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2021-06-28

anond:20210628194034

Prisoner of Love [HEART STATION](2008)

ドラマラスト・フレンズ』の主題歌として、友達にたいする愛情や、性別を超えた愛憎のようなもの歌詞にしてほしいという依頼のもとで制作された歌詞です。

上野樹里ビアンだったお話だっけか。

なつかしいな。

宇多田ヒカル同性愛ぽい歌一覧

宇多田ヒカルクィアであるというのは、コアなファンクィアファンの間ではかなり昔から共通認識でありました。

もちろん、宇多田ヒカル本人がしばしば口にするように、宇多田ヒカル歌詞というのは大衆の誰にでも伝わることについて大変真摯に考え抜かれており、決してクィア的な読みが介在しなくても成立するものほとんどです。ですから当事者人間がひっかかりを覚えて、ある種の確信疑念を抱いて聴き込むというような経験がなければ、宇多田ヒカルクィア的な側面について、その通底する感触すら意識することがなくても不思議ではありません。そして、そういう構成である作品からこそ、当事者にとっては強く胸を打ち、強く励まされるものでもあるわけです。『ブロークバック・マウンテン』や『ムーンライト』がちょうど、ゲイに限らない、誰にでも共感できる恋愛感情のものを描いているといった具合で高く評されている、というのと似ています

一方で、宇多田ヒカル自身内面を初めて強く出して制作したと語るアルバムULTRA BLUE』や、活動再開後に発表されている楽曲の数々において、勅裁クィア的な表現歌詞である楽曲や、クィア的な読みの方が自然と思える楽曲も増えつつあるように感じられます。以下では、そうした楽曲を見ていきましょう。

([ ]は収録アルバム、( )はシングルも含めた初出年です)

Making Love [ULTRA BLUE](2006)

引っ越していく親友についての愛情を歌った歌です。愛情対象として「友」が選択されているという状況は宇多田ヒカルの歌ではよくみられます

「新しい部屋で君はもう Making Love」「ヤサシイレトケイザイガク」「ワタシガハジメテホレタオンナ」といった表現から親友である女友達彼氏同棲を始めることについての喪失感といった情景が浮かんできます

Passion [ULTRA BLUE](2005)

「昔からの決まり事を/たまに疑いたくなるよ」

わたしたちに出来なかったことを/とても懐かしく思うよ」

宇多田ヒカルの歌には「規範への疑念」「規範からの逸脱」を指向しているととれるような表現がしばしば現れます。たとえば、「不倫の恋」を想起させるような楽曲がちょくちょくあります(『誰かの願いが叶うころ』『One Night Magic』『二時間だけのバカンス』『誰にもいわない』)。『Passion』では、「昔からの決まり事」をどのように捉えるかというところに余白があるように感じられます。「ずっと前に好きだった人/冬に子供が生まれるそうだ」とある「好きだった人」は異性・同性どちらにも読むことができそうです。「わたしたちに出来なかったこと」という言葉同性愛経験者には強い響きがあります(もちろん、失恋経験のある人にとっては、性指向に関わらず共感するところがあるでしょう)。

ぼくはくま [HEART STATION](2006)

宇多田ヒカルオリジナルキャラクターであるくまちゃん(チャン・くま)がゲイであるというのは、以前から公式ブログで発表されていました。それを念頭におくと、ゲイ男性がほんのり抱える困難がモチーフになっているように聞こえてきます

「けんかはやだよ くま くま くま」

「冬は眠いよ くま くま くま」

ぼくはくま 九九 くま/ママ くま くま」

どうでしょうか?

Prisoner of Love [HEART STATION](2008)

ドラマラスト・フレンズ』の主題歌として、友達にたいする愛情や、性別を超えた愛憎のようなもの歌詞にしてほしいという依頼のもとで制作された歌詞です。それに応えるように、確定的にクィアな側面から見ることができるとはいえない構成が、ことさら意識されていると感じられる楽曲です。しかし、裏を返すと、異性愛的でないという感覚がどれくらい読み取れるかというところに解釈の豊かさの入り口がありそうです。

人知れず辛い道を選ぶ/私を応援してくれる/あなただけを友と呼ぶ」であるとか、「残酷現実が二人を引き裂けば」といったバースどうでしょうか? 異性愛的に読む、同性愛的に読む、どちらの方が、どれくらい可能でしょうか。そもそもそれぞれの読み方に違いはあるのでしょうか? 異性愛視点同性愛視点というのは、線引きが必要なのでしょうか?

時間だけのバカンス [Fantôm] (2016)

宇多田ヒカル椎名林檎デュエットであり、MVの印象も強いため、百合ソングとしての印象が初出から強く一般的に浸透していたと思います。また、冒頭の「クローゼット」というモチーフが、クィア界隈で「性指向オープンにしていない状況」を表すのに用いられる言葉でもあったため、その点でも話題となっていました。

もちろん歌詞単体でみれば、家庭をもつ男女の不倫のような趣もあります椎名林檎パートでは一人称が「僕」となっているのも印象的です。

この歌詞バカンスに繰り出す二人組を、どのようなペアである想像するでしょうか?

個人的には、かつて親友で、いまは家庭をもつ主婦同士が、時間を縫って…という情景が浮かびます

一方で、「ほら車飛ばして 一度きりの人生ですもの」「今日は授業サボって 二人きりで公園歩こう」といった並置からは、特定的な1組のカップルの情景ではないという余地をあえて作り出そうとしているのも感じ取れます

ともだち [Fantôm] (2016)

宇多田ヒカル本人が「同性愛者の心情を歌っている曲だと気付いた」と語った楽曲です。

「君に触れるあいつ見てる/報われない想いばかりが募る夜更は/どうしたらいい?」

「気付かないフリとか/中途半端な優しさに 泣きたい」

など、全体を通して当事者的な感覚が非常につよい言葉構成されている歌詞だと感じられます

この楽曲最初に発表されたのはNHKSONGSで、楽曲の直前に宇多田ヒカル上記発言が挿入されたのですが、宇多田ヒカルがこの意図を隠し続けていたとしたらどのように受け取られていたのだろうというのは気になるポイントです。

Time (2020)

「カレシにも家族にも言えない/いろんなこと/あなたが聞いてくれたから/どんな孤独にも運命にも耐えられた」

「大好きな人にフラれて泣くあなたを/慰められる only one である幸せよ/だけど/抱きしめて言いたかった、好きだと」

この楽曲も「友」が相手の曲ですが、その友に対する気持ちは「恋愛なんかの枠に収まる二人じゃない」と表現しています。この楽曲もまた、女性の友人同士の関係性についての情景が浮かぶのが自然であるような歌詞だと感じられるでしょう。異性愛的な恋愛結婚よりもつよい愛情というのは『二時間だけのバカンス』と似ているところがあります

先に、宇多田ヒカル大衆の誰にでも伝わることを真摯に考えていると述べましたが、これは裏を返すと、クィア的な読みをする必要がないということでもありますしかしながら、宇多田ヒカル歌詞全般的クィアである当事者にとって感じることができるのは、ほとんどの歌詞において、巧妙に「異性同士」の歌であるしか読めない状況を避けるような意識がこめられた言葉遣いがなされているからです。ポップス歌詞における「あなたと私」という主題問題や、女性シンガー歌詞でつかう「僕」という一人称問題など、ポップス歌詞においてジェンダーを与えた解釈をするとき問題とすべきことは多々ありますが、それらは一度おいておきますと、宇多田ヒカル歌詞は、とくに二人称において、特定の性に限定できるような状況が回避されているものが多いと感じられるわけです。こうしたもの通底している作家楽曲は、当事者にとっては、異性愛的な恋愛を歌っているポップスとはやはりどこか感触が異なって聞こえるものです。

よく、「エヴァンゲリオンは鏡である」というようなことが言われますエヴァンゲリオンについての解釈は、みた人自身性質や考えがそのまま反映されてでてきたものしかない、ということです。それは、製作者がつねに大衆に伝わるようにと心を砕く姿勢によってできあがった鏡なのだということが想像できます宇多田ヒカルの歌についても同じことが言えるのでしょう。異性愛ベースがある人には異性愛的な歌に、同性愛的なベースがある人には同性愛的な歌に聞こえるというのは、「誰にでも伝わる」ということを目指した結果に他ならないと思います庵野秀明宇多田ヒカル作家性が奇跡的に似通っているというのは、そういった点にも感じることができます

このことからさらに思うのは、宇多田ヒカルクィアを結びつけるような意見に対して人々がどのような反応を示すかというのをみると、その人が「『クィア』というものをどう捉えているのか」がよくわかるのではないか、ということです。

どうでしょうか? いろんな人の反応をみてみてください。異性愛者の人たちの反応も、クィアの人たちの反応も。どうしてその人は、そのように反応したのでしょうか?

 
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