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2021-08-11

ネット文学賞ネット文学終焉

https://mala.hateblo.jp/entry/2011/12/14/121139

個人的に銘文だと思っているmala氏の「はてな使ったら負けかなと思っている2011」が書かれてからおよそ10年が経った。

しか当時はネット危険場所から健全場所へとイメージが変わりつつある頃だったと記憶している。

はてなも湿っぽいイメージはてなダイアリー(個人の感想ですから明るい陽キャはてなブログへと転換を図り、その5年後には上場を果たす。

石の下でグネグネしていたネット諸氏は、少しづつ陽の光が当たり始めた場所に居心地の悪さを感じ始めていたのではないだろうか。

自身も石の下の一匹であった僕もまた居心地の悪さを感じた一人であり、mala氏の文章の文末に吐き捨てるかのように書かれた『大多数の人にとってインターネット安全ものであり続けている。すべての人々が、ネットを通じたトラブル揉め事に巻き込まれますように。』に喰らってしまった。

mala氏の呪詛が通じたのかは分からないが、多くの人にとってインターネットがより安全場所になりつつある今、所謂ネットを通じたトラブル揉め事に巻き込まれた」人もまた少なくない。

毎日ネットで誰かが誰かに噛み付いており、モニターから飛び出して直に人間を殴りに行く者までいる。

ツイッターではしょっちゅう訴訟が起こされたり、訴訟をするぞと脅したり、訴訟を失敗して笑われたりしている。(10年前の皆さんはこんなにも訴訟が身近になると思っただろうか?)

気がつけばネット越しにお財布からお金を盗まれていて、誰かが炎上して辞職するニュースを見ながら振り返ると、後ろでは自ら火の中に飛び込むYouTuberがいる。

ネット炎上に(無自覚も含め)加害者として加担する人を含めればほぼ「すべての人々が」巻き込まれていると言って差し支えないだろう。

いい時代になった。

しかしそんなリスキー時代なのにも関わらず、個人匿名性はほぼなくなりつつある。

放棄した、と言っていいかもしれない。

ここで言う匿名性とは、セキュリティ的なあれこれではなく「アバター個人を切り離す」行為のことだ。

少し前、SNSインフラ的な役割を担うようになった頃、多くの人がネット上の影響力や人間関係などが資産的な価値を持つと考え始めた。

実際、これらはリアル金銭的な価値や、承認欲求を満たすアイテムとして、非常に高いレートで取引でき、将来性まである事がわかってしまった。

これらの資産現実に持ってくるには、もちろんネット上のアバター現実個人を紐付けなければいけない。

普段大事しまっていて時折箱を覗いて満足する、そんな昔の玩具に法外な買取価格が付くかもしれないのだ。

誘惑に負けてみんなメルカリ直行だった。

ネット上の分人と現実世界個人が紐付けば、ネット上のいざこざは現実世界に流れ込んできてしまうのは当たり前なのだが、それに直面したのは数年後。

そんな感じで、僕たちは貴重な匿名性を自ら放棄してお金とか自尊心だとか、まあそれ以外にも色々と便利なサービスを甘受して満足して暮らしましたとさ。


そんなわけで、おわかりだろうか、はてな匿名ダイアリーは数少ない残された大地である

匿名性が息づく最後の砦である

そのはてな唐突ネット文学賞をやるとか言い出した。

ネット文学とは何か?


僕は文学に詳しくは無いし、文学カテゴライズにはもっと詳しくない。

しかしぼくがかんがえるさいきょうのネット文学的な想いはぼんやりとある

一番の条件は、書いた人が現実の人に紐つかないということだ。

かに結びついてしまえばもうそれはネット文学でなく、その人の文章になってしまう、そんな気がする。

誰が書いたのかがあやふや文章、知っている人が読めば一発で属性特定できそうな個性豊かな文章にもかかわらず、著者を知っている人は絶対読むことが無いであろう場所にひっそりと書かれており、物知りなネットの知り合いかリンクで送られてきたそれを開くと、改行や句読点位置はまるでデタラメ熱量だけで押し切られた5万字にも及ぶ文章文句なく面白く「しかしこの文章読みにくいなー」「段落くらい分けろや」と文句を言いながらも一気に読み切ってしまう。

締切が近い仕事で深夜にシコシコと作業をしている時に、何の予告もなく突然そんな文章出会い頭に衝突して朝まで全然仕事にならない、そんなのが理想ネット文学との出会いである

昔はそんな文章にぶつかる事が多々あった。

テキストサイトという名の万国博覧会ブログブームの中で一般日記に交じる電波日記・怪文章エログロナンセンス絶望の世界2ちゃんねるコピペ、そいういった無数の砂の中から時折砂金のような文章が落ちていたりした。

多くの文章一期一会で、心と記憶に余韻を残しつつまた砂の中に消えていった。

いやいや昔話はやめよう。

ネット文学現実と紐ついてほしくないというのは僕だけだろうか。

もちろん、ネット上の優れた才能が現実に結びついて報酬を得られるのは喜ばしいことだ。

しかしそのサイクルが非常に早く、システム化され、なんなら最初から最後までの筋道が出来てしまっている事が多い今日では、現実と紐つかない文章にこそネット文学としての煌めきがあると僕は思う

ネット現実の結びつきがより強固になった今、ネットしか読めない文章ネットしか評価されない(あるいは評価もされない)文章というものはこの先ますます読めなくなってくる。

詠み人知らずのネット文学はこの先ますます廃れていくだろう。

はてなもその事を理解していて、最後土地を護る者の仕事としてネット文学賞を開催しているのではないだろうか。



たぶん、増田文学最後ネット文学と言われる日は近い。

2021-08-09

anond:20210809110935

そういうことをしない男が0ってことは、つまり人知人顔見知りの男全員やり捨てするタイプの男ってことだな。

スラム育ちか?ずいぶん過酷人生送ってるなw

本にしたらバカ売れするぞ。よかったなw

anond:20210809110452

1人知ってるだけで男全体がそういうもんだと思い込むのはやめろ。

そういうことをしてない男を何人知ってるか数えてみろ。

2021-08-04

一人暮らし25年目、だれも俺の部屋に来てくれる友人知はいない

テレビみてふと思ったんだけど俺の部屋を捜査本部してくれたら毎日人の気配を感じられるので警察関係者は一度検討してみてほしい

東京事故物件が爆発的に増える

なぜならコロナ人知れず亡くなる人が爆発的に増えるから

不動産屋は震えて眠れ!

2021-07-31

Twitterパヨク垢の実名さらされたけどさ

政治的に正しいこと主張するのに実名指摘されたら困りますってそれどういうことw

実名が嫌とかそれ卑しいことしてますって白状してるようなものでしょ

はてな民もそうだぞ

正しくてまっとうな意見を言ってるつもりなら、実名顔出し所属晒すことは何の問題もないはず

それを隠すってことは、友人知会社等に知られたら困るようなことをコメントしてますって自己紹介してるようなもの

はじめから社会相手にすべき意見ではなく便所の落書きと同じってことだ

お前らの意見が反映されないのは当たり前

考慮にさえ入れるべきじゃない

からオリンピックも開催されるし次の選挙自民の勝ち

2021-07-29

借金先生の身に何が起こったか金川晋也と平林緑萌は大丈夫なのか?

借金先生が今(2021年7月29日インターネットで袋叩きにされている。借金先生は長年に渡る誹謗中傷に耐えてきたが、とうとう許容範囲限界に達したので開示請求等の法的措置をとることを示唆したところ、借金先生誹謗中傷してきたアカウントが一斉に借金玉に対して更なる誹謗中傷を浴びせてきたのだ。

と思ってる人間結構散見されるが事実は全く異なる。今回の騒動は雑に簡単にまとめてしまえば「借金先生reiに対する営業妨害として、rei含めて自分否定的言及した人間否定的ツイートRTした奴に対して開示だの裁判だの個人情報バラまくだのスーパー興信所だのご家族について調べ上げるだの騒いだ結果、周囲から流石にそれはおかしいとどん引かれ物申したら、その物申した人間過去借金玉に物申した人間に対しても片っ端から開示請求するぞと暴れ始めた」ものだ。因みに今回の騒動reiに対する営業妨害であることは借金先生自身

ttps://megalodon.jp/2021-0727-0824-32/ttps://twitter.com:443/syakkin_dama/status/1419703402582319119

あ、たった今発売1年の僕の本が1,194位、6日前発売のrei氏の本が1,628位本と追い抜きましたね。せめてちゃんとワビ入れて、「もうやりません」って言ってくれたら発売日に合わせて告発なんてやらなかったのに。なんでそんなこともわからんかね



公言してる。念の為に断っておくと「直接営業妨害目的とは言ってないからセーフ」理論司法の場では通用しないことは、はてな法務部は勿論として借金先生顧問弁護士である第一東京弁護士会所属秋葉原KM法律事務所離婚借金問題が専門の新人弁護士金川晋也でも当然知っているはずだ。またrei氏の名誉の為に言っておくと、rei氏は2年程前に2度借金先生レスバしてから先生には全く言及していない。恐らく、その2回において借金先生

借金先生rei発達障害詐称してる」→rei障害者手帳です」→借金先生逃亡

借金先生reiに対しては然るべき場所で決着をつける!リーガルバトルをやる!」→rei「然るべき場所リーガルバトルって具体的に何のことですか?」→借金先生逃亡

惨敗したことが原因だろうが、現在は完全に一方的借金先生rei粘着している状態だ。またrei氏の名誉の為に言っておくと、借金先生の言ってる「剽窃」「パクリ」は単に借金先生が流用した既存表現メソッドreiも使っているという話でしかない。詳しくはhttps://archive.is/3CKESを参照して欲しい。

勿論インターネット名誉棄損や侮辱された時に正当な法的手段を取る手続きとして開示請求し、個人情報を取得するのは悪いことではない。しか借金先生

ttps://megalodon.jp/2021-0723-1059-50/ttps://twitter.com:443/syakkin_dama/status/1418370111874867200

これは複数弁護士に「多少賠償払う気があるならアリ」って勧められたやつなんですけどね、「裁判で訴えて勝つ」より「開示請求で身元が割れた時点で、その人の発言個人情報をセットでインターネットに放つ」って選択肢あるんですよ。これ、人によっては全てを失うでしょ。人を雇う前にググるよ。

ttps://megalodon.jp/2021-0725-0031-05/ttps://twitter.com:443/syakkin_dama/status/1418373588285984772

名前やらなんやらわかってる人の顔写真やお勤め先、家族写真まで全部集めるなんて、ちょっと腕のいい興信所なら一瞬でやってくれるし、僕の相棒はまさしく「腕のいい興信所(と記者)」なんですよね。「余裕でやれる」って気づいて、そこで困ってしまうことありますよね。

ttps://megalodon.jp/2021-0723-2318-20/ttps://twitter.com:443/syakkin_dama/status/1418372421166399491

名前ならなんやらわかってるならちょっと興信所に小銭払えば、お住まいから家族からあっという間に調べはつくし、「開示請求からマトモに裁判」やってる人ってあれめちゃくちゃ優しい人なんですよね。さて、僕はどうするべきか。色々考えています



個人情報不正利用を示唆しているのだ。このような個人情報活用プロバイダ責任制限法に反しており、こんなこと言って周囲に否定的反応されないと思うほうがどうかしている。付け加えて言うなら借金先生

個人情報インターネットバラまく借金先生相手個人情報保護の為に借金先生スクショをとったツイートURLで失礼

ttps://twitter.com/DividedSelf_94/status/870896897568849921

個人情報を手に入れた瞬間、リア凸するぞ!と相手に迫る借金先生

ttps://web.archive.org/web/20180307144447if_/ttps://twitter.com/syakkin_dama/status/893387243682844672

まなべさん、スケジュール合わせましょう。訪問する場所はわかったので。親切な人が教えてくれました。

ttps://web.archive.org/web/20180307144316/ttps://twitter.com/syakkin_dama/status/893389454672449536

大丈夫、在宅スケジュールはわからないけど親切な人が居場所特定に十分な情報をくれたので。ご心配なく。

複素数太郎に対して「情報リークがあったので覚悟しろ」「アウトローな友人を連れて訪問する」と宣言する借金先生

ttps://sutaro.hatenablog.jp/entry/2018/03/13/012810



と実際に個人情報悪用してきた過去があるのだ。

そして現在この騒動の渦中の人であり、借金先生2021年7月29日現在誹謗中傷されてる「えりぞ」氏はこうした借金先生の動きに対して疑問を呈しただけである借金先生はえりぞ氏に「デマを流された」「不当な誹謗中傷を受けた」と大騒ぎしているが、えりぞ氏の名誉の為に言っておくとえりぞ氏自身借金先生に対してデマ誹謗中傷はしていない。えりぞ氏が行ったのは借金先生上記のような「法に束縛されずやる」「多少賠償金払う気があるなら」「個人情報インターネットで流す」といった発言に対して「ヤクザじみてる」と述べただけである。こうした「誠意を見せろ」「夜道に気を付けろ」「娘さんは可愛い年ごろですね」といった直接的に何をするかは言わず害悪を仄めかすことで威圧する論法ヤクザの言い方として有名であり、えりぞ氏はその意味借金先生言動を「ヤクザじみてる」と批判したのだろう。尚、当然この言い方は司法の場では通用しないのは第一東京弁護士会所属秋葉原KM法律事務所離婚借金問題が専門の新人弁護士金川晋也もご存じだろう。また借金先生に開示請求するぞと名指しされためんたね氏も、こうした借金先生の言い方を過去に「マフィア論法」と評しただけだ。第一東京弁護士会所属秋葉原KM法律事務所離婚借金問題が専門の新人弁護士金川晋也は、これが本当に名誉棄損や侮辱にあたると考えているのだろうか?

参考:借金先生が切り取ったり湾曲したりして騒いでるえりぞ氏の元ツイート

ttps://twitter.com/erizomu/status/1418954179289051137

またえりぞ氏はこうした借金先生言動

ttps://twitter.com/erizomu/status/1419953625841868804

私は借金玉氏が私の発言名誉毀損にあたるとするなら、キチンと弁護士を立て、裁判に応じますしかし氏は名誉毀損かどうかでなく「開示が通るか」「法に束縛されずやる」「多少賠償を払う気があるなら」と繰り返しています。氏に仕事を依頼する企業はこれを許容しているのでしょうか



問題視し、

ttps://twitter.com/erizomu/status/1420181552101609475

さて、僕は

東洋経済オンライン

週刊プレイボーイ

ダイヤモンド社

角川書店

上記出版社やその雑誌に対し、「私個人実名で」借金玉氏の「開示請求で身元が割れた時点で、個人情報インターネットに放つ」といった一連の発言について、出版社として許容しているのか、問い合わせを行いました。



と動き、その後に借金先生関係があると思わしき志学社にも問い合わせを行ったところ

ttps://twitter.com/moegi_hira/status/1420205830826201089

弊社は借金玉氏及び彼の会社とは現時点で一切の取引がございません。というわけで営業妨害やめてください。ツイート消して謝罪してね。



志学社の代表である平林緑萌自身からTwitterにて返信された。上記について問い合わせるのが営業妨害!?という疑問はさておき、問題はここからである志学社の代表である平林緑萌氏は何故か氏自身の言明によれば「一切の取引がございません」借金先生に対して、えりぞ氏がした志学社への問い合わせ内容を話したというのである

ttps://megalodon.jp/2021-0729-1006-38/ttps://twitter.com:443/syakkin_dama/status/1420214593423437825

えりぞ氏、かけてきた電話では相当なことを仰っているそうで、しか無関係人間をどんどん巻き込んでいきますね。流石にこれは…。

ttps://megalodon.jp/2021-0729-1007-37/ttps://twitter.com:443/syakkin_dama/status/1420217057048600584

えりぞ氏、電話口で「借金玉に脅迫された」とご主張のようですが、それは「事実である」という認識でよろしいのでしょうか。僕は「違う」と否定しましたが。

ttps://megalodon.jp/2021-0729-1008-36/ttps://twitter.com:443/syakkin_dama/status/1420373199477374981

そしてえりぞ (@erizomu)氏、全く関係のない会社営業妨害をかけ、私の友人知人に迷惑な連絡を送り放題に送り、挙句借金玉に脅迫された」と虚偽を述べた上、更にこの「早稲田を出てる障害者汎用性のない本」をRTですか。流石に、流石です。これはもう、流石にです。



因みに電話の内容に関してえりぞ氏は「私は一切「脅迫」などという単語を使っていません」と否定している。電話の内容に関して、どちらの言ってる事が正しいのかは現時点で不明であるが、いずれにしろ志学社が個人情報(問い合わせ人と問い合わせ内容)を流出させ、尚且つその個人情報ネットに発信されてしまったのは間違いない。借金玉氏が志学社と関係があると言うなら分かる。両者の言い分を聞いてどちらが正しいのか判断したいというのなら分かる。しか志学社の代表である平林緑萌氏はえりぞ氏の問い合わせを「借金玉は弊社とは無関係である」「問い合わせは営業妨害」と門前払いしておきながら、その無関係借金先生電話の内容を話したというのだ。志学社のコンプラどうなってるの?平林緑萌は公私の区別ついてるの?

こうして経緯を整理してみれば分かると思うが、借金先生の身に何が起こったか?というより本件は借金先生が主導して火種バラまいたものだ。誹謗中傷に対して正々堂々と立ち向かうのではなく、無駄に「開示請求して個人情報手に入れたらこんな悪さ出来ちゃなぁ」「こんな個人情報知っちゃったなぁ」と周囲を威圧したことが原因である。更に言えば借金先生自身が、こうしたムーブ所謂スラップである公言している。

ttps://megalodon.jp/2021-0728-1352-31/ttps://twitter.com:443/syakkin_dama/status/1420244025756446725

不法行為要件を満たさないとしても、これはおかしいだろ」も当然包括します。僕は問題提起をしているので。



要は法的措置をちらつかせて周囲を威圧し、自分に対する否定声を封殺したいというだけなのだ。また借金先生が主張してる「長年自分は不当な誹謗中傷と受けてきた」に関してだが、借金先生自身が長年に渡って不当な誹謗中傷を続けてることは、もう魚拓とか貼る必要ないぐらい周知の事実だ。というか、このブログだけでもrei氏、えりぞ氏、めんたね氏が不当な誹謗中傷受けてることが書かれてるしね。さて、こうした借金先生言動を「東洋経済オンライン」「週刊プレイボーイ」「ダイヤモンド社」「角川書店」は出版社として許容するのだろうか?

最後にえりぞ氏のツイートを貼っておく。借金先生にお困りの方は相談してみるのもいいのではないだろうか?

ttps://twitter.com/erizomu/status/1420318678340358144

借金玉さんが正々堂々「1,000万円用意した」とのことですが、僕がいま即座に・自由に動かせる預金は400万円しかありません。いったん私はこの中で対応します。今後のことですが、場合によっては他の人とまとめて一つの案件として弁護士に依頼するなどし、節約できたらと思います

2021-07-27

仮名)が妙に気になりだした

出汁はもちろん名前出しNGインタビュー記事かに需要も意義もあるのは疑問の余地はないだろう。

問題は、妙な仮名をわざわざつける意味があるのか?

今回取材を受け入れてくださった、大山川静蚊さん(仮名)……

みたいなの。Aさん、Bさんじゃだめなのだろうか。

苗字だけのパターンもある。外国人匿名取材してる記事だと、その国っぽい名前が付いてたりする。


日本名場合

本名と全く遠い、なんら関連性のない漢字文字数になっているのだろうか?

 かと言って、逆の山→海とか、青→赤とかにするわけにもいかず、脈絡がない感じのチョイスって案外難しいのでは?

・その時のノリでつけてるのか、ある程度ストックがあるのか

佐藤とか田中とかあんまり上位の苗字は見ない気がする。ひょっとして、苗字ランキングn位付近を使うみたいな隠しルールがあったりする?

取材した方にこの仮名でいきます確認取ってるのだろうか?

 最悪の場合、被取材者の近しい友人知人の名前と被ってくることになる

有名人と被らないようには注意はしてるだろうが、その調査方法は? 記者個人に任されてるのか?

苗字だけパターン、下の名前だけパターン、姓名パターン、どれを選ぶかは読み手のことも考えてというか記事の内容毎に変えてるんだろうけど、なんとなくなのか?

最近は、海外の方、日本在住の外国人さんの(仮名)も見ることがあり、その名前ってその国ではどんな位置づけなんだろうか?

とか考えることが増えた。

結局名前は出せないけど、リアリティを出すための仮名での記述なんだろうか?

2021-07-26

anond:20200603181732

米津玄師ってごはんごいたくさん食べそう。

玄関先に靴があったら異様に大きそう。ネコチャン🐈のプールになりそう。

ヒャダイン人知らない。なんかドラクエのぱーてぃに遊び人あたりでついた名まえっぽい。

2021-07-25

いつかのはなし

私が死んだら、友人知人に葬式に来てほしいと思っている。

何人かの人には、いつか死んだときにゃ葬式には来てくれよなって言ったこともある。

たぶんそこで初めてやっと、私にも友人知人がいたんだなと感じられる気がするからかもしれない。

から来てほしい。

私の葬式で、会ってなかった友人知人たちが久しぶりに集うきっかけになってほしい。

親しい人たちの同窓会の場になってほしい。

葬式で昔のことを思い出して語らったり懐かしんだり、私の葬式以降にまた集まって遊ぶようになってほしい。

しかった人たちが久しぶりに集う場を、私の葬式によって生み出すことで、私が生きてきたことに意味があったんだと感じたい。

から、友人知人たち。一日でも長く生きてくれ。

私は当分くたばる気がないから、まだまだ長く生きてくれ。

そしていつかくたばったときそしていつかくたばった時に、葬式に来てくれるのを楽しみに待ってるから

その時までよろしくたのむ。

2021-07-23

コロナ陽性だったわ

喉がイガイガするなーと思ってたら突然の40度近い高熱。

咳とかないか夏風邪かなと思って病院行った。

医者も「念の為PCRときます?」ぐらいのテンション検査受けたら陽性だった。

しかもずっと高熱出てるのでカテゴリー的には重症患者になって入院必要らしい。

入院するほど弱ってないし、仕事できないのは困るのでなんとかしてホテル療養にしてもらうが。

正直、陽性と聞いても「やっぱりな」としか思わなかった。検査後に咳が出始めたのでやっぱコロナじゃない?としか

自分含め、周りの友人知人はとっくに自粛なんて辞めて毎週末飲み歩いてる

営業する飲食店も増えてきたし、最近は「コロナあけたら~」なんてセリフも全く聞かなくなった。

健康20-30代にとってコロナなんて怖いものじゃない(少なくとも自分の周りでは)

マスクなんて申し訳程度のものしか思ってないし、オリンピックやるし、もう夏だし~とかそんなもん。

東京都心部の自分の周りにいる同年代できちんと自粛してる人なんてほとんどいない。

もう1年以上経ったし。

実際に陽性で、重症患者ですとか言われたけどインフルエンザとか扁桃炎の方がよほど辛い。

血中酸素濃度も98%あるから全然苦しくない。

これから味覚障害とか出てきたらまた別かもしれないけど。

いつまで自粛なんてやるんだろうなー。

ワクチン接種日もまだ未定のままコロナ感染しちゃったし。

早くワクチンみんなに打ってくれよな~。

五輪とかやってる場合じゃないし、こっちも楽しみにしてる人まだ1人しか見てないわ。

少しでも広い部屋で療養できますように!

消されたかな?

小林賢太郎氏の解任と、わたし責任

8,674

岸田 奈美

2021/07/22 15:29

※身近な読者さんに聞いてほしいだけなので、気が済んだらマガジンに入れて、そのあと消します。

21:26追記

過去ラーメンズを紹介する記事を読んでくださった読者さん、彼らのファンの方々に届いてほしいと書いた文章でしたが、わたし説明の至らなさ、思考の未熟さゆえに、どんどん違う捉え方が広がっており、傷つく人を無闇に増やしてしまっているやもしれないので、22時で非公開にします。すみません

ラーメンズが好きだ。

小林賢太郎氏が好きだ。

父を亡くし、友人を失くし、誰とも笑えない鬱屈とした子どもであったわたしに、笑いという光をくれたのが彼らのコントだった。絶妙にわかりづらく、複雑に絡みあう、壮大な世界観のもとに成り立つそのコントは、誰かと語りたくなる衝動をくれた。天才なんよ。これはわたしの圧なので、異論は認める

父が「お前の友人はこの箱の向こうにもおる」と残してくれたmacキーボードを叩き、ラーメンズの、小林賢太郎氏のコントについて語り合うときわたし孤独であったけれども、孤独でよかったと思えた。

孤独から出会えた笑いで、孤独からつながれた笑いだった。

その小林賢太氏郎が、東京オリンピックパラリンピックの開閉会式のショーディレクターに着任したときわたしの頭では「マジか小林賢太郎…」と「マジか小林賢太郎!」が同時に鳴り響いた。

こう、なんか、ものすんごく無責任オタクとして言うと、彼らのコントはもともと知る人ぞ知る、当時のお笑い界のメインストリームを堂々と外れて宣戦布告しながら飄々と笑い転げるという位置にあったと思うので、一抹の不安があった。しかしその不安をコーナー鋭角でまくってくるのは「オイオイ、これでみんな小林賢太郎の魅力に気づいちまうんじゃねえの〜?まっ、わたし芸能界引退前に舞台で見たけど〜?」というオタク特有の愚かなドヤりである

わたしはドヤりドヤりしながら、孫の七五三を見るような迷惑かつ気色悪い心地で、彼が手がける開閉会式を心から楽しみにしていた。ここまでの前置きがすでに早口気味なのはお察しの通りである。とても気色悪い。

その小林賢太郎氏が、今日をもって当該職を解任された。

実はさっきまでテレビ局での生配信に参加していたので、解任にいたる経緯も、解任された結果も、成り行きを見守ることなくひとまとめにして見知った。

情報の石つぶてに襲われ、小林賢太郎氏の謝罪文最後「先ほど、組織委員会から、ショーディレクター解任のご連絡をいただきました。ここまで、この式典に関わらせていただけたことに感謝いたします」まで読み終え、涙が出た。

京都に向かう新幹線でなければ嗚咽していた。頼む、車掌さん、止めてくれ。三河安城でこの新幹線を止めてくれ。しかのぞみ163号は止まってはくれないので、静かに泣きながらこれを書いている。

解任の理由1998年に彼が演じたコントのなかで、「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」というセリフがあり、肯定する文脈でなくとも、笑いの演出に使われていたからだ。これが人権を著しく侵害しているとされた。

その決定に、わたしは反対しない。

五輪憲章ではあらゆる差別への反対が定められているし、たくさんの人々の命を不当に奪った歴史を、今もなお魂を傷つけられている人々がいる事実侮辱されてはならない。

なのでこの文章は、オタクわたしわたしに宛てた、ただの戒めである

小林賢太郎氏は、責任をとるために、当職を解任された。

というかもう、ここ最近責任をとる人が多すぎてなにがなんだかわからん責任をとっては去り、責任をとっては潜り、責任をとってはキングギドラに車一台で爆走して挑む。

内田樹氏は自著「困難な成熟」で述べた。

責任を取るということは、不可能です。以上、おしまい

シンプルすぎる。

シンプルすぎて二度聞きしたくなるようなこの結論にいたるまで、内田樹氏は懇切丁寧に筆を尽くしておられるので、ここではわたしの雑なあらすじで勘弁していただきたいのだが、

要は

「ごめん、で済む話はない」

ということだ。

人が傷つけたり、人が大切にしているものを傷つけた場合、それを元どおりに復元するということは不可能だ。医学がド発達したとして「いったん殺したけど、きれいに元通りにしといたから、これでチャラね」と殺人犯から言われても、きっと誰も許せん。

体だけじゃない、心だって死ぬのだ。

あってはならないことだけど、学校いじめにあった子ども自殺して「一億円の損害賠償請求した」とニュースで報じられたとしてそれは「一億円払ったら許してやる」というわけではない。相手の一生を台無しにできるくらいの金額を求めて、「わたしはお前らを絶対に許さない」と告げている。

責任をとれという言葉は、「なぜなら、お前には責任をとることはできない」という意味を常に伴っている。めっちゃわかる。

ここまであらすじですけど、このド下手なアレで間違ってないですかね、内田先生。こんなところで引用してごめんなさい。

まさに今。

そんな世界で心穏やかに過ごすには、どうすればいいのか。

ここから内田樹先生がね、答えをくれるんですけど。その答えはどうも、ひとつだけらしくて。

「我々が考えることができるのは、ただひとつ。どうすれば責任をとることを求められるような立場に立たないか

勘違いしてはいけない。

これは、わたしは知らん、わたし関係ない、わたしには責任がない、と言い訳をしスタコラサッサするわけではない。そんな言い訳が平気でまかり通ったら、なんか起きたらすぐさま電気は消えるわ、水道は止まるわの大惨事だ。

それは「わたし責任を持つよ」と、言うことだ。

なんかまずいことが起こったとき責任他人なすりつける社会と、自分の手が届く範囲のことでみんなが「あ、じゃあ責任を持つよ」とさらっと言ってくれる社会なら、後者の方が「誰かが責任をとらんとあかんようなヤバイこと」が起こりにくい。

「誰の責任だ、誰の責任だ!」と犯人探しをしてる間に、最悪の状況に陥るのを、わたしたちは何度もこの目で見てきた。もちろん、例外はあれど。

責任は、誰もとれない。

誰もとれないから、人に押しつけられるものでもない。だが、最初から自分で引き受けることができる。引き受ける人が多いほど、人間幸福に、豊かに安全に生き延びることができる。

だって大切なのは、同じことを未来で二度起こさないためには、どうしたらいいかから

さて。

長くなったので、わたしオタク語りに戻ろう。

小林賢太郎氏が過去発言で解任されたのであれば、その責任は、気持ち悪いオタクわたしにもある。今をもってわたしが引き受ける。

ユダヤ人大量惨殺ごっこ」の発言がなされたコントは、わたしも見たことがある。記憶は定かではないが、中学生になったばかりの頃だったと思う。

映像に映っている観客と同じく、わたしは笑った。

ユダヤ人大量惨殺ごっこ」の意味を深く考えることなく「なんか真面目そうな教育番組MC役なのに、やばいこと言ってんのがシュールだな」というふわっとした文脈だけで笑った。未熟なわたしは、笑ってしまったのだ。

小林賢太郎氏がそれを「浅はかに人の気を惹こうとしていた」のであれば、わたしも「浅はかに彼らの笑いを受け取っていた」に過ぎない。

今では、その文脈で笑っていたことが、どれほど罪深く、どれほど愚かなことであったかわたしはわかる。

それは、中学生の後半で、ホロコーストについて学んだから中学生の授業の範囲なんて、教科書での字面だけなので、そこまで深く知ることはできない。本格的に背筋が凍るほどの恐怖がわきあがったのは高校生世界史の授業を受け、終戦のローレライを観て、アンネの日記を読み、作家になって編集者から勧められた「夜と霧」を読んでからである

道徳観は、自然に身につくものではない。

教えてくれる人がいて、咎めてくれる人がいて、対話をしてくれる人がいたからだ。

道徳観が歴史の積み重ねであるならば、わたしたちもまた、人生という歴史を積み重ねながら、ここに生きる人としてあるべき姿を学んでいく。大人になればなるほど、聡くなればなるほど、わたしたちは過去の行いを恥じ、己を正すことができる。

小林賢太郎氏は、彼の頭のなかをのぞける自著「僕がコント演劇のために考えていること」で語る内容をみれば一目瞭然だが、ストイック創作であるストイックすぎて芸能界引退したようなもんだとわたしは思う。

年々、彼の思考作品は、目を見張るようなアップデートを重ねていた。

世間でまだ誰も言葉にしていない「時代感」を読み、言葉パントマイムに落として、笑いに変えるやんごとなき天才であった。近年は特に、誰も傷つけない笑いなんてあるわけがないことを悟りながら、その状態になるべくして茨の道を歩みながら近こうと試行錯誤する、戯曲に取り憑かれた化け物であった。その背中に憧れて、わたしもここへ来た。

そういう男であるからこそ、こんな時が迫るまでに、ファンわたしたちは話さなければならなかった。

ユダヤ人大量惨殺ごっこで笑うのは、アカンかったね」と。

彼に直接言うのは叶わなくても、ラーメンズについて語るたびに、記事を書くたびに、言葉にするチャンスはどこにでもあった。あれはアカンのやと。

今もさ、たぶん「いやあれってそこまでダメかな?」って思うファンもいると思う。わかるよ。わかる。でもね、ダメなんだ。気づかないといけなかったんだよ、わたしたちは。彼をいつか、日本の大舞台に送り出すつもりでいるならば。

20数年前のコントをいまさら、なのではない。20数年間、いままで、なにも言わなかっただけなのだ

そして小林賢太郎氏は、そういう社会の奥底に埋もれてしまいそうなわたしたちの言葉を、目ざとく掘り出し、両手ですくいとって、なんらかの形で応えてくれる、いい戯曲のためなら見栄も地位も何を犠牲にしても厭わない、そういう男だと、わたしたちは、知っていた。知っていたのに何もしなかった。

しろ批判されているコントできるかな」は、DVDには収録されていない。ラーメンズがあれだけ太っ腹に公開している動画の中にもない。VHS以降、公式の手で誰にも見せないという選択をとっていた小林賢太郎氏は、わたしたちより先に、気づいていたかもしれない。

時代が未熟すぎるがゆえに許してしまった、愚かな笑いというのは、どこにでもある。

からこそ、今さらなんてなかった。遅すぎることなんてなかった。彼が責任をとれと言われる前に、彼に存分笑わせてもらったわたしたちが、責任をとらなければならなかった。

そうしていれば、明日には、小林賢太郎氏の舞台を、わたしたちは、テレビで、観れたはずなのに。なんでいまわたしは、テレビの前じゃなくて、新幹線で、どこの誰ともわからんサラリーマンが首を65度に曲げなから爆睡している前方座席を見ながら、泣いてるんだ。もうすぐ新幹線はわが京都に着く。

つらい。こんな形で、小林賢太郎氏の名が知れ渡っていくのがつらい。彼のコントを、世界を、観たことがない人も彼のことをボコボコに言うのがつらい。おもしろおかし揶揄されるのがつらい。

しかし、それもまた、気色悪いわたし責任なのである。彼らより、彼女らより、先に、先に語りたかった。

推しは、推せるときに、推せ。

誰が作ったかわからんが、至言だと思う。推せるときに推せ。いいから推せ。ともかく推せ。しかし、時代は変わった。怒りや悲しみが容易に世界へ届くようになった。誰かの笑いは、誰かの悲しみになる。

行き過ぎた悲しみに気づいたときわたしたちは、立ち止まり、振り返り、それを受け止めなければならない。そして語る。

「その世界を作ってしまったのには、わたしたちにも、責任がある」

推し世界に魅了され、推し世界に生きてきたわたしは、いまここで誓う。気色悪いと言われようとも、恩着せがましいと言われようとも、その世界を終わらせないために、人知れず責任をとっていく。

それもまた、推すという行為なのだと、信じて。

そして、なにかが燃えて、燃えて、燃えて、燃え過ぎた焼け野原で、責任をとりながら両足をつける。そこからなにかを芽吹かせていく。作家という仕事に就いたなら、その責任も伴う。

最後に、蛇足だけど、これだけは。

10年、企業広報を務めた立場からえらそうに語ると、重役や有名になればなるほど、謝罪文はすぐに出せない。すぐに書くことはできる。でも関わる人が多すぎて、ありとあらゆるチェックが必要になる。「チェックするための事前チェックに回す前の念のためチェック」みたいなバグった概念普通に存在する。

完ぺきを畏れる社会で、人は、簡単に謝れない。

しか小林賢太郎氏は、解任の連絡があって、すぐにコメント自分で出した。前述のとおり、彼と彼の発言かば余地はないが、なかなかできることではない。

ついていくぞ、どこまでも。

(当初ここに、オリンピックパラリンピックについての表記がありましたが、本文の趣旨には関係ないのと、開催についてはいろんな思いで受け止められている方がいるので、削除しました)

2021-07-21

anond:20210721151506

今日死んでも100年後死んでもあの世は変わらんよ

ワクチンと一緒で友人知家族が死んであの世の様子見てからの方がいいよ

2021-07-18

anond:20210718124241

え、いいこと言ったつもり?

「人を裁くのは他人であるのが大前提」なのにあほなの?

君の言う通り友人知人だと擁護ちゃうから警察検察裁判も全部他人がやる。

これらは知人が仕事対象になったら捜査から外されるから

anond:20210718123937

人知人にそれ言えたら大したもんよ

2021-07-17

はてはてな

はてはてはてはて

はてはてな

───読み人知らず

2021-07-16

きょうで五十一歳のワイ、貧乏神なのを自覚する

まれからこっち、ワイの関わってきた人、物、事、家族、親戚、クラスメイト、先輩後輩、職場、友人知人。

…みんなみんな、酷い目に遇うし衰退していくんや。

仲良くしてたししたい人々も居ったし、もう二度と逢いたくない人や場所時代もあった。

なんでかな、ワイの通ったあとには、不幸しか残らんらしい。

…てかそもそもなー、ワイは他人に会うのが苦手、いやもうすっかり嫌やねんなぁ。

なんか世間適当に接して、ほんで実は眺めてるだけの人生やったし、意味はなかったんやなぁ。

2021-07-12

アニメとは特に関係のないシティポップの再評価

なんかブコメがいっぱいついてるけど、この記述はいただけませんね…。これはほとんど偽史歴史改竄の類ですよ。

それはすべてアニメゲームライトノベルを筆頭とするおたくカルチャーに付随して流行したものだ。

40歳以上のおたくカルチャーを毛嫌いしている人が多い世代には理解しがたいかもしれないがそれ以外に原因はない。

Vaporwaveもシティポップも全部海外オタクカルチャーに興味があったり、オタクの人が広めたものだ。

https://anond.hatelabo.jp/20210710124113

そもそもvaporwave〜future funkで参照される日本シティポップ楽曲代表(たとえば『Plastic Love』、山下達郎『甘く危険香り』『Sparkle』、杏里『Remember Summer Days』など)とオタク文化との接点の薄さを考えれば、元増田の主張の信憑性が乏しいことはすぐわかると思います

海外でのシティポップ評価前史

まずシティポップの再評価についてです。日本シティポップは、海外の一部AOR好事家には20世紀から注目されていました。特に山下達郎吉田美奈子竹内まりや角松敏生-杏里ほかは、リズムセクションの黒さがエアプレイ向きな上に、和物ならではの楽曲の構築感(複雑な進行)に独特のエキゾチシズムがあって、2000年からJ boogieとかJ rare grooveって名前がついて評価されるようになりました。これはvaporwave云々の流れとは別の話です。日本GSグループサウンズ)にも昔からマニアがいて、海外では結構高値取引されてるけど、それと同じような現象ですね。

vaporwaveのアングラ

次に、そもそもvaporwaveとは何なのか、ですが。以下の記事にあるこの要約は、端的だけどとてもわかりやすいと思います

存在しない夢想バブル時代1980年代ネタをとにかくサンプリングカットアップや回転数を落として、ありえない1980年代表現した音楽ジャンル

https://note.com/myumafkd/n/nab12db7e40ca

この「存在しない夢想の」とか「ありえない1980年代」とかって感覚は、vaporwave系をリアルタイムで聞いてた人以外にはなかなか伝わらなくていつもモヤモヤするんだけど、vaporwaveは決して「埋もれてしまった良質な音楽を取り上げて、もう一度光を当てました」みたいな単純な再評価ムーブメントではなかったんです。あえて言うなら、皮肉っぽさ、諧謔性メタ性、対象を突き放しながら愛でる感じ、などがvaporwaveの肝でした。たとえば東芝EMIEmotionビデオのオープニングロゴもSparkleの輝かしいイントロ2010年代には壮大な冗談しかならないけど、でもこの時代錯誤感がいいんだよね…というような複雑な味わい方ですね。

そういう捻りを加えたミックスが、reddit4chanマニアックな裏路地で、人知れず生産され、密かに鑑賞されていたわけです。この頃は、そもそも著作権関係が真っ黒だったので、vaporwaveは決してメジャーシーンには出られないだろうと思っているリスナーが多かったと思います。そういうアングラムーブメントが、一部がFuture Funkに移行したり、アーティストとしてオリジナル曲を出すようになったりして毒気が抜けていくのと歩調を揃えて、徐々にオーバーグラウンド文化になっていったんですけど。

vaporwaveでのシティポップの取り上げ方

で、vaporwaveとその後継たるfuture funkでシティポップがよく取り上げられてたのは、シティポップがvaporwaveのレトロフューチャー的な世界観リンクしてたからなんですね。だから、単にサンプリングするだけじゃなくて、何らかの形で批評的・破壊的な引用をされていた。具体的には、リヴァーブをガンガンかけたり、コンプをかけたり、ノイズを入れたり、回転数を引き延ばしたりして、その喪失性や虚飾性が際立つような音響処理がされてました。エキゾチシズムと回顧と皮肉こそがvaporwaveの真骨頂で、そこにぴたりとはまるパーツがシティポップだったんです。だからvaporwave=シティポップ再評価みたいな雑な認識を読むと「結局日本スゴイかよ」と言いたくなる人の気持ちもわかります

vaporwaveとアニメの結び付き

vaporwaveの前身といえるseapunkでも、2011年頃の初期vaporwaveでも、アニメネタは主流じゃなかったです。一番使われてたのはメガデモwindows95amigaラインアート、粗いポリゴン椰子の木、TVCM、RGB情報が潰れたVHSビデオ動画などのコラージュ、(多くの制作者・消費者には読めないエキゾチック言語としての)日本語表記などなどじゃないかな。つまりオタク文化を参照してはいたけど、その多くは、アニメよりもコンピュータゲームなどの方に寄ってました。こういう経緯は、木澤佐登志氏が何度かvaporwave小史を書いていて、vaporwaveを理解するには一番バランスが取れた内容だと思っています

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59738

で、vaporwave界隈の映像アニメから引用が増えていくのは、後期〜Future Funk以降の話なので、シティポップへの参照の方がアニメの参照よりも先行しています。その点で、以下の増田自分認識は一致してます

おそらくvaporwaveから派生したfuture funkに対する影響のことを言ってるんだろうけど

future funkにおいてもジャンルから有名になったアーティスト(Night TempoミカヅキBIGWAVEとかのピンクネオン東京周辺etc.)

が多用しただけであって元々ジャンルとしてはシティーポップと呼ばれる音楽のほうがアニメよりも先にモチーフとして使われている。

元々vaporwaveは曲名等で変な日本語や全角アルファベットを使っていて

これはvaporwaveのニューエイジ茶化す側面のためにねじれた東洋感のモチーフに使っただけだと思う。

https://anond.hatelabo.jp/20210711135919

シティポップと街の関係

日本シティポップなんてあるのかね?

しいて言えば「東京は夜の7時」か。

あれはシティだわな。でも、日本人はあまりティであることを売り物に音楽活動はやってないと思うよ。

有楽町で逢いましょう」とかは、ポップじゃない。

https://anond.hatelabo.jp/20210710192009

70年代から80年代初頭のシティポップ(ス)って言われてた音楽「街」のことばっかり歌ってました。山下達郎吉田美奈子荒井/松任谷由実竹内まりや大貫妙子EPOも、みんな消費文化の極みともいえる当時の東京で生きる事への自負と強迫観念と焦燥と疎外感があったんでしょう。彼らの歌には、具体的地名を伴わない、抽象化された「街」この街」「都会」「ダウンタウン」などの言葉歌詞の中にバカスカ出てきますが、これはほぼ全部東京ことなんです(海外行って本格ファンク/RandB路線に転じた後の吉田美奈子は除きます)。シティポップ(ス)の名前伊達じゃないですね。

オレたちひょうきん族』がオープニング・エンディングシティポップを盛んに使っていたのも、今にして思えば、テレビ業界芸能界の内輪の目線を悪ふざけしながら曝露するという切り口が、虚飾の栄華に満ちた消費都市としての「東京」象徴しているようで、まさにvaporwave的な世界観体現する繋がりだなと思います

病気」と診断を受ける意味

かつて自分ネットで絡まれた奴の一人にやべーやつがいた。

そいつは一つの国語表現固執するあまり不特定多数に自説を吹聴して回り、

あまつさえ特定国語学者のアンチまで務めるという壊れっぷりであった。

自分国語表現の正しさには素人なりに厳しいつもりであるが、

流石に目に余るのでそいつプロフィールを見たところ「発達障害」という文字列が入っていた、

ああそういうことね、と冷たくレスを返してみると、案の定相手がいきり立ったものである

ひたすら自説の正当性大義名分を主張しヒートアップしていく一方、

発達障害のものには一言も触れることはなかった。


私はそれを見て、かわいそうなやつだなと思った一方、

「なんのためにこいつは発達障害自称しているのか」と思ったものである

自分素人なので詳しいことは知らんが、ネットちょっと調べた限りでは、

発達障害はどうでもいいことに固執する傾向がある」というような話があった。

(下手に曲解するといけないので、そういうふわふわした理解にとどめておく。)

その性質自覚しているなら、そうなっていると指摘された時に、

「すまんな」「ええんやで」とならなくては意味がないのではないか

逆に言えば、それができないのが発達障害なのかもしれんが。

いずれにしろ、彼が発達障害と診断された意味微塵も感じられなかったのである




そういえばもう一つ、「病気の診断」に関して思うことがあった。

一昔前に「新型うつ」という概念流行たころ、それを否定する風潮が強かった。

お茶の間にとって「うつ」とは「常に気分が落ち込んでいるべきもの」という偏見があった時代で、

(あるいは今もそう変わってはいないのかもしれないが、少なくともメディアの扱い方は違う気もする)

「やるべきことに直面すると落ち込む、解放されると嘘みたいに明るくなる」という新型うつを見て、

「甘え」や「仮病」の二文字が頭に浮かぶ人は少なくなかったであろうと思われる。

その様子を見ていた自分は当時まだ子供であったが、子供なりにその風潮を憂えたものであった。


いざ自身大人になってみると、うつ病の人が周囲にちらほら出てくるようになる。

私の交友関係はだいぶ狭いほうだが、それでもあんな人やこんな人がカウンセリングを受けている。

仕事で心を破壊された気の毒な人もいれば、体育大学に通いながら精神を病んでしまった人もいる。

健全精神健全な肉体に宿れかし。そう思わずはいられない。

無知の知ではないが、うつ病とはわからものだなという事だけがわかってくる一方、

彼らが日々己の心身と闘っている様子が切実に見えてくるものである


しかしながら、うつ病患者からといって100%同情されるわけでもない。

知人のとあるうつ病患者は、日々の体調管理すら苦労している様子が見て取れる一方、

もともと愚痴が多いうえに「かわいそうな自分」に酔うタイプであった。

それを日々聞かされる周囲の人はだんだんと耐えられなくなり、距離を置くようになってしまっていた。

うつ病であることそのものではなく、自分に酔うことを苦々しく見られていたのである


私の身内にも距離を置かれているうつ病患者がいる。

元々ヒステリックな部分があり、機嫌がコロコロ変わりやすく、

子供のころから見ていた自分は「こいつ病気なんじゃね」と思っていた。

私が大人になるにつれて傾向は見えてくるようになり、

どうやら忙しいだとか面倒なことが控えると機嫌が悪くなり、

思うようにならないことがあると、それをしばらく引きずる形でまた機嫌が悪くなるようであった。

それにもかかわらず自身勝手なこだわりでタスクを増やし、

頼れるものに頼ろうとしても結局文句ばかりで一向に楽になろうとせず、

そうして忙しくなるとまた機嫌が悪くなるというマッチポンプばかりをしていた。

ネットを通して「そういう人もいる」という知見を得て、そういう人なら仕方ないなと思っていた矢先、

本人からうつ病であると打ち明けられたのである診断書を見せられるでもなく。

そのとき私が抱いた感情は「かわいそう」とか「お気の毒」ではなく、

申し訳ないが「それ見たことか」「何を今更」「で?これからどうする?」という気持ちであり、

正直言って同情は一切わかなかったものであった。

なぜなら自らを病に落とし込んでいるようにしか見えなかったかである




近年は様々な病気、あるいはナントカ症というものが多数生まれてきている。

先日某ラジオでも取り上げられていたが、とくに恐怖症になると枚挙にいとまがない。

お酒恐怖症でーす!なぜなら目の前にあったら飲んじゃうから!違うかw」という投稿には個人的にムカついたが、

ほとんどは「落ち着きをなくす」「立っていられなくなる」のような割と切実な訴えであったし、

自身の友人知からもそういう話は聞いたり、あるいは付き合ってきたものである

そうした新たな病気やらなにやらというものの周知が試みられているのもまた現代であるが、

じゃあすべて見て聞いて覚えられるかと言えば、そんな余裕は多忙な一個人にはないし、

公の場で突然異変を起こした人を「あ!これネットで見たやつだ!」と100%適切に助けられる自信もない。

ましてや「病気認定差別的ものになりうることは過去現代も同じであり、

無垢マイノリティの方々が切実な訴えをなさっては、様々な人間が入り乱れて大騒ぎになるところである


では「病気」という診断は何のために存在するのか?百害あって一利なしなのか?

そもそも病気」は「病気」のレベルでなければいけないのか?

私はそうは思わない、というか、「病気」だけが特別である必要がないと思う。




西川貴教という歌手がいる。

彼はかなり前に、声帯ポリープ発見されたことがあったらしい。

声を出すお仕事の人にとっては特に厄介な病気であり、切除をしてしばらくお休みをいただくのが常である

しかし彼は「付き合っていけば味になる」と割り切り、手術をしなかったというのである

そのせいもあってか度々喉の不調で活動休止ということもあったようなのだが、

2011年の時には「プロとして情けない」とツイートした履歴もある。

そういう心持ちでいらっしゃることがまさしくプロである


身体と心の不調では話が違う、と言われるかもしれない。

しかしながら私が言いたいのは、彼はある種の病を「個性」として受け入れたということである

先ほど述べたように現代病気の種類が増えていく一方で、

病気とまでは言われないものや、単なる性格に過ぎないものも細分化されつつあるように感じる。

あなたはこだわり屋さんです」とか「あなたネガティブです」とか言われても、

それは正式病気や障碍ではないし、なんらかの公的な援助が受けられるわけでもない。

あるいは病気や障碍とまでは言い切れない「グレーゾーン」なるもの存在するようである

そういう「個性」が明らかになったときに、自分はどうするのか?

自分がその個性とどう「付き合ってい」くか考えていくべきなのではないか


もちろん病気や障碍には「どうにもならない」「仕方がない」部分はあるし、それに伴う人並み以上の苦労もある。

では病気や障碍であるからといって何もかも許されるのか?

自身身体コントロールできない病なら、どんなに偉そうにして厚かまし要求をしてもいいのか?

自身精神コントロールできない病なら、コントロールを諦めて好き勝手罵詈雑言を吐いてもいいのか?

一般人にとっては、大義名分があるから批判することは難しい。でも人として嫌な思いはする。

そうして直言を受けることなく、一部の優しい人に甘やかされ続け、他の人からは疎まれ

傍若無人にしてある種の孤独モンスター、言い換えれば「裸の王様」が生まれる。

とくにマイノリティにおける過激派は、どいつもこいつもこうなってはいいか




実は私も一度だけ、カウンセリングをすすめられたことがある。

相手は肉親でも何でもない、大学一助教授であった。

大学の授業に通えていない現状を憂えてのことであったと思われる。

当時の自分は「怠けているだけなのに病院に行かせてくださいだなんて…」と、

周囲に言い訳がつかないからと助言を封殺したのであるが、

今思うと「たとえ病気でなくても」医者にかかったほうがよかったのではないかと思っている。

自分が怠けてしまう原因を明らかにできたかもしれないから。


結局二度と機会は訪れなかった私であるが、

大学時代におけるリアルネット交流を通じて多くのことを学び、

時には大きなトラブルを起こして教訓を肝に銘じ、

また時には友人からの諫言も受けつつ自分自分なりに成長させることができた。

かつては絵に描いたような「メンヘラ」だった私も、

今では精神疾患を冷静に分析し、自身客観的に見られるようになり始めた、と思う。

そうか?と思われるかもしれないが、少なくとも昔よりはマシである

なぜなら今思い返すと「昔の自分」が恥ずかしくて仕方ないかである

未だに昔の自分に同情する部分もないわけではないが、

一方で人の振り見て我が振り直すことも多くなった。

それだけ人の、自身の「醜さ」というものをより理解できるようになったのである

自身の気分の落ち込みも「これは見苦しいな」「こうすればおさまる」と自己分析し、

専門家によらないセルフコントロール自分なりに築き上げてきた。

そんな自分から見ると、コントロールのもの放棄している人が理解できないのである




現代科学西洋医学時代であり、「病気を治す」ことに邁進しているものと思う。

しかし一方で、「付き合っていく病気」というものは決して無くなるものではない。

今のコロナ禍においてもワクチン接種が進む一方で感染は防げない!と言われたり、

変異株に対する懸念が未だワイドショーをにぎわせている。

一方で人類は今まで毎年インフルエンザと付き合ってきており、

新たな生活習慣においては鳴りを潜めたことで、日々の感染対策重要性が浮き彫りになった。

ワクチン打てばかからない!でもなければ、タミフル飲めば大丈夫!でもなく、

自分ができることをして病気と付き合っていくことこそが大事であると改めて示されたものと思っている。


以前ネット上で「自分の機嫌は自分で取る」という言い回し話題になった時には、

元ネタを離れた曲解もあってか賛否両論を呼んだようであるが、

それができるかどうかはさておき、やろうと思わなければ始まらないのである

不機嫌な自分正当化するだけでは、だだをこねる子供と変わらないのである

自分の心をなだめてあげること。

心の不調の原因に向きあうこと。

それをやらずして「病気」に甘んじていては何の意味もないのである


人はたいてい、何かしらのハンデを抱えている。

それでも人は、一般人に混じって生きていかなくてはならない。

病気や障碍を隠して生きるよりかは、カミングアウトできる世の中であってほしいが、

カミングアウト免罪符と誤解している人間は、その秩序を乱してしまう。


自分に対しては、病気個性を認め、なるべくコントロールしてみよう。

他人に対しては、病気個性を認め、なるべく受け入れてあげよう。

それらが並立して初めて、やさしい世界体現できるのではないか




そんな自分の願望を尻目に、今日ネットの「病人」たちはレスバトルにいそしむのであった。

2021-07-05

都議選投票率40%くらいだったね。自分家族、友人知人、職場はほぼ投票行ってるから体感は90%なんだけど(投票行った?って聞き出したりはしてない。雨で面倒だったねとか期限前投票しといて良かったとかそういう会話があったので)。

自分立ち位置から動かずにぐるっと見回したくらいの「当たり前」「みんな」「普通」なんて、なんの意味もないんだよな。

2021-06-30

anond:20210630173423

それは上から目線というより、ビジネス目線 じゃないかね。

ビジネス目的ツイッターやってりゃ、そりゃ、ツイートビジネスライクになりがちだし、

それは友人知人のツイートとは一線を画すものにならざるを得ない。

2021-06-28

宇多田ヒカル同性愛ぽい歌一覧

宇多田ヒカルクィアであるというのは、コアなファンクィアファンの間ではかなり昔から共通認識でありました。

もちろん、宇多田ヒカル本人がしばしば口にするように、宇多田ヒカル歌詞というのは大衆の誰にでも伝わることについて大変真摯に考え抜かれており、決してクィア的な読みが介在しなくても成立するものほとんどです。ですから当事者人間がひっかかりを覚えて、ある種の確信疑念を抱いて聴き込むというような経験がなければ、宇多田ヒカルクィア的な側面について、その通底する感触すら意識することがなくても不思議ではありません。そして、そういう構成である作品からこそ、当事者にとっては強く胸を打ち、強く励まされるものでもあるわけです。『ブロークバック・マウンテン』や『ムーンライト』がちょうど、ゲイに限らない、誰にでも共感できる恋愛感情のものを描いているといった具合で高く評されている、というのと似ています

一方で、宇多田ヒカル自身内面を初めて強く出して制作したと語るアルバムULTRA BLUE』や、活動再開後に発表されている楽曲の数々において、勅裁クィア的な表現歌詞である楽曲や、クィア的な読みの方が自然と思える楽曲も増えつつあるように感じられます。以下では、そうした楽曲を見ていきましょう。

([ ]は収録アルバム、( )はシングルも含めた初出年です)

Making Love [ULTRA BLUE](2006)

引っ越していく親友についての愛情を歌った歌です。愛情対象として「友」が選択されているという状況は宇多田ヒカルの歌ではよくみられます

「新しい部屋で君はもう Making Love」「ヤサシイレトケイザイガク」「ワタシガハジメテホレタオンナ」といった表現から親友である女友達彼氏同棲を始めることについての喪失感といった情景が浮かんできます

Passion [ULTRA BLUE](2005)

「昔からの決まり事を/たまに疑いたくなるよ」

わたしたちに出来なかったことを/とても懐かしく思うよ」

宇多田ヒカルの歌には「規範への疑念」「規範からの逸脱」を指向しているととれるような表現がしばしば現れます。たとえば、「不倫の恋」を想起させるような楽曲がちょくちょくあります(『誰かの願いが叶うころ』『One Night Magic』『二時間だけのバカンス』『誰にもいわない』)。『Passion』では、「昔からの決まり事」をどのように捉えるかというところに余白があるように感じられます。「ずっと前に好きだった人/冬に子供が生まれるそうだ」とある「好きだった人」は異性・同性どちらにも読むことができそうです。「わたしたちに出来なかったこと」という言葉同性愛経験者には強い響きがあります(もちろん、失恋経験のある人にとっては、性指向に関わらず共感するところがあるでしょう)。

ぼくはくま [HEART STATION](2006)

宇多田ヒカルオリジナルキャラクターであるくまちゃん(チャン・くま)がゲイであるというのは、以前から公式ブログで発表されていました。それを念頭におくと、ゲイ男性がほんのり抱える困難がモチーフになっているように聞こえてきます

「けんかはやだよ くま くま くま」

「冬は眠いよ くま くま くま」

ぼくはくま 九九 くま/ママ くま くま」

どうでしょうか?

Prisoner of Love [HEART STATION](2008)

ドラマラスト・フレンズ』の主題歌として、友達にたいする愛情や、性別を超えた愛憎のようなもの歌詞にしてほしいという依頼のもとで制作された歌詞です。それに応えるように、確定的にクィアな側面から見ることができるとはいえない構成が、ことさら意識されていると感じられる楽曲です。しかし、裏を返すと、異性愛的でないという感覚がどれくらい読み取れるかというところに解釈の豊かさの入り口がありそうです。

人知れず辛い道を選ぶ/私を応援してくれる/あなただけを友と呼ぶ」であるとか、「残酷現実が二人を引き裂けば」といったバースどうでしょうか? 異性愛的に読む、同性愛的に読む、どちらの方が、どれくらい可能でしょうか。そもそもそれぞれの読み方に違いはあるのでしょうか? 異性愛視点同性愛視点というのは、線引きが必要なのでしょうか?

時間だけのバカンス [Fantôm] (2016)

宇多田ヒカル椎名林檎デュエットであり、MVの印象も強いため、百合ソングとしての印象が初出から強く一般的に浸透していたと思います。また、冒頭の「クローゼット」というモチーフが、クィア界隈で「性指向オープンにしていない状況」を表すのに用いられる言葉でもあったため、その点でも話題となっていました。

もちろん歌詞単体でみれば、家庭をもつ男女の不倫のような趣もあります椎名林檎パートでは一人称が「僕」となっているのも印象的です。

この歌詞バカンスに繰り出す二人組を、どのようなペアである想像するでしょうか?

個人的には、かつて親友で、いまは家庭をもつ主婦同士が、時間を縫って…という情景が浮かびます

一方で、「ほら車飛ばして 一度きりの人生ですもの」「今日は授業サボって 二人きりで公園歩こう」といった並置からは、特定的な1組のカップルの情景ではないという余地をあえて作り出そうとしているのも感じ取れます

ともだち [Fantôm] (2016)

宇多田ヒカル本人が「同性愛者の心情を歌っている曲だと気付いた」と語った楽曲です。

「君に触れるあいつ見てる/報われない想いばかりが募る夜更は/どうしたらいい?」

「気付かないフリとか/中途半端な優しさに 泣きたい」

など、全体を通して当事者的な感覚が非常につよい言葉構成されている歌詞だと感じられます

この楽曲最初に発表されたのはNHKSONGSで、楽曲の直前に宇多田ヒカル上記発言が挿入されたのですが、宇多田ヒカルがこの意図を隠し続けていたとしたらどのように受け取られていたのだろうというのは気になるポイントです。

Time (2020)

「カレシにも家族にも言えない/いろんなこと/あなたが聞いてくれたから/どんな孤独にも運命にも耐えられた」

「大好きな人にフラれて泣くあなたを/慰められる only one である幸せよ/だけど/抱きしめて言いたかった、好きだと」

この楽曲も「友」が相手の曲ですが、その友に対する気持ちは「恋愛なんかの枠に収まる二人じゃない」と表現しています。この楽曲もまた、女性の友人同士の関係性についての情景が浮かぶのが自然であるような歌詞だと感じられるでしょう。異性愛的な恋愛結婚よりもつよい愛情というのは『二時間だけのバカンス』と似ているところがあります

先に、宇多田ヒカル大衆の誰にでも伝わることを真摯に考えていると述べましたが、これは裏を返すと、クィア的な読みをする必要がないということでもありますしかしながら、宇多田ヒカル歌詞全般的クィアである当事者にとって感じることができるのは、ほとんどの歌詞において、巧妙に「異性同士」の歌であるしか読めない状況を避けるような意識がこめられた言葉遣いがなされているからです。ポップス歌詞における「あなたと私」という主題問題や、女性シンガー歌詞でつかう「僕」という一人称問題など、ポップス歌詞においてジェンダーを与えた解釈をするとき問題とすべきことは多々ありますが、それらは一度おいておきますと、宇多田ヒカル歌詞は、とくに二人称において、特定の性に限定できるような状況が回避されているものが多いと感じられるわけです。こうしたもの通底している作家楽曲は、当事者にとっては、異性愛的な恋愛を歌っているポップスとはやはりどこか感触が異なって聞こえるものです。

よく、「エヴァンゲリオンは鏡である」というようなことが言われますエヴァンゲリオンについての解釈は、みた人自身性質や考えがそのまま反映されてでてきたものしかない、ということです。それは、製作者がつねに大衆に伝わるようにと心を砕く姿勢によってできあがった鏡なのだということが想像できます宇多田ヒカルの歌についても同じことが言えるのでしょう。異性愛ベースがある人には異性愛的な歌に、同性愛的なベースがある人には同性愛的な歌に聞こえるというのは、「誰にでも伝わる」ということを目指した結果に他ならないと思います庵野秀明宇多田ヒカル作家性が奇跡的に似通っているというのは、そういった点にも感じることができます

このことからさらに思うのは、宇多田ヒカルクィアを結びつけるような意見に対して人々がどのような反応を示すかというのをみると、その人が「『クィア』というものをどう捉えているのか」がよくわかるのではないか、ということです。

どうでしょうか? いろんな人の反応をみてみてください。異性愛者の人たちの反応も、クィアの人たちの反応も。どうしてその人は、そのように反応したのでしょうか?

2021-06-27

同級生何人死んでるのかな

1人知ってる。

成人式で知った。

名前聞けばわかるのが300人ちょっと

まだまだ生きてるよね

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