はてなキーワード: ポジティブとは
本来は被害を受けた当事者への共感を伴った義憤によって分母を大きくする事で加害側への責任のサイズを正当にしそこに個人に納まらない社会においての蔑視的観念の影響が認められるなら啓発としての批判的働きも含めというような概念で本当は消費できない存在をそのように扱うことへの糾弾的皮肉的意味合いを持った言葉なのに今では性的な消費という言葉を拡大解釈させて女性という概念への被害を叫ぶ事で属する自身をも直接的被害者としてカウントさせ正当化させるための単なる利己的なツールと化してもきているようで辟易する
加害者に責任や制裁を求めるのも当事者である被害を受けた女性によりも集塊した個々の怒りに対して望むような傾向が見られるし主観の域を出ない個人的感想の主語を"女性"とすり替え同調を誘う事での自己正当化また溜飲を下げるための手段や非難のための免罪符としても使い勝手良く氾濫してしまって意味性としてはむしろ正当性が削がれていっているように思うしそこに危うさも覚える
その言葉は多くを包含する女性という概念の下で主観的なものに左右される消費への定義を振るうものであるのに消費という単語が持つ即物的な客観性を含んだ印象のためにさもそこに共通する絶対的な基準が存在するかのような錯覚を起こさせ個々に主観を反映させたそれを自身の正当性の担保としたならそこに齟齬や違和は当然生まれるし実際見ていると女性間でさえ性的価値観の差や意識差においてその寛容さ奔放さを自身との相違でもって本来は違って当然で双方が尊重し合うべきものであるあくまで相対的なものでしかないそれを性の消費へ加担しおもねるものだというような非難へ繋げていて(エマワトソンのトップレス写真問題が分かりやすい)それは女性が選択できる性的自由度の幅を狭めるようなもので全体主義的というかほんとどうなってんのというきもちになる
それは加害者としてファンタジーと現実の区別がつかない人間だけでなくその性的対象にも原因を求める痴漢の自衛論的な発想でそんなものでも"被害を受ける女性性"を盾にすれば正当性を伴ったあまりに大きすぎる分母の代弁者として振る舞えるそんな客観的正当性を欠くような類の安易な乱用が許されるガバガバな現状はともすればそのまま安易に女性性が消費できるものだと定義認識されかねずそれはいわゆる二次元のキャラクターなんかに対して更に顕著で代弁し得る被害者がいない分自身がその対象を受け入れられない不快に感じたそれを消費されているとして被害を主張し嫌悪不快感の赴くまま狭く特殊な世界の性的な意図や人によってはポジティブな性的さと捉える類のまた場合によってはそんな意図自体端から無いようなものにまでその責任を取らせるため拳を振り上げ本来は絵や漫画に限らず性的なまたは偏った視点による都合のいい理想像としてそのために用意されたもの次いでそれらへの一方的な性的な視点と現実の女性は全くの別物で前者に後者を反映させる事はあってもその逆は原則的に無いとすべきところをむしろ進んで混同を招くかのようにそこに消費できる女性性が存在しているまたその性的な偏った視点が消費され得る現実の女性性を含むものとするそれこそ現実に生きる女性への冒涜でそれは特殊嗜好やそこへ向けた性的娯楽表現で社会における女性男性を定義するような性的玩具に女性性を認め性的な消費だと言うような話でその辺の誰かが言ったおっぱいエロいって発言が胸を象徴としての性的な興味の個人的な発露なのかフェティシズムとしての限定的な性的嗜好によるものなのか対象のポジティブな性的魅力の客観的優位性を語るものなのかそれとも女性を性的な消費物としてしか捉えていない事での無意識の発言かなんて場合によっては当人にも分からないのに性的さや性的な魅力へ惹かれるそれ自体を消費だとするそれは傲慢以外何なんだという話でものの区別がつかないのかと思う
私はそれこそそんな身勝手に"女性が消費される"なんて言葉が使い回されるそれに"女性という概念が利用され消費されている"という気持ちになる(皮肉)
いや実際性的なものに限らずそんな類の感情にまで体よく使えるそれこそ消費という言葉の現状へ思う事でもある
言葉自体を使う事被害を訴える事共感や怒りそれ自体や社会の在り様を問う事疑問を持つ事嫌悪感や不快感その苛立ちをどうにかしたいという気持ち許容しかねる性的価値観や被害者がいなくても"女の子"とされるものの後ろにいる人間への非難めいた感情やその影響への懸念やそれを示す事それが問題なんでも悪いわけでもなくそれが本当に正当性のあるものかそのマイナス感情は自分に帰結するものではないかその対象が個人的なものかまた属するグループの特徴か社会に反映され得るもの社会を反映したものかを考える必要を欠かせたまま通用させてしまいかねないその責任感の無さからの軽率さでお手軽にやってしまえるそこが言葉の持つ重さに対してあまりにもに思えるしそれが招く扱う内容や巻き込むものの影響のサイズを考えればそんな程度に扱えるものではないはずなのにと考えてしまう
個人的にはそれが気に入らないものを非難排除する印籠または虎の威を借る狐的使われ方だとしてかわいさややわらかさみたいなものを弱さだと前提として定義してその上で"弱い女性"を理想化している事での消費という捉え方での使われ方が無意識に男性性への優位的価値基準に基づく無責任さを見るようで本当に恣意的で独善的できらいだし理想像の偏重さへの抗議の意としてそれが言われる事もあってでもそれは他を貶めて相対的に優位さを確保するやり方でその度そんな事に問答無用で総意として私が女性という性で巻き込まれまた使い方如何でその責任まで勝手に負わされることになるその不当で理不尽なガバガバさがほんとうにほんとうにきらい
そしてきらいだけどそれは個人の意見でそれに異を唱え打ち捨てたいと思う人もいるように本来性別のようにグループにおける総意とは"個人的に""私は"の集約であって集約されるという過程を飛ばして個人が主観で代弁できるようなものじゃなくするべきでもなくまた次いでその中に見られるあくまで問題解決への手段である問題提起とその周知を自尊心を満たすための個人の目的としてとやってそのためにと短絡的に対象を大きくとり優生学的に貶し相対的また絶対的優越に浸りそれを自己肯定感へ繋げ反芻するその姿は痴漢や他の性的被害に対して女性への蔑視的思想でもって心無い人間によって見られるようなそれでもあり持ち出す内容やその是非倫理性は違っていてもそれ以前に同じ事をしているというその影響は個人でなく"女性"の代弁としてやるには確実にあってそうしてしまう事で女性の言葉"としての説得力が失われていき実際そういう観念でもって本当に総意の力が必要とされている場でもその説得力の有無をこちらへ突き付けるような人間が少なからずいるその事も恐ろしいしその必要な人のための必要な場のためにも代弁者とするなら個人的な部分をこえたところでの危機意識は持つべきものだと思う
個人として何を思うのもどんな価値観を持つのもそれを発表するのも基本自由ではあるけど少なくとも女性というだけでなく大きな枠で多くを巻き込む事になる上で代表として語るならその自覚はあるのかそれがどこから来たものかそこに客観性が含まれるか主観とは区別できているか自論であるなら自身でそうだと理解しているかそれを示せているかのひとつくらい考えて使うべきだと思う
本当にひとつでも十分なのにと思う
というような事を消費という言葉を見る度思って胸焼けを起こすので文字に起こした
提言とかでさえない
彼のような発信力のある人がそんなこと言ったら、批判されるだけで何にもならないじゃん、という愚痴である。
著者が言うのは仕方ないかなとも思うけど、編集者の立場で言うのはナシだ。
まとめサイトとかで吹き上がれば外圧になる?ならないよ、版元の偉いさんの鈍感力舐めんなよ!
直近は男性向けラノベ。数年やって、最近現場を離れた。メディア化、中ヒットくらいまでは経験がある。
いまやっていることまでは黙っておく。
電子売上を逐一見れないというのはウソである。いや、平林氏は見れなかったのが本当ならウソというと語弊があるが。
Amazonはじめ、情報は取ればいくらでも手に入る(買うことも多い)。自分は週ごとくらいには電子売上を見ていた。
ではなぜ売上が見れないなどと平林氏ほどの人が言うかというと、会社によっては買ってなかったり、営業しか見られなかったりするからだろう、という問題の他に、
電子売上が見られても大した働きかけができない、というのがある。
ライトノベルで言えば、紙の書籍の売上数の10~20%くらいが電子書籍で売れている(モノにもよるがだいたいそんなに変わらない。売れたものでも売れなかったものでも似たような数字になる)。
10000部売れている本なら、それプラス1000~2000部の電子売上がある、と考えてだいたいよい。
そしてその2000部があったとしても、続刊判断とか重版判断の材料にはなかなかしにくい。というか、電子の利益は加味した状態で採算をとっている続刊判断なのだ。
この売上比率が50%を超えるくらいの外れ値をだしたら流石に考慮するに値するだろう、営業もバカじゃないので。だがそんな数字にお目にかかったことはない。
あと、紙の書籍は取次に納品すれば現金になるのでそこからイラスト、デザイン、DTP、校正とかの固定費を払うのだが、電子書籍は売り上げるまで版元に金が入らないので、固定費を捻出する別の財源が必要になり、それが中小だとそれがなかなか苦しく、紙である程度刷れない作品を出すのは難しくなる。
※実際いちいち取次と現金のやり取りをしているわけではない。念のため。
この辺、業界的になんとかならんかったんかと現場としては思うが、木っ端編集者としては何もできないので置かれた場所でやりくりするしかない。
紙で委託販売を維持するなら、電子書籍の納品でミニマムギャランティーとるとか?市場が死にそう。
委託販売がもう無理なんだろうな、とは思っている。取次の流通能力もかなり落ちていて、システムが崩れていく最中だというのは感じる。書店も体力ないし、その書店ならでは施策が上がってくることがどんどん減っている。
電子を毛嫌いする編集者とかもまだまだいるけど、全体の流れとしては、現場では電子軽視の雰囲気はなくなってきている。確実に利益になるし、個人的には紙の客を奪っているとも思わない。
ただ、印刷費がないから利益が増えるんでしょ、というほど簡単な話でもない。AppleやGoogleだと3割ぶっこ抜かれるし、Amazonも条件きついし。
電子書店用のプロモーション方法が確立されていないのも難しい。やっぱり欲しいものをピンポイントで検索して買うことが多くて、書店の店頭をざっと見るような買い方とは違ってしまう。でも頑張らねばならぬ。
平林氏は星海社だから、音羽基準の話かもしれない。音羽みたいにクソデカ規模になると、ランキングとかも追いきれないのかもしれないね。普通に仕組みの開発を怠っていただけだと思うけど。
自分は、作った本のアマランくらいは追っていたし、会社でもデータとっていた。だいたい悲しくなるから見たくないけどね、仕事だから。
だから平林氏もそういうこと言うのか……という(勝手な)失望があり、見る人がいるのかわからない無駄に長いこんな文を書いている。
ただ実際問題、初速が出なかった商品がその後売れるようになるかというと、少なくともライトノベルにおいてはほぼありえない。
いまの出版システムが、どんどん新刊をつくって納品して、書店の棚を回転させ続けるというかたちで成り立っているので、1ヶ月も新刊が書店に置いてあることが稀なのだ。
都心の書店を見ていると棚が充実しているのでわからないが、地方の中規模郊外店なんかだと顕著だと思う。
特に回転が早いのがマンガとライトノベルの棚で、もう新刊点数が多すぎる。一般の文芸文庫なんかはもうしばらく残るので、それなりにジワ売れもしたりする。
ラノベで初速が出なかった場合、あとから売れる例外は「このラノ」1位をとるくらいだろう。そういう意味では『錆喰いビスコ』は羨ましい。売上ランキングからはわからない埋もれた面白い作品を取り上げるという、「このラノ」のもともとの趣旨にもあってるしね。俺の編集した作品のほうが面白いと思ってるけど!
あとはマツコ・デラックスが取り上げるとか?そういう外部要因がないと難しい。
アニメ化でもない限り、新刊のタイミングが最も耳目を集めやすく、書店もそうでなければ置いてくれない。
紙で初動出なかったけど、電子書籍はめちゃめちゃ売れてます!というケースも寡聞にして聞いたことがない。少なくともライトノベルでは。
マンガは識者も多いし、映像化もじゃかすかあるから、埋もれた名作があとから売れることもあるかもしれない。ジワ売れもたぶんラノベよりはあるだろう。
初速が出なくても、そういうのを待って考えれば?と言いたくなることもあるかもしれない。ただかなりのレアケース、宝くじみたいなレベルだと思う。
版元に好意的に解釈すると、作家の人生を考えたときに、売れなかった作品を売れるまで待つくらいなら、次の作品で売れることに賭けた方がいいよね、という話だと言えると思う。
特にマンガは兼業でやるのが難しいし、並行連載ができる人も限られた一握りの筆の早い人だけだから、諦めて次にいく、という判断を早めにするべきだということなのではないか。
会社員の編集者は既刊が売れるまで待ったりそればっかり宣伝していても上司に怒られるだけで給料はもらえるが、その間、作家にはお金をあげられないわけで。
版元の本音を言えば、売れない作品にかかずらってないで別のやればいいじゃん、ということになる。これはまあ商売だからある程度仕方ないよな、と自分で納得するしかない。せめて続きが出ないときには、そう読者に言ってあげるのが誠実なんだろうな。
他の作品で売れたときに、過去作の続きを書かせてあげるご褒美システム的なものは電撃文庫などでやっていたけど、過去作の方の続きは結局売れないんだよね。
問題意識はあるのだが、目の前の本を作って飯を喰うので精一杯、業界的に旗振れるような立場があるわけでなし、独創的なアイディアがあるわけでなし……
無力感を覚えるので、業界構造について考えるのはしばらく前にやめてしまった。
一通り書いた結果、結局ユーザーに甘えていることを言い訳しているだけになってしまった気がする。
ただ初速で、というのを変えるのは難しいよなあ……。たとえば新発売のお菓子だって、初動の売上悪かったら生産量落とすと思うし。
統計ではラノベ市場が伸びていると言われることがあるが、数字上の話であり、実感としては縮小している。
点数・金額が増えているのは、いわゆるなろうモノをやるレーベルが増えており、合算しているから。
文庫市場は小さくなっている。特に新作を伸ばすのがめちゃくちゃ難しい。
B6、四六判市場も飽和しており、1作品あたりの売れ部数は少なくなっている。というか、読者の絶対数が少ないのに参入障壁が低いからってわらわらと各社レーベル作りすぎである。
ここ2年で四六判に参入したレーベルでマトモに売っているところはないので、もしなろう作家がいたら、悪いこと言わないから新しいところはやめておけ。
eb、カドカワBOOKS、GA、HJ、MFBあたりを狙いたい。アース・スターとGCとOVLもそこそこ。レジェンド、マッグガーデン、ツギクル、ドラゴンノベルス、サーガフォレスト、BK、プライムノベルス、Kラノベブックス、ガガガブックス、Dノベル、宝島社、ディヴァースノベルには自分が著者だったら渡さない(個人の見解です)。電撃の新文芸もアカンっぽい。というか四六判レーベル多いね……
他社のレーベルは早く潰れればいいと思っていたし、なんなら自分のいたレーベルもラノベ市場のことを考えたらやめるべきであった。会社員だから無理だけど。低クオリティのものが量産され過ぎている。
なろうはクオリティを低く妥協しようと思えばいくらでも妥協できるので……
現場としては何言ってんだだが、音羽一橋飯田橋の偉いさんには届かない。
思えば漫画村からブロッキングの時点で現場は「はぁ……?(呆れ)」みたいな感じである。
長くなったし疲れた。
思いついたらまた書く。
結局何が書きたかったかというと愚痴なのだが、冒頭にも書いた通り、ネガティブな業界問題をお客さんに押し付ける宣伝はしてほしくない。俺は怒っている。
みんなが不快な気持ちになって、よく知らない人には「出版ってこんなに駄目なのね」って思われて、従来のファンは「業界は進歩しないのね」って思われて、そのうち愛想つかされる。
もっとポジティブに、面白い!すごい!神!って言って楽しい気持ちで作品をひろめていこうと思っているし、みんなそうあってほしいです。
>昔は電子0%だった~
一理ある。でも同時に各作品の刷り部数も売れ部数もどんどん下がっているから、そして全体のコストは下がらない(たぶんほぼ人件費なのでそこまで上がってないとは思うけど)から、そこの穴埋めに充てちゃってる現状だと思う。
特に一部大手は編集者のコストが高すぎるとは思っている。給料も高けりゃ経費も使いすぎ。まだ90年代の頭してる。
ほんとうにござるか
ミニマムギャランティとかを仮に導入したとして、マンガ、ラノベ、ビジネス書のベストセラー、エロ以外の電子書籍は死ぬと思う。
マジで売れてないので、電子書店が入れたがらなくなってしまう。
返品同様、売れなかった電子書籍に対しては版元がお金返すとか?
リアル書店の仕組みとして良し悪し両面あるものの、返品できるから気楽に店頭に並べられるというのはあると思う。出版文化の多様性に寄与している。
電子営業やったことないし肌感覚が足りないので、あまりわからないことにこれ以上言及するのはやめておく。
これも一理ある。俺も期待している(誰か、もしくは未来の俺に)。
データに強い人、分析ができる人というのを版元は重視してこなかったから、そういうプレイヤーが業界にいない。
たとえばそこの売上5%の差違を分析する間に、『SLAM DUNK』の復刻版がめちゃめちゃ売れるわけだから、そっちの仕事した方が儲かるし高い評価になっちゃう。
経営層にもうちょい踏み込ませないと、というのは内部的な話なのでもっと頑張りたいところですね。
バズった!初めて増田書いたし普段はてブもホッテントリみるだけだったから、不思議な気分。仕事するふりして更新しちゃう。
みんな出版業界の話好きね。こういう関心持ってもらえるうちが華だから……
レーベルの話とか筆が走ってぶっちゃけて書きすぎたし、違法ダウンロードの話は要らんね。いま編集者の立場で発言するなら触れとこうかと思ってしまったけど。
文庫と四六判は別で考えてるし、人によって版元や編集者の良い悪いの条件は変わるから、話半分程度で。
基本的に、やったことのある範囲の話しか知らないし、大きくズレてはいないと思うけど他社の話はまた違うと思うので、絶対じゃないよ。
読んでくれてありがとう!
下手、読みにくいと思った人は、良かったら具体的にどこが読みにくいか教えてほしい。参考にする。
自分の書いた文章なので、読みにくさをなかなか感じにくいのです。
平林氏は若くてめちゃくちゃすごい有能な編集者で、ベストセラーたくさん出してる。マジですごい人。担当作もだいたい買ってる。
でも電子売上が見れないとかの主語が無駄にでかくて嫌で、初週売上とかでお客さんを脅迫するような言説も嫌で、星海社で社長と直接話ができるような立場にいた人が、手詰まりで必死な作家と同じような宣伝をするのに勝手に悲しくなって、勢いで書いた文章なので、触れざるを得ない。
ここ読みにくいね!
編集者ではなく作家に近い立場になったので、言いたくなる気持ちはわかるけど。
実名でやれって一蹴されたのも、そりゃそうだと思います。向こうは顔出してるんだから。
でも実名でこれ書いたり議論したりして、俺の担当作品が売れるようにはならないからね。
>お前ら内輪の事情なんぞ知らん、的な
その通りだと思う!
だからそういう暗くなること言って宣伝するのやめたいねっていうのが本義。余計なこと書きすぎた。
あと、電子でも紙でも好きな方で買ってください。売れればOK、ちゃんと数字は見てる。
そして読んで、面白かったら「面白かった」ってツイートしたり知り合いに薦めたりしてほしい。
KADOKAWAのブックウォーカー優先も終わって、大手ラノベレーベルはどこも紙と電子同発になったんじゃないかな。そもそも配信してないところを除いて。
業界のことは俺たちプレイヤーが考える問題、本来お客さんに押し付けるものじゃない。
でももし外から新しいことを考えられる人が来てくれるのなら、歓迎したい。そういう意味で、いま感じている実状を書いたので、提言してくれるのはすごく嬉しい。
なんで諦めてるんだ、偉い人はなにやってるんだってトラバにあるけど、結局頭が切り替わらないと無理なんだと思う。
古い体制にしがみつく編集者にはなりなくないから、自社内でチマチマ動くことや、社外でも同世代と意識を共有することは少しずつ。
自社だけ動いても意味がなく、せーのでみんなで変わらないといけないことだと思うので、大手を説得できるようになりたい。材料も能力も足りない。
いまどきHIVポジティブでも、薬もあるし大丈夫。 他人に感染させないようにすることだけ気を付ければ大丈夫。ところで今でのAIDSになって死んでる人っているのかしら…
ハーフという呼び名はネガティブだからダブルにしよう、という働きがある
私はむしろダブルこそ言葉として、その成り立ちからネガティブさとは切り離せないものなのではないのか、という疑問を持つ
そしてそのネガティブさは多くの人間に対して向けられているものではないか、とも
少なくとも現状、違うルーツの両親を持つ呼称としてのハーフの言語的な概念は、当人を100とした、単純に両親の異なるルーツでもって50/50とする、またそれを前提としての略語、もしくは任意において一方のルーツをベースとし残り半分の割合を指すものがメディアで目にするものも含め一般的なものであるように思う
同じくクォーターも4分の3は言及せず、またベースとして略すもので、それはシンプルで客観的で図式的な概念であり、本来の単語としては感情的なあれこれの入る隙は無い
ダブルへ繋げる論拠として
あるいは血統主義から一方の国、この場合は日本人が半分「しか」入っていないという差別意識を表す
正直に言うとかなりバイアスのかかった発想だな、と思う
先にクォーターをハーフに並べたのはそれが言語として連なると解釈するからで、実際の用法としても多くでそう捉えられているからだ
彼ら、彼女らの言うネガティブさである単語からのマイナスイメージで言うならクォーターはハーフより印象は悪い
ハーフが半人前ならクォーターは人間が四分の一しか出来ていない、となる
ハーフという言葉の指すところが日本人の血の割合である、という主張も日本において多くの場合、単語が表す先が他国名となるクォーターでは通らない
繰り返すが言語的な用法としてハーフとクォーターは現実として連なっている
ハーフの「半分」という意味へ待ったをかけるのならクォーターもそうでなければ筋が通らない
クォーターに通じない論理でハーフを解釈する事は、ハーフでだけでなら可能だとしても論拠として不足が過ぎるように思える
だがダブルの法則へ従って4倍という意味を調べたはいいが、それだと元々の4分の1のルーツを表すという意味合いとは違ってきてしまい、現在使われている割合の意味での用法ではなくなってしまう
それがルーツの数を表すのなら日本3アメリカ1のクォーターは日本とアメリカのダブル、という事になってクォーターにあたる表現に穴があいてしまう
単純にハーフの上位互換として更にポジティブさを、というのならクォーターとの併用も違和感はない
だがなぜかそうではないのだ
単語の持つ意味や印象がマイナスイメージを想起させる、と主張するならハーフを否定してクォーターを許容するのでは整合性がとれない
そもそもこのハーフに対する話は日本の和製英語として、その言外にいわゆるガラパゴス的言語観への若干の批判めいた意も滲ませられ取り上げられている事も多く、それなら、と欧米で一般的にはどう表現されるのかと興味がてらにさっくりと調べると何の事はなくhalfという単語も使われていた
ただ日本のように単語自体にルーツへの意味を含ませるのでなく、そのまま単語として国名や民族名と並べてアメリカ半分と日本半分、のように使われるらしい
またpartも同じように使われるようで、こちらが日本で使われていたら分割という意味にネガティブさが見出されていたのかな、とも少し思った
ダブルはといえばこちらも結局は和製英語であり、更にhalfやpartより一般的でないようで、使うにしてもやはり単語単体では意味が通じにくい、という事だった
そういえば以前テレビ番組でハーフはネガティブだからダブルを広めたい、と言った女の子に同じくハーフのアメリカ出身の女の子がアメリカでも普通に使う、言葉自体にネガティブな要素はない、日本でもそうだと思うという風に言っていて、その認識の違いを興味深く思っていたのを思い出した
ダブルもハーフも海外で通じる通じない、という日本のガラパゴス的意識という意味では変わらず、むしろダブルの方が単語の用例としては一般的ではない様だった
略さないのであれば、また略さないそれがそのままダブルの意味なのだとするのならガラパゴス、という部分でハーフに否定的になる理由はない
ならなぜダブルなのか
調べている中で表現としてmixというものがあり、ハーフやクォーター、またそれ以外をも内包出来る親和性の面でもいいな、と思えたし、実際日本でミックスを表現として使っている人も既に少なからずいるようだった
特に多民族国家ではhalfやpartやquarterでは表しきれない事もあり、mixが段々と単語として市民権を得ている、という印象を持った
言葉としてハーフやクォーターと平行して組み合わせる事も可能で汎用性も高く、会話や文脈によってはmixという単語自体にルーツの意を含ませる事自体も、ハーフやダブルと比較すれば難しくはないらしい
言語的にも、日本のガラパゴス的言語感覚への問題提起としてもミックスを使おう、というならすんなりと腑に落ちる
違う言語圏から見て、初めて聞くハーフというその言葉はネガティブさを含むように見えるかもしれない、と思う
そしてそれこそが嫌なのだ、という人もいるだろう
そして誤解とはいえ、ネガティブな枠で自身が定義される、それ自体への拒否感も理解できる
だがその場合ハーフという言葉に言語として、用法としてのネガティブさは認められない
問題は日本独自の略語、和製英語が生む対外的な混乱による認識の差異、ただ1点だ
単語として、ハーフを基準にそこに優るものとする発想から用意された事は明白で、それは先述した言葉としての有用性や論理を置いてけぼりにハーフという言葉への相対的な優位性のみを後ろ盾としており、当然その説得性にはハーフがどれだけダブルに劣るかの提示が不可欠であって、そのやり方としてハーフネガティブ論が持ち上がっているのではないか、と考える
実際ダブルを広めたい、とする場ではほぼ必ずセットとしてハーフのマイナス面が語られ、ダブルのポジティブさにしてもやはりそのネガティブさに対しての相対的なものに留まり、ハーフが差別的である、ネガティブであるという言ってしまえば既成事実作りとそれを踏み台にしての消去法的優位性でもってでのみ語られる姿はどこか悪く言えばプロパガンダ的だ
ハーフのマイナス面をいくら語ったところでそれはダブルの優位性の証明にはならないのだが、単語としての関連性を匂わせ、選択肢として提示する事でそう見せる、というやり方なのだと思う
そもそもダブルが持つとする言葉のポジティブさの論理は、一歩間違えば純血主義に対し方向は真逆でもベクトルは変わらない、同じ類の比較対象ありきの優生的優位性とも取れる危うさもあり、ともすれば強くハーフのマイナス面を示す事でのあくまで相対的であるとする主張はその指摘を避けるためのものでは、とも思ったが、そこまで考えていないようにも思う
賛同している多くもハーフのネガティブさ、という主張をも含め「素敵な考え方!私達は理解してるし悪い慣習は変えて行こうよ!」というような諸手をあげてのもので、単純に深く考える前に助力になれば、という意が先に出ているようでもある
それにしてもダブルを肯定するという事は当然過去遡って差別的、ネガティブな要素を持つ言葉として使っていたという事を自分も含めて認め、もしくは受け入れる事であり、違うのだとすればそれは一方的に要はレイシズムからなる加害者だとされる事であるのにそこに違和感はないのか、と首を傾げてしまう
そのポジティブさはハーフという言葉に相対的犠牲を理不尽に強いた上でのものなのに、なぜそんな肯定的に思えるのだろう、と
確かに現実としてハーフという言葉にナショナリズム等から悪い意味をのせる人間はいるだろう
しかしそれは今の通例としての言葉の概念上では明らかに例外であり、そのような人間が発する言葉に含まれたレイシズムにその他大勢の人間性を巻き込むのはナンセンスであるし、むしろ仮にダブルが使われるようになったとしてどうにかなるのか、というような現実の用法とはかけ離れるレイシストの意図をその文化圏の象徴のように語るのはそれ自体が差別的であるように思える
その上でネガティブな印象に受け取るのは個人の選択であり、本来の意図される言葉の使われ方やそれを口にした人間の人間性など意に介さずお構いなしにやるそれはあまりにも、という印象が拭えない
自身の自尊心のために半ば言いがかりのようにして他の多くの人間性を否定する
それら全部分かっていてもハーフという言葉をネガティブに取ってしまい、それがダブルという言葉で自己肯定に繋がるのなら、とも思いはする
だが、それはあくまで自己完結としてあるべきで、言葉やそれを使う人間をも巻き込むのは傲慢が過ぎるのではないか、と思う
「ただ自分に誇りを持ちたいだけ」「ポジティブにありたい、それが悪い事なの?」というような声も目にしたが、ネガティブさを押し付けなければ得られない、相対的でしかない誇りやポジティブさとは一体何なのかとやはり首を捻る
そんなものでも彼ら、彼女らは良いのかもしれないが、そのためにレイシズムを含む言葉を使って来たと匂わされるこちらはたまったものではないし看過できるものでもない
その人間の意図や場面を限らず、元の言葉から定義をし直そうとするその行為は紛れも無くこの私も含め、多くの人間への自己肯定を理由にした小さな悪意であり、自尊心やアイデンティティと向き合うためにそうする姿は健全とは言い難く、やはり違和感は拭えない
その人が言葉に持たせた意図やその言葉の意味でなく、ネガティブだと捉えた自身を根拠にポジティブになるためにその相手に非難めく
近くにいたら少し距離をとるな、と思うし、それを「応援」する人間も怖いな、と感じるんだろうとも思う
少し前、流れていたツイートで、ハーフなんだね、と言う女の子に、それも少し前話題になっていたプリキュアの男の子が半分じゃないよダブル、のように言っている画像を見た
そこには(曖昧だが)ポジティブな考え方はマネしていきたい、というような文章が添えられていた
画像の男の子は大和撫子とパリジャンのダブルだから、という言い方をしていた
もしかしたら設定として、その男の子は日本に来て間もなく、誤解の下にハーフという響きにネガティブさを感じたのかもしれない
そんな可能性を示す、そこには何の異議もない
実際そのダブルは和製英語としてのルーツを示す略語でなく、単純に本来そのままの意味として使われているように見えた
現実的に考えてみてもそんな状況ならハーフという言葉に疑問を持ったとして、和製英語であるダブルを使う事は無いだろう
だが、これはアニメだ
この場面の意図に、ハーフに代わる略語としてのダブル、という言葉の存在が前提にあるのは明らかで、また画像に添えられたツイートもそのように捉えていたように思う
女の子が口にしたハーフ=ルーツの意味を含む略語という側面でなく、単語それ自体で受け取らせ、ネガティブだと否定させ、その上で同じく単語の用法そのままの意味でダブルという言葉を並べ、語らせ、そしてその比較をハーフとダブルの印象へと繋げる
先述した通り、略さないのであればハーフという単語を用いるネガティブさ、という方向性での疑問は海外の用例からしても杞憂でしかない
そしてまた、略さないのならダブルを用いて自身のルーツを表す事自体には大して問題もなく、それは確かにハーフを使用する場合より単純な印象としてどこかしら肯定的な雰囲気も持ってはいるようにも思える
だが、そこで略語としてのハーフを否定し、成り代わるよう安易にそこに収めようとやるから辻褄が合わなくなるのだ
もしこの男の子がハーフがルーツを表す略語であり、一般的に使われる表現であると理解しているならどうだろう
その場合、その子はハーフと口にした女の子を差別的な要素をも含むネガティブな言葉を無自覚にでも使った人間であると意識の低さを指摘し、また同時に相手の意図より自分が思う言葉の意味を優先して否定から入るような、そんな子だ、という事になる
そしてそれは当然、その女の子だけでなく見ている子供たちへ向けられるものでもあるはずだ
言葉としての意義に悪者であるハーフを否定する事が含まれているのだからそうなるのは当然だ
これはあくまで仮の話ではある
だが同時に現実としてポジティブさ、という言葉の下で同じ事が無自覚に行われているのも事実だ
そしてそれは何の悪意も意図もなく、むしろ場合によっては羨望の意味さえ含ませハーフという言葉を使う、その女の子と同じ年齢の子たちに本来そんな必要のない罪悪感を負わせる事でもあるのだ
今後、私はハーフという言葉を使い、クォーターも使い、ミックスという言葉も使い、また、もしかしたらプリキュアの男の子が言っていたような国と国でダブル、というような、より肯定的な意を込めたとする表現も本来のダブルという単語の用法のひとつとして使う時が来るかもしれない
だが、ハーフという言葉自体とそれを口にする人間性の否定、というネガティブさを纏ったダブルという言葉を使う事はないだろう、と思う
数年前に小学校からの付き合いの友人(A)からたぶん友やめされた。
特に喧嘩しただとかの記憶はないんだけど、おそらくこれじゃないかというのはある。
※私とA・B・Cは友人同士
D:私とCと同じ高校で、私とは1年のみ、Cとは2・3年のクラスメイト
E:Dの友達
F:DとEがお世話になってるっていう人
Bから、就活中に話した子(D)が同じ県出身で、どこの高校→私とCと同じ高校で知り合いと判明し、そこで話が盛り上がり仲良くなったと聞かされた。
Dと私は特に仲が良かったわけではなく、話しかけられたら話すくらいの関係だったので、その時は「ふーん、そうなのねー、世間てせまいねー」くらいで話は終了した。
その話から4年後くらいだったと思う。
Bから「久々にDから連絡が来て、今度Dの家で料理会やるらしくて誘われた。あんたとCにも声をかけてみてと言われたんだけど、どう?」と誘われた。
暇だったし、Cも行くというし、久々にDと会うのもまぁアリかなーと思って誘いに乗った。
E主導で料理が進むんだけど、(察しのいい方は料理会というワードの時点で気付いただろうが)出てくる調理器具ほぼ全てに「Amway」のロゴがあった。
正直、「あ、しまった、油断してやべぇとこ来ちゃった」と思ったんだけど、別に勧誘されたりとかはなくて、ただ普通にご飯作って食べて帰った。
半年後くらいに、Dから「BちゃんCちゃんと遊ぶんだけど一緒にどう?」と誘われ、ほいほい行ってしまった私は、Dのお世話になってる方だというFという人の家に連れて行かれ、帰る直前にBCと共にDFから軽めのAmwayのお話を聞かされた。
5分ほどの話を聞かされた後に、ここで変に断って帰れなくなるのも嫌だと思い、とりあえず見るだけ見て見ますねーパンフレット的なものをもらって早々に帰宅した。
家についてすぐに親にこんなことがあったと話し、絶対にないけれど、万が一私がAmwayの商品を買おうとしたり、Amwayが素晴らしいんだという話をし出したら、全力で止めてくれとお願いをした。
その後私はDからのお誘いは全て理由をつけて断って会わないようにした。
でもBはDと頻繁に会っていて、私が気付いた時には結構な数の商品を購入していてセミナーにも参加していた。
あれ、Bやばくない…?と思って、たまたまCと2人で出かけた時にBやばくないか?って話をしたら、Cも同じように思ってたらしいんだけど、ネガティブだったBがポジティブになり以前に比べ生き生きしていたし、Dの話を振った時に「商品を使って生活が改善された!」「セミナーで話を聞いて考えが変わった」と嬉しそうに報告がある以外は、こちらに商品を買え買えと勧誘することもないし、セミナー参加のお誘いもなかったから、周りに勧誘し出したら全力で止めよう、ということにした。
しばらくして、ABC私のグループLINEに、Bから●日空いてないか?とお誘いが来た。
私とCは生憎都合が悪く、「ごめん無理だわー」と返したんだが、Aは「いけるよー」と返事、じゃあA個人LINEの方で話しよっかーとなってたんだけど、後で聞いたらそれがなんと料理会のお誘いだったらしく、後日AのfacebookにDやら他のAmway会員(ご丁寧にプロフィール部分に明記されていた)の友達が増えていた。
久しぶりにABC私で集まった時に、その料理会の話をされ、「あ、じゃあDもいたんだね」みたいなことを私とCが言ったんだけど、その後からどんどんAの反応が悪くなっていった。
で、気付いたらSNS全部切られてた。私もBもCも。
だらだらと書いたんだけど、多分これが友やめされた原因じゃないかと思ってる。
私とCもAmway会員だと思われたのかなー…。それか生贄にされたと思われてるのかなー…。
ちなみにBは気付いたら会員じゃなくなってた。Dの話も全く聞かない。
私は一昨年くらいにたまたま同級生の結婚式で再会したDからご飯に行こうと誘われほいほい行った。
びっくりドンキーで普通にご飯だけだったから、「あ、これはDもBパターンかも!」と思って2回目の約束もした。
1回目の時に食器洗ったりで手荒れがひどいんだよねという話をしたら、2回目の時に「これ手に優しいからぜひ使って」とAmwayの洗剤を渡されそうになったのでそこで完全に連絡を絶った。
一度ハッキリ言わしたろと思ってたんやが、人をおちょくるような口調の関西弁で、わざとズレた内容でもって「そんなことないで」という趣旨のトラバばかりつけてくるのは、読む人をイラつかせる一種の悪質なマウントだから止めたほうがいいんやで。
たぶん最初にワイ増田を始めた人は、その口調に柔らかさ的なポジティブな印象を抱いていて、刺々しい応報が多い増田の雰囲気を変えたいみたいな意図があると言っていた気がするんやが、はっきり言って逆効果やで。
「ワイは~やで」という台詞をみただけで、不躾で横柄な態度で絡んできたがるキモいおっさんを想起させるし、臭くてかなわんのやで。
ソシャゲってなんだか延々と水着回みたいなそんな感じがあるよね
イベントキャラは主人公が旅の途中に何かに巻き込まれた際、その中で出会い一時的に主人公と組み事態の解決を目指す(案内役)、あるいはその状況の原因を作っているか解決の鍵となっている(ボス)
主人公と出会いその出来事を体験することでキャラクターに何か(主にポジティブな)感情や意識の変化があって事態が解決したり個人的な目標などに一歩踏み出したりしてなんとなくいい感じにまとまる
また、案内役がRでボスがSRなことが多めで二人には何らかの因縁があり話が進むにつれてそれがイベントの要みたいになってくる
あくまでイベントキャラが主役の短編であり偶々主人公はそこに居合わせて解決に力を貸したという感じ
そんなイメージ
Twitterで幕末志士という人気ゲーム実況グループの誰かが、なんかいろいろあって活動休止するというのを見た。
ツイッター上で拾った情報では、休止は一時的なものだという話だったが、それでも活動休止を悲しむ人・応援している人が多く見受けられた。
活動休止といえば、つい先日、嵐も活動休止を宣言した。その時は、それ以前にSMAPが解散したことでファンが悲しんでいるのを見たので、ファンがどんな感想を持っているかなんて調べずともわかると思って調べようともしなかったが、目に入るものはやはり悲しむものが多かったように思う。
国民的アイドルグループ・人気ゲーム実況グループ、どっちもファンにポジティブな力を与えていたんだろうなと思う。
自分はどうか?彼らのように強烈に夢中になって解散・休止が発表されて悲しむようなものがあるだろうかと考えた。
自分も好きなゲーム実況者というのは居て、応援しているし、動画の感想だって書くこともあるけれど、その人が同じような状況で休止すると言ったら?
少なからずショックは受けるだろう。
でも、不思議と「マジかー…」とつぶやいて終わってしまいそうな予感がしている。実際には、その時になってみないとわからない。
その時になってみないとわからないが、なぜか自分の反応が"そうなりそうだな"と予想できた時、そのことが気になった。
自分の人生の中の娯楽から完全に供給が絶たれ時、強烈にショックを受けるものが沢山ある。そんな人生の方が楽しいのでは?
周りを見ているといろいろなことで一喜一憂している。みんなは何個そういうものがあるのだろう。
自分の場合、"これは"というものをどうにか一つだけ思いつけた。
その時が来るまで、この一つを大切にしていこうと思った。
アメリカじゃファッションなのにってよく聞くけどファッションだから良いとか悪いじゃない
眉間に皺寄せる人も口に出さないけど態度変わる人も全否定してる人もいるし
ファッションってたぶん日本のピアスぐらいの感じで言ってると思うけどタトゥーはタトゥーだし
デザイン・サイズ・場所でインプラントや日本での和彫りと同じぐらい差別的な偏見もある
若い子がやりたいって言ったらステレオタイプで親はたしなめるものだし出来ないし
アーティストや有名人で無いとか見た人がそれを知らないとそういう目で見られることも少なくない
日本で聞くようなアメリカでもレベル低い人がする認識だっていうのはさすがに違うけど
レベルではないけど職業で許される範囲に偏りはあってそれがいいイメージ悪いイメージ両方の職業にあるから
タトゥーする事がレベル低いとかじゃないけどどっちにしても堅実なイメージはあまり持たれないのはそうだと思う
あくまで初対面でだけど
何かメンタリティ強く見せなきゃいけない見せたい人って偏見はみんな自覚無くあると思うし
日本でも映画やドラマ見てればどういう偏見かなんとなく分かると思うけど
タトゥーの人間はそういう風に描かれる事少なくないしアナーキーに見せるためにメイクで足したり
元々ファッション自体でどんな人間か判断される部分もあって日本よりファッションの意味が強くて厳格だから
TPOや職でトゥーマッチだって場の空気読めない人間扱いもあるし
ファッション自体を理由に評価は下げられないけど言い方変わるだけだから
もっと相応しい別のキャリアがあるっていうのは日本のご縁が無かったに通じる
ファッションだから評価に晒されるし直接は言わないけどいない所やSNSじゃ物凄く言われてたりする
基本は主張の社会だしファッションだけどベーシックではないから意味や理由があると考える
日本でもポイントのタトゥーと背中の和彫りで印象が違うのと同じでデザインやサイズは大きいし
日本ではただのライトなデザインでもアメリカではそうじゃないと思われる
でもタトゥーは文化を担う一つでファッションだけじゃなくいいなって所も本当にたくさんあって
偏見もあるけど寛容さも同じくらいあるしそこが日本には足りなくてアメリカと比べて理解ないのもそうなんだけど
私はファッションの持つ開放感では全然日本だから(自由度じゃない)
ファッションて言葉の意味をそんな日本での自由やポジティブな意味であまりにも取り過ぎ
それが凄くもやもやする
夢いっぱいで日本の外はユートピアぐらいで言われると私も日本よくなってけばいいねってつい言ってしまうけど
その後若干の自己嫌悪になる
嘘も悪い事も言ってる訳じゃないしアメリカがそうじゃないって事でもないけど
立場のある(特に日本に来てるような)ショーやメディアが社会でお手本でいる役目から配慮も凄い強いし
求められてる所もあるし
言ってしまえば上澄みだけを日本で見ているなら素晴らしいって思うだろうし
メディア含めて低い所の話通じないヤバさも日本は比較にならないし
上の人たちの意識や意欲の高さはその切実さから生まれてる所もあるから
簡単に向こうが上とか言うの失礼でしょって思う
タトゥーが手放しで肯定されてる社会みたいな誤解もスターがガンガンに入れてるのを見てスターだからいれてるのをスターなのにいれてるって見てるからで
イメージによってはデザインや入れ初めにファンがショック受けるのもあるけど
そういうスターたちが番組で同じようにガンガンの一般人に「あなたのタトゥーステキね」って声かける姿も珍しくなくて
偏見持たれるファッションや髪でもそうだけどスターの役目での視聴者へのメッセージの意味もあって
「それは差別になる/あり得ない」って聞くと思うけど
それも言ってる感覚としてはお手本になる人をモデルとした良い人間に許される範囲での事で
そこに含まれない現実の問題は表してないし自分の言葉や行動が差別だってわかってて開き直って相手を差別されるべきようにする人間もそこにはいるから
分からないとそのままに平均的な感覚に受け取ってしまうだろうし
何が差別・偏見になるのかの正しさ以上に自分の中の理想的な社会をそこに見てしまうのかな
それは原宿の文化生見て日本をファッションの自由の国って思う子と同じで
完全に間違ってるわけじゃないって意味でも
日本に来るそういう子たちのタトゥーやファッションが旅行者だから許容されるのも同じで向こうもそうだから
長く住んでも文化が違う国出身の相手だとそれあるし保守的な人も別の国の話ならどこか関係ないと思っていつもよりスルーする
自分の周りに影響するとそうじゃないけど
それは本当の意味で受け入れてるわけじゃなくて
もしかしたら何の偏見にもあわず思い通りの生活を送れるかもしれないし
それでいいのかもしれないし
書いたような事言うのは簡単だけど別に自由じゃないよ日本と同じだよって言いたいわけじゃないし
そう見えると思うけど
むしろ比べられないのにって
比べたけど
もし日本より酷い偏見や差別の問題があってもそれが自由がない事じゃなくて
だけど日本で見てるアメリカの問題の山とアメリカでの山は同じに見えて違う
日本から見てアメリカも自由ないんだって思ってもアメリカの自由だったりするし
それは逆もだし
話聞いたり見たりしてもし思ってたのと違ってもそれは元々想像してた単位が違うからで
そこで定規で測ってみて数が小さく出てもそれが重さでの数の大きさを否定するものじゃない
わけわかんないかな
説明難しい
アメリカの赤を日本の赤だと思って見ると赤じゃないって思うかもしれない
だけどそれは赤なんだよって
日本とアメリカそれぞれの土地で赤のキレイさもキレイって言葉のイメージもそれぞれ違って
アメリカの赤のキレイさを日本の赤のキレイさと思ってる人には色の違いを説明したいし
それを知らないままアメリカは赤キレイなんだよねって言ってたらアメリカの赤がどんな赤か知ってから言って欲しい
書いた話はそういう意味
それでその人がキレイじゃないと思ってる日本の赤に似てる所があってアメリカはキレイな赤じゃないって思われるのは嫌だけど
アメリカの赤を勘違いされたままアメリカの赤はキレイって言ってる気持ち悪さも嫌で
そういうのを言いたいけどうまく言えなくて
長く書いてもこんなだし
日本もキレイな赤になればいいねって言って流す自分に落ち込む感じ
読み返しても伝わらなさそうだな
伝えられるなら愚痴でこんなの書いてないんだけど
嫌になる
私自身にも偏りはあるかもしれないので右派寄りとされてる人間とあえて言っておく。
その上での所感だが、左派系とされるブコメは右派をただ馬鹿にしたり、滅ぼしてしまおうとするネガティブで攻撃的なブコメが多いのに対し、右派系とされるブコメは左派に対して文句はあれど助言を含んだポジティブなものが多いように思う。
ポジション的に左派を攻撃するのは右派と端的に受け止めてしまうのかもしれないが、助言するという事は育って欲しいという本心あってのことで、今の自民一党が突出している状態を憂いているから出るものだと思う。少なくとも私はそうだ。
左派は平和や反差別、弱者の味方など看板は立派なものだけれど、その立ち振る舞いは看板に甘えた己が正義を振りかざし他者を攻撃するばかりになってないか。
話し合いが重要と言いつつ他SNSでも左派系の即ブロックが目立つように思う。
その乖離が一般的に不信感を増大させ、一切の信頼を失っている。
先日の「悪夢のような民主党政権」と言うのを首相が言うのは確かによろしくなかったが、一切受け入れず反発して現政権批判に向けるのもよろしくなかった。
耳が痛いとは思うものの、左派の失策もしっかり受け入れ、自省し、先に向けて生かしていくべきだと思う。
支持率は正直だ。https://www.tv-asahi.co.jp/hst/poll/graph_seitou.html
2016年の都知事選で鳥越氏を担いだこと、宇都宮氏を攻撃した事の総括もなく、何事もなかったかのように過ごしている事を、私は見ている。
本稿では、現在の「ファン/オタク」が「関係性消費」を志向するようになってきているという事象を踏まえ、その内部の「男オタク」と「女オタク」のジェンダー格差や、関係性消費の今後について多角的な視点から分析を試みる。なお、本稿においての「オタク」は、二次元三次元を問わずある作品・概念・グループなどを愛好すると自認している人々のことを指すポジティブな言葉として用いる。拡散し多様化するオタク文化は2次元と3次元の壁を超え、全体像を画一的に語るのはほぼ不可能なため、ジャンルやジェンダーに関する詳細については各部で詳細を補完したい。
「日常系」は広大なオタク市場の中でもかなりの割合を占める作品群だ。基本的には複数の女性キャラの日常生活を描写した4コマ漫画が多く、それを原作としたアニメは2010年代以降各クールに2~3本は放映されている。基本的にドラマティックで壮大な展開や激しい戦闘を行わない、いわば反「セカイ系」カルチャーともいえるだろう。源流としては美水かがみ「らき☆すた」(2004)や、なもり「ゆるゆり」(2008)などが代表的なものとして挙げられるだろう。00年代初頭から現代まで増加傾向にある「日常系」は、現在も各メディアで売れ続けている。この背景には、やはり弛緩した日常風景の一瞬・ごく短いセリフや1コマのシーンの行間を読む関係性消費への志向への高まりが一因であると思われる。日常系の「物語性のなさ」は、逆に巨大な「行間」を生み出し、そこにオタクが各々関係性や物語を想像して消費することができるからなのではないだろうか。
関係性消費について、2,5次元舞台での「リアリティの担保に参加しつつ、舞台裏も消費するファン」や、「タカラジェンヌの四層構造」(東 2015:96-98)*1 で取り上げられた「各レイヤーを横断し、その要素を複雑に融合させながら関係性を消費するファン」は非常に興味深い。これに似た位相にあるコンテンツに、「バーチャルYouTuber」が存在する。「バーチャルYouTuber」とは、2D/3Dの二次元的アバターを現実の肉体の動きとシンクロ(トラッキング)させ、そのキャラとしてゲーム実況や雑談配信などを行う人々の事を指す。そもそも「YouTuber」の動画には前提とされる物語や世界観はなく、その動画単体でも楽しめることが前提とされており、多くのバーチャルYouTuberも同じく、上記の「日常系」にも通ずる他愛もない放送を行っている。しかしここにおいて重要なのは、「日常系」を「実在の人物が演じる」ことがコンテンツとして確立し、今流行していることである。難波優輝は「Vtuberの鑑賞の構成要素は、パーソン、ペルソナ、キャラクタという三つの身体に分けられる。そして、ペルソナとキャラクタ画像がつねに重ね合わせられ、かつ、パーソン/キャラクタとペルソナの層がそのつど関係づけられながら、装われるペルソナが鑑賞者の鑑賞の対象になっている」(難波 18:121)*2 と論じ、これを「Vtuberの三層構造」と名付けている。
そしてバーチャルYouTuberは、電子の肉体によって軽々と他のバーチャルYouTuberとの関係性を構築する。コラボ放送などでみられる仲睦まじい様子を、鑑賞者は「Vtuberの三層構造」を横断し、「彼/彼女らのパーソンのレイヤーでの関係性」が見え隠れする片鱗をSNSや動画において意識しながら鑑賞しているのである。また、バーチャルYouTuber側も当然「パーソンを消費される」ことに対する意識を持っているため、現実世界でパーソン同士が実際に会い、その時食べた飲食物の画像を投稿する、それに対して「パーソン・レイヤーにおいても継続される強い関係性」を読み取れるようになる、といった事象もあった。これはまさにタカラジェンヌの四層構造における「芸名の存在」におけるパフォーマンスと相似であり、その表象が3DCGやVR機器の発達によりさらに「オタク」向けに変化(美少女・美少年だけに限らず多様化)したものではないだろうか。「日常系」と「関係性消費」の拡張であり、またジェンダーと次元の攪乱への大きな手掛かりとなるムーブメントだと考えられる。
つまり、「実在の人物が裏に存在するという事実に裏打ちされた生々しい日常系・関係性」が、液晶内のキャラクタバターと動画配信という形態の手軽さにより、オタクの関係性消費への志向は次元を超えてさらに加速していくと予想できる。
・関係性消費における性別によるジャンル分け(女性向け/男性向け)の無意味さ
前章で関係性消費への志向がさらに高まると予想したが、本章ではオタクのジェンダー格差について女性向けジャンル・男性向けジャンルという分類の持つ意味合いやその内部の消費形態に差異があるのだろうか。
もちろんHL(異性愛)文化を扱う少女マンガ・少年マンガにおいても恋愛・友情・ライバルなどの相関図は存在するが、メインとなるカップル男女の恋愛関係がメインに据えられることが多い。一方BL/GL文化ではそれ以外の登場人物の関係性をより深く読み込み二次創作に落とし込む、あるいは理想の相関図を一次創作で描き出す。今後どんどん規模を増していくであろう関係性消費においては、性別によるジャンル分け(女性向け/男性向け)は無意味になっていくのではないだろうか。しかしここではあえて、わざわざラベリングされている「腐女子」と「百合男子」という言葉の意味合いについて掘り下げ、BL/GL(同性愛)ファンの文化それぞれの特徴から考察してみたい。
女性オタクの人文学/社会学的研究に関しては、特に「腐女子論」か「ジェンダー論」による先行研究が数多くある。その中でも数多く散見されるのは、「主体的な女性の性的欲望の解放」といった視座からの言説であった。特に「腐女子論」と「ジェンダー論」を組み合わせた言説では、「自らの女性身体が侵されない安全な領域において、性的な表象を消費するためにやおい文化は発達した」といったものも存在する。しかし、現在においてこれらの言説に私は違和感を感じる。勿論そういった側面も確かに存在する(した)と思うが、現在の日本の混沌としたオタクカルチャーの中で女性オタクの中から腐女子だけを切り取って上記のように論じるのは既にごく限られた一部の事例においてしか適用されない理論であるように思う。
今あえて「腐女子」を論ずるならば、私は「腐女子同士の関係性」に目を向けたい。腐女子であることによる世間からのマイナスイメージを払拭しようとしたり、イベントやSNSでの趣味やスラングの共有による特殊な連帯が、このコミュニティでは無数に形成されている。やおいコミュニティの特殊性について東は、「やおいを好む女性たちは、一様に異性愛から疎外されているわけでも、異性愛を拒絶しているわけでも、異性愛を欲しているわけでもない。彼女たちはただ、異性愛を排除したところで成り立つ、女同士のホモソーシャルな絆がもたらす快楽を求めているのである。」(東 2015:236)と述べている。さらに、腐女子は扱う創作物の特性上セクシャルマイノリティに対する理解が深く、またホモソーシャルな絆から発展し、腐女子同士が交際していることなどもよく小耳に挟む。シスターフッドやレズビアン連続体、ホモソーシャルな関係性を含んだ腐女子コミュニティは、作品上においても現実世界においても強い「関係性」を追い求めている集団なのではないだろうか。
では次に、GLを愛好する男性オタクについて考察してみたい。残念ながら、男性オタクの先行研究は数多くとも、その内容は美少女キャラクタへの欲望やコミケでのゆるやかなホモソーシャルな交流などになり、「百合男子」単体にスポットライトを当てたものは見つけられなかった。なぜなら、GLというコンテンツは受け手のジェンダーによって大きくその意味合いが変化してしまう場合があるからである。そして男性のGL愛好者は、「美少女キャラクタへの性的な消費」という使い古された言説の中に含まれ見えなかった存在であり、その消費の仕方は齊藤によって「腐女子との比較でいえば、男性おたくの『萌え』にとっては、関係性のプライオリティはそれほど高くない」(齊藤 2009:154)*3 と評されていたのだ。よって、ネット上でGLを愛好するファンは「百合厨」「百合豚」などと呼称され、その性別は限定されていない。これはGLというジャンルを男性だけが消費することに対することが上記の齊藤の言説のような文脈を帯びてしまうことに対する対策と、実際にファンの男女比がほぼ半々であるため、両方の理由によるものと思われる。逆説的に考えれば、「腐女子」という呼称が流行ったのはBLというジャンルを女性が消費することを蔑視されることに対するアンチテーゼとして、BLファン当事者たちが自らをそう名乗ったことに起原するのではないかとも考えられる。
また、百合厨コミュニティにおける異性愛忌避の姿勢は、腐女子コミュニティのそれに比べてはるかに厳格なものに感じられる。先に述べた「男性による女性キャラクタの性的消費」とは違うことを宣言するために「百合男子/厨」を名乗った男性オタクたちは、腐女子のようにホモソーシャルな絆を構築することはなく、二次元三次元を問わずして異性愛的な欲望を抑圧されるようになった。この構造は腐女子のジェンダー論に見られた主体的な性消費の解放とは真逆の道を辿っており、非常に面白い点だと思っている。
こうして述べてきたように、同性愛コンテンツのファンの構造は非常に複雑で特殊なルールの基に成立している。しかし、上記の性的欲望を抑圧される百合男子に関しては、百合というジャンルの男女比がほぼ同じであることに大きく由来するだろう。つまり、「同性愛コンテンツを扱うにあたり、そのファンは異性愛を忌避しなければいけない」といった暗黙の了解のようなものがオタクの中で存在しているということである。これに関しては、創作物と消費者のセクシャリティは隔絶して考えるべきであるという立場をとりたい。そして、特殊な連帯がプラスにもマイナスにもなり得るBLファン界隈と、ジェンダー問題に揺れるGLファン界隈は、第一章で述べたバーチャルYouTuberの関係性消費をモデルとして再構築されつつあると考えている。バーチャルYouTuberの関係性消費は、非常に複雑なジェンダー攪乱が日常的に行われている。パーソンがシス男性、ペルソナがシス女性、キャラクタがシス女性のキャラ同士の「絡み」は、GLともBLともタグ付けをすることが難しい議論になってくる。しかし、その関係性に惹かれるファンはキャラクタとパーソンのジェンダーを軽々と越境し、その複雑な「関係性」を消費することができるようになるのである。これに似た現象はアニメ・漫画においても進んできており、創作物と受け手のジェンダーが必要以上にファンを語るうえで関係づけられることも少なくなっていくのではないだろうか。
【続きと参考文献リスト】
それに対してアメリカは関係ない事例にまで、差別差別と相手を攻める。
これには実はかなり大きな理由が有る。
社会的に人間らしく生きるため、相手に差別されたと主張しないと生きていけないのだ。
ちょっとまえに話題になったのは「アメリカは特に理由なく従業員を解雇できる」という話。
だからめっちゃ適当に解雇されるし、そのために上司に媚びを売る必要も出てくる。
ここで辞めたくない人間はどうするか?
それしかない。
黒人なら黒人だから差別されたと言うし、HIVポジティブならHIVポジティブだから解雇されたという。外国人なら外国人だからに違いないと言うし、肝臓病なら、肝臓病を理由に首にされたと主張する。
これは「社会において、不利な扱いを受けたと感じるや、差別されたと相手を糾弾しない限り、人間的に生きていけない」ということに付随する。
だから人種、性別、性自認、外国籍などで差別されたと主張するしかない。
差別は強いカードになってしまってる。不利な扱いを受けた際にはそれを出すしか弱い立場の人間はない。
飲食店に黒人が入ろうとしてラストオーダー時間を過ぎて追い出されたら「差別された。アイツラは食ってるじゃないか」と主張してしまうことまで起きる。
で、ここで問題が生じる。白人の男性のヘテロの、HIVにも感染してない、ただの貧乏人がいたとしたら、その人は一体どうやって自分を守ればいいのか?
この前映画見てて地球救った主人公が彼女との結婚を父親に認めて貰おうとするけど断られててでも距離は縮まってみたいなシーンがあって
前にそのシーンを"そうだ!彼女はトロフィーじゃない!物じゃない"みたいに書いてるの見た事があったの思い出したんだけど何ていうかこれを見てそう思ったの?って感じだった
主人公が彼女と結婚する資格のある男だという証明ができるだろうと意気込んだけどそういうのじゃないって断られるってシーンにしか思えなくてそれはむしろ地球救ったというトロフィーを持って行ったけど求められてる証明じゃなかった、主人公はまだそういう面で未熟さはあるけどでも父親も印象は悪くないって未来に少し繋がるようなポジティブなシーンだと思ったから
だけど取り様によってはそういう感想もあるのかなと思ったけど自分との印象の乖離具合に何でわざわざ主人公をそういう無自覚に女を物扱いしてる思考の人間て思ったんだろって考えてて
たぶんそれって腐女子嫌悪の末に目に入る作品をどう腐女子が好むかで判断しちゃうようになる人と同じなのかなって思った
その対象を嫌悪する故にそう見える要素でさえ排除したくて結果その対象の嗜好や思想を何より優先させて可能性の一番上に持ってきちゃってそれでものを見ちゃうみたいな
少年漫画の普通の友情シーンでも腐女子が好む事が分かって嫌悪感がわく
女は男に物扱いされているみたいな前提が頭にあるから何でもない言動もその前提に則って解釈してわざわざ嫌悪感を持ってしまう
それをたぶん気付いてもいない
悪い人間を知らない人は疑う事を知らないじゃないけど何か皮肉というか嫌いなものに囚われ過ぎてある部分で思考が同化して何より嫌悪する人間の考えや目で世界を見るって日々しんどそうだなって思った
雪の女王の鏡の破片みたいな話だなって