はてなキーワード: 初孫とは
落合陽一さんが口唇口蓋裂の息子さんの写真をツイッターであげてることで話題になってたので私も便乗。
学生時代、医者になりたかった母は奇形とか性病とかの本や写真を見るのが好きで口唇口蓋裂も事前に知っていたこともあり、
「へ~。」と答えたらしい。
(余談だけど、最近母は「私は入試の女子差別があったから医者になれなかった」と冗談で言い出した。いやお前、まず私立文系出身だろ。)
事態が呑み込めてないのかなと思った医者が詳しく説明しようとした時に
「口唇口蓋裂ってことは確か歯の矯正代が医療費になるから安く矯正ができますよね~。私、歯並び悪いの嫌いなんですよね~。あっ、でも手術とかでいろいろ面倒かぁ~。まあ、プラマイゼロですかね~」と言って医者を驚かせたらしい。
温厚ですこし抜けてる父は、さもないことのように言う母を見て、通院の回数が増えてめんどくさいんだなという認識で、まあさもないことなんだなと思ったらしい。
うるさかったのは、両祖父母。
特にお互いの両祖父母にとって初孫で、しかも女の子だからかわいそうっていうことで散々騒いだみたい。
ただ、ウチの両親はまあ、そんなもんだろうと思っていて、ガンガンかかってくる電話にもうっさいなとしか思っておらず、
「今日の夕飯何しようかな」と考えながら相槌職人となっていたらしい。
古い人達だから差別的な用語も言われたらしいけど、まともに聞いてないからあんまり覚えておらず、
「まあ、貴方が口唇口蓋裂で生まれたからあの人達(両祖父母)も心配でボケられなくていいんじゃない??年寄りなのに元気じゃんね~」と言っていた。
まあ、もちろん両祖父母は祈祷やらもやり始めたけど、それにも付き合ったらしい。(祈祷で口唇口蓋裂が治るなら医者はいらないつーの。)
母曰く、「自分のストレスにならない程度に相手に付き合ってあげることが大事。ちゃんとした神社の祈禱料なんてたかがしれてるじゃない。変な宗教とかに大金払ってなきゃ親の金だから親が何に金使おうがどうでもいいわよ。それにしても神主さんも医者と違って結果が変わるわけじゃないことを変わるって信じてる祈祷しなきゃならないんだから大変よね~」
で、生まれてから母は口唇口蓋裂の「兎口」という呼び方をなぜか気に入っており、私が兎年生まれなのもあり、私のことをたまに「うさぎちゃん」と呼ぶ。
視覚障害のある友人が親から盲人だから「もーちゃん」と呼ばれてることを知ったさいには「牛じゃないんだから」と言ってたけど、お前が言うな。
ちなみに、兎口って今は蔑称なの??「みつくち」は蔑称てウィキペディアに書いてあったけど。
小学校では学級懇談会で母親とか障害を美化する傾向のある担任(いまはのぶみがお気に入りらしい)が
「お子さんの障害を受け入れてすばらしい!立派!通院や入院とかの準備や付き添いをして母親の鏡!!」と演説をし始めた際に
「まあ製造物責任がありますからねぇ~」と言って、場を凍り付かせたらしい。
こんな両親に育てられたけど、今では母親が望んだ歯並びがきれいな女の子です。
以上、チラウラの私の話でした。
私の親は、今でいう「毒親」だったと思う。
小さいころから、母親が父親を嫌っていて、昼夜構わず目の前で喧嘩した。父親の声はほとんど聞こえなかったけど、母親の金切り声をよく覚えている。
父親の実家で祖父母と同居していたのだが、そちらとも母親はそりが合わなかったようで、空気はいつも良くない。
母親は、自分のペースや考えていることに合わせないと、その他の意見を総批判。吐き捨てるように批判してくる。
小学生の時、鉄棒の前回りが怖くて出来なくて、やれるまで帰るなと公園に置き去りにされた。夜暗くなるまでやらされたけど(一人で)怖くて出来なくて泣いていた。
母親から褒めてもらったことは覚えていない。けなされた(バカにされた)ことは覚えている。
そしてそんな状態の私をかばってはくれない父親。「お母さんは怖いな」くらいしか言わない。喧嘩せども最終的には言いなり。
喧嘩していた夜は、違う部屋に移って扉を閉めていてもうるさくて怖くて、布団をかぶって「早く終わって」と泣きながら耐えていた。
母親と違う意見を言うと、「~(持論)~じゃない。(当たり前でしょ)バカね」見下す視線付き。
歩くペースや乗る電車など、もう少しゆっくりでもいいじゃないと思いゆっくりしていると、母親はイライラするのか「グズなんだから」「ノロね(ノロマね)」と言ってくる。母親は悪びれもせずに言うが、言われるたび辛かった。
母親から聞く悪口に洗脳され、反抗期もあったせいか父親と祖母のことを邪険にした。母親のことも好きじゃなかったけど。
彼女から愛情を感じたことはない。自分の思いどおりにいかないから怒る。そうとしか思えない言動の数々。
そうした環境が嫌で、高校生の時一度バイト上がりに深夜まで友達と遊んでいたことがある(連絡はいれていたが「帰ってこい」の催促を無視していた)。
家に帰ったら母親に盛大に泣かれたが、私が「兄は遊んでてよくて、どうして私はダメなの」と問い詰めたら何も答えずに「出ていけ」とのこと。多分、兄があまり注意を受けずによく遊んでいること、普段から兄びいきの発言が多いのでイラついていた、それについて問いただしても納得のできる言葉をもらえなかったこと、その辺の複合的な心情が爆発したと思う。
「心配するから」の一言があれば謝るつもりだったが、何も答えてはもらえなかった。
母親は頭ごなしに意見をし、理由を説明しないことが多い。「なぜ?」と問うても「そうだから」と答えになっていないことが多い。
「好きなようにしていい」と私には言うくせに、母親には基本的に逆らわない父親。結局折れる。奴隷。
季節は冬、ラジオの早朝英会話教室みたいのを聞いていたことがあって、ラジオは両親の部屋にあったから聞きに行ってたが、寒いから布団に入れと両親それぞれに言われ、困ってどっちの布団にも入らなかった。その時ほど面倒なことはなかった。最初は良心からだったのかもしれないが、次第に相手に対抗してどっちの布団に入らせるかムキになっていた。くっだらない。
車の免許を持っていない母親は、車を運転することでの疲労や維持する費用やガソリン代のことをまるで考えない。父親は運転するのが好きだったのか、数時間程度なら休憩なしでぶっ続けで運転していた。それをこっちにも要求してきた。疲労感やあなたの足ではないからねとどんなに説明しても理解はしない。
私の出産の時、初孫で浮かれていたのか、次の日にさっそく病院へ。夕方の出産でお風呂にも入れていなく、前日までの長い陣痛で数日まともに眠れていなかったが、まぁ孫に会いたいだろうと12時に来るように言ったが10時に来た。来たら1階まで迎えに行くと言ったが(病院は1階が診察室で2階が病室。お見舞いは基本的に入院してる人が1階まで迎えに行く)そんな早くに来るとは思わなかったからちょうど風呂に入っていた。迎えに行くつもりだったから病室も教えていなかったがアクティブにずかずかと病室を聞いて上がってきていて(1階の受付はほぼ診察の人用でまぁ話しかけづらい雰囲気だったけどそんなの関係ない人なので)、風呂のあと仮眠したかったが叶わず、夜まで居座られ大して眠れず。病院の決まりで子供を抱けない、写真も近くで撮れないと知り露骨にがっかりし、ずっと私の病室で私の見ていないTVをひたすら見ていた。帰れ。
「普通は里帰り出産するでしょ?でもしなかったから、二週間くらい孫ちゃんとこっちおいでよ。行きと帰りは夫くんに車で送ってもらってさ」
その理屈はなんだ。あなたの普通は万人の普通ではない。ましてや私の普通でもない。二週間って別居でもあるまいし通常の家族が「実家に帰るね~二週間くらい☆」な気分でそんなに離れるか。乳児も連れて。私は嫌だ。それに行きと帰りだけ夫を足に使えというのか。結構な距離を。
当然断った。
もういい年だから、親のせいにしてはいけない。自分の意見がないのも、あっても言えないのも、周りに合わせることを第一と考えるのも、決断力がないのも、怒る怒られるということに極端に恐怖するのも、誰かの怒鳴り声でもパニックを起こし過呼吸になるのも。
でも、私は自分の子供をこうにはしたくない。同じ思いをしてほしくない。やっぱり大事だよ、生まれてからの18年あまりは。一生の性格を培う。人一人を歪めかねない。
私は性格はとてもネガティブ。頭も顔もスタイルは中の中といったところだ、決して美人ではないがブスでもない。キツめな顔立ちだがそれなりに告白もされたし結婚を申し込まれたこともある。ごくごく平凡だ。そしてとても親不孝者だ。
父は既に他界した。
記憶にある限り父は働き通しの人だった。成人式で一般的な家庭では記念に家族写真を撮るだろう、我が家でもそうだった。しかし私は写真を撮るときに笑顔が作ることが出来ない。どうしてかいつからかは分からない。自分が醜いと心の底から理解したときなのだろうか。他人からの世辞も鳥肌が立つし告白の言葉も友達の言葉もどうせ嘘だろうと受け止められない、そういう捻くれた心のせいなのか自分の笑顔に吐き気を感じる。当然のように「ハイ、笑って」と言われる写真は心底苦手なものだ。振袖を着て、ドレスアップした家族と写真館に連れて行かれたとき私は笑顔を浮かべることがどうしてもどうしても出来なかった。頬が引き攣り動悸が激しくなり涙が溢れた。一生に一度の記念写真を撮ることすらままならない。写真館のスタッフも家族も困惑したことだろう。写真が嫌いなことを知っている母でさえそれ程とは思っていなかったのだろう、自分まで涙を浮かべていた。本当に申し訳ない。どうして笑えないのか、どうしてそんなことも出来ないのか。そんな当たり前のことも出来ない自分に情けなさと悔しさと悲しさと全てで苦しかった。結局安くない代金を支払い、記念となるはずだったそのアルバムを家族の誰も受け取りに行っていない。もし私が普通の子たちのようにカメラの普通に笑うことさえ出来れば普通に撮影を終えることが出来ていたのなら、仕事ばかりであまり写真のない父の遺影になっていたかもしれない。遺影写真を母と探したときにひっそりと申し訳なさで涙が出た。仲が良い家族とは言えなかったが大きくなってからの家族写真は本当に一枚もない。
親の兄弟含めても私が初孫だった。だから一番に甘やかされさぞ可愛がられたことだろう。姑に少しいびられていた母から私がどんなに祖父祖母から甘やかされ放題だったかという話を思い出話とセットで昔よく聞いた。みんな私の結婚式に出たいと孫の顔がみてみたいと言っていた免許を取ったらドライブに連れていって欲しいと言っていた。私が心配だと言っていた。最後を看取ることは出来たがみんな意識が戻らぬ状態のまま亡くなったので誰とも最期に言葉を交わすことはなかった、父とも。もし言葉を掛ける時間があったとして、私に何か声を掛けることが出来ただろうか。父の遺品整理のときに常に持っていた財布から私が子供の頃に書いた手紙を見つけた。頭が痛くなるほど泣いた。なんて親不孝者なんだろう。
母はまだ元気に笑っているが私は彼女に申し訳ない気持ちしかない。
彼女は賢くはないが明るくよく笑い周囲に気を使うことが出来る。カウンターで隣り合わせになった相手ともすぐに打ち解けられ店員とも友達になるようなタイプ。そんな彼女は子供が大好きだ、だから彼女自身も早くに結婚して子供を産んだ。私にも学生の頃から貴女の子供が出来たら可愛いよ子供が出来たらいつでも面倒見るからねとあれがしたいこれがしたいと話をされ、同級生の誰ちゃんが赤ちゃん産んだみたい抱っこさせてもらった可愛かったよと笑顔で話をされる度に私は子供好きじゃないからと嫌々と返していた。申し訳ないが本当に苦手なのだ、小?中?学時代の子供の頃から既に例え結婚したとしても子供は産まないだろうとずっと思っていた。私は自分自身が大嫌いだから自分の子供も愛せないだろうとその事実に子供の頃から気が付いていた。しかし成人をとうに過ぎ三十路を迎え婚活の必要性を友人に説かれたとき、ふと自分が好きなところを見つけて結婚に至れる相手の子ならば愛せるかもしれないと思った。母が大好きな子供を、初孫を抱かせてあげえることも出来ると思った。それが唯一出来る親孝行のような気がしたのだ。結果として婚活は中断しているが、きっとこの先も独身のまま天災に巻き込まれるかどこかで孤独死するのだろう。結婚相談所に入会することを母が気付いたとき彼女は喜んでいた、退会を伝え孫はもう無理だろう諦めてほしいと伝え面と向かって謝罪したとき彼女は泣いていた。ある日、母の友人に孫が産まれたという話を聞いていると「もし私に子供出来てももう丸一日面倒見てあげることは出来ないね、私も取ったんだなぁ」と言われた。前は孫とどうしたいと理想を話してくれた、近年はその度に申し訳ない気持ちでごめんねと返していたが段々とそのやり取りもなくなってきた。きっと自分が娘を産んだ時から私のウエディングドレス姿や孫を抱く日のことをそれはそれは楽しみにしていたんだろう。それすら叶えることが出来ない不出来な娘で親不孝者で本当に申し訳ないという気持ちで苦しくて、突然涙がこみ上げる夜がある。
SNSを眺めていると頭がおかしくなりそうになることがある。鳥肌が立ち吐き気に襲われることがある。
どう見ても可愛いと思えない子の自撮りした笑顔が流れてくることがある。どうしてそんな笑顔で写真に写ることが出来るんだろう。その写真を見て気持ち悪いと思われるとは思わないのかその顔が周りを不快に不愉快にさせるとは考えないのか。もし私がその顔に生まれていたら即整形している。その姿でどうして幸せそうなのだろう。わからない。
どう見ても可愛いと思えない子が母になり子供との笑顔が流れてくることがある。性格が良かったんだろう料理が上手かったんだろうもしかしたらその顔が好みだったのかもしれない。そうだろう理由なんてそれぞれに山とあるのだろう。どうして私にはそれすら叶えることが出来ないのだろう。どうしてどうして。マウンティングという言葉を聞いたときなるほどなと感じるが私のそれはもっと根本的で病的なものだ。あの子が不細工だからというところに強調がつくのではなく、そこに劣るほど自分が駄目な人間であるというところに強調をつける。私はどうしようもなく醜く駄目な人間なのだ。
明るく社交性が飛びぬけている母とは違い不器用な人だった父。
私たち家族は仲の良い家族ではなかった。みんな帰宅してもそれぞれの部屋に籠るような生活になっていたし父が死ぬ前数年間は言葉も交わすことも少なくなっていた。父が倒れる前の晩、最後に声を掛けられた私が返した言葉は「なんでもない」だ。本当にどうしようもない。それでも血縁者であり家族であることに変わりない。父に似ているとよく言われたことが多くある。どこでこうなったのかわからない、不器用な人だった父もきっと生きるのは大変だっただろう。それでも一般的に恋愛結婚し仕事を貫いた点で彼は私と比べるまでもなくまともな人間であったのだろう。もし私が母に似て愛嬌たっぷりになっていたのなら人生は違っていたのだろうか。私には愛想笑いすらとても難しい。笑顔での接客対応ですら必死で仕事終わりには顔が痙攣することもある。いつも笑顔の母とは似ても似つかない。
両親の兄弟を思い返しても血縁を切ったような相手しか浮かばない。もしかせずとも我が家の家系はここで途切れるのだろう。かもしれないと別の可能性を見出すことすら出来ない。私が母と出掛けねば手入れされていないお墓を想像がつく。祖父祖母に申し訳ないと思っていた、両親に申し訳ないと思っていた。ほんとはそれだけではなくもっともっと多くの人に申し訳が立たないんだろう。私はどこまでも親不孝者なのだ。
先日母に頼まれて年金保険というものに加入したが受け取る日はこないだろう。痴呆が始まるようになった日には自殺しようと心に決めている。吐き気がするほどネガティブな私にもいまが幸せだと思う瞬間はあった、それを忘れてしまうくらいなら自分で幕をひく。家系的にそう長生きするタイプではないから平均寿命もいかないだろう、きっとあと40年もない。30年程とすればゴールまで折り返しだ。憎まれっ子世にはばかる渋柿の長持ち論で性格の悪さから長生きする可能性もあるが、それを上回るメンタルの弱さで心から蝕まれているのでことわざ効果は大いに打ち消してくれていることだろう。人生は死ぬまでの暇つぶしに過ぎないという言葉を聞いたときほんの少しだけ心にある澱みが軽くなったような気がした、そのまま日々ゆるりと死に向かっている。最近体調がすぐれないこともあるが無性に眠い。抗えない虚脱感と眠気に襲われるときこのまま死ぬのだと毎度感じる。いつの日か本当にそのまま死ぬのだろう。何を産み残すこともなく継がせることもなく。誰に何を返すことも出来ず。本当にごめんなさい。
どこかに書きなぐりたくなった。
遠方にいる母方の親類から、実家に掲題の電話が来たらしい。享年94歳。
自分はほぼ寝たきりの妻の介護があるため通夜や葬儀への参加が難しく、でも弔いにせめて想い出したくて(吐き出してくて)、日記に書きます。
一時帰国したときによく泊めてくれて遊びに連れて行ってくれたよね。
そうそう、当時欲しかったファミコン、それもディスクシステム付きのをプレゼントしてくれたね。誕生日でもなかったのに、なんでか理解できない残念な子供だったけど、めっちゃ喜んだのを覚えてます。
やたらに早起きで、朝ご飯にいつも出してくれたプルーン、正直苦手でした。それが顔に出ていたのか、頑張って食べると、めっちゃ嬉しそうに目にいいんだと破顔して毎度教えてくれたよね。
いざ書き出してみると、なんかもらった話ばっかり思い出すけど、庭の芝刈りや水やりをやらせてもらったのもちゃんと覚えているよ。
前に顔を見たのは、ばあちゃんの49日だったよね。
でも、本当に好きでした、優しい笑顔。
道中気をつけて、ばあちゃんによろしくね。
泣いていたら、妻に「自分がいるから葬儀に出られないんだね、ごめん」と悲しい顔で謝られてしまったので、涙で送り出すことはできないけど、許して。
https://anond.hatelabo.jp/20180129125711
これの続き。(間違えて消したため再投稿)
時間ができたので、また書き残しておく。
体は大きくなっていたのに、1才過ぎてもズリバイと伝い歩きばかりで、ハイハイもしない。
特に心配はしていなかったけど、児童館や公園で会うママに、「まだ歩かないの?」とか「区の育児相談いってみたら?」とか言われるようになって、ちょっと面倒に感じていた。
夏の暑さをいいわけに、児童館から遠ざかっていた1才4ヶ月のある日。
「うわ、立った!」という衝撃が抜けきらないうちに、今度はトコトコ歩きはじめた。
両手でバランスを取りながら、自分の足で歩いている子供の姿は、思っていたよりずっと大きかった。
毎日見ているから気づかなかったけど、本当に育っているんだなと実感できた瞬間だった。
子供の体重が10Kgに近づいてきた頃。突然、ベビーカー拒否がはじまった。
ベビーカーに乗せればギャーギャー泣き、どうにもならずに抱っこ紐に切り替える。
抱っこしてしまえば泣き止み、今度はじっと人の顔を見てくる。
泣きもしなければ笑いもしない。
わが子の熱烈な視線を受けつつ。ふうふう言いながら、空っぽのベビーカーを押して歩く。そんな毎日だった。
3ヶ月くらいでおさまったけれど、拒否がひどかった時期は、なんでこんなにベビーカーが嫌いなんだろうと悩んでいた。
その理由が判明したのは、2歳も半分を過ぎた頃のこと。
牛乳を買い忘れたのに気づき。近くのスーパーまで行こうと支度している途中で、ぱらぱらと雨がふってきた。
しかたない、抱っこして出かけよう。
そう決めて、ひさびさに抱っこ紐を取り出してきたら、子供が「だっこ? ねえ、だっこ?」と聞いてきた。
「そうだよ」と返事をすれば、今度はひざにかじりつき「はやく、はやく、はやく!」とせがみはじめる。
急かされるまま抱っこをすると、こちらの顔を見つめながら「ママ、だっこだね、だっこだね!」とニコニコ笑う。
それで、やっとわかった。
この子はベビーカーが嫌いなわけじゃなく、ただ抱っこが大好きだったんだ。
表情がとぼしく、しゃべりらない時期だったから、ちっとも気づかなかったけど、本当はあのときも「ママ、だっこだね」と伝えたがっていたのかもしれない。
結局、抱っこ紐でおでかけしたのは、それが最後になった。
でも、最後の最後にとろけるような笑顔を見れて、いままでの苦労がむくわれた気がした。
うちの父は、けっこうなヘビースモーカーだ。
母が妊娠してもタバコをふかしていたし、出産のタイミングで飲みにも行ったらしい。
この数十年間、母になんども蒸し返されているのに、笑うばかりであやまったりしない。いまだ昭和を引きずったまま、この21世紀を生きている。
そんな父だったが、初孫には気をつかう。
正直、タバコを吸うために換気扇の下に移動する父の姿なんて、想像したことすらなかった。
みんなが揃っている状態が大好きな初孫は、じいじがキッチンに移動するのを見れば、どうしたどうしたと迎えに行ってしまう。
なかなかタバコが吸えず、苦戦する父。
母は「禁煙したら、おじいちゃん?」と追い打ちをかける。ほかの兄弟たちも、母に同調して助けようとしない。
それでもタバコを諦めきれない父は、スキを狙って玄関から外に出た。
間もなく、じいじがいないと気づいた初孫が、大慌てで家中を探し回る。
「じいじー、じいじー」と呼ぶ孫の声にガマンができなかったんだと思う。
外に出てまでタバコを吸いに行ったはずの父は、1分もたたないうちに戻ってきて、みんなを笑わせた。
あの偏屈で頑固な父ですら、この子はかわいく思えるのかとビックリしたし、わが子をかわいいと思ってもらえてることが、照れ臭くもうれしかった。
※余談
部屋にもどってきたとき、父が「玄関まで来てくれるのはお前だけだよ……」とつぶやいたようだったけど、家族は誰も反応せず。いまも初孫だけがお迎えに行っている。
のばしのばしになっていたトイレトレーニングに取り組みはじめたのは、入園が決まってすぐのこと。
抗生剤の影響でおなかを壊してしまって、トイレトレーニングどころじゃなくなった。
旦那が出張で不在のなか、2人でトイレトレーニングをはじめた。
怖がっていたのは最初だけ。
一度成功すれば、そのあとは順調だった。
これなら入園に間に合う。
よかった、よかった……と胸をなでおろしたのも束の間。急におもらしがはじまった。
それなのになんで? なんで急にできなくなってしまったんだろう?
外での練習なんて、夢のまた夢。でも、それじゃ入園に間に合わない。
本当にどうしよう。
一人でもんもんと悩むこと数日。
おもらしに気づいて、「残念だったね」と言いながらパンツを脱がせていたとき。ソワソワした様子で「あたらしいパンツ? あたらしいパンツはく?」と聞いてきた。
その表情と、パンツを連呼している様子を見て。「もしや……」と思いながら、ありったけのパンツを持ってきて子供に見せると、すかさずその中から一枚を選び出した。
選び出したのは、おしりに大きく新幹線がプリントされているもの。
買ってきたパンツを見せたとき、真っ先に手に持った一枚だった。
新幹線パンツを履かせてみたら、それ以降、一切おもらしをしなかった。
どうやら、お気に入りのパンツが出てくるのを早めたくて、わざとおもらしをしていたらしい。
いつの間に、そんな知恵が回るようになっていたのかとあきれ。ここまで強い愛着が育っているという事実におどろいた。
愛着が生まれたということは、自力で選ぶ力がついたということだ。
選ぶ力がついたなら、この子にとって好きなものが、身の回りにもっと増えていくはずだ。
それってすごく幸せなことだな。たくさん幸せになって欲しいなと、そんな風に思った。
ひと月ほど出張に行っていたパパが、ついに帰ってくる日。
不在中「パパは?」と聞きまくっていた子供に、「パパは夜寝るくらいに帰ってくるよ」と伝えた。
大喜びする子供に満足し、かわいいなあと眺めていたけれど、すぐに後悔した。
ギリギリに伝えればよかったと思いながら、「まだよ」と言い続け。
日が暮れてからは「夜だよ! まっくらだよ!」と繰り返す子供に、「寝るにはまだ早いよ」と返し続け。
グッタリも通り越した10時過ぎに、やっとパパが帰ってきた。
「パパだー!」と叫んだ子供は、うれしそうに笑う旦那の腕に、いきおいよく飛び込んでいった。
照れくさくて、パパとなかなか目を合わせられない様子も。
抱っこから下ろされても、めげることなくバタバタ追尾していく姿も。
全部がかわいくて、思い出すだけで頬がゆるむ。
トイレトレーニングも上手くいって。長かったワンオペも終わって。ようやくひと息つけたので、長々と文章を書いている。
毎日があっという間で、かわいいこと、うれしいことをちゃんと残しておかないと、すぐ記憶の彼方にいってしまう。
もったいないから、できるかぎり残していけたらなと思っている。
※追伸
まず最初に。
はちゃめちゃ長文だ。誤字脱字もある。
いい年して駄々っ子のようだとも自覚しているが、ここはそういう場所だと聞いたのでただ吐露していく。
私は母親が苦手だ
ありきたりな話だと思うが母親が苦手だ
私は生まれた頃から生粋のおじいちゃんおばあちゃんっ子だった。当時祖父母の家と自宅が目と鼻の先の距離だったこともあって、小学校に上がるくらいまでは自宅で過ごした記憶しかないくらい祖父母宅にほぼ住んでいた。
初孫で初めての女の子だったこともあり、蝶よ花よと祖父母は可愛がってくれた。頻繁に遊びに来ていた親戚も可愛がってくれた。それが母親は面白くなかった。
それもそのはずだ。自分にとっても始めての子供を姑に取られてしまったのだから。
この事が私と母親の根っこに未だに深く残っているのだと思う。
私も母もお互いへの接し方が分からず、当たり障りなく過ごしているうちに私が小学生に上がる頃祖父母宅とは遠い場所へ引っ越すことになった。
その辺りから徐々に、いや今まで溜め込まれていたものが少しづつ外へ出てくるようになってきた。
母は怒りを頻繁に爆発させた。
親は怒るものだというが、母の怒り方は常軌を逸していたと思う。
何に怒っていたかは分からない。職場や外で何か嫌なことがあったのだろう。そういう日は玄関を蹴りながら開け買い物袋から自分の荷物から全てキッチンに投げ捨て包丁でまな板をグサグサ刺し続けるのだ。
初めて目にした時はこのまま殺されるのかと思い体が動かなかった。今さらながら蛇に睨まれた蛙とはこの時の様な状態なんだと思う。
まな板にいくつもの刺した後が残るころ、気が済んだのか笑顔になり『うるさくてごめんねーごはん作るね』と言うのだ。いつも通りに。笑顔で。ついさっきまで包丁でまな板を刺していた人がだ。
この頃から母はやばい人だな逆らわないでおこうという生存本能のようなものが植え込まれていた。
他にもテーブルを蹴る。物を投げ捨てる。大声を出す様な事はわりと頻繁にあった。
母の出した料理に少しでも微妙な反応(上記の通り逆らいたくないので間違っても不味いなどは口にしてはいない)をすると食べなくていいと食事途中であっても膳を下げられた。なので食事中は大げさに『おいしい!今日もごはん作ってくれてありがとう!』とまるで『いただきます』を言うように言っていた。
幸いなのはどんなに起こっていても私や妹たちには決して手を出さなかった。なのでここまで書いておいてだが虐待されたとは微塵も思っていない。少し他の母親と違うだけだ。
まず始めに書いた私を小学校上がるまでほぼ祖父母に取られてしまったこと。
父がクソなことだ。
我が家が比較的裕福ではないこと、は父がクソなとこに繋がるので父の話をさせてもらう。
父は私たちを養うためにあまり家にも帰らず必死に働いてくれた。それは大人になった今有り難みが心の底からわかった。労働して家族を養うってものすごい大変だ。
それでも父はクソだった。
パチンコに入り浸り、出会い系をして、一回り下の子と不倫をして、借金を残して蒸発した。
父の話は以上だ。
あれだけ書いたが、私は母を恨んではいない。感謝している。父が蒸発しそれでも働いて私たちを育ててくれた。私が母と同じ状況になったらもっと駄目な母親になると思う。少しやばいけど尊敬する母だ。
それでも苦手なのはいまだに変わらない。
そんなことがあって、女手一つで育ててくれた母親にむかってと思う人もいるだろうが苦手なのだ。
嫌いではない。人として反りが合わない。
子どもの頃の母の言動がいまだに忘れられないというのもある。トラウマというには大げさだが、自分に向けられていないにしろ母親が包丁を振りかぶっている姿というのは忘れたくてもなかなか忘れられないものである。
例えばパチンコ店で働く親戚に対して、あんな所で働いて恥ずかしくないのかと言ったり。所謂『オネエ』が嫌いで、女の武器を使って姑息だと言ったり(そもそもLGBTにあまり理解がない)。階段でベビーカーを持ち上げて登っているお母さんが居たので手伝おうとしたら『私がベビーカー使ってたころは自分で持つのが当たり前だったんだから今の人たちも苦労しなきゃいけない。手伝わなくていい』と私の手を止めたりもした(そこで母に逆らいたくないあまり手伝わなかった私も同罪だ)。
それから、母に面と向かって『お前を育て直したい』と言われたことがある。
もちろん母なりに考えていて悪意のある言葉でなかったと思う。そう信じたいが、それを言われた子どもの気持ちは?
それを言われた瞬間に『今のお前は失敗作だ』と言われた気がした。
弁解させてもらうと私はいたって真面目な子だったと思う。ずば抜けて優秀だった訳ではないがほどほどの成績を取り。校則違反を犯した事もなく。教師からの評判もいい地味で真面目な子だった。働く母に変わり夕食を作り家事を手伝った。今思えば幼少期に埋まるはずだった信頼を必死で埋めようとしていたんだと思う。
それでも言われたのは『お前を育て直したい』だった。
少し他と違う、少し変わった母でも信じようと思っていた気持ちがそこで切れた気がした。
崩れたんじゃない。切れた。
母への想いがそこで終わった。
尊敬はしている。育ててくれた恩も感じている。だけど終わっている。
母は今再婚して、義父となった人と暮らしている。私も妹もみな家を出ているので母の現状の暮らしがどうなのか詳しくは知らない。
義父が地方の出身で将来的に地元に帰るので、母も付いていくのだという。
あの人の人生は幸せだったのだろうか。これから幸せになれるのだろうか。
私はあの人から産まれてあの人に育てられたのに、もう終わってしまったからそんな事をぼんやり思うしか出来ない。
ごめんなさい。
育て直せればよかったね。
アナと雪の女王、あれ、両親が事故で亡くなったから、仲のいい姉妹になれたようなものの…両親が存命だったらどうなるかって考察、あまりされてないんじゃ。
すごいありそうなパターン:
アナ:年頃に→すぐ惚れて色々男連れてくる→両親が見るに見かねて、マトモな男を見繕って早く結婚させる
エルサ:ずっと危険だからって部屋に閉じ込められたまま結婚もできず、いきおくれ。
~3年後~
アナに子供誕生→両親初孫かわいがり→両親+アナ+アナの旦那+孫で談笑、楽しい家庭。一方エルサは閉じ込もったまま引きこもり。
~10年後~
エルサ、やっぱり閉じこもったまま引きこもり。
アナ、3児の母親に。王が亡くなったときのことを考え始める。子に王位継承させたい。エルサ邪魔。
アナと孫にせっつかれた王、エルサを国(アレンデール)から追放して隔離することに。
エルサ:30代で、初めて城の外に出て、"Let it go~~~"で城を立てて一人で遊ぶ。
~20年後~
追放されたエルサ、アナを恨む。魔法生物で作った軍隊で、アレンデールに攻めてくる。
アレンデール、エルサの魔力の前に、あっけなく敗北。
…ってな感じになりそう。
自分以外にもこんな感じの人いるんだな。つられて、つい自分語りをしたくなったよ。
自分はこの元増田より2−3年下だが、うちも両親中卒だ。おかげで高校入るくらいまで大学というものがどういうものかさえよくわかっていなかった。それどころか勉強を親に教わった記憶がない。
なにしろ小学校の高学年の頃には、勉強に関してははっきりと自分の知識も能力も母親より上だと認識していた。親から勉強を教えてもらった記憶など、小学校以降ない。父親は父親で勉強のじゃまばかりしてくる。なにしろ家で勉強をしていると酔っ払った父親に家で勉強なんかするな目障りだと怒られる。
おかげで高校まではテスト前にちょっと復習するくらい(親が帰ってきたら止める)で、のびのびと過ごさせてもらった。
たまたま中学の成績が良かったので、ろくに勉強もせずともぎりぎり大学進学できる程度の高校に入れたのが僥倖だった。その高校が公立で家から自転車で通える範囲だったのも幸運だった。貧乏な家だったので電車通学が必要だったり私立だったりしたら止められていただろう。
その高校に入って2年目くらいでようやく気がついた。このままじゃ面白そうな職、面白そうな仕事にはつけないぞと。世の中にある面白そうな仕事ー弁護士、大企業のエンジニア、作家、官僚、パイロット、建築家ーそういった物の多くは大学を出ていないとスタートラインにもたてないらしい。はずかしながら高校生の半ばまでそんなことさえ知らなかった。
そこから必死になって勉強した。勉強してないのは飯食ってる時間、眠っている時間、部活の時間くらい。それ以外は全部勉強にあてた。3年になって部活が終わってからは飯、勉強、飯、勉強、飯、勉強、寝る、の毎日。おかげで高3のころには県でも上位の成績を取れるようになっていた。
だが、それが父親には余計気に食わなかったらしい。親戚の話によると中学の頃まで父親の成績はけっこう良かったのだが、その父親(私の祖父)がアル中でろくに働かないせいで進学を諦め、中学をでるとすぐ働き出して弟妹達を高校まで行かせたそうだ。泣ける話だ。だがそのルサンチマンであたりちらされる子供にとってはとんでもない災難だ。
家で勉強しているのを見つかると怒鳴られる、酒をかけられる。夜中に泣いて家を飛び出したことも何度もある。毎日家に帰りたくないと思っていた。何ヶ月も父親と口を聞かないこともあった。そのうち不憫に思ったのか叔父や叔母が仲介に入ってくれて、物理的な嫌がらせは止まったが、それでも家で顔を合わせると「誰の金で食わせてもらっていると思っていやがる」などの嫌がらせの言葉が飛んでくる。3年の夏休み頃、一時的に成績が落ちたのを挽回しようと家で勉強していたら家業の手伝いをさせられた。たのむから勉強させてくれというと「お前が勉強するための金はどこから出ていると思っているんだ?」という答え。その後なるべく家では顔を合わせずにすむようにしつつ勉強を続け、成績ももどり、どうにか東大に入った。(嘘だろうって?そう思うんなら勝手にそう思ってろ。しょせん増田だ。)
高校最後の一年くらいはこの家から早く出たいという気持ちが、将来ひとかどの人間になりたいと思いと同じくらい強くなっていた。家を出ることができて心の底からほっとした。東大に入ったことよりもそちらのほうが嬉しいくらいだった。その後大学院まで進学し、外資系に就職し、今は海外からこの増田を読んでいる。
元益田と同じように両親をうらんでいるか?ときかれれば、恨んではいるが仕方がなかったことも理解していると応えるしかない。それは当時から同じだ。自分の学歴コンプレックスから優秀な子供の邪魔をし芽を摘む一歩手前まで行ったことは今でもゆるせないが、同時に、自分より劣る弟妹を高校に進学させるために中学を出て働き出したというエピソードには一人の人間として畏敬の念を抱かざるを得ない。
高校の時以降、親を頼ろうと思ったことなど一切ない。その点ではまったく恨んでなどいない。ただ、恵まれた同級生たちをみて、自分の親が彼らの親のようだったら、自分ももっと素直に育っていたのだろうか、同じように青春や人生の幸せを感じ取れたのだろうかとつい詮なきことを思い浮かべ悲しくなるくらいだ。高校をでてからはろくに実家にも帰らなかったが、初孫にあたる息子を連れて行った時は、本当に喜んでいた。その姿をみて毒気が抜かれた。自分が生まれた時もこんなふうに喜んでいたのだろうかなどとさえ思った。
その父親はその後病気になり後遺症で口さえ聞けなくなった。たまに一時帰国時に入院先に見舞いにいっても、言葉にならない声を出すばかり。ただ目には喜びがうかんでいる。子供の時には仲の良い親子だった。その頃の気分になっているのだろうか。それとも俺のことなど無視して孫達に会えたことが嬉しいのか。話が聞けないので、それはわからない。
突然、申し訳ありません。
本日は私の心のイチモツの憤りが収まらず筆を取らせて頂きました。
先日、インターネットであなたを見たときに、「クソマジメゲスブロガー」という肩書きに惹かれそれからあなたへの思いが止まりません。
あなた様への思いは私のイチモツまでに及び、本日睡眠中に夢の中であなたが登場し、「オッサンの話が面白くない」と身内の恋愛経験豊富そうなブス仲間に語っている所が登場し、
その時のあなたのドブ川のカスのようなドヤ顔に先ほど目覚め、私のマラは朝勃ちの止まらぬ状況になっておりました。
私はいてもたってもいられずすぐさま鬼の形相で再度あなた様のブログ(メディアと記述したほうが宜しかったでしょうか?)を検証し、夢の内容と全く同じ事を記事にしていた事を確認すると
「マンコの乾き切った地方スナックの恋愛経験豊富なババアに16点くらいのセクハラをしているようなオッサン」であった事を僭越ながら付け加えさせて頂きます。
私はー、あなたを見ていると中学時代の学級委員に立候補して落選したブスを思い出します。
スクールカースト最底辺の私はクラスの片隅で歯クソのような笑顔を浮かべてその状況を見ていましたが、10年ぶりに歯クソのような笑顔をもう一度浮かべられた事に感謝しております。
おそらくですが、恋愛経験豊富なブスの中で大きな存在感を放っていたであろうことを想像しますと本当に笑顔になれます。
(LINEで人生相談を受けているそうですが、そちらも想像すると本当に笑顔が止まりません。)
人生が面白くない私に生きる希望を与えて下さり、本当に感謝しています。
また、あんちゃ様の「バイブバーに女といってみた」という記事を拝見致しました。
私の中で永遠の課題であった「カースト3軍の中で恋愛感を大声で語るセックスアンドザシティの好きなブスの性欲はどこへいくのか?」という命題に答えを与えていただき、非常に知的好奇心の満たされる内容でした。
そしてはてブやコメント欄に溢れる男子からのお言葉を拝見致しました。
やはりあんちゃ様もスクールカースト最底辺の男からチヤホヤされると膣がイキそうになるのでしょうか?
もし宜しければー、ですが。次回こちらの内容にご返答いただけますと幸いです。
朝早くの日曜からマラをオッ勃ててこのような文面をお送りした事をお詫び申しあげます。
P.S ブロガー間で仲がよろしいようですので、もしツテがありましたら青二才様に私がバイトをクビになってから毎日投稿している罵詈雑言のコメント承認をして頂けるようにお伝えいただきますと幸いです。
ご両親はさぞ嬉しいだろうと思うかもしれないが、ずっとひっかかっている。
らしい、というのは付き合っていた頃から家に遊びに行っているがまともに顔を合したことがないからだ。
世にいう引きこもりだ。
その人は社会人になってから会社が合わなくて20数年この状態らしいから相当重度の引きこもりなのだろう。
でも、引きこもりだけど健康で図書館や近所の買い物にはでているという。
義父母はその人のことを「誰か」とか「あの人」というくらい壊滅状態で、
状況脱却へ向けた話をしてもキレてしまうらしく話にならないのだという。
「本人の意思が足りない」とか「あいつはダメだ」とかで終わってしまうのだ。
その割には夕飯は台所に用意するし、洗濯もしてあげている。
そして、これまで相手の両親と話していてきちんとその兄弟に対する話がでたことは一切ない。
こんなことで不安に感じるのも「親」になったせいなのだろうか。
そんな家庭に初孫誕生したわけだが義父母に非常に喜ばれている。
ひとつひとつの事にみんなで一喜一憂していてこちらも本当に嬉しい。
でも引っかかっている。
義父母は自分の子供ときちんと向き合えていないことはどう思っているのだろうか。
またそのことに目を背け、目の前の孫にばかり目を向けるのは何か違う気がする。
http://anond.hatelabo.jp/20170409084033
お遊び代わりの習い事はさせてるよ。
ちなみに私立はここらへんにはないこともあって私立進学は一般的じゃない。
まだまだ未婚のシングルマザーは珍しい地域だから、他の子供にからかわれたり、噂になったりして虐められることは多いけれど、
そういった覚悟がなかった母親はうちの子がかわいそうしか言わずに、まともに自分の子供のケアなんてしてない。
箸の持ち方すら教わっておらず、ご飯は立膝で食べる韓国式。
母親に時間も余裕もないからスナック菓子とか菓子パンが食事代わりになることも多い。
もちろん勉強をしっかり見てやれる能力も時間もないから学校の成績は落ちこぼれ。
まあ、どっちみち資格もないシングル子持ちが稼げるお金なんてたかがしれてて、金銭的にも進学は厳しいけどね。
出生当時、初孫を娘と一緒に愛情たっぷりに育てる!!と奮い立ってた祖父母は寄る年波には勝てず、逆にそろそろ自分が面倒みてもらう番になるのも近い。
まあ、母親自体が遅くにできた子で望まぬ妊娠をした時期にすでにそれなりの年だったっていう事情はあるけどね。
まあ、愛情たっぷりのお母さんなんで激務の仕事とストレスで疲れ切って、もと交際相手に対して呪詛をいって、
たまに元気な時に思い取ったように子供に構って子供の写真いっぱい撮って愛情たっぷりに育ててるよ。
ちゃんと子供に菓子パンでもご飯も与えてた、暴力も振るっていない、実家の両親ともそれなりに交流があった畠山鈴香の子育てが虐待に該当するかしないかっていう話だよ。
妊娠したかもって事実に向かい合いたくない&元々の生理不順を放置して、堕胎が可能な期間を経過。
まあ、皆様の予想通り男は逃げるよね。
結婚は無理でも養育費!!って最初は騒いでたけど(まず最初に認知じゃなくて養育費としか言ってないあたりがいろいろお察し)、
男が逃げる場合、養育費も認知も裁判起こさないと無理で、まあ、裁判起こせるような知能も気力もお金もないから子供の認知すらせず、出産。
もちろん、生まれる前に子供はどうするかって家族会議は何回かしたよ??
男の悪口言ったり、詰ったり、妊娠したこの子がかわいそう!!って何回も叫ぶ会議を。
で、一応、妊娠した女性には両親が揃ってて、育てようと思えば育てられるし、
子供を施設になんてかわいそう!!外聞も悪い。初孫だし、ってことで気持をしっかり持って育てていこうということに決まり、
子供はめでたく愛情たっぷりの家庭で育てられることとなりました♡
まあいろいろお察しだよね。
子供ってほんとメシだけじゃ育たないんだね。
私にとってはこの養育環境はメシを与えてるだけでほんとに虐待。
この子はもうおろせなかった時点でこうゆう運命だったのかというとそうでもなくて
母親の周りの数人は特別養子縁組の手続きをしたほうがいいんじゃない??とはヒソヒソ話してたよ。
自分が同じ立場だったら十分に育ててあげられない親として子供にしてあげられる最大のことだからね。
ただ、実際、妊娠した母親やその家族にそれを伝えられるような人はいなかった。
まあ考えてみればわかるよね。
勝手に子供作って、おろすことを本気で考えてて、おろせないから育てるかなんていう親よりも
子供を本当に望んでて、経済的、精神的、時間的に余裕のある夫婦に育てられたほうがよっぽどいい。
答えは分ってても、家族でもないのにある意味、子供を捨てろ。なんて下手したら親族でも言えない。
生まれてくる自分に関係のない子供がちゃんと育たないことより、自分が子供を捨てろって発言する人なんだと思われないほうが大事だよね。
匿名性が担保されないのに知り合いの虐待疑惑を通報できるかって話とある意味同じ。
そして、こうゆう言い方は語弊があるかもしれないけど、望まぬ妊娠をしておろせなくなるまでほっとくような人やそういう人の家族の大多数は特別養子縁組なんて知らないし、知る術がない。
行政とかちゃんとしたところに相談するっていう発想なんか持っていない。
だから、本人達は知らないし、周りはさすがそこまでのことは言えない。
もっと言うと、妊娠した本人も家族も使える制度や、実際どうなるのかって情報収集をしないからある意味、覚悟なんかないまま子供を産む。で、そのしわ寄せが子供に行く。
子の教育方針などで夫と口論するうち、子を夫と切り離し自分だけの好みの方針で育てるために離婚したくなった。
我ながら我が儘だけど。
もともと夫とソリが合わず孫の顔さえ見てればいい人たちだから、実家は当然、全面的に私の味方。
それで思い切って、ものごころつく前の子を連れて実家に戻った。
実家のサポートでいろいろ生活が成り立つようになったので、女性に寄り添い女性の言い分を通してくれることで有名な離婚弁護士さんに相談。
こんな内容を書く。
1. 一方的に自分の意見を通そうとする我が儘で暴力的な夫から激しい言葉のDVを受けた
2. 子に対する具体的なDVはなかったが今後そのおそれは十分にあり、私に暴言を吐く姿を子が見てトラウマになっていること自体も含めて。子との面会は困難
なぜこうするかはちゃんと理由があった。
家庭裁判所や調停委員は事実関係を調査せず双方の主張を聞くだけ。
明らかにこちらの言い分に嘘や矛盾があっても、それを指摘する夫の反論の激しさは「夫婦間の葛藤」の存在を証明することになるので、むしろ好都合。
それだけでは不安であれば、婦人相談所にDV被害の相談に行き「配偶者からの暴力の被害者の保護に関する証明書」を発行してもらえばよい。
この証明書の発行には証拠不要。事実確認はおろか夫側の見解聴取もない。
これは「相談があったことの証明」だが、実務的には「DVがあったことの証明」として役所や裁判所で通用する。
(内閣府男女共同参画局通知 http://www.gender.go.jp/policy/no_violence/e-vaw/kanrentsuchi/pdf/01/n_29_20140930.pdf ここには『この保護に関する証明書は、配偶者からの暴力を理由として保護した者に対して婦人相談所等が発行するものであり、配偶者からの暴力があった事実を証明するものではないことを、念のため申し添えます』と書いてあるが、調停委員が知らないばかりか家庭裁判所裁判官も知らないほど、この注記は知られていない。)
これから別居中にじっくりと子に夫の恐ろしさを教えておけばよい。試行面会の頃までには子が勝手に夫を怖がるようになってくれる。
どんなに夫が子煩悩だったとしても、3歳くらいまでの記憶は綺麗さっぱり消える(「幼児健忘症」。病気ではない)。
夫の写真も見せないようにする。仮に子が「パパは?」と訊いたとしても、キッと睨むだけで子は「この話を母親としてはいけないんだ」と学び、保護者である母親の気に入る子になる本能で、勝手に父親を嫌いになる。
3.は実入りを少しでも大きくするため。
離婚をしてしまうと受け取れるのは養育費だけになるが、婚姻をかたちの上で継続しておけば相互扶養義務に基づく婚姻費用の分担を請求できる。
このアドバイスのとおりにやってみると、面白いように周りが全部こちらの味方になってくれた。
誰も私を疑わない。
いや、疑う流れにはときどきなったけど、疑うそぶりを少しでも感じたら
「私を疑うなんて酷い」
と泣いてみせればその話はぜんぶ立ち消えになった。
私の言い分の嘘や矛盾を夫が長々と説明しても、どんな証拠が出てきても、「そんなことはない」と言えばいい。
そう言うだけの方が良いのだ。
「証拠対証拠になると不利なので、こちらからは証拠を出さない」
夫がどんなに苦労して物的証拠を出しても、裁判官や調停委員はそれを採用せず、私の口頭の主張ばかり採用する。
子には何年も会わせてもらえない。・・・
夫が怒り始めるのも当然。
でも、
「すぐそうやって怒り始める人で大変だったんです」
と言えば1.や2.の間接的な証明にもなる。
しかも、
という裁判所独特の言い回しで、面会させない理由にしてくれる。
いい気味w
女>>>>>>>>>>>男
とあらかじめ決まってる。
夫が年収高かったおかげで20万強の婚姻費用を毎月受け取ってる。
保育所には例の「証明書」を見せれば最優先で入れて貰えたので、自分の勤めの収入も十分。
((嘘扱いされるのが癪に障るので追記注釈。実家のサポートで暮らしていて収入ゼロのうちに婚費決めさせたのと、娘がDVトラウマで今後も働きに出られないかもという主張が通って、夫の年収1300ちょっとだったけど算定表ほぼ満額が取れたんですよ http://www.courts.go.jp/tokyo-f/vcms_lf/santeihyo.pdf 現実の裁判所が嘘みたいだからしかたないんだけど、無闇に嘘扱いしないでね))
さすがにこれは酷いということで国会でも「親子関係断絶防止法」が議論になってるけど、たぶん通らない。
https://news.yahoo.co.jp/byline/komazakihiroki/20170308-00068455/
裁判所の調停や審判に持ち込まれているような場合、夫婦間でかなりの葛藤があって、敵対関係があって、持ち込まれるのが大半なんではないですか?そういう場合に面会交流を継続するのが、本当に子どもの福祉にかなうのか、慎重に考えるべき
実はこの「夫婦間の葛藤」や「敵対関係」は私が作ってるだけで実際には夫に非なんか一切無いんだけど、勝手にこう解釈してくれて、私の我が儘じゃなく「子供の福祉のために」面会をやめろと言ってくれる。
夫はこれからどう出てくるのかな。
「会わせろ」と連絡してくるのを警察に相談したらストーカー扱いしてくれたので、今はそれもない。
当たり前だよね。
少しでも振込を怠ったら私から会社に連絡がいき、給料を差し押さえられるんだから。
弁護士にきいたら、次の裁判ものらりくらりやってれば絶対に勝てるんだって。
ただ、一生ずっと面会ゼロにするためにはひと工夫必要らしいので、今それをやってるところ。
その中身は内緒だけどね。
この国は最高。
「あんたは、なにちゃんだったっけか?」
まさか自分がこんな、ドラマのワンシーンのような状況に遭遇することになろうとは…
本当に色々な感情を抱いた時、人はどんな表情も作れないのだと、23にして初めて知った。
「けんちゃんだったかしら」
「・・・そうだよ」
引きつりながら笑って頷く。
これは一本食わされた。はっはっは。
最初のやり取りはそんな感じだった。
これが本当にネタだったなら、どんなに心穏やかに新年を迎えられたことだろう。
おばあちゃんがボケた。
これまでとは違い、決定的に。
名前を聞いてきたことが、冗談ではなく本気の確認作業だったのだと気付くのに時間はかからなかった。
本当にボケていたのだと最初に確信した時、今まで感じたどれとも違う絶望感が、舌の奥の方から全身に広がった気がした。
今までと同じ人が目の前にいるのに、自分の知っているその人は目の前にいないような違和感。
体裁はそのままに、じわじわと形骸化していく未来が見えてしまった残酷さ。
一気に失う絶望感と、どちらがより深いのだろうか。
祖母は今年84歳だ。
ダイアモンド婚。むしろ夫婦共々、ここまでよく元気でいてくれたと思う。
だが一般論とか数字で考えるのは他人なら簡単だが、当事者は辛い。
別におばあちゃん子だったわけじゃない。
初孫という点でも、従兄弟の方が可愛がられていたような気がする。
それでもそれなりの思い出も思い入れもあるんだ。家族なんだから。
「みんな見上げるくらい大きくなっちゃったから、わからなくなっちゃって」
まるでおばあちゃんは僕らが十年ぶりに来たかのようなことをいう。
僕らがおばあちゃんの身長を超えたのは、ここ2、3年の話じゃない。去年だって来てる。
どうやらボケると、新しい記憶から順に消えていっているようだった。
その上、更に新しい記憶は書き加えられない。メモリがショートした回路。
お話出来て、これ以上のことはない、本望だと思ったと。
あまりにも鮮明に話すものだから先週の出来事かと思った。20年も前の話だった。
その一方で、みんなが今朝起きて、そして挨拶をして帰っていったことを全く覚えていなかった。
「まだ上に誰かいるのかしら」
そう聞かれる度に、他の孫達がきちんと挨拶をして帰っていったことを何度も説明した。
ひどい時には、その孫達が来たことすら忘れてしまっているようだった。
もしかしたら、と思う。
僕が今日ここに来て、戸惑いながらも家事を手伝って、他愛のない話をして、
いつもと少し違う正月を、いつもと同じように楽しもうとしたこの一日も、
だとしたら、この人にとって僕らは今日ちゃんと一緒にいれているんだろうか。
ちゃんと一緒に、新年を迎えられたんだろうか。
「ごめんね、もてなすことも出来なくて…」
買い物を忘れたからと、夕食にインスタント麺とおせちの残りを用意していたおばあちゃんが言う。
家事を手伝う度、ボケでささいな迷惑かかる度に、何度も聞いた謝罪の言葉。
ほんとうに悲しそうな顔をするおばあちゃん。
きっとおせっかいなおばあちゃんは、自分が孫すらもてなすことの出来ない正月がみじめだったのだと思う。
「それでもよかったんだよ」 僕はそう伝えたかった。
でも何度言葉にしても、おばあちゃんは忘れてしまって、届かない。
自分の中で祖母の謝罪の言葉だけが、淋しげに今もこだましている。
寂しかったことがある
幼稚園に通っていた頃
駄々をこねた僕を自転車の後ろに乗せて、何件もはしごして、おまけ付きのお菓子を探してくれたこと。
もう一回お礼を言いたかったのだけれど、おばあちゃんは忘れてしまっていた。
嬉しかったことがある
そのことをおばあちゃんは、ちゃんと覚えてくれていた。
何度も何度も褒めてくれた。誇りだと言ってくれた。
なんでそんなこと覚えてくれてるんだよ…
久しぶりに、泣いた。
きっとどんな人だって、晩年は多くのモノは持っていないのだ。それは、思い出も含めて。
その時どんな物に、人に、思い出に、囲まれていたいだろうか。
そして何度話しても色あせることのない思い出話を、これからもっと作って生きたい。
折を見てまた祖父母に会いに来ようと思う。
趣味らしい趣味も持たず、働いて過ごしてきました。大切なのは、一人は死んでしまったけどもう一人は生き延びた息子と、女だったし最近ちっとも家に寄り付かないけど何はともあれ「初」孫の孫娘です。二人目の孫は夜遊びがひどいし、「おばあちゃんじゃなくて、お父さんのお金で大学に行かれたんだ」だなんて生意気を言うし、息子の嫁はなんだか気に入らない。体がうまく動かないから世話をさせているけど、長男の嫁なんだから当然だ。
父の話をします。
体が弱いからたばこはやらない、酒は最近少し飲むけど、すぐに酔うから本当に少しだけ。ギャンブルは父が身を持ち崩したから、母に強く禁じられている。女遊びもしない。父には(時代錯誤なことに)妾もいたけど・・・。
まわりは男だからって力仕事をやらせるくせに、やってやると方法が違うだの説明書を見ろだのうるさい。だったらお前がやればいいじゃないか。イライラすると物に当たってしまうけど、人を殴るよりいいだろう。疲れると気分が沈んで死にたくなる。それを言うと嫁はいやな顔をするけれど本当なんだから仕方がない。そういえば、嫁が一時期変な女につきまとわれていたけど、見ないふりをしていたらいなくなったみたいだ。男物ばっかり着ていた上の娘も、ようやく最近「まともな」「女らしい」服を着るようになってよかった。
母の話をします。
兄と弟がたくさんと、姉が一人います。両親もみんなも美人で賢い姉のほうが好きみたい。隣に並ぶと絶対に私が姉だと間違われるのが嫌。
お見合いをして、好きでもないしバレンタインチョコは「甘いものは苦手だから」って突き返されたけど、家業は安定してるし家の宗教が同じ人と結婚したら、姑のいびりはひどいし、夫には散らかすからって本を捨てられるし散々。跡継ぎにって生まされた一人目は姑と夫に取られて、これじゃもう私の子じゃなくてお父さんの子だ。うちの宝物だなんて言うけど、一人目だけでしょ? 二人目は初孫じゃないし女だからって何にも買ってもらえなくて可哀想。私が大切にしなくちゃ・・・。一人目の娘には、姑と夫がいるんだからいいじゃない。
中学に上がったら一人目の娘が化粧水なんて使いだして、ヤダヤダ。初潮のときにご相談した、同級生のお母さんにまた相談してみようかな。高校に入ったら今度は家の手伝いなんて嫌だとか言い出すし、かわいくない女!
どっちの娘が好きかって、そんなのどっちも大事に決まってる。本人たちにもそう言う。だって、嘘はつけないから。
妹の話をします。
母さん、おばあちゃんにはいじめられてこきつかわれて、父さんはいろいろ知らんぷりだし可哀想。姉さんは会うと会社の愚痴ばっかりで家のことなんて全然考えてない。大変なのは分かるけど、育ててもらった恩があるのに・・・。
会社が遠いから一人暮らしをはじめたけど、ちょくちょく実家に帰ってる。だって年に一回しか帰らなかったら、両親にあと二十回くらいしか会えないんだよ? そんなの考えられない。
おばあちゃんは差別する人だったけど、母さんは平等に育ててくれたよ。
私の話をします。
中学生のとき、妹を殺そうと思いました。高校生のとき、母を殺してやろうと思いました。二十歳になって、やっと自分が死のうと思って、だけど、後悔させるんだったら五年ぐらい遅かったなと思って、まだ生きています。
祖母は苦労した人だったし、父もいろいろ大変だっただろうし、母だってほんとうに頑張って生きてきた人です。何より私が金銭的な不自由なしに生きてきたのは彼/女のおかげです。そうして、彼/女なりに私を愛してくれていたんだろうと思います。私が大昔の些細なことを忘れられずにいるだけで。
私がいじめられていた中学生の時、学校に行きたくないと言った時。「転校する?」なんて言ってほしかったんじゃなかった。休んでいいよって言ってほしかった。
私が男物の服を着ていた時。「おかしいよ」なんて言ってほしかったんじゃなかった。似合わないだって良かった。まわりと比べる言葉じゃなければそれでよかった。
「お前は間違って生まれてきたんだよ」なんて言ってほしくなかった。
書かなかった恨みごともたくさんあるし、私が忘れている、私が悪かったこともたくさんあるでしょう。それに実際、私は本当にかわいくない子供でした。これを書いている時点で知れたことですが。
たぶん、私のするべきことは、いやだなと思ったときにそれをちゃんと伝えて、喧嘩になってもいいから真面目に話をすることだったのでしょう。隅っこで泣くより、今更知ったような顔をしてこんなエントリを書くより、怒ったほうがずっとよかった。会社だけは私を必要としてくれるだとか、残業時間が150時間を超えるよりも年始の帰省の方がつらいだとか思ってしまう前にできることはあった。でも、もう遅いね。
私は私が私であることを望まれたことなんて一度もなかったけど、間違って生まれてきてしまったけど、このまま生きていきます。
誰かに望まれることと、正しかったと言われることと、いつか神さまみたいな人が来て「お前は間違いだったんだよ、ごめんね」って言って私を消してくれることはもう諦めます。
いつか、私自身が私を、望んで生きていかれるようになれるといいなと思います。
実際に私が誰かにこんなことを言ったら、「育ててもらっておいて」「いい歳をして」と言われるでしょう。あるいは「あなたの家族は、ちゃんとあなたを好きだよ」か。そんなことは絶対に言ってほしくないんです。だからこれを書いて終わりにします。
それから、もしも死にたいと思っている人がいたら。こんな私がのうのうと生きているんだから、死ぬことなんてないです。
背中がかゆい。かゆくならないという人も居るけれど、むしろ自分は周りより少しかゆみが強い方かと思う。
ここに孫の手があったら、どんなに気持ちいいだろうか。
嗚呼、孫の手。背中を思う存分に掻ける幸せは、生きる意味の一端を担っているのかもしれない。
やれどこ産の竹が素敵だとか、やっぱり長さは重要だとか、掻きかたへのこだわりだとか。どうやらそれが普通らしい。
そんななかで、何故だかそういう話題に興味を持てない自分がいる。
むしろ、背中。何時からだとか、何故だとか訊かれたって、知らないし分からない。だけど気付けば、背中を目で追ってしまう。
あわよくば、掻きたい。爪なんてほとんど切ってしまって丸っこいから、竹や木でできた孫の手ほど気持ちよくはないだろうけど。
気持ちとしては、そう思ってる。
ここまではいい。
我々は、社会に生きている。
背中は孫の手を選び、孫の手もまた背中を選ぶ。選び選ばれた背中と孫の手には、手厚い保証制度だってある。
こうして社会は成り立っているのだ。
そういう人もいる、という知識は持っていた。だからこれも、そんなに変わったことではない。そう思って母に相談した。これまで愛情たっぷりに育ててくれた母に。
母は、絶望していた。
未だにあれ以上、ひとが絶望した、という顔は見たことがない。乏しい語彙力ではこんな表現になってしまうが、とかくこのような結末であった。
さて、どのように生きるべきか、そろそろ真面目に考えねばならない。
掻くべき背中を探すのはどうだろう。
まったく残念なことに、掻いてもよい背中にはさして特徴はない。事実、自分の背中だってそうである。
そしてこれまた残念なことに、「背中を掻きたい」とは公言しにくい社会である。
それを探すためには、何らかの仮面舞踏会へ行くことが手っ取り早い、というより他の方法など殆どない。
そこへ行く今一歩の勇気が、未だに出せていないのだ。
おまけに、自分はすっかり、背中を掻きたいことをオープンにしてしまっていた。
案外この世には同胞は多く、自分も恐らく沢山出会っていたとも思う。
さて、では隠していたいひとは、万 が 一 興味を持ってくれたとしても、自分に声をかけるだろうか? 考えるまでもない。
だから、孫の手を受け入れること、それ自体にはきっと何の問題もないのだ。
受け入れさえすれば、たぶん気持ちいいのであろう。
実際に背中にあてて動かせば、自分のまだ知らない魅力に気付くこともあるかもしれない。
また、オープンであるとは言ったが、未だに親戚筋には打ち明けられていないのだ。
かつて、この症状は病気と考えられており、そのため一定以上の年齢層はこの話を拒絶しがちである。
加えて、初孫の将来への期待はずいぶんと大きく、それを裏切ることともなってしまう。
無事にペアを組むことが出来れば、こんな懸念も吹き飛ぶのである。
ただし、そんな気持ちで選ばれた孫の手はたまったもんじゃないだろう。
背中、孫の手。どちらの魅力も理解出来る(後者については微妙なところだが)。
たまにお得と言われるこの特性を持ち生きるということは、あくまで一例ではある(重要)が、こんな感じである。
さて。
などと考えてみたが、どちらにせよ自分は最初にしなければいけないことをしていない。
自分の理想にうつつをぬかし、「相手から好まれる背中になる」という視点をすっかり欠いてしまっている。
まずは見た目に少し気を使ってみるか……なんて思いながら、今日も自分は、必死に手を伸ばして、自分の背中を掻くのである。ぽりぽり。
なんでこいつら結婚したんだろう?
先日実家に帰った際に、それぞれに言い分を聞けたのだが、より分からなくなった。
母はある時から突然「女としても見てもらえなくなって、そういうこともほとんどしていない」などという観点での愚痴も言い始めた。
実家でゴムを見つけたときも衝撃だったけど、そういう話を堂々とされるのもやだ。
ただこれでわかったのは、母は高卒で就職して24くらいで結婚してからなんとなくその辺の価値観は変化していないのだ。
浮気もしてこなかったのだろう。うちの家で母によく似た姉もそうだが、代々頼んでもないほどクソ真面目に思いつめるのが特徴だ。
だからかもしれないが、恋愛観が非常に幼いのだろう。結婚への価値観も。
ただパートに介護に家事に、ガキ夫の世話によく頑張ったと思う。早くいい環境になって、楽になってほしい。
一方父の方は、最近やっと思っているところをゲロってくれたが、
「思考停止して難しい契約ごととかになると全部俺を頼って来るくせに使い潰しみたいな態度で理解できねえ
金を出したりそういうことをして守っている関係性である以上、立場が上なのは俺で守られているのに態度がおかしい」ということを言っていた。
正直超引いた。
父親が金をかせいでくる間、母親は内部での調整に全力を注いでいたのだが、その家事労働やメンタル奉仕には何の評価もつかないらしい。
母は父を邪険に扱うこともあり、たしかに可愛げがなくみえるのかもしれない。
しかしそれは、母に言わせれば、父親が母親の「生活費が圧倒的に足りない」や「家のことをやっているから感謝してほしい」という訴えへの配慮がないからそうなった、というのだ。
上記のような母の言い分を父親がまるで聞かないのは、母親が感情的な話し方をして(父親からしてみれば)上手く説明できていないので、ほぼ「意味がわからない」で処理されているようである。
母親の感情の機微を察することがまるでできていない。多分似た勤務体系や家庭環境の方に対して、でもないと想像力働かないのだろうなあ。
そういえば、父からしたら「何を言っているかまるでわからない(のでなかったことになっている)意見の述べ方」について、父も何とか努力した気でいるようだった。
父は母を何とかしようとして、「意味がわからない」「論理的に何があったか話せ」と会社で聞いたとしたらクソとしか思えない『指示』を出したようだが、
それで何とかなるわけなかった。
父は母を一生アドバイスを聴かない思考停止女(しかも俺が守ってやっているのに可愛げがない)と思っているし、
母は、父を一生人の話を聞かない自己中尊大男(私が世話してるのに何の感謝もない、愛してくれない)と思っているのだろう。
お互い歩み寄ろうとした時期もあったらしいのだが、なんだか何にも功を奏しているように見えない。
ここ十年間くらいそういったストレスが脳みそのスペースを占め続けていて、しんどい。
母は父から何かを言われるかもしれないとビクビクするばかりで、そういう内容の電話を受けることだけは続けている。
酔って説教する以外のアプローチが父親にはないのだが、母はもうその時間は心の耳栓タイムだと言い聞かせつつ真に受けてメンタルをやられている。
不安障害というらしい。
怯えているのを隠して睨む母親に父が更に機嫌を悪くしている。
引き離してやりたいが母親は離婚は無理そう。。。。と2~3人に話を聞いたところであきらめぎみ。
住宅ローンがまだ残っているのが手痛い。
離婚後は、私が扶養に入れてあげるということも、案としては考えてるんだけど、正直めっちゃ嫌。
メソメソメソメソ、ごめんね私が悪くてといちいち言う OR 元気になると自分の言いたいことしか言わないし、やれば出来ることをできないと言い手を焼かせる…
外に友達作るの上手くないし、きっと私一人に全部の判断を任せたり依存していく。
あーああー母が自分で生きていくには自分で色々考えるしか無いんだってことにどうやったらきづいてくれるんだろう
父親はいつになったらテメーの飯は誰が毎日用意してたのか、感謝してこなかったことに後悔してくれるのかな
正直育ててくれたからありがたいけど、父母はどちらを相手することになっても超面倒。
姉が居るけど、姉はこういうときに図々しく私には家庭があるから無理と言って、
私に諸々押し付けるのがうまそうでいやになる。収入も姉のが少ない、と言われると。
でもそっち結婚したの次男だし正直面倒見てほしい。。。。男側初孫のようだからちょっとだるいけど。。。。
あと衝動買いで犬を4頭にまで増やしたことを父親は死ぬほど後悔してほしい
犬が可哀想すぎる 最低限しか面倒見れていないし 正直あんなメンタルやばい家に居るなんて申し訳ない
もう少しなんか解きほぐしたいな。。。。。。