はてなキーワード: 初孫とは
長子(一番上)
しっかり者で年下の面倒を見る皆のまとめ役。
反面、初めての子(初孫)な事から幼少期は過保護に甘やかされ、神経質で打たれ弱い。
下の子が生まれた途端目が向けられるのでその記憶がトラウマになる。
温厚な性格の人が一番多い属性だが、凶暴になると一番問題を起こすのもここ。
自分より弱い物が常に側に居るので、社会に出て自分より強い者の前ではすぐに挫折する。
親の決め台詞は「お兄ちゃん(お姉ちゃん)なんだから我慢しなさい。」
次子
観察力に優れている。長子の失敗を踏まえた育児を施される為、
賢く世渡り上手な場合が多い。要領がよく良好な人間関係を気づける。
逆にそれが長子には狡賢に見られがち。
口でも体力でも勝てない存在が常に居たので、自分より立場が上の者が気に入らない。
更に下に兄弟が居ると親の目が一番向けられなくなるので、ひねくれた性格になりがち。
ただ長子よりは神経質さはなく、悪く言えば大雑把、よく言えば大らかにもなる。
親の決め台詞は「弟(妹)なんだからお兄ちゃん(お姉ちゃん)の言う事聞きなさい。」
末っ子(一番下)
とにかく愛嬌がある。一番最後に生まれるので皆に可愛がられる愛され上手。
ただし、長子よりも周りからのチヤホヤ期間が長いので、ナルシストが量産される。
また、一番下でみそっかす扱いされる事が多く、自分が注目されてないと気が済まなくなる。
都合のいい時だけ可愛がられ、普段は除け者扱いされた事がトラウマで目立ちたがり屋。
親も育児に疲れ果てているので、一番手をかけずに持て余している。
自衛隊に技術や知識のない若者を集めただけでは、まったく役に立たない。
なので、徴兵しても意味がない、そういう意見があるがそれは間違いだと思う。
徴兵制を敷くことで、日本は一夜にして最低でも数十万クラスの兵力を確保できるはずだ。
これにより、政府は「現在の日本には100万の兵力がある」と、近隣諸国に宣言できるのだ。
実際のところ、徴兵で集めた若者の個々の能力なんかどうでもよい。数字だけでよい、それだけで大きな抑止力になると思う。
(受け入れるための基地がないとか、財源はどうとか、現実的なツッコミどころは満載だが、話を進める)
で、現在の日本において、現実的な有事とはなんだろうか? おそらく、近隣諸国との武力紛争なんかではないと思う。
地震や洪水、豪雨といった自然災害、それが日本の現実的な有事ではないだろうか。
なので、徴兵で集めた若者には、軍事的な訓練を施すことも大切であるが、それよりも防災に関わる教育や訓練をメインに施せばよい。
兵役を終えた若者の多くは、社会に帰ることになる。防災の知識、技術を持った若者たちがいれば、有事(災害時)に大きな助けになるはずだ。
災害から地域や家族を守る為の知識や技術が身につくことは素晴らしいことではないだろうか。
2、 戦争のアホくささが身に染みてわかる
在隊中、戦争状況を想定した訓練を何回も経験したが、実際はテレビや映画で見るような戦争状況とはまるで違う。
テレビや映画では、自分や仲間がどのような状況にあり、敵がどこまで迫っているのか、神的な視点があるが、
実際の戦争状況下では自分が一体何をやっているのか、まるで分からない。
直属の上官にここで穴を掘れと言われ掘る、歩けと言われれば一晩中歩き続ける、
よくわからないまま朝になり、とぼとぼ歩いていると、突然あなたはたった今戦死したと訓練の指導員に宣言される。
なぜ戦死したのか聞くと、肉眼では確認できないほど先にいる対抗部隊の敵戦車に撃たれたとのこと。
よくテレビなどで自衛隊の活躍を持ち上げられ、カッコよさを全面に押し出している感じを受けるが、実際には規律ある厳格な組織だ。
そこには個々の意見、感情なんか関係なく、命令しかない世界なのだ。
訓練であるが、徴兵されれば戦争状況を模した訓練を行う。若者たちにこれをぜひ一度でもいいから経験してほしいのだ。
実際に銃を持ち、雨に打たれて、重い装備を背負って歩き続け、先の見えない状況で疲労困憊になる。
私自身、訓練中に精神的な不安から軽い呼吸困難になったり、幻覚が見えたりする経験をした。
たとえ訓練であっても、戦争状況のつらさ、理不尽さを体験できることで、考え方に大きな違いが生まれるかと思う。
人から教えられた、本を読んで得た知識、それらとはまるで別物の考え方だ。
私は、自分の経験を元に自分で考え、戦争なんか、軍隊なんかアホくさいという考え方の結論に達した。
自身で経験し、考え、その結論に達した。人から教えられた、本を読んで得た知識から導き出した結論なんかじゃない。
もちろん、その逆の結論もある。ひとりの兵士として日本のために戦いたい、近隣諸国から日本を守る指揮官になりたい、
こういった考えを持ち職業軍人の道に進む、その結論に至るのも選択の一つだ。国のために貢献したい、その考え方もわかる。
現在の世界情勢を考えると、そのような考えに至る若者も多いだろう。
きっと今日の日本において義務教育だけでは、国のために何かしたいという考えには至らないと思う。
徴兵制度というきっかけによって、若者たちの考え方に選択肢が増えることは素晴らしいことではないだろうか?
3.戦友ができる
3つ理由と題した本稿であるが、ここまで読んでもらって申し訳ない、1番目と2番目の理由なんかどうでもいい、上記はただのノーガキである。3番目が最大の理由だ。
数年前、90歳近い祖父が亡くなった。その通夜のとき、見慣れない老人がやってきた。
話を聞くと、九州からの通夜を行っている関東まではるばるやってきたという。
祖父と同じ90歳近いおじいちゃんが新幹線に乗ってたったひとりで。祖父の訃報を聞いて、家族が止めるのも振り切ってやってきたそうな。
で、このおじいさん、大戦中は祖父と戦友で、九州の部隊で苦楽を共にしたという。終戦後も腐れ縁でいろいろとつるんでいたらしい。
祖父は、初孫だったら私の事もいろいろとこのおじいさんに自慢していたみたいで、見ず知らずのおじいさんが私のことをよく知っているという奇妙な体験をした。
先述のとおり、本稿を書いている本増田は、自衛隊の在隊経験者だ。ごく僅かな時間しか話さなかったが、このおじいさんの気持ちというか、意気込みというか、
祖父とこのおじいさんの関係とか、そんなことが私にはなんとなくわかった。私にも腐れ縁のような友というか、戦友がいるからだ。
軍隊とか自衛隊のような特殊な組織のなかで苦楽を共にすると、なんというか説明が難しいが、不思議な友達ができる。
それは友達といっても学校や職場の友達とはまるで違う。一生付き合うことになる戦友というか、親友ができる。
以上、長文ですまない。
先週、父方の祖父が亡くなった。
85歳、大往生だった。
大層可愛がってもらったものだ。
合うたびに私の写真をとり、
私が小学生になるまでは生後○○日なんて、
リビングに飾ることもしなかった。
当初は気に入らなかったかな?なんて疑問に思ったが、
すぐにその疑問すら忘れていった。
祖父が亡くなったあと、
足の悪い祖母について、祖父の事務整理に銀行に行ったときのことだ。
「お孫さんですね、おじい様には大変お世話になりました」
なんて、話しかけてくるのだ。
私は思い切って聴いてみた。
「あの、どこかでお会いしたことはありましたか?」
80近くなった祖父は、
その話しの間に必ず私の自慢話をしたそうだ。
「毎回ね、おじい様は『たまたまカバンに入っていた』なんて言って写真を見せてくれたんですよ。嬉しそうにね、初孫がこんなに立派に育ったなんて言って。本当に嬉しそうに。だから私はあなたの顔を覚えてしまったんですよ。」
台紙に張ったものをわざわざ銀行の人に見せるなんてことは出来ない。
けど、たまたま書類を入れていたカバンに入っていたなら、ちょっと話してもかまわないだろう。
そう思っていたようだ。
孫の成長した姿の写真を、
いつも自分の側にあって、
人に自慢出来るようにするために、
祖父は私の成人式の写真を台紙に張りリビングに飾らずにいたのだ。
祖母はなかばあきれたような、申し訳なさそうな顔をしていたが、
私は目頭が熱くなってしまった。
祖父がそこまで喜んでいてくれたのか。
私にもいつか子どもができ、
孫ができるようになったら、
仕事は大変だし、
そんな風なおばあちゃんになれるなら
今の日常も悪くないかな、
なんて思いながら家路についた。
夕焼けがとても綺麗な帰り道だった。
一人目の子供(長男)も連れて一緒に帰っていたので、俺は平日一人暮らし。
義実家は車で1時間半くらいの距離なので、週末は義実家へ通っていた。
俺は久しぶりの独身生活を満喫していた。
家に子供がいると、なかなか飲みに行ける機会もないため、ここぞとばかり色んな人を誘っては飲み歩いていた。
しかし、週末を義実家で過ごしているとき、漠然とした不安が湧いてきた。
妻が入院している期間、義両親と長男の3人で暮らすことになるけれど、果たして大丈夫なのだろうかと。
義両親は初孫である長男に首ったけで、可愛がりはするものの、甘やかすばかりで、全く言うことを聞かせられない。
お風呂に入れることも、歯磨きをさせることもできないのだ。
俺はまとまった休み(といっても3日)をとり、義実家で暮らすことにした。
長男は母親がいない寂しさをもてあまし、俺にべったり甘えてくる。俺が横にいないと、夜、寝付くこともできない。
さらに、以前から薄々感づいていたことだが、義実家は料理のレパートリーが少ないという問題もあった。
そのため、長男は、毎日同じもの(好物の卵焼きとウインナー)を食べていたようで、俺が一緒に暮らす頃には、好物ですら食べ飽きたのか、デザートしか食べないという状態にまで陥っていた。
俺自身も、3日しか過ごしていないにもかかわらず、代わり映えしない毎日の食生活に飽きてきていた。
さすがに、これはマズイと俺は思った。
当初の目論見では、あと1ヶ月は華の独身生活を満喫する予定だったが、このまま長男を義実家に預けるとロクなことにならないのは火を見るより明らかだった。
それに、妻が退院して義実家に戻ってきたとしても、結局、妻が二人の子供の面倒を見る羽目になることも容易に想像がついた。
もはや、選択の余地はなかった。
俺は妻とも相談し、長男を自宅へ引き取る旨を義両親に申し出た。
義両親は驚いていたが、反対はされなかった。きっと、義両親も不安でいっぱいだったのだろう。
里帰りのため一時休園していた保育園に、明日から再登園する旨を連絡し、帰宅した。
飲み会の約束をしていた先輩や同僚たちには事情を説明し、すべてキャンセルしてもらった。
その日の夜、麺類が好きな長男に海老とキノコの豆乳味噌クリームパスタを作って、一緒に食べた。
あれから1週間。
長男は家にお母さんがいない寂しさを抱えながら、それを声に出すことなく、健気に保育園へ通っている。
それにしても。
世のシングルマザー、シングルファーザーがどれほど大変な生活を送っているかが、肌身に染みた。
そんな中で遊んでくれとせがむ長男の相手をしなければならない。
毎日、目の回るような忙しさだ。
会社へ着くと本当にホッとする。
とはいえ、少しずつつではあるが二人暮らしの生活リズムが掴めてきたような感覚もある。
今までお母さんにべったりだった長男との距離も随分縮まったように思えるし、あと数週間、頑張ろう。
乾物屋を商った東北出身の父は婿養子で、ただ寡黙に働くために生まれてきたような男だった[1]。男ばかり3人兄弟の長男[1]。初孫だったために粋人の祖父に溺愛され、小学生のころから浅草で酒の味や映画、演芸の享楽を仕込まれた[1]。
早稲田大学第一文学部[2]在学中は映画監督を志し、「稲門シナリオ研究会」に入った[1]。大学卒業後、主に子供向けソノシート制作などを手がけていた音楽出版社・勁文社に入社。1971年12月、自ら編集を手がけ発行した「原色怪獣怪人大百科」がこの当時の第二次怪獣ブームを受け、53万部を完売する[3]という当時としては画期的なベストセラーになった[1]が、労組を結成したため1年半で解雇された[1]。その後、フリーに転身[1]。
1997年(平成9年)、民俗学者宮本常一と渋沢敬三の生涯を描いた『旅する巨人』により第28回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。2009年(平成21年)、『甘粕正彦 乱心の曠野』により第31回講談社ノンフィクション賞受賞。
2003年から2012年まで、開高健ノンフィクション賞選考委員を務めていたが、週刊朝日による橋下徹特集記事問題で辞任した。
この橋下事件をきっかけに、佐野による数々の剽窃行為が明るみに出され、溝口敦・荒井香織『ノンフィクションの「巨人」佐野眞一が殺したジャーナリズム 大手出版社が沈黙しつづける盗用・剽窃問題の真相』(2013年、宝島社)の中で盗用問題の詳細が検証された。溝口はまた、佐野からの直筆の詫び状をインターネットで公開している[4]。
2013年7月31日、著作権を侵害されたとして日隈威徳から訴訟を起こされた[5]が、2014年10月16日に和解が成立した[6]。
2015年2月18日、大阪地裁における裁判で、大阪維新の会総支部長の橋下徹に対して、「タイトルをはじめ記事全体が差別的で、深くおわびする」との「おわび文」を渡し、解決金を支払うことで、和解が成立した[7]。
以上パクリ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E7%9C%9E%E4%B8%80
ただの好き嫌いの話で、長い思い出話。
思い出話で恥ずかしいから、特定されないように細かいことをごまかして書いた。
長えよ、と言われる前にまとめると
「ただの長い思い出話で、宗教が原因で好きな景色が無くなったから、俺はこの宗教が嫌い。」
というだけの話だ。具体的な宗教名は書かない。
六月になると亡くなった祖父を思い出す。祖父が亡くなったのはずっと前の年の瀬、来年は会えないかもと入院中に見舞ったのが最後になる。
田舎に住んでいた。両親は同じ地域で出会い結婚したので、母方の実家もチャリンコで必死に行けばたどり着く距離だった。車では20分くらいか。
思い出す祖父というのは母方の祖父。母はパートがあったので、小さい頃は週の半分以上、学校から帰ると姉と一緒に預けられていた。
その頃は祖父との思い出はあまりない。働き者だったので、俺と姉が預けられるとすれ違いで仕事に行ってしまう。あとから聞けば介護施設のボランティアみたいなことをしていたらしい。祖父が出勤前、早めの夕食をとる食卓で、俺と姉が一緒に座って、その日の出来事を喋ったりしていた。たまに仕事のない日には、ご機嫌、というかんじでビールを飲んでいた。この家は小さな商店だったので、好きなジュースを選んで良いぞと言われて、俺たちは普段の食事時には飲めないジュースを喜んで飲んでいた。
もちろん遊んでくれた記憶もある。夏休みはクラスでただ一人乗れていなかった自転車の特訓に付き合ってくれた。川で泳いだりとか。姉ちゃんと喧嘩して両成敗でゲンコツとか。
母方の実家、小さな商店をやっている、ややこしいのでA家としよう。
A家に頻繁に預けられたのは小学生の頃で、中学高校と成長するとそういうのは無くなった。
頻繁に預けられたA家は、よくある、たまに帰省するじいちゃんばあちゃんち、になっていった。
祖父はある病気になった。不調を誤魔化しごまかし過ごしていたのが、発覚したというか。A家の家の中は帰省するたび介護向けに変わっていった。母の兄弟、俺の叔父の趣味が日曜大工だったので、楽しい変化だと思ってた。(おっちゃんスゲー!階段つけ直したの?!みたいなかんじだった)
手すりが付く。急な階段は段数が増える。トイレが洋式になる。手すりが増える。掘りごたつからテーブルになる。布団がベッドになる。自動で昇降するベッドに変わる。喋れなくなったのでナースコールのボタンが付けられる。指先で押せなくなったから顔の横にボタン。
じいちゃんはどんどん悪くなる。ばあちゃんのやっている介護は、自宅介護でそんなことするんだ、というくらいプロみたいな作業までこなしていく。詳細は省くけど、いま思い返すとあんなことを無給で、かつ無休でやっていたのは驚く。もちろん医者やヘルパーさんが来てはいたけれど。
中学の後半くらいから、俺はデジカメを触るようになって、ホームページを作って風景や花の写真を載せていた。季節ごとにA家に顔を見せる程度の帰省をしていたので、A家の裏の田んぼだとか、家の軒先にあるバラだとか、そういう写真を撮った。本当にきれいだった。通り雨のあとの、雫が付いた葉っぱとか。俺には写真の才能があるんじゃねーのかと、進路相談の時、ニヤニヤを隠しながら担任に見せたら、景色やバラを褒めるので、あ、俺じゃなくて被写体がよく出来てるんだな、と気付けた。(担任も良い趣味だね、とだけ言う程度のレベル)
それでも見せれば褒めてくれる祖母にプリントアウトして渡した。次に帰省すると写真立てに入れてあって、寝たきりの祖父が見るテレビ台の横に飾られていた。
正直に言うと、帰省してもすることが何もない田舎の家で、あんなに元気だった祖父が寝たきりの様子を見ていたくなかったから、理由をつけて外を散策するために写真撮影を趣味だとしたんだった。そんな写真を、飾っている。申し訳なく思った。
大学に進学して実家を出た。一年に一度か二度、実家に帰省するついでにA家にも顔を出す。時々A家ではなく病院だった。
大学二年の頃だったか、帰省するとバラがなくなっていた。A家は小さな商店かつ小さな農家でもあったが、家の裏手、裏庭のようなスペースはすっきりとなにも無いような、更地というほどじゃないけど、なにも、なかった。
母に尋ねると、手入れがねぇ、みたいな答えで濁す。そりゃあ、あんなに大変な介護だ。仕方ない。でもどうしても寂しい。友達が知らぬ間に引っ越していた、という感覚が近いかもしれない。A家の周りががらんとして、入院しているため家の中もがらんとしていた。窓の外から見える裏庭みたいな農地の緑がない。小さなぶどう園は支えの柵だけになっていた。姉は俺よりは多く帰省していて、草花を刈った話は聞いていたらしいが、目の当たりにしたのは初めてらしく、ショックを受けていた。というかちょっと泣いていた。俺よりずっと思い入れがあったらしい。その時まで知らなかったが、初孫である姉が生まれた年に植えた木があって、その木までも全部なくなっていたのだ。
それから数年も経たないうちに、祖父が亡くなった。小学生の時、きげんよく晩酌していた祖父に○○ちゃんが大きくなったらこれを飲もうなと言われた。俺は本当に未成年のうちに酒を飲んだりしなかった。でも成人したところで、祖父は寝たきりだったし、普通の食べ物すら食べられない状態だった。
葬式が終わって、A家から実家へ帰った。親戚が父と俺と姉を車で送ってくれた。母はA家に留まった。父は禁煙していた煙草を吸いながら、運転手をしてくれた親戚のおばちゃんとコーヒーを飲みながらぽつりぽつり喋っている。姉はその輪の脇で黙って座っている。俺はすぐにでもスーツを脱ぎたかったが、とりあえずその部屋からは出ないでおいた。葬儀のあとの食事?宴会?で、これでもかと酒を飲んだので、半分寝ながら部屋の隅にいた。従兄弟が下戸で、その分まで飲んでたからほんとフラフラになりつつも、みんなまだ着替えないから着替えちゃ駄目とかそういう決まりがあんのかなと寝そうになりながら携帯をいじる。
変な葬式だねとか、やっぱり○○だねとか、そういう話から、姉も会話に加わる。
「たぶんね、そういう仕組みはよく知らない」
「○○の木を切れって言ったのあいつなんだ」
なにそれ。俺は隅っこで携帯をいじってたけど、思わず声になった。
祖父が寝たきりになってから数年して、仏壇の雰囲気が変わった。その頃俺は中学とか高校くらいのガキなんでよく分かってなかった。いまでも詳しくは知りたくない。
有名な、ある宗教だ。この長い思い出ばなしはこの宗教が嫌いだと言うだけの長話だ。たんに俺の好悪の話なので、具体的な名称は伏せる。
経緯は分からないし知りたくないが、浄土真宗だとかのいわゆるよくある宗教から、その宗教に変わったそうだ。祖父が寝たきりになったところにつけ込んだような気がしてしまう。
祖父が患ったのは国の指定を受けるような難病で、そんな夫と共に生きるためには、新たな宗教は必要なのかもしれない。それは仕方ない。祖母が生きるためには必要だったはずだ。
その宗教の、導師さまとかいう地位の人が、A家に来てくださって、アドバイスをくださったらしい。
伝聞の伝聞くらいのことしか俺は知らないため正確にはどう言ったか分からないが、そいつは、A家にある緑が祖父の生命力を奪っていると言った。
だから草花を切りなさいとまで言ったかは知らない。じゃあ切らなきゃねと祖母が感じただけかもしれないが、そいつはそんなことを言って、次にA家へ来たのはじいちゃんの葬式の時だけ。
俺だって、風水で西に金色のものを置くと金運アップと聞いたらなんとなく西に金色を置きたくなるし、ラッキーカラーは青ですなんて言われたらメモを取る時のペンを青にしようかななんて思う。ただ俺の機嫌がよくなるだけだ。その程度でいい。
祖父は、ALSだ。筋萎縮性側索硬化症。根本を治すような、有効な治療は確立されていない。指定難病だ。
導師さま曰く、祖父の健康を吸い取っているのは、ぶどうの木や、小さな露地栽培の野菜、姉の生まれ年に植えられた木、雨露がかかると一層美しいバラたちだそうだ。
腹が立つというより、呆然、というかんじだった。
A家周辺の景色や、草花の写真がきれいに撮れたから、嬉しかった。ばあちゃんも褒めてくれた。寝たきりのじいちゃんが見るテレビ台の所に飾ってくれた。姉ちゃんが泣いたくらい思い入れのある木。いろいろある。いろいろあった。
祖父が亡くなって一人になった祖母は、田舎の狭いコミュニティの中で孤立したりしなかった。宗教のおかげだ。会合に参加したり、そこのひとたちとバスツアーで旅行に行ったり。それだけは、よかったと思う。
それでもあの宗教は、嫌いだ。祖母も草花を刈ることで病気になにか影響すると真に思っていたのではないと思う。俺の撮った写真だけでなくほかの人が撮ってくれたバラの写真も残していたし。本当に病状に関わっていると信じていたら、写真すら残さないと思う。
祖母も亡くなり、何年も前から、このA家にまつわる話をぼんやりと思い返しては、増田にでも書こうかなあと考えていたが書き切れたことはなかった。
五月や六月の、バラがきれいな時期になるとどうしても書いておきたくなった。
あんなにきれいな景色が寝たきりの祖父の生命力で育っていたらロマンチックだ。ファンタジーだ。ふざけんなあり得るか。
先日、姉が結婚した。なにか特別に贈ろうと写真のデータを見返していたら、姉と同い年のあの木が写った、緑豊かな写真があった。あげたらすんげー喜んで泣くから俺も泣いちゃったよ。
じいちゃんもばあちゃんも大好きだ。病気はどうしようもないし、ばあちゃんの選択は過ちではない。必要だった。生きる上で、大切な指標で、手段なのだろう。
大したこっちゃねえが、長い事この稼業で食ってるけど昨日のは流石に初めてだったのでまた書く。
50後半~60過ぎくらいの老婦人。
「(またかよ戌の日過ぎたってのにやけに多いな)ではご住所からお願いします…はい。それではご家族のお名前を」
「〇〇〇〇、〇〇〇〇、〇〇〇男」
「…はい」
不意打ち。長い事祈願受付やってるがさすがにこの奇襲は初めてだったのでちょっと笑いかけた。危ねえ。
「…すみません、奥様」
「あ、息子じゃなくて、息子の嫁です……〇〇〇子」
「はい(家族構成からすると初孫ってとこかねえ)それでは予定日を…」
ま、実母からすれば「もうすぐ息子に子が生まれる!」って気持ちなんだろうな。
でも息子が安産するわけじゃねえから。恐らく初孫だろうが落ち着け。
それと同様に、とても多いのが、以下のような申し出。
こちらは本当に多くて、何度も耳にした。
「〇〇〇〇、〇〇〇〇、〇〇〇太(全部苗字同じ)」
「はい」
「…あと、〇〇〇太が息子なんですけど、子宝祈願をお願いします」
で嫁の名前言わないと。
いや、このままだと情報足りなくて、息子が妊娠するように祈願するしかねえんだけど…。やだよそんな人類未踏の試みへの挑戦。
あるいは、若い夫婦が二人連れでやってきて、二人の名前を告げてから、にこやかになごやかに、旦那の名前で子宝祈願をお願いする場合もある。
いや妊娠する奴違うだろと。
お前が孕めよと。
お 前 ら そ ん な に 息 子 や 旦 那 を 妊 娠 さ せ た り 安 産 さ せ た り し た い の か
と。
まあ平和って事か。
元文がかなり改行を省いたにも関わらずそれでも長いので、自分の考えたことをあまり長々書き加えても誰にも読んでもらえないのではないか、全部引用記号で括ったら文字が小さくて(rなのではないか、といろいろ考えたあげくあの形式で載せるように決めたのだけど、それが徒になったらしく(話題になったのは有り難いが)中絶の是非だの中絶に関する女の自己責任だのどんどん明後日の方に話が飛び火して、もううんざりしていた矢先にこの文章に出会えて心底有り難いと感じている。
あの後あまりに反響が大きかったので、もう少し自分の思う事を書き加えてみたいと考え、男女逆に書き換えたもの
(例えば「うちは女の子で良かったわ〜、男の子は馬鹿で乱暴だし、犯罪者のほとんどは男だし、将来ニートや気持ち悪いオタクにでもなられたら最悪よね」のように、女の子の親の集団に馬鹿にされて傷ついた男の子の親の悲しい気持ち、一部の酷い男のせいで自分まで犯罪者予備軍のゴミと思われ傷つくまともな男性が感じる理不尽)
などを長々書いてやっぱりウザいかと消したりしていたのだけど、投稿しないで正解だったと朝起きてからのブクマとトラバの数を見て思った。
「自分の血を引く最初の我が子を軽はずみな気持ちで作り殺した事実」も「自分の血を引く我が子が、初孫を軽はずみな気持ちで作り殺した事実」も、およそ世間においてイメージされる「一般的な中絶」という事象においては、性別関係なく永久に存在する事実だ。
なのに女のそれだけが憎むべき人殺しとして袋叩きにされ、男のそれは「金払うなり逃げたりすればチャラ」酷い場合は武勇伝として吹聴される事すらある。大量についたブクマ・トラバの意見の一部を見ればわかるように、この異常な不均衡をやすやすと許す空気は決して珍しい事ではない。
まあ、自分の引用のやりかたのまずさが大いに災いして、元増田には引用趣旨の誤読を含めた様々なご意見を頂く事になったわけだが、仮に大本の記事がフィクションだったとしても、これらの反応の存在が同一/類似の事象の存在を裏付ける何よりの証拠になったと思っている。
妹は同性愛者である。俺がそれを知ったのは、妹が大学を卒業した頃だった。
妹から「会って欲しい人がいる」と言われ、てっきり結婚相手を紹介するのかと思っていたら、いや実際本人にとっては結婚相手も同然の人なのだが、そこに居たのは同年代の女性だった。
母には自分から直接伝えるまで内緒にして欲しいと言われたので、実際にその通りにしていた。
それから1年ほど経過し、妹は意を決してパートナーとともに実家を訪れ、母に告白した。
しかし母は早い時期から事態を把握していた。やはり親というものは何でもお見通しなのだろうか。
「初孫はあんたの子だと思ってたんだけどね…」と、力なく、諦めたようにぼやく母の姿に、むしろ妹とパートナーが揺さぶられたようだった。
俺を含めた四人は、微妙なぎこちなさを払拭できないまま食卓を囲み、その日は解散した。
それからしばらく後、妹のパートナーから二人きりでの相談を持ちかけられた。
彼女(妹)は実家での一件以来、母親を落胆させた事をよりいっそう悩むようになった。
それと同時に、出産や育児を強く意識するようになった。そして今だから言うが、自分(パートナー)は子供が産めない体だ(これは俺はこの時点で初耳)。
子供をもうけたいという彼女(妹)の願いを叶えてあげたいが、しかし肝心の相手をどうすれば良いのか見当も付かない。
彼女(妹)の子供は自分の子供にもなるのだから、自分としても納得のいく相手を望んでいる。
そして最近、彼女(妹)は相手として貴方(俺)の名前を出すようになった。私も悪くないと思っている。というよりも、私たちが共通して信頼関係を築いている男性は現状貴方(俺)しかいない。
しかし彼女(妹)は倫理的な面から言い出せずにおり、このまま見知らぬ男と妥協するよりはと思った私が独断で貴方(俺)を呼び出した次第だ。
眠くなったので続きは明日以降に
自分大好きで稼いだお金を自分たちで使うのが大好きな娘夫婦がようやく子供(女の子)を産んだ。
初孫だったし、私に娘は一人しかいないから可愛いし、面倒もたくさん見るつもりだった。
娘の方は時短も使えるそうだが、仕事のほうが大事だから嫌だと頑として使わない。
娘婿の方は無論そんなものはない。
産休育休も取れる環境にいるのに「私が居なくなったら他の誰かがその仕事を取る。そうしたら私は戻ってきても居心地が悪いだけ。負けたくないから嫌だ。」と最短の日数だけ休んで正社員として復帰していった。
娘夫婦の家は私達の家から歩いて十分程度ととても近いので、最初のうちは朝孫を預けに来て、夜に子供を迎えに来た。
しかし、孫が一歳になる頃には「いちいち子供を移動させるほうが子供には負担でしょ。寝かしておいて」と平日は迎えに来なくなった。
そうやって気がついたら一週間、二週間と娘は来なくなり、
孫はもう三歳にもなった。
保育園に入れようかと言ったところ「お母さんが送り迎えできるんだから幼稚園に入れてよ」と答えられた。
幼稚園に通うようになったが、送り迎えも弁当作りも何もかも私達の仕事。
一ヶ月に一度くらい現れて、食費やもろもろのお金を渡してくれるのだけど、
来るのがいつも深夜なものだから、孫は娘の顔はほとんど見ない。
30過ぎても遊びまくっていた娘を叱りつけ、孫を産まなきゃ絶縁だと言い放ったが、
その売り言葉に買い言葉で娘は「産んでやるけど育てない。そこまで言うなら育児は全部やって。私の人生の一年なら犠牲にするけど、残り何十年も無駄にするつもりはない。」と言い返した。
無理やり子供を産ませたツケは、私が払わなきゃいけないのか。
それ以前に娘の育て方を間違えた、そんな私がまた育児をしなきゃいけないと思うと孫に申し訳ない。
孫は本当に私のことをお母さんのように慕ってくれて、パッと見老夫婦に育てられている娘に見える。
本当に娘の人生は一体何だったんだと後悔する日々だ。
小5から今まで(もうすぐ高2だから、大体6年)ほぼ毎日ネットしてた阿呆。
6年という時間が短いか長いかは人それぞれで変わるだろうが、自分の中ではまだまだ短い。
インターネットとは何か。納得できる答えは、いつまでたっても見つからない。逆に、6年では答えが出ないということが分かった。
短いとは言っても、6年かけて貯めた経験値は自分にまぁまぁな自信をつけた。
例えば、初めて手を出したSNSがLINEという友人(今じゃぁ普通に見られる光景)がいたとして、ローマ字入力もキーボードも情報の時間以外触らないもんだから、短く簡潔にやや遅くちょっと素っ気ない文でリプライが返ってきた時に、あぁかわええのぉ、と、大人ぶった上から目線でその友人と接することができる。勿論、友人はイラつく。
で、数日して、顔文字辞書なんかいれちゃったりして、崩れまくったAAなんかコピペしたりして、ちょっと自信有り気にメッセージを送ってきた日にぁ、初孫が初めて家にやってきた子煩悩ジジィのように愛でて、さらにイラついてる友人を撫で撫でしながら優越感に浸る。
と、まぁ、ネット歴6年の成果といえば、意地汚い優越感と自己中心的な幸せくらいだろうか。
自分は、はてなブックマーク・スペース・ブログもやるし、YouTubeもニコ動もUSTREAMも見る。TwitterにtumblrにGoogle+に(Facebookはやってない)mixiやGREE、もちろんLINEと、大手SNSの殆どを試してみた(殆ど飽きた。tumblrだけ続けてる)。オンゲも幾つかやってるし、もちろん思春期の男子ですから、FC2やxvideosも・・・。
また、自分は一切触れたことは無いので省略したいが、例えば会社が構築したネットワークを介してファイルサーバーにアクセス(適当)とかも、一応ネットである。ネットと聞いて真っ先に思い浮かぶものがそれの人もいるだろう。だが、「小5から今まで」自分がやってきた「ネット」について「思ったこと」を書くスタンスなので、ここではあまり考えたくない。
上記したサービスは自分がこれまでやってきたネットの一部だが、それらは自分にとって娯楽であり趣味であり暇つぶしである。そして、その殆どに実用性なんてものは存在しない。一介の高校生である自分には、不必要なものばかりだ。まぁ、毎晩のようにお世話になっているサービスもあるが、それはそれで、悪友から借りたエ○本を読めば良いだけで、今の時代だと十分実用的な漫画が普通に売られてたりする(某ダークネス)。
思いっきり省略したけど。
ここまで書いてきて最終的な結論が、6年やってきて思ったこと=最近ネットつまんない、とは、阿呆丸出しなのは重々承知の上。ネット自体が変化したのか、自分の現実のほうが面白くなってきた証なのか。きっと後者でしょうけど、つまんないと感じてる人は他にいないのか?淡いが、無駄に補色なもんだから目立ってしまっている期待を胸に、ふらふらと辿り着いたのがここ。見せかけの匿名は、自分が小5くらいに問題となってたことだから、どこか懐かしさを覚えて選んだのかもしれない。
「小5から今までネットやってき」た少年が、結構素直な気持ちで書いた日記。純粋過ぎる心で書いたせいか、読みづらい文になってしまった。
6年やってきて思ったこと、というより、6年やってきた少年が最近思っていること、になっている。この日記自体が、思ったことを伝えようとして、うまくまとめられなくて、失敗した結果だと思えば、表題の答えも自ずと現れるのではないかと、暇人に丸投げにして、夕焼の綺麗な空を眺めながら散歩でもしよう。
私には古くからの知人がいる。私用で久しぶりに遇い、互いにプライベートな話にも花が咲いた。
お互い我が子も社会人となり、そろそろ所帯を持つか、初孫の顔を楽しみにするか、という時期である。
が、知人の顔色は優れない。いささか酒も入って饒舌になっていたのもあり、何なら相談に乗るぞと持ちかけると、知人は「実は」と切り出した。
知人には娘がいる。名の知れた大学を卒業し、社会人となって数年。気の早い親ならばそろそろ「良い人」の一人や二人を期待する頃合いである。
が、今現在、知人と娘さんの関係は「ほぼ絶縁状態」だという。奥方とは連絡は取り合っているようなのだが。
事の成り行きはこうだ。
少し前、娘さんにも縁談の話が持ち上がった。父親である知人と同年代の私が言うのもなんだが、娘さんは気配りの利く、嫋やかな女性である。
あわよくば私の長男の所へ来てもらえまいか…などと夢想していた事もあった。
脱線した。結論を書く。この縁談、知人の軽はずみな言動が原因で破談となってしまったのだ。
二度目か三度目の、お相手の男性、娘さん、知人夫婦と四人揃ってのレストランでの事だったという。男性のご両親は遠方にお住まいだが、関係は良好だった。
そこで知人が口走った事は、ひいき目に見ても相手の激昂を誘うような言葉ではなかったと、今も私は思っている。
しかし、お相手の男性は違っていた。男性は一万円札をテーブルに数枚置いてさっさと立ち去ってしまったのだという。
後に残るのは、突然の事態に追いかける事すら忘れ呆然とする知人夫婦と、泣き崩れる娘さんの三人。それ以後、お相手の男性とは断絶状態。携帯電話まで解約されているらしい。
何と不幸な出来事であろうか。娘さんを溺愛していた知人のお眼鏡にかなう人物だ。きっと身持ちのしっかりした好青年であった事だろう。
私に娘は居ないが、手に入りかけていた我が子の幸せを、自らの不注意で駄目にしてしまったのだ。どれほど不幸な出来事であるかは想像に難くない。
背広姿でごった返す週末の安酒場で、人目もはばからず号泣する知人をなだめつつタクシーに押し込み、その日はお開きとなった。
前置きが長くなった。ここからが本題だ。
後日、仕事の関係で、若者の文化や価値観などを長年調査している大学の先生のお話を伺う機会があった。
せっかくなので、私は前述の出来事を(知人や娘さんの名誉のために各所をぼかしつつ)話してみた。
頭の固い私は「キレる若者」的な反応を幾分予想していたのだが、「ここ数年、温厚で理性的な人ほどそういう傾向がありますね」と、先生はこともなげに答えた。
「特にデスクワークが主な非正規労働に就いている若い人というのは、現状の人間関係や仕事にしがみついたり、周囲の反感をいとわずよかれと思った事をする、という価値観が希薄な傾向があります」
何故なのか。
「非正規労働者は、雇用側が必要無いと判断された瞬間に切り捨てられる存在です。労働法規上は色々と制限はありますが、残念ながら現状機能していないに等しい。法改正もあって、そういうワークスタイルに慣れている、もしくは、社会人になった当初からそういうワークスタイルしか知らない若者が近年激増しています。つまり、切られる事に最初から抵抗がないどころか、上の都合であっさり切られるのが当たり前になっているのです。そのため、自らもまた、些細なことで人間関係や所持品を切り捨てる事に抵抗がないのです。近年スマートフォン等による独特なコミュニケーション文化が若者に人気なのも、『いつでも捨てられる安心感』に満ちた道具に見えるからなのではないでしょうか」
思い当たる節がある。知人によれば、前述の男性は、特に感情的になった様子もなくその場を去ってしまっていたという。そして彼は、ちょっと特殊な技能に長けた、年単位で勤める会社を変えている人だった。
私には、6歳年下の末弟が居ます。
そこそこ高いレベルの高校に行ってたんですが、高校一年生のときに同級生の友達と自販機荒らしをして警察に捕まり、退学になりました。
その後、母親がどうしても「高校だけは出ておけ」と、通信制の学校に通わせました。
母子家庭で、当時働き手が母と私しかいない家庭で、お金さえ払えば高校卒業の資格がもらえるようなところに再入学させるのは本当に苦しかった。
でも結局末弟は何とか卒業したもののマトモに就職もせず、バイトがてらにはじめた水商売を本業にして、当時付き合っていたキャバクラの女の子と地元を離れ、長らく大阪でホストクラブの雇われ店長をしていました。
水商売にも疲れ、身体を壊し、再度地元の土を踏んだのは3年前。
戻ってきたときには付き合っていた彼女と結婚していて、先日子供も生まれました。
昨日「一昨日生まれたよ!」と私にメールがきて、おめでとうと話をしたところです。
しかし、ウチの母親は末弟に子供が生まれたことを知らせてもらえていません。
不幸自慢ではないのですが、ウチの母親は大分情緒不安定でお酒が欠かせなくて、人とのコミュニケーションもへたくそです。
私も長男も末弟も、酔っ払った母親に友達を罵られたり、母親が突然自分の友達の親に電話をかけて「あんたの子供と付き合うようになってからウチの子供はおかしくなった」と言いがかりをつけたり、異常なレベルで行動を監視したり、持ち物を漁られたり、子供を奴隷か何かと勘違いしているフシなどありました。
特に末弟は幼いころから身体が弱かったため、何度も死ぬような目にあい、母親は「今度死にかけたら私と死のうね」と、高熱を出すたびに諭していたほどです。
この親のそばに居たら頭がおかしくなる。
この親は普通じゃない。
早く逃げろ、早く遠くへ行こう。
幸い兄弟同士は仲が良かったため、みんなで母親を無視していました。
兄弟各々成人してからは早々に母親の元を離れて暮らし、彼女の存在をなかったことにしていました。
正直、普通の母親とは言いがたかったウチの親ですが、年齢を重ね、そして私も年齢を重ねることで、許容できることが増え、今ではある程度の距離さえあれば会話も出来るほど拒絶感も薄れてきました。
旦那も子供は望んでおらず、私自身も積極的に欲しいと思っていないため、末弟の子供はウチの母親にとって初孫。
普段から「末弟は高熱ばかり出したから子種がないはず、孫の顔は見れないだろう、私が生きているうちにアンタ(私のこと)が子供を生んでくれたらいいのに」と、勝手なことばかり言っている母親にとって、本当は孫が出来たときに話して欲しかったでしょう。
でも、それをしてもらえませんでした。
彼女は末弟にとって、今でも異常な、自分の子供に合わせるのも恥じるような存在だからです。
だけど、自分も人の親になったのだから、筋を通すべきところもあるはずです。
好き嫌いだけで、一番最初をしくじってはこれから関係が悪化するだけで改善なんかできっこない。
人生楽しく、みんなに愛されて育てていこうと思うのなら、まずどんな反応をされようとも報告という過程を飛ばすべきではない。
私は再三にわたり、彼に「今自分がしようとしていることの重大さ」を説きました。
果たしてそれでいいのでしょうか。
生まれたことを、一ヶ月以上も報告しないこと(正月にツラっとして連れて行くと言っていた)。
この状況で、母親は末弟の嫁を更に気に入らなくなるだろうし、これから大きくなっていく姪を可愛がることもないでしょう。
絶縁状態になり、恐らくは節目の行事には参加しない・させない関係になる。
もともと母親のことを必要としていない末弟は、それでもいいと主張しますが、それはあまりにも身勝手すぎる。
人の親になってもなお、成長できていない愚かな末弟には、本当に何も言うことが出来ませんでした。
困ったことがあれば助けてやろう。
そう思っていただけに、今回の対応については呆れて開いた口がふさがりませんでした。
http://anond.hatelabo.jp/20130603123513
上記の別居のち裁判になるのが面倒だったので、元夫からの要求をすべて飲んで離婚しました。
元夫からの要求は
なんつうわがまま・・・面会はしないというのは予想外でした。事前に面会の可否を聞かれて「可」と返事をしていたので
①会う=払う(面会料)
②会えない=でも払う(責任感)
③払えない=でも会いたい(執着)
という3パターンを想定していたので
④会わない=払わない(ポイ捨て)
は新しい離婚の条件だなと。
ちなみに養育費は子供の権利で私の権利なので請求することができるのは承知してます。
また、元夫は年収700万ほどあるので払えないわけではないです。
元夫側の弁護士も内容を変えるように説得したらしいですが、本人の決意が固く・・・とメールがありました。
その後はあっさりと離婚届けを提出して終了。
その後よく人に聞かれる質問をここに。
来ないです。娘の誕生日に僕はもう戸籍上パパではないですが、愛していると伝えてくださいとメールがありました。
・ストーカー化してない?
ないですが、弁護士さんには、すべての連絡手段を絶つと危険なので、携帯の番号は変えない方がいいですよとアドバイスをもらいました。
・田舎のご両親はなんと?
別居するときにモラハラの本を渡したらやり直せとは言われなくなりました。
噂好きな親戚の女性陣などでも「女が一度こう決めたらやり直せないのよね、次いこ次」と前向き。
父はきっと一度ぐらい元夫を殴りたかったかと思いますが、孫可愛さに無言。
誰一人連絡がないのでどう思われているのかわかりません。孫に会いたいという要求もないです。初孫でしたが。
人見知りなのでまず聞いてこないと思います。が、聞いてきた時は知らないふりを。それから自衛するので私に教えてください。
・母子家庭って金銭的にどう?
フルタイム正社員だと通常の手当てすら所得制限にひっかかっているので、まったくメリットはないです。
あるとしたら保育園に多少入りやすいとかでしょうか。それでも満員で入れませんでしたが。
以上です。
http://anond.hatelabo.jp/20130920182350
結論を最初に書いておこう。「やめとけ」に尽きる。処女の相手だったら、結婚する前にやっとけ。処女と結婚するということは、「食べたことないものを試食もレビューもなしでいきなり大盛りを注文する」のと同じだ。
何年も付き合っての結婚だったのだが、いろいろな理由でセックスはしなかった。私はその前に付き合ってた彼女とは、若さもあって結構やっていたのだが、嫁はそういったことを嫌がったこともあってやらなかった。こっちも「どうせ結婚したらやるんだから、何もあわてて」とか思っていた。ちなみに、前の彼女とは、処女と童貞だった。それでもお互い工夫して、気持ち良くなるように成長した。
実は結婚しても、1週間やらなかった。結婚式して、籍も入れた後だから、何の制約もないと思うのだが、「嫌だから」という理由でやらしてもらえなかった。さすがに1週間したら、諦めたみたいだったが。
どちらの両親も孫の顔が見たい(どちらにとっても初孫になる)から、「子供はまだか」圧力は高い。ところが嫁はセックスが嫌い。どうなるかと言えば、「排卵日を計算して、その日にやる」ということになる。言うなれば「交尾」とか「種つけ」という感じだ。こっちは、何年もおあづけされた上に、させてくれないのだから、ケモノになりたかったのだが、そうは行かなかった。
いろいろあって、子供は2人出来た。やった回数は、浮気相手も含めて一番少ないだろう。当然、もう10年以上完全にレスだ。
もちろん嫁を好きで結婚した。客観的に見れば、「よくあんなのと」と言われそうではあるが、それでも好きだったし、ずっと嫁だけを女と思おうと思っていた。その分嫁を愛そうと。元々、自分はたいしてモテるとも思ってなかったので、浮気なぞ機会もなかろうし。忙しいし稼ぎもないし、田舎だったから、それ程誘惑もないだろう。
ところが、それだけ思っていても、心は折れる。求める度にいろいろ正当そうな理由で拒否され、身体に触れようののなら「触らないで」と言われ。家事は... まぁ、やめておこう。
よく、「心がつながっていればセックスは」みたいなことを言う人達がいる。それに一理はあるだろう。しかし、一理あるだけだ。
人間なんて、そんなに理屈通りに行動するわけでもなければ、道徳的なものでもない。ましてや、今まで他人だった男女が一緒に生活するのだ。セックスなしで何とかなる人も、あるいはいるだろうが、たいていはそうじゃない。愛のあるセックスをしているカップルは、「理屈抜きの一体感」があるもので、他人に「友達です」と言っても、「こいつらやってるな」ということは、わかる人にはわかるものだ。逆に言えば、そういった「一体感」の元は「セックス」だとも言える。それくらいセックスは大事なものなのだ。
だから、結婚しようかという時、相手とセックスが上手く行くかどうか、セックスの相性がどうかというのは、とても大切なのだ。「セックスの相性はとても悪いけどれど愛しあってます」というカップルも、あるいはあるかも知れないが、それは例外的なものだと思っていい。人間の「愛しあう」というのは、理屈とか精神だけじゃない。そもそも、結婚は「恋愛の集大成」ではない。これからも関係を深めて行く、その区切りに過ぎない。
そういったことを思えば、処女と結婚するということが、どれだけリスキーかわかるだろう。うまく行った人もいるだろうが、宝くじが当たる人もいるんだから、うまく行く人もいるだろうさ。
処女厨は非処女を「他人のチンコの入った女」とか「他人のチンコをちゃぶった口」だの言うのだが、処女なんて「まだ誰も手をつけてない」ってだけで、それ以上の情報は何もないのだぞ。身持ちが堅いからそうなのか、単に機会がなかったからなのか、他者との関係構築が出来ないからなのか、そういったことは何もわからない。セックスの相性が良いかどうかは、もちろんわからない。つまり、「食べたことないものを試食もレビューもなしでいきなり大盛りを注文する」のが、処女と結婚すると言うことなのだ。
兄(の嫁)が子供を生んだのはちょうど3年前。
同時期に兄の一歳下の姉も妊娠しており、その3ヶ月後に出産をひかえていた。
同級生になるね、なんて話していたのはそれくらいの時期までだ。
姉のお腹は異常に大きくなってきて、痩せていた姉の浮き出る肋骨とは対象的に、なんか怖い感じになっていた。
「なんか怖い感じ」は病院で検査した結果「羊水過多」と診断された。
お腹の赤ちゃんの肺がうまく発達しておらず、栄養素である羊水を吸収できていないらしい。
大きな病院に入院した姉は、羊水を抜いたりしながら出産に向けて慎重に過ごしていた。
ほぼ確実に障害を持って生まれてくるだろう、と言われていた。
赤ちゃんは見ていないけど、姉から見せてもらった写真では髪の毛もしっかり生えていたし、
体重も2000グラムくらいあったそうで、少し小さい赤ちゃんって感じだった。
でも少し小さい赤ちゃんは鼻に大きな管が通っていて、それを固定するためにほっぺにはぞうさんのイラストのシールが
貼られていた。生まれた赤ちゃんは様態がよくなく、姉はうちから1時間半の病院に毎日赤ちゃんの面会に行っていた。
限られた時間しか会うことができず、さらに抱っこすらできない。
管まみれで寝ている赤ちゃんに触るだけだ。
姉は、完全にやつれていて、でも今日は動いた、とか、今日は笑った気がする、とかそういうことを話していたと思う。
よその赤ちゃんはなんで普通に生まれてくるのだろう、と誰にも言わないが家族みんなひたすら思っていたと思う。
12月30日にもうだめかもしれない、とお母さんから聞いた。
12月31日、赤ちゃんは危篤状態だった。
1月1日。世の中は新しい年が来たことを喜び、騒ぐ中で、赤ちゃんは息を引き取った。
この子が生きたのは20日間。
480時間だけ。
あんなに悲しい元日は二度とないだろう。
亡くなる直前に、姉は初めてわが子を抱いたらしい。もう死んでしまうとわかってからはじめて子供を抱く心境というのは
正直想像できない。
遺体が悪くならないように家で暖房をつけず、寒かったことは覚えている。
赤ちゃんは、私がプレゼントしたピンクの帽子と手袋をしていた。小さいうさぎのプリントの。
はじめての外は寒かったかな。
姉が赤ちゃんを抱き、母が「○○ちゃん、おうちだよ」と言いながら入ってきた。
用意していた新品の布団に、冷たい赤ちゃんを寝かせた。姉が写真を撮って欲しい、と言った。
友人や知人、ドラマ、映画、漫画、小説、あらゆるとこでみる「出産」に、こんなのはなかった。
みんなが祝福したし、みんなが緊張していた。
万全の体制で、とにかく健康に生まれてきて欲しいと思っていた。
赤ちゃんはまた、見たこともないくらいの数の管を小さい体にたくさんとおして、そのせいか、顔がうっ血してすごく茶色かった。
仰向けに寝かされていて、足も、うでも、顔も、お腹も、管がついていた。
おむつがぶかぶかだった。
なんで私が会えたかというと、もうすぐ、亡くなるから、だそうだ。
管さえ外せば亡くなる様な状態だった。
でも確実に生きていた。名前を呼びかけると、苦しそうな茶色い顔して、管のついた足を上げたりした。
あの子はどれくらいの苦しみとか痛みの中で私たちに答えてくれたんだろうか。
「○○くん、すごいねえ〜〜」なんて話しかけるしかできない。そういう優しい話し方でしか空間を保てない。
一人目の赤ちゃんの写真をもっと撮ればよかった、と姉が言っていたので
私は看護師さんに許可をとり、たまたまもっていたコンデジで写真を撮りまくった。
ムービーを撮りまくった。そこには動いている赤ちゃんが写っている。
みんなが呼びかける声が残っている。一人目の子の時には残せなかった、生きていた証。
赤ちゃんが亡くなったあと、姉夫婦が初めて赤ちゃんの沐浴をしている写真がある。
やつれきった二人に、茶色い赤ちゃん。顔がむくんでいて、痛々しい。
「天国でお姉ちゃんがまっているから、仲良くできるね」なんて奇妙なセリフにみんな同調していた。
見たこともないくらいの、小さな棺に、赤ちゃんは入れられた。
管をつけていたせいで顔にはあざがたくさんあった。
健康な赤ちゃんが生まれてくることが、なんでこんなにも難しいことなのか、
こんな悲しみがなぜ姉に2度も訪れるのか。
出生届と死亡届を一緒に書いている姿は、何にも例えられない光景だった。
2人の赤ちゃんが生まれてすぐ亡くなった原因は未だにわかっていない。
このことを思い出しては、本当に姉が不憫になるし、今も働きながら、本当は苦しみながら、前向きに生活している様子に心底尊敬する。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20100801
この手の話題に言及するのはこっぱずかしいので増田で書かせてもらう。
こんだけ逆差別が騒がれても、まだまだ片親の貧困率はOECD諸国で下のほう。
現時点で、この日本でシングルマザーに対する最大最強のセーフティネットは実家だと思う。
でも、現実的に考えて実家がセーフティネットとして働くのは、両親との年齢差が一定未満の場合だけなんじゃないかと思う。
助けてもらいたいとき、親世代が70歳じゃ無理だろう。
65歳、かなり厳しいがそんなもんが上限のボーダーラインだろう。
親世代が65歳までに、末の子供が3歳まで成長すれば、なんとかなる。
言い換えれば末子誕生は親が62歳のときまで。
さらに言えば、仕込みは親が61歳のときまで。
統計を調べる必要もなく、その例にもれる人々、子供は小さいが親は65歳以上って家庭が増えてることは確かだ。
平均初婚年齢が30歳に近づく今、結婚した時点で親が65歳なんてのは珍しくもなんともない。
きついわなぁ。
俺は男だからそれほど関係はないけど、女性は考えたほうがいいと思う。
というわけで、自分の子供には、俺が65歳になるまでに末子が3歳になるように人生設計をしてもらいたい。
親(俺)が61歳のときまでに末子の仕込みを完了しなくちゃいけないとする。
子供は2人で十分な気がするが、少し余裕をみて子供を3人設ける場合を考える。
3年に1度出産として、長子(俺の初孫)は俺が55歳のときまでに仕込まれていないとダメなのか。
女性の平均初婚年齢が現在だって28歳だもん、俺の娘(いないけど)はいったい何歳で結婚するんだ?
俺が現在28歳、今この瞬間運命の出会いがあって結婚して脅威の命中率で受精させたとする。
長女誕生、ストレートに大卒だとして社会にでるのが22歳、28で結婚すると、長女が結婚したときに俺55歳。
けっこう厳しいぞ。
子供3人は諦めてもらうか、10代で産んでもらうかだが、10代で産ませたくはない。
娘(まだ受精卵ですらない)よ、子供3人は諦めろ。1人でいいじゃないか。
なにがいいたいんだ、俺は?
つまり、実家以外のセーフティネットが発達しない限り、少子化はとまらんということ。
実家に頼れない女たちが増えるということはさっき上で書いたとおり。
実家に取って代わるセーフティネットの発達は望めないと思うんだ。
女で稼げる商売となると、水商売か風商売しかないだろうから、水商売と風俗に供給過多が起きるよね。
というより、今だって供給過多な気がするよ。
私は一人っ子で、両方の祖父母にとって初孫で、面倒見の良い母親になんでもしてもらって育った。
家に帰ったら鞄は部屋に放り捨てて、あとは好き勝手に遊んでいればよかった。
翌日の学校の準備も母がやってくれた。
それどころか、どの教科でどういった宿題が出て…テスト範囲はどこまでで…なんていう管理も母がやっていた。
それも高校生になるまで。
母が管理してくれなければ毎日忘れ物していたと思うし、提出物も忘れていただろうし、起きられなくて頻繁に遅刻していたと思う。
そんな調子だから私は部活でも先生や先輩ばかりにくっついて回り、世話を焼かれるばかりで、後輩にはナメられてタメ口をきかれていた。
人の面倒を見れない。女のくせに、洗濯も掃除も料理もできない。まともに服を畳むことすらできない。
大学生になって一人暮らしをはじめた同級生がたくさん居る中で、私は小学生の時から変わらない、完全に母に依存した実家暮らしをしている。
この状態でいきなり一人暮らししたところで、私はまともに生活できないと思う。
何もできないんだから。
でも、何から始めていいのかわからない。私が自力で生活しているイメージすら沸いてこない。
そのことが今更になって、みじめに思えるようになってきた。
何もできないまま気付いたら大学生になっていたということが恥ずかしくてしょうがない。
私は誰にも頼られたことがなかったし、私に甘えてくれる人も、私を尊敬してくれる人も、誰もいない。
みんなにバカにされている気がするようになった。
高校生の頃は何人かと付き合ったけど、二ヶ月と続かなかった。今思うと、私のわがままさに、嫌になられてしまったのだ。
そして私はちゃんと人を好きになったことがない…
私の面倒を全て見てくれる母以上の存在など、これから現れるわけがないとどこか思っている。
服の買い物も必ず母と一緒に行く。私はバイトをしていてお金はあるんだけど、服代は全部お母さんが出してくれる。
お母さんがいなくなったら私はどうしようもない。すごく怖い。
本当は私もお母さんみたいになりたい。お母さんのように頼れる人になって、できない人を甘えさせられる存在になりたい。
何もできなくて、何も知らなくて、頼りない、不安定な人を見つけて、私だけが心の支えっていう状態にしたい。
私が居なくなったらすごく困って、死にそうになってしまうような、そういう存在が欲しい。
たとえば、私以外の女を知らない男。私以上に何もできない男。私に依存しきった男。
私に振られたら次が見つからない男。私と他の女を比較することができない男。
そういう男を抱きしめて、全身全霊の愛情を注ぎたい。全ての面倒を見て、私なしでは生きられないようにしたい。
でも私にはそのスキルが何一つ無い。自分一人の生活すらできない。
馬鹿馬鹿しいが、私は今、自称童貞の男子高校生と会ったこともないのに付き合っていることになっている。
毎日メールしている。
私は家事から人の世話まで何でもできるお姉さんだ。
「理想の女性」「包容力がある」と言われた。今、会いたがられている。
会いたくない。
甘えん坊の男子高校生に頼られたところで実際の私は何もできない。
かといって頼りがいがある大人の男性に対しても最近の私はコンプレックスを刺激されていやになるし、
何より先輩とは二人と付き合ってて、嫌われて破綻して来たのだ。
私はわがまますぎる。そして何も出来なさすぎる。
私は一生誰にも結婚相手には選ばれず、何も成長しないまま母に依存し続け、母に死なれたらすぐに体を壊し、孤独に死ぬだろうと思う。
このまま会うのを断り続ければ、高校生にも近いうち愛想を尽かされるだろうか。
役に立つとか立たないとかではないっつーか。。
まーでもどうでもいいか。。。
君は元の記事みても合理的な感じの人よね。
こうだからこうだ。っと組み立てをしてるものね。
俺もそうだった。今もそうだけど。
多分だけどね、世の男は子どもに対して、もともとそこまで興味が無いと思うのよね。
どうしても子どもが欲しいってあんまり聞かないし。
俺も当然そうだった。ただ嫁が欲しいと言うしさすがにそろそろか?
という所で作ったわけ。それだけ。
生まれてみても、いまいち実感無し。
「へー・・・、この子が俺の子なのか。。すげーなぁ」くらいなもの。
意識が変わったのは笑い出したころかな?
・・・可愛い。
そこからは一気に考えが変わっていった。
ただただ可愛い。なんなんだこの生き物はって感じ。
子どもと何かを天秤にかける?
金銭的にどうだ?遊ぶ時間がどうだ?
そんな物と比べるようなものじゃない。
ただただこっちは無償で愛し続けるわけ。そうしたくなってしまう。
なんか知らんが、プライオリティのてっぺんにあの子はいきなり鎮座した。
本能なのかな?良くわからんが自分にとってはそれでしか説明できん。
もちろんイラつくこともある。でもあっちが笑うとそれだけでKO。
まったく理不尽極まりない。
子育ては人生の第2ステージなんだと思った。生活も意識もがらりと変化したから。
生まれる前は想像出来なかったよ。
なるほど、人の親になるとはこういう事なんだとわかった。
んで第3ステージは孫が出来た時なんだろうというのもわかった。
異常に幸せそうで他の親孝行なんぞ馬鹿馬鹿しくてやってられん。
というよりむしろ、孫の顔見せる以上の親孝行は存在しないとすら思う。
小さな嬉しかったことを書き出したら書ききれん。
長くなったし、こんな所で終わる。