はてなキーワード: パラドキシカルとは
前略
―実は人間は、この世界に自分が存在しているという事に関して、責任がない。自分の存在を自分で選んではいないからです、だから当然、自分が生まれたがゆえに、自分がこの世界に存在しているがゆえにやってしまった事、やらざるを得なかった事に関して責任がないわけです。一番もともとのところの責任がないわけですから、それに因果的に規定された残りの部分に対しても責任がなくなります。子供はもともと自分が好きで生まれてきたわけではないので、この世界に耐えられなくて嫌になって文句を言っても、その事に関して子供を叱る事はできない。人間はこの世界の中に生まれてくる。しかも、多くの点に関して、何者かとして生まれてくる。つまり多くの性質を与えられて生まれてくる。例えば男か女かどちらかの性であるものとして生まれてくる。人種的な特徴を持ったものとして生まれてくる。あるいはある特定の共同体の中に、例えば日本人の共同体の中に生まれてくる。そのほかいろいろな性質を持って生まれてくる。そういう事すべてに人は責任がない。そうであるとすれば、人間はそもそも責任がない。それがイノセントであるという事です。
子供から大人への移行
┗ここで問題になるのはこういう事です。責任がないという事は自分が選んでないという事です。逆に人間が自由な主体になるという事は、自分が選択していると言える事ですから、今度はイノセントではありえない、つまり責任があるわけです。自由と責任は表裏一体です。これは学校の先生なんかは好きな言葉ですね。イノセントであるという事は、自由な主体にまだなっていない段階です。自分のやった事に関して自分に責任があるとは言えないという事です。そうすると、人間が成長するという事は、イノセントな状態を何らかのやり方で克服・消去する事です。これが『イノセンスの壊れる時』という芹沢さんの言葉の意味です。つまり、本来はイノセンスなんです。これを書き換えなければいけない。責任がありませんよ、というところを消して、自分に責任があるんだと書き換える。そういう事をするのが大人になる事なんだというのが芹沢さんの言っている事です。イノセンスのこの書き換えをどうやって人間はやるのか、この書き換えのメカニズムを考えてみよう――それが芹沢さんの短い文章の基本的な趣旨です。
ここですごく重要な事を言っています。常識的に考えると、次のようになる。子供は自分がイノセントだという事を主張します。「ぽく、悪くないもん」という事を行動や態度によって表明するわけです。そういう事を言ったときに、凡庸な親だと「いや、お前が悪い」という事を一生懸命教えようとする。しつけをするというのはそういう事だと思われているわけです。そういう事をすると、はじめは自分は悪くないよと言っていた子供が、やっぱり自分が悪いんだと思うようになる――というのが普通の親の考えている事ですが、芹沢さんが言っている事は全く逆です。子供が何らかの意味で「俺は悪くないよ」という表現をしてきたとき、そういう意思表示と解しうる行為をとった時に、逆に「そうだ、おまえには責任がないんだ」という事を認めてやれというわけです。子供がイノセントだという事を自己表出したときに、まさにイノセントだという事を承認してやりなさい、と。そうすると、不思議な事に、まさに承認した内容とは逆の結果が出る。つまり、子供のイノセンスを認めてやると、逆にこれが否定されて、子供は自分自身に責任がある、自分の存在に対して自身に責任があるという自覚に到達するというわけです。責任を自覚するという事は、自分の存在や自分に与えられた性質・運命を自ら引き受けてやろうと考えるようになる、という事です。例えば子供が「生んでくれと頼んだ覚えはない」という意味の主張をしたときに、その事を全部肯定し、認めてやる事で、かえって人は責任ある主体に変わっていく。そういう事を芹沢さんは言っているわけです。
人間が自由な主体になるという事
┗客観的に見れば、子供がイノセントであるというのは正しい主張です。だから、自由な主体になるという事は、先ほど言ったように、あえて、正しくない虚偽を(真として)認識しているかのように振る舞うという事なんです。本来人間はイノセントです。でも、このままだったら人間は自由な主体ではない。自由な主体になるというのは、本来こちらが正しいにも関わらず、本来イノセントであるにも関わらず、まるで自分がイノセントでないかのように振る舞うという事です。だから、大人になるという事は、真理に目覚めるという事ではない。逆です。真理は、むしろイノセンスの方にある。その本来の真理を隠蔽する事が、ここでいう書き換えです。この真理の隠蔽、この欺瞞は、有効で意味のある隠蔽であり、欺轍です。具体的に言えば、皆さんは今こうやって生きていて、いろんな性質を持っている。その99.9%に関してあなた方は責任がないんです、本当は。例えば自分は足が遅い。考えてみると、これは親のDNAのせいなんだ。俺の足が遅いのは自分のせいではない。けれども、人間が自由な主体になるという事は、客観的に見れば自分のせいじゃないけれど、まるでその事に関して自分が責任があるかのように自覚して、生きるという事です。簡単に言えば、足が遅い俺も、それもよし、足が遅い俺の運命を自分で引き受けよう、そういう人生を自分のものとして生さていこうという気分になる。まるで足が遅い人生を自分で選んで、自分で引き受けてやってるような、そういう自覚に達したときに、人間は自由な主体になるわけです。
だから、本当の事を教わる事で本当の事を悟って人間は自由な主体になるのではなくて、むしろ、本当でない事を生きるようになるのが自由な主体になるという事なんだ、という事がまず頭になければいけません。
芹沢さんが圭張しているのは全くパラドキシカルな方法で、子供がイノセンスを表出してきたときに、そのイノセンスを全面的に肯定してやる。すると不思議な事に逆に子供のイノセンスが解体し、子供が自分自身の運命を自分で引き受けようという気分になっていって、それがあって自由な責任を担う主体になっていくんだという事です。なぜ。こういう逆転が生じるのか。なぜイノセンスを認めてやれば、その事によって子供はかえって自由な主体になる事ができるんだろうか。その事が、そもそも自由っていかにして可能になるかという問題につながってくるのです。
親はどのように子供のイノセンスを認めたらいいのか
┗もう少し芹沢さんの言っている事に耳を傾けましょう。いくつか面白い事例を出しています。イノセンスを認めてやるのは普通は大人、特に親です。ですから、親がどうやってイノセンスを認めてやって、その事で子供が自由な主体で責任のある主体に変わっていったのかという事を見るのがいいのですが、そのときに芹沢さんはわざとこういう例を使います。普通の親子関係だとかえっで見えにくいので、養子縁組の場面で考えてみようというわけです。なぜ見えにくいかというと、普通の親子関係というのは血縁関係がありますから、はじめから親も子供も自分たちが親子関係であるという事を当たり前の事であると考えてしまいます。お互いに自分の運命を自然の事だと考える事で、親が子供のイノセントな存在を肯定してやるという劇的な場面は半分終わってしまう。だけど、血縁関係のない親子関係では、親子関係をこれから作らなければいけない。だから、親が子供の存在を自分のものとして認める、あるいは子供が親を親として認める、そういう事を実際に意識的にやらなければならない。そこでわざと養子縁組の例で考えてみようというのが彼が提起する例です。
養子縁組というのは、何らかの理由によって両親がいない孤児がいて、そしてその孤児を自ら引き受けて育てていきたいという親がいるときに成立します。養父母は、孤児を集めている施設のようなところからひとり連れてきて、自分の子として育てるわけです。そのときにポイントになるのは「真実告知」という場面です。つまり、実はあなたは孤児だったんだ、それを養子として迎えて子供になった、そういう事実を告げ知らせなければいけない瞬間がやがて来るわけです。この「真実告知」の瞬間というものに、芹沢さんは注目しています。子供を養子として引き受けようとする人たちのために、どうやったら「真実告知」は成功するかというパンフレットがあるそうです。僕は現物を見た事はありませんが、芹沢さんの本に引用されていて、家庭擁護促進協会大阪事務所というところから出ている「真実告知例解集」という本です。それによると「真実告知」には三つのステップがあるという事が書いてあるそうです。一番目は『私たちは、血のつながりはないけれども、親子なのだ』という事をまず事実として言わなければいけない。ここで重要なのは、いかにも否定的な言い方をしてはいけないという事です。「実は私たちは本当の親ではないんだよ……」という否定的な言い方ではなくて、むしろ「親子なんだ」ということを言うところにポイントがある。二番目として「私たちは、あなたを選んだんだ」「あなたが気に入ったから選んだ」という事を言うわけですが、このときに気に入った理由を言ってはいけない。一番かわいかったから選んだとか、一番利発そうだったから選んだとか、ー番元気だったから選んだとか、そういう条件・選択において気に入った理由を言ってはいけない。そして三番目は「いま私たちは完全に満足している」という事を言う。この3つのステップを追う事によって「真実告知」のセレモニーが完結し、うまくいんだと。
子供の存在を100%肯定する
┗このパンフレットの解説が教えている事は、真実告知は、親が子供の存在を、子供がここにいるという事を100%トータルに肯定する、100%承認している、その事を示す事がポイントだという事です。子供にとっては、自分の存在は与えられたものです。自分がこういうものとして存在する、自分はこういう髪の毛を持って、こういう顔をしている、こういう性格を持っている、こういう性的な趣味を持っている、そういう事も含めてすべてが与えられたものです。ひとつも自分のせいではない。その事がこの真実告知の三つのステップの中で目指されている事です。
否定的な言い方をしてはいけないというのは「本当の親子ではないんだけど…」みたいな事を言うと、まるで血縁の親子のほうが本当はよくて、今の関係はそこから見ると少し格下だという事を言った事になってしまう。そういう事を言うと、子供がいま置かれている存在を肯定された事にはならなくなってしまう。
特に興味深いのは、第二段階です。選んだ理由を言ってはいけないというところがすごく面白いと思います。親が選択したのだけれども、その選択は理由がないという事は、それが、空虚な選択、実質のない選択だという事になります。例えば皆さんが洋服を選ぶときに、いろいろ理由があって選びます。一番安かったとか、一番デザインがよかったとか、そういうときには選択に実質があるように見えます。選択するという事は、他でもありえたという留保が付いているという事です。理由がついているという事は、どういう場合に、他でありえたか、という事が明示的になるので、選択に実質があるように見えるわけです。それに対して、何の理由もなしに選んだと。「なぜその服を着てる?」「いや理由はない、とにかく選んだ」というのは、選択はしているかもしれないけれども、実質のない空虚なものに見えてくるわけです。しかし、ここでは、単に選んだから選んだ、気に入ったから選んだとしか言いようがない空虚な選択であった、という事を子供に言わなくてはならない、と述べているわけです。もし逆に条件づきで選んだとしたらどういう事になるか、と考えてみましょう。例えば「あなたが一番賢そうに見えたから選んだのよ」と言うと、これはもちろんポジティブな言い方です。ポジティブな言い方だけれども、実は子供の存在を全面的にポジティブに承認した事にはならないんです。賢かったから選ばれたという事は、もし十分に賢くなければ選ばれなかったかもしれないという事を意味している。だから、条件づきで選ぶという事は、子供の存在を100%肯定した事にはならなくて、部分的にしか肯定した事にならない。あなたが一番よい子だから選んだという事は、よい子でなかったら自分は選ばれなかったかもしれないという事を意味するわけです。賢かったり、よい子であるその限りでの自分が親に肯定されているだけだからです。今度は子供の視点から物を考えてみたらどうなるか。親に言わせれば、選んだから選んだという言い方しかないわけです。子供の立場からすると、この選ばれ方とは、その親の選択に自分が全然関係していないという事を意味しています。もしある養子が賢いから選ばれたとします。そうすると、親が最終的には選んだかもしれないけれども、自分が賢かったという性質が親の選択を方向づけた事になります。自分が賢くなるように努力したとか、あるいはそんなふうに頑張っていたわけではないにしても、自分がそういう性質を持っていたという事が原因になって、親が選択した。親が理由ありの選択をするという事は、子供の側から見れば、その選択に自分が少しは参加している、関係している、という事です。よい子だから選んだという事は、自分がよい子であろうとしてきた、あるいは現によい子であった、その理由によって選んでいるわけだから、子供のほうもその選択に少しは参加しているという事になります。逆に、理由なしの選択の場合はそうはいきません。ここでは子供のほうには何の原因もない。親のほうが全面的に選んでいる。だからこの場合は、子供は彼が選ばれる行為に、全然参加していないという事になるわけです。そうすると、一見したところでは、理由なしの選択であった場合よりも、理由ありで選択した場合の方が、良いような印象をもってしまいます。つまり、子供を自由な主体にする、選択の主体、責任ある主体にしていくという事が目標であれば、親が理由ありの選択をしたほうが有利なような印象を与えます。なぜかといえば、例えば「あなたが賢いから選んだんだよ」と言えば、それは、賢くあろうとする子供の能動的な努力を誘発する事になるからです。でも、そもそも理由なしに選ばれたら、子供としては親に気こ入られるために頑張りようがない。つまり、このときに、子供の能動性を引き出せないようにみえる。ですから、ちょっとあさはかに考えると、理由ありの選択をしたほうが、子供というのは自分自身で頑張り、自分で何かをやろうとし、責任のある主体になりやすい――そう考えたくなる。しかし、実際には逆であって、理由なしの選択のほうが成功すると、パンフレットは言っているし、また芹沢氏も言っている。
このあたり
んで自由からのリバタリアニズムに繋がって、(話題としては)でマイケル・サンデルとかに繋がってくんだけど、そこは各々、自分がしっくりくる主義をみつけて、違う主義をもつひとと折り合いをつけながらやっていきましょーねが資本主義だと思ってるけど。
とりあえず自分の主義を探ってみるところからはじめては?自分の考えを言語化できるようになると、仲間もみつけやすいし、仲間と話せば、あなたなりの答えがみつかるかもしれん。
どうも。会話ベタだった自分が人と話をする際に実践・意識してることを具体的に書きます。共感が大事!とか言ってる会話本はさっさとゴミ箱にぽいっとしちゃって下さいw もっと具体的なコミュニケーションの裏ワザを。目からウロコがボロボロ落ちることを期待して書きます。笑
◯僕がやってることそれは、「ノリで相槌を打つこと」と「決めつけること」。ノリで相槌を打つ…とかいうと、「はぁ..俺ノリ悪いしな、無理だわ、リスカしょ…」みたいな人が出かねないから言葉を変えると、「ニュアンスで相槌を打つ」ということ。
友「俺、A◯B好きだわ。まじサシコ可愛いわぁーー」
俺「ぅん…(俺好きじゃないし、リスカしょ..)」
…ではなく。笑
友「俺、A◯B好きだわ。まじサシコ可愛いわぁーー」
俺「えー指◯?w」
これだけで良い。あるいは、あー指原ね(↓)、とかあー!指原ね(↑)とか。
◯大事なのは、このえーーーwとかあーーとか。 ここに感情を込めてやる。上手いこと言おうとか思うと、「指原のどこが好き?」とか言葉にしようと思うけど、そこに感情が乗らないと、相手は質問(尋問?)されてるように感じる。最悪そのまま「俺興味ないわ」とかね。ぶつ切りにw これが指原だったらいいけど、具体的に会話ってなると言葉を選びすぎてあーーーーってなる人多いんじゃないかなw
そういう人に知ってほしいのが、ニュアンスさえ上手く伝えられれば、「極論何を言ってもいい」ということ。言葉なんて選びすぎるな。その代わりに面白おかしく感情を乗せてやれ。メラビアンの法則を信じよう!w ネットだってそうじゃん?とりあえずwwwとかつけとけば会話になんじゃん?そんな感じ。
これが出来れば、相手が話上手だった場合、会話続くし、あなたが自分の意見のない・言えない話下手でも「会話上手」にはなれる。でも、みんながみんなそうじゃない。
相手が話下手だったらどうするよ?
◯そこで次に大事なのが、「決めつける」ということ。
友「俺、A◯B好きだわ。まじサシコ可愛いわぁーー」
俺「ぅん…(俺好きじゃないし、リスカしょ..)」
…ではなくw
友「俺、A◯B好きだわ。まじサシコ可愛いわぁーー」
俺「あー指◯?w 顔ね!?」
これだけで良い。別に顔とは言ってない。声かもしれないし、内面かもしれない。でも、これでいい。ここで変に、指原のどこが好きなの?とか言わなくていい。(言葉浮かぶなら言ってもいいけど)
オープンクエスチョンとクローズドクエスチョンってあるじゃん?
前者は相手に答えを要求するもの。後者は、相手にyes、noを答えさせるもの。これを普通の会話に応用してやる。ここで顔だった場合、そうそう可愛いんだよな! いや、顔じゃなくてさ、、声がもう!
相手の意見を勝手に引き出せる。相手もyes・noのノリで答えられるから考える必要がなく繋がりやすい。ここで笑いも生み出しやすい。あーーあのエクボね!?笑的な。(あれ、指◯にエクボあったっけ?←) 適当話すなって思うじゃん? でもこっちが決めつけて偏見持ってるという意識があるだけに、相手の話は聴きやすいよ。逆説的だけどね(キリッ
◯で、会話が一段落しますー。あーーやべ、話題が切れちゃった…。やっぱ俺話下手だわ。あるいは、やべ初対面で何話したらいいのかわからないわ。(リスカしょ..)はい、心配ご無用!w ここでもまたコールドリーディングよろしく「決めつけ」ればいいんです。
俺「友って、肉じゃが好きっしょ?w」(ここでも感情含めてやれば極論何言ってもいいよ)
(ここで「最近テレビ何見た?」とか「休みの日とかって何してんの?」とかって「話題」考えると俺は途端に頭がフリーズするからね。)あるいは、俺「◯◯さんって、A型?笑」とかね。
そこでボケればいいんです。あれだもん、肉じゃがに入ってるいんげんが好きそうな顔してるしな!とか、服にシワ1つないからさ!とか。(え、後者はボケてないだろって?そこはご愛嬌。笑)
「血液型」「職業」「好きな食べ物」「好きなキャラクター」「趣味」…。決めつける。(逆説的だけど、自分が偏見から入ってるから相手の話は聴きやすいよ。パラドキシカルだけどね(キリッ ただ、ここで相手を決めつけない、カテゴライズしすぎない)
会話って、こうやってノリで繋げていけばいい。大事なのは、感情のやり取りと面白さ、その場を楽しもうという気持ち。(もちろん聞きたいこと、話したいことがあるならそれも) ボケ具合といじり具合は相手との関係性で調節しつつ。
肩肘張ってしまう人は、てきとーに話してみて。その楽しさがわかれば、もっと色んな人と話したいなーって思うはず。そして、人に興味ないとかって思う人は、とりあえず知のわらしべ長者になってやる、とかゲーム的に楽しめるといいかも。ご当地のマイナーキャラクターを調べるとか。
会話に対する苦手意識が減れば、対人緊張も減ると思う。緊張取れれば言葉自体もスムーズに出てくる。確かに、マインドセットも凄い大事だけど。(この辺は機会があればおいおいとか言いつつ書いちゃったのでよかったらこっちもどうぞ。笑→「会話ベタ」は「共感」を意識しないほうが良いというお話。)そして、自分に興味を持ってくれる人がいないなら、ネットで探してみるのもあり。特に、初めから「男女の関係」として入れる異性とかは興味持ってくれやすいし、仲良くなりやすいと思う。
※本文中に出てくる人物(指原)はフィクションであり、某超絶人気国民的アイドルグループの指原莉乃さんとは一切関係ございません。
主観的世界において苦痛を最大限取り去る手段である「死」を目指す所に、どうして快楽原則の彼岸など見出せるものか
快楽と死は地続きであり、それはラカンの「リビドーの変遷の最後の段階は、石の平穏へと戻ることである」という言葉がこれを確認する示唆に富んでいると考える
個体としての人間はその主観的視点において、快楽原則の奴隷とならざるを得ない
原初の快楽原則は現実原則のベールをかぶり、超自我の指導を受けるが
それでもなお、欲求の断念が継続する場合に「欲求そのものを抑圧、もしくは消しさる」という方向に自我は動き出す
その究極の形が、欲求を生み出して、それを断念させ、峻厳さと不寛容さを生み出す原因となっている「私」そのものの打倒という形でなされる
それは人が持つ内向性の周縁部に位置しており、外向性の周縁部で人を殺める現象が起きる事とのシンメトリーとなる
しかし、内向であるからと言ってそこに外界の存在がないわけではない
矛盾するかのように聞こえるが、私はそこに一定解釈を持ちうると考える
すなわち、「私」そのものの打倒とは、何によって行われようとするかについて再考する事でそれが得られる
先に書いたように、欲求への不寛容を生み出す「私」を打倒する方法の一つとして死がある、自殺がある
けれど、「私」が、自我がその断念を繰り返し、超自我の不寛容を強めたのは、紛れもなく現実からの影響に他ならない
さらに言えば、人が人として成長せざるを得ない時、自分を自分として成長したい・適応して現実での快楽を得たいと思った時に、必然的に自らへの不寛容を強めざるを得ないという事だ
快楽原則に従って現実原則を生み出す事が、一見して快楽原則を否定し対立するように見えるのは非常にパラドキシカルである
閑話休題、この説で言いたい事は簡潔に言うとこうだ
「私は「私」を打倒するが、「私」とは現実つまり欲求断念の原因となった事物人の象徴である」と
現実の規則、すなわち父や法や規律や道徳や能力の制限というものが、欲求断念を生み出している
欲求の断念は超自我の不寛容を生み出し、その不寛容が涅槃規則を生み出す
であれば、涅槃規則で生み出された死の欲動が打倒せよと叫ぶのは、象徴的な意味での父であるともいえる
「生まれてこなければよかった、消え去りたい、自分を殺したい、死にたい」という言葉は、内在化された父を消し去ることとなる
また同時に、快楽原則に従いながらも他の快楽原則を打倒せしめんとする涅槃原則は、快楽原則が母的な側面を持つ事からも、象徴的な意味での母を殺す事になるだろう
ちまちま書いてたら後追いになってしまった。
http://www.youtube.com/watch?v=OIQMaRXyPpc
http://www.youtube.com/watch?v=fLVSxWX47Vo
http://www.youtube.com/watch?v=KRlbJolZR_k
http://www.youtube.com/watch?v=jxC1HnwbNLY
http://www.nicovideo.jp/watch/nm18491384
http://www.youtube.com/watch?v=8_1IlHVJafo
http://www.nicovideo.jp/watch/sm18720713
http://www.youtube.com/watch?v=7-aKL9-ScZM
http://www.nicovideo.jp/watch/sm18966450
http://www.youtube.com/watch?v=E8hPzbIW8zo
http://www.youtube.com/watch?v=pRYeox4LUYA
http://www.youtube.com/watch?v=De2c5h2nYSw
http://www.youtube.com/watch?v=2cuAHXEr7Xs
http://www.nicovideo.jp/watch/sm17214699
http://www.youtube.com/watch?v=PBpHKO1sE1I
http://www.youtube.com/watch?v=v9aXnaTBMQo
http://www.youtube.com/watch?v=S6n9JaFAzTk
http://www.nicovideo.jp/watch/sm18322329
http://anond.hatelabo.jp/20090209001638
なんか、トラバツリーが、
すげぇことになっちまったな。
いつのまにか宗教の話になってるし、
おっさんにはついていけねぇよ。
で、
自分自身の過ちにも気がついたし、
一方で、
やっぱティピカルネス炸裂してんな
って、思いを強くした。
ちょっと、整理したい。
まず、「オラクル」
この言葉を安易に使ったのがまずかった。
俺にもあるんだけどよ、
って感じのステレオタイプ。
俺自身の説明でも、
多くの人を誤解の渦に巻き込んでしまった。
負っていることは、多いと思うけど、
俺も、たぶんみんなも、
だからオラクルじゃなくて
といった方がよかった。
例えばさ、わかり易すぎる例で行くと、
「君が選ばれし勇者だ」
みたいなことを明示的に言う人な。
その物語における
登場人物たちの役割を
提示する存在だ。
その役割が登場人物たちの行動に
根拠を与えるわけな。
んでもって、俺自身が、
を明示的にわけて考えるべきだった。
俺は、この二つを混同させながら、
愚痴ってたわけだ。
じゃあ、ここから、一部のブコメに返信。
祖母の件だけど、
心配してくれてありがとう。
MRIで脳萎縮も確認。
「大して」って書いたのは、誤解を生んでしまうね。
すまん。
本題は、
ってことよ。
「文体がおもしろい」
といってくれている人が数人いた。
Tokyo FM のラジオ番組 Avanti をオススメしとくよ。
http://www.avanti-web.com/index2.html
おじさんの危惧はそこにあるんだ。
よくあんな誤解を生むヘンテコな文章から、
俺の言いたいことを言い当てるもんだ。
すごい。
まったく、誰だよ
「はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる。」
とか、ぬかした愚者は。
同じおっさんとして恥ずかしいね。
あと、 y_arim には反応しとかないといけない。
id:y_arim 「見ていてほしい」「全部分かっててほしい」って言うよね。オリオン座とか亜美とかに。これがoracleの代替なんだと思う。口は出さず見守っていて、と。それが思春期の少年少女の気持ちなんだ
懐かしい気持ちになったよ。
「あなたにとっての“伯楽”とは何か、書きなさい」
という課題があったから、
「私にとっての伯楽は宇宙人だ」
って書いたことを思い出したよ。
俺、ハ○ヒとなら上手くやれたと思う。マジで。
で、そのときはさ、先生に
「実在しないものを伯楽と捉えるのはおかしい」
みたいな講評をもらってさ、
「こいつ、わかってねぇよ」
って、思ったんだよ。
伯楽ってのは、
伯楽は人間以外にありえないって
今なら思うけどさ。
当時は、宇宙人だって、そう思っていた。
あと、 日記も読んだけど、
読解について納得できる部分が多い。
ただ、読解後の解釈、というか考え方の面で、
おっさんとして、
突っ込まざるを得ない部分があったから突っ込んどく。
作中では亜美も、彼女を超えるパーフェクトな存在と思われていた「兄貴」こと生徒会長・狩野すみれも、ただのガキでしかないことが暴かれていくのだけれども。
っていう、二項対立のことなんだけど、
たまたま、こう書いただけ?
あと、脚注で
と書いてあるね。
「全能感 or 無力感」
の二項対立かな。
id:y_nob 6巻を読んでいて実乃梨が竜児に「亜美には全部わかっていて欲しい」いう心情を吐露するシーン。人にすがる実乃梨に微かに嫌悪感?を感じた。
その感覚。若い子に共通かな?
と一緒だけど、他人に厳しすぎじゃねぇか?
「俺は他人に期待せず頼らず生きていく」
っていうのは、
パラドキシカルな他人への過剰期待のバイスバーサだろ?
「他人が自分に期待しないこと」を期待するという、
期待の脱期待化の失敗だろ?
(ここ、笑うところな)
今の若い子達はさ、
場面場面で、異なった役割を演じなければならない、
っていうのはわかる。
キャラ立ちだろ?
若い子だけじゃねぇ。
おっさんも不安定だ。
だから、
必要ないって俺も思うよ。
っていうか、
多くのブコメであるように、
そもそもそんな存在は
もういないよな。
でも、みんなそれで困ってるんじゃねぇの?
おまけ
id:inumash ロック好きにはこの感覚は良くわかんないなー。「オラクル」は『否定する(される)ための存在』としてしか認知されないから。
B'zのさ、「敵がいなけりゃ」って曲があるね。
否定すべき存在がなくなったとき、
ロックは何を否定するのよ?
誰か 敵がいなけりゃやってられない
それが俺の道しるべだ
何も持ってないのはつらいこと
だからお願い 俺のカタキになってよ
私はどちらかといえば選民思想な人であるが、僕たちは歴史に学ぶことは意外に無駄なのかも知れない。私たちは第二次世界大戦から多くを学んでいる、が学んでいない。パラドキシカルであるがたぶんこれは事実であろう。言い換えれば、私たちは歴史から学んだ事実を史実しか学んでいないのではないかということだ。うむ、意味がわからない文章だ。
例えば、第二次世界大戦のドイツを例にとってみれば(ここではホロコーストが事実だの事実でないの数が多すぎるだの少ないだのイデオロギーによる論争を提起するものではない。)、第二次世界大戦は社会心理学において大きく寄与したはずだ。例を出してあげるならばスタンレーミルグラムやスタンフォード監獄実験、アッシュによる同調の実験、大多数の少数に与える影響の実験(これはアッシュの実験と同じか)、また少数が大多数に与える影響の実験(ブルーグリーンパラダイム)、(お勧めはUnderstanding Genocide:: The Social Psychology of the HolocaustとObedience to Authorityとか関係ないけど長谷川真理子とかそのあたり)私たちは如何にして自らの意思を捻じ曲げ如何にして無意識のうちに他人の意識を捻じ曲げているのか理解しなければならない。
さらに言い換えよう、なぜ人々は南京を否定することに躍起になるのか、なぜ人々は南京を肯定することに躍起になるのか、なぜイデオロギーは人を惹きつけるのか、私たちが学ばなければならないのは史実などではない。人間である。南京で虐殺したから日本人はひどい人間だ、なんてまったく無意味なことに気づかなければならない。なぜ彼らは自虐することに意味を見出すのか、それはどのようにして彼らに利益をもたらすのか(必ずしもお金ではない。集団に属するという意味もしくは心理学的意義を理解せねばならない。そこからどのようにして自虐的行為が何にどのような利益をもたらすのか知らなければならない。)
歴史を明らかにするのは重要だ。だかそれ以上に重要なことはあるのではないのか。イデオロギーによる闘争に身を投じて君は成長できるのか。君はイデオロギーから何を学ぼうとするのか。君はなぜイデオロギーにひきつけられるのか。理解しなければならない。
インスパイヤ元 - アニオタが非オタの彼女にアニメ世界を軽く紹介するための10本
まあ、どのくらいのファミコン世代が美少女にモッテモテになるか否かは置いとくとうんぬんかんぬん。
では、行ってみよっ!
これを最初にネタとして発見したのは確かふかわりょうだと思う。しかしネタとして見ず、オープニングの名曲味わい装置として再生すべき1本。あのたのファミコンがすてきなジュークボックスに!
音楽やセリフのかっこよさ、敵の絵の渋さにもだえてもらうべき1本。クリアする心の余裕があるのであれば、「エンカウント率」というものの恐ろしさを骨の随まで体験できます。レベル最強なのに、敵瞬殺なのに、それなのに難しいというパラドキシカルな一本。金持ちは金持ちなりに悩みがある、という感覚に似てるかも。
ここには旅がある。てくてくと野原を歩いていく感じ、あっと敵と出会う感じ、ジリジリとした一進一退の攻防、そこには格闘がある、感じられるはずだ、それが記号型テレビゲーム的トリップ体験なのだ。
近年のテレビゲームでは味わえないファンシー感、そしてジャンプ力。普通ここまで飛び上がれるなら空飛べる設定にするはず、しかし飛行などできないのです。あくまでジャンプ。だから落ちてくる。飛ぶ→落ちるということのダイナミズムを金づちぶん回しながら肌で感じるべし。
ご存知の大メジャーだが入手困難な一本。運良く手に入れたものは幸いである。現実世界では香港のアクションスター以外では体験することのできないワイヤーアクションを爽快に体験できます。筆者はラストの2メーター50くらい身長があるあいつを倒したことがない。
これもジュークボックス。舞台が現代アメリカというのをうまく消化している。本当はこんなのアメリカじゃないんだけど、なんとなくアメリカな気がしないでもない感じを体感してほしい。本当のアメリカなんかくそくらえだ。
またまたジュークボックス。「昔の宗教ってのはねー、広まるときに、もともとその地方で信じられてた神様とかを『実は悪魔だったんでしたー』みたいにしてうまい具合に取り込んでいって広まったりしたんだよー」とか教えちゃってください。「んまっ、なんてインテリなのかしら、、」と惚れ直されることを保証します。
どんなにがんばっても奥州止まりという人間の限界を知るにはいい教材。最初は余裕だった奥州統一も、クリア回数20回あたりから一筋縄では行かなくなり、クリア回数45回あたりから絶望を知ることになる。人間、できてあたりまえと思っていたことができなかったときに最も悔しさゲージが満タンになるという事実を痛いほど痛感できる(腹痛が痛い)。しかしながら、20時間くらい思考し、よーーーーく作戦を練ればギリギリギリギリでなんとかなるというパンドラの壷でもある。
シンプルな殴り合いこそが実は最も作戦が重要視される。相手のクセを読み、自分のクセを読ませない。今後あなたと彼女が関係を続けていくなら欠かせないことなのです。警察が来たら知らんぷり。そしてケンカを続ける。永遠に。男女関係もこうありたいものです。
ファミコン世代のあなたならもう何をするかはわかっていますね? 従って2本で1本扱いとしました。しかしこれを印象づけるためにはそれぞれのソフトを普通に楽しんで、それぞれについて固定観念を持ってもらっていなくてはなりません。ダブルスでキャッキャ遊びましょうよ、責任のなすり合いしましょうよ、土管に潜りましょうよ、でもそれらは全て序章なのです。いわば付き合ってる時期。本当のわけのわからなさは二つが合体したときに訪れるのです。いわばケコーン後。怖い。これは怖い。でもやめられない。なんなんだこれは、だれなんだお前は、パカパカ行進曲。