はてなキーワード: 人知とは
ちなみに、大阪在住です。いわゆる氷河期世代です。ちょっと身バレ防止のため年代とかおかしくいじってるけど、
自分はIT系というかネット系の仕事してたので、勉強会やセミナーも東京しかなく、
求人情報もWebデザイナー・ディレクターで探すと、当時は大阪:10件、 東京:200件 みたいな感じ。
その大阪5件も、ずっと同じ企業が出てた。常時5件、たまに8件、みたいなそんな感じだった。(記憶だから全然違うかもだけど)
もう大阪にいても無理でしょ。って事で出て行った。
初めていった東京は凄かったし、大阪が東京にはりあってるのがあほらしくなるくらいにレベルが違いすぎた。
戻った理由は、大阪が昔より良くなった。活気が戻った。子育てしやすくなった。と身内や友人にめちゃ言われたから。
そして5年くらい前に戻ってきた。
出て行く前のあの大阪の負の空気感が凄く嫌で嫌で仕方が無かったから。
でもあるときからみんな大阪よーなったで。と言うようになった。
そんなタイミングで子どもも産まれたし、関西良くなったんなら実家近い方がいいねって、
何度か家族で相談し、何度か帰省して調査して話聞いたりしてほんまに良さそうやなってなって帰ってきた。
色々前提が長くなったけど、
東京、大阪である程度を過ごして、今大阪にいる人間からしてみると、表題のことを凄く実感する。
なんなら選挙の時に他の候補とか見てない(都構想の時とかはちゃんと読んでたけど)
でも、ポイントは、維新「が」ではなく、維新「で」良いというところだと思う。維新「が」良いじゃないんだよね。
テレビを牛耳ってるだ、なんだと言われるし、実際そういう面も強くあるかもしれないけど、そういうところじゃないんだよね。
大阪の人は、自分が大阪もう無理だわ。って思って出ていったあの時を知ってるんだよね。
公務員大天国であり大正義、なにしても基本は罰せられない。注意だけ、コネあれば入れちゃうとかね。
そもそも自民党と共産党が共闘するとかって大阪以外でありえるか?って話だしね。
え?公務員めざさんの?なんでなん?あほちゃうん?親戚にいないん?と言われたのは今でも覚えてる。
それくらいに腐ってた。
自分の知人とかは大阪地下鉄に入りたい。と死ぬほど願ってた。入れてなかったけど。今どうしてるのかな。
もっと腐ってたんちゃうかと思うくらいに腐ってた(自分の記憶だとそういうイメージ)
今ほどネットが進んでないから、出てない腐ってたことなんてもっとあったんじゃないかと思うくらい。
そういう時に維新がきた。
色々問題もあるし、自分も維新が絶対良いなんて事は全く思ってないけど、
結果として、はしもとさんになって、大阪が劇的に変わったというのは、大阪に住んでる人は、間違い無く実感してるはずなんだよ。
あの天王寺動物園が、家族連れで普通に行きたい場所になるなんて思ってもみなかった。
遠足で行くとかになったら、まじで?ふざけんなよ。だれやねんこれ決めたヤツ。と言われるくらいに天王寺動物園は糞動物園の代名詞だった。
まさか自分が子どもを連れていくようになるなんて思ってもみなかった。
てんしば公園のあるあの辺なんて、昔は変な謎なカラオケとか家族でいくような場所じゃなかった。
地下鉄で絶体絶命の緊急時以外にトイレ行くという選択肢をとるなんて思ってもみなかったし、
新今宮界隈があんなに歩きやすくなるなんて思ってもみなかった。
新今宮から地下鉄へ乗り換えのために、パチンコ屋の前で寝てる浮浪者の横を通り、
交差点で変な布教活動するおっちゃんに声かけられ無視して逃げながら
恐怖心を抑えて移動してたのが、今は普通に歩けるようになってるなんて驚きでしかない。
そして逆に、維新以前に政治やってたやつらは、本当に糞オブ糞だったという思いが強烈にある。
この辺は維新がうまくやったというのもあるとは思う。裏では色々あったのかもしれない。
けど、結果として、本当に結果としては、そうなってる。
大阪は昔と違ってよーなったなーというのは本当に実感してる。
でも多分これは大阪、もしくは関西じゃない人からしたら疑問でしかないんだろうなと。
コロナで吉村知事や松井市長が度々やらかしたりしてるのを見て、
なんでそんなに支持率高いねんって思うんだろうけど、背景はこういうのがあるからだと思う。
それくらいに、維新以前、維新以後って大阪は変わってるんだよ。
平松大田時代から進めてきたってのもあるのは間違いないんだろうし、
その目が出たのが、維新の時だったとかってのもあるんだろうし
それを維新がうまく利用したりPRしてるってのはあるんだろうけど、
それでも一般人から見たら、維新の時に見るからに圧倒的な結果が出た。
で、これ最近、自民が腐るに腐ってるのに、他が全然支持されない状況になって、
特に立憲民主を見てると、この大阪の逆パターンなんだろうなと思う。
大阪は、維新になって、劇的に良く変わったという成功体験が強烈に残ってる。
大阪都構想が負けたのは、負けても都構想をやらないだけで、維新じゃなくなるわけではないからだと個人的には思ってる。
あれが、もし仮に、勝てば維新で都構想。
負ければ、維新じゃなく自民・共産などの維新以外で大阪府市の運営となかだったら、
維新以前?それは論外。って感じが多いと思う。
あれは、維新が人気というのもあるけれど、それ以外の、維新以外の時代の負が強すぎて、
維新以外は強烈なNOという結果なんだと思うんだよ。
だから最初に書いたように維新「が」じゃなくて、維新「で」いい。になってるんだと思う。
色々維新がやらかそうとも、維新が根強く支持されるのはそういうことがある。
それこそテレビとかメディア牛耳って世論を誘導してる結果だろと言われるかもしれないけども。
で、国政を見ると、これの逆が立憲民主なんだろうなと。
民主党時代、それが良かったか悪かったかというのはおいておいて、
世間一般的な評論としては、(それを自民が誘導したとか色々あるのかもしれないけど)
強烈に負の体験が残ってるんだろうなと。
2番じゃダメなんですかの話なんて、実際にそれをよく読みこめば、
言ってることは全くもって正しいってのはわかるけど多分そういうのはほとんどの人知らないんだと思うし。
で、これ、
大阪は、維新=大成功、維新以外=負の時代を作り上げた となっている。
みたいな印象になってる。
世論というかイメージというか、実際がどうとかじゃなく、そういう印象って残ってるんだと思う。
大阪で、何をしようとも維新が強いってのはこの成功した「体験」をモロに自らしてるからで、
民主の時、政権交代して強烈にダメだったという「体験」をしてる。(実際ダメだったかどうかの是非などはどうでも良い)
実際、大阪にいると、最近の維新での特にコロナ関連における学校関連とかはほんとひどいとは思う。
先生とか学校の関係者はめっちゃ疲弊してるしね。先生に差し入れとかしたいと思うくらい。
でもじゃぁ維新以外でやらせて、維新に危機感もっと持たせろよとなると、
自分もあの当時の大阪はもう無理だ。出て行こうと思うくらいの負のイメージがあるのであんな暗黒に戻るのは無理でしょ。となる。
維新以外にお願いしたいかと言われると、やっぱ無理。ってなっちゃう。
維新、最近おかしいけど、もうちょいがんばってくれ。頼むよって気持ちになってしまう。
時が経てば経つほどそういうのってより強くなってしまうとも思う。
これを払拭しないと、
国政はずっと自民のままだろうなと思う。
自分の周りには1人も居ないんだけど(初期に血栓リスクを気にしてた友人なら居た)
・実は打ちたくないけど世間の雰囲気的に表立って言えない人がたくさんいる
・上記以外の何か
どれか分からん
反応ありがとう、色々聞けて参考になる。
どの意見もへぇ〜と思ったので感想追記します。(長文でごめん、今まで反応に追記で返した事なくてやってみたかった)
→ワクチンガイジってのはワクチン崇拝が強すぎて過激な事言ってる人、で合ってる?
どの程度コロナ対策に力を入れるかの感覚の違いでパートナーや家族とギスギスしてる人時々見かける。めんどくさそう。
・基礎疾患持ち云々
→基礎疾患持ちこそいざコロナ罹ったら命が危ないから打った方が良い、と自分は思ってた。でももし医者に止められたらそりゃ打つ気にならないよね。
自分は基礎疾患は無いけど面倒な病歴があるので一刻も早く打ちたかった(自分語りごめん)
・事実は打たないって決めてる奴が20%くらい居るって事、表立って口にしないだけ
→アナフィラキシーの経歴とか体質上の明らかな理由があって打てない人も居ればデマにどっぷりの人も、内訳はちゃんと調査しないとなんとも言えないもんなぁ。
→外出の自粛とかリモートワークで他人とのコミュニケーションが減ると情報も偏りやすいよね。どの年齢層にも明らかなデマを信じちゃう人は居るんだね。
・「・予約が壊滅的に苦手・過去にxxxって病気をしたが、打っていいのかわからない(相談せず怖がってるだけ)・注射打つのが怖い」
→なるほど!予約苦手勢か!元オタクだからあまり自分の交友関係にはそういう人少なくて気付かなかった。
病歴が気になって打てない人は結局のところ医者に相談するのが面倒くさいのかな?病歴ある人の方が打った方が良いと思ってた…
・予約取るために仕事休むとか受付開始時間にPCに張り付くとか そこまでマジになっちゃうって恥ずかしくない?
→自分の周りは同居の家族が罹ると年齢層的にヤバそうという友人知人が多くて、マジになるのが恥ずかしいとか言ってられない、みたいな空気感があった。
接客を伴うエッセンシャルワーカーの子は特に必死で予約取ってる子が多かった。
↑特に最後の、同居家族が心配でワクチン打ちたがる知人が多いってのはテレビで言う「ワクチン打ちたがらない若者」のイメージ(大学生とか)と微妙に年代ズレてるからこそかなぁと思った。
副反応数日我慢する方がコロナ罹って後遺症とか出るリスクよりマシだと思ってたけど、それでも副反応が嫌で打たない人とかそんなに居るの?って未だに疑問。(でも街頭インタビューとか見てるとそういう人多そうな演出だと思う。これも年齢層の感覚の違いなのかな?)
自分は作家業をしている。有名作家や、なんらかの「有名人」の友人知人がそこそこいる。
別に有名人と繋がってても公表しないしいいことも悪いこともない。
売れてる友人に、匿名掲示板での誹謗中傷が酷すぎて病んでいると言われた。
興味本位で見に行ってみたら、本来作者のファンのスレだったものが、元ファンのアンチスレと化していた。
最近の作品の内容に失望したり、作者のSNSでの言動をウォッチしては逐一ボロカスに叩きまくっていた。
匿名掲示板だけじゃなく、SNSで作者名などで検索してもそういった作者や作品を否定する言葉はいくらでも出て来た。
それを読んで、妙に感心してしまった。
というのも、長年のつきあいである友人、いっしょにお互いの家に寝泊まりしあったり、旅行に行ったりするような
親友レベルの友人に対して、私ですら言語化できていなかったことを、アンチの彼らはきちんと正鵠を射て叩いていたからだ。
彼らはものすごい洞察力で、顔も知らない喋ったこともない作者の人物像を洗い出していた。
こういうところがダメ、こういう性格だから次にこう出る、あのツイートは絶対明日までに消えている。すべてその通りだった。
なるほどな、すごい、本当にその通り。わかるわかる。友人本人は相当傷ついただろう。その通りすぎるから。
知人が私怨で書き込んでいるのもあるだろうが、SNS等の一般読者とわかる人のアンチ感想も、びっくりするほど真に迫った正確な指摘が多くあった。
興味本位で、プライベートまで知っている友人知人が他に匿名掲示板やSNSで叩かれてないか調べた。
すると、ものすごくズレたアンチも多くいるのだが、やはり同様に「なんでそんなことまでわかるんだ」というゾッとするほどの正確さで作者を叩いてる人がたくさんいた。
元々は愛を持って読んでいた読者がアンチに転身したら、愛と憎しみの反転によってここまで人間を見る解像度が上がるのかと感動まで覚えた。
私はアンチがいるほど売れてないので今のところノーダメージだ。けど、もしこんな人間たちに誹謗中傷されたら本当に立ち直れないだろうなと思った。
難しい要求ですね。
法律を守る
→いわゆる「グレー」を含む形なら可能。全て潔白にしながら物事を進めるなら恐ろしいレベルで遅い政治になり、国難で吹っ飛ぶ。
憲法を守る
→憲法は未だに解釈論がある。何を以て「違反」とするかは最高裁判所しか決められない。故にそれを判断できる一般人はいない。
質問に答える
→すべての質問に回答するのは現実的ではない。どんな質問にも答えるというなら質問側も予め本質的なものだけにする“クレンジング”をしておかなければならない。
→圧倒的に現実味がない。記者の視点は往々にして偏っている。前述の通り、本質的なもののみにするなら理解できるが、なんでも攻撃しようとすればできるので、攻撃を目的とする質問に答えるのは時間の浪費であり政治の停滞につながる。根本的に国民の理解度が低いことが根本原因。お似合いの国。
Yes or No?の質問にたいしてYesかNo[追記]もしくは「わかりません」[追記終わり]で答える
→YESNOの部分のみ切り取られ、追記は無視されることが既にわかっている。それにYES、ただし〜と答えたりするのは愚策。うがった聞き方をする奴ら(国民)相手ならもはや答えないほうが正解なのは致し方ない。政治家にまず「国民はキチンと傾聴している」とわからせる必要がある。
嘘をつかない
→難しい。森羅万象が絡む複雑な政治の世界の話をその場で嘘なく国民にわかるように伝えるのは人知を越えている。不可能を強いてはならないというのは法の原則。
逆ギレしない
→これはそうね。感情的にならんよう、トップは常に十分な休養を取ることが求められる。
→これもそうね。ただ科学者の中でも意見が別れたときの判断は難しい。国民は「科学者」を権威として使うことはやめるべきである。
→難しい。意思決定がその場でなくとも、それが遠因となって後の意思決定に影響を及ぼすのがこの世界である。そのため「意思決定をする場面」だけ切り取ることは不可能。そういう意味でも、ここで用いられた「意思決定をする場面」というフィルタは実質不可能である。「この前すれ違ったときあの人がこう言ってた。あの人に確認するために予定調整して会議設定し直します」で仕事進むと思うか?
なにより、こういう立て付けなんかより大事なのは、なんか愛国クソブコメ野郎がいってる「この国を想って進める」ということ。政治家もメディアも国民も、この国を想っていない。自分のことばかり。権利権利権利で貢献や奉仕は「搾取」として忌み嫌われている。貢献や奉仕をする気もない国民が、政治家にのみベネフィットのない潔白さを求めるのは滑稽だ。政治家は国民の鏡なのである。すべての国民が国のための貢献や奉仕を意識せずして、国を想う政治家が出てくることはないのである。政治家は国民から出てくる。
ヒカルの碁をやっと読み終えた
小畑先生の作画が本当に美しくて、一コマ一コマが画集のクオリティだと思う。これが週刊誌で連載されてただなんて信じられない。
でも、だからこそ、最終巻、いやとあるシーンからずっとあれ…?え…?!て感じで、そのまま終わってしまって悶々としているという話をします。
私はヒカルと佐為の関係の物語と思って読み進めてしまった、読む前から私の中で佐為の存在が大きすぎたんだ。
そりゃだって小学生の頃人知れず恋してた人だったんだもの。何故か恥ずかしくて誰にも言えなかったけど佐為に会いたくてこっそりアニメを見てた、途中からだったし囲碁のこと全然分からないからストーリーは知らないままだったけど。
だからこそ自分の中で佐為への期待が大きすぎて、勝手にストーリーを作ってしまってた。
ヒカルはきっとプロになって最終巻で塔矢と対決して、ヒカルの力だけで塔矢に勝ってそれを見届けて成仏していくのだろうなって、それしかないよなって確信を持って読み進めてしまってた。
だから最終巻どころか終盤にも差し掛かってない段階で、割とあっけなく佐為がいなくなってしまってそれからはえ?あれ?もう?いや、さすがにここで終わりはないよね…?なんだかんだまた戻ってくるよね?という考えて頭がいっぱいのまま、結局佐為は最後までヒカルのところに戻ってくることはなかった。
ネットで調べると韓国との戦いで高永夏に敗れたことが納得いかない、最後なら勝って終わって欲しかったと言う意見をたくさん目にしたが、個人的にはあの試合はたしかに負けてしまったけど素晴らしい描写だったし、囲碁というスポーツや戦闘モノと比べると動きの少ない勝負であれだけの躍動感を描き上げた小畑先生の画力は日本の宝だと思う。
でもやっぱりね、やっぱり佐為もういないの…?という気持ちが消えない。どんなに素晴らしいシーンを見ても佐為のことばかり気にかけてしまう。
どうしてこんなにやるせないのだろうと自分で考えてみたんだけど、多分私の感性ではヒカルと佐為の関係性を思ってたよりも深く知ることができなかったんだ。ヒカルにとってはなくてはならない存在だったと言うのは充分にわかったんだけど、佐為にとってのヒカルはどうだったんだろう…?と思ってしまうの。
塔矢を見てあの子に憑きたかったとか、秀策はたくさん打たせてくれたのに…とか佐為の不満が描かれていて、それを見てた頃はそう言いつつも最後はきっとお互いにかけがえのない存在になって私と言う肉はそれを垣間見て美しい友情に涙するんだろうな…とにやにやしていた。
でも結局突然いなくなってしまった。成仏というのは本人の中に後悔や蟠りが無くなって現世に執着する理由がなくなって初めて行われるものと思い込んでた私にはこれはあまりにも衝撃的だった。
真相はわからないから勝手な予想だけどきっとファンなら最初の段階で誰もがそう予想する(塔矢との対決でヒカルの成長を見届けて安心して成仏していく)だろうから、それだとあまりにも予想通りの展開だからってことでこういう展開になったんだろうか。
この終わり方だと結局、佐為は探しているものを見つけられたのだろうか、もしかして別にヒカルじゃなくてもよかったの?不満を抱えたまま消えてしまったの?という思いが拭えない。
多分私はこの二人にあまりにも期待しすぎてしまってたんだと思う。他作品だけどネウロと弥子の関係性が本当に大好きで理想的だったから、勝手にこの二人もきっと最終的にネウロと弥子みたいにお互いにかけがえのない存在に
良いね!その質問は、実に好ましい。なぜなら、統計学が意味をなさないことが多いのに、なんで勉強するか疑問だろ?そりゃ、統計学が『ノイズ』を除去するからだよ。統計学は N/A とかあるのに、P値だ言って誤魔化しているのに、いざ自分たちの理論が破綻したら「シックス・シグマ的にありえない!」とか言って逃げるだろ。バブルも、リーマンショックも、自分たちが都合の良い数値を適当に取り繕って、レバレッジをかけて破綻していった。そうだよ、大きく社会学といったら会計学も経済学も「左辺と右辺が一致する」という数学の理論を無理やり当てはめて、一致すると安堵するということを繰り返しすぎなんだよ。違うね。社会学においては「左辺と右辺が一致しない」ということに意味がある。例えば、昔の人間と DNA的には同じだろうが、社会は常に変化していくのだ。まさかだけど、資本主義があるから共産主義があるとか思ってないか?違うぞ。共産主義がおこって、資本主義というレッテルが作られたのだよ。マクロ経済学があるから、ミクロ経済学があるのか?違うよ。最初は、ミクロ経済学なんてなかったんだよ。なぜに、人は「反対のもの」を探そうとするのかね。おかげで、ミクロを積分するとマクロになるという研究に一生を注げてしまう人が出てきた。可哀想にね。今では、合成の誤謬とか言うがね。世の中は、シンプルじゃないんだ。今では、複雑系という領域が勃興したおかげで、(古典な)物理学や(過去のデータを扱う)統計学、そして数学のテクニックを社会学に応用して「未来を想定する」という学問は死に絶えつつあるのさ。間違っているのは、私立文系の教授たちであって、自分達の地位が規模に依存していて、学生を無意味なテキストを買わせるだけの私立文系と芸術学部(市井の画家とかは除く)がイキっているアホしかいないのに、拝めているのだよ。特に、日本銀行券にのっている「日本のボルテール(大爆笑)」さんの大学とかさ、みのもんたや石原慎太郎の子弟とか、統計学を使うと「慶應義塾大学の受験なんてしないと、有能になる」ということを「信頼区間的には、棄却される」としか出せないだろ。ウケるw。文系は無理して数学を使役しようなんてするのではなくて、本や資料、そして『リアル』に触れる機会を徹底的に増やしていくべきなんだよ。一橋大学に文学部を作って、早稲田と慶応は文系人員を減らして、国立の理工学のリベラルアーツ教育の復興を目指すべきなのだ。根拠は、私立文系は「既卒は採用されない」という現実に向き合うべきだろ。まだ、四十路で看護学部にいった方が就職があるって変じゃないか?あれだけ数学を否定して入学させて、あまつさえ本人たちも得意でない統計学やデータサイエンスを教えるなんて、教育者として失格だろ。ちゃっちゃと、似非・数学者はくたばってください、としか思わねーよ。閑話休題。最初の「社会学や心理学」で統計学が使えないのは何故かという疑問に答えるぞ。わかりやすい例だと、かの有名な「校長」という事例があるじゃん。世の中には「一騎当千の強者」がいて、そういう統計的には「ノイズ」として棄却されるような、通常は起きないけど「未知の未知」という人知を超えた「何か」がいるの。ほら、新型コロナウイルスは「1つの『①新型コロナウイルス』が『②武漢』に生じた」というだけじゃん。これを「①イエス・キリスト、②エルサレム」「①ポル・ポト、②カンボジア」「①スマホ、②シリコンバレー」「①自動車、②ドイツ」というのとどう違うのさ。①から②は成り立つが、②から①は成立しねーよ。そんなのは、「オッカムの剃刀」とかで徹底的に洗い出されているのであって、帰納法と演繹法では「世の中を描けないのだ」よ。つまり、人文系と人工知能のように社会学的な方向に、ベンサムを始祖として常に繰り返されてきた、物理学や数学のメソッドの応用は事故の元です。なぜなら、ヒトは「変わらない」が、社会は「変わる」のです。光の速さは(俺が生きている間は)不変ですが、社会は(テレビ・新聞・インターネットとか出てきたせいで)変わるのです。つまり、統計学のような「観測できなかったことを誤魔化す」「そもそもサンプルが全て出揃うのが不可能」「過去に起きなかったから、未来にも起きないと思い込む」ような、雑な『算数』で「数学を理解していると信じる私立文系ども」はオウム真理教で「サリンをばら撒いた高学歴」と何ら変わらないよー、って言いたいのですよ。天才の麻原がいなかったら、地下鉄サリン事件なんて高学歴の秀才どもが起こすわけないじゃん?(q.e.d)
声優のオタクを一口に声豚、キモオタだと言ってもその中にはいろいろな人がいる。
恋愛を許せない人だっているし、どうでもいいと言う人もいる。ここが分かり合うのは不可能に近い。これはライト層とガチ勢の区別という訳でもないのだろう。単なる精神性の問題だと思う。
だからこそ分かり合わなくても声優の結婚を喜べるような人は喜べないような人のことも尊重するべきだ。一部のすぐネタツイに走る攻撃的なオタクは除き、外野が悲しもうが発狂しようが本人には関係ないはずなのだから。
昨今、「喜ぶのが普通であり、喜べないのは異常者である」というような圧力が強すぎる。オタクが異常者であるというのは間違いないが異常者に異常者扱いされるのは気持ちのいいものでは無い。
ここまで書いたが私自身は声優の結婚を許せないタイプの人間だ。
以前2ちゃんねるだったかで女性声優の彼氏発覚を定食屋にゴキブリが出た状況に例えた人がいてうまいなと思った記憶がある。
結局そういうことで、何となく足が遠のくのは避けられないのではないか。別に衛生環境を求めていた訳ではなくて飯を食いに行っていただけのはずである。声優も別に第一に純潔を求めていたわけではないがやはり少し離れるのはしょうがないように思う。
そもそもこの声優戦国時代でいくらでも推す候補はいるわけで少しの汚点もファンが離れる原因になるのはしょうがない事だし、ドル売りとは関係なくガチ恋ファンは一定数つくはずなのだ。
それは時代の変化としかいいようがないしそういうオタクがいることも尊重されるべきだ。それこそ時代の変化に合わせて多様性が尊重されるべきなのと同じである。
私自身は竹達彩奈さんのファンでも何でもなかったが、彼女が声優を務める「けいおん!」の中野梓のことが特に好きだった。竹達彩奈さんが結婚した時ファンでもないのに辛くて涙が出てきた。世の中にはそういう人間もいるのだ。可哀想では無いか?精神に傷を負ったオタクを更に「祝え」という圧力で傷つけるのはさながらイジメの構図だ。
許せない理由は様々だ。自分の状況と対比してしまう。ガチ恋してたのに結婚して裏切られた気持ちになる。キャラと重ねて見てしまう。
そういったことをする人間がキモいということは認めよう。私自身もキモいとは思う。でもキモいことと攻撃されることは違う。許せない人間を許せない人間は同じ穴の狢でしょう?
だから「普通なら祝うでしょ」「祝ってあげればいいのに」と簡単に言うがそういう問題では無いのだ。傷ついているオタクを見たら慰めるか放っておいて欲しい。その圧力はオタクに対する攻撃でしかないしその発言をする明確な意図がないならやめて欲しいと思う。
我々は声優を推す対象と見て、イベントに足繁く通い、CDやBlu-rayを積み、接近イベントに行く。そういった状況の中で突然その対象が結婚して今まで通りいられる方がおかしいとも思う。別にワンチャン狙っていた訳でもない。ただ推しは皆の推しであって欲しいし、どこかの男と結婚した時点で皆のものではない。少なくとも私は辛い世の中で推しを逃げ場、縋る対象として見ているし、そこで急にハシゴを外されたら辛いに決まっている。
「オタクが結婚出来るわけないだろ」という批判は最も正解から外れている。二度と発言するな。これは地雷だ。自殺願望がないなら発言するな。
とにかくいろいろな考え方があるんだから本人に実害が出ないなら批判も擁護も干渉するべきではない。少なくとも批判派と擁護派が口論するような現状は何も生まない。お互いに放っておいて平和な世界を作りましょう。
私は別に結婚したり彼氏がいることを悪いと思っている訳ではなく、結婚という状況をファンに知られる状況がまずいと思っています。だから人知れず結婚するなら子どもがいても別にいいです。知らなきゃノーダメージなので。結局イメージ商売の1つだし、そういった所を突いて飯を食ってる週刊誌という存在が私は一番嫌いです。平穏に生きたい。
分解して考える。
A.よいはずである。
なぜならば、トランスジェンダーの方々にとって、「〇性らしさ」は自己同一性の一部となっている。
ジェンダーレスという文脈で「らしさ」という言葉を排除しようと考える向きがいるが、それは違う。
「〇性らしさ」を押し付けるのが悪であって、「〇性らしさ」が存在することは悪ではない。
「〇性らしさ」が悪であるならば、「〇性らしさ」を根拠に自身の性別を判断することができなくなってしまう。
しかしそれをしたいと考えている人がいて、それを認めようという世の中である。
故に、「女性らしさ」という言葉そのものを有害とするのは現時点では間違っている。
A.不明。
1.の通り、「〇性らしさ」を否定するのは間違っている。
女性らしい人とは?男性らしい人とは?という定義が聖書に書かれているわけではない(たぶん。書いてあったらごめんなさい)。
つまり「〇性らしさ」とは存在するが、これと規定することができないものになっている。現実として。
その上に立って考えると、その人が「〇性らしい」という状態は存在するはずだが、しかしそれを確定的に規定することはできない。そのため判断はできない。
自分の中の「〇性らしさ」と照らし合わせるしかなく、それが正しいことなのか誰も分からない。
この問題は、「私は女性だ」という人に対して「いや君は男性だ」「無性だ」という議論が出る余地を示唆している。そしてそれは実際に起きている。
A.ナシ寄りかと思う。セクハラと判断する人間もいるかもしれない。
2.で述べた通り、その人が「〇性らしさ」を持つかどうかは個別の認識により解釈の余地が出てくる。
そのため、自身の認識とほかの人間の認識は違う可能性があり、それはいくらアップデートしようが統一できるものではない。(それが多様性でもある)
しかし1.で述べた通り、「〇性らしさ」というのは存在する。少なくとも現代では存在するとコンセンサス形成をしないと少なくともTQの自認を否定することになる。それは望むことではない。
ではなぜ「ナシ」「寄り」かというと、2つ観点がある。
その人が「カミングアウト」するのは構わない。それは公開範囲を意識することになる。
しかし他人が「アウティング」をすることは認められない。本人の意識する公開範囲を逸脱するからである。
そのため、他人の予想を本人の意図しない範囲に勝手に議論されるのも「ナシ」であろうと思われる。
2つ目は「扱い」に関する部分である。
ある人物に対して、どうしても〇性として扱わなければならない場面が出てくる。
それは銭湯に行くときであり、スポーツをするときであり、つまり性差を意識しなければならない場面である。
また、その人が〇性として「扱われたい」という願いを持っている可能性もある。
例えば重いものを持って、と言われて傷つく人もいるかもしれないのである。(この問題は複雑で、言った側が性役割を基に言っているのか言われた側が性役割を過度に意識してしまうのかということがある。基本的に相手を悪意を持っていると見ようと思えば多くの場合見ることができるので、ここはそもそも人間の他者とのかかわり・受忍限度・社会と個人など属性関係なくすべての人間が考えるべき問題である。ここで「私女なんだけど」「女だからなに?」みたいなケンカになった場合にどちらが悪なのか?という話だ。まあどちらが悪というのがそもそもナンセンスで、他罰的にならず原理主義にならずそれこそ人の考えを尊重する態度が互いに必要だろう。禁句を言ったから悪いやつだ!という考えは不毛に思う。)
つまり自身の性を意識してもらいたいという人がいる可能性があって、それを正しく扱うなら集団の中でコンセンサスを取っておく必要はあるわけである。
その場合、どうしても「あの人は〇性らしいから」という言い方がでてくる。これは相手を慮った上でである。そのうえでセクハラだと判断される危険性も考慮する必要がある。これは個別の認識に基づいて対応を変える必要がある。
そういう事情も鑑み、ナシでなくナシ「寄り」と表現した。(ナシみたいなリンゴ、「きおう」の話ではないhttps://www.ooyufarm.com/c/kiou)
こういったことを考えて話をしていくことになるが、実際のところ認知負荷が高く、5名を超えるグループでその考慮をしようというならそれはもう人知を超えているかと思う。
(いやもっと多くてもできるよと思っている人は、実際は相手を支配した気になっている可能性もあるので、努々注意されたし。もちろんできる人はいるだろう。)
(例外として、教師と生徒のような割と一方的な「管理関係」が成り立つなら、もう少し人数は増やせるだろう。しかしそれでも40人は多すぎる)
世の中が良くなっていくに際して、「これこそ正義、これこそ悪」という規定は難しい。
やはり隣人を大切にすべきであって、ネット上で属性間の断絶と憎悪を膨らませるのはほどほどにしないといけないと、私は思うのである。
件の人は心理学の知識はあるかもしれないが賢くはないな。言論は自由っちゃ自由だけど、明らかに共感性の低い、言い換えれば友人にしたくない人間が言いそうな優生論を垂れて、それで友人知人離れて恋人もできなくて残りの人生40年か50年か知らんけど他人を憎悪するしか癒しのない孤独な生活を送るリスクを考えたら普通の賢い人はよう言わん。
しかし昨今の感染状況を鑑みると、娯楽のために地方から東京へでる気にはならなかった。
ワクチンは2回接種済だが、だからといって感染しないわけではない。正直いまの東京にいくのは怖い。
舞台と客席の間隔をあけて全員がマスクをして一言も喋らずに座っているだけならそうだろう。
でも実際はそれだけじゃない。
現場にいくまでに公共交通機関をつかって移動しなくてはならない。
食事も水分補給も必要だし感染リスクのある公共のトイレを利用する瞬間もある。外にでる以上人との接触は避けられない。
それに現場が感染対策の徹底した安全な空間だとも思えなかった。
現場には全国各地からオタクが集まってくる。狭い界隈だから、全員が全くの他人というわけではない。
この半年間にいった現場はいつも賑やかにざわついていた。久しぶりに会った友人知人に声をかけたくなる気持ちもわかる。
劇場側から注意されても無視して喋る・食べる客を何度もみた。劇場が会話を注意しないこともあった。
現場のたびにヒヤヒヤしていたが、同じ現場にいたオタク仲間が現場後に感染した話は聞いたことがないので、あの環境でも問題はないのだろう。
でも万が一ってこともある。
幸い観劇予定だった公演は自粛によるチケットの払い戻しを受け付けていたので、主催者の寛大な対応に甘えさせてもらうことにした。
自分の身を守るために取った行動とはいえ、この行動がまわりまわって誰かのためになるかもしれない。
今の状況を乗り越えるためには一人一人の行動が大切なはず。
まずは自分の行動を見直す。今は我慢の時。これが正しい判断。そういい聞かせてチケットを返送した。
でも、コロナ禍における正しさと、オタクとしての正しさは違うんだよな。
地震だろうが台風だろうが、公演がある限りはなんとしてでも行く。私もそうだった。
感染爆発だろうがなんだろうが、この世の全てを振り切って推しをみる。
それがオタクとして正しい姿だと思う。困ったことに今もそう思ってる。
ツイッターでは保健所や医療現場の悲惨な状況を伝えるツイートが拡散される一方で
チケットの交換募集や週末の公演を楽しみにしているオタクの様子も流れてくる。
公演が始まれば毎日舞台の感想や仲間たちとの集まりを匂わせるツイートが溢れるだろう。
現場を楽しんでいる人たちをみると、なんで私だけ自粛してるんだろうとバカバカしくなってしまう。
そのあとやっぱり東京にいけばよかったと思う。
軽率な行動で感染したくない。感染拡大に加担するべきではない。でも推しの現場には入りたい。
社会の構成員である私の正義とオタクである私の正義。理性と欲望がせめぎあう。
悩んだところでもう手元にチケットはない。
私の判断は間違ってないと思う。でも悲しい。推しの舞台を観に行けないことが悲しい……。
悲しみを癒したくて推しのブログを開くと、医療従事者に向けた文章をあげていた。
「医療従事者の皆さんの頑張りが報われるよう、自分も気をつけます。」というような内容だった。
感染爆発中の東京に人を集めていながら、なにをいってるんだろう。
どこからきたかもわからない人間を2時間以上劇場にぎゅうぎゅう詰めにしながら、なにをいってるんだろう。
推しが舞台に立つことで余計に苦しめられる医療従事者がいるかもしれないのに、どの面下げていってるんだろう。
まぁただの一出演者である推しにこんなことを思っても仕方ない。推しに罪はない。
チケット販売時に緊急事態宣言下でなければ制限なく売れることをいいことに満席にしてしまう主催者も
エンタメといってもただの商売なんだから、それでご飯を食べているんだから、やめろといえるはずがない。
そういうものだし仕方がないとわかっているけれど、
自分たちに都合が悪いことは無視して自己陶酔する推しに腹が立つ。
実家帰省すら控えるように言われている中で平気で遠征するオタクの正気を疑う。
なによりこんな状況になっても休業要請・補償をださない政府はなんなの?
なんか、疲れたな……。
バラエティ番組にも報道番組にもクイズ番組にも。ほぼバラドルじゃねーか。
このままだと戦隊モノにも出るんじゃねーの。昔みやむー出てたけど。
ナレーションに声優呼んで読ませてるの見るとこっちがオタクなのになんか「イタタタタ」ってなる。
まる見えも「あの人気声優が登場!」って。海外映像吹き替え全部違和感しかなかったぞ。個性出しすぎて映像と合わなかったな。
國府田マリ子の声の良さ再確認したわ。最近アニメ出てるか知らないけど。
15年前なんてマスメディアサイドはミヤザキの時みたいに「犯人はオタクで~」とかやってただろ。伝わらないかもしれないけどヤギ被告の時そんな感じだったよな。
あいつ結局オタクじゃなかったし。何が「段ボール箱を封印する際のテープの型がネウロと一緒」だよ。というかネウロ見てるからオタクって凄い偏見だな。
あの頃たまにバラエティに声優呼んだと思ったら「○○の声やってよw」→伝わらず変な空気に って流れが多かったよな。
逆に今はオタクにしか分からないようなアニメキャラ演じさせて「皆知ってますよ」的な空気出すときあるよな。
あれ嫌だわ。家族と飯食ってるときに「この人知ってる?」だって。あまりにも声優がバラエティでやっている事が恥ずかしすぎて「知らない」って答えるけど十分知ってるわ。
今の声優は実質アイドルだしそいつらのファンもアイドル追っかけと同じ。
だから視聴率取るためにただ何も考えず起用する。ファンはそいつらがデレビに出たら「認められた」と思って喜ぶ。
オタクは金になるのは分かるけどオタク叩くかオタク持ち上げるかの2択しかないのか。テレビ業界はバランス加減もうちょっと考えろよ。