、レイプゲームをどうするか、表現の自由をどうするか、について私が何ひとつ言っていないのに、blacksorceryは
だから君らはマイノリティ。 (http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20090518024234)
だの
元々君の友達が自分たちは少人数で被害者みたいな科白を書いてたから (http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20090518225205)
だのと勝手な定義付けをする。彼には自分と意見を異にする者がみな「仲間」であるように見えるのか? 女性という「マイノリティ(???)」にも「その嗜好を満たす商品」が提供されている事実を認識できず、
などと書く。彼には事実ではなく自分のイメージだけが見えているのか?
さて、そろそろ本題に移ろう。本題とは有村悠のことだ。先にあげたhttp://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20090518024234で、彼はいの一番に現れてこう書いている。
y_arim anonymous, gender, society, あたまがわるい マジョリティ・マイノリティが単純に数の多寡で決まるとでも思っているのかね? たとえば少数民族が多数民族を統治する国家の社会構造について考えてみな。 2009/05/18
当初、私はこれをあまり大したことと捉えなかった。ほんの少しだけ彼の文章を読んでいた私は、彼が馬鹿だとは思っていなかったからである。私はこう思ったのだ、「ははあ、何か勘違いをしているのだな」と。ゆえに、続くhttp://anond.hatelabo.jp/20090518225205では皮肉半分、憂慮半分の文章で返しておいた。しかし有村悠は一向に反応しない。まあべつにいいけど―と思いかけたそのとき、そのエントリはあげられた。http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20090521/1242967919である。ちゃんと読ませれば小学生でも分かる内容だが、こんなもの「昔のオタク史にはそんな事実はなかったじゃないか、出してみろよ」と言うamamakoが「事実はもちろんある」と反論を食らっただけの話なのである(細かくはhttp://anond.hatelabo.jp/20090523030043を見てもらおう)。引用されたNaokiTakahashi氏の言も、あくまでamamakoの「昔のオタク史」説に対するリアクションに過ぎない。amamakoこそは昔のオタク史を「知ったこと」だと思っており(ただし、知ったつもりなだけ)、NaokiTakahashi氏たちこそがその「(嘘まみれの)抑圧」に対して反発しているのだ。なのに有村悠には一連のやり取りがまるで逆かのように見えているらしい。私は困惑した。有村にはこんな簡単な状況が見えていないのか? なぜ?
それでも私はまだ疑っていたのだ。彼はそんなに馬鹿ではない、ないはずだ、と。だがまたしても、そんなときにエントリはあがる。"「○○は人間の本能《だから正しい》」というありがちな論法"(http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20090525/1243251389)だ。彼はjoe11111氏のつけたブックマークコメントを引いてこう書く。
子供を産み育てることは人間の本能。本能に(義務とか趣味とか)理由などない。そもそも発端はタバコと子育てを同じ次元で見た駄文でしょ?あんなの最初読んだ時にコメントする価値すらないと思うのが普通
というコメントの前半についてなのですが、これが赤木智弘氏の主張(個人が自らの幸福を追求するために子供を産み育てる行為=子育ては趣味といってよい)への反発であることを踏まえると、
という部分には「本能《だから正しい》」という価値判断が含まれているように読み取れます。「本能《だから当然》」でもいいのですが。
しかし、《》の部分は実は偏見なのですね。本能であるということ自体は、本来いかなる価値も帯びないのです。そこに《だから正しい》《だから当然》という価値を「勝手に」与えているのは、実はjoe11111さんである――となるのです。
なぜ? 確かに「子供を産み育てることは人間の本能。本能に(義務とか趣味とか)理由などない」という文章は分かりにくい。率直に言えば、私にもはっきりした意図がまるで分からない。が、これはそのまま読めば(「子育ては趣味」という論への反発としても)「子育ては本能だから、義務だからやるとか趣味だからやるとかいう理由などない」としか読みようはないだろう。そこに「正しい」とか「正しくない」とか言う価値判断は必ずしも入ってこないのだ。「当然かどうか」についてはなおのことである。善人が善事をなすのは当然、悪人が悪事をなすのもまた当然。「当然」に価値判断などありはしない。この価値判断は、有村も書くようにただ「含まれているように読み取れ」るだけであり、それさえもさしたる根拠はなく、「有村が」自身の解釈においてそのような意味を「与えている」というのに過ぎないのである。にもかかわらず、有村は書く。
そこに《だから正しい》《だから当然》という価値を「勝手に」与えているのは、実はjoe11111さんである――となるのです。
そこに、joe11111さんの主張と同じように《だから正しい》《だから当然》、あるいは《だからやむを得ない》という価値判断を含ませると、戦争や暴力行為のようなものでも正当化できてしまいます。
正確に読み取ることなどできなそうな「joe11111さんの主張」をなぜ有村は読み取れるのか。さらに続く
joe11111さんは、子供を産み育てることは理由などないほどに当然の行為だとおっしゃりたいのだと思いますが、それは結局倫理的・道徳的に好ましいという意味です。
については失笑するほかない。兎のつがいがさかって子育てし始めたらどうか。それは理由もないほど当然の行為だろうが、それも倫理的・道徳的に好ましいのだろうか。
いや、根拠の薄い憶測解釈も、結果的に当たっているのならそれはそれでいい。しかし、その解釈は当たってなどいなかった。有村の解釈が披露される以前に、joe11111氏はコメントの補足をしている。
ご指摘に関しては、まさに仰る通り「論点のすり替え」です。「だから正しい」がどれにかかっているのかはハッキリしませんが、「子育ては義務議論」にかかっているのであれば私はどちらの味方でもありません。どちらかを正しいと主張したいがために持ち出した論点のすり替えではありません。
私が言いたかったのは
人間が子供を産み育てることに誰にでも共通する普遍的な真理などあるはずがない
↓
発端の記事
(http://news.livedoor.com/trackback/4109939?tc=cf328439421c63bb4f2056d5d3d1a1fd)
はそれを「趣味」と決め付けた
↓
joe11111氏はどちらが正しいかなど主張しておらず、「論点のすり替え」も(話を正邪や好悪などにすり替えているのでない以上)「自然に訴える論証」でもなんでもない。つまり、有村の論は全く・完全に誤読であった。有村解釈の部分は実は偏見で、《だから正しい》《だから当然》という価値を「勝手に」与えていたのは、まさしく有村悠であったのである――さあ、有村はどうしたか。
追記
この記事をタラタラと書いている間に、joe11111氏のブログのほうでお返事をいただいていた。
こちらを更新したあとでトラックバックに気づいた次第、申し訳ありません。(http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20090525/1243251389)
y_arim 2009/05/25 20:45
わあ、すみません。この記事がアップされたことに気づかず、ぼくのブックマークコメントの内容を改めて書き直したブログ記事を上げてトラックバックを打ってしまいました。ご笑覧いただければ幸いです。
とりあえず、joe11111さんの意図は了解いたしました。(http://d.hatena.ne.jp/joe11111/20090525/1243242720)
これだけ。これだけである。誤読で「偏見」だの「自然に訴える論証」だの「誤謬」だの「戦争や暴力行為のようなものでも正当化できてしまいます」だの…散々に難じておいて訂正もない。無礼について謝罪のようなものもない(「申し訳ありません」「すみません」は単にエントリアップのタイミングについての話である)。
泡沫フリーライターめ、なぜこんな文章を書いて恥ずかしくないのだ。事実ではなく自分のイメージだけが見えているのか? 有村には事実に基づいてものを論じるという資質そのものが欠けているのではないだろうか。なにがモノカキだ、なにがライターだ? おまえはblacksorceryと違ってそれを自称しているのではないのか。矜持の差は、覚悟の差はないのか。
http://anond.hatelabo.jp/20090508002306
どんなに成功しても、金を稼いでも、肩書き、金、資格、そういうものが愛されてるだけで素の自分が愛されてる気はしないんだろうなと。
「そういうものもひっくるめて君なんだから、あんまり考えちゃダメ」
と言われても、じゃあなにか?日本国籍目当てにフィリピーナやチャイニーズにモテても日本国籍もひっくるめて俺だからって理屈か?おい?
って言いたくなるわな。
「一番彼女が欲しいとき、寂しくて辛いとき、性欲が溢れているとき、欲しいものは手に入らなかった。
誰も誘っても応えてくれず、誰にも好かれず、悶々と暮らしていたわけだ。
そのころ君に出会っていないわけだから、一番美しいときの君は、別の誰かのものだった。
俺が孤独のふちにいたときに、君はいろんな人と恋愛して、結婚なんかも経験した。
やっぱり、安らぎが一番なんて言われたって、男の魅力はないけれど旦那としては最適=金づると言われてるとしか思えないよ。」
(※バツイチ女に詰め寄られたと仮定する)
社会人になってからの恋愛ってどうやったって結婚の可能性をぬぐえない。
ってことは、社会人の恋愛はビジネスの要素を除くことができない。
純粋に好きあうだけの恋愛は、10代を逃したら二度と出来ないんじゃないかなって思う。
(ゼッタイ結婚なんかしません!っと周りに触れ回ってる男が彼女なんかつくれると思いますかね?
結婚したくないけど彼女が欲しいってセックスしたいだけって言ってるのと同じに聞こえません?)
その一方で、女の心情を考える。
若いうちは引っ張りだこでも、歳食って結婚にたどり着けない女。
そういう場合は逆に、女(性欲処理機)としての魅力はあっても、生涯の伴侶には選ばれなかったという気持ちが残るんじゃないかなっと。
「私が好かれてたんじゃなくて、若くて美しい体だけが欲されていた。」
そう思ったりするんじゃないかと。
それはかなり残酷だと思うんだよね。
資格や肩書き、富や名声を得ようと、若くないというただ1点のために選ばれない辛さ。
男の「いまさらなんだよチクショー」なんかと比較にならないほど辛いはずだ。
若くてもブスだったらアウト。
美女でも老いたらアウト。
やっぱ女のほうが辛いと思うな。
たぶん幸福量の順番は
金持ちのイケメン=若くて美女>金持ちのブサメン>貧乏なイケメン>>>老いた女とブスの全部
なんでこうなんのかいろいろ考えていくと、こんな真理に辿りついた。
結婚は男女の資源(男の資産と女の美貌)の交換というモデルで考える。
(一般に)男の収入は歳とともに上がりつづける。
女の美貌は歳とともに衰える。
なら男は交換したがらんわ。
ただ、これって収入が年齢とともに上がりつづけるっていうモデルの場合。
完全に能力主義で、歳とともに下がることも往々にありえる社会だったら、
「まだまだ俺は価値が上がるのに、鮮度が落ちた女をくわせにゃならんって不公平じゃん!」
ってことになる。
それでも結婚する原動力になりえるのは、子供が欲しいっていう本能くらいだろうけど、ところがぎっちょん子供を産み育てることはすげー贅沢なこのご時世。
やっぱり、収入が年齢とともに上がりつづける社会だと男は結婚したがらなくなるって結論は変らない。
(完全な年功序列の給与体系なんて公務員くらいのものかもしれんけど、そんでも基本給は下がらんし、他の国に比べたらまだまだじゃねーの?)
これの証明したらいいじゃん。
うん。そこまでの証明は追った。この時点で既にむずむずするが誤りは発見できなかった。で,更にxにπを代入すると気持ち悪さがロケットで突き抜ける。
これの意味がわからないので解説してほしい。
われわれ(と複数人称を使うことを許して欲しい)が数学に初めて触れるとき,そこに示されている記号は現実と対応するものとして把握されるでしょう。2はりんご2個,和算は合計,負数は借金の額などなど。だんだん抽象度が高まっていっても,現実世界とどこかで対応していることを期待してしまう。虚数のように一見ありえないような概念であっても,それが例えば電磁気学で使用されているさまを見ると安心する。数学は現実世界をモデル化したものであり,数学で真と証明されたことは現実においても真となる。そういう素朴な期待がある。
でも現代的な解釈はそうじゃないらしい。正当と仮定された公準から,正当と仮定された推論規則にのっとった操作を有限回数くりかえすことで,任意の命題の真理値を導出するゲーム。別にこの公準が現実世界と対応している必要はないし,推論規則も常識と一致する必要はない。もちろんゲームとしての出来の良し悪しはある。ある命題について真と偽の両方を導出できてしまうことを許すような公準・推論規則は矛盾をはらむ「悪いゲーム」だし,多くの命題について真とも偽とも導出できないようなゲームはつまらない。われわれのもつ数学もこうしたゲームのひとつで,わりと現実に似せて公準と推論規則を定めてはあるが,常に現実と対応することを保証するものではない。ゲームの品質についても実は無保証で,矛盾があるかもしれないし証明不可能な命題をもっているかもしれない(とゲーデルが言ってる)。
私に与えられた公準と推論規則からオイラーの公式が真と証明できた。よろしい。でもその公式が現実世界の何ごとかを示しているものと信じて対応づけを探すことには根拠がない。どうの剣とかわの盾を使ってスライムベスを倒せたというのと同じ。ただ上に述べたように私は素朴な信仰を捨てきれないので,対応づけを求めてむずむず感がとまらないのであるなあと。理系マジヤバイ。