2023-03-03

創作意欲が最も搔き立てられる瞬間

超絶面白い良作に触れた時よりも中途半端に出来の悪いツマラナイ作品に触れた時のほうが、創作的なやる気はみなぎってくるような気がする。

言うなれば、はっ、こんなもん、おれでも書けるわ、ちょろ過ぎる、と作品に対してナメた態度をとった瞬間にこそ爆発的なエネルギーが生まれている気がする。原理はよくわからないけど。

なんだろうね?あの気持ち。気に入らないとか、憎いとか、単なる対抗心ではない。

思うに、ツマラナイ作品というのは、その場で生意気に見下しているだけあって、なんとなくそ世界の要領が分かったような錯覚に陥るのだろう。

肥沃でない地面を踏み、なるほどね、大体理解したわ、オッケー、やってやるぜ、という、至極フレッシュ気持ちになる。そうして新しい風が吹く。おれを導いてくれる風。すなわちチャレンジ精神だ。何かに挑戦するための最大風速、出てます出てますめっちゃイイ感じに吹いてます、よーし、やってやるぜ、という意気が溢れている。今ならなんでもできる気がする。ばっちこい。そして飛翔。

しかし、良作を味わっている時には、意外にそういった気分は訪れない。不思議と、妄想好奇心ってものが出てこない。それは強大な何かに打ちのめされた感じとか、おれの意思が介入する隙もなく別世界へと連れていかれる感じとか、つまりすさまじい引力である

「○○を見てインスピレーションが湧いた」という表現はよく目にするが、良き作品を見て、そこから何かが降りてくるってことはそれほどないのではないかと思う。強大な力を持った何かが目の前にあるだけだ。実力の違いを肌で感じ、それが何か大きな原動力にはなるかもしれないけど、それはもっともっと深い根っこの部分の話であり、自らの活動を促すような刺激にはならない。

出来の悪い創作を見た時のざわつきというのは、良い作品を見た時よりも、もっと突発的で刹那的なやつだ。皮膚の表面に電流がビリッとながれる感じ。あるいは食欲に似ているかもしれない。

それで最近考えるのは、自分教養的な古典ではなく、流行的な現代作品を読むべきかもしれないということ。古典作品ほどやはり完成されているので、ためにはなるけれど、動力源としての役目は果たさない。それならば、「ためになる」は一旦脇に置いておいて、粗の目立つような今の話題作品を読むほうがよっぽどいいのかもしれない。

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