背中がかゆい。かゆくならないという人も居るけれど、むしろ自分は周りより少しかゆみが強い方かと思う。
ここに孫の手があったら、どんなに気持ちいいだろうか。
嗚呼、孫の手。背中を思う存分に掻ける幸せは、生きる意味の一端を担っているのかもしれない。
やれどこ産の竹が素敵だとか、やっぱり長さは重要だとか、掻きかたへのこだわりだとか。どうやらそれが普通らしい。
そんななかで、何故だかそういう話題に興味を持てない自分がいる。
むしろ、背中。何時からだとか、何故だとか訊かれたって、知らないし分からない。だけど気付けば、背中を目で追ってしまう。
あわよくば、掻きたい。爪なんてほとんど切ってしまって丸っこいから、竹や木でできた孫の手ほど気持ちよくはないだろうけど。
気持ちとしては、そう思ってる。
ここまではいい。
我々は、社会に生きている。
背中は孫の手を選び、孫の手もまた背中を選ぶ。選び選ばれた背中と孫の手には、手厚い保証制度だってある。
こうして社会は成り立っているのだ。
そういう人もいる、という知識は持っていた。だからこれも、そんなに変わったことではない。そう思って母に相談した。これまで愛情たっぷりに育ててくれた母に。
母は、絶望していた。
未だにあれ以上、ひとが絶望した、という顔は見たことがない。乏しい語彙力ではこんな表現になってしまうが、とかくこのような結末であった。
さて、どのように生きるべきか、そろそろ真面目に考えねばならない。
掻くべき背中を探すのはどうだろう。
まったく残念なことに、掻いてもよい背中にはさして特徴はない。事実、自分の背中だってそうである。
そしてこれまた残念なことに、「背中を掻きたい」とは公言しにくい社会である。
それを探すためには、何らかの仮面舞踏会へ行くことが手っ取り早い、というより他の方法など殆どない。
そこへ行く今一歩の勇気が、未だに出せていないのだ。
おまけに、自分はすっかり、背中を掻きたいことをオープンにしてしまっていた。
案外この世には同胞は多く、自分も恐らく沢山出会っていたとも思う。
さて、では隠していたいひとは、万 が 一 興味を持ってくれたとしても、自分に声をかけるだろうか? 考えるまでもない。
だから、孫の手を受け入れること、それ自体にはきっと何の問題もないのだ。
受け入れさえすれば、たぶん気持ちいいのであろう。
実際に背中にあてて動かせば、自分のまだ知らない魅力に気付くこともあるかもしれない。
また、オープンであるとは言ったが、未だに親戚筋には打ち明けられていないのだ。
かつて、この症状は病気と考えられており、そのため一定以上の年齢層はこの話を拒絶しがちである。
加えて、初孫の将来への期待はずいぶんと大きく、それを裏切ることともなってしまう。
無事にペアを組むことが出来れば、こんな懸念も吹き飛ぶのである。
ただし、そんな気持ちで選ばれた孫の手はたまったもんじゃないだろう。
背中、孫の手。どちらの魅力も理解出来る(後者については微妙なところだが)。
たまにお得と言われるこの特性を持ち生きるということは、あくまで一例ではある(重要)が、こんな感じである。
さて。
などと考えてみたが、どちらにせよ自分は最初にしなければいけないことをしていない。
自分の理想にうつつをぬかし、「相手から好まれる背中になる」という視点をすっかり欠いてしまっている。
まずは見た目に少し気を使ってみるか……なんて思いながら、今日も自分は、必死に手を伸ばして、自分の背中を掻くのである。ぽりぽり。