はてなキーワード: 結論とは
フィットネスクラブで怖い腎臓病が増加中…健康と美容のために摂取するとかえって"死を早める粉"の正体
https://news.yahoo.co.jp/articles/85a6c6e3e0f85cc347b0662a3d5bbb205a42892f
https://president.jp/articles/-/82017
このタイトル、ほぼアウトだろ
何だこの何も言ってない画像
https://president.jp/articles/photo/82017?pn=2
・日本の死因は1位〜2位〜3位〜です
・腎臓病で亡くなる人が少ないのは、その前に別の死因で死ぬから
なにこれ??笑
実は慢性腎臓病の患者数は増加傾向にあります。11年に国内で1330万人と報告されていた患者数が、20年には2100万人に。わずか10年足らずで700万人以上も増えています。
タンパク補給食品の国内市場は13年に623億円だったのが、23年は2580億円の見込みに。10年で4倍以上に市場が膨らんでいます。プロテインブームが慢性腎臓病患者の増加に影響している可能性は否定できないのではないでしょうか。
参考にしたのはこれか?
https://www.fuji-keizai.co.jp/press/detail.html?cid=23088&view_type=2
っていうか2100万人ってどこの情報?ぐぐるとこいつの記事ばっかでてくるんだけど
透析患者は昭和からずーっと順調に増えてる、なんで2010年代だけ切り取ったのか謎
https://www.ncvc.go.jp/hospital/section/ld/hypertension/detail02-2/
めんどくさいからChatGPTに聞いてみた
プロテイン摂取と慢性腎不全(CKD)との関係については、いくつかの研究が行われていますが、結論は一概には言えません。以下はその概要です。
•健康な腎機能を持つ人々において、高たんぱく食が直接的に腎不全を引き起こすという強い証拠はありません。多くの研究で、適度なプロテイン摂取は一般的に安全であるとされています。
•ただし、極端な高たんぱく食が長期間続く場合、腎臓に負担がかかる可能性があるため、バランスの取れた食事が推奨されます。
•CKD患者においては、高たんぱく食が腎機能の悪化を加速する可能性があるとされています。
•低たんぱく食は、CKDの進行を遅らせるために推奨されることが多いです。これは腎臓への負担を軽減するためです。
研究の具体例
•Mitch WE, et al. (2002): 低たんぱく食はCKDの進行を遅らせることが示されています【Mitch WE, Remuzzi G. Diets for patients with chronic kidney disease, should we reconsider? BMC Nephrology, 2002】。
•Knight EL, et al. (2003): 高たんぱく食が腎機能低下のリスクを増加させることが示唆されています【Knight EL, Stampfer MJ, Hankinson SE, Spiegelman D, Curhan GC. The impact of protein intake on renal function decline in women with normal renal function or mild renal insufficiency. Ann Intern Med, 2003】。
プロテイン摂取と慢性腎不全の関係は、腎機能の状態によって異なります。健康な人々にとって適度なプロテイン摂取は一般的に安全とされますが、既に腎機能が低下している人々にとっては、高たんぱく食がリスクを増加させる可能性があります。したがって、CKD患者は医師の指導のもとで適切な食事管理を行うことが重要です。
この著者、牧田 善二って人、プレジデントオンラインでずーっと同じこと言ってるんだな
著書の評判とか割と高いけど、とんでも判定はされてないのか?謎だなあ
https://president.jp/list/author/%E7%89%A7%E7%94%B0%20%E5%96%84%E4%BA%8C
言いたいこと:「少女小説をラノベに含めても無視してもボコボコに叩かれる」という難しい状況がある。
いま、ライトノベルのオールタイムベストを選出する作業が進められている。
ラノベが社会に認められるためには、売り上げだけが唯一の評価軸である現状では差し障りがある。文化としての成熟には体系化と批評の存在が必須であり、その一歩としてたいへん意義のある活動と言えるだろう。
あくまで叩き台であり、作品数的にもより拡張した形を目指していくようだが、現時点でも各年代に目の行き届いた、ラノベの歴史の流れを俯瞰できる内容となっている。
ただ、この手の企画はどのような基準で選んだとしても、あれがないこれがないという不満はどこかから出てしまうものだ。ラノベ150選も例外ではない。
その中で今回特に目についたのが、「女性向け作品がない」という声だ。
これに対する企画者の返答は、女性向け作品については単独のガイドブック等が先行して存在しているから、というものだった。
合理的な判断だと思うのだが、これでも納得していない人は多い。少女向けをないがにしろにするのか?と憤慨し、容赦なくボッコボコである。
増田は、ライトノベルや少女小説(もしくは「女性向けライトノベル」)の歴史そのものについてはともかく、ライトノベルと少女小説との関係性についてはちょっとした知識がある。
今のままでは企画者氏があまりに不憫なので、これについて簡単に解説しておこうと思う。
ニフティサーブのSFファンタジー・フォーラム内で増えてきたある種の若者向け小説の話題を別会議室に独立させるにあたって、管理人の神北恵太氏が命名したものである……
もちろん名前はそうでも、ジャンルとしてのラノベ自体が90年に突然生まれたわけではない。起源をいつとするかは諸説あるものの、ラノベ的作品はそれ以前から存在していた(存在→命名の順であってその逆ではない)
そのようなラノベ的小説群は「ライトノベル」が定着する以前には、個人やコミュニティごとにさまざまな呼ばれ方をしていた。そのうちの一つに、ジャンルの代表的なレーベルから取った「ソノラマ・コバルト系」というものもあった。
言うまでもなく、コバルト文庫は少女小説の代名詞というべきレーベルである。つまり、命名の時点では「ライトノベル」は少女小説(の少なくとも一部)を当然に含むような形で規定されていたということだ。
(ここでの「少女小説」とは当時のコバルト文庫やティーンズハート文庫などのことであり、たとえば吉屋信子や創刊直後のコバルトシリーズなどは当然ながら想定していない)
以後、他メディア化の機会などの関係で男性向け作品の方が存在感はあったものの、ライトノベル(的なもの)は女性向けを含めたひと塊のカテゴリとして扱われていく。
2000年代に入り、語としての「ライトノベル」が一般に定着して以降も、この認識はそれほど変わっていなかったはずだ。
この状況に大きな変化をもたらす出来事が、2010年代前半に起こった。
まずは2013年、とある文学研究者がツイッターでこのような発言をしている。
少女小説・ラノベそれぞれのジャンルについての価値判断を含んでいるとまでは言わないが、これが少女小説の側に立った発言であることはまず間違いないだろう。
それまでの一般的なラノベ定義・史観を覆す、非常に大胆な主張である。
ただ、一部のラノベ読者が過敏に反応はしたものの、この時点ではアカデミシャンとはいえあくまでいち個人の主張に過ぎなかった。
それが正式な形で世に出たのは、2014年のことになる。著書としての刊行である。
この本で研究者氏は丹念に事実を積み重ねた論証により、まさに「少女小説が歴史的にライトノベルではない」ことを証明してしまったのだ。
詳細は省くが、
少女小説は戦前からの少女文化独自の伝統を直接的に受け継ぐ文学ジャンル、ライトノベルは戦後のマンガ文化等の影響から新たに生まれた新興の娯楽であり、その出自からして全く異なる別物である
ということだ。
この、市井のオタクではとうてい太刀打ちできない完璧な形の少女小説≠ラノベ論の出現により、少女小説⊂ラノベ派の多くは白旗を上げて沈黙することとなる。逆に、少女小説がラノベの枠内で扱われることに不満を感じていた少女小説業界関係者・読者は、我が意を得たりと快哉を叫んだ。
日本文学研究者による恐らく初めての本格的なラノベ論ということもあり、この本はもともとラノベや少女小説に興味のあった人間にとどまらず、幅広い層の人々に読まれていった。今やラノベ関連の研究ではほぼ必ず参照される一冊となっており、アマチュアでもラノベの定義や歴史を語るなら必読と言っていいだろう。
これによりパラダイムが決定的に転換し、少女小説をラノベに含めるような人間は、もはやそれだけで時代遅れな「分かってないやつ」の烙印を押されるまでになったのだ。
(フェミニズム的な意識の高まりにより、女性文化(少女小説)の功績を男性側(ラノベ)が都合よく収奪してきた、という構図に気まずさを強く覚えるようになったのも、この傾向を後押しした)
この空気の変化は以前/以後と呼んでいいほどに劇的なものであり、刊行から10年経った2024年の現在にいたっても、更新される気配は特にない。
お分かりだろうか。
つまり、少女小説は「ライトノベル」ではない、というのは、もともと少女小説サイドが言い出した主張なのだ。
現在では、ラノベの定義・歴史との関連で(特に男性の論者が)少女小説に触れる際には細心の注意が要求されるし、実質的にはほぼタブーに近い。
企画者氏がラノベ150選から女性向けを除外したのも、世間のその暗黙の風潮におとなしく従ったという側面がやはりあるのではないだろうか。
加えて企画者氏の場合は、かつて不用意にレジェンド少女小説作家を「ライトノベル作家」と呼んで、少女小説側から激しい批判に晒された当事者でもある。そのため今度は、なおさら慎重に配慮したつもりだったのだろう。本人としては。
結論として今回の件は、気遣いがすれ違ってしまった悲しい事例ということになる。
少女小説読者といっても一枚岩ではないし、自分はそんな配慮ぜんぜん嬉しくない。多数派がどれだけ否定していても自分は少女小説もラノベに含めるべきだと言い続けるぞ。という人もいるだろう。その気持ちもよく分かる。
分かるが、少女小説をラノベに含めても無視しても必ずどちらかからボコボコに叩かれることになる、板挟みの苦しい立場のことも少し考えてみてはもらえないだろうか。
オールタイムベストの企画者氏は現在、文化としてのラノベ保全のため「ライトノベル図書館」の設立計画を進めており、クールジャパン予算を獲得すべく自民党の国会議員に働きかけている。ラノベオールタイムベストはその陳情の材料にもなる予定らしい。
こうした活動の文化的な意義を踏まえた上で、できれば多少の意見の相違は呑み込み、振り上げた拳をどうかそっと下ろしてはくれまいか……
長え! 一番言いたいことを最初に置いとけよ。
追加しときました。
核心部分が何で匿名やねん
「ラノベのルーツの1つは少女小説である」と「少女小説はラノベである」は意味が全然違うと思うが(後者を主張してる人いる?)
“ラノベのオールタイムベスト”に、ある少女小説を推すとした場合、(少女小説全体やレーベル全体ではなく)少なくともその作品は「ラノベ」で(も)あることが自動的に前提となるのでは。
逆に言うと、ラノベではないがラノベのオールタイムベストに入れろ、は通らない。
排除ではなく、少女小説の側がラノベに括られることを拒否した運動があった、という話です。
クール・ジャパンから公金を引っ張るために少女レーベルや未分化期を無視するのは仕方ないキリッ されて、納得は出来ないですけど………
リストから少女向けを除外した理由(と思われるもの)と、批判のトーンをなるべく抑えてほしい理由は、別々に書いたつもりです。
wikipediaより「1990年初めにパソコン通信ニフティサーブの「SFファンタジー・フォーラム」において〜「ソノラマ・コバルト」などのレーベルからの出版物に「ライトノベル」と名付けたことが始まり」コバルト入ってるやん
はい。
その話を本文に書いています。
その、とある文学研究者って誰だよ。名前を出してくれないと分からないよ。2013年の事なら記憶にありそうなものだが思い当たる人がいない。
ツイートの件はともかく、著書の話を見ても心当たりがないなら、たぶんそもそも知らないんじゃないかな……
その「知らん研究者のお気持ち」が定説化して力を持ってしまっているという現実があるのです。
たとえとして適切か分かりませんが。
ナンパを不快に感じるA子さんと、女をナンパしない男は無礼だと信じるB子さんがいるとします。二人のナンパに対する意識は、事前に外からは判断できないものとします。
なんて事はない、前に使っていた携帯電話が居間にあったものだから。
記憶の中でロック解除している指の軌道を思い出すと、パスワードはなんとなく想像がついた。
そのままタップしたらロック解除されたものだから、何の気なしにSNSを見てしまったのだ。
予兆はあった。
数年前、その時も見なければ良かったのにロックを解除してしまった。
これ以上ないくらい、心臓がバクバクしたが検索だけで済んでいた、とその時は判断したのでひとまず写真だけ撮ってそっ閉じした。
それから何かあった時の為にと残しておいたけど、ある日、心が苦しくなって削除してしまった。
仕事に行く前、必ずキスをしてくれる旦那を疑いたくはなかったから。
レスになったのも、自分に魅力が無くなったからだと一人で慰むようになった。
「世の中には知らなければ良い事もある」と何かのキャラクターが言っていた気もした。
あとはもうお察しの通り。
良かったなと思うのは、浮気はしていなくて、プロのお店に行っていること。
(恐らく)SNS上のやり取りだけで留めていること。
おじさん構文的な内容は送っていなかったこと。
心がギュっとしたのは、今日の仕事前にお店で嬢の方に会いに行くこと。
今まさに、この瞬間。旦那は気持ち良さで心と身体を満たしている。
私ではない女性と。
どうしてこんなに悲しいんだーーーーーーーーー????????????????別に一緒に居過ぎるともう「女」として見れないって記事は何回も見て来ただろ?!?!?!?!?!?!?!そういうもんなんだって!!!!!!!!!!!!割り切れよ!!!!!!!!!!!!別に浮気じゃないから良いだろ!!!!!!!!!!お前で満たせない部分をプロに満たしてもらってるだけだろ!??!?!?!??!??!?!!?!?何!?「仕事先の同僚からお土産貰ったからお返ししたい」って言われて一緒に選んだプレゼントが、実は同僚じゃなくてお店の女の子に渡すプレゼントだったのが悲しいのか!?!????!嘘つかれたのが悲しいのか!?!?!??!?!?!?そうなの私?!?!?!?!どうなの!!??!?!??!?!?!!
あーあ明日からどうやって生きようかな、もう知らない頃には戻れないな。
みんなどうやって立ち直ってんだろうな。お金出さなくてもいつでも家には「女」がいるのに。
それでも、お金を出してでも通いたいと思った原因は私にあるだろうから、せめて私の何がいけなかっただけ教えて欲しいな。
別に行くこと自体は否定しないけど、実際に行ってるとなるとちょっと、いや多大にクるものがある。
[以下、追記]
これは本当にまじでそう、本当にそうです。500%私が悪い。
プライバシーを蹴破って、ぎゃーぎゃー喚いているキモ女という自覚はあります。
冷静に読み返すとSNS見るあたり、何の気しかないじゃんね。すまん。
直接的に書くとBANされるかもと思ってしまった。すまん。
文章を書いているのが妻側なので、そっち目線の内容しか書けないけれど。
まあよくある話で、ずっと一緒に住んでいて回数も少なくなり、こっちから誘うも「仕事で疲れている」 「今はそのタイミングではない」と断られ。
いつも旦那のタイミングで致して、私のタイミングでは致した事がないので、「流石に私のタイミングでもさせて欲しいかもしれない」と4年前ぐらいに話し合いを設けた際、言われたのは「やっぱりお風呂あがりとかに恥じらいがなくなると…」だったので、流石に全裸で歩き回ったりはしていないにせよ、Tシャツ+下着で歩き回ったりはしてしまっていたから反省し、そういった事をなくしたのだが、結局「仕事で疲れている」と言われ、もう5-6年レスです。
そら毎日しゅきしゅきセックスしたかったよ。いつ致しても良いようにVIOつるぴかにしてたよ。
なので、私目線だと旦那かなと思うけど、旦那は多分私のタイミングが下手だからって思ってそうだなって書きながら思った。
だからきっと、原因はどっちも。
そういや書きながら思い出したけど、「そろそろ(年齢的にも)勃たなくなってきた」って事も話し合いの時に言っていたな。
後出しが嫌われることは重々承知なのだが、ここ半年、軽いうつ状態の時があり(今回の件とは関係がないので詳細は省かせてくれ)、それで迷惑をかけてしまっていたという自責の念がいつもある。
薬で治療をしているが、そりゃあ、どのタイミングで気分が浮いて沈むか分からない女の相手をするのって本当に大変だよなあ。
癪に障る様な書き方だったら申し訳ないが、多分旦那は私の事も好きで、でも性欲の対象ではもう無くて。
「プレッシャーの捌け口」というコメントを見て、しっくりきたよ。元従業員の方からの最後の一文も非常にくるものがあった。
ちなみに、どこまでが許せる?っていうのは非常に難しい問題で、風俗店に詳しくないので検討違いの事だったら申し訳ないが…。
認可?が降りてる店でプロの方と対峙するなら問題ないと思っていて、例えば家庭のお金を使い込むとか嬢の方に対して痛客になっているとかだったらちょいちょいちょいってなるかも。
今回「ウワーーーッ」となったのはやっぱり、「同僚からプレゼント貰ったからお返ししたい」のくだりかな。
そのプレゼント、キッチン周りの実用品でありがたく使ったんだ。だから、同僚じゃなかったか~~~ってのが1番つらいかも。
嬢の方に貰ったものを使っていることが嫌という事ではなく、嘘をつかれたことがまじでこたえた。いやどうだろ、嫌だったのかな。もう分からない。
結論、パスコードかけてる携帯を見て、知らなくて良い事を知って、ネットで喚いている愚かな女であることに変わりはないです、仰る通り。
もう旦那の携帯は見ません、何も知らなかったことにして、愛想つかされない様に生きていきます。
ただ流石に今日、出勤出来ないぐらいには見てしまった真実に、自責の念も相まって体が動かんので、今だけはちょっと泣かせてくれ。
いいえ、弱者男性叩きは「女性の方が苦労している」説を論拠としています
独立した問題だということにしたいならそれでもいいけど、そうするとフェミニストにとって都合の悪い結論が導かれてしまうと思いますし、たぶん他の人も賛成しないと思いますよ
【あったこと】
仕事のすれ違いで他部署と微妙な空気になった。原因は2つくらい上の役職者の意見対立。直属上司の指示は「こちらから動いてはいけない、とにかく待て」というものだった。とにかく待てと言われてもなぜ待つのか意味がわからず悶々としていた。なにせ来週にはその部署と外部団体との会議体がスケジュールされているのだ。準備は進めねばならない。
そして結論から言うと待てなかった。いや、待たなかったのだ私は。別の案件があるというのを言い訳に、こちらから電話で連絡してしまった。相手の声を聞き、上面でも「大丈夫ですよ」といってもらえたら安心するというわけだ。私は上司の指示よりも自分の安心を選んだのだ。
【この件について思うこと】
私は堪え性のない人間だ。精神的に不安定で直属上司の指示、つまり組織よりも自分の安心や安全を優先してしまうだらしのない人間だ。なぜあと二日や三日が待てなかった?キャパの小さい人間だ。中堅の年齢層である社会人たるものそのくらいの胆力は持っているべきだ。意志も覚悟もない振り回されるだけの存在であり、今後もその程度の軽い扱いをされて生きていくことになる。
【違う見方】
そもそも上層部の対立なんだから仕方ない。連絡するな、でも期限は迫っている、というのはダブルバインドで精神的に負荷のかかる状況。連絡を取ったのは別件なのだから指示に背いたことにはならない。今回そうした事があって落ち込んでいるのなら、次回は言いつけを守ればいい。今回だめだから未来がずっとだめということはない。お前はよく頑張ってる。自分の判断できちんと動けたという見方だってできる。他部署も上司もお前が思ってるほど気にしてないし、上層部はもっと気にしてないから気にするだけ損。
>日本の農作物の残留農薬の基準が高すぎて輸出に支障が出ている
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.yomiuri.co.jp/economy/20240610-OYT1T50227/
????
>昨今日本の残留農薬基準は世界的に見て甘いとか、アメリカはもっと甘いという報道がなされている。この件については結論から言うと作物、農薬によって様々である。
http://nou-ledge.com/2018/03/12/180312_pesticide_residues/
>世界に逆行する日本の“緩い”農薬ルール EU新規制が食品輸出の障壁に
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00532/030200011/
どっちが良い、という話ではないが、EUは環境、オーガニック、無農薬といったジャンルだとむやみやたらに厳しいというのは割とイメージしやすいのでは?
あえていうなら日本の出荷規格と欧米の基準(たとえば、いぶりがっこが今までのような家庭内手作業で作れなくなった理由であるHACCPの適用とか)が違うのを合わせるために輸出が難しい、という話だったり、あるいは航空輸送に耐えるために(輸送中に痛みが出るのを事前に防ぐために)国内出荷とは異なる出荷対策が必要だったり、みたいな話ならあると思うんだけど、
そうだよ?おれの判断に従えなんて言ってないよ?
おれも議論しようなんて言ってないよ?
A=B、ゆえにBは〇〇という話の、後半が何もなかったから聞いてみただけだよ?
そこまで書いて、なんで結論を書かないんだろう。意見持ってないのかな?大丈夫かな?って思って、お前どう思ってんの?って思ったから聞いてる。まぁそう言う意味では子供かもね。興味があるからつついてる。だから好き放題おまえに聞きまくってるわけ。
子供の話に付き合ってられないって言うなら別にいいよ。これに気が付かなかったことにすればいい。お前も好きにしなよ。
でも、心の中でジャッジは下ってるんでしょ?じゃあそれを口にしたほうがいいよって老婆心ながら思ってる。じゃないといつか損するからね。どっちつかずのコウモリじゃ人生やってけないよ……
なんで長いとダメなんだ?なんでタイトルで全部説明してるとダメなんだ?
それっておじいちゃんになっちゃったお前が新しいものを受け入れられなくなってるだけで、その考えにはなんの正当性も無いだろ。
なんで「戦争と平和」「塩狩峠」「吾輩は猫である」は良くて、長くて全部説明しちゃってるタイトルはダメなんだよ。
逆に、短くて何の説明にもなっていないタイトルは「短いタイトルならなんか深みが出るだろw」「特に何も説明しないほうがかっこいいw」みたいな浅い思考が鼻につくんだが?
短いタイトルって文学っぽい雰囲気が出るからみんな使ってるだけの逃げじゃん。中身のある文章で勝負しろよ。
・
いや、別に俺は本気で「長いタイトルのほうが良くて、戦争と平和みたいなタイトルはダメ」なんて言いたいわけじゃないんだよ。
ただ、お前の態度が嫌いだから、その裏をかく主張をしていてるだけなんだわ。
この手の、美に関する議論にはキリがない。
Aこそが良いというムーブメントが流行れば、その裏をかいたAの逆こそが良いというムーブメントが流行る。しばらくすると今度はAの逆の逆、つまりAこそが良いというムーブメントが流行る。これの繰り返しだ。
議論が活発で歴史の深い分野では、そういうパラダイムシフトが何度も起こってきた。
自然科学なら正誤を実験によって検証することができる。だが、美に関する議論はどんな手段を用いても正誤の検証ができない。なぜなら、それこそが美の本質だからだ。
「長いタイトル」に限った話ではない。目がでかすぎる女の子の絵だとか、ダメージジーンズだとか、写ルンですだとか、ふるさと納税をするかどうかだとか、万博に行くかどうかだとか、最近のトヨタのデザインだとか、
美や美徳に関する議論は、なんであれ誰もが納得する正しい結論を出すことができない。なぜなら、それこそが美の本質だからだ。
・
「長いタイトルは良い」というステージをS1、「長いタイトルは良くない」というステージをS2「長いタイトルは良くないという態度は良くない(=長いタイトルは良い)」をS3、「長いタイトルは良くないという態度は良くないという態度は良くない(=長いタイトルは良くない)」をS4...
と名付けていくとするだろ?
長いタイトルを喜ぶキッズはS1、お前はS2、俺はS3のステージに居る。そしてS3の俺はS2のお前にマウントを取れるし、S2のお前はS1のキッズにマウントが取れるわけだな。
俺はS3だが?
早くここまで上がってこいよ。
お前は何歳だ?30歳?40歳?しらんけどさ。
もちろん何歳になっても楽しめるラノベだってあるけど、ライトノベルの主な客層は10代だろ。10代にマジレスして、楽しいですか?
ガキにマジ説教して、恥ずかしくないんですか?
それってお前が10代の頃にやられて最も嫌だった行為なんじゃないんですか?
S2てのは10代にマジ説教して喜んでる醜悪なカスが居る段階なんだよ。
だから俺はS3にいるわけ。
S3が増えてきたら俺はさらにS4に移行するだけの話だ。
俺はどんなジャンルの議論であれ、一番人間が多い段階(S_MAX)の、その一つだけ上(S_MAX+1)を行く存在だ。
当然S_MAX+2にはマウントを取られるが、そのステージにいる人間は観測できないくらい数が少ないから問題ない。
そもそもS_MAX+2は存在してもS_MAXとほとんど区別がつかないから観測は困難だ。
・
何が言いたいのかと言うと、S1だろうがS2だろうがS3だろうが、美に関する議論で善悪や強弱や正誤を決定することは出来ないんだよ。だからSの番号だけで勝負をするしかない。
すると開き直って「好みの問題だ。理屈では説明出来ないが、俺は短いタイトルのほうが好きだ」とか言い出す人間が現れるだろう。
だが自説を裏付ける客観的な根拠も無いのに好みだけで大衆が熱狂しているものを冷笑し見下すお前は、長いタイトルの小説や、そのファンなんかよりずっと醜悪じゃないか?
この手の美に関する議論には正解がない。だから議論には参加せず、どのポジションが最も自分にとって気持ちいいかで考えるべきなんだよ。
お前みたいにハンパにお勉強ができるせいで周りを見下しているし謎に芸術を理解している風に振る舞っているけど、実はなにも理解できていないし思考も浅い雑魚に対してマウントを取ることこそが、俺にとっては無上の歓びなんだよな。
だからS_MAX+1のポジションにいるんだわ。タイトルの長さとかどうでもいい。
S1のようにライトノベルに熱狂できる素直さ、若さ、柔軟さを持っているわけでもなく。
S3のように半端に賢いやつにマウントバトルを仕掛けるほどのガッツもなく。
S4以上のように誰にも理解されない孤独な道を歩むほどの勇気もない。
それがS2。
それがお前という存在なんだよな。
アドラーの本を途中まで読んだ.
これによると,精神疾患など生きるのに役立たない道に陥るものには,幼少期から共通感覚(コモンセンス)を獲得できていないという特徴があるらしい.
そして共通感覚を獲得できなかった子供いじめられたり問題行動を起こしたりする.
この共通感覚は家庭において保護者から学ぶらしい.つまり保護者が共通感覚を有していなければその子供も共通感覚を獲得することが困難で,大人になってから苦しむのだ.
なぜこの世界では誰でも子供を持つことが許されるのだろうか.ペットですらちゃんと育てられないなら飼うなと批判されるのに.
あるいはせめて,誰でも子供を作る自由があるのなら,どんな子供も自分で死んでいい自由を認めるべきではないか.
この物語では,子供は生まれたらすぐに親から引き離されて専門の施設で集団的に育てられるというユートピアが描かれている.
作中ではこのユートピアを明示的には否定も肯定もしていないが,画一的に育てられた子供は個性がなく皆同じような表情をするという描写が描かれている.
「個性なくしたら死んでるのと一緒だよ」
共通感覚を有しない"悪い個性"を持つことは決して本人のためにはならない.
個性を持つことが良いとされるのは,個々の親が独立して子供を育てる現在社会におけるナッシュ均衡にすぎないのではないか.
消滅世界のシステムのように全員が同じ教育を受け,共通感覚を有していることこそがパレート最適なのではないだろうか.
あるいは,個性,個体差は環境が変化した際に種全体が生き延びるのに有利だと説明される.
だが,これは明らかにほとんどの平均から外れた個性を持つ個体にとっては酷な話だ.当然ながら平均から外れた個体の殆どは環境に適応できず苦しむからだ.
上のような理論を唱える者は,「お前らのような珍獣が居た方が俺/私の遺伝子が残る可能性が高まるから生きろ.そして苦しめ」と言っているのに他ならない.
現代社会は第二次世界大戦前の全体主義を反省し,個人の幸福を最大化しようとしたのではなかったか.所詮それは,正規分布の真ん中あたりにいるマジョリティの自己満足に過ぎなかったのか.
そもそも,人類が環境変化を生き抜くのに,遺伝子の多様性は必要なのだろうか.
多数のサイコロをばらまいて確率論的に変化に打ち勝とうとするその他大勢の生き物とは違って,人類は理性を持って変化を予測し,技術で環境を変えて乗り越えることができるのではないだろうか.
だが,ときに個性は天才を生み出し,その天才が技術を飛躍的に進歩させる.
こういった天才を生むために正規分布の端のほうの人間も,その殆どは苦しむ運命にあるとはいえ,大人になるまで生きていなければいけないのかもしれない.これによって,苦しむ未来の天才に生きる希望を与えることができるから.
本当にそうだろうか.電球の発明のように一人の天才の発想が大きな一歩を生み出した時代とは違って,現代の科学の進歩は過去の技術を積み重ねて積み重ねて演繹的に導き出された進歩ではないか.
いや,そうでもないか.私も理系の大学院で研究の真似事をしたことがある.今でも科学の最先端では天才の発想が不可欠だ.そしてそういう人は共通感覚を有していない人が多い.少なくともそう見える.
つまり,現代においても正規分布の端にいる,共通感覚を有しない,遺伝子的耐用性を持った人間を生きさせることは必要なのかもしれない.
私は天才ではない.だが,共通感覚を獲得することができず,苦しんでいる.正規分布の中央に行けなかった人間の中の,一握りの天才を除くその他多数の中のひとりだ.
私の意識は死ぬことがのみが正解だと確信している.だが,私の無意識が生きることを声高に主張している.そのせいで私はまだ生きていてこの文章を書いている.
理性で動く私は,なんとかして自分が死ぬことが論理的に正しいのだと結論付けたい.だが,今日も失敗した.
誰か私を助けてくれ.お前はもう開放されて良いのだと背中を押してほしい.
圧迫面接は合理性で行われてなどない、が唯一の答えだと思うけどな。
面接者がイキってる
COVID-19が5類になってからいろんな感染症が増えているというニュースがある。「マスコミは扇動的だ」という批判もあるので、どれくらい危ないのかを公的機関の出しているデータをもとに調べてみて、その結果をここにまとめる。
注:筆者は理工系の大学院生ではあるが医療従事者ではない。基本的に厚生労働省や国立感染症研究所のwebサイトの情報を見ながら書いた。URLを載せようとしたがはてなの制限に引っかかったのでやむなく削除した。
溶連菌という細菌自体は昔からいて幼児の風邪の原因の一つとしてありふれているが、そのうちごくまれに筋肉の壊死や多臓器不全など劇的な症状に至るケースがある。それを劇症型、と呼ぶ。ポストコロナによる規制緩和で溶連菌の咽頭炎そのものが増えていて、感染する人が増えているので、その一部である劇症型に発展する人が増えていると考えられている。海外からのUK株の影響だともいわれるが、それは研究段階でどうともいえない。幸い耐性菌が現れているわけではないようだ[WHO]。
日本国内の感染者数は最大値となっている2023年で1000人弱だが、今年は5カ月でそれに到達したので、単純計算で行くと年間2000人程度になると予想される(ただし溶連菌は冬から春にかけてがピークなのでこの数字は少し盛っている)。同じ年の交通事故死者数が2678人 [交通事故総合分析センター] なのでそれに匹敵するくらいには増えている。ただし「発症した場合致死率3割以上」というのは少し扇動的な表現だと思っていて、「交通事故に遭った人のうち亡くなる人が何割」とかと同じものだと思う(交通事故に遭う確率は高くはない)。
追記:レスで教えてもらった論文について言及しておく。国立感染症研究所の研究家が出している論文で、国民の多くがマスクをつけていた2019年 - 2022年に劇症型溶連菌感染症が減少していることについてゲノム調査をした結果が報告されている。どうやらemm1というタイプの株はマスクによって効果的に防がれたという結論のようである。筆者は専門ではないのでこれ以上の内容は読み解くことができなかった。
予防策としては下記になる。
ちなみに溶連菌感染者数の増加傾向自体は2010年代から起こっているので、コロナワクチンによるものとは限らない。
発症すると、初期ではできものができるくらいで済むが、何年もたってから全身症状が現れることがある。年間感染者数は報道 [NHK] によると2023年で14000人。厚生労働省のデータでは2022年で10000人を超えているので、注意を払うに値する病気ではある。
性感染症なので、とにかく性行為だけがハイリスクになる。したことがない人はおそらく安心してよいが、性器と口腔でも感染する[厚生労働省]。
地域によっては保健所で無料検査をしている。パートナーがいて心配な人は住んでいる自治体を調べてみよう。
言わずと知れた危険な感染症の一つ。ウイルスで起こるが、ウイルスの伝染過程としては最強の空気感染で移る。あのコロナウイルスでもエアロゾル感染までだったのだから感染力の強さがよくわかる。発症すると高熱や全身の発疹などが現れる。
古くからある感染症なのでワクチン接種事業が行われていて、その成果もあって2015年に日本は麻疹の排除状態にあると認定されている [厚生労働省] 。現在は海外由来の感染者が散発的に発生している。定期予防接種に取り入れられたのは1978年10月だが、1回では抗体獲得に至らないことがあるので2006年から2回接種が行われるようになった [厚生労働省] 。それのキャッチアップとして2008年から5年間だけ中学生、高校生にも2回目接種が行われていて、少なくとも30歳より若い人は定期予防接種を受けていれば2回接種されている。
ワクチンの記録は母子手帳に載っているので確認してみよう。ちなみに一部の自治体ではコロナワクチンと一緒にその他のワクチンの接種歴もデジタル化されていて、その場合マイナンバーカードを持っている人はマイナポータルから確認できるので見てみよう。
感染症ではないが、件数が増えている。全国のデータは見つからなかったが、東京都で378例程度。ちなみに東京都内での交通事故は2500件前後なのでそれと比べるととても低い。なのでものすごく心配しないといけないものではない。
基本的に暗いところに人がいたら刺しに来るという習性である。電車で見られたというXのポストがバズっていたが、人がいる間はほとんど常に明るくて暗くなってからは人がいなくなる電車内で繁殖することはないのではないかと思われる。とはいえ衣服などに付着していたものが落ちたという可能性はありえないことはない。
ただし薬剤耐性を持つトコジラミが発生しているというのは憂慮すべきところで、侵入されると大変ではある。物理的に皮が厚くなっていて薬剤が浸透しにくい体になっているらしい。それでも蒸気を当てる等の高温には弱い。
一番の感染経路はホテルなどの宿泊。まず部屋に入ったら荷物をバスルームに置いて部屋のいろいろな隙間やマットレスの隅を確認すること。トコジラミがいる場合は血糞という血のりのようなものが付着している。またリュックサック等の荷物はなるだけ床に置かないようにした方が良い。あとはマメに部屋を掃除しよう(これは完全に私見である)。どうしても心配という場合は部屋の電灯をつけて寝るだけでも効果があるらしい [アース製薬] 。
Domino-R 30代くらいの未婚率はほぼ収入に反比例するので、結婚に必要な要素が経済力なのは疑いの余地がない。なら低所得層の結婚の支援は結婚=子育てにかかる費用を政策的に下げるか、あるいはそれを直接支援するかだよ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4754652397782489600/comment/Domino-R
この人、前の増田へのブクマ米に続いて相変わらず、前半ではまともな事を言っているのに、
「30代くらいの未婚率はほぼ収入に反比例するので、結婚に必要な要素が経済力なのは疑いの余地がない」→そうだね、その通り
「なら低所得層の結婚の支援は結婚=子育てにかかる費用を政策的に下げるか」→はぁ!?なんで???そもそも結婚できないっつってんだろうが!
「あるいはそれを直接支援するかだよ。」→はぁ!?なんでそうなる???なんで素直に所得を上げようって話にならないんだ?
なんで、普通ーーーーに、「30代くらいの未婚率はほぼ収入に反比例するので、結婚に必要な要素が経済力なのは疑いの余地がない。」から、
「「なら低所得層の結婚の支援は所得を上げることだよ。」とならないんだ…???
こっちは所得が低いとそもそも結婚できないという話をしているんだが。
結婚した『後』の費用を下げたところで、そもそも結婚ない人達には関係ないんだが。
結婚する『前』のお金を何とかしなければ婚姻は増えないし子供も増えない。
おそらくは、「収入が低いと結婚できないのは異性に選ばれないから」→「収入で結婚相手を選ぶのは子育てにお金がかかるから」→「だから子育てにかかる費用を下げよう!」という理屈なんだろうけれど
金がないと結婚できないというのは、金がないと異性に選ばれないという意味も『勿論』あるけれど、必ずしもそれだけではない。
勿論それも皆無じゃないけれど、結婚相談所に登録したり、映える写真を撮ったり、友達と飲みに行ったり、同窓会に出たり、趣味の集まりの場に出たり、服を買ったり、気合いを入れたメイクをしたり、デートしたり、
そういう直接的間接的に結婚に繋がる色んな事にはお金がかかり、「金がないから結婚できない」人達にはそのお金がないというのを分かってる?
そういった金がないから独身のままだという状況があるのにそれを放置して、子育てにかかる費用を政策的に下げたところで手が届かないので関係ないです。それどころか子育てにかかる費用を政策的に下げた結果、独身の税負担がさらに増えて手取りが減り、ますます結婚が遠のく可能性の方が高いだろう。
あと、所得が低いとそもそも気力が起きない。有休も満足に取れず、休日は体力回復のために寝てるだけ。
よく未婚率の上昇に娯楽が増えたから~、と言って娯楽のせいにする人達が多いが
金がなくて結婚できない独身の大半は、娯楽に大金を使えるような時間的精神的余裕はそもそもない。
という結論が導かれるので、これ言い出した時点で負け確
新しく引っ越す街が、なんというかとても奥様向けというか
お花屋さんやらパン屋さんやらケーキ屋さんやらお菓子屋さんみたいな
そういう街だったんだけど
そういう「女子女子した街」の尺度って何かな?と思って考えてみて、「バレエ教室の数では?」という結論に至ったので調べた
渋谷区 16件
新宿区 13件
北区 9件
練馬区 9件
板橋区 8件
葛飾区 8件
江戸川区 8件
文京区 7件
大田区 7件
豊島区 7件
中央区 5件
台東区 4件
江東区 4件
中野区 4件
墨田区 6件
品川区 2件
足立区 3件
千代田区 1件
荒川区 0件
NAVITIME調べ
これを、人口当たりに直す
渋谷区 6.56件
港区 4.61件
目黒区 3.82件
新宿区 3.72件
中央区 2.96件
北区 2.53件
豊島区 2.32件
墨田区 2.21件
台東区 1.89件
葛飾区 1.77件
千代田区 1.50件
板橋区 1.37件
中野区 1.16件
江戸川区 1.15件
大田区 0.94件
江東区 0.76件
品川区 0.47件
足立区 0.43件
荒川区 0.00件
なんかそうだねって感じ
男女がセックスしないと子は生まれないが、後先考えないバカにならないとセックスはできない。
子ができたとしても生んで育てることに伴う責任とかリスク、コストとリターンとを冷静に考えたら産むなんて無理って結論になる。
そこに目をつぶってバカにならないと子を産む決断はなかなかできない。
そのダブルバインドに対してどっかで折り合いつけられる人たちだけが子供を作ってる
バカに対して、賢くなれ、後先のことを考えろ、子供が生まれたら親はその責任を負え、子供に不自由をさせずに幸せに育てろ、そういう教育をした結果、賢くなった人たちは子供を産むというリスクを取らなくなったんだよ。
中田敦彦のYoutube大学というYoutubeチャンネルが叩かれている。
まず結論を言うと、おれはこのYoutubeチャンネルは消えてほしいと思っているし、 もはや中田敦彦には自殺なり事故なりで死んでいただきたいなと思っている。 こいつが、おれがこの社会をおれのような人間にとって生きにくくしてる元凶だと思うからだ。 こいつは、適合人間の権化だ。害悪である。
中田敦彦のYoutubeの大学について、おれはもともと良いと思っていなかった。
誤っていることが多いからだ。 また、文学を紹介する時にも、著者に対するリスペクトが欠けているなと感じることがあった。
ということでおれは無視していた のだが、中東史のビデオが、それに詳しい人に酷評され、そこから中田敦彦批判が広まっていった。
おれも、彼の新選組のビデオは登場人物の名前はじめあまりに誤りが多く、 おれ自身は以前に話したとおり、麻布学園の自由論文テーマで土方歳三を選ぶほど新選組のことが好きであり、 本来ならば、中田敦彦のような著名人に新選組を広く紹介してもらうことは本意であるべきなのだが、 そのビデオを見た瞬間にチャンネルも登録解除したし、レコメンドも停止した。 気づけば、ディスプレイの中にいる中田敦彦に対して中指を突き立てていた。
それ以外のビデオに関しても、見る人が見れば誤ってるとわかるものが多いようなので、 彼のビデオは結構いい加減ということは言えると思う。
おれが中田敦彦のように、 お金を稼ぐためならば、多くの人に見てもらうためならば何をしてもよいと 考える人間が嫌いだ。
また、それに対して群がる人間も嫌いだ。
ツイッターなどで、何も面白くない、知能指数3くらいの白痴ツイートが 1000Likeを得ていたりすることがあるが、 こういうものにLikeするやつは全員ガス室に送るべきだと考えているし、 当然、ツイートした本人も死刑になるべきだと考えている。
なぜか。
それが、適合するということだからだ。
適合人間にとって真実はどうでもよい。 多くの人が正しいと信じていることであれば、それは正しいということになる。 間違っていることであっても、みんなが正しいと思っているから正しいという人間がこの世には結構いる。
中田敦彦にとって正しさの優先度は低い
中田敦彦にとって、ビデオが正しいことを言ってようが何であろうと関係ないのだ。 ただ小説や歴史をてきとうにおもしろおかしく紹介出来て、それによって自分のチャンネルが肥大して、 多くの視聴数が得られ、高額な報酬が得られればそれが正しいことなのだ。
Youtuberは多くの場合、虚業である。 彼らが提供しているのはエンターテイメントであり、 現代の価値基準でいうと、本来なくても良いものだからだ。
しかし、百歩譲って単なるエンターテイメントであれば問題がない。 それどころかおれは、人間が経済的に豊かになった時代においては、人の心を豊かにする エンターテイメントこそが必要なものになると考えている。
では、中田敦彦のYoutube大学はエンターテイメントなのか? 彼はそのつもりかも知れない。 しかし、見ている人間からするとそうではないのだ。 不愉快に思うこともある。
もちろん、不愉快に思う人がいるからやめろというつもりはない。 なぜならばそれはまさに適合サイドの論理だからだ。 全員が不愉快に思っても、正しいことならばやればよい。
しかし、これを「大学」と名乗るのはやめろ。 大学と銘打つのであれば、提供する内容に専門家のレビューを通すのを最善とした何らかの検査をしろ。 正しいことを伝える最低限の努力はしろ。さもなくば、「大学」と名乗るのはやめろ。
なぜ彼が、正しくないことを言ってるにも関わらずそれを大学を呼んでしまうかというと、 そういうものを大学と呼ぶことに罪悪感がないからに他ならない。 なぜかというと、彼にとって大学ないしは学問というのがその程度のものだからだ。
これは恥ずかしいことだと思っていただきたい。 まともに教育を受けた人間で、中田敦彦のYoutube大学を真剣に見てる人は 誰一人いないと断言出来る。 メンタリストDaiGoなんかも似たようなものだ。
中田敦彦がこのチャンネルを「大学」と呼ぶ背景には、 彼が本当に知識を多くの人に届けていることに正義を感じているかというのもあるだろう。
学校でいじめられて引きこもってしまった子などが、自分のビデオを見て学ぶことに喜びを感じているのかも知れない。 経済的に大学にいけない人に学ぶチャンスを与えたいとか思ってる可能性もある。 というか誓ってもいいが、きっとそういうことを言うのだ。なぜならばそれが適合人間だからだ。
しかしおれはそうは思わない。
歴史上の人物について何かしらの真実を捻じ曲げたりすることは、 生きている人間にとって嘘の情報を流してその人間の社会的地位を貶めることとなんら変わりない。
なぜならば、第一にその人の子孫は今の世の中に存在しているからだ。 これは、不愉快に思う人がいるから正しくないと言ってるのとは違う。 単に、犯罪行為をやめろと言ってるに過ぎない。 しかも悪いことに、登録者は100万人を超え、何万何十万というオーダー の人間に見られてしまっているのだ。
また、歴史というのは生きている人間の共通認識でもあり誇り・財産でもある。 これらを穢すことは当然許されない。 歴史は、空気中に浮かんでいる何かではないのだ。
おれは、中東の歴史については詳しくないので上で挙げたツイートについて それが真実かどうか判断する目を持たないが、 もし真実でないとして、それを中東の人が見たらどう思うのだろうか?
理由その2は、一度誤った知識を身に着けてしまうと、 それをあとで修正することが難しくなるからだ。
小学生中学生の子供が、中田敦彦のYoutube大学を見て 何かを学んだ(?)とする。 そしてのちに学校で同じテーマについて正しい知識を学ぼうとした時に、 正しい知識の方が定着しない可能性がある。
理由は、
1.動画で学ぶことは、退屈な教科書で学ぶことより記憶に定着しやすいから
3.多くの人が見ている動画だから正しいと思い込んでしまうから(適合人間の悲しさ)
「人間だから間違うこともある」というのが適合人間の論理だ。 しかも間違うことを許さないと社会が進んでいかないとか言い出したりもする。 というか中田敦彦はきっとそう言うはずだ。
しかしすでに述べたように、 間違ってると思うのであれば、それを大学と銘打って垂れ流すのはやめろというのが一点だが、 その間違いが単にケアレスミスとかそういうレベルではなく 「そもそも正しいことを広める気がない」という点を問題視していることから 自分に対する批判が始まっていることを認識していただきたい。
ここに、「ニンゲンが風邪をひいたら、休め」という規範を示す。
本稿は、右規範に対して懐疑的なニンゲンを説得するために執筆されたものである。具体的には、下記のニンゲンが本稿のターゲット層である。心当たりのある者は、ぜひ熟読せよ。
風邪をひいたら休めという規範は、①パターナリズムと②蔓延防止という二つの論拠から成る。風邪の治癒に専念することで、①疫病が悪化する可能性が低くなり、結果として本人のためになる。そして、②伝染病の蔓延を防止することができる。
ところが、しばしば右規範は破られる。風邪をひいても会社や学校へ行くニンゲンと、これを良しとする第三者が後を絶たない。なんとも嘆かわしい。かかる者は如何にして規範を逸脱するのだろうか。
私は、その理由につき、当該ニンゲンが①パターナリズムのみを重視してしまった結果であると考える。彼らは、「風邪をひいたら休まなくてはならない」という規範の趣旨を、もっぱら「私が大変な思いをするからだ」と捉えてしまう。よって、「私は病状悪化という結果を許容しているから、右規範の趣旨(本人のために休むべき)が及ばない。ゆえに休まなくてもよい」と結論づけてしまうのである。
しかし、かかる見解は妥当ではない。パターナリズムはむろん重要であるが、②蔓延防止の意義を殊更に強調しなくてはならない。
以下、敷衍する。
★「人を傷つけてはならない」という規範
なぜ、風邪をひいた場合に、②蔓延防止のために休む必要があるのか。
まず、「人を傷つけてはならない」という規範は、ハンムラビ法典でも傷害行為が禁止されているように、紀元前時代からの常識である。これは、現代社会においても、傷害罪(刑法204条)が国民に構成要件として配布していることからも明らかである。
そして、風邪をひいた状態で外出をして、特に会社や学校等の多数人が集まる室内で過ごせば、自らの病を伝染させることにより、他者の生理的機能に障害(傷害)を与えることで、人を傷つける蓋然性が具体的明らかに予見される。
したがって、風邪にもかかわらず、休まなかったことで、「人を傷つけてはならない」という規範を乗り越えてしまうことになる。
よって、他者を傷つけないために、風邪をひいた人間は休養することで蔓延防止に努めるべきなのである。
そうであるとしても、いかなる場合にも「風邪をひいたら、休め」という規範を適用するのは妥当ではない。風邪の自覚症状が無い場合や、どうしても外せない急用がある場合もあるだろう。いかに判断するべきか。
まず、自らの病状につき善意(無知)である場合について、いかに解するべきか。
故意責任の本質は、反規範的人格態度に対する道義的非難である。
すなわち、自分が風邪であり、もしかしたら他人に伝染させてしまうかもしれないという点につき、認識・認容していれば、「他人を傷つけてはならない」という規範に対しての反対動機を形成しているものといえる。しかるに、敢えてこれを逸脱したのだから、かかる行為は道義的非難に値する。
よって、自分が風邪であると認知していたのであれば、休養に努めるべきであるのが原則である。
逆に、自分が風邪であると知らなかったのであれば、そもそも「休むべきである」という規範に直面しておらず、反対動機を形成できないため、道義的非難に値しない。実際に、潜伏期間が存在するウイルスは多いことからも、このような結論が妥当である。
以上より、自らの病状につき善意(無知)である場合には、休まなくてもやむを得ないものといえる。
なお、ここでいう「体調不良」とは、月経・片頭痛・食中毒などの伝染病以外で身体異常をきたしている場合を指す。
この点、蔓延防止以前に、そもそもパターナリズムの観点からは、風邪か体調不良か判断できない場合にも休養した方が良いといえる。ゆえに、原則として外出するべきではない。
しかし、単なる体調不良であれば、他者の生命・身体を侵害することはない。よって、自身が体調悪化につき許容しているのであれば、単なる自由意思の範疇にあるといえるから、これを非難される筋合いは薄い。
したがって、伝染病であるという相当の蓋然性がある場合には、「風邪をひいたら休むべきである」という規範に服するべきである。右判断にあたっては、当人の体温、病状、体質、病歴、自覚症状、過去の行動等を総合勘案して判断する。
・平熱と比して体温が高い
・前日に気怠さがあった
・雨にうたれた
・知人が熱を出した
・病状が軽微である
たとえば、体温が37.5℃以上であり、前日から続く気怠さ・咳があるものの、月経による体調不良かもしれないといった場合を想定してみよう。この場合、たしかに月経という事情は伝染病のおそれを低めるものであるが、咳と月経は無関係であり、37.5℃以上という体温は、一般に風邪と判断されるべきものである。
なお、より強度な「明らかに伝染病ではない場合にのみ、休まなくても良い」という判断枠組みも考えられる。筆者は、単なる体調不良の場合は自由意思を尊重するべきであるから、緩い判断枠組みが妥当すると考えたため、かかる見解は採用しなかった。
では、自らの風邪に自覚症状があり、明らかに伝染病であるものの、どう しても外せない急用等がある場合には、いかに解するべきか。
この場合、どうしても外せない急用等に参加したいという時点で、パターナリズムは克服されているため、第三者への傷害の有無で判断するべきである(病状悪化をしてでも〇〇がしたいという者に対して、貴方の身体のために辞めなさいというのは余計なお世話である)。
そして、第三者に病を伝染させてでも、自分がやりたいことを行うというのは、結局のところはエゴイズムである。冠婚葬祭や親族の危篤、会社や学校への出席などは、「自分が行きたいから行く」のであり、エゴイズムが第三者の身体・生命の侵害を正当化する場面は限定的であるべきである。
これに対して、出席せねば評価が悪くなるため、「行きたいから行く」のではない;やむを得ず風邪をひいてでも外出しなくてはならないのである等の反論が想定されるが、妥当ではない。結局、評価の悪化を避けるというのも利己的な目的であり、原則として、そのために伝染病をばら撒いて第三者侵害を行うべきではないいう形式は変動しないためである。
第三者の身体・生命は、きわめて重要な法益であるから、「どうしても外せない用事」との比較衡量で決するべきである。具体的には、用事の重要性・症状を鑑みて、第三者の身体・生命に対する侵害のおそれを惹起してでも、当該「用事」を優先するべきであると判断できる場合にのみ、風邪をひいても休まなくても良いものと解する。
たとえば、冠婚葬祭や親族の危篤などは、この機会を逃してしまえば二度と立ち会えないイベントであり、用事の重要性は高いものといえる。
もっとも、当人が伝染させればきわめて身体・生命への侵害性が高いといえる伝染病を患っている場合は、この限りではない。具体的には、インフルエンザ、新型コロナウイルス、ノロウイルス等の強い感染力・症状を有するものは、真にやむにやまれぬ事情が存在しない限りは、外出するべきではない。
そして、会社や学校への出席は、上記の用事と比して、重要度が低いと言わざるを得ない。成績に重大な影響を及ぼす発表や試験等が存在しないかぎりは、外出を行うべきではない。
そもそも、出席が必要不可欠でない限りは、リモート等の手段を講ずるべきであり、あくまでも「風邪をひいたら休むべきである」という規範を乗り越え、外出を行うという選択肢は、最終手段として留保されるべきである。よって、リモート等の手段を採ることができたのにもかかわらず、他者への傷害を惹起する外出を選択するということは、あってはならないのである。
★まとめ
以上より、風邪をひいたら、本人のために休むべきであるのはもちろん、「他者を傷つけてはならない」のであるから、「ニンゲンが風邪をひいたら、休め」という合理的な規範が成立し、ニンゲンは原則として右規範を遵守しなくてはならないということが示せたはずである。
その他、想定される反論について、下記にまとめる。異論や質疑等があれば、気軽にコメントしてほしい。
・明らかに体調不良ではなく伝染病であるものの、風邪が軽微である場合は?
症状が軽微であっても、他者に伝染させる可能性がある。そして、乳幼児や後期高齢者を想定すれば明らかであるように、自分が軽微な症状であるからといって、第三者もそうであるとは限らない。したがって、伝染によって他社の身体・生命に侵害を及ぼすという点では、原則として「風邪をひいたら、休め」という規範に従うべきである。
もっとも、上記パターン3の判断時に、症状の軽重は重要な考慮要素となりうる。
・風邪をひいた状態で出席することに対して、全員の合意がある場合は?
友人の集まりや会社等で、自己が風邪を患った状態で出席することにつき、コンセンサスを得ている場合には、伝染による傷害結果の発生につき同意がある以上は、「風邪をひいたら休むべきである」という規範が妥当しないのではないか?という反論が考えられる。
しかし、風邪につき合意した者(合意者)のみと交流することは実際上は困難である。例えば、公共交通機関を用いるのであれば、不特定多数人に感染リスクがあり、伝染による傷害を惹起する可能性があるだろう。
そして、合意者がさらに第三者に伝染を及ぼす可能性がある以上は、②蔓延防止の観点からこれを許容するのは妥当ではない。
・病弱なニンゲンにとって、毎回「風邪をひいたら休む」という規範に従うのは難しいのでは?
たしかに、病弱なニンゲンは休む機会が増えてしまうため、会社や学校での評価に悪影響を及ぼすこともありうるだろう。
しかし、病弱な者は他人を傷つけても良いと考える者はいない。そして、伝染病の頒布は他人を傷害する行為であるから、伝染によって他人を傷害してしまうことにつき認識・認容があれば、道義的非難に値することには変わりない。
また、結局のところ、評価の変動といった事情は先述したように利己的・個人的な理由であるから、エゴイズムが第三者の生命・身体を侵害するという場面は限定されるべきであるという当為規範が変動することもない。
以上