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2017-03-10

子を自分だけのものにできました日本最高

子の教育方針などで夫と口論するうち、子を夫と切り離し自分だけの好みの方針で育てるために離婚したくなった。

我ながら我が儘だけど。

もともと夫とソリが合わず孫の顔さえ見てればいい人たちだから実家は当然、全面的に私の味方。

しか初孫だったし。

それで思い切って、ものごころつく前の子を連れて実家に戻った。

実家サポートでいろいろ生活が成り立つようになったので、女性に寄り添い女性の言い分を通してくれることで有名な離婚弁護士さんに相談

その弁護士はすぐに、事細かく作戦を教えてくれた。

まずやるのは離婚調停ではなく、敢えて「婚姻費用分担調停」。

こんな内容を書く。

1. 一方的自分意見を通そうとする我が儘で暴力的な夫から激しい言葉DVを受けた

2. 子に対する具体的なDVはなかったが今後そのおそれは十分にあり、私に暴言を吐く姿を子が見てトラウマになっていること自体も含めて。子との面会は困難

3. 離婚は今のところ考えていない。婚姻費用の分担を求める



なぜこうするかはちゃんと理由があった。

離婚弁護士説明はこう。

1. は事実と異なるが、こう書けば大丈夫

家庭裁判所調停委員事実関係調査せず双方の主張を聞くだけ。

から反論は当然なされるが、参考にする程度。

明らかにこちらの言い分に嘘や矛盾があっても、それを指摘する夫の反論の激しさは「夫婦間の葛藤」の存在証明することになるので、むしろ好都合。

それだけでは不安であれば、婦人相談所にDV被害相談に行き「配偶者から暴力被害者保護に関する証明書」を発行してもらえばよい。

この証明書の発行には証拠不要事実確認はおろか夫側の見解聴取もない。

これは「相談があったことの証明」だが、実務的には「DVがあったことの証明」として役所裁判所通用する。

内閣府男女共同参画局通知 http://www.gender.go.jp/policy/no_violence/e-vaw/kanrentsuchi/pdf/01/n_29_20140930.pdf ここには『この保護に関する証明書は、配偶者から暴力理由として保護した者に対して婦人相談所等が発行するものであり、配偶者から暴力があった事実証明するものではないことを、念のため申し添えます』と書いてあるが、調停委員が知らないばかりか家庭裁判所裁判官も知らないほど、この注記は知られていない。)

夫が裁判所で「そのようなDVはなかった」と証明することは不可能悪魔の証明)。

2.も事実と異なっても大丈夫

これから別居中にじっくりと子に夫の恐ろしさを教えておけばよい。試行面会の頃までには子が勝手に夫を怖がるようになってくれる。

どんなに夫が子煩悩だったとしても、3歳くらいまでの記憶は綺麗さっぱり消える(「幼児健忘症」。病気ではない)。

夫の写真も見せないようにする。仮に子が「パパは?」と訊いたとしても、キッと睨むだけで子は「この話を母親としてはいけないんだ」と学び、保護者である母親の気に入る子になる本能で、勝手父親を嫌いになる。

裁判所診断書を提出する必要はない。

からの激しい反論は当然なされるが、その激しさも「夫婦間の葛藤」の存在証明することになるのでむしろ好都合。

3.は実入りを少しでも大きくするため。

離婚をしてしまうと受け取れるのは養育費だけになるが、婚姻をかたちの上で継続しておけば相互扶養義務に基づく婚姻費用の分担を請求できる。

婚姻費用には養育費部分も含まれているので、養育費単独よりも金額が大きい。



このアドバイスのとおりにやってみると、面白いように周りが全部こちらの味方になってくれた。

誰も私を疑わない。

いや、疑う流れにはときどきなったけど、疑うそぶりを少しでも感じたら

「私を疑うなんて酷い」

と泣いてみせればその話はぜんぶ立ち消えになった。

私の言い分の嘘や矛盾を夫が長々と説明しても、どんな証拠が出てきても、「そんなことはない」と言えばいい。

そう言うだけの方が良いのだ。

証拠証拠になると不利なので、こちらから証拠を出さない」

という弁護士作戦ピタリと当たった。

から見ると私の主張は嘘や矛盾ばかり。

夫がどんなに苦労して物的証拠を出しても、裁判官調停委員はそれを採用せず、私の口頭の主張ばかり採用する。

子には何年も会わせてもらえない。・・・

夫が怒り始めるのも当然。

でも、

「すぐそうやって怒り始める人で大変だったんです」

と言えば1.や2.の間接的な証明にもなる。

しかも、

夫婦間で葛藤がある」

という裁判所独特の言い回しで、面会させない理由にしてくれる。

いい気味w

裁判所って理屈世界かと思ってたけど、ぜんぜん違った。

少なくとも離婚家庭裁判所は、理屈の遙か以前に、

女>>>>>>>>>>>男

とあらかじめ決まってる。

おかげさまで今はかわいい子とふたり暮らし

夫が年収高かったおかげで20万強の婚姻費用を毎月受け取ってる。

保育所には例の「証明書」を見せれば最優先で入れて貰えたので、自分の勤めの収入も十分。

((嘘扱いされるのが癪に障るので追記注釈実家サポート暮らしていて収入ゼロのうちに婚費決めさせたのと、娘がDVトラウマで今後も働きに出られないかもという主張が通って、夫の年収1300ちょっとだったけど算定表ほぼ満額が取れたんですよ http://www.courts.go.jp/tokyo-f/vcms_lf/santeihyo.pdf 現実裁判所が嘘みたいだからしかたないんだけど、無闇に嘘扱いしないでね))

さすがにこれは酷いということで国会でも「親子関係断絶防止法」が議論になってるけど、たぶん通らない。

フローレンスの駒崎さんが守ってくれる援護射撃はこちら。

https://news.yahoo.co.jp/byline/komazakihiroki/20170308-00068455/

裁判所調停審判に持ち込まれているような場合夫婦間でかなりの葛藤があって、敵対関係があって、持ち込まれるのが大半なんではないですか?そういう場合に面会交流継続するのが、本当に子ども福祉にかなうのか、慎重に考えるべき



実はこの「夫婦間の葛藤」や「敵対関係」は私が作ってるだけで実際には夫に非なんか一切無いんだけど、勝手にこう解釈してくれて、私の我が儘じゃなく「子供福祉のために」面会をやめろと言ってくれる。

夫はこれからどう出てくるのかな。

「会わせろ」と連絡してくるのを警察相談したらストーカー扱いしてくれたので、今はそれもない。

婚姻費用は延滞もなく毎月振り込んでくる。

当たり前だよね。

少しでも振込を怠ったら私から会社に連絡がいき、給料差し押さえられるんだから

弁護士にきいたら、次の裁判ものらりくらりやってれば絶対に勝てるんだって

親権も「100%大丈夫」と太鼓判を押してくれた。

ただ、一生ずっと面会ゼロにするためにはひと工夫必要らしいので、今それをやってるところ。

その中身は内緒だけどね。

死ねとか言ってた人がいたけど、そんなことない。

この国は最高。

2017-01-02

元旦から祖父母とインスタントラーメンをすする悲しさ

あんたは、なにちゃんだったっけか?」

である僕の顔を覗き込む祖母

まさか自分がこんな、ドラマのワンシーンのような状況に遭遇することになろうとは…

驚愕、混乱、不安、そして、悲しみ。

本当に色々な感情を抱いた時、人はどんな表情も作れないのだと、23にして初めて知った。

年末年始、母方の実家に帰ったときのことである

「けんちゃんだったかしら」

・・・そうだよ」

引きつりながら笑って頷く。

なんだ、びっくりした。自分の年齢に乗っかった新手のネタか。

これは一本食わされた。はっはっは。

最初のやり取りはそんな感じだった。

これが本当にネタだったなら、どんなに心穏やかに新年を迎えられたことだろう。

 

おばあちゃんがボケた。

これまでとは違い、決定的に。

名前を聞いてきたことが、冗談ではなく本気の確認作業だったのだと気付くのに時間はかからなかった。

本当にボケていたのだと最初確信した時、今まで感じたどれとも違う絶望感が、舌の奥の方から全身に広がった気がした。

今までと同じ人が目の前にいるのに、自分の知っているその人は目の前にいないような違和感

体裁はそのままに、じわじわ形骸化していく未来が見えてしまった残酷さ。

一気に失う絶望感と、どちらがより深いのだろうか。

 

祖母は今年84歳だ。

ボケたっておかしくない。

ダイアモンド婚。むしろ夫婦共々、ここまでよく元気でいてくれたと思う。

だが一般論とか数字で考えるのは他人なら簡単だが、当事者は辛い。

別におばあちゃん子だったわけじゃない。

初孫という点でも、従兄弟の方が可愛がられていたような気がする。

それでもそれなりの思い出も思い入れもあるんだ。家族なんだから

 

そんな大切な家族から、忘れられる。覚えてもらえない。

「みんな見上げるくらい大きくなっちゃったから、わからなくなっちゃって」

まるでおばあちゃんは僕らが十年ぶりに来たかのようなことをいう。

僕らがおばあちゃんの身長を超えたのは、ここ2、3年の話じゃない。去年だって来てる。

どうやらボケると、新しい記憶から順に消えていっているようだった。

その上、更に新しい記憶は書き加えられない。メモリショートした回路。

おじいちゃんの会社皇太子が来たのだと話していた。

お話出来て、これ以上のことはない、本望だと思ったと。

まりにも鮮明に話すものから先週の出来事かと思った。20年も前の話だった。

その一方で、みんなが今朝起きて、そして挨拶をして帰っていったことを全く覚えていなかった。

「まだ上に誰かいるのかしら」

そう聞かれる度に、他の孫達がきちんと挨拶をして帰っていったことを何度も説明した。

ひどい時には、その孫達が来たことすら忘れてしまっているようだった。

 

しかしたら、と思う。

僕が今日ここに来て、戸惑いながらも家事を手伝って、他愛のない話をして、

いつもと少し違う正月を、いつもと同じように楽しもうとしたこの一日も、

明日になったら忘れてしまっているんじゃないだろうか。

だとしたら、この人にとって僕らは今日ちゃんと一緒にいれているんだろうか。

ちゃんと一緒に、新年を迎えられたんだろうか。

 

「ごめんね、もてなすことも出来なくて…」

買い物を忘れたからと、夕食にインスタント麺とおせちの残りを用意していたおばあちゃんが言う。

「ほんとはもっともてなしたかったんだけどね」

家事を手伝う度、ボケでささいな迷惑かかる度に、何度も聞いた謝罪言葉

ほんとうに悲しそうな顔をするおばあちゃん。

丸まった小さな背中

きっとおせっかいなおばあちゃんは、自分が孫すらもてなすことの出来ない正月がみじめだったのだと思う。

 

「それでもよかったんだよ」 僕はそう伝えたかった。

でも何度言葉にしても、おばあちゃんは忘れてしまって、届かない。

自分の中で祖母謝罪言葉けが、淋しげに今もこだましている。

しかったことがある

幼稚園に通っていた頃

駄々をこねた僕を自転車の後ろに乗せて、何件もはしごして、おまけ付きのお菓子を探してくれたこと。

もう一回お礼を言いたかったのだけれど、おばあちゃんは忘れてしまっていた。

しかったことがある

僕が受験勉強を頑張って、志望大学合格したこと。

そのことをおばあちゃんは、ちゃんと覚えてくれていた。

何度も何度も褒めてくれた。誇りだと言ってくれた。

なんでそんなこと覚えてくれてるんだよ…

久しぶりに、泣いた。

きっとどんな人だって晩年は多くのモノは持っていないのだ。それは、思い出も含めて。

その時どんな物に、人に、思い出に、囲まれていたいだろうか。

僕はおばあちゃんのように、家族に囲まれていたいなと思った。

そして何度話しても色あせることのない思い出話を、これからもっと作って生きたい。

折を見てまた祖父母に会いに来ようと思う。

その結果多少悲しい気持ちになることがあったとしても、今の自分しか出来ない恩返しもあるはずだと、そう信じて。

2016-12-11

家族の話をしま

父方の祖母の話をします。

趣味らしい趣味も持たず、働いて過ごしてきました。大切なのは、一人は死んでしまったけどもう一人は生き延びた息子と、女だったし最近ちっとも家に寄り付かないけど何はともあれ「初」孫の孫娘です。二人目の孫は夜遊びがひどいし、「おばあちゃんじゃなくて、お父さんのお金大学に行かれたんだ」だなんて生意気を言うし、息子の嫁はなんだか気に入らない。体がうまく動かないから世話をさせているけど、長男の嫁なんだから当然だ。


父の話をします。

体が弱いかたばこはやらない、酒は最近少し飲むけど、すぐに酔うから本当に少しだけ。ギャンブルは父が身を持ち崩したから、母に強く禁じられている。女遊びもしない。父には(時代錯誤なことに)妾もいたけど・・・
 まわりは男だからって力仕事やらせるくせに、やってやると方法が違うだの説明書を見ろだのうるさい。だったらお前がやればいいじゃないかイライラすると物に当たってしまうけど、人を殴るよりいいだろう。疲れると気分が沈んで死にたくなる。それを言うと嫁はいやな顔をするけれど本当なんだから仕方がない。そういえば、嫁が一時期変な女につきまとわれていたけど、見ないふりをしていたらいなくなったみたいだ。男物ばっかり着ていた上の娘も、ようやく最近「まともな」「女らしい」服を着るようになってよかった。


母の話をします。

兄と弟がたくさんと、姉が一人います。両親もみんなも美人で賢い姉のほうが好きみたい。隣に並ぶと絶対に私が姉だと間違われるのが嫌。
 お見合いをして、好きでもないしバレンタインチョコは「甘いものは苦手だから」って突き返されたけど、家業は安定してるし家の宗教が同じ人と結婚したら、姑のいびりはひどいし、夫には散らかすからって本を捨てられるし散々。跡継ぎにって生まされた一人目は姑と夫に取られて、これじゃもう私の子じゃなくてお父さんの子だ。うちの宝物だなんて言うけど、一人目だけでしょ? 二人目は初孫じゃないし女だからって何にも買ってもらえなくて可哀想。私が大切にしなくちゃ・・・。一人目の娘には、姑と夫がいるんだからいいじゃない。
 中学に上がったら一人目の娘が化粧水なんて使いだして、ヤダヤダ。初潮ときにご相談した、同級生のお母さんにまた相談してみようかな。高校に入ったら今度は家の手伝いなんて嫌だとか言い出すし、かわいくない女!
 どっちの娘が好きかって、そんなのどっちも大事に決まってる。本人たちにもそう言う。だって、嘘はつけないから。


妹の話をします。

母さん、おばあちゃんにはいじめられてこきつかわれて、父さんはいろいろ知らんぷりだし可哀想。姉さんは会うと会社愚痴ばっかりで家のことなんて全然考えてない。大変なのは分かるけど、育ててもらった恩があるのに・・・
 会社が遠いか一人暮らしをはじめたけど、ちょくちょく実家に帰ってる。だって年に一回しか帰らなかったら、両親にあと二十回くらいしか会えないんだよ? そんなの考えられない。
 おばあちゃんは差別する人だったけど、母さんは平等に育ててくれたよ。


私の話をします。

中学生とき、妹を殺そうと思いました。高校生とき、母を殺してやろうと思いました。二十歳になって、やっと自分が死のうと思って、だけど、後悔させるんだったら五年ぐらい遅かったなと思って、まだ生きています

祖母は苦労した人だったし、父もいろいろ大変だっただろうし、母だってほんとうに頑張って生きてきた人です。何より私が金銭的な不自由なしに生きてきたのは彼/女のおかげです。そうして、彼/女なりに私を愛してくれていたんだろうと思います。私が大昔の些細なことを忘れられずにいるだけで。
 私がいじめられていた中学生の時、学校行きたくないと言った時。「転校する?」なんて言ってほしかったんじゃなかった。休んでいいよって言ってほしかった。
 私が男物の服を着ていた時。「おかしいよ」なんて言ってほしかったんじゃなかった。似合わないだって良かった。まわりと比べる言葉じゃなければそれでよかった。
 「お前は間違って生まれてきたんだよ」なんて言ってほしくなかった。
 書かなかった恨みごともたくさんあるし、私が忘れている、私が悪かったこともたくさんあるでしょう。それに実際、私は本当にかわいくない子供でした。これを書いている時点で知れたことですが。

たぶん、私のするべきことは、いやだなと思ったときにそれをちゃんと伝えて、喧嘩になってもいいから真面目に話をすることだったのでしょう。隅っこで泣くより、今更知ったような顔をしてこんなエントリを書くより、怒ったほうがずっとよかった。会社だけは私を必要としてくれるだとか、残業時間が150時間を超えるよりも年始帰省の方がつらいだとか思ってしまう前にできることはあった。でも、もう遅いね

私は私が私であることを望まれことなんて一度もなかったけど、間違って生まれてきてしまったけど、このまま生きていきます
 誰かに望まれることと、正しかったと言われることと、いつか神さまみたいな人が来て「お前は間違いだったんだよ、ごめんね」って言って私を消してくれることはもう諦めます
 いつか、私自身が私を、望んで生きていかれるようになれるといいなと思います


実際に私が誰かにこんなことを言ったら、「育ててもらっておいて」「いい歳をして」と言われるでしょう。あるいは「あなた家族は、ちゃんとあなたを好きだよ」か。そんなことは絶対に言ってほしくないんです。だからこれを書いて終わりにします。
 それから、もしも死にたいと思っている人がいたら。こんな私がのうのうと生きているんだから死ぬことなんてないです。

2016-11-10

背中を掻きたい

背中かゆい。かゆくならないという人も居るけれど、むしろ自分は周りより少しかゆみが強い方かと思う。

ここに孫の手があったら、どんなに気持ちいいだろうか。

嗚呼、孫の手。背中を思う存分に掻ける幸せは、生きる意味の一端を担っているのかもしれない。

から、巷では孫の手の話題は尽きない。

やれどこ産の竹が素敵だとか、やっぱり長さは重要だとか、掻きかたへのこだわりだとか。どうやらそれが普通らしい。

そんななかで、何故だかそういう話題に興味を持てない自分がいる。

しろ背中。何時からだとか、何故だとか訊かれたって、知らないし分からない。だけど気付けば、背中を目で追ってしまう。

あわよくば、掻きたい。爪なんてほとんど切ってしまって丸っこいから、竹や木でできた孫の手ほど気持ちよくはないだろうけど。

気持ちとしては、そう思ってる。

ここまではいい。

我々は、社会に生きている。

そして、社会に生きる大多数は、背中を孫の手で掻くのだ。

教科書だってそう書いてある。

背中は孫の手を選び、孫の手もまた背中を選ぶ。選び選ばれた背中と孫の手には、手厚い保証制度だってある。

こうして社会は成り立っているのだ。

そんな社会なかに自分は生まれしまった。

背中を掻きたい。その感情に気付いたのは高校生の頃だった。

そういう人もいる、という知識は持っていた。だからこれも、そんなに変わったことではない。そう思って母に相談した。これまで愛情たっぷりに育ててくれた母に。

母は、絶望していた。

未だにあれ以上、ひとが絶望した、という顔は見たことがない。乏しい語彙力ではこんな表現になってしまうが、とかくこのような結末であった。

あれから五年以上経った。成人式も終えた。

さて、どのように生きるべきか、そろそろ真面目に考えねばならない。

掻くべき背中を探すのはどうだろう。

まったく残念なことに、掻いてもよい背中にはさして特徴はない。事実自分背中だってそうである

そしてこれまた残念なことに、「背中を掻きたい」とは公言しにくい社会である

それを探すためには、何らかの仮面舞踏会へ行くことが手っ取り早い、というより他の方法など殆どない。

そこへ行く今一歩の勇気が、未だに出せていないのだ。

おまけに、自分はすっかり、背中を掻きたいことをオープンにしてしまっていた。

案外この世には同胞は多く、自分も恐らく沢山出会っていたとも思う。

さて、では隠していたいひとは、万 が 一 興味を持ってくれたとしても、自分に声をかけるだろうか? 考えるまでもない。

前提として、冒頭で述べたとおり、自分かて背中かゆい

から、孫の手を受け入れること、それ自体にはきっと何の問題もないのだ。

しろ背中を掻くためのあの素材あのフォルムである

受け入れさえすれば、たぶん気持ちいいのであろう。

実際に背中にあてて動かせば、自分のまだ知らない魅力に気付くこともあるかもしれない。

社会的にも大正解だろう。

ペアへの保証制度が手厚いことは前述の通り。

また、オープンであるとは言ったが、未だに親戚筋には打ち明けられていないのだ。

かつて、この症状は病気と考えられており、そのため一定以上の年齢層はこの話を拒絶しがちである

加えて、初孫の将来への期待はずいぶんと大きく、それを裏切ることともなってしまう。

無事にペアを組むことが出来れば、こんな懸念も吹き飛ぶのである

ただし、そんな気持ちで選ばれた孫の手はたまったもんじゃないだろう。

背中、孫の手。どちらの魅力も理解出来る(後者については微妙なところだが)。

たまにお得と言われるこの特性を持ち生きるということは、あくまで一例ではある(重要)が、こんな感じである

さて。

などと考えてみたが、どちらにせよ自分最初にしなければいけないことをしていない。

自分磨きアピールである

自分理想うつつをぬかし、「相手からまれ背中になる」という視点をすっかり欠いてしまっている。

ぎくりとなった背中・孫の手諸君、共に頑張ろう。

まずは見た目に少し気を使ってみるか……なんて思いながら、今日自分は、必死に手を伸ばして、自分背中を掻くのである。ぽりぽり。

2016-11-06

なんでこいつら結婚したの

なんでこいつら結婚したんだろう?

先日実家に帰った際に、それぞれに言い分を聞けたのだが、より分からなくなった。

母はある時から突然「女としても見てもらえなくなって、そういうこともほとんどしていない」などという観点での愚痴も言い始めた。

実家ゴムを見つけたときも衝撃だったけど、そういう話を堂々とされるのもやだ。

ただこれでわかったのは、母は高卒就職して24くらいで結婚してからなんとなくその辺の価値観は変化していないのだ。

浮気もしてこなかったのだろう。うちの家で母によく似た姉もそうだが、代々頼んでもないほどクソ真面目に思いつめるのが特徴だ。

からかもしれないが、恋愛観が非常に幼いのだろう。結婚への価値観も。

ただパート介護家事に、ガキ夫の世話によく頑張ったと思う。早くいい環境になって、楽になってほしい。

一方父の方は、最近やっと思っているところをゲロってくれたが、

思考停止して難しい契約ごととかになると全部俺を頼って来るくせに使い潰しみたいな態度で理解できねえ

 金を出したりそういうことをして守っている関係である以上、立場が上なのは俺で守られているのに態度がおかしい」ということを言っていた。

正直超引いた。

父親が金をかせいでくる間、母親は内部での調整に全力を注いでいたのだが、その家事労働メンタル奉仕には何の評価もつかないらしい。

母は父を邪険に扱うこともあり、たしかに可愛げがなくみえるのかもしれない。

しかしそれは、母に言わせれば、父親母親の「生活費が圧倒的に足りない」や「家のことをやっているか感謝してほしい」という訴えへの配慮がないからそうなった、というのだ。

上記のような母の言い分を父親がまるで聞かないのは、母親感情的な話し方をして(父親からしてみれば)上手く説明できていないので、ほぼ「意味がわからない」で処理されているようである

母親感情機微を察することがまるでできていない。多分似た勤務体系や家庭環境の方に対して、でもないと想像力働かないのだろうなあ。

そういえば、父からしたら「何を言っているかまるでわからない(のでなかったことになっている)意見の述べ方」について、父も何とか努力した気でいるようだった。

父は母を何とかしようとして、「意味がわからない」「論理的に何があったか話せ」と会社で聞いたとしたらクソとしか思えない『指示』を出したようだが、

それで何とかなるわけなかった。

父は母を一生アドバイスを聴かない思考停止女(しかも俺が守ってやっているのに可愛げがない)と思っているし、

母は、父を一生人の話を聞かない自己尊大男(私が世話してるのに何の感謝もない、愛してくれない)と思っているのだろう。

お互い歩み寄ろうとした時期もあったらしいのだが、なんだか何にも功を奏しているように見えない。

ここ十年間くらいそういったストレス脳みそのスペースを占め続けていて、しんどい

一人暮らししているのでまだましなのだけれど。

母は父から何かを言われるかもしれないとビクビクするばかりで、そういう内容の電話を受けることだけは続けている。

酔って説教する以外のアプローチ父親にはないのだが、母はもうそ時間は心の耳栓タイムだと言い聞かせつつ真に受けてメンタルをやられている。

不安障害というらしい。

怯えているのを隠して睨む母親に父が更に機嫌を悪くしている。

引き離してやりたいが母親離婚は無理そう。。。。と2~3人に話を聞いたところであきらめぎみ。

住宅ローンがまだ残っているのが手痛い。

離婚後は、私が扶養に入れてあげるということも、案としては考えてるんだけど、正直めっちゃ嫌。

メソメソメソメソ、ごめんね私が悪くてといちいち言う OR 元気になると自分の言いたいことしか言わないし、やれば出来ることをできないと言い手を焼かせる…

どっちにころんでも自分時間を奪われてしまうから本当に嫌。

外に友達作るの上手くないし、きっと私一人に全部の判断を任せたり依存していく。

結局私がキレて父親立場になるような気がしてしまって、無理

あーああー母が自分で生きていくには自分で色々考えるしか無いんだってことにどうやったらきづいてくれるんだろう

父親はいつになったらテメーの飯は誰が毎日用意してたのか、感謝してこなかったことに後悔してくれるのかな

正直育ててくれたからありがたいけど、父母はどちらを相手することになっても超面倒。

姉が居るけど、姉はこういうときに図々しく私には家庭があるから無理と言って、

私に諸々押し付けるのがうまそうでいやになる。収入も姉のが少ない、と言われると。

でもそっち結婚したの次男だし正直面倒見てほしい。。。。男側初孫のようだからちょっとだるいけど。。。。

あと衝動買いで犬を4頭にまで増やしたことを父親死ぬほど後悔してほしい

犬が可哀想すぎる 最低限しか面倒見れていないし 正直あんメンタルやばい家に居るなんて申し訳ない

犬がいるから、まだ我々実家に帰ろうと思えるけど

実家や両親に対して感情こもりすぎてて正直しんどいから

もう少しなんか解きほぐしたいな。。。。。。

2016-04-24

http://anond.hatelabo.jp/20160421143302

月に10万近くも使っていながら出てくるタイトルクラナドだけだなんてほんと金時間無駄に浪費しただけなんだろうなあ

二次元全般(円盤マンガフィギュア)を含めたら10万なんてもんじゃないです。

あの文脈で、「闇スノのクソ叔父初孫ができたことで改心し売春組織とも手を切ったエピソードを見ても、やはり血縁の子を遺すことこそが人生の喜びなのではないか」なんてマイナーエロゲの話をしてもドン引きされるだけだと思う。

それでもエロゲエピソードを分かりやすく要約し巧みに組み合わせたネタも書けないのかと言われれば確かに自分の無才さによるものだとしか言えない。

2016-03-13

独断偏見

長子(一番上)

しっかり者で年下の面倒を見る皆のまとめ役。

反面、初めての子初孫)な事から幼少期は過保護に甘やかされ、神経質で打たれ弱い。

の子が生まれるまではチヤホヤされまくっていたが、

の子が生まれた途端目が向けられるのでその記憶トラウマになる。

自分ばかり損していると被害者面しがち。

温厚な性格の人が一番多い属性だが、凶暴になると一番問題を起こすのもここ。

自分より弱い物が常に側に居るので、社会に出て自分より強い者の前ではすぐに挫折する。

親の決め台詞は「お兄ちゃん(お姉ちゃん)なんだから我慢しなさい。」

次子

観察力に優れている。長子の失敗を踏まえた育児を施される為、

賢く世渡り上手場合が多い。要領がよく良好な人間関係を気づける。

逆にそれが長子には狡賢に見られがち。

口でも体力でも勝てない存在が常に居たので、自分より立場が上の者が気に入らない。

更に下に兄弟が居ると親の目が一番向けられなくなるので、ひねくれた性格になりがち。

ただ長子よりは神経質さはなく、悪く言えば大雑把、よく言えば大らかにもなる。

親の決め台詞は「弟(妹)なんだからお兄ちゃん(お姉ちゃん)の言う事聞きなさい。」

末っ子(一番下)

とにかく愛嬌がある。一番最後に生まれるので皆に可愛がられる愛され上手。

兄弟の中でも独特な世界観を持つ事が多く自立した性格が多い。

ただし、長子よりも周りからチヤホヤ期間が長いので、ナルシストが量産される。

また、一番下でみそっかす扱いされる事が多く、自分が注目されてないと気が済まなくなる。

都合のいい時だけ可愛がられ、普段は除け者扱いされた事がトラウマで目立ちたがり屋。

親も育児に疲れ果てているので、一番手をかけずに持て余している。

意外としっかり者が多いが、ペット的な役割を求められるのでバカを演じている事が多い。

親の決め台詞はなし(親の関心が薄いのでこれと言った定番台詞がない)

2016-02-19

日本徴兵制を敷くことをオススメする3つの理由


1、 近隣諸国に対して抑止力になる


自衛隊技術や知識のない若者を集めただけでは、まったく役に立たない。

なので、徴兵しても意味がない、そういう意見があるがそれは間違いだと思う。


徴兵制を敷くことで、日本は一夜にして最低でも数十万クラス兵力を確保できるはずだ。

これにより、政府は「現在日本には100万の兵力がある」と、近隣諸国宣言できるのだ。

実際のところ、徴兵で集めた若者の個々の能力なんかどうでもよい。数字だけでよい、それだけで大きな抑止力になると思う。

(受け入れるための基地がないとか、財源はどうとか、現実的ツッコミどころは満載だが、話を進める)


で、現在日本において、現実的有事とはなんだろうか? おそらく、近隣諸国との武力紛争なんかではないと思う。

地震洪水豪雨といった自然災害、それが日本現実的有事ではないだろうか。


なので、徴兵で集めた若者には、軍事的な訓練を施すことも大切であるが、それよりも防災に関わる教育や訓練をメインに施せばよい。

兵役を終えた若者の多くは、社会に帰ることになる。防災の知識、技術を持った若者たちがいれば、有事(災害時)に大きな助けになるはずだ。

災害から地域家族を守る為の知識や技術が身につくことは素晴らしいことではないだろうか。

まさに一石二鳥である



2、 戦争のアホくささが身に染みてわかる


本稿を書いている本増田は、自衛隊の在隊経験である

在隊中、戦争状況を想定した訓練を何回も経験したが、実際はテレビ映画で見るような戦争状況とはまるで違う。

テレビ映画では、自分や仲間がどのような状況にあり、敵がどこまで迫っているのか、神的な視点があるが、

実際の戦争状況下では自分が一体何をやっているのか、まるで分からない。


直属の上官にここで穴を掘れと言われ掘る、歩けと言われれば一晩中歩き続ける、

よくわからないまま朝になり、とぼとぼ歩いていると、突然あなたはたった今戦死したと訓練の指導員に宣言される。

なぜ戦死したのか聞くと、肉眼では確認できないほど先にいる対抗部隊の敵戦車に撃たれたとのこと。

実戦ならこれで終わり、よくわからないまま死ぬである


よくテレビなどで自衛隊活躍を持ち上げられ、カッコよさを全面に押し出している感じを受けるが、実際には規律ある厳格な組織だ。

そこには個々の意見感情なんか関係なく、命令しかない世界なのだ


本題に戻ろう。本稿は徴兵制オススメしている。

訓練であるが、徴兵されれば戦争状況を模した訓練を行う。若者たちにこれをぜひ一度でもいいから経験してほしいのだ。

実際に銃を持ち、雨に打たれて、重い装備を背負って歩き続け、先の見えない状況で疲労困憊になる。

私自身、訓練中に精神的な不安から軽い呼吸困難になったり、幻覚が見えたりする経験をした。


たとえ訓練であっても、戦争状況のつらさ、理不尽さを体験できることで、考え方に大きな違いが生まれるかと思う。

から教えられた、本を読んで得た知識、それらとはまるで別物の考え方だ。


私は、自分経験を元に自分で考え、戦争なんか、軍隊なんかアホくさいという考え方の結論に達した。

自身経験し、考え、その結論に達した。人から教えられた、本を読んで得た知識から導き出した結論なんかじゃない。


もちろん、その逆の結論もある。ひとりの兵士として日本のために戦いたい、近隣諸国から日本を守る指揮官になりたい、

こういった考えを持ち職業軍人の道に進む、その結論に至るのも選択の一つだ。国のために貢献したい、その考え方もわかる。

現在世界情勢を考えると、そのような考えに至る若者も多いだろう。


きっと今日日本において義務教育だけでは、国のために何かしたいという考えには至らないと思う。

徴兵制度というきっかけによって、若者たちの考え方に選択肢が増えることは素晴らしいことではないだろうか? 



3.戦友ができる

3つ理由と題した本稿であるが、ここまで読んでもらって申し訳ない、1番目と2番目の理由なんかどうでもいい、上記はただのノーガキである。3番目が最大の理由だ。


数年前、90歳近い祖父が亡くなった。その通夜とき、見慣れない老人がやってきた。

話を聞くと、九州から通夜を行っている関東まではるばるやってきたという。

祖父と同じ90歳近いおじいちゃんが新幹線に乗ってたったひとりで。祖父訃報を聞いて、家族が止めるのも振り切ってやってきたそうな。


で、このおじいさん、大戦中は祖父と戦友で、九州部隊で苦楽を共にしたという。終戦後腐れ縁でいろいろとつるんでいたらしい。

祖父は、初孫だったら私の事もいろいろとこのおじいさんに自慢していたみたいで、見ず知らずのおじいさんが私のことをよく知っているという奇妙な体験をした。


先述のとおり、本稿を書いている本増田は、自衛隊の在隊経験者だ。ごく僅かな時間しかさなかったが、このおじいさんの気持ちというか、意気込みというか、

祖父とこのおじいさんの関係とか、そんなことが私にはなんとなくわかった。私にも腐れ縁のような友というか、戦友がいるからだ。


軍隊とか自衛隊のような特殊組織のなかで苦楽を共にすると、なんというか説明が難しいが、不思議友達ができる。

それは友達といっても学校職場友達とはまるで違う。一生付き合うことになる戦友というか、親友ができる。

徴兵制オススメする最大の理由はこれだ。



以上、長文ですまない。

2016-02-10

亡くなった祖父カバンにいれていたもの

先週、父方の祖父が亡くなった。

85歳、大往生だった。

父には男兄弟しかおらず、、

祖父にとって私は初孫で女だったものから

大層可愛がってもらったものだ。

写真を撮るのが趣味である祖父

合うたびに私の写真をとり、

私が小学生になるまでは生後○○日なんて、

しっかり数えて写真アルバムに書き込んでいたくらいだ。

中でも祖父お気に入りは、

誕生日写真を綺麗な台紙に張って飾っておくことだった。

1歳から20歳になるまでその写真撮影は行われたが、

なぜか20歳の成人式写真だけは台紙にも張らず、

リビングに飾ることもしなかった。

どうやらどこかに仕舞い込んでしまったらしい。

当初は気に入らなかったかな?なんて疑問に思ったが、

すぐにその疑問すら忘れていった。

祖父が亡くなったあと、

足の悪い祖母について、祖父事務整理に銀行に行ったときのことだ。

祖父担当をしてくれていた中年銀行員の方が、会うなり私に

「お孫さんですね、おじい様には大変お世話になりました」

なんて、話しかけてくるのだ。

どこかで会ったかな、なんて不思議に思ったが

必要な処理だけすませ次の銀行に行ったが、

そこでも担当の人は会ったこともない私に話しかけてくるのだ。

私は思い切って聴いてみた。

「あの、どこかでお会いしたことはありましたか?」

そこで私は成人式写真を飾っていなかった理由を知ったのだ。

80近くなった祖父は、

今後の財産分与の話をしに定期的に銀行へ行っていたのだが、

その話しの間に必ず私の自慢話をしたそうだ。

「毎回ね、おじい様は『たまたまカバンに入っていた』なんて言って写真を見せてくれたんですよ。嬉しそうにね、初孫がこんなに立派に育ったなんて言って。本当に嬉しそうに。だから私はあなたの顔を覚えてしまったんですよ。」

台紙に張ったものをわざわざ銀行の人に見せるなんてことは出来ない。

けど、たまたま書類を入れていたカバンに入っていたなら、ちょっと話してもかまわないだろう。

そう思っていたようだ。

孫の成長した姿の写真を、

いつも自分の側にあって、

人に自慢出来るようにするために、

祖父は私の成人式写真を台紙に張りリビングに飾らずにいたのだ。

祖母はなかばあきれたような、申し訳なさそうな顔をしていたが、

私は目頭が熱くなってしまった。

手続きをすませ祖母とわかれ、

帰りの電車の中で祖父のことを想った。

自分が二十歳まで育つとゆうことだけで、

祖父がそこまで喜んでいてくれたのか。

私にもいつか子どもができ、

孫ができるようになったら、

祖父と同じ気持ちになるんだろうな。

仕事は大変だし、

毎日楽しいわけではないけど、

そんな風なおばあちゃんになれるなら

今の日常も悪くないかな、

なんて思いながら家路についた。

夕焼けがとても綺麗な帰り道だった。

2015-09-06

子供を引き取った

妻が二人目の子供を出産するために実家へ里帰りしていた。

一人目の子供(長男)も連れて一緒に帰っていたので、俺は平日一人暮らし

義実家は車で1時間半くらいの距離なので、週末は義実家へ通っていた。

俺は久しぶりの独身生活を満喫していた。

家に子供がいると、なかなか飲みに行ける機会もないため、ここぞとばかり色んな人を誘っては飲み歩いていた。

しかし、週末を義実家で過ごしているとき漠然とした不安が湧いてきた。

妻が入院している期間、義両親と長男の3人で暮らすことになるけれど、果たして大丈夫なのだろうかと。

義両親は初孫である長男に首ったけで、可愛がりはするものの、甘やかすばかりで、全く言うことを聞かせられない。

風呂に入れることも、歯磨きをさせることもできないのだ。

そんな中、先日、二人目の子供が生まれた。

俺はまとまった休み(といっても3日)をとり、義実家で暮らすことにした。

長男母親がいない寂しさをもてあまし、俺にべったり甘えてくる。俺が横にいないと、夜、寝付くこともできない。

さらに、以前から薄々感づいていたことだが、義実家料理レパートリーが少ないという問題もあった。

なにせ、家に醤油味醂がないのだ。

そのため、長男は、毎日同じもの(好物の卵焼きウインナー)を食べていたようで、俺が一緒に暮らす頃には、好物ですら食べ飽きたのか、デザートしか食べないという状態にまで陥っていた。

自身も、3日しか過ごしていないにもかかわらず、代わり映えしない毎日食生活に飽きてきていた。

さすがに、これはマズイと俺は思った。

当初の目論見では、あと1ヶ月は華の独身生活を満喫する予定だったが、このまま長男義実家に預けるとロクなことにならないのは火を見るより明らかだった。

それに、妻が退院して義実家に戻ってきたとしても、結局、妻が二人の子供の面倒を見る羽目になることも容易に想像がついた。

もはや、選択の余地はなかった。

俺は妻とも相談し、長男を自宅へ引き取る旨を義両親に申し出た。

義両親は驚いていたが、反対はされなかった。きっと、義両親も不安でいっぱいだったのだろう。

里帰りのため一時休園していた保育園に、明日から再登園する旨を連絡し、帰宅した。

飲み会約束をしていた先輩や同僚たちには事情を説明し、すべてキャンセルしてもらった。

その日の夜、麺類が好きな長男に海老とキノコ豆乳味噌クリームパスタを作って、一緒に食べた。

長男は、「お父さんのごはん、おいしい」と言って笑った。

あれから1週間。

長男は家にお母さんがいない寂しさを抱えながら、それを声に出すことなく、健気に保育園へ通っている。

それにしても。

世のシングルマザーシングルファーザーがどれほど大変な生活を送っているかが、肌身に染みた。

炊事、洗濯掃除、そして保育園の用意、送迎。

そんな中で遊んでくれとせがむ長男の相手をしなければならない。

毎日、目の回るような忙しさだ。

睡眠時間がなかなか確保できない。

会社へ着くと本当にホッとする。

はいえ、少しずつつではあるが二人暮らし生活リズムが掴めてきたような感覚もある。

今までお母さんにべったりだった長男との距離も随分縮まったように思えるし、あと数週間、頑張ろう。

2015-09-01

佐野問題とは

乾物屋を商った東北出身の父は婿養子で、ただ寡黙に働くために生まれてきたような男だった[1]。男ばかり3人兄弟長男[1]。初孫だったために粋人の祖父に溺愛され、小学生のころから浅草で酒の味や映画演芸享楽を仕込まれた[1]。

早稲田大学第一文学部[2]在学中は映画監督を志し、「稲門シナリオ研究会」に入った[1]。大学卒業後、主に子供向けソノシート制作などを手がけていた音楽出版社勁文社入社1971年12月、自ら編集を手がけ発行した「原色怪獣怪人大百科」がこの当時の第二次怪獣ブームを受け、53万部を完売する[3]という当時としては画期的ベストセラーになった[1]が、労組を結成したため1年半で解雇された[1]。その後、フリーに転身[1]。

1997年平成9年)、民俗学者宮本常一渋沢敬三の生涯を描いた『旅する巨人』により第28大宅壮一ノンフィクション賞受賞。2009年平成21年)、『甘粕正彦 乱心の曠野』により第31回講談社ノンフィクション賞受賞。

2003年から2012年まで、開高健ノンフィクション賞選考委員を務めていたが、週刊朝日による橋下徹特集記事問題で辞任した。

この橋下事件きっかけに、佐野による数々の剽窃行為が明るみに出され、溝口敦荒井香織『ノンフィクションの「巨人佐野眞一が殺したジャーナリズム 大手出版社沈黙しつづける盗用・剽窃問題真相』(2013年宝島社)の中で盗用問題の詳細が検証された。溝口はまた、佐野からの直筆の詫び状をインターネットで公開している[4]。

2013年7月31日著作権侵害されたとして日隈威徳から訴訟を起こされた[5]が、2014年10月16日和解が成立した[6]。

2015年2月18日大阪地裁における裁判で、大阪維新の会支部長橋下徹に対して、「タイトルをはじめ記事全体が差別的で、深くおわびする」との「おわび文」を渡し、解決金を支払うことで、和解が成立した[7]。

以上パクリ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E7%9C%9E%E4%B8%80

2014-07-18

http://anond.hatelabo.jp/20140718021723

うちは3人兄弟で私が長子。

しか初孫だったので手厚かったらしく

赤ちゃんの時の専用アルバム3冊(押絵・オルゴールの入った豪華なやつ)

→弟は1冊(紙のアルバム

→妹は専用アルバム無(箪笥の中にごちゃごちゃ入っている)

とわかりやすく手抜きになっていっててわろた。

甘やかされてるって手抜きされてるって事でもあると思う

別に妹が冷遇されているという事は決してなかった。

 この子には苦労させたくないって中学から私立のお嬢様学校いかせたし。)

なので、大抵は

長子であることのメリットデメリット

二子以降のメリットデメリット(お古ばっかりとか)

お互いあるもんだとは思うのだけど、

増田さん所は特に塾とかアルバイト選びまで任せるってのはちょっといね

2014-07-02

俺の思い出話と、ある宗教を嫌いな話

六月の途中くらいから書き出して、七月になってしまった。

ただの好き嫌いの話で、長い思い出話。

思い出話で恥ずかしいから特定されないように細かいことをごまかして書いた。

長えよ、と言われる前にまとめると

「ただの長い思い出話で、宗教が原因で好きな景色が無くなったから、俺はこの宗教が嫌い。」

というだけの話だ。具体的な宗教名は書かない。

六月になると亡くなった祖父を思い出す。祖父が亡くなったのはずっと前の年の瀬来年は会えないかもと入院中に見舞ったのが最後になる。

田舎に住んでいた。両親は同じ地域出会い結婚したので、母方の実家チャリンコ必死に行けばたどり着く距離だった。車では20分くらいか。

思い出す祖父というのは母方の祖父。母はパートがあったので、小さい頃は週の半分以上、学校から帰ると姉と一緒に預けられていた。

その頃は祖父との思い出はあまりない。働き者だったので、俺と姉が預けられるとすれ違いで仕事に行ってしまう。あとから聞けば介護施設ボランティアみたいなことをしていたらしい。祖父が出勤前、早めの夕食をとる食卓で、俺と姉が一緒に座って、その日の出来事を喋ったりしていた。たまに仕事のない日には、ご機嫌、というかんじでビールを飲んでいた。この家は小さな商店だったので、好きなジュースを選んで良いぞと言われて、俺たちは普段の食事時には飲めないジュースを喜んで飲んでいた。

もちろん遊んでくれた記憶もある。夏休みクラスでただ一人乗れていなかった自転車の特訓に付き合ってくれた。川で泳いだりとか。姉ちゃんと喧嘩して両成敗でゲンコツとか。

母方の実家、小さな商店をやっている、ややこしいのでA家としよう。

A家に頻繁に預けられたのは小学生の頃で、中学高校と成長するとそういうのは無くなった。

頻繁に預けられたA家は、よくある、たまに帰省するじいちゃんばあちゃんち、になっていった。

祖父はある病気になった。不調を誤魔化しごまかし過ごしていたのが、発覚したというか。A家の家の中は帰省するたび介護向けに変わっていった。母の兄弟、俺の叔父趣味日曜大工だったので、楽しい変化だと思ってた。(おっちゃんスゲー!階段つけ直したの?!みたいなかんじだった)

手すりが付く。急な階段は段数が増える。トイレ洋式になる。手すりが増える。掘りごたつからテーブルになる。布団がベッドになる。自動で昇降するベッドに変わる。喋れなくなったのでナースコールボタンが付けられる。指先で押せなくなったから顔の横にボタン

じいちゃんはどんどん悪くなる。ばあちゃんのやっている介護は、自宅介護でそんなことするんだ、というくらいプロみたいな作業までこなしていく。詳細は省くけど、いま思い返すとあんなことを無給で、かつ無休でやっていたのは驚く。もちろん医者ヘルパーさんが来てはいたけれど。

中学の後半くらいから、俺はデジカメを触るようになって、ホームページを作って風景や花の写真を載せていた。季節ごとにA家に顔を見せる程度の帰省をしていたので、A家の裏の田んぼだとか、家の軒先にあるバラだとか、そういう写真を撮った。本当にきれいだった。通り雨のあとの、雫が付いた葉っぱとか。俺には写真の才能があるんじゃねーのかと、進路相談の時、ニヤニヤを隠しながら担任に見せたら、景色やバラを褒めるので、あ、俺じゃなくて被写体がよく出来てるんだな、と気付けた。(担任も良い趣味だね、とだけ言う程度のレベル

それでも見せれば褒めてくれる祖母にプリントアウトして渡した。次に帰省すると写真立てに入れてあって、寝たきりの祖父が見るテレビ台の横に飾られていた。

正直に言うと、帰省してもすることが何もない田舎の家で、あんなに元気だった祖父が寝たきりの様子を見ていたくなかったから、理由をつけて外を散策するために写真撮影趣味だとしたんだった。そんな写真を、飾っている。申し訳なく思った。

大学に進学して実家を出た。一年に一度か二度、実家帰省するついでにA家にも顔を出す。時々A家ではなく病院だった。

大学二年の頃だったか帰省するとバラがなくなっていた。A家は小さな商店かつ小さな農家でもあったが、家の裏手、裏庭のようなスペースはすっきりとなにも無いような、更地というほどじゃないけど、なにも、なかった。

母に尋ねると、手入れがねぇ、みたいな答えで濁す。そりゃあ、あんなに大変な介護だ。仕方ない。でもどうしても寂しい。友達が知らぬ間に引っ越していた、という感覚が近いかもしれない。A家の周りががらんとして、入院しているため家の中もがらんとしていた。窓の外から見える裏庭みたいな農地の緑がない。小さなぶどう園は支えの柵だけになっていた。姉は俺よりは多く帰省していて、草花を刈った話は聞いていたらしいが、目の当たりにしたのは初めてらしく、ショックを受けていた。というかちょっと泣いていた。俺よりずっと思い入れがあったらしい。その時まで知らなかったが、初孫である姉が生まれた年に植えた木があって、その木までも全部なくなっていたのだ。

それから数年も経たないうちに、祖父が亡くなった。小学生の時、きげんよく晩酌していた祖父に○○ちゃんが大きくなったらこれを飲もうなと言われた。俺は本当に未成年のうちに酒を飲んだりしなかった。でも成人したところで、祖父は寝たきりだったし、普通食べ物すら食べられない状態だった。

葬式が終わって、A家から実家へ帰った。親戚が父と俺と姉を車で送ってくれた。母はA家に留まった。父は禁煙していた煙草を吸いながら、運転手をしてくれた親戚のおばちゃんとコーヒーを飲みながらぽつりぽつり喋っている。姉はその輪の脇で黙って座っている。俺はすぐにでもスーツを脱ぎたかったが、とりあえずその部屋からは出ないでおいた。葬儀のあとの食事?宴会?で、これでもかと酒を飲んだので、半分寝ながら部屋の隅にいた。従兄弟下戸で、その分まで飲んでたからほんとフラフラになりつつも、みんなまだ着替えないから着替えちゃ駄目とかそういう決まりがあんのかなと寝そうになりながら携帯をいじる。

変な葬式だねとか、やっぱり○○だねとか、そういう話から、姉も会話に加わる。

挨拶してたのは導師さまとかいう奴」

「たぶんね、そういう仕組みはよく知らない」

「○○の木を切れって言ったのあいつなんだ」

なにそれ。俺は隅っこで携帯をいじってたけど、思わず声になった。

祖父が寝たきりになってから数年して、仏壇雰囲気が変わった。その頃俺は中学とか高校くらいのガキなんでよく分かってなかった。いまでも詳しくは知りたくない。

有名な、ある宗教だ。この長い思い出ばなしはこの宗教が嫌いだと言うだけの長話だ。たんに俺の好悪の話なので、具体的な名称は伏せる。

経緯は分からないし知りたくないが、浄土真宗だとかのいわゆるよくある宗教から、その宗教に変わったそうだ。祖父が寝たきりになったところにつけ込んだような気がしてしまう。

祖父が患ったのは国の指定を受けるような難病で、そんな夫と共に生きるためには、新たな宗教必要なのかもしれない。それは仕方ない。祖母が生きるためには必要だったはずだ。

その宗教の、導師さまとかい地位の人が、A家に来てくださって、アドバイスをくださったらしい。

伝聞の伝聞くらいのことしか俺は知らないため正確にはどう言ったかからないが、そいつは、A家にある緑が祖父の生命力を奪っていると言った。

から草花を切りなさいとまで言ったかは知らない。じゃあ切らなきゃねと祖母が感じただけかもしれないが、そいつはそんなことを言って、次にA家へ来たのはじいちゃんの葬式の時だけ。

だって風水で西に金色のものを置くと金運アップと聞いたらなんとなく西に金色を置きたくなるし、ラッキーカラーは青ですなんて言われたらメモを取る時のペンを青にしようかななんて思う。ただ俺の機嫌がよくなるだけだ。その程度でいい。

祖父は、ALSだ。筋萎縮性側索硬化症根本を治すような、有効治療確立されていない。指定難病だ。

導師さま曰く、祖父の健康を吸い取っているのは、ぶどうの木や、小さな露地栽培野菜、姉の生まれ年に植えられた木、雨露がかかると一層美しいバラたちだそうだ。

腹が立つというより、呆然、というかんじだった。

A家周辺の景色や、草花の写真がきれいに撮れたから、嬉しかった。ばあちゃんも褒めてくれた。寝たきりのじいちゃんが見るテレビ台の所に飾ってくれた。姉ちゃんが泣いたくらい思い入れのある木。いろいろある。いろいろあった。

祖父が亡くなって一人になった祖母は、田舎の狭いコミュニティの中で孤立したりしなかった。宗教のおかげだ。会合に参加したり、そこのひとたちとバスツアー旅行に行ったり。それだけは、よかったと思う。

それでもあの宗教は、嫌いだ。祖母も草花を刈ることで病気になにか影響すると真に思っていたのではないと思う。俺の撮った写真だけでなくほかの人が撮ってくれたバラの写真も残していたし。本当に病状に関わっていると信じていたら、写真すら残さないと思う。

祖母も亡くなり、何年も前から、このA家にまつわる話をぼんやりと思い返しては、増田にでも書こうかなあと考えていたが書き切れたことはなかった。

五月や六月の、バラがきれいな時期になるとどうしても書いておきたくなった。

あんなにきれいな景色が寝たきりの祖父の生命力で育っていたらロマンチックだ。ファンタジーだ。ふざけんなあり得るか。

先日、姉が結婚した。なにか特別に贈ろうと写真データを見返していたら、姉と同い年のあの木が写った、緑豊かな写真があった。あげたらすんげー喜んで泣くから俺も泣いちゃったよ。

じいちゃんもばあちゃんも大好きだ。病気はどうしようもないし、ばあちゃんの選択は過ちではない。必要だった。生きる上で、大切な指標で、手段なのだろう。

それでも、その選択肢を救済のように与えたあの宗教が、嫌いだ。

俺の好きな景色や思い出を、踏みにじられた。そう思ってしまうから、あの宗教は、どうしても嫌いだ。

2014-06-12

増田に書けばフィクションって事で2

大したこっちゃねえが、長い事この稼業で食ってるけど昨日のは流石に初めてだったのでまた書く。

50後半~60過ぎくらいの老婦人


本日はどのようなご祈願でいらっしゃいますでしょうか?」

商売繁盛と、家内安全と、あと安産祈願をお願いします」

「(またか戌の日過ぎたってのにやけに多いな)ではご住所からお願いします…はい。それではご家族のお名前を」

「〇〇〇〇、〇〇〇〇、〇〇〇男」

「…はい

「あ、〇〇〇男は、安産祈願でお願いします」


不意打ち。長い事祈願受付やってるがさすがにこの奇襲は初めてだったのでちょっと笑いかけた。危ねえ。


「…すみません、奥様」

「あ、息子じゃなくて、息子の嫁です……〇〇〇子」

はい家族構成からすると初孫ってとこかねえ)それでは予定日を…」


ま、実母からすれば「もうすぐ息子に子が生まれる!」って気持ちなんだろうな。

でも息子が安産するわけじゃねえから。恐らく初孫だろうが落ち着け

それと同様に、とても多いのが、以下のような申し出。

こちらは本当に多くて、何度も耳にした。


「じゃあ、ご家族のお名前をお願いします」

「〇〇〇〇、〇〇〇〇、〇〇〇太(全部苗字同じ)」

はい

「…あと、〇〇〇太が息子なんですけど、子宝祈願をお願いします」



で嫁の名前言わないと。

いや、このままだと情報足りなくて、息子が妊娠するように祈願するしかねえんだけど…。やだよそんな人類未踏の試みへの挑戦。

あるいは、若い夫婦が二人連れでやってきて、二人の名前を告げてから、にこやかになごやかに、旦那名前子宝祈願をお願いする場合もある。

いや妊娠する奴違うだろと。

お前が孕めよと。



お 前 ら そ ん な に 息 子 や 旦 那 を 妊 娠 さ せ た り 安 産 さ せ た り し た い の か



と。

まあ平和って事か。

2014-03-19

http://anond.hatelabo.jp/20140319083107

「許し難い言葉」を転載した増田です。

元文がかなり改行を省いたにも関わらずそれでも長いので、自分の考えたことをあまり長々書き加えても誰にも読んでもらえないのではないか、全部引用記号で括ったら文字が小さくて(rなのではないか、といろいろ考えたあげくあの形式で載せるように決めたのだけど、それが徒になったらしく(話題になったのは有り難いが)中絶の是非だの中絶に関する女の自己責任だのどんどん明後日の方に話が飛び火して、もううんざりしていた矢先にこの文章に出会えて心底有り難いと感じている。

あの後あまり反響が大きかったので、もう少し自分の思う事を書き加えてみたいと考え、男女逆に書き換えたもの

(例えば「うちは女の子で良かったわ〜、男の子馬鹿で乱暴だし、犯罪者ほとんどは男だし、将来ニートや気持ち悪いオタクにでもなられたら最悪よね」のように、女の子の親の集団馬鹿にされて傷ついた男の子の親の悲しい気持ち、一部の酷い男のせいで自分まで犯罪者予備軍のゴミと思われ傷つくまともな男性が感じる理不尽

などを長々書いてやっぱりウザいかと消したりしていたのだけど、投稿しないで正解だったと朝起きてからブクマトラバの数を見て思った。

中絶女は歩く殺人現場」「セフレ中田氏したら孕んだので音信不通にしたったwwwwww」

自分の血を引く最初の我が子を軽はずみな気持ちで作り殺した事実」も「自分の血を引く我が子が、初孫を軽はずみな気持ちで作り殺した事実」も、およそ世間においてイメージされる「一般的中絶」という事象においては、性別関係なく永久存在する事実だ。

なのに女のそれだけが憎むべき人殺しとして袋叩きにされ、男のそれは「金払うなり逃げたりすればチャラ」酷い場合武勇伝として吹聴される事すらある。大量についたブクマトラバ意見の一部を見ればわかるように、この異常な不均衡をやすやすと許す空気は決して珍しい事ではない。


まあ、自分引用のやりかたのまずさが大いに災いして、元増田には引用趣旨誤読を含めた様々なご意見を頂く事になったわけだが、仮に大本の記事がフィクションだったとしても、これらの反応の存在が同一/類似の事象存在裏付ける何よりの証拠になったと思っている。

2014-03-03

妹は同性愛である。俺がそれを知ったのは、妹が大学卒業した頃だった。

から「会って欲しい人がいる」と言われ、てっきり結婚相手を紹介するのかと思っていたら、いや実際本人にとっては結婚相手も同然の人なのだが、そこに居たのは同年代女性だった。

母には自分から直接伝えるまで内緒にして欲しいと言われたので、実際にその通りにしていた。

それから1年ほど経過し、妹は意を決してパートナーとともに実家を訪れ、母に告白した。

しかし母は早い時期から事態を把握していた。やはり親というものは何でもお見通しなのだろうか。

初孫はあんたの子だと思ってたんだけどね…」と、力なく、諦めたようにぼやく母の姿に、むしろ妹とパートナーが揺さぶられたようだった。

俺を含めた四人は、微妙なぎこちなさを払拭できないまま食卓を囲み、その日は解散した。

それからしばらく後、妹のパートナーから二人きりでの相談を持ちかけられた。

パートナー相談は以下の通りだ。

彼女(妹)は実家での一件以来、母親を落胆させた事をよりいっそう悩むようになった。

それと同時に、出産育児を強く意識するようになった。そして今だから言うが、自分(パートナー)は子供が産めない体だ(これは俺はこの時点で初耳)。

子供をもうけたいという彼女(妹)の願いを叶えてあげたいが、しかし肝心の相手をどうすれば良いのか見当も付かない。

彼女(妹)の子供は自分の子供にもなるのだから自分としても納得のいく相手を望んでいる。

そして最近彼女(妹)は相手として貴方(俺)の名前を出すようになった。私も悪くないと思っている。というよりも、私たちが共通して信頼関係を築いている男性は現状貴方(俺)しかいない。

しか彼女(妹)は倫理的な面から言い出せずにおり、このまま見知らぬ男と妥協するよりはと思った私が独断貴方(俺)を呼び出した次第だ。

どうか彼女(妹)の子供の父親になって欲しい。迷惑は絶対にかけない。

眠くなったので続きは明日以降に

2014-02-17

娘に無理やり孫を産ませた結果、育児放棄

自分大好きで稼いだお金自分たちで使うのが大好きな娘夫婦がようやく子供(女の子)を産んだ。

初孫だったし、私に娘は一人しかいないから可愛いし、面倒もたくさん見るつもりだった。

夫婦共働きで、二人共自宅に帰るのは夜10時。

娘の方は時短も使えるそうだが、仕事のほうが大事から嫌だと頑として使わない。

娘婿の方は無論そんなものはない。

産休育休も取れる環境にいるのに「私が居なくなったら他の誰かがその仕事を取る。そうしたら私は戻ってきても居心地が悪いだけ。負けたくないから嫌だ。」と最短の日数だけ休んで正社員として復帰していった。

夫婦の家は私達の家から歩いて十分程度ととても近いので、最初のうちは朝孫を預けに来て、夜に子供を迎えに来た。

しかし、孫が一歳になる頃には「いちいち子供を移動させるほうが子供には負担でしょ。寝かしておいて」と平日は迎えに来なくなった。

そうやって気がついたら一週間、二週間と娘は来なくなり、

孫はもう三歳にもなった。

保育園に入れようかと言ったところ「お母さんが送り迎えできるんだから幼稚園に入れてよ」と答えられた。

幼稚園に通うようになったが、送り迎えも弁当作りも何もかも私達の仕事

一ヶ月に一度くらい現れて、食費やもろもろのお金を渡してくれるのだけど、

来るのがいつも深夜なものから、孫は娘の顔はほとんど見ない。

30過ぎても遊びまくっていた娘を叱りつけ、孫を産まなきゃ絶縁だと言い放ったが、

その売り言葉に買い言葉で娘は「産んでやるけど育てない。そこまで言うなら育児は全部やって。私の人生一年なら犠牲にするけど、残り何十年も無駄にするつもりはない。」と言い返した。

無理やり子供を産ませたツケは、私が払わなきゃいけないのか。

それ以前に娘の育て方を間違えた、そんな私がまた育児をしなきゃいけないと思うと孫に申し訳ない。

孫は本当に私のことをお母さんのように慕ってくれて、パッと見老夫婦に育てられている娘に見える。

本当に娘の人生は一体何だったんだと後悔する日々だ。

2014-01-13

小5から今までネットやってきて思ったこと。

 小5から今まで(もうすぐ高2だから、大体6年)ほぼ毎日ネットしてた阿呆

 6年という時間が短いか長いかは人それぞれで変わるだろうが、自分の中ではまだまだ短い。

 インターネットとは何か。納得できる答えは、いつまでたっても見つからない。逆に、6年では答えが出ないということが分かった。

 短いとは言っても、6年かけて貯めた経験値は自分にまぁまぁな自信をつけた。

 例えば、初めて手を出したSNSLINEという友人(今じゃぁ普通に見られる光景)がいたとして、ローマ字入力キーボード情報時間以外触らないもんだから、短く簡潔にやや遅くちょっと素っ気ない文でリプライが返ってきた時に、あぁかわええのぉ、と、大人ぶった上から目線でその友人と接することができる。勿論、友人はイラつく。

 で、数日して、顔文字辞書なんかいれちゃったりして、崩れまくったAAなんかコピペしたりして、ちょっと自信有り気にメッセージを送ってきた日にぁ、初孫が初めて家にやってきた子煩悩ジジィのように愛でて、さらイラついてる友人を撫で撫でしながら優越感に浸る。

 と、まぁ、ネット歴6年の成果といえば、意地汚い優越感と自己中心的幸せくらいだろうか。

 本題に戻って、ネットやってきて思ったことなのだが。

 自分は、はてなブックマーク・スペース・ブログもやるし、YouTubeニコ動USTREAMも見る。TwittertumblrGoogle+に(Facebookはやってない)mixiGREE、もちろんLINEと、大手SNS殆どを試してみた(殆ど飽きた。tumblrだけ続けてる)。オンゲも幾つかやってるし、もちろん思春期男子ですからFC2xvideos・・・

 また、自分は一切触れたことは無いので省略したいが、例えば会社が構築したネットワークを介してファイルサーバーアクセス適当)とかも、一応ネットであるネットと聞いて真っ先に思い浮かぶものがそれの人もいるだろう。だが、「小5から今まで」自分がやってきた「ネット」について「思ったこと」を書くスタンスなので、ここではあまり考えたくない。

 上記したサービス自分がこれまでやってきたネットの一部だが、それらは自分にとって娯楽であり趣味であり暇つぶしである。そして、その殆ど実用性なんてもの存在しない。一介の高校生である自分には、不必要ものばかりだ。まぁ、毎晩のようにお世話になっているサービスもあるが、それはそれで、悪友から借りたエ○本を読めば良いだけで、今の時代だと十分実用的な漫画普通に売られてたりする(某ダークネス)。

 つまり、なんか最近ネットつまんないなぁってことですね。

 思いっきり省略したけど。

 ここまで書いてきて最終的な結論が、6年やってきて思ったこと=最近ネットつまんない、とは、阿呆丸出しなのは重々承知の上。ネット自体が変化したのか、自分現実のほうが面白くなってきた証なのか。きっと後者でしょうけど、つまんないと感じてる人は他にいないのか?淡いが、無駄補色なもんだから目立ってしまっている期待を胸に、ふらふらと辿り着いたのがここ。見せかけの匿名は、自分が小5くらいに問題となってたことだから、どこか懐かしさを覚えて選んだのかもしれない。

 「小5から今までネットやってき」た少年が、結構素直な気持ちで書いた日記純粋過ぎる心で書いたせいか、読みづらい文になってしまった。

 6年やってきて思ったこと、というより、6年やってきた少年最近思っていること、になっている。この日記自体が、思ったことを伝えようとして、うまくまとめられなくて、失敗した結果だと思えば、表題の答えも自ずと現れるのではないかと、暇人に丸投げにして、夕焼の綺麗な空を眺めながら散歩でもしよう。

2013-12-04

私には古くからの知人がいる。私用で久しぶりに遇い、互いにプライベートな話にも花が咲いた。

お互い我が子も社会人となり、そろそろ所帯を持つか、初孫の顔を楽しみにするか、という時期である

が、知人の顔色は優れない。いささか酒も入って饒舌になっていたのもあり、何なら相談に乗るぞと持ちかけると、知人は「実は」と切り出した。

知人には娘がいる。名の知れた大学卒業し、社会人となって数年。気の早い親ならばそろそろ「良い人」の一人や二人を期待する頃合いである。

が、今現在、知人と娘さんの関係は「ほぼ絶縁状態」だという。奥方とは連絡は取り合っているようなのだが。

事の成り行きはこうだ。

少し前、娘さんにも縁談の話が持ち上がった。父親である知人と同年代の私が言うのもなんだが、娘さんは気配りの利く、嫋やかな女性である

あわよくば私の長男の所へ来てもらえまいか…などと夢想していた事もあった。

脱線した。結論を書く。この縁談、知人の軽はずみな言動が原因で破談となってしまったのだ。

二度目か三度目の、お相手の男性、娘さん、知人夫婦と四人揃ってのレストランでの事だったという。男性のご両親は遠方にお住まいだが、関係は良好だった。

そこで知人が口走った事は、ひいき目に見ても相手の激昂を誘うような言葉ではなかったと、今も私は思っている。

しかし、お相手の男性は違っていた。男性一万円札をテーブルに数枚置いてさっさと立ち去ってしまったのだという。

後に残るのは、突然の事態に追いかける事すら忘れ呆然とする知人夫婦と、泣き崩れる娘さんの三人。それ以後、お相手の男性とは断絶状態。携帯電話まで解約されているらしい。

何と不幸な出来事であろうか。娘さんを溺愛していた知人のお眼鏡にかなう人物だ。きっと身持ちのしっかりした好青年であった事だろう。

私に娘は居ないが、手に入りかけていた我が子の幸せを、自らの不注意で駄目にしてしまったのだ。どれほど不幸な出来事であるかは想像に難くない。

背広姿でごった返す週末の安酒場で、人目もはばから号泣する知人をなだめつつタクシーに押し込み、その日はお開きとなった。


前置きが長くなった。ここからが本題だ。

後日、仕事関係で、若者文化価値観などを長年調査している大学先生お話を伺う機会があった。

せっかくなので、私は前述の出来事を(知人や娘さんの名誉のために各所をぼかしつつ)話してみた。

頭の固い私は「キレる若者」的な反応を幾分予想していたのだが、「ここ数年、温厚で理性的な人ほどそういう傾向がありますね」と、先生はこともなげに答えた。

私は思わず声を出して驚いた。先生は続ける。

特にデスクワークが主な非正規労働に就いている若い人というのは、現状の人間関係仕事にしがみついたり、周囲の反感をいとわずよかれと思った事をする、という価値観希薄な傾向があります

何故なのか。

非正規労働者は、雇用側が必要無いと判断された瞬間に切り捨てられる存在です。労働法規上は色々と制限はありますが、残念ながら現状機能していないに等しい。法改正もあって、そういうワークスタイルに慣れている、もしくは、社会人になった当初からそういうワークスタイルしか知らない若者が近年激増しています。つまり、切られる事に最初から抵抗がないどころか、上の都合であっさり切られるのが当たり前になっているのです。そのため、自らもまた、些細なことで人間関係や所持品を切り捨てる事に抵抗がないのです。近年スマートフォン等による独特なコミュニケーション文化若者に人気なのも、『いつでも捨てられる安心感』に満ちた道具に見えるからなのではないでしょうか」

思い当たる節がある。知人によれば、前述の男性は、特に感情的になった様子もなくその場を去ってしまっていたという。そして彼は、ちょっと特殊技能に長けた、年単位で勤める会社を変えている人だった。

先生最後一言が心に突き刺さった。

「親に愛されなかった子供は、人を愛する事を知らないまま大人になります社会から大事にされなかった若者達も同じ事ですよ」

2013-11-16

子供が生まれたことを親に報告しないことで起きること

私には、6歳年下の末弟が居ます

そこそこ高いレベル高校に行ってたんですが、高校一年生のとき同級生友達自販機荒らしをして警察に捕まり、退学になりました。

その後、母親がどうしても「高校だけは出ておけ」と、通信制学校に通わせました。

母子家庭で、当時働き手が母と私しかいない家庭で、お金さえ払えば高校卒業資格がもらえるようなところに再入学させるのは本当に苦しかった。

でも結局末弟は何とか卒業したもののマトモに就職もせず、バイトがてらにはじめた水商売本業にして、当時付き合っていたキャバクラ女の子地元を離れ、長らく大阪ホストクラブの雇われ店長をしていました。

水商売にも疲れ、身体を壊し、再度地元の土を踏んだのは3年前。

戻ってきたときには付き合っていた彼女結婚していて、先日子供も生まれました。

昨日「一昨日生まれたよ!」と私にメールがきて、おめでとうと話をしたところです。

しかし、ウチの母親は末弟に子供が生まれたことを知らせてもらえていません。

不幸自慢ではないのですが、ウチの母親大分情緒不安定でお酒が欠かせなくて、人とのコミュニケーションもへたくそです。

私も長男も末弟も、酔っ払った母親友達を罵られたり、母親が突然自分友達の親に電話をかけて「あんたの子供と付き合うようになってからウチの子供はおかしくなった」と言いがかりをつけたり、異常なレベルで行動を監視したり、持ち物を漁られたり、子供奴隷か何かと勘違いしているフシなどありました。

特に末弟は幼いころから身体が弱かったため、何度も死ぬような目にあい母親は「今度死にかけたら私と死のうね」と、高熱を出すたびに諭していたほどです。

この親のそばに居たら頭がおかしくなる。

この親は普通じゃない

早く逃げろ、早く遠くへ行こう。

幸い兄弟同士は仲が良かったため、みんなで母親無視していました。

兄弟各々成人してからは早々に母親の元を離れて暮らし彼女存在をなかったことにしていました。

正直、普通母親とは言いがたかったウチの親ですが、年齢を重ね、そして私も年齢を重ねることで、許容できることが増え、今ではある程度の距離さえあれば会話も出来るほど拒絶感も薄れてきました。

彼女も年々年老い、人並みになってきたからかもしれません。

私は33の既婚で、子供はまだです。

旦那子供は望んでおらず、私自身も積極的に欲しいと思っていないため、末弟の子供はウチの母親にとって初孫

普段から「末弟は高熱ばかり出したから子種がないはず、孫の顔は見れないだろう、私が生きているうちにアンタ(私のこと)が子供を生んでくれたらいいのに」と、勝手なことばかり言っている母親にとって、本当は孫が出来たときに話して欲しかったでしょう。

生まれたなら、いの一番、知らせて欲しかったでしょう。

でも、それをしてもらえませんでした。

彼女は末弟にとって、今でも異常な、自分の子供に合わせるのも恥じるような存在からです。

末弟がどんなに母親のことを嫌悪しているか、十分知っている。

だけど、自分も人の親になったのだから、筋を通すべきところもあるはずです。

好き嫌いだけで、一番最初をしくじってはこれから関係が悪化するだけで改善なんかできっこない。

人生楽しく、みんなに愛されて育てていこうと思うのなら、まずどんな反応をされようとも報告という過程を飛ばすべきではない。

私は再三にわたり、彼に「今自分がしようとしていることの重大さ」を説きました。

自分タイミングで話すからいい」

果たしてそれでいいのでしょうか。

生まれたことを、一ヶ月以上も報告しないこと(正月にツラっとして連れて行くと言っていた)。

この状況で、母親は末弟の嫁を更に気に入らなくなるだろうし、これから大きくなっていく姪を可愛がることもないでしょう。

絶縁状態になり、恐らくは節目の行事には参加しない・させない関係になる。

もともと母親のことを必要としていない末弟は、それでもいいと主張しますが、それはあまりにも身勝手すぎる。

母親が居なければ自分は居なかった。

人の親になってもなお、成長できていない愚かな末弟には、本当に何も言うことが出来ませんでした。

困ったことがあれば助けてやろう。

そう思っていただけに、今回の対応については呆れて開いた口がふさがりませんでした。

親族に愛されない子供を抱えて、四苦八苦すればいい。

永遠に、血族と無縁ではいられないのだから

2013-10-29

協議離婚しました。

http://anond.hatelabo.jp/20130603123513

上記の別居のち裁判になるのが面倒だったので、元夫からの要求をすべて飲んで離婚しました。

元夫からの要求は


なんつうわがまま・・・面会はしないというのは予想外でした。事前に面会の可否を聞かれて「可」と返事をしていたので

①会う=払う(面会料)

②会えない=でも払う(責任感)

③払えない=でも会いたい(執着)

という3パターンを想定していたので

④会わない=払わない(ポイ捨て

は新しい離婚の条件だなと。

ちなみに養育費子供権利で私の権利なので請求することができるのは承知してます

また、元夫は年収700万ほどあるので払えないわけではないです。

元夫側の弁護士も内容を変えるように説得したらしいですが、本人の決意が固く・・・メールがありました。

その後はあっさりと離婚届けを提出して終了。


その後よく人に聞かれる質問をここに。

ロミオメールこない?

来ないです。娘の誕生日に僕はもう戸籍上パパではないですが、愛していると伝えてくださいとメールがありました。

若干悲劇主人公風に酔ってはいるようです。

ストーカー化してない?

ないですが、弁護士さんには、すべての連絡手段を絶つと危険なので、携帯の番号は変えない方がいいですよとアドバイスをもらいました。

更に別の場所引っ越しました

田舎のご両親はなんと?

別居するときモラハラの本を渡したらやり直せとは言われなくなりました。

噂好きな親戚の女性陣などでも「女が一度こう決めたらやり直せないのよね、次いこ次」と前向き。

父はきっと一度ぐらい元夫を殴りたかたかと思いますが、孫可愛さに無言。

・元義理のご両親・ご家族はなんと?

誰一人連絡がないのでどう思われているのかわかりません。孫に会いたいという要求もないです。初孫でしたが。

・もし元旦那さんにあなたの事を聞かれたらどうしたら?

人見知りなのでまず聞いてこないと思います。が、聞いてきた時は知らないふりを。それから自衛するので私に教えてください。

母子家庭って金銭的にどう?

フルタイム正社員だと通常の手当てすら所得制限にひっかかっているので、まったくメリットはないです。

あるとしたら保育園に多少入りやすいとかでしょうか。それでも満員で入れませんでしたが。


以上です。

2013-09-27

処女結婚した

http://anond.hatelabo.jp/20130920182350

昭和が終わる頃の話だから、今とはいろいろ違うだろうが。

結論を最初に書いておこう。「やめとけ」に尽きる。処女の相手だったら、結婚する前にやっとけ。処女結婚するということは、「食べたことなもの試食レビューもなしでいきなり大盛りを注文する」のと同じだ。

何年も付き合っての結婚だったのだが、いろいろな理由でセックスはしなかった。私はその前に付き合ってた彼女とは、若さもあって結構やっていたのだが、嫁はそういったことを嫌がったこともあってやらなかった。こっちも「どうせ結婚したらやるんだから、何もあわてて」とか思っていた。ちなみに、前の彼女とは、処女童貞だった。それでもお互い工夫して、気持ち良くなるように成長した。

実は結婚しても、1週間やらなかった。結婚式して、籍も入れた後だから、何の制約もないと思うのだが、「嫌だから」という理由でやらしてもらえなかった。さすがに1週間したら、諦めたみたいだったが。

どちらの両親も孫の顔が見たい(どちらにとっても初孫になる)から、「子供はまだか」圧力は高い。ところが嫁はセックスが嫌い。どうなるかと言えば、「排卵日を計算して、その日にやる」ということになる。言うなれば交尾」とか「種つけ」という感じだ。こっちは、何年もおあづけされた上に、させてくれないのだからケモノになりたかったのだが、そうは行かなかった。

いろいろあって、子供は2人出来た。やった回数は、浮気相手も含めて一番少ないだろう。当然、もう10年以上完全にレスだ。

もちろん嫁を好きで結婚した。客観的に見れば、「よくあんなのと」と言われそうではあるが、それでも好きだったし、ずっと嫁だけを女と思おうと思っていた。その分嫁を愛そうと。元々、自分はたいしてモテるとも思ってなかったので、浮気なぞ機会もなかろうし。忙しいし稼ぎもないし、田舎だったから、それ程誘惑もないだろう。

ところが、それだけ思っていても、心は折れる。求める度にいろいろ正当そうな理由で拒否され、身体に触れようののなら「触らないで」と言われ。家事は... まぁ、やめておこう。

そんなわけで、お定まり浮気に走る。この辺の話は割愛

よく、「心がつながっていればセックスは」みたいなことを言う人達がいる。それに一理はあるだろう。しかし、一理あるだけだ。

人間なんて、そんなに理屈通りに行動するわけでもなければ、道徳的なものでもない。ましてや、今まで他人だった男女が一緒に生活するのだ。セックスなしで何とかなる人も、あるいはいるだろうが、たいていはそうじゃない。愛のあるセックスをしているカップルは、「理屈抜きの一体感」があるもので、他人に「友達です」と言っても、「こいつらやってるな」ということは、わかる人にはわかるものだ。逆に言えば、そういった「一体感」の元は「セックス」だとも言える。それくらいセックス大事ものなのだ

から結婚しようかという時、相手とセックスが上手く行くかどうか、セックスの相性がどうかというのは、とても大切なのだ。「セックスの相性はとても悪いけどれど愛しあってます」というカップルも、あるいはあるかも知れないが、それは例外的ものだと思っていい。人間の「愛しあう」というのは、理屈とか精神だけじゃない。そもそも、結婚は「恋愛集大成」ではない。これから関係を深めて行く、その区切りに過ぎない。

そういったことを思えば、処女結婚するということが、どれだけリスキーかわかるだろう。うまく行った人もいるだろうが、宝くじが当たる人もいるんだから、うまく行く人もいるだろうさ。

処女厨非処女を「他人のチンコの入った女」とか「他人のチンコをちゃぶった口」だの言うのだが、処女なんて「まだ誰も手をつけてない」ってだけで、それ以上の情報は何もないのだぞ。身持ちが堅いからそうなのか、単に機会がなかったからなのか、他者との関係構築が出来ないからなのか、そういったことは何もわからない。セックスの相性が良いかどうかは、もちろんわからない。つまり、「食べたことなもの試食レビューもなしでいきなり大盛りを注文する」のが、処女結婚すると言うことなのだ。

2011-10-05

出生届と死亡届を一緒に書くということ。

兄(の嫁)が子供を生んだのはちょうど3年前。

うちの家族初孫でみんなものすごく喜んだ。

同時期に兄の一歳下の姉も妊娠しており、その3ヶ月後に出産をひかえていた。

同級生になるね、なんて話していたのはそれくらいの時期までだ。

姉のお腹は異常に大きくなってきて、痩せていた姉の浮き出る肋骨とは対象的に、なんか怖い感じになっていた。

「なんか怖い感じ」は病院検査した結果「羊水過多」と診断された。

お腹赤ちゃんの肺がうまく発達しておらず、栄養である羊水を吸収できていないらしい。

からお腹はどんどん大きくなっていた。

大きな病院入院した姉は、羊水を抜いたりしながら出産に向けて慎重に過ごしていた。

ほぼ確実に障害を持って生まれてくるだろう、と言われていた。

12月のすごく寒い時に、姉はなんとか出産した。

赤ちゃんは見ていないけど、姉から見せてもらった写真では髪の毛もしっかり生えていたし、

体重も2000グラムくらいあったそうで、少し小さい赤ちゃんって感じだった。

でも少し小さい赤ちゃんは鼻に大きな管が通っていて、それを固定するためにほっぺにはぞうさんのイラストシール

貼られていた。生まれた赤ちゃんは様態がよくなく、姉はうちから時間半の病院毎日赤ちゃんの面会に行っていた。

限られた時間しか会うことができず、さらに抱っこすらできない。

管まみれで寝ている赤ちゃんに触るだけだ。

姉は、完全にやつれていて、でも今日は動いた、とか、今日は笑った気がする、とかそういうことを話していたと思う。

よその赤ちゃんはなんで普通に生まれてくるのだろう、と誰にも言わないが家族みんなひたすら思っていたと思う。

12月30日にもうだめかもしれない、とお母さんから聞いた。

12月31日、赤ちゃんは危篤状態だった。

1月1日。世の中は新しい年が来たことを喜び、騒ぐ中で、赤ちゃんは息を引き取った。

の子が生きたのは20日間。

480時間だけ。

あんなに悲しい元日は二度とないだろう。

亡くなる直前に、姉は初めてわが子を抱いたらしい。もう死んでしまうとわかってからはじめて子供を抱く心境というのは

正直想像できない。

かわいい姪っ子に私が初めてあったのは、元旦の夜。

遺体が悪くならないように家で暖房をつけず、寒かったことは覚えている。

赤ちゃんは、私がプレゼントしたピンク帽子手袋をしていた。小さいうさぎプリントの。

はじめての外は寒かったかな。

姉が赤ちゃんを抱き、母が「○○ちゃん、おうちだよ」と言いながら入ってきた。

用意していた新品の布団に、冷たい赤ちゃんを寝かせた。姉が写真を撮って欲しい、と言った。

初めての親子の写真最後の親子の写真

友人や知人、ドラマ映画漫画小説、あらゆるとこでみる「出産」に、こんなのはなかった。

一年半後、姉はまた妊娠した。

多分、赤ちゃんしか悲しみが埋められなかったんだと思う。

みんなが祝福したし、みんなが緊張していた。

万全の体制で、とにかく健康に生まれてきて欲しいと思っていた。

生まれてきた男の子赤ちゃんに会いにいった。

赤ちゃんはまた、見たこともないくらいの数の管を小さい体にたくさんとおして、そのせいか、顔がうっ血してすごく茶色かった。

仰向けに寝かされていて、足も、うでも、顔も、お腹も、管がついていた。

おむつがぶかぶかだった。

なんで私が会えたかというと、もうすぐ、亡くなるから、だそうだ。

管さえ外せば亡くなる様な状態だった。

でも確実に生きていた。名前を呼びかけると、苦しそうな茶色い顔して、管のついた足を上げたりした。

の子はどれくらいの苦しみとか痛みの中で私たちに答えてくれたんだろうか。

あいときの個室は、もう異様なくらいにみんな穏やかで、

「○○くん、すごいねえ〜〜」なんて話しかけるしかできない。そういう優しい話し方でしか空間を保てない。

一人目の赤ちゃん写真をもっと撮ればよかった、と姉が言っていたので

私は看護師さんに許可をとり、たまたまもっていたコンデジ写真を撮りまくった。

ムービーを撮りまくった。そこには動いている赤ちゃんが写っている。

みんなが呼びかける声が残っている。一人目の子の時には残せなかった、生きていた証。

翌日その子も生きを引きとった。2日しか生きてない。

48時間しか生きていない。

赤ちゃんが亡くなったあと、姉夫婦が初めて赤ちゃん沐浴をしている写真がある。

やつれきった二人に、茶色赤ちゃん。顔がむくんでいて、痛々しい。

天国お姉ちゃんがまっているから、仲良くできるね」なんて奇妙なセリフにみんな同調していた。

見たこともないくらいの、小さな棺に、赤ちゃんは入れられた。

管をつけていたせいで顔にはあざがたくさんあった。

健康赤ちゃんが生まれてくることが、なんでこんなにも難しいことなのか、

こんな悲しみがなぜ姉に2度も訪れるのか。

どこにもぶつけられない感情家族を覆った。

出生届と死亡届を一緒に書いている姿は、何にも例えられない光景だった。

2人の赤ちゃんが生まれてすぐ亡くなった原因は未だにわかっていない。

このことを思い出しては、本当に姉が不憫になるし、今も働きながら、本当は苦しみながら、前向きに生活している様子に心底尊敬する。

2010-10-30

義父の機嫌が良くなった

初孫(女の子)が生まれたからなのは言うまでもない。そして、俺に対して随分と親しげに話しかけるようになった。

何故だろうと不思議に思っていたのだが、義父の何気ない一言から理由が判明した。

「これで増田君も、娘を嫁に取られる父親の気持ちが分かる日がいずれやってくるというわけだ!」

お義父様が大事に育てた一人娘をかっ攫って本当に申し訳ございませんでした。

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