はてなキーワード: 凡庸とは
YouTubeの切り抜きをいくつか拝見したが、
それに対するひろゆきの解答は自分でも同じように答える凡庸なものが多い
例えば大学進学するべきか?に対して大学進学するべきだし専門学校なんて金の無駄、
というのは私であれ同様に答えるだろうと思うが、
何が違うかというと、
まず俺のようなKKOが失敗談も交えて話しても若い世代の人は耳を貸さない
これは実体験としてある
それから多分だが、
若い世代は彼らの両親の助言がひろゆきと同じだったとしてもまともに耳を貸さないと思われる
ひろゆきがそれらと何が違うのかというと、
老人になった両親も親族だと話をまともに聞かないが、第三者で専門家だと話をちゃんと聞く
両親に自分が、テレビで最近問題になってる、昔本で読んだ、と言っても丁寧に解説しても耳を貸さない
ちゃんとその専門職に就いている人が自分と同じことを言うと聴いてくれる
これは老害というだけでなく、結局は若い世代であれ、老若男女誰であれ同じである
ただしイケメンにかぎる、と非常に似ていて、ブサメンの自分が言っても女性は聴いてくれないが、
イケメンが言うと態度が変わるというのは往々にしてあるのである
よって、ひろゆきが言わなくても自分も同じことを普段から言ってるのになぁ、
最近はそれが共和党や自民党などの政治の世界にも入り込んでおり、〜さんが言ったから絶対だ、
みたいに半ばカルト掛かっているわけだが、
例えばそれは共和党を指示するキリスト教福音派などもそうだが、
というか、そういう話の展開になるとイスラム教の原理主義などもそうだろう
政治家の〜さんが言うなら間違いないんだろう、
みたいな思考停止は単に知恵熱を出して考える必要がないため楽なのだとも言える
それが良くも悪くも、判断するコストをカットするために役立っているのだろう
だから、イケメンなら聴く、外部の専門家なら聴く、顔立ちの好きな政治家なら聴く、
インフルエンサーだのなんだのSNSの力が強くなりすぎた現代社会では当然なのかもしれない
これは儲かってないならCMに大金を出せるわけがないと思うような人はコロッと騙されてしまう
詐欺のコツとして、とにかく露出を多くするというのは大事だと思う
とにかく自分の顔を多く見させるだけでも安心感を相手に与えられる
そういう意味でもSNSは非常に詐欺を安上がりにしたともいえる
ある自社製品「I」がクソだと思っていたので、Iのことボロクソに叩いていたんだけど、私の好きな人が開発に関わっていたと知った。
でも最後に言わせて。
すっげーーーーーーーーーーーー使いにくい
道具なんて使われないとただのゴミなんだよ
何にも分かんねえ奴が作ったとしか思えねえ
既存の道具より使いにくかったら見向きもされねえんだよ
燦然と輝くスター性のような魅力がない限り
でも性能は凡庸
売れないのを営業のせいにすんなよ
美学がないように感じるけど
でもさぁ、きっと予算の範囲で、一番マシって選び方してんだろな
だからこんなのが世に出て売るハメになる
ふぅ。
ただ、私が上手く使いこなせなかっただけ。
って表向きには言おう。
原始、女性は太陽だった。って誰の言葉でしたっけ。それはそうと昭和、中年男性はヒーローでした。現在令和に突入した日本ですが、平成の中頃から中年男性(以下おっさん)の存在価値が暴落した印象があります。さて、おっさんに何があったのでしょうか。これはもうすぐ50歳になるおっさんど真ん中の筆者が、おっさんの存在価値と生存戦略について真正面から向き合ったレポートです。
おっさんとは
さてまずおっさんとはどのくらいの年齢範囲でしょうか。ここではズバリ「35-60歳」と定義します。35は転職市場の実質上限、つまり「若者」と言えるギリギリってことです。60は定年とすると「お爺さん」と言って差し支えない歳ですね。真ん中は47.5歳。筆者は真ん中も過ぎた中堅おっさんなので、そろそろおっさんを語っても許されるでしょう。
そして現代のおっさんは「社会における苛烈な被差別階級のひとつ」と言えます。少なくとも日本ではそうです。そんなことないだろ?と思ったおっさんのあなた、まだ練度が足りません。例えば小売店のレディースデー。女性優遇の施策ですが、かつておっさんデーがあったことがありましたか?ありませんね。例えばおっさんが痴漢の被害者になったとします。あまりにレアなので笑い話にはなるかも知れませんが、誰が同情してくれますか?ほら、おっさんはおっさんというだけで無視され虐げられ、疎まれているんです。そんなことないだろ?まだ言いますか。そう思ってるのはあなただけかも知れませんよ。
男に生まれて35年も経つと、この被差別階級たる「おっさん」に強制編入されます。見た目は緩やかに老けていくだけですが、社会は突然突き放してきます。それは「人権剥奪」と言っても良いくらいの仕打ちですが、当の本人はそれに気づかず猛烈に困惑します。ルーキーおっさんの洗礼ですね。
まず転職。ほとんどの会社が35歳までとしています。つまりこれは「ゼロから教育するのに柔軟な脳を持った最後の歳の相場」なわけですね。もちろん40歳を過ぎても柔軟な脳を持った人だっていますが、そんな言い訳は通用せず転職市場からは脱落です。筆者も転職には苦労したクチなので、おっさんになった最初の実感はこれでした。
そして恋愛。35歳にもなると見た目も老けるので若々しさは失われかけますし、若い世代とは会話も合わなくなってきます。現実的には35歳前後の女性と付き合うのがベストなはずなのですが、さも当然であるかの如くおっさんは若い子を求めがちです。35歳のルーキーおっさんにはおっさんになった現実が見えていないので、こんな図々しい希望を持つのですね。なにより若い子がおっさんと付き合うメリットがありません。心身ともに若くて会話が弾んで体力もある、ついでにイケメンならそっちと付き合うに決まってます。
そんなおっさんが人権を保障される、つまり若者を含めた社会に参画するには「権力・経済力・名声(または一芸)」のどれかがなければなりません。権力がないと若者に意見できません。金がないと若者と付き合えません。名声(または一芸)がないと若者に尊敬されません。どれもないおっさんは「おっさん餓鬼界」に転落し、いないものとして扱われます。若者へ接近してもガン無視されるがウザがられるだけなので、せめて慎ましく生きましょう。
ということは、そのくらいしか取り柄のないおっさんが人権を必死に守ろうとした結果がこれまでの日本社会と会社形態であり、女性の社会進出を本能的に拒んで来たと考えると納得できます。しかし現在はその砦も陥落寸前であり、ますますおっさんの人権はなくなりそうな勢いで、お先は真っ暗です。
なるほど昔の人は言ってました。若いうちに一生働ける定職に就いて早目に結婚しろと。これらはおっさんになってからでは得られないことばかりです。気づいた頃には崖の下にいるってわけですね。とほほ。
ではなぜおっさんがこんなにもショボい存在になってしまったのかを考えます。冒頭にも述べましたが昭和時代、おっさんのヒーローはたくさんおりました。古くは鞍馬天狗に月光仮面、時代劇も刑事物もバラエティー番組の司会までおっさんのオンパレードでした。筆者も若い頃、いつかは三船敏郎さんや岡田真澄さんのようなカッコいいおっさんになることを夢見て来ましたが、全然なりませんでした。いやそれはさておき、平成に入ってから明らかにおっさんの需要は減り、メディアにおけるおっさんの比率はもはや消滅寸前です。まーかろうじておっさんのお笑い芸人や高齢ジャニーズが残っていますし全滅ではないのですが、とりわけ男臭いおっさんのドラマは全滅したと言って差し支えありません。
さてなぜおっさんは死んだのか。それはズバリ「インターネットの普及」にあると筆者は考えています。もう少し詳しく言うとSNSですね。これによってある意味神格化されていたおっさんのベールは剥ぎ取られ、尊敬できる存在ではないことがバレてしまったのです。とりわけTwitterによるおっさんへのダメージ(悪印象)は無視できません。近年高田純次さんは「おっさんの禁忌三箇条」に「説教・自慢話・昔話」という定義をしておられましたが、まさにこれしかツイートしていないおっさんが溢れ返っているなうです。ところが本人は良かれと思ってやっており、かくしてここに「教え魔」が誕生します。もちろん説得力を持たせるため偉い、金持ち、どっかでは有名などのアピールは欠かしません。が、頼んでもいないアドバイスほどウザいものもなく、またそれが知らないおっさんからならウザさも倍増です。おっさんはSNS禁止とまでは言いませんが、若者のツイートへのリプライは自重した方が確実に良い結果になるでしょう。
しかし自分だけ自重したところで教え魔のおっさんは後を絶たず、おっさんへのヘイトはますます溜まる一方です。そうでなくても昭和時代からセクハラパワハラし放題だった一部の悪代官のようなおっさんのお陰で潜在的なヘイトはあったというのに、事態は悪化の一途です。「自分だけはウザくないしおっさんじゃない」という勘違いが、その他大勢のおっさんを苦しめてるんですよ、ご同輩。
おっさんと性欲
ではなぜこんなにおっさんは必死なのでしょうか。それは「欲」の問題です。食欲、睡眠欲はまー健康の証で問題はありませんが、性欲はおっさんになったらとっとと捨てるべき劣悪な負債です。持ったままだと良い事は一つもありません。
女性の性欲は閉経という定年があるので、中年になっても男を漁るような行動をすることはごく稀です。しかしおっさんには閉精なんかないため、いくつになっても女漁りに暇がありません。まーこれは言い過ぎですが、少なくとも女性に興味がなくなることはほぼありません。いつかは衰退して楽になるものと筆者も待ってはいますが、残念ながら今のところピンピンしています。
おっさんの性欲はこの世でいちばんムダなエネルギーです。しかし埋蔵量は無限なため、上手く運用すると大きなお金が動かせます。風俗に水商売、アイドルに声優にアニメにゲーム。凡庸な商品も何かしら若い女性を絡めるだけで売上は数倍になるでしょう。これらは全ておっさんのエロエネルギーを採掘した結果です。もうおわかりですね。おっさんは「お金を払わないとエロにありつけない」のです。エロ産業から見ればおっさんはお金に付着したタンパク質であり、もはや人間ですらありません。嘘だ、と思ったらキャバ嬢や風俗嬢のツイートを覗いてみてください。その類のツイートが死ぬほど出てきます。
そこでおっさんは考えます。コスパ良くエロにありつきたい。ここに「教え魔×出会い厨」というハイブリッドモンスターが誕生します。上手くいけば若い子から尊敬されついでにオフパコまでできちゃう!…実におめでてえ最低野郎です。こいつらはネットインフルエンサー女子のリプ欄でよく見かけますが、上手くいった話はひとつも聞きません。
なるほど昔の人は言いました。辛抱しろと。性欲さえなければおっさんのウザい要素のほとんどは消えます。しかし消し方はほぼ自然消滅のみなのでそれまで辛抱しましょう。SNSはそれまでお預けでも良いかも知れませんね。
性欲の他にあと一つ、消し去るべき欲があります。それは「自己顕示欲」です。おっさんがおっさんのツイートにリプライする際に発生しがちです。「俺の方がすごいぞツイート」ですね。俺の方が悲惨だぞツイートなんかもありますが、いずれにしてもこの「マウント」がおっさんがおっさんを嫌う理由に充分なり得ます。そう、おっさんはおっさんからも嫌われているのです。同一カテゴリにいながらも連帯意識はほとんどなく、むしろ「コイツよりマシ、コイツよりは嫌われてない」と思い込みがちですが、全て幻想です。
教え魔も出会い厨もマウントもダメなら、おっさんはツイートする内容が非常に無味乾燥なものに限られます。正直つまらないのでSNSなんかやらないのが正解です。実際おっさんがいない方が平和なので、若者はおっさんに侵略されていない新し目のSNSを好む傾向にあります。いやー嫌われたものですね。
以上の見解から今後おっさんが復権というか若者にウザがられず社会参加するためには、おっさんというおっさん全員が足並みを揃え
自慢話
昔話
を禁止とする必要があると考えます。実際性欲と自己顕示欲の抜けたおっさんは、渋くて魅力的に映るでしょう。とりあえずそれを目指しましょう。そしてカッコいいお爺さんになりましょう。これでもなおダメならおっさんに明日はありません。辛抱ですよご同輩!
ハサウェイは完全に恋愛工学をマスターしたニュータイプと言えるだろう。
YouTubeで見れるのでぜひみてほしい。
https://www.youtube.com/watch?v=iMAj6ggHEyU
ケネス大佐を始め、多くのメンズがギギ・アンダルシアを口説くが、美女ギギ・アンダルシアには見向きもされない。
恋愛工学がどのような女性にも通用する、というのは完全な誤解で、上位20%程度のSクラスの女性にしか通用しない。
早速ハサウェイは、テロ集団をバッサバッサとなぎ倒し、機内で圧倒的なプレゼンスを発揮することで、ギギ・アンダルシアへのアピールを成功させるのだった。
ハサウェイが空港のロビーに入ると上品な女性に握手を求められ、
「皆さんにご紹介させてくださいな」などと言われ、両手に花状態で引っ張っていかれる。
そう、この時点でハサウェイの「モテスパイラル」は始まっている。
もちろん女性は モテている男性=魅力のある男性と認識するので、
他の女性からも連鎖的にどんどんモテ出し、加速度的に魅力が高まっていく。
「さっきは、なんで笑ったんだい?」
素晴らしいオープナーである。
「表参道ヒルズってどっちですか?」という道聞きオープナーや「この辺でこれくらいのペンギン見ませんでした?」と聞くペンギンオープナーなどがある。
と言われてしまうことだろう。
「さっきは、なんで笑ったんだい?」
「笑った?そう?私が?」
「なんでマフティーを騙った連中だと見抜けたんだ?」
この返しには、正直、唸らされた。
美女に対して「かわいいね」「きれいだね」と伝えても、美女はそれに慣れているし、それではきっと、
と言われてしまうことだろう。
しかし、女性は褒められなれていない意外な点を褒めてあげると喜ぶことが多い。
これは質問形式でありながら、相手の素性を見抜く能力があると伝えているわけであり、相当高度な褒めテクニックである。
そしてこの後、ハサウェイは高度な会話テクを駆使し、ハサウェイ=マフティという秘密をギギ・アンダルシアと共有することに成功する。
ここで、少しギギ・アンダルシア側に主導権を握られそうになる。
だが、ハサウェイはこれを許さない。
「だけど、言葉で人を殺すことができるということは覚えておいてほしい」
これは、ハサウェイが「調子に乗るな小娘、俺が格上だ」というメタメッセージを伝えた、ということである。
女性は格下の男性には惹かれない。美女はさらにその傾向が強い。
ハサウェイの術中にはまり、ギギ・アンダルシアは狼狽、無事にどちらが上かを印象付けることに成功した。
そしてリムジンの中。
窓の外を見つめるハサウェイにギギ・アンダルシアが「何が気になるの?」と問いかけると、
と耳元で囁く。
これは、仕草と声色ばかりが注目されがちだが、言葉選びにも注目いただきたい。
「お前を危険にしたくない」という意味合いで女性の庇護欲をかきたてるし、「おあづけ」プレイも兼ねている。
何者なんだ…ハサウェイ・ノア…
そして、ギギ・アンダルシアからの同室オファーをきっぱり断るハサウェイ。
「俺はそんなに簡単に女と寝る男じゃない」と伝えることで、「俺は女に困っていないほどステータスの高い男だ」というアピールができる。
ますます女性は「このステータスの高い男性に抱いてほしい」と思うことだろう。
男性は性欲を喚起させられると、おおよそ70%程度は知能が低下する(要出典)と言われているが、視線に気づいた彼女に対し、ほぼノータイムで
「君が元気になってうれしいのさ」
と返せるハサウェイの知能指数はIQ300くらいと推察される。
「君がいるということで、気を遣うということはしたくない」
とシャワーを浴びに行くハサウェイ。
これは再度の格上アピール。
「同じよ」
「この事態はどう考えたらいいんだ…」
「失礼ね」に対し、
「よく、そう言える…(中略)…どこ構わず裸でいる女は嫌いだな」
これは決まった…と思いきや、残念、GOALならず。
理想では、「散歩に出るが!?」⇒「一人にしないで」⇒GOALLLL!!!!だったものを…
と反省するハサウェイ。
さすが、女性を類型化しパターンで攻略しようとするのが恋愛工学の基本的なパラダイムと言える。
その後、ケネス大佐になびいているような素振りでハサウェイの気を引こうとするギギ・アンダルシア。
これはまあ、仕事も忙しいのでスルー。同室の優位性は揺らがないのである。
そう、昼の顔はハサウェイ、夜の顔こそがマフティ。
ギギ・アンダルシアの寝室に向かう。
いつ非常停止するかわからないエレベーターに乗り込むかの判断を迫られるハサウェイとギギ・アンダルシア。
ここが最も決定的なシーンだった。
「乗るか?」と目で訊くハサウェイ。
必ず相手の同意を得て進めなければならない、という啓蒙要素も表現されている。
なお、「大丈夫」の母性的な安心感、「乗ろ」の清純的な少女感。上田麗奈様の表現も素晴らしかった。
「どうして私に訊いたの?」
「君のカンにかけたのさ」
「それなら、さっきのごちゃごちゃした話もすっきりさせてよ」
いいですね。こういうトークで始められるようにしたい。
賢明な読者はすでにお気づきだろうが、このあとハサウェイは「やっぱりコワいことする」(=行為に及ぶ)わけである。
ギギ・アンダルシアから見たとき、行為は「戦場で逃げ惑う」ようなものに見えているのであり、
行為に積極的な女性であれば、例えばクェスのように、パイロットとして戦っていたはずだ。
そう考えれば、ギギ・アンダルシアは過去にそうした虐待を受けていた可能性がある。
余談だが、ガンダムにおける男性パイロットと女性パイロットの戦闘は行為の比喩であることが多い。
直近の好事例としては、ガンダムUCのマリーダとバナージの戦闘シーンがそれだ。
途中まで無我夢中で攻め立てていたバナージが、マリーダの壮絶な過去を聞いて萎えてしまったが、
マリーダはそんなバナージに優しさを感じる、というシーンは素晴らしいと思った。
これは、ベッドで2人のときにスマホが鳴り、彼女からLINEが来たような状態を意味しているだろう。
そうであれば、ギギ・アンダルシアの「置いていくの?」に対しては、
「まさか」
としかなりえない。
逃げ惑う2人。
男性は女性ほど行為の最中に快感を感じられないというが、もしかすると、男性にとっては、戦闘行為での興奮が女性のそれに相当するのかもしれない。
そして、閃光。
ハサウェイはクェスが去るときのイメージがフラッシュバックし、真っ黒に塗りつぶされる。
そう、これこそが恋愛工学系ニュータイプ・ハサウェイの正体である。
過去の女性に傷つけられたことを引きずり、いつまでたっても非モテ/インセルの呪いは消えない。
それはどんなに良い女、例えばギギ・アンダルシアのような女性を抱いたとしても
消えることのない、本質的な自信のなさ、センシティブな心そのものなのである。
それにしても、アジア圏で製作された男ふたり女ひとりの実写映画ってなんだろう?
https://febri.jp/topics/gundam_hathaway_4/
風呂敷を広げるときはいくらでもイケるけど、畳む時はけっきょく親と子、みたいな人と人との話にならざるを得なくて、そこらに転がってる凡庸な話に落ち着いてしまった感。まあ元からそうだったといえばそうなんだろうけど。
というかなんだあのカップリング。青春小説とか青年漫画にありがちなくっつき方でうわあってなってしまったわ。まああのカップリングが成立するにあたってシンジとアスカがかわしたあの会話が「大人になる」ってことを象徴してるんだろうと思いつつ、それもふくめて凡庸ではあった。
しかし恐らく「終わる」というのは「日常に戻る」ということであり、ある種の凡庸さを抱えることと同義であろう。エヴァという物語がしっかり「底」を見せたことで、95年から始まった熱狂がついに去ったとは思った。エヴァが日本のサブカルに影響を与えることはもうないだろうし、それで良いと思う。
以下雑語りです
https://bunshun.jp/articles/-/45917
一市民として悲憤慷慨を隠し得ない
駅周り30分ぐらい適当に歩いてあとはWikipediaの雑引用、かの文春の記者がやることですか?
だいたい駅の話から市の話に自動的にすり替わってるのおかしいだろ お前がやってること、山手線の内側を"ナゾの激坂地域"とか書いて結局目黒駅周辺の話しかしないのと一緒 わかる?
それに自由民権運動の話するならちゃんと自由民権資料館に行って話聞いて来いよ
※自由民権資料館 鶴川駅から徒歩25分。民権運動をテーマにした資料館はここと高知県の自由民権記念館だけ。和風な造りの本館は、民権志士が残した武芸道場を保護・改装したものだ。
文章を順を追って殴りますが、まずね、境川の話が「都県境」で終わるのがもったいなさすぎるんですが…
後々神奈川ネタ出すなら、かつて武蔵国と相模国の国境線が境川だったってところまでやるべきやろ
あとは
(・中世では現多摩市との境界が武相国境であるような認識があったが、太閤検地の際に完璧に河川が国境線になった)
(・検地以前は境でなかったので高座川と呼ばれていた)
までの情報があった方が良かった
・小田急線はもともと南町田や長津田付近を通る予定だったが、地主がゴネて町田を通った
・「デッキを抜けたら地下」な小田急町田の独特の駅構造は周辺の地形に関係している 境川の流域が狭く、川に沿って坂線がある
・"ただ絹の道があったから"発展したと思うな あれは浜街道(八王子と横浜をつなぐ道)沿道でありながら鎌倉街道沿道なので、東京湾に進む人の流れと相模湾・埼玉から来た人の流れが激突することになり、一躍巨大市場になったんだ 相模湾で捕れた魚を乾かしながら町田まで歩いた商人もいて、駅前に乾物屋が多いことのルーツはここにあるらしい(富沢商店ももともと乾物屋)
・絹の道の由来について語るなら、"ただの道を絹の道にした"鑓水商人の話も欲しいし、どうでもいいですが町田市には槍溝(やりみぞ)という希少苗字が残っています
あと民権運動や水源問題は町田が神奈川になった理由の本質じゃないだろ
多摩川・荒川流域じゃあないんだよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
町田市以北の多摩地域のほぼ全域は多摩川流域(八王子、青梅、三鷹等)か荒川流域(東村山、清瀬、武蔵野等)に属します ところが町田市が擁する水系は境川・鶴見川の2系で、多摩川水系の河川はほとんど通っていません おかしいだろ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!流域ごとに郡や地域を区切るなら町田は横浜市や相模原市の一部になって然るべきだろ
多摩川欲しさに東京府が三多摩を合併したのは事実ですが、併合してもなんもいいことない現町田市の地域1町4村まで神奈川県を追い出されたのは"多摩郡に属していたから"ですよ
②武蔵国である現横浜・川崎両市がなんか都心と分離され、神奈川県の枢軸になってしまった
インターネットは③を一生擦ってるってことにはよ気付け
※解説
①https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12203290882 ヤバイなこの回答者、郡史ガチ勢?これを見るに武蔵府中との結びつきって相当強かったんだな でも鶴川以東には国府の権力が及ばなかったのもなんか不思議ー
②https://togetter.com/li/1285652 と https://www.customs.go.jp/yokohama/history/hatten.pdf 神奈川県の成立理由はマジでごちゃごちゃしていて最悪だが、"なんかメッチャ白人(しろんちゅ)がいる嫌な場所"と"俺らの住まい"とをひっぺがしたかったという趣旨
中世のころ、武蔵府中から丘陵の壁を超えて「多摩」の使命を言いつけられたことに始まり→時は流れて近代、なんか横須賀にゲェジンが来たせいで江戸っぽくないところを別県にせざるを得なくなり→水源問題で都心と神奈川が大モメかました挙句過激派活動家が大暴れして「多摩(笑)」一帯が神奈川県を追い出された
もし武蔵国府が調布のあたりにできて鎌倉街道が東にずれていたら、もしペリーが江の島に来航していたら、町田はこんな「仲間外れの市」にはならず、"茅崎県"県央の凡庸な自治体になっていたかもしれないし、はたまた鶴見市や都筑市という巨大な自治体に包摂されていたかもしれないのだ
そしてその世界線でも、ろくでもないライターが「"ナゾの途中駅"本町田駅」とか書いちゃうだろうが、 でもその記事はここの日本ほど多くのpvを稼がず、トレンドにも載らずひっそりと埋もれていくんじゃなかろうか
だから答えるよ
未だに何もわからない
飽きたんだよ
お前らが同じ話ばっかりして肝心な要点を見過ごしてるから不快なんだってば
それにステレオタイプで地域を語るのは地域差別となんも変わらんだろ
(前に町田関連のネタツイを自称リベラルに共感RTされたことがあったけどすごい嫌だった いかなる差別にも屈しないなら町田は東京都って言えよ、民主政治が大好きなら民権運動によって東京都に移管された街に最大限の敬意を払ってくれよと思った)
本当に町田が好きなんだったら、インターネット雑語りをやめて、今日から町田にちゃんと向き合え
ネタで町田を神奈川扱いするならテコンダー朴みたいに歴史的経緯を全部踏まえてやれ 憶測で物事を語るな
あと神奈川県に接する駅といえば町田駅だけじゃなくてつくし野駅も鶴川駅もそうです
にしてもこのブロガァーみてぇーなライタァーは駅前で何を見たんだ?日本初の車いす用バスを見たか?町田街道の向こうに佇む広大な谷戸(注)を見たか?谷底の美術館の収蔵品を調べたか?ジョルナのエレベーターのボタンを押したのか?何もしてない
これをポジティブにとらえると、読者にもっと町田の魅力を探させる余地を与えてくれたってことになる
だからどうか、ここから先はスマホの前のみんなに、町田駅や"町田市"を回ってほしい
限界逆張り地理オタク御用達・源流と坂と県境のテーマパークとして、町田市は今でも多くの廃人を寄せ付けている
町田市は本当にすごい 今や小平にも及ぶブルーベリーの産地だし、南町田にはケンタッキー食べ放題店舗があるし、堂之坂公苑は誰も来ないのに水琴窟があるし、玉学には赤瀬川原平の家も残ってるし、白洲次郎の別荘で食べるオムライスはマジでうまいし、つくし野の急坂はどこまでも続くし、小野路宿里山交流館は江戸末期の旅館を改装した建物だから木造で落ち着くし、野津田の山はクソでかいし、相原にはおいしい卵屋(カトウファーム)とアイス屋(東京みるく工房ピュア)があるし、本町田には北条時行の戦った合戦場があるし、リス園の近くに井の頭公園みたいなでかい池があって夏になると隣のちっこい池でメッチャ蓮咲くし、多摩境には都内唯一のストーンサークルがあるし、大泉寺は谷戸の底にすっぽり収まった寺で春になると桜が参道に咲いてめちゃ綺麗だし、恩田川の桜はもっと綺麗で目黒川より混んでないからいい写真撮り放題だし、木曽町の地名の由来は一般通過木曽義仲
とにかく春先にあの戸場谷戸を尾根の上から見渡した時の、菜の花畑や一本立ちの桜や小さな白いトラック、別の尾根が続いている光景は言葉を失うものがあったから、一緒に行こう。
お前は町田を待ってないかもしれないけど、町田はお前をいつまでも待ってるから。
【あとがき】
https://twitter.com/pededeck/status/1246422466135617537 ←これはインターネットで見つけたわかり手
注:谷戸は谷の一種。底が平たい。上から見るとUの字になっている。海進によって土砂が堆積し、このような平底になったようだ。あきる野の横沢入や稲城の上谷戸は有名。
追記 こんなにたくさんの人々のブクマと注目を集めることができて光栄です。卒論も町田のことで書こうと思っていたので、励みになりました。町田地方史研究会のおじちゃんたちに比べたら、自分は町田について本当にニワカで、話せることも少ないけれど、精進しようと思います。
前略
―実は人間は、この世界に自分が存在しているという事に関して、責任がない。自分の存在を自分で選んではいないからです、だから当然、自分が生まれたがゆえに、自分がこの世界に存在しているがゆえにやってしまった事、やらざるを得なかった事に関して責任がないわけです。一番もともとのところの責任がないわけですから、それに因果的に規定された残りの部分に対しても責任がなくなります。子供はもともと自分が好きで生まれてきたわけではないので、この世界に耐えられなくて嫌になって文句を言っても、その事に関して子供を叱る事はできない。人間はこの世界の中に生まれてくる。しかも、多くの点に関して、何者かとして生まれてくる。つまり多くの性質を与えられて生まれてくる。例えば男か女かどちらかの性であるものとして生まれてくる。人種的な特徴を持ったものとして生まれてくる。あるいはある特定の共同体の中に、例えば日本人の共同体の中に生まれてくる。そのほかいろいろな性質を持って生まれてくる。そういう事すべてに人は責任がない。そうであるとすれば、人間はそもそも責任がない。それがイノセントであるという事です。
子供から大人への移行
┗ここで問題になるのはこういう事です。責任がないという事は自分が選んでないという事です。逆に人間が自由な主体になるという事は、自分が選択していると言える事ですから、今度はイノセントではありえない、つまり責任があるわけです。自由と責任は表裏一体です。これは学校の先生なんかは好きな言葉ですね。イノセントであるという事は、自由な主体にまだなっていない段階です。自分のやった事に関して自分に責任があるとは言えないという事です。そうすると、人間が成長するという事は、イノセントな状態を何らかのやり方で克服・消去する事です。これが『イノセンスの壊れる時』という芹沢さんの言葉の意味です。つまり、本来はイノセンスなんです。これを書き換えなければいけない。責任がありませんよ、というところを消して、自分に責任があるんだと書き換える。そういう事をするのが大人になる事なんだというのが芹沢さんの言っている事です。イノセンスのこの書き換えをどうやって人間はやるのか、この書き換えのメカニズムを考えてみよう――それが芹沢さんの短い文章の基本的な趣旨です。
ここですごく重要な事を言っています。常識的に考えると、次のようになる。子供は自分がイノセントだという事を主張します。「ぽく、悪くないもん」という事を行動や態度によって表明するわけです。そういう事を言ったときに、凡庸な親だと「いや、お前が悪い」という事を一生懸命教えようとする。しつけをするというのはそういう事だと思われているわけです。そういう事をすると、はじめは自分は悪くないよと言っていた子供が、やっぱり自分が悪いんだと思うようになる――というのが普通の親の考えている事ですが、芹沢さんが言っている事は全く逆です。子供が何らかの意味で「俺は悪くないよ」という表現をしてきたとき、そういう意思表示と解しうる行為をとった時に、逆に「そうだ、おまえには責任がないんだ」という事を認めてやれというわけです。子供がイノセントだという事を自己表出したときに、まさにイノセントだという事を承認してやりなさい、と。そうすると、不思議な事に、まさに承認した内容とは逆の結果が出る。つまり、子供のイノセンスを認めてやると、逆にこれが否定されて、子供は自分自身に責任がある、自分の存在に対して自身に責任があるという自覚に到達するというわけです。責任を自覚するという事は、自分の存在や自分に与えられた性質・運命を自ら引き受けてやろうと考えるようになる、という事です。例えば子供が「生んでくれと頼んだ覚えはない」という意味の主張をしたときに、その事を全部肯定し、認めてやる事で、かえって人は責任ある主体に変わっていく。そういう事を芹沢さんは言っているわけです。
人間が自由な主体になるという事
┗客観的に見れば、子供がイノセントであるというのは正しい主張です。だから、自由な主体になるという事は、先ほど言ったように、あえて、正しくない虚偽を(真として)認識しているかのように振る舞うという事なんです。本来人間はイノセントです。でも、このままだったら人間は自由な主体ではない。自由な主体になるというのは、本来こちらが正しいにも関わらず、本来イノセントであるにも関わらず、まるで自分がイノセントでないかのように振る舞うという事です。だから、大人になるという事は、真理に目覚めるという事ではない。逆です。真理は、むしろイノセンスの方にある。その本来の真理を隠蔽する事が、ここでいう書き換えです。この真理の隠蔽、この欺瞞は、有効で意味のある隠蔽であり、欺轍です。具体的に言えば、皆さんは今こうやって生きていて、いろんな性質を持っている。その99.9%に関してあなた方は責任がないんです、本当は。例えば自分は足が遅い。考えてみると、これは親のDNAのせいなんだ。俺の足が遅いのは自分のせいではない。けれども、人間が自由な主体になるという事は、客観的に見れば自分のせいじゃないけれど、まるでその事に関して自分が責任があるかのように自覚して、生きるという事です。簡単に言えば、足が遅い俺も、それもよし、足が遅い俺の運命を自分で引き受けよう、そういう人生を自分のものとして生さていこうという気分になる。まるで足が遅い人生を自分で選んで、自分で引き受けてやってるような、そういう自覚に達したときに、人間は自由な主体になるわけです。
だから、本当の事を教わる事で本当の事を悟って人間は自由な主体になるのではなくて、むしろ、本当でない事を生きるようになるのが自由な主体になるという事なんだ、という事がまず頭になければいけません。
芹沢さんが圭張しているのは全くパラドキシカルな方法で、子供がイノセンスを表出してきたときに、そのイノセンスを全面的に肯定してやる。すると不思議な事に逆に子供のイノセンスが解体し、子供が自分自身の運命を自分で引き受けようという気分になっていって、それがあって自由な責任を担う主体になっていくんだという事です。なぜ。こういう逆転が生じるのか。なぜイノセンスを認めてやれば、その事によって子供はかえって自由な主体になる事ができるんだろうか。その事が、そもそも自由っていかにして可能になるかという問題につながってくるのです。
親はどのように子供のイノセンスを認めたらいいのか
┗もう少し芹沢さんの言っている事に耳を傾けましょう。いくつか面白い事例を出しています。イノセンスを認めてやるのは普通は大人、特に親です。ですから、親がどうやってイノセンスを認めてやって、その事で子供が自由な主体で責任のある主体に変わっていったのかという事を見るのがいいのですが、そのときに芹沢さんはわざとこういう例を使います。普通の親子関係だとかえっで見えにくいので、養子縁組の場面で考えてみようというわけです。なぜ見えにくいかというと、普通の親子関係というのは血縁関係がありますから、はじめから親も子供も自分たちが親子関係であるという事を当たり前の事であると考えてしまいます。お互いに自分の運命を自然の事だと考える事で、親が子供のイノセントな存在を肯定してやるという劇的な場面は半分終わってしまう。だけど、血縁関係のない親子関係では、親子関係をこれから作らなければいけない。だから、親が子供の存在を自分のものとして認める、あるいは子供が親を親として認める、そういう事を実際に意識的にやらなければならない。そこでわざと養子縁組の例で考えてみようというのが彼が提起する例です。
養子縁組というのは、何らかの理由によって両親がいない孤児がいて、そしてその孤児を自ら引き受けて育てていきたいという親がいるときに成立します。養父母は、孤児を集めている施設のようなところからひとり連れてきて、自分の子として育てるわけです。そのときにポイントになるのは「真実告知」という場面です。つまり、実はあなたは孤児だったんだ、それを養子として迎えて子供になった、そういう事実を告げ知らせなければいけない瞬間がやがて来るわけです。この「真実告知」の瞬間というものに、芹沢さんは注目しています。子供を養子として引き受けようとする人たちのために、どうやったら「真実告知」は成功するかというパンフレットがあるそうです。僕は現物を見た事はありませんが、芹沢さんの本に引用されていて、家庭擁護促進協会大阪事務所というところから出ている「真実告知例解集」という本です。それによると「真実告知」には三つのステップがあるという事が書いてあるそうです。一番目は『私たちは、血のつながりはないけれども、親子なのだ』という事をまず事実として言わなければいけない。ここで重要なのは、いかにも否定的な言い方をしてはいけないという事です。「実は私たちは本当の親ではないんだよ……」という否定的な言い方ではなくて、むしろ「親子なんだ」ということを言うところにポイントがある。二番目として「私たちは、あなたを選んだんだ」「あなたが気に入ったから選んだ」という事を言うわけですが、このときに気に入った理由を言ってはいけない。一番かわいかったから選んだとか、一番利発そうだったから選んだとか、ー番元気だったから選んだとか、そういう条件・選択において気に入った理由を言ってはいけない。そして三番目は「いま私たちは完全に満足している」という事を言う。この3つのステップを追う事によって「真実告知」のセレモニーが完結し、うまくいんだと。
子供の存在を100%肯定する
┗このパンフレットの解説が教えている事は、真実告知は、親が子供の存在を、子供がここにいるという事を100%トータルに肯定する、100%承認している、その事を示す事がポイントだという事です。子供にとっては、自分の存在は与えられたものです。自分がこういうものとして存在する、自分はこういう髪の毛を持って、こういう顔をしている、こういう性格を持っている、こういう性的な趣味を持っている、そういう事も含めてすべてが与えられたものです。ひとつも自分のせいではない。その事がこの真実告知の三つのステップの中で目指されている事です。
否定的な言い方をしてはいけないというのは「本当の親子ではないんだけど…」みたいな事を言うと、まるで血縁の親子のほうが本当はよくて、今の関係はそこから見ると少し格下だという事を言った事になってしまう。そういう事を言うと、子供がいま置かれている存在を肯定された事にはならなくなってしまう。
特に興味深いのは、第二段階です。選んだ理由を言ってはいけないというところがすごく面白いと思います。親が選択したのだけれども、その選択は理由がないという事は、それが、空虚な選択、実質のない選択だという事になります。例えば皆さんが洋服を選ぶときに、いろいろ理由があって選びます。一番安かったとか、一番デザインがよかったとか、そういうときには選択に実質があるように見えます。選択するという事は、他でもありえたという留保が付いているという事です。理由がついているという事は、どういう場合に、他でありえたか、という事が明示的になるので、選択に実質があるように見えるわけです。それに対して、何の理由もなしに選んだと。「なぜその服を着てる?」「いや理由はない、とにかく選んだ」というのは、選択はしているかもしれないけれども、実質のない空虚なものに見えてくるわけです。しかし、ここでは、単に選んだから選んだ、気に入ったから選んだとしか言いようがない空虚な選択であった、という事を子供に言わなくてはならない、と述べているわけです。もし逆に条件づきで選んだとしたらどういう事になるか、と考えてみましょう。例えば「あなたが一番賢そうに見えたから選んだのよ」と言うと、これはもちろんポジティブな言い方です。ポジティブな言い方だけれども、実は子供の存在を全面的にポジティブに承認した事にはならないんです。賢かったから選ばれたという事は、もし十分に賢くなければ選ばれなかったかもしれないという事を意味している。だから、条件づきで選ぶという事は、子供の存在を100%肯定した事にはならなくて、部分的にしか肯定した事にならない。あなたが一番よい子だから選んだという事は、よい子でなかったら自分は選ばれなかったかもしれないという事を意味するわけです。賢かったり、よい子であるその限りでの自分が親に肯定されているだけだからです。今度は子供の視点から物を考えてみたらどうなるか。親に言わせれば、選んだから選んだという言い方しかないわけです。子供の立場からすると、この選ばれ方とは、その親の選択に自分が全然関係していないという事を意味しています。もしある養子が賢いから選ばれたとします。そうすると、親が最終的には選んだかもしれないけれども、自分が賢かったという性質が親の選択を方向づけた事になります。自分が賢くなるように努力したとか、あるいはそんなふうに頑張っていたわけではないにしても、自分がそういう性質を持っていたという事が原因になって、親が選択した。親が理由ありの選択をするという事は、子供の側から見れば、その選択に自分が少しは参加している、関係している、という事です。よい子だから選んだという事は、自分がよい子であろうとしてきた、あるいは現によい子であった、その理由によって選んでいるわけだから、子供のほうもその選択に少しは参加しているという事になります。逆に、理由なしの選択の場合はそうはいきません。ここでは子供のほうには何の原因もない。親のほうが全面的に選んでいる。だからこの場合は、子供は彼が選ばれる行為に、全然参加していないという事になるわけです。そうすると、一見したところでは、理由なしの選択であった場合よりも、理由ありで選択した場合の方が、良いような印象をもってしまいます。つまり、子供を自由な主体にする、選択の主体、責任ある主体にしていくという事が目標であれば、親が理由ありの選択をしたほうが有利なような印象を与えます。なぜかといえば、例えば「あなたが賢いから選んだんだよ」と言えば、それは、賢くあろうとする子供の能動的な努力を誘発する事になるからです。でも、そもそも理由なしに選ばれたら、子供としては親に気こ入られるために頑張りようがない。つまり、このときに、子供の能動性を引き出せないようにみえる。ですから、ちょっとあさはかに考えると、理由ありの選択をしたほうが、子供というのは自分自身で頑張り、自分で何かをやろうとし、責任のある主体になりやすい――そう考えたくなる。しかし、実際には逆であって、理由なしの選択のほうが成功すると、パンフレットは言っているし、また芹沢氏も言っている。
このあたり
んで自由からのリバタリアニズムに繋がって、(話題としては)でマイケル・サンデルとかに繋がってくんだけど、そこは各々、自分がしっくりくる主義をみつけて、違う主義をもつひとと折り合いをつけながらやっていきましょーねが資本主義だと思ってるけど。
とりあえず自分の主義を探ってみるところからはじめては?自分の考えを言語化できるようになると、仲間もみつけやすいし、仲間と話せば、あなたなりの答えがみつかるかもしれん。
1か月以上前に観に行って、
ついうっかり「感想文でも書いておこうかな」などとTwitterでつぶやいたが最後
友人に拾われ「待っている」と待たれてしまった。
こいつは、しっかりとした文章を書かねばなるまい。
私がシンに対して感じた事。
それを素直に、そして素敵に書き連ねて、友人と感動を分かち合うのだ。
などと思いを馳せていたら全然書けなくなり、
「ああ、そうだ自分はプレッシャーに弱かったんだ。忘れてた。」
あまりに書けないので、先輩を捕まえて「文章が書けない」と愚痴ったところ
先輩からは「気負うなよ。なんだ、その友人だって、そんな約束もう覚えてないんじゃないか?」と、励まされた。
はああん、さてはそんなに気負いすることもないのかと
鼻歌交じりで湯船に浸かったり、踊りながら夕餉の支度をしたり、
switchで発売されたモンスターハンターライズをやったりして更に2週間ほど書かずにダラダラすごした。
そのうち書く気力が湧かないものかと期待もしたのだが、これがちっとも湧きやしない。
アイデアは閃いたその時にアウトプットしないと、どんなに素晴らしいものでも劣化すると言ったのは
逃げるように打ち込んだモンスターハンターのエンドロールを見送りながら
「自分は友人との約束を小脇に置いて、一体何をやっているのだ」と我に返り
待たせてしまっているのかもしれない友人に申し訳なさを感じながら、
ようやく書くぞと、今キーボードをたたき始めた。
ここまでが、つまりの言い訳で、今更シンの感想文を書くに至った経緯である。
どう書こうか散々悩んだが、結局文筆家でもない私の書くものだ。
第三者にとやかく言われる筋合いはない。
だから友人が「見苦しい」と思わなければ、とりあえずは問題ないのだ。
では感想だ。どう書こうか。そうだな、本作は大きく分けて3つの感動が湧いた。
それぞれにタイトルをつけるなら、以下だ。
【散々泣いた後「これシン劇場版だけ見た人は面白くないんじゃないだろうか」という懸念】
では、細かく1つづつ説明していこう。
そうそう。ここからはネタバレが発生するので、万が一まだ見ていない人がいたら気を付けてほしい。
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とにかく泣いた。
キャラクターは何人か死ぬんだが、そういうシナリオや演出上の悲しみで流れた涙では当然なく、
「こう終わらせるのか」という感動というか。
時間が経って、時代が変わって、自分も一緒に歳をとって、そして受け入れている自分の状態そのものに
涙が止まらなかった。
かつて「なんて難解で新しいんだ!」という側面で感動したエヴァンゲリオンが
(この次の詳細で書くが)こんなに分かりやすくなったとしても、受け入れて楽しんでいる自分がいる事の喜びでもあった。
期待していた感動の方向性が全く異なっているのに、喜んでいる自分がいるというのは、
シンの終わりに向けて自分も一緒に歳を重ねたからだと泣きながら気付き、
「お疲れ様でした!」と関係者でもなんでもないのに、小さく独り言ちていた。
不思議な達成感と供に「楽しかった」「感動した」「泣いた」「素晴らしかった」を超えた感謝を感じた。
「感謝」
【散々泣いた後「これ今からエヴァ見る人は面白くないんじゃないだろうか」という懸念】
で、散々泣いた後に冷静になってこう思った。
「…今からエヴァンゲリオン見る人は「これ、そんなに面白いか?」と思うんじゃないだろうか。」
というのが、かなり解りやすくなっている。
TVシリーズおよび旧劇場版と比較すると、エヴァンゲリオンの秘密や人類補完計画、綾波レイの正体やら
台詞と絵でほぼ全て語ってくれた。
特に、旧劇場版では初見ではちょっと分かりにくかった、一体誰が敵なのか(ゼーレ?ゲンドウ??)というモヤっと感が
分かりやすく「ゲンドウがラスボス」「目的はユイたん復活」と、ご自身で説明してくれる。
この辺りの凄く分かりやすい説明に対しても、歳を重ねた自分は「語る事を決めた監督お疲れ様です!」と感動したが
なんとなく、「日本人は難解で解釈の余地を残す演出の方が好む傾向があるのではないのか?」
という考えから「これ、今からシンを見る人は楽しいのだろうか?」という懸念が生まれた。
こればかりは、私の仮説が間違っているかもしれないので、過剰な心配かもしれない。
実際、序破Qと興行収入は上がっているらしいから、現代は不親切な難解さよりも、
明快な回答があったほうが好まれるのかもしれない。
(いや、でも、Qまでは結構難解だったよなあ。)
ただ、少なくとも、泣くほどの感動は多分ないだろう。
そう思うと、むやみやたらに「面白いんだよ。素晴らしいんだよ。」と勧めることを躊躇してしまう自分もいる。
旧劇場版に比べると、シンは万人に受け入れられる作品にはなっていると思う反面、
自分は今回から観る人に狂うほど楽しいかと聞かれると、唸ってしまうかもしれない。
最後はもう、自分の好みの話でしかないのだが、有人の人型巨大ロボットでの肉弾戦よりも
エヴァンゲリオンは当然戦うんだが、ヴンダーが途中まで大活躍なのだ。
大活躍というか、ヴンダーをベースにエヴァンゲリオンが戦うのだ。
司令塔⇔戦闘機も大好きな自分にとってさらに楽しい。ありがとうございます。
(余談ですが、そういう意味で、途中まで指令を聞かないマリの戦い方は好きではなかった。)
戦艦といえば、艦長。そう、艦長がどれだけカッコいいかも大事。
ミサトというキャラクターが、TVシリーズではどうにも雌くさくて好きじゃなかったのだが、
それでも、指令を出したり、無茶苦茶な作戦をねじ込むシーンだけはカッコよくて好きだった。
そんな好きなミサトが100%、最後までかっこよく戦ってくれたことも、ありがとうございます。
(艦長だから死んだのか、ミサトだから死んだのかは分からないところですが、ミサトは絶対退場するんだなあ…とかも思った。
でも、あのラストは艦長のラストだよね。全員逃がして最後は船と供には艦長としての散り方だよね。)
ヴンダーが動くのは一々カッコいいし、ヴンダーの開発秘話もイケてるし、
最後に命の箱舟としての本懐を全うして兵器として出撃するシーンとか。
なんだアレ、ずるい。かっこよくてずるい。
最後の項目に関しては、本当にただただ好みの画がカッコよく動きまくってくれて
脳がひたすら喜んでいるだけみたいな感想なので、語彙がバカになっていると思う。
ところで、私は戦艦ものが好きというか、一人のヒーロー(パイロット)が敵を倒すよりも
多数の凡庸(凡庸と言ってもポテンシャル高め)な人々が知恵を絞り巨大な敵を倒すという構造が好き…
というタイプの戦艦もの好きなのだが、庵野秀明はその演出がとても気持ちが良く、
そんな話をしたところ、先日知人に「それは、ヤマトは当然として、ウルトラマン(ウルトラQ)も好きかもね」と言われた。
ふむ、なるほど見てない。ウルトラマン。
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以上が大筋の感想となるのだが、
今回書いてみて一方的なレビューだと、心の中にある踊るような感動や衝撃というのが語彙力のなさも手伝って、きっと全然書けていないなと感じた。
これが会話だったら、もっと色々話したい箇所もたくさんあったなと読み返して思っている。
例えば、最後に畳みかけるメタ表現の数々や、その視点からの演出だと思えばループやスターシステムというものは
シナリオではなくアート寄りな(作家的な?)視点になるから議論は不要なんじゃないかとか、
ラストの実写差し込みは昭和の舞台壊しオマージュかな?などなど…
会話として意見を聞きながら会話を楽しみたいとは思う視点はたくさん出てくるんだが、
一方的に断言できる事は大体この三つだったなと思う。
特に、一緒に歳を取った作品がこう終わったのかという涙と感謝の話は
他の作品で感じたことがなかったので書いておけてよかったかなと思う。
そう思えば、「待っているよ」と言ってくれた友人に感謝である。
ああ、そうだ友人よ。歳を重ねて…で思い出した。
来月私は母になる。
そういう事もあって、余計涙もろくなっているのかもしれない。
頭の良い人と悪い人の思考パターンの大きな違いは、「自分で考えるかどうか」です。
多くの人が誤解していますが、
頭の悪い人ほど多くのことを自分で考えたがります。そして、既に最適な手法や理論が確立された分野で、既製品の劣化コピーを再生産します。彼らは既存の知識を学ばないので、いつまで立っても基礎が身に付きません。しかも、基礎が身に付いていないのに、彼らは搦手や変化球を好みます。
一方、頭の良い人ほど自分で考えません。既に確立された手法や理論が無いかを調べ、それを徹底的に学び、応用しようとします。そして、本当に考えるべきところにのみ、思考のリソースを割きます。こうして、彼らは先人の叡智を自身の中で「常識化」していき、ますます高度なことができるようになります。
「下手な考え休むに似たり」ということわざがありますが、頭の悪い人の思考パターンはこの「下手な考え」に他なりません。将棋の初心者が「一手目の最善手」を考察しているようなものです。それよりも既存の定跡や手筋を学ぶ方が圧倒的に有効です。
なぜ、凡庸な人が"自分で考え"たがるのかと言えば、そちらの方が楽だからです。「自分で考える」というのは、要するにほとんど何も考えていないということです。初期位置から数手動かして将棋盤を見つめていたところで、矢倉も角換わりも出てきません。
一方、自分で考えないことは非常に大変です。当然、新たに覚えなければいけないことがたくさん出てきます。また、自分の勘違いや固定観念を正しながら学ばなければいけません。たとえば、将棋で駒損をしない方がいいというのは正しいですが、詰将棋や寄せの手筋では駒損をする手順がたくさんでてきます。
頭の良い人は、新たな事実や発見に合わせて、自身の思い込みや考え方を修正することができます。一方、頭の悪い人は、それらを見ないふりをしたり、無理やり自分の考えに当てはめて、分かったような気になります。
一時期話題になったわけだけども、みんなトゲ見てても偉そうにマウント撮ってるもんばっかなんだよね。で、歌詞をよく見てみてると「私は変なやつではなく普通の対応もできますし」、という予防線を張った挙げ句自分を天才だと語っている。で、その歌詞をよく見てみるとアンビバレントなんだよ、内容が。わざと自己矛盾するように歌詞を書いてる。流行に乗るけど周囲は凡庸で、模範人間だけど模範的な対応はやる気がない。で、全体を俯瞰した際に一切合切凡庸な私、という像をちゃんと描けてる。
要するに計算してうっせえわ的な人を描き出してるように見える。だけど他の人達の書き込みを見てると、こいつ大人になったとき黒歴史に赤面するぞ、とか脊髄反射(←懐かしい用語)してるわけで。メディアの裏側を読む気がない。
粗品との対談見ててもちゃんと頭の使えるやつで(https://bit.ly/3fH48U9)、アホだからあんな歌詞を晒したんだという指摘は、言い方は悪いけど自動的にアホメタ構造を晒してることになってると思う。
勢いで筆を取っている
あまりにも酷くないですか?
いや成熟した大人として格好付けるのはやめるわ。
あまりにも酷すぎるんじゃねぇか?
そんなに弱者男性が求めるものを女にしたいのかお前らは。
お前らは自分が何を言っているのか、自分が言葉にしていることがリベラルだってマジで思っているのか?
それが大人の態度なのか?それが日本の未来を憂うヤツの態度なのか?それが愛を知る者の態度なのか?
俺はそんな態度はリベラルで成熟した大人だとは思わんし、それがリベラルだというのならばリベラルで成熟した大人であると思うことを辞め、落ち着かなく汚ぇ言葉使って意思表明してやるよ!
世の中には弱者が居て、無視され冷遇され悲しんでいる者が居る。
これまでの社会構造から男女が持つ不遇さは性質の違いはあれど大小長短などの差なんて無いってのはこれまで散々語られてきたことだろうが。
それをなんだお前らは。ひとたび弱者男性の話となれば「弱者男性は女が欲しいんだろ?」とすり替え、下世話かつ問題の矮小化に終始する。
お前らの言い訳なんざどうでも良いんだよ。テメェがいま口にしていることはクソ!これ以外の評価はなくクソなんだよ!クソ!
自己保身や自分の感情を一旦置いといてゼロベースで客観的に自分の吐いた言葉の印象を考えてみろや。
弱者男女双方の問題を何ら解決できるわけでもなく、上から目線で「女が欲しいだけだろ?」と言ってるだけ。なっ?単なるクソだろ?
あぁそういや良い歌が流行ってたな。