はてなキーワード: 別世界とは
不採用だった。全力は尽くしたが、致し方ないと思った。約一週間後、mixi日記でキャプテン君が住友商事の内定を取ったことがわかった。第一志望だったので、そこに行くらしい。その日記には、いろいろと別世界のことが書いてあった。
・去年の秋、大学に五大商社の人が来て、体育会の部活に挨拶に来た。その時に一緒に食事をして、「ぜひ弊社に!!」とスカウトを受けた(五社中の三社)。
・ほかに受けた化学メーカー(東レ)の最終面接では、「御社は第二志望です。住友商事が第一志望です。そこに落ちたら弊社にお世話になります」とはっきり宣言したうえで内定を獲得。
・三菱商事も、三井物産も、伊藤忠商事も、選考を途中で辞退。自分とは合っていないと感じたため。
この時ほど、人間力というものの差を実感したことはない。アイツはすごかった。俺とはレベルが違う。俺はサッカーしか頑張ってこなかったけど、あいつはサッカーだけじゃなくって、受験勉強だって、人間関係の構築だって頑張れる人だった。
いやアイツは、どんなことにも本気で取り組むことができる。それでいて人間が好きだ。そういうエリートなのだ。当時も今も、俺はキャプテン君が羨ましい。俺もそんな人間になりたかった。なれなかった。
もし、今どこかでキャプテン君が俺の増田日記を観ていたとしたら、匿名でいいからコメントがほしい。誰だとわからないように隠してくれて構わない。
今では俺は、こんなに落ちぶれてしまった。正社員じゃないし、年間収入だって今のキャプテン君の五分の一に満たないだろう。クビになる可能性だってある。毎年、戦々恐々だ。
今でもサッカーが好きだ。自室の中にはサッカーゴールが置いてあるし、試しに蹴ってみることもある。部屋の壁にぶつけないよう、慎重に、慎重に蹴っている。たまに飛び出してしまうこともあるけど。
キャプテン君はどうだろうか。今でもサッカーをやっているのだろうか。とにかく今は、二十年前の思い出が懐かしくて、愛おしい。涙が止まらない。
第一志望の企業を不採用になった後は、坂道を転がるみたいだった。入りたい会社を受けども受けども、内定は得られない。二次面接までは行くのだが、そこではなんというか、明らかにやる気みたいなのが足りてなかった。
春を過ぎた頃だったか。同じ京都にあるITベンチャーを受けに行った。詳しい時期はもう覚えてない。はっきり言ってしまうが、㈱はてなだった。実は大学生の頃からはてなユーザーだったりする。
俺と同じ大学出身の人が面接をしてくれて、縁を感じた。エントリーシートも筆記試験も一次面接も、特に問題なく進んだけど、二次面接で一気に苦しくなった。
志望動機とか、会社を将来どうしたいとか、自分が将来どうなりたいとか、そういうことを喋れなかった。しどろもどろだった。どう考えてもこれは落ちた――そう思った。
相手の面接官は、「自分が入りたい会社というのはね、自分が将来どんなキャリアを描きたいのか、どんな人間になりたいのか、そういうところから逆算して決めていくんですよ」「今のままだと、増田くん、僕らの仲間になれないよ。ほかの会社だって難しいんじゃないかな」「もっと、ゆっくり立ち止まって考え直そう。増田君がどの会社に行くとか関係ない。真剣に考えて」と、人生のアドバイスまでしてくれた。
後日、大学のパソコンにログインすると、二次面接の結果通知がきていた。『合格』だった。次の選考に進めるらしい。これが最後通牒だと思った。「次でなんとかしろ」。そういうメッセージだった。
結局、俺はダメだった。はてなは辞退したし、ほかの選考が続いていた会社も悉く落ちて、ようやく内定を得られたのは夏の終わりだった。烏丸御池の辺りにある小さい広告会社だった。※今は別の場所に引っ越している。
この頃には、千亜子ともあまり会わなくなっていた。就活期間中は、お互いに忙しいから会えなくて当然なんだけど、まさか俺のせいでここまで会えなくなるとは。
千亜子は、その年の初めから一気呵成に就活に励んでいた。それで、俺より四か月も早く内定を決めていた。千亜子がスチュワーデス(CAのこと。当時は呼び方の過渡期だった)に内定したと聞いて、やはり只者じゃないなと感じた。劣等感だった。
この頃の自分というのは、なんかもう、劣等感がすごかった。就職活動でサッカーはできないわ、千亜子には会えないわ、勉強だって最後の単位を取り終えるあたりで躓いていた。
フツーの人生だったけど、それなりに成果を得てきたつもりだった。持ってる側のつもりだった。でも、俺はダメだった。今でいう抑うつみたいな状態になっていた。
秋になると千亜子と会うようになっていたのだが、よそよそしくなっていた。俺が内定した会社を告げると、「あー、よかったね。一緒に東京行けないのは残念」と言っていた。
もうすぐ最後のインカレという時期だった。ある日のアルバイト帰り、千亜子とキャプテン君が働いている河原町通りの飲食店の近くを通ると、千亜子がいた。ほかの大学生数人と一緒だった。私服だったし、おそらく飲み会帰りだろう。
店の近くまで行ったところで、自動ドアが開いた。すると千亜子が中に入って行って、上の階へと小階段を昇ろうとする男子学生(※キャプテン君ではない)の背中を掴んで、ぐいっと引きずり降ろしていた。
ちょっと驚いたけど、別に険悪な雰囲気でもなかった。それで、何やら彼と顔を近づけて話を始めた。この後の段取りとかを話してたんだろうか。俺のすぐ傍にいたほかのアルバイト友達と思しき学生が、こんなやり取りをしていた。
「そういえばキャプテンさん、最近千亜子さんにアタックしてる」
「二人とも一流企業だし。似合ってると思う」
こんな話をしていた。※当時の日記に書いてあった。
惨めな気分だった。俺が千亜子と釣り合ってないのは確かだ。内定した会社のランクが違うから。俺は就職活動に失敗した。インカレだってスタメンに選ばれなかったし、アルバイト先でも俺よりすごいやつは何人もいる。
人生で、ここまで負けまくるのは初めてだった。「畜生」と思ったけど、当時の俺にはどうにもできない。
千亜子にフラれたのは、新年が明けてすぐだった。大学のカフェテリアで、夕方に一緒にコーヒー飲んでる時に、「卒業するし、そろそろ終わりにしない? いい人、いるんでしょ。知ってる」と言われた。
今日、そんな予感はしていた。サッカーの試合勘みたいなもので、雰囲気でなんとなくわかる。今年の初詣は千亜子の予定が合わずにダメだった。おそらくキャプテン君と一緒に行っていたのだろう。
当時、『いい人』はいなかったけど、「そうしよう。お幸せに」って言ったら、「お互い、これからの人生でいい思い出にしていこうね」と千亜子が言った。
当時の日記には、そんなことが書いてあった。記憶や言葉をごまかしてはいないはずだ。当時の俺は、そこまで弱い人間ではない。40を過ぎて今それを読んでいる。やはり涙が止まらない。
これで結びになる。
就職してからの俺は、うまくいかなかった。仕事の才能は平凡のようだった。しかし、大学時代の失敗を引きずっていたせいで使えない人間だった。「あんた、サッカーすごかったんやないん?」みたいなことは何度も言われた。また、同じ会社で「学生サッカー選手権で活躍するところを観た」という同年代の社員もいた。
確かにそうだったかもしれないが、最後に出たインカレだって、負けかけの試合で後半でお情けで出してもらったくらいで、別に凄いわけでもない。アルバイトだって、ずっと居酒屋で頑張っていて、そこで最後に新しい彼女作れるかなって頑張ったけど、五人以上にアタックして全く相手にされなかった。素の自分というのは、モテる方ではなかった。ちょっとサッカーができるくらいで女にモテようなんて傲慢だった。
そんなこんなで、気持ちが沈んだまま新年度の四月を迎えたのだ。でもって、実社会で通用するはずもなく、新卒で入った広告会社は二年で辞めて、後はずっと契約社員とか派遣社員だ。
キャプテン君と千亜子は、俺が広告会社を辞める頃に結婚した。mixiの日記を読んだけど、それはもう凄い結婚式だったらしい。総合商社勤めだけあって、マイミクだったら無条件に結婚式招待OK!! という宣伝をしていた。会場までは知らないが、きっと東京都内のオシャレな会場だったに違いない。
俺は行かなかった。お金がないのもあるが、なんかもう、人生が面倒くさかった。
不惑になった今でも、当時の俺の何が悪かったんだろうと振り返ってる。昨年末も、実家にあった段ボール箱を引っ張り出して、当時の日記を読んだ。大学二回生から付けている日記を、半日かけて読んでいったのだ。この増田日記のベースになってる。
俺の何が悪かったのか? 三点にまとめると、次のようなところか。よくない行動のハットトリックみたいだ。
・就活で失敗した程度で凹んだのはおかしい。どんな会社に入ろうと未来はあった。
・どんな自分でも自分自身なんだって気が付いてなかった。失敗したって、自分という人間の価値が下がるわけじゃない。むしろ、失敗前の自分<失敗後の自分だ。それがわかっていれば卑屈になることもなかった。俺は挑戦したのだ!! そんなメンタルだから、就活もサッカーも恋愛もうまくいかなかった。
・サッカーができるくらいで調子に乗っていたこと。どれだけサッカーができようが、それは実社会で必要とされる力の一部分にすぎない。大事なことはもっとある。
・もっと自分を認めること。生きているだけでもすごいんだと、自分を褒めてやりたかった。人間にはみんな価値があるのだ。
いや、四つあるんかーーーーい!! と、大学時代の俺だったら、陣内智則みたいにツッコミを入れていただろう。今はそんな気力もない。
あの頃に戻れたら、とは思わない。いや、本当は戻ってみたいけど、それは間違いだ。これまで負け犬なりに努力してきた自分を否定したことになる。過去の自分を裏切ってる。だからダメだ。
今の俺は、あの時よりも成長してる。だったら、もっと成長できる!! もっと頑張ったら、幸せになる未来があるのかもしれない。結婚はできそうにないけどな。
ここまで読んでくれた人、ありがとう。何人読んでるかはわかんないけど。
気持ちの整理をつけることができた。また来週からは、しみじみと社会人生活をやっていきたい。
どうすれば幸せになれるんだろうかと考えて、ひとまず、今年の春から地元の草サッカークラブに入ってみた。自分自身が練習してるのもあるけど、子ども達に教えることもある。
ひとまずは、こんなところでいいのだろうか。まあ、ゆっくりやってみよう。幸せでありたい。増田やブックマーカーのみんなも幸せにな。
今のところ自分は産まなくても十分幸せだっただろうなーと思う。
子供はすくすく育ち、5歳になった。
共働きで、メインの稼ぎ手は私であり、夫とは仕事家事育児のすべてを分担している。
それでもとにかく、いくら分担したところで、母親業ってやつに心が馴染まない。
「面倒くさ〜」「疲れるな〜」とか、そういう感情が先立つ。親であるデメリットを毎日感じる。とくに自分が体調不良の時は本当に勘弁してくれと思う。
自分のリソースをここまで削られることに対して、育児って狂ってんなーとしみじみ思う。
常に睡眠不足だし、外に出りゃ私たちがちゃんとした親かどうかを逐一社会がチェックしてくるし、保育園から持って帰ってきた体調不良は家全体に蔓延するし、お金はバカほどかかるし、家の中は汚されるし散らかるし、ずっと騒々しいし、何かやろうと思えば体感20秒ごとにストップが入る。自分のことをする時間は本当にゼロになる。育児の裏でなにかに集中できることなんてひとつもない。デメリットを挙げだしたらキリがない。
ときどき夫が子供を連れ出してくれる時だけ、久しぶりの趣味の感覚を取り戻そうとしてみたり、家をいつもよりきれいにしたり、読書したり、仕事に関する勉強をしたり、お菓子を焼いたり、お風呂にゆっくり入ったり、はたまた好きに出かけたりできる。
この時間が永遠に続けばいいのになぁ、子供がいない人は休みごとにこんな風に動けるのか、羨ましいなぁ…と思う。実際自分は独身・子なし夫婦時代を楽しく過ごした。
自由な日の終わりに子供が帰ってくると、あーあ…と思う。次は一体いつ自由な身になれるんだろうなと凹む。
仕事終わりに保育園に向かう時も、自転車を漕ぎながら「これからまた明日の始業までしんどいな…」と毎日思う。仕事の方が自分の計画で動けるのでストレスを感じずに済む。
ゆえに金曜日は気分が沈む。
「ああやってしまった、産むんじゃなかった。」という感覚がずっとある。もう産む前には戻れないことに対しても、最初の数年は発狂しそうだったけど、ある程度心の中で折り合いはついたと思うのに。
もう巻き戻せないんだからちゃんとやらねばと思って、できる限り子供に関わって、仕事も主体的にこなすことを心掛けながら、気を遣ってくれている夫と子供が理由で関係が悪くならないように努力しつつ、自分の体調も崩さないように気を付けて来たけど、もう本当にマジで疲れたな。
楽になりたい。
子供を持つことの良いところってなんだろう。
子供がかわいらしいこと、その子供に好かれていて駆け寄ってくること、パートナーは子供がいて幸せだと思っているらしいこと、社会的に子供がいるというステータスが「まとも」と見られる時もあること(とはいえ、子がいるという事実だけでまともと捉えるようなコミュニティに身を置くべきではないと私は考えている)、子持ちにしか縁のない場所に堂々と出入り出来ること、「子供を産めば良かった」という後悔をすることはなくなったこと、このぐらいか。
(ここに「自分が完全になった気になれた」「かけがえのない存在がいる」とかを一緒に挙げる人もいそうだが、それに関しては私は夫と結婚することですでに感じられていたので除外した。
同じように「子を産む」ことに付随する神秘めいた説明のつかない部分を体験できることに関しては、私がそれについて懐疑的なので除外した)
いや、これだけで頑張るには毎日キツすぎる。
それでもやりたいと思うならぜひやってみたらいいとおもうけど、全く他人にはお勧めできない。
特に、リミットを感じて周りにも子を産めと圧をかけられ迷いが生じている人には本当にお勧めできない。産んだら元には戻れない。
子供はいいよ、産みなよ、とか簡単に言う奴は、自分の苦しみを他人にも感じさせて分かち合える人間の母数を増やしたいのかな?とすら思う。
現状を知った上で産むかどうか選べるなら産まない。誰もこんなことしない方がいいとすら思う。
本当に何も知らなさすぎた。バカだったなと思う。
「こうなる」ことをもし全部知った状態で産む前に戻れるなら、子供が欲しいという夫を説得して、共働き子なしで一生余裕のある暮らしをしようと言ったと思う。それでも子どもが欲しいなら別れよう!と言ったと思う。別れたいわけではないけど、子供が欲しい夫に後悔が残るのはかわいそうだから。
不可逆な選択を間違えたので、もう粛々とやっていくしかないと思って、時間とお金を湯水のように消費して毎日育児している。
自分の時間が吸われ続けて、やりたかったことは出来ず、このまま老いていくんだなあ。
あ〜、人生もっと楽しみたかった。これが正解なんだとしたら狂ってる。
若く楽しい時間を犠牲にして、一つの命を「人間にする」行為をしている。楽しめる人もいると思うけど、私はそうではなかった。
もちろん2人目は産まない。
子供を産んだ自分が詳細に想像がつかないまま子供を持ったのは本当にバカだったなぁと思う。
「こんなことを言う母親で子供がかわいそう」と言われる声が自分の中から聞こえてくる。
いくら子供に関わって心を砕いて、自分の持てるリソースを殆ど全て明け渡しても、母親の内心がこんなふうなら「子供がかわいそうと言われてしまいそうだ」と考えてしまうぐらい、育児の現場には内心どう思うかすら自由がない。
後悔してますと大っぴらに言うことは出来ない。子供を傷付けたいわけでもないので、胸にしまっている。これからも現実ではそうし続けると思う。
若い子は半数以上が子供を持ちたくないらしい。賢い!そうした方がいい!と思う。
産む前には絶対戻れない。私は知らなかったから子供を持ったけど。
もう一度言いたい、産む前には絶対戻れないって。何もかも元に戻らない。
[ 追記1:養子はどう?というコメントに対するレス以外、増田はコメント返信していません ]
[ 追記2:
疲れ果ててろくに推敲もせず書いたものが人に読まれていろいろコメントまでついていて驚いた。
「子供の目に入ったらどうする」「子供がかわいくないのか」「こんなものを人の目の触れる場所に書くな」というコメントが散見されたけど、「日々なんとかやっていて、子供とちゃんと関わっている」と想像がつくであろう情報を添えてもこんな意見が返ってくることこそ、子を持ったからにはこうあるべきという強い思想があることを浮き彫りにしていると思う。
(おすすめしている人もいたけど『母親になって後悔してる』はすでに読んでいるので、ブックマークが伸び始めた時点で私のことを人非人扱いするだろう意見が出てくることは想像がついた。むしろ思ったより共感が多いなと思ったほど。)
そして「子供を持つことで、人生の選択ミスをしたと思っている」という意見が見えてきづらい理由もなんとなく分かった。
こんなことを書く人間はすでに心が疲れているので、余計なことを言って他人から責められるなら辛くても大丈夫なふりをしてやり過ごす方がまだマシだし、こうやって文章にすることで子供に対する罪悪感から自責の念を強めてしまって投稿しづらいんだろうな。
匿名のエントリでさえこんな反応が返ってくるなら、そりゃ誰も言わないし、書いて残したりしないだろう。
「昨今、『子育て疲れた』みたいな情報なんかいくらでも見かけるだろ」と言う人もいたが、少なくとも私は死ぬ方法をいくつかブックマークしておき、最悪こうすれば良いと思って日々をやり過ごすほど子を持ったことを後悔するとは思っていなかった。もともと子供が不得意というわけでもなく、苦手意識もなかった。自分の感じた絶望感が自分のしていた想像よりも深刻だった。(これはn1の話だから、逆のパターンも絶対にある。)
とはいえ、これは私の心にとっての事実であり、「表明する人が少なく、アクセスしづらい情報となっている」と思われるので、とりあえず消さずに置いておくことにした。
大した文章でもなんでもないんだけど、私は産む前に見ることが出来なかった情報だったので。
「自分の子供だけはやっぱり違う」とか、「人類がみんなやってきたことなんだから、あなたにも出来ないわけがない」とかだいたいそんなことを言われたし。もちろんそれは悪意があった言葉ではなく、その人にとっての事実だったんだとは思っているけど。
でも、私はあまりにも不可逆な選択で間違えてしまったと思っている。もう戻ることは絶対に出来ないので、毎日やり過ごしている。後悔している。疲れた。この投稿にそれ以上の意味はない。 ]
[ 追記3:
Twitterでいろいろとシェアされていることにたまたま気づいた。
こういう文章が引用した人間の持つ思想のお気持ち棒として振るわれるのは仕方ないことだが、引用した人の主張のバイアスがかかった状態で読まれて内容を勘違いされるのも本意ではないので、仕方なく補足として追記する。
あと、そもそもここまで読まれると想定して書いた文章ではないので、「自分の排泄物がやたらと批評されている」みたいな違和感があることも書いておく。
上記の文章は私にとっての事実であり、ただただ嘘のない気持ちを列挙したらこうなった。
とはいえ、いつまでも現状に文句たらたらでふてくされたまま人生を無為に過ごすつもりは全くない。
「母親になって後悔してる」と結びつけてシェアされたのが大きく伸びたせいか分からないが、私が今後一生ずっと子を持ったことを後悔し続け、後ろ向きに暮らす惨めで不幸な女だと決めつけてかかる人がいるが、それは違う。
(そもそも、同書に出てくる母親たちもそんな人ばかりではない。戻れるなら産まないというだけで、その人を幸福になれない人間と決めつけるのは早計だと思う。「母親になって後悔してる」の本の事例だと考えてシェアした人もそんなつもりは無いと思う。)
こんな生活になると想像しきれず、人生はめちゃくちゃになってしまった。戻れるなら私は産まない。今現在、後悔している。それは本当にそう。でも不幸とイコールでは無い。
私の子供はすでにそこに存在していて、それならば子供自身が思う自分の人生を送れるようにできる限り手助けしたいと思っている。
今現在、自分がこんな心境であるにしても、自分含め家族全員が幸せな人生を送れたら良いと思っている。
「誰もこんなしんどいことしない方がいい」とついつい思ってしまうとはいえ、私は反出生主義者ではない。どんな派閥も肯定する気はない。
他人にまったくおすすめできない行為ではあるし、後悔しているのも事実であるため、どうやら読む人によっては「この状態を不幸としない」ことに矛盾を感じるのかもしれない。
(※0か1かでしか考えられない人もいると思うので一応書いておくが、これは「だから子供を産んで後悔はしてるけど、やっぱり私は幸福です」と言っているわけでない。)
こんな人間はどうせ産まずともグダグダ言っているだろうという意見もまあ確かにそうだな、と思った。というか、それの何が悪いのか全く分からない。
子供を産まなかった別世界線の私が後悔したとして、子供を産めば良かったと後悔している、と表明することの何が悪いのか?
その時その時のその人にとっての真実を書いて、ネットの海に放流することはなんの罪もない。
いろんな人が好き勝手書いて、それをいろんな人が参照して、取捨選択に使えばいいと思う。
(人の言葉尻を捕えて揶揄することで主張をする人たちも、私からすればイラッとするが好きにするといいと思う。匿名ツールなんてそうやって使われるものだと思うし)
もはや自分で読むのも面倒臭いほど長文になってしまった。これ以上追記はしないので、あとは自由に解釈してもらえたらと思う。 ]
まずマリオとルイージが元々キノコ王国の住人ではなく現実世界の人間でキノコ王国にワープする設定がもう論外。
ゲームで一度も出てこないマリオブラザーズの両親や親族もオリキャラで出てきやがるけど、マリオブラザーズはコウノトリが運ぶ途中でヨッシーアイランドに落っことしてヨッシー達に育てられたはずだろ。矛盾してるやん。
赤キノピオのキャラもゲーム完全無視。何だよあのひょうきん野郎は。
ピーチは助けに行く側でやけに気が強いし、マリオ顔負けの身体能力だし。
スマブラやカートみたいな番外編はともかく本編のピーチともう別人だろ。
CGのタッチも何かキモいし、BGMでやたらマリオと無関係な洋楽流してくるし、ブラックジョークをしつこく挟んでくるし…。
ようはこれ「親に見放された無能な主人公が別世界の住人と出会い世界を救ってヒーローになる」っていうベタなアメリカ映画を無理やりマリオでやってるんだよな。完全な原作レイプ。
本当に任天堂が監修したの?ちょっと信じられないくらい酷いんだけど。
あんな内容なのにやけに売れてるし、マリオファンや任天堂ファンにもすげー好評みたいで不思議。
ネットでボロクソ言われてたSTAND BY MEドラえもんとやってることはほぼ一緒だろ。
少なくとも俺はマリオファンとしてこの映画は自分の記憶から抹消したい。
予告の時点で嫌な予感は薄々してたけど、やっぱり観に行かなきゃよかった。
そんな映画。
https://twitter.com/mitsuo_cinema/status/1646515545808965634
まだ23歳の才能ある女性が、って年齢関係あるの?43歳の女性だったら言われても問題ないの?
23歳ってとっくに成人なんだけど、
未成年カードが使えなくなったら「まだ23歳の」と若さを強調するの?そういうエイジズムって、レイシズムと同じくらい有害じゃない?
人魚姫もシンデレラも白雪姫もかぐや姫もみんな自分とは違う別世界の「憧れ」であって、なりたいなんて思った事はないし
仮になりたいと思ったとしてもなれない事は自明の理として理解している
「黄色人種はアリエルになれない」と言われたところで別に怒りもしないし当たり前に受け入れるよ
なんで黒人は違うの?
黒人なら、CGや特殊メイクで弄りでもしない限り、赤い髪で白い肌のあの「アリエル」にはなれない。それって単なる事実じゃない?
しかもこの彼女は髪形をわざわざドレッドにして、見た目を寄せようとすらしていない
全世界の子供達に伝えるメッセージとしてなら、人はみな個人として尊重され、自分以外の何者かになろうとする必要なんてないって事こそ教えるべきでは
東京に家族旅行して、子供を遊ばせる場所がお台場・晴海ばかりだったので、お台場近辺で一番安いホテルに泊まったの。
それでも素泊まり1泊1人1万円して「高いな~」と思ったけど、思い切ったの。
ビッグサイトとフジテレビのちょうど中間あたりにある、ホテルトラスティ東京ベイサイドてホテル。
羽田空港からりんかい線に乗り換えて、国際展示場駅で降りて、まるで公園みたいなだだっぴろい通路(公園なのか?)をテクテク歩いてホテルに向かうと、高い2本のビル。
さすが素泊まり1万円だな~と思いながら近くまで行くと、立派な大きな門があり、ビシッと制服を着こんだ門番係までいる。
すげー、高級ホテルじゃん。
門からは何千万円しそうな車高の低いスポーツカーが出てきた。フェラーリのランボルギーニてやつだったのかしらん?
1万円のホテルでフェラーリ?超高級ホテルなのに1万円ならお得だったな、と思いながら門番に「ここがトラスティですか」と聞くと、「トラスティはお隣になります」と。
2本のビルの根元にへばりついたような4階建てのホテルで、それなりに高級感はあって1万円でも納得できる部屋ではあったんだが。
東京を楽しんで地元に帰り、隣のホテルはなんだったんだろうとグーグルマップをみると、東京ベイコートクラブという会員制の高級リゾートホテルじゃった。
会員権を得るのに1000万円~3500万円かかり、年会費も年30万かかり、さらに一泊数万円の料金を払わんといけない。
誰が泊まるんだこんなホテル、と思ったが、グーグルマップの口コミを見ると、ふつーに「家族連れで泊まりました、まあまあでした」みたいな口コミとともに、
これまで見たこともないような、私らが泊まった隣のホテルとは別世界の広い部屋(地元ホテルのスイートより広いよ)、豪華な調度品の写真の数々が投稿されていた。
食事の口コミも「まあまあだが、この値段なら妥当かな」的な。一食数万円で。
いやー、こんな金持ちの世界って漫画やドラマでしか見たことなかったけど、いるところにはいるもんだね!
普段は隔絶された別世界で全く接点がないから意識してないけど、けっこうな数が生息してるんだね。
一食数万円の食事して「値段のわりに良い」みたいな感覚、想像できないんだけど、いるんだね。
たまたま偶然そんな世界の一端を見てしまって、自分はこれまで親が地元市の副市長だったり、自身と夫も日本平均くらい稼ぐサラリーマンで世帯年収は1000万超えてたりで、日本で中の上くらいにいる自意識だったけど、そんなの田舎の胃の中の蛙で、東京には自分らとは隔絶された上流の世界が広がってるんだなと、打ちのめされてしまった。
副市長ってそれなりの立場かと思ってたけど、所詮は安月給で使われる庶民(奴隷)の日常生活を管理する勤労者、囚人の牢名主みたいなもので、本当の金持ちは勤務時間や行政なんかに縛られずに生活して不労所得を得てるんだろうね。
と、旅行から帰ってきてからずっと「金持ち爆発しろ」「共産革命起こっていいぞ~」と劣等感からの汚い感情が頭の中でグルグルしてるので吐き出してみた。
あーすっきりした
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』を観た。
セカイ系ハジケバトルだな、と思った。他の運命を辿った自分たちの皺寄せを食らってるってくだりでは、まどマギでもそんな感じの運命が収束してどうのみたいな話があったのを思い出した。
冒頭の前置きは鬱屈とした生活を見せるのに必要なんだろうけど、ちょっと冗長に感じた。
国税庁でのシークエンスはマトリックスのオフィスのそれみたいな緊張感があって良かった。敵の現れ方もなんかエージェントスミスみたいだし。
ペーパーカットは痛みがリアルに分かりすぎてついつい目を背けてしまった。
ブッ飛んだ事を色々試す辺りはおちゃらけに徹してる感があって面白かった。この辺もマトリックスの"I know kung-fu."を思い出した。意識しているんだろうか。この擦られた陳腐な例えはあんまり使いたくないけど、ボーボボのハジケバトルそのものだった。
別世界の自分を呼び出すのはジョジョのD4Cみたいでもあってちょっとかっこよかった。あり得たかもしれない運命を呼び出す、というアクションのトリガーがヘンな事をする、すなわち日常から一歩踏み出すというものになっているのはなんか良かった。
手がソーセージになった世界線のくだりでの2001年〜のシーンはちょっと笑った。ディルドは長すぎでは。
Part.2以降ではおちゃらけから少し離れてシリアス色が強くなった。暗黒ベーグルがどうのの話辺りはほぼ置いてけぼりだったが、「結局意味なんてないんだから、全部終わりにしちゃえばいい」みたいな台詞から、ニヒリズムや実存主義の話が好きなのでそういう文脈で捉えておいた。
冒頭で出たトロフィー?は何かプラグっぽいなとは思ってたけど、最悪の形で伏線回収がされた。局部のモザイクとかもあったが、結構話がシリアスになっていたので反応に困った。
落とし所としては愛による解決という事で、無碍にしていた旦那の「おふざけ」の目玉シールを貼っ付けて、くだらなさを優しさに転じさせたって感じだろうか。愛だねえって思った。
生命が誕生しなかった世界線の辺りからはほぼ理解していなかったが、娘と腹を割って話し合ってハッピーエンドになりセカイ系だあ……と思った。
みんな何を思いながら生きているんだろう?
心の中で本当は何を考えているんだろう?
人の心を読む超能力があればなあ。
小説は人の心や頭の中が描かれているはずだから、小説を読んでみよう。
他人の心をのぞき見たくて小説を読んだけど、期待していたのとなんか違う。
そもそも登場人物が、特別な人や変わった人生ばかりで参考にならない。
普通っぽい人のキャラクターでも、自分から見るとまるで別世界の住人。
人が頭の中で思っていることをそのまま文字にしてくれたらいいのにな。
それを読みたかったのに。
他人の心を知るのは、その人から文字や言葉で教えてもらう方法では無理で、
超能力のように直接他人の心にアクセスできる能力がないと不可能なのかな。
タイトルを見て、もしかしたら何かしらみんなの死角に入りがちな指摘が含まれているのかな? どうせよくある言葉遊びの難癖でしかないかな?
と思って開いたらやっぱりよくある言葉遊びの難癖だった。
最近、多くの人と同じようにチャットボット、自然言語処理AI技術が近い将来においてなにものであり得るかということを考えている。
そして「肩の上のオウム」だ。ディスコミュニケーションを糊塗してくれる。
時間使って読むほどの価値がない文章コンテンツを主人の目に触れる前に握り潰してくれるフィルター。あるいは主人の気に入りそうなものだけ選んで持ってくるキュレーター。
たぶんAI的には朝飯前っていうかごく基本的な利用法と言えるだろう。ありがちすぎるものや突飛すぎるものを弾くとか、タイトルで気を持たせないよう内容に即してリネームするとか、面白さの期待値の目安で星をつけておいてくれるとかいうのは。
ネット上のコミュニティというか人の輪は焼き畑移動を繰り返してきた。
賑わいがないと面白いことは起きない。でも賑わいはいずれ「バカほど退出しない」原則に基づいて腐海と化す。
もうクズモブの群れを泳いで面白いものを探さなくてもよくなるのかもしれない。
また、ふつうの人びとのリアクションを得るためには大量のクズモブに群がられることに耐えなければならないという変な苦行もいらなくなるだろう。
インターネットはリアルで誰にも相手にされないクソリプマンに下駄を履かせてきた。そのボーナス期間が終わる。
若かりし頃の話だ。ちょっと語らせてほしい。気持ちの整理がついたのだ。チャンスは今しかない。
当時、大学四年生だった俺は、いわゆるネトウヨに堕ちた。就職活動に失敗し、大学院受験にも失敗し、にっちもさっちもいかなくなり、卒業後はフリーターとして生きる未来がほぼ確定していた。
悲しいかな、自惚れが強い性格だった。ネット上で言うのは最初で最後になるけど、十数年前に慶応義塾大学で法律や経済のことを学んでいた。専攻は不動産登記とか、土地や建物の取引関係がメインだった。成績はまずまずで、サッカー部(※厳密には違うがサッカー部という名称を使う)では補欠だったけど全国大会に出た経験があったし、就職活動が失敗することはないと思っていた。、結果はこのザマだ。
日系企業を主に受けていた。第一志望だった総合商社はもちろんのこと、メーカー系もマスコミ系も金融系も20〜30社受けたけど、ぜんぶダメだった。大手も中堅もすべて。中小企業の内定は取れたが、プライドの高い俺はすべて辞退した。
面接まではとんとん拍子なのだ。大学名がよかったからだろうか、エントリーシートを適当に書いても、SPIの勉強をしなくても、とにかく面接までは辿り着ける。しかし、内定を取ることはできなかった。
今思えば、あの時の自分程度の実力では、まともな会社から内定を取ることはできなかった。30代半ばになった今の率直な感想だ。確かにサッカーはできたけど、精神はぜんぜんなってなかった。今やっている『ブルーロック』のアニメでいうと、実力のない馬狼照英みたいなものだった。
で、結果がネトウヨだった。大学四年の秋〜25才頃までなので、約三年ほどネトウヨに堕ちていたことになる。
今では黒歴史だ。『国民の知らない反日の実態』とか、圧倒的眉唾感のサイトがあるだろ。ああいうのを見て、中央省庁にテンプレメール送ったり、韓国人や中国人の応援をしてると思われる国会議員をディスったり、mixiやGREEで反日活動を認定されたアカウントに突撃をかけて垢停止になったり、とにかくクソみたいな人間だった。
今思えば、いろいろと失ってしまって自暴自棄というか、自分も他人も大事にしない状態だったんだろうなぁ。当時の俺は。
ここで、大学時代に読んだ本を引用したい。約二千年前の、ローマのネロ帝の家庭教師ポジだったセネカの書いた『生の短さについて』だ。
長いけどすまんな。先に要約しておくと、苦しい立場に陥った人間は何かにつけて逃避行動に出る、みたいなことが書いてある。なにげに、現代の異世界転生ブームを予見している感がある。特に『オーバーロード』なんかの異世界転生+光属性の人間が死にまくるようなコンテンツが流行る理由がわかった気がする。
すごく長いけど、可能な限り要約してここまでだった。
さらに、さほど移り気ではないが、その一貫性が恒心のゆえではなく、懶惰のせいであり、自分の意欲するとおりの生を送るのではなく、始めたとおりの生を送る者も、この範疇に加えるとよい。症例を次々に数え上げればきりがないが、この病態の結果は一つである。自己に対する不満がそれだ。その由って来る因は、心の平衡の欠如と臆病な欲望、あるいは完全には満たされない欲望である。望むだけのことを思い切ってできなかったり、望むだけのことを達成できなかったりして、すべてを希望に託す場合がそれに当たる。そのような人間は常に不安定で流動的であるが、何事においても中途半端な者の必然的な結果である。彼らは自分の願い事を手立てを尽くして達成しようとして、不名誉なことや困難なことまでみずからに唆し、強いるが、苦労が報われなければ、願いが叶わなかった恥辱感に苛まれ、しかも、歪んだものを望んだことを嘆くのではなく、望みが徒労に終わったことを嘆くのである。そのとき、彼らは挫折した目論見への後悔の念にも、また、新たな目論見に着手することへの恐れの念にも捉えられ、その精神には、欲望を制御することもできず、かといって欲望を満足させることもできないために、出口を見出せない心の動揺や、思いどおりに展開しない生への躊躇、断念したさまざまな念願の中で無気力になっていく心の沈滞が忍び込むのである。苦労の挙句の蹉跌に嫌気がさして、閑暇の生や孤独な学問研究に逃げ場を求めたとしても、こうした心的状態はどれもますます耐えがたいものになる。公人としての務めを果たそうと意気込み、行動を望む、生来落ち着きのない精神は、当然、みずからの内に見出せる慰めがわずかなために、そうした閑暇な生や孤独な学問研究には耐えられないからだ。世間的な仕事に奔走しているときにまさにその仕事から得ていた喜びが取り去られると、みずからの家に、孤独に、取り囲む壁に耐えかね、一人取り残された己の姿を嫌々眺めるのは、それゆえである。落ち着き場所をどこにも見出せない精神の揺れ、そのような精神への倦怠や不満、そしてまた無為の生に耐える悲しくも病める忍耐は、ここに起因する。そうした状態の真の原因を認めることを恥じて、羞恥心が責め苦を内に向け、心の片隅に閉じ込められたさまざまな欲望が捌け口もなく互いを窒息させ合う場合がとりわけそれに当たる。そこから生じるのは、悲哀や憂鬱であり、また、希望を抱いた当初はどちらともつかない不安な状態に置かれ、やがては挫折を嘆く悲哀を味わわされる、千々に乱れる不安定な精神の揺れである。無為の生を厭い、自分にはすることが何もないといって嘆く人々に特有の例の感情、他人の栄達を蛇蠍のごとく憎む嫉妬心は、そこから生じる。不幸な無為の生は嫉みを育むからであり、自分が進展できなかったために、誰もが滅びればよいと望むからである。この他人の前進への嫌悪感と自分の前進への絶望感からは、次には運命に怒り、時代をかこち、片隅に退嬰し、みずから招いた責めにくよくよと拘泥し、そうする己の姿に辟易して嫌気がさすまで考え込む精神が生まれる。実際、人の精神は生来動きやすいものであり、動きへと向かう性向をもつものである。そのような精神にとっては、みずからを刺激し、どこか(別世界)に連れ去ってくれるものなら、どんなものでもありがたいと思う。その才知を世間的な仕事にすり減らして嬉々としている最悪の人間(の精神)にとっては、なおさらそのようなものはありがたいのである。ある種の腫れ物は潰してくれる手を求め、触れられることを喜ぶし、身体に出来た汚い疥癬は引っ掻いてくれるものなら何であれ歓迎するが、それと何ら異ならず、さまざまな欲望があたかも厄介な腫れ物のように吹き出た精神にとっては、苦しみや悩みは(ある種の)快楽となると言ってよい。
そんなわけで今回、若かった頃の俺がやってしまったネトウヨ行動を取り上げて、自分を断罪したい。ネトウヨ活動では多くの人に迷惑をかけてしまった。ふたつだけ取り上げるが、どちらも個別案件だ。まずは、この一件から。
それは、2011年だった。当時、ツイッターを始めたばかりの俺は、タイムラインとか、検索のやり方とか、連携の仕方とか、いろいろと勉強していた。そんな折、『炎上』というキーワードが眼に入った。炎上自体は何年も前からネット上で起こっていたのだが、自分が直接関心をもったことはなかった。
なお、この頃の俺は、都内のサイゼリヤで働く一介のフリーターだ。毎日、レンジやオーブンやIHヒーターで厨房仕事をするのが仕事だった。ムカつく年下の女社員から、「増田さん慶應卒なのwwwマジすかwww」みたいな感じでディスられていた。
それで、ある時ツイッターで見たんだよ。炎上の場面を。有名ホテルに芸能人が来ていた時、そこのアルバイト従業員が「芸能人の○○が二人で泊まるみたい」とかなんとかをツイートして、「客の個人情報を暴露すんな!!」みたいな恰好で炎上したのだ。俺は、それを間近で見ていた。
当時は、炎上騒ぎに参加する人間が実は少数である、という科学的知見はまだ得られていなかった。本当に多くの人間が炎上騒ぎに参加しているのだと思っていた。それで、当時はストレスが溜まりまくって、シロクマ先生でいうと承認欲求に飢えた若者だった俺は、誰かを炎上させたいと心に決めた。
自分でいうのもなんだが、知能が高い自信があった。中味はクズだったが。それから毎日、俺は炎上の種を探し、それらしいものを見つけてはツイートしていったけど、ぜんぜん炎上に至らなかった。ダメだった。
何週間か経って、もうダメかなと思いかけた時、あるツイートが目に留まった。プロフにアディダスの社員であることを明記している人物が、あるツイートをしていた。要約すると、都内のアディダス店舗にアディダスがスポンサーになっているサッカー選手が訪れたのだが、その人の容姿を侮辱するツイートをしていた。
「これだ!!」
と思った。俺だって小学生の頃からサッカーをしていた。サッカー選手を馬鹿にするのは許せない。
サッカーの試合で、「いまだ!!」と思う場面がやってきたとするだろう。この時、「いまだ!!」の「い」の場面で行動を起こす必要がある。「いまだ」と心の中で叫んだ時にはもう遅い――
そんな、大学時代のサッカー部のコーチからのメッセージを思い出した。実際、俺のルーレットスピンは大変狭い界隈ではあるが知られていた。三人抜きをしたこともある。その指導を正しいものだと信じて努力した結果だった。
そして俺は、そのアディダス社員の行動を咎めるツイートをした。
……その次の日、俺は大好きなハムスター速報を観ていた。ツイートのことは忘れていた。そしてある瞬間に、マウスをクリックする手が震えたのを覚えている。
それはもう、見事な炎上だった。アディダス社員はボコボコに叩かれまくっていた。コメントの数をカウントしてみると、軽く数百はいっていた。
ツイッターを確認した。俺と同じ時刻にツイートをした人間の数は、確か二人だったと思う。1人は準アルファツイッタラーと思しき人で、フォロワー数がけっこういた。でも、確認できた中では俺のツイートが一番早かった(その二人、もしかして俺のツイート参考にしたんじゃね!?)。いや、絶対とは言い切れないが。そのはずだ。※俺のツイートは削除済み。
あの時、俺は世界で一番賢くって、一番運がよくて、一番強い人間なんだ!! と心の底から思った。全くそんなことはなく、ただそういう運に当たっただけだった。
その日から数日、ハムスター速報に夢中になっていた。その記事ばっかり見て、コメントが貯まっていくのを観ていた。今では思う、俺がやったのはクソみたいな行為だ。具体的には、畑の隅に捨てられた白菜の欠片だ。茶色いカビが生えてしまって、もはやハエすら寄ってこないほどに腐りきったカス野菜だ。そんなレベルに堕ちていた。
だから俺は今日、ここで謝罪したいのだ。俺の行動が原因のひとつで、炎上を招いたかもしれなかった。俺だけが原因ではないけど、でも、あの時ツイートをしなければ運よく炎上を回避できていたか、あの子は若気の至りで済んだのかもしれない。
あともう一つで謝罪は終わりだ。気が付いたらけっこう書いてるな。ここまで筆が進むとは思ってなかった。
同じく20代の頃、ニコニコ動画にハマっていた。ようつべよりニコニコ派だった。で、その中のサービスのひとつにニコニコ大百科というのがある。端的にいうと、wikipediaがもっとバーリトゥ―ドになった感じだ。なんでもあり感が満載のネット百科事典ということになる。
ここに電通の記事があった。やはり『国民の知らない反日の実態』などのネトウヨサイトを巡回していた当時、なにかやってやりたいという情動に突き動かされることになった。例えば、一集団内の駒として、都内某所で花王不買運動とかのネトウヨデモに参加するんじゃなくて、もっと大きいことがしてみたかった。
それで、ニコニコ大百科にある電通の記事を編集することにした。当時は、スパッとした端的な記事内容だったのだが、俺が編集を終える頃には、圧倒的ネトウヨ臭の漂う記事へと変貌していた。
こんなことをしていいのか、という認識はなかった。ただ、電通は反日企業として認定されていたから、鉄槌を下すべきだと信じていた。俺を役員面接で落とした逆恨みもあった。
さて、編集後はとんでもないことになった。コメントの数が増えたのだ。それまでは10件くらいしかコメントが付いていなかったのが、その後1年間で百件以上のコメントが付いた。
内容はお察しのとおりだ。俺と同じネトウヨ連中か、または『国民の知らない~(略)』が引用元だから信じなくていい、みたいな二極的なことになっていた。
残念ながら、要編集記事に指定されてしまった。その解除には約五年を要した。俺は、編集してから一年も経つ頃にはネトウヨ活動に興味を無くしていた。もうどうでもいいと思っていた。
というのも、内定を得たからだ。しがないファミレス店員だったが、数年間フリーターとして努力し続けた俺には、わずかずつではあるが、社会人としての力が身についていた。準社員マネージャーみたいな役職があったのだが、アルバイトでも正社員の仕事をやらせてもらえる。それで、組織の下部階層における事務管理とか、オペレーションの指揮とか、コーチングやティーチングを学んだ。それが活きて、就職に成功したのだ。
あの時、俺を馬鹿にして、「あんた、それで慶應卒すかwww」とほざいていた女子社員も、俺のことを見直していた。あの時からはいろいろあって、なんやかんやで一緒にご飯に行くようになっていた。内定を得た時には交際していた。公園デートの帰り道、俺の方から「ねえ、付き合おうよ」と言ったのだが……おっと、けれどもこれは別の物語だ。いつかまた、別の時に話すことにしよう。
それで、ネトウヨの道から遠ざかった。ネトウヨを卒業したのだ。
今は、都内のどこかでカタい仕事に就いている。この物語の舞台はずっと都内だ。思えば、勉強自体はできるのだから、これが一番効率のいい道だったのだ。この道は、父親に教えてもらった。マジで感謝している。やっぱり、こういうところだけ要領がいいのが俺だ。2023年3月になった今も、人として生きるにあたっての知性というか、そういうのが足りない人間なんだと感じる。成長していない。ネトウヨを脱出できたのと同じく、いつか成長を遂げることで、こういう気質をゼロにしたい。
終わりに、この日記を書くにあたっては、大学時代に書いたサッカー部や私生活の日記とか、フリーター時代にサイゼの卒店式でもらったみんなの寄せ書きとか、mixiやtwitterのマイページとか、公務員試験の学習記録とか、とにかくいろんなものに触れて自分を振り返ってみたつもりだ。
ネトウヨにならない方法は簡単だ。毎日の食事と、朝に日光を浴びて仕事に向かう、ただこれだけで解決するものと信じている。
つまらなかったのなら申し訳ない。ほんの少しでも、あなたの暇つぶしになれたのなら嬉しいと思う。読んでくれてありがとう。
---------------------------------
お気に入りに入れてた人がいたらごめん。
https://anond.hatelabo.jp/20230306222721
同士よ!
ちんこもいだ勢としてこの流れに乗って一言言いたい、と思ったけれど、大体のことはもう言われていたよ。
元増田にもある通り、SRSそれ自体もさることながら、その前段で「ちんこもいでいいよ」紙を貰う手続き、立証するための社会生活とかが色々大変だった。
まだ戸籍も変わっていない、場合によっては名の変更もしていないのに「これで行けてます!」という実績を作らないといけないので、かなり厚顔無恥に勢いでやらないと厳しい。
既にキャリアがある人とか人間関係を大切にしたい人にはより大変。
わたしの場合、一回人間関係をぶった切ってバイトから猛勉強して別世界に入り、色々な人に嫌われながら何とかこぎつけた。
勉強したことは役に立ったけど、色々無理言ったのでその当時のわたしを嫌いな人は多いと思う。申し訳ございませんでした。
SRSしたって特にMtFの場合は身長やら肩幅やら細かいところで「そういう人」っぽいケースはあり、別に苦労が全部なくなるわけでもない。
まぁ結婚はしやすくなるけど(わたしは既婚)、それはそもそも同性婚を認めれば良い話。
公衆浴場とかの話がよく出るけど、わたしはSRSして戸籍が変わっても原則そういうところには行かない。
家に風呂がないなら仕方ないけど、温泉やら頑張って行くところかね? トラブルの可能性がちょっとでもあるなら避けたい。
実際上、公衆浴場のようなわかりやすいケースは社会生活の中のごく一部で、そういう極端な場面、極端な(向こう見ずな)人を想定して議論するのは建設的ではないと思う。
猟奇犯罪者を前提に社会全体を設計するようなもので、そういう人はたしかにいるし備えも必要だけど、世の中のほとんどは猟奇犯罪的には動いていない。
まぁ、線引きが要るというのはわかるし、最近有名人が発言して叩かれたように、裸の付き合いになったら身体の状態とかが基準になるのも仕方ないかな…と思うけど、ほとんどの場面はそうじゃないし、広く考えて欲しい。
ちなみにFtMの場合はホルモンで大きく変わるので顔つきや声の完成度は高くなるけど、逆にSRSが大変でメリットも少ない。彼らにSRSを絶対条件として課すのは酷だと思う。SRSなしでも大体出来上がるので、「事故でちんこなくなった男性」として扱うべきだと思う。
話がズレるけど、わたしの長きにわたる「そういう人」暮らしで、日常生活(仕事や近所付き合い)であからさまな差別を受けたことはほとんどない(陰では色々あるだろうけど)。
さして教養のない人との付き合いが主だけれど、そういう人は意外と無関心というか、結構普通。
面倒くさいのは文化人とかインテリの類で、「ボクは理解がある人」みたいのがやりたい人。
「ゲット・アウト」という黒人差別を扱った映画で、「これからは黒い肌の時代だよね」みたいなことを言う白人とか、一見するとポジティヴでおそらく本人は好意と信じて言ってくるヤツがめちゃくちゃウザいのだけど、そういうタイプの「インテリ」が本当に不快。
デブに「太っていてもいいじゃないか!」「ボクは太っている女性が好き!」と言って良い人間関係が築けると思ってるのかな(思ってるんだろうな、恐ろしいことに!)。
他人のことは放っておけよ。
https://anond.hatelabo.jp/20230306222721
同士よ!
ちんこもいだ勢としてこの流れに乗って一言言いたい、と思ったけれど、大体のことはもう言われていたよ。
元増田にもある通り、SRSそれ自体もさることながら、その前段で「ちんこもいでいいよ」紙を貰う手続き、立証するための社会生活とかが色々大変だった。
まだ戸籍も変わっていない、場合によっては名の変更もしていないのに「これで行けてます!」という実績を作らないといけないので、かなり厚顔無恥に勢いでやらないと厳しい。
既にキャリアがある人とか人間関係を大切にしたい人にはより大変。
わたしの場合、一回人間関係をぶった切ってバイトから猛勉強して別世界に入り、色々な人に嫌われながら何とかこぎつけた。
勉強したことは役に立ったけど、色々無理言ったのでその当時のわたしを嫌いな人は多いと思う。申し訳ございませんでした。
SRSしたって特にMtFの場合は身長やら肩幅やら細かいところで「そういう人」っぽいケースはあり、別に苦労が全部なくなるわけでもない。
まぁ結婚はしやすくなるけど(わたしは既婚)、それはそもそも同性婚を認めれば良い話。
公衆浴場とかの話がよく出るけど、わたしはSRSして戸籍が変わっても原則そういうところには行かない。
家に風呂がないなら仕方ないけど、温泉やら頑張って行くところかね? トラブルの可能性がちょっとでもあるなら避けたい。
実際上、公衆浴場のようなわかりやすいケースは社会生活の中のごく一部で、そういう極端な場面、極端な(向こう見ずな)人を想定して議論するのは建設的ではないと思う。
猟奇犯罪者を前提に社会全体を設計するようなもので、そういう人はたしかにいるし備えも必要だけど、世の中のほとんどは猟奇犯罪的には動いていない。
まぁ、線引きが要るというのはわかるし、最近有名人が発言して叩かれたように、裸の付き合いになったら身体の状態とかが基準になるのも仕方ないかな…と思うけど、ほとんどの場面はそうじゃないし、広く考えて欲しい。
ちなみにFtMの場合はホルモンで大きく変わるので顔つきや声の完成度は高くなるけど、逆にSRSが大変でメリットも少ない。彼らにSRSを絶対条件として課すのは酷だと思う。SRSなしでも大体出来上がるので、「事故でちんこなくなった男性」として扱うべきだと思う。
話がズレるけど、わたしの長きにわたる「そういう人」暮らしで、日常生活(仕事や近所付き合い)であからさまな差別を受けたことはほとんどない(陰では色々あるだろうけど)。
さして教養のない人との付き合いが主だけれど、そういう人は意外と無関心というか、結構普通。
面倒くさいのは文化人とかインテリの類で、「ボクは理解がある人」みたいのがやりたい人。
「ゲット・アウト」という黒人差別を扱った映画で、「これからは黒い肌の時代だよね」みたいなことを言う白人とか、一見するとポジティヴでおそらく本人は好意と信じて言ってくるヤツがめちゃくちゃウザいのだけど、そういうタイプの「インテリ」が本当に不快。
デブに「太っていてもいいじゃないか!」「ボクは太っている女性が好き!」と言って良い人間関係が築けると思ってるのかな(思ってるんだろうな、恐ろしいことに!)。
他人のことは放っておけよ。
超絶面白い良作に触れた時よりも中途半端に出来の悪いツマラナイ作品に触れた時のほうが、創作的なやる気はみなぎってくるような気がする。
言うなれば、はっ、こんなもん、おれでも書けるわ、ちょろ過ぎる、と作品に対してナメた態度をとった瞬間にこそ爆発的なエネルギーが生まれている気がする。原理はよくわからないけど。
なんだろうね?あの気持ち。気に入らないとか、憎いとか、単なる対抗心ではない。
思うに、ツマラナイ作品というのは、その場で生意気に見下しているだけあって、なんとなくその世界の要領が分かったような錯覚に陥るのだろう。
肥沃でない地面を踏み、なるほどね、大体理解したわ、オッケー、やってやるぜ、という、至極フレッシュな気持ちになる。そうして新しい風が吹く。おれを導いてくれる風。すなわちチャレンジ精神だ。何かに挑戦するための最大風速、出てます出てます、めっちゃイイ感じに吹いてます、よーし、やってやるぜ、という意気が溢れている。今ならなんでもできる気がする。ばっちこい。そして飛翔。
しかし、良作を味わっている時には、意外にそういった気分は訪れない。不思議と、妄想や好奇心ってものが出てこない。それは強大な何かに打ちのめされた感じとか、おれの意思が介入する隙もなく別世界へと連れていかれる感じとか、つまりすさまじい引力である。
「○○を見てインスピレーションが湧いた」という表現はよく目にするが、良き作品を見て、そこから何かが降りてくるってことはそれほどないのではないかと思う。強大な力を持った何かが目の前にあるだけだ。実力の違いを肌で感じ、それが何か大きな原動力にはなるかもしれないけど、それはもっともっと深い根っこの部分の話であり、自らの活動を促すような刺激にはならない。
出来の悪い創作を見た時のざわつきというのは、良い作品を見た時よりも、もっと突発的で刹那的なやつだ。皮膚の表面に電流がビリッとながれる感じ。あるいは食欲に似ているかもしれない。
それで最近考えるのは、自分は教養的な古典ではなく、流行的な現代作品を読むべきかもしれないということ。古典作品ほどやはり完成されているので、ためにはなるけれど、動力源としての役目は果たさない。それならば、「ためになる」は一旦脇に置いておいて、粗の目立つような今の話題の作品を読むほうがよっぽどいいのかもしれない。