はてなキーワード: 声帯ポリープとは
そいつは一つの国語表現に固執するあまり、不特定多数に自説を吹聴して回り、
あまつさえ特定の国語学者のアンチまで務めるという壊れっぷりであった。
流石に目に余るのでそいつのプロフィールを見たところ「発達障害」という文字列が入っていた、
ああそういうことね、と冷たくレスを返してみると、案の定相手がいきり立ったものである。
ひたすら自説の正当性と大義名分を主張しヒートアップしていく一方、
私はそれを見て、かわいそうなやつだなと思った一方、
「なんのためにこいつは発達障害を自称しているのか」と思ったものである。
自分も素人なので詳しいことは知らんが、ネットでちょっと調べた限りでは、
「発達障害はどうでもいいことに固執する傾向がある」というような話があった。
(下手に曲解するといけないので、そういうふわふわした理解にとどめておく。)
その性質を自覚しているなら、そうなっていると指摘された時に、
「すまんな」「ええんやで」とならなくては意味がないのではないか。
逆に言えば、それができないのが発達障害なのかもしれんが。
いずれにしろ、彼が発達障害と診断された意味が微塵も感じられなかったのである。
そういえばもう一つ、「病気の診断」に関して思うことがあった。
一昔前に「新型うつ」という概念が流行ったころ、それを否定する風潮が強かった。
お茶の間にとって「うつ」とは「常に気分が落ち込んでいるべきもの」という偏見があった時代で、
(あるいは今もそう変わってはいないのかもしれないが、少なくともメディアの扱い方は違う気もする)
「やるべきことに直面すると落ち込む、解放されると嘘みたいに明るくなる」という新型うつを見て、
「甘え」や「仮病」の二文字が頭に浮かぶ人は少なくなかったであろうと思われる。
その様子を見ていた自分は当時まだ子供であったが、子供なりにその風潮を憂えたものであった。
いざ自身が大人になってみると、うつ病の人が周囲にちらほら出てくるようになる。
私の交友関係はだいぶ狭いほうだが、それでもあんな人やこんな人がカウンセリングを受けている。
仕事で心を破壊された気の毒な人もいれば、体育大学に通いながら精神を病んでしまった人もいる。
健全な精神は健全な肉体に宿れかし。そう思わずにはいられない。
無知の知ではないが、うつ病とはわからぬものだなという事だけがわかってくる一方、
彼らが日々己の心身と闘っている様子が切実に見えてくるものである。
しかしながら、うつ病患者だからといって100%同情されるわけでもない。
知人のとあるうつ病患者は、日々の体調管理すら苦労している様子が見て取れる一方、
もともと愚痴が多いうえに「かわいそうな自分」に酔うタイプであった。
それを日々聞かされる周囲の人はだんだんと耐えられなくなり、距離を置くようになってしまっていた。
うつ病であることそのものではなく、自分に酔うことを苦々しく見られていたのである。
子供のころから見ていた自分は「こいつ病気なんじゃね」と思っていた。
私が大人になるにつれて傾向は見えてくるようになり、
どうやら忙しいだとか面倒なことが控えると機嫌が悪くなり、
思うようにならないことがあると、それをしばらく引きずる形でまた機嫌が悪くなるようであった。
頼れるものに頼ろうとしても結局文句ばかりで一向に楽になろうとせず、
そうして忙しくなるとまた機嫌が悪くなるというマッチポンプばかりをしていた。
ネットを通して「そういう人もいる」という知見を得て、そういう人なら仕方ないなと思っていた矢先、
本人からうつ病であると打ち明けられたのである。診断書を見せられるでもなく。
そのとき私が抱いた感情は「かわいそう」とか「お気の毒」ではなく、
申し訳ないが「それ見たことか」「何を今更」「で?これからどうする?」という気持ちであり、
正直言って同情は一切わかなかったものであった。
なぜなら自らを病に落とし込んでいるようにしか見えなかったからである。
近年は様々な病気、あるいはナントカ症というものが多数生まれてきている。
先日某ラジオでも取り上げられていたが、とくに恐怖症になると枚挙にいとまがない。
「お酒恐怖症でーす!なぜなら目の前にあったら飲んじゃうから!違うかw」という投稿には個人的にムカついたが、
ほとんどは「落ち着きをなくす」「立っていられなくなる」のような割と切実な訴えであったし、
自身の友人知人からもそういう話は聞いたり、あるいは付き合ってきたものである。
そうした新たな病気やらなにやらというものの周知が試みられているのもまた現代であるが、
じゃあすべて見て聞いて覚えられるかと言えば、そんな余裕は多忙な一個人にはないし、
公の場で突然異変を起こした人を「あ!これネットで見たやつだ!」と100%適切に助けられる自信もない。
ましてや「病気」認定が差別的なものになりうることは過去も現代も同じであり、
無垢なマイノリティの方々が切実な訴えをなさっては、様々な人間が入り乱れて大騒ぎになるところである。
では「病気」という診断は何のために存在するのか?百害あって一利なしなのか?
私はそうは思わない、というか、「病気」だけが特別である必要がないと思う。
彼はかなり前に、声帯ポリープが発見されたことがあったらしい。
声を出すお仕事の人にとっては特に厄介な病気であり、切除をしてしばらくお休みをいただくのが常である。
しかし彼は「付き合っていけば味になる」と割り切り、手術をしなかったというのである。
そのせいもあってか度々喉の不調で活動休止ということもあったようなのだが、
2011年の時には「プロとして情けない」とツイートした履歴もある。
身体と心の不調では話が違う、と言われるかもしれない。
しかしながら私が言いたいのは、彼はある種の病を「個性」として受け入れたということである。
病気とまでは言われないものや、単なる性格に過ぎないものも細分化されつつあるように感じる。
「あなたはこだわり屋さんです」とか「あなたはネガティブです」とか言われても、
それは正式な病気や障碍ではないし、なんらかの公的な援助が受けられるわけでもない。
あるいは病気や障碍とまでは言い切れない「グレーゾーン」なるものも存在するようである。
そういう「個性」が明らかになったときに、自分はどうするのか?
自分がその個性とどう「付き合ってい」くか考えていくべきなのではないか?
もちろん病気や障碍には「どうにもならない」「仕方がない」部分はあるし、それに伴う人並み以上の苦労もある。
自身の身体をコントロールできない病なら、どんなに偉そうにして厚かましい要求をしてもいいのか?
自身の精神をコントロールできない病なら、コントロールを諦めて好き勝手罵詈雑言を吐いてもいいのか?
一般人にとっては、大義名分があるから批判することは難しい。でも人として嫌な思いはする。
そうして直言を受けることなく、一部の優しい人に甘やかされ続け、他の人からは疎まれ、
傍若無人にしてある種の孤独なモンスター、言い換えれば「裸の王様」が生まれる。
とくにマイノリティにおける過激派は、どいつもこいつもこうなってはいまいか?
大学の授業に通えていない現状を憂えてのことであったと思われる。
当時の自分は「怠けているだけなのに病院に行かせてくださいだなんて…」と、
今思うと「たとえ病気でなくても」医者にかかったほうがよかったのではないかと思っている。
結局二度と機会は訪れなかった私であるが、
大学生時代におけるリアルとネットの交流を通じて多くのことを学び、
時には大きなトラブルを起こして教訓を肝に銘じ、
また時には友人からの諫言も受けつつ自分を自分なりに成長させることができた。
かつては絵に描いたような「メンヘラ」だった私も、
今では精神疾患を冷静に分析し、自身を客観的に見られるようになり始めた、と思う。
そうか?と思われるかもしれないが、少なくとも昔よりはマシである。
なぜなら今思い返すと「昔の自分」が恥ずかしくて仕方ないからである。
未だに昔の自分に同情する部分もないわけではないが、
一方で人の振り見て我が振り直すことも多くなった。
それだけ人の、自身の「醜さ」というものをより理解できるようになったのである。
自身の気分の落ち込みも「これは見苦しいな」「こうすればおさまる」と自己分析し、
専門家によらないセルフコントロールを自分なりに築き上げてきた。
そんな自分から見ると、コントロールそのものを放棄している人が理解できないのである。
現代は科学と西洋医学の時代であり、「病気を治す」ことに邁進しているものと思う。
しかし一方で、「付き合っていく病気」というものは決して無くなるものではない。
今のコロナ禍においてもワクチン接種が進む一方で感染は防げない!と言われたり、
新たな生活習慣においては鳴りを潜めたことで、日々の感染対策の重要性が浮き彫りになった。
ワクチン打てばかからない!でもなければ、タミフル飲めば大丈夫!でもなく、
自分ができることをして病気と付き合っていくことこそが大事であると改めて示されたものと思っている。
以前ネット上で「自分の機嫌は自分で取る」という言い回しが話題になった時には、
それができるかどうかはさておき、やろうと思わなければ始まらないのである。
不機嫌な自分を正当化するだけでは、だだをこねる子供と変わらないのである。
自分の心をなだめてあげること。
心の不調の原因に向きあうこと。
それをやらずして「病気」に甘んじていては何の意味もないのである。
人はたいてい、何かしらのハンデを抱えている。
病気や障碍を隠して生きるよりかは、カミングアウトできる世の中であってほしいが、
カミングアウトを免罪符と誤解している人間は、その秩序を乱してしまう。
自分に対しては、病気や個性を認め、なるべくコントロールしてみよう。
他人に対しては、病気や個性を認め、なるべく受け入れてあげよう。
それらが並立して初めて、やさしい世界を体現できるのではないか。