はてなキーワード: 共同体とは
2022年の秋頃からツイッター上で大きな話題となっている暇空茜氏を中心とした一般社団法人Colaboの騒動と従来の青識亜論氏を主体にしたツイフェミvs.表自の違いをざっくり考えた。
筆者は平等主義者であり、自由主義者である。長々と自語りするのも無駄なので、この二点から私は第一波から第三波までのフェミニズムを支持するフェミニストであると主張する。
特に私は極まった自由主義者ゆえ、刑罰というペナルティを承諾するならば犯罪と呼ばれる行為を行うことさえも他者には拘束しようのない自由だと宣うこともある。それを前提に、表現の自由は権利として保障されるべき事柄だと指標する表現の自由戦士と揶揄される側の人間でもある。
余談だが権利・自由の概念はあくまで他者の権利と比較均衡の上で与えられる。その点では「見たくないものを見ない権利」などと言う他者の自由を踏み躙ってまで主張される特権志向は、自由主義者故に唾棄する。公共の場においてプライバシーの保護は希薄にならざるを得ず、受忍範囲は当然ながら広くなる。この前提を拒否してツイッター上でキャンセルカルチャーを繰り返す輩……ツイフェミやジェンダークレーマーと揶揄される輩が第四波フェミニストを名乗るであれば、ツイフェミの主張する第四波フェミニズムは否定する。ツイフェミの主張では狭量な自己を中心として、異なる意見の女性には名誉男性のレッテルを貼って阻害することを良しとする。これは歴代のフェミニズムで獲得された平等と自由を侵害する行為である。故に、歴代のフェミニズムを志向する以上はツイフェミの語る第四波フェミニズムとは対立する立場を取らざるを得ない。
加えて、この様にインターネット上でフェミニズムを志向する行為自体は、第四波フェミニズムにあたる。つまり私は派閥違いの第四波フェミニストでもあるのだと主張できる。
閑話休題。私というn=1の話ではあるが、フェミニズムは本来、表現の自由と衝動する様な概念ではないと言うのが分かって貰えると思う。
しかし、colabo騒動以前からツイフェミ対表現の自由戦士の対立構造と衝突はツイッター上で日常的に起きている見せ物であった。
この衝突は互いに様々な思想・勢力が入り混じる有象無象を「ツイッターでフェミニズムを語る人たち」と「表現の自由を守る人たち」という極めて大雑把な括りでまとめて、互いに見当違いの場所を殴り合うというものである。
ただし、ツイフェミも表自も強固な思想共同体ではない。それどころかフェミニズムの皮を被ったミサンドリスト、表現の自由に見せかけて女を殴るミソジニストが混ざり込んでるのだ。当然、人によってツイフェミや表現の自由戦士の定義・認識が異なる。
さて、colabo騒動以前からこの界隈で主に絶えず旗頭を担って来たのが青識亜論氏だ。他にも何人も主要人物は居るが、本件では割愛する。
青識亜論氏はVS.ツイフェミという点では知らぬ人は居ないだろうと思う。当人は対話を志向しており、石川優実氏との対談なども行った人物だ。
石川優実氏の概要も省略するが、「kutoo という素晴らしい活動を行ったが、ミサンドリスト的な発言やkutooの活動でも味方となり得る革靴を強要された男性は対象じゃないと述べて対立構造を作り、フェミニズム特有の上下関係から来る意固地な態度で忠言を拒否していた人物」と私個人は認識している。そして、上記の点から石川優実氏を第四波フェミニスト兼ミサンドリストと評価するならば、女性の自由を否定しない青識亜論氏は表現の自由主義者兼フェミニストと評価出来るはずだ。
青識亜論氏をわざわざフェミニストと評価したのには意味がある。このツイフェミ論争は、フェミニズムという文化に対して正の効果を持つからだ。より正しくは「やばい言動を繰り返すツイフェミの主張を、このままにして良いのか。フェミニズムとは何ぞや?」と啓蒙する効果くらいは期待出来る。フェミニズムは第一波から始まり、大きな女性差別を解体してきた。そして現在は社会生活上での個人的な女性差別を対象とする。故に社会運動的なフェミニズムよりも個々人が、フェミニズムについて知見と理解を持つことの方が現代社会ではより重要になるのだ。
第四波フェミニスト同士の衝突と考えた時に、彼らのレスバは無関心の徒に対して、フェミニズムに関する啓蒙の役割を強く持てる。
現在colabo騒動で中核を担う暇空茜氏は、青識亜論氏を酷く嫌悪している。一方で青識亜論氏は和解点を探るべきだと宣いもする。
まず第一に、これはフェミニズム闘争ではない。フェミニズムを冠した利権疑惑と、用途不明で消えた税金に対して説明を求めるものであり、訴訟なのだ。
暇空茜氏にとっては動機こそミサンドリストへの反感である。しかし、彼個人は女性を嫌悪する男たちと表自界隈の次の旗頭 ポスト青識亜論になるつもりははいだろう。何なら表自界隈が好む対話……ではなく、レスバと副次的な啓蒙にも訴訟には何のプラス効果もない。
暇空茜氏がブロックを繰り返しているのを見ても、どちらかと言うとその主旨は訴訟目的の純化に見える。表自界隈の様に多層化してしまえば、どこかで誰かが失言をして揚げ足を取られる。その点では暇空茜氏の行動は効率的なのだ。
総括しよう。表現の自由とフェミニズムは本来であれば対立する概念ではない。しかし、男性嫌悪・女性嫌悪が絡むと当然対立する。対立した状態で異性への嫌悪やそれに由来する特権意識を表に出せば、それらの意識を持たない人たちには殴られる。
従来の青識亜論氏が旗頭を務めた表自界隈とツイフェミ界隈は、こうして1人一派の人々が集まって出来たものだ。問題への意識は共有するが、それを実行する力には欠ける集団である。集団が入り乱れてツイッター上で殴り合いをしてるのだ。仮にレスバに勝っても報酬で得られるのは顕示欲くらいのプロレスごっこである。社会に対する影響はフェミニズムに対する啓蒙の一点につきる。
一方で暇空茜氏の訴訟は、日常的な指摘や話題を風化させないための騒ぎ方などはあるが裁判や役所が動かなければ進展がない。勿論、話が進めば面白くなるだろうが、観客としては時間単位での動きがレスバより少ない分、口プロレスよりも熱くなれない。しかし、訴訟内容を考えれば、NPO活動を見直す現実的な働きかけを有し、言うまでもなく税金の用途やNPOの活動、女性の福祉に関する啓蒙とレスバと比較にならないだろう。
私個人は両者とも好きではないし、ツイフェミは一緒くたに女性嫌悪だと騒ぐだろうが、暇空茜氏と青識亜論氏のスタンスは見事に異なっている。
そして、暇空茜氏が強く支持されると言うのは、ツイフェミと女性に対する社会の関わり方が変わる一つの潮目なのではないかと思い、今後の趨勢を見守りたい。
今困ってる人にはお勧めできない方法だけど、見たところ今すぐの困りごとがあるようではないし。
自分が助けた人について、自分がどうやって支援要請に気付いたか考えたらいいんだよ。あと、助ける助けられるについての解像度が上がる。友達に頼れること、プロ向きなこと、親密な間柄じゃないとできないこと、有償サービスとして提供されてない(プロがいない)こととかの違いがある。プロ向きなことはプロを探すって助け方もある。
例えば1人暮らしの友達が熱出たと言ってたら食うもんある?持って行こうか?欲しいものリスト出してみ?って言えばいいし、動物拾っちゃったら一緒に里親探ししたらいいし、メンタルやばそうだったら話を聞きつつ病院を探してあげたらいい。メンクリの口コミはどこも病んだ人が荒らしてるからサイト見てトンデモ医療をやってなさそうってだけでいいよ。老後の孤独が心配なら地域のボランティア行ってみなよ、何もなかったら宗教コミュニティでもいいよ。とにかくヘルプを出す、助ける奴が現れる、助かる、のサイクルを間近でたくさん見るといいよ。
大抵の場合自己開示にお節介な奴が釣れるパターンで、生活状況や病気や困りごとを口に(SNSに)出したことがきっかけだと思うよ。ボランティア現場の場合は支援団体との繋がり方が見えるね。
そんで互助のフィールドは日々の対人関係なんよ。知らん奴を助けることは滅多にない。だから、対人関係を深めに広めに維持する努力をした方がいい。結婚は究極の互助契約だから、その点でもう1回考えてみてもいいと思う。
私はメンタルにも妊孕性にも問題が出て結婚子供の選択肢がなく40前になったんだけど、こうなったらもう他者との関係はあるだけでありがたい。早く言ってよ!と言ってくれる友達は大事にした方がいい。仮に友達に少々気に入らないところがあったとして、ネットではすぐ縁を切れとか言う奴が多いけど、できるだけ維持したほうがいい。世の中の人は結婚相手でさえ何かしら妥協する。こちとら友達の厳選なんてやってたらあっという間におらんなるんですわ。
で、ここからは厳しい話。
助けてほしいというのは、ケアリソースが自分に回ってきてほしいということだ。社会参加者それぞれが持つリソースの分配の問題だ。
どんなに友達がいても、どれほど他人を助けても自分が助けてもらえる保証はない。正直言って、私がしたようなことを他人にしてもらったかというと、残念ながら1人でなんとかしている。30歳時点の友人なんて5年もしないうちに結婚して子供ができて別のコミュニティの住人になる。彼らのリソースは彼らの優先的ケア対象に回されるようになる。
家族親族は一般的には相互ケアをある程度期待できる共同体だ。もちろんそうじゃないケースがあって、ケアからあぶれてしまう人が出る。しかし社会は家族内ケアを前提として回っているし、憲法にも書き込まれようとしている。同性婚キャンペーンでさえ家族主義的主張はよく見られる。私的リソースはまず家族内に回され、公的リソースもその関係の安定に優先して回され、ケア関係にあぶれた者には余剰が分配される社会だ。家族以外を実際に助けてみると、いかに家族内ケアが優遇されているかがわかる。法的な家族は扶養できるが友達はできない。転んだ近所のばあちゃんを病院に連れて行っても看護休暇は使えない。メンタル悪い友達に対応する(婉曲表現)からって仕事を急遽休むことに理解は得られない。
そして他人を助けても、助けが必要な人が直接自分を助けてくれることは期待できない。社会全体の需給改善への宗教的信念を抱えて孤独に死ぬ可能性はそれなりにある。極度の楽観、血縁に頼らないケアリソース確保戦略、もしくは宗教的信念のどれも持たずにこのルートに入ることはおすすめしない。
ケア共同体に加入すれば、ケアからあぶれる可能性はぐっと減る。共同体がクソである可能性もそれなりにあるが、最初から共同体に入らないよりはマシな可能性が圧倒的に高い。
共同体に入る、共同体を築く、外で生きる、どれも厳しい道だけど、増田が自分に必要なリソースを把握し(まずは「助ける」の解像度を上げた方がいいように思う)、それが供給される場に居られるよう祈っている。
でも「共同体への貢献」とか古い考えなわけじゃん
少なくともこの国でリベラルを自認するなら、そういうのは真っ先に捨て去るべき発想だったはずだ
ところが女子供に優しい顔ができるとなると、急に出産子育てをまるで「私たち社会貢献でやってます」みたいに言い出すから笑えるんだよな
そんな考えで産み育ててる奴なんかもういないのに
私もそんな風に自分の畑だけ熱心に耕す事に傾きかけたけど、結局は家族という共同体が出来てからの方が楽しいや。
ずっと一人旅が好きな独身生活を送っていたが、制約ありまくるし予定通りいかないし喧嘩もするしの子連れクタクタ旅行から帰ってきてビール飲んで一息ついた時に「ああ楽しいな」って思う。
結構好きでよく見てるんだけど、ラヴィットにはお約束がかなり存在すると思った。各々が固定化されたキャラを全うする感じ。相席スタート山添、見取り図森山、ギャル曽根、丸山と本並、誰を思い浮かべてもラヴィットにおける振る舞いがパッと思いつく。
同じような仕組みは笑点でも見られ(俺はちょっと昔のしか知らないけど)、圓楽が歌丸をじじい扱いする等笑点には大量のテンプレが存在してそれが繰り返されるたびに、観客や視聴者も笑うという形でテンプレで返すみたいな。
同じですよねコレ。両者とも和を意識することが非常に大切で、輪の中に入れてもらうことでその番組に馴染むことができる。ラヴィット"ファミリー"とか言っちゃってんのはこのことを示してる。
というようなことを、以前ウエストランド井口がゲスト出演した際、あらゆることに噛み付きまくってとんでもない雰囲気にしていたときに考えた。ラヴィットは芸人がのびのびやれる場所というよりかはそれ自体が一つの共同体として存在しているのだ。