私は幼い頃から恵まれた環境で育ち、生活に困ることは一度もありませんでした。資産家の家庭に生まれ、世間的には「成功」や「幸せ」を象徴するものが揃っています。年収700万円という安定した収入、貯金3000万円という経済的な安心。しかし、私の心の中にはずっと一つの違和感がありました。「私はどうして女性の体で生まれてきたんだろう」という問いです。
なぜ、私は弱者男性に生まれたかったのか。それは、社会の下層に位置する「弱者男性」たちの存在に、何かしらの自由や純粋さを感じるからです。彼らは社会の中で困難を抱え、生きづらさを感じているかもしれませんが、少なくとも彼らは「強い性別」の期待に縛られていません。彼らが経験する苦しみや不満は、自分自身で選択する余地があると感じます。
対して、私の人生は「成功すること」が前提にされており、そのプレッシャーに日々押しつぶされそうになります。周囲からは「女性としての成功」や「社会的な役割」が期待され、その枠組みの中で自分を見失うことがしばしばあります。そんな時、私は弱者男性としての生き方に、一種の憧れを抱いてしまうのです。
私は、物質的には何も不足していません。それどころか、過剰なほどに恵まれているともいえるでしょう。でも、恵まれた人生にはそれなりの代償があります。常に「成功して当然」「失敗してはいけない」というプレッシャーにさらされる日々。そして、私が望む人生の選択肢はどこか狭められているように感じます。
弱者男性は、社会的な「敗者」として見なされることが多いですが、その「敗北」にはある種の解放があると感じます。弱者男性であれば、社会的な成功や期待に縛られることなく、もっと自由に自分の感情や欲望に従って生きることができたのではないかと思うのです。彼らの持つ社会への不満や鬱屈した感情に、私は逆に共感し、自分の理想と重ねてしまいます。
私は女性として、社会から多くの期待を背負わされて生きてきました。結婚、出産、女性らしさ、そしてキャリア。これらすべてが私の人生を彩るものであるはずですが、時折、それらが重荷に感じることもあります。自分の体や性別によって、私の人生がある程度決められてしまっているように感じるのです。
もし、弱者男性として生まれていたら、私はもっと自由だったかもしれません。社会からのプレッシャーに囚われることなく、失敗や挫折を経験しながらも、自分らしいイージーモードな人生を歩むことができたかもしれません。
終わりに
「私はどうして女性の体で生まれてきたんだろう」という問いは、私が常に抱えているものです。私は経済的には恵まれているけれど、心のどこかで「弱者男性としての生き方」に憧れを抱き続けています。この問いに対する答えは見つかりませんが、少なくとも、私自身がもっと自由に、自分らしく生きる道を模索し続けていくことが、今の私にとっての課題なのかもしれません。