はてなキーワード: 直行とは
巷で生理の話が盛り上がっていたので、生理が来たのに生理用品がなかった恐怖体験について語りたいと思う。
本番開始後~3日目が出血のピーク。4日目以降は激減するが、3日目までは多分かなり多い方。昼でも夜用ロリエ30cmを愛用した上で、2~3時間に一回は取り替える必要がある(漏れる危険性が高まる)。特に長時間同じ姿勢を取っていると、常に同じ箇所が吸収し続ける→限界に達する→溢れる、というメカニズムで漏れる。過去に何度か、長い会議の後のトイレで絶望した。寝てる時はどうしようもないので、最ピークに重なると漏らすしかない(起きたら大惨事……)。
痛みは鎮痛剤の早期投与に成功すれば、全然へっちゃら(失敗すると多少苦しむ)。精神状態への影響は自覚したことがない。たまに下痢を併発する。生理がひどい方という認識はない(痛みがそれほどでもないので)。
大体こんな感じである。
さて、本題。
生理予定日が22日~の月に、15日から三泊四日で出張することになった。行き先は中国。同行者は全員男性。おそらく生理とは被らないだろう、と思ったものの、念のため私はスリムロングタイプの生理用品を1パック荷物に放り込んで、出発した。
そして三日目17日の朝、ホテルのトイレで私は生理の気配(微妙な出血)を目にしたのである。持ってきてよかった生理用品と思いながらパックを開封した私は、絶望した。スリムロングタイプの生理用品は、性能をある程度犠牲にして省サイズ化を図った、私の予想以上に薄っぺらく貧弱な代物だったのだ。使ったことのない商品を選んだ私のミスだった。
生理の本番が遅れることを期待しながら、私はその貧弱極まりない装備で仕事に出掛けた。ちなみに仕事で行く先のトイレに紙はついていない。たまに扉もない。稀に穴である。絶望しかない。
出血量の激化(生理本番突入)は、夕方くらいだったため、その日はなんとかスリムタイプで凌ぎきって、私はホテルに帰還した。中国で日本並みのトイレがあるのは、私が知る限りでは空港とホテルだけである。紙があることの素晴らしさを噛み締め、生理用品を節約するため便座で血をひねり出しながら、私は悩んだ。
もはや出血はピークに差し掛かろうとしている。四日目は仕事の予定はない。できればギリギリまでホテルに滞在した後、空港に直行したいところである。だが、観光に行くことが決まってしまっていた。若かった私は、生理であるということを同行者に訴えられなかったのだ。馬鹿である。
何より、夜を乗り切らねばならない。家で寝具を汚すのはまだいい。朝起きてまず自分のパンツを洗うという屈辱はあるが、出先で漏らすことを思えば全然マシだ。出先で生理の血を漏らすというのは、「旅行先でおねしょ」くらいの恐怖感があるのである。しかし果たして、ロリエ37cmをもってしてもたまに漏れる私の生理が、薄っぺらいスリム型27cmで食い止められようか。無理だ、絶対に無理である。絶望しながら私は、ない頭を捻った。
・生理用品を買ってくる→現地通貨を一円も持ってない以上、同行している男性に頼む必要があるが、観光やめてくれと言い出せなかった私に、これができようはずもない。そもそも中国のナプキンってどうなの!?
・便座に座って寝る→多分一番確実
・浴槽の中で寝る→漏れても洗えばへーきへーき
しかし、私はできれば普通に寝たかった。地味に腹は痛く、中国の寒さ(氷点下5~10度)とその中での検査立会いは私の体力をガリガリと削っていた。ベッドに横になりたかった。日本に帰ったら日曜日だ。翌日からまた一週間が始まるのだ。寝なければ死ぬ。
結局私は、スーパーの袋に穴を開けてパンツのように履いた上で、さらにお尻の下にビニール袋を敷いて寝ることにした。結果的に、ベッドは無事守られた。ただ寝返りをうったら漏れるんじゃないかという恐怖で、全然満足に寝られなかった。五時に目が覚めて、まず最初にシーツを確かめた。ビニール袋は完璧な仕事をしてくれたが、心の底から信頼するのは無理だった。辛い一晩だった。あと普通に色々血塗れになった。
その後私は、漏れる恐怖と戦いながら観光し、空港のトイレに駆け込み、じりじりしながら飛行機に乗り、日本に着くなりナプキンを買いに走った。何とか一度も破局的な事態に陥らずに、家に帰りつくことができた。
漏れているんじゃないか、という恐怖は、腹が痛いよりも辛い。生理の血が漏れるのは、「おしっこを漏らすくらい恥ずかしいこと」という意識がどうしてもある。
平成28年3月14日、特別養護老人ホームに入所していた認知症の叔母さん(父方)が亡くなりました。齢90歳。
叔母さんからみて、兄の子である私がひとりでこの叔母に関する全てを執り行ない、総額42,360円の支出のみで完璧に満足のできる葬儀が出来ました。
本日様々な手続きを含めて全てが終わったので記録として書いておきます。
もしかすると家族葬の費用をかけずに行いたい方には参考となるかも(?)しれません。
隣接した岐阜県に私は現在居住しています(実家には車で高速道を使って約2時間30分の距離)。
老人ホームに居たのは私の父の妹で、結婚はしていましたが旦那は既に他界、子供は居ませんでした。
旦那の両親も兄弟も他界して、その旦那の兄弟には子供が居る模様(不明)。
叔母の兄弟は3人。上から順に姉(他界)、私の父(他界)、叔母。他界した姉さんには女1人と男4人の子供がいます。叔母さんから見て、その5人は私と同じく姪とか甥にあたるわけですが、今も健在。 姪とか甥は全部で6人居てそのうち1人が私というわけです(私が最年少)。
叔母は旦那の他界後に体調を崩して富山県内の老人ホームに入所しましたが、その時に保証人となっていたのが私の父でした。
父の他界後は母が時々面会に行っていましたが、母は高齢で運転免許もないので、私が父の後を引き継ぐ形で叔母の保証人になっていました。
入所後は月に1回くらい母と私で施設に面会に行く程度。従兄弟や友人が面会に来たという話は施設の職員の方に聞いてもほぼ皆無。
そんな叔母さんが「食事を充分に摂れなくなった」と施設から連絡を受けたのが今月の初め。
施設に行くと、「食事が自分で摂れなくなったので"胃ろう"にしますか?それとも"点滴処置"を希望されますか?またはこのまま看取り介護に移行しますか?」と選択を迫られることに。
"胃ろう"なんて造っちゃったらまた数年生存してしまうかもしれません。それで元気になるのであればいいのですけど、既に認知症が悪化していて先はありません。点滴したとしても数週間生存が延びるだけです。施設の順番待ちの方も沢山いますし、これ以上税金が叔母さんに使われるのはかなり躊躇われます。
「看取り介護にしてください」と、迷わず伝えました。この時点で全て自分の責任と判断で進めることにします。
さて、ここで叔母さんの余命はあと2週間程度であろうと推測。そうなると近いうちに葬儀の準備が必要となります。
以前私の父が亡くなったときには普通に葬儀を行いましたので150万円ほどかかりましたが、叔母さんは長く施設に入っていましたし、面会者も私と母以外に全くいませんでしたから家族葬で充分です。なお、叔母さんは認知症でありながらも面会毎に「私が死んでも葬式は要らないからね」といつも言っていたのですけども。
まずはネットで検索してみます。業者を使うと直葬(火葬のみ)で10.8万円とかのプランもありましたが、叔母さんが以前から檀家であるお寺が存在していることを聞いていましたし、せめてそちらのお坊さんにお経だけは読んでもらおうと考えました。
(激安のプランって結局「霊安室別レンタル時間料金」とか、「搬送は10km以内でそれ以上は激割り増し料金」だとか、「エンゼルケアは完全別料金」とかどんどん高額にならざるを得ないシステムなので要注意です)
次にネット検索で棺を購入します。直葬セット6点セット(棺(折りたたみ式)、白布団、仏衣、骨壷6寸、骨箱、顔あて布)というものが送料込み27,600円。早速注文して実家に送ってもらいました。amazonでも18,000円とかで棺が売っていましたが(笑)、実家に大きな棺をそのまま何日も置いておくのも嫌でしたのでそちらの折りたたみ式のものを選択。
その後は私も普通に職場で仕事をしていましたが、「叔母さんが亡くなったら自分が喪主となる予定ですのでその時はすぐに休暇ください!」と職場ではアピールをしておきました。
そして、3月14日17時すぎ、施設から「亡くなられました」と電話がかかってきました。私のスイッチが入ります。
すぐに実家近くのレンタカー屋さんに電話し、ハイエースバンを予約。死亡から24時間は火葬することが出来ないため、その翌日17時ではすでに火葬場は時間外となります。ですので、火葬はさらに次の日になるはずだと判断して48時間借りることにしました。
車で帰宅途中にレンタカー屋さんに直行、実家に帰ったときはすでに21時を廻っていました。
借りたハイエースバンに届いていた棺一式を載せ、母と一緒に老人ホームに向かいます。
ところで、以前父が亡くなったときに家族の前で葬儀屋さんが身体を拭いたり仏衣を着せたりするのを私は見ていたのですが、当時その行為にものすごく違和感を感じていましたので、次に自分が執り行う葬儀の場合は全部自分ひとりでエンゼルケア(死後の処置・湯灌)や納棺を行おうと心に決めていました。
22時頃に施設に到着。職員の方に「私がエンゼルケアをしますので部屋は私一人にしてください!」と宣言し、「葬儀屋さんは呼ばれないのですかっ?!」と職員さんに驚かれつつ、エンゼルケア中は母にも外で待機してもらいます。
叔母さんはずっと食べていなかったので排泄物はほとんどないはず。身体を拭き、準備しておいた紙おむつを履かせました。あとは購入した白装束を着せて手を組み、数珠を持たせます。
お化粧もしてあげました。アイラインを引き、チークを入れてリップも塗ります。
叔母さん、とても可愛くなりました。お化粧なんて施設入所してからしていないもんね。
亡くなってはいますが、ちゃんとお話をしながらお世話出来たことが私にはとても満足でした。
痩せて小さな方なのでなんとかお姫様抱っこで棺に収めます。「終わりました!」施設職員の方々に手伝ってもらい、棺をハイエースバンに載せます。法的には死亡診断書があれば車に載せたままどこに移動してもOK。
荷物は後日取りに行くことを伝えて実家に帰宅。ホントは棺を一時家に入れてあげたいところですが、私一人の力で棺を移動させることは到底無理なので、そのまま毛布を棺に被せてハイエースバンを霊安室の代わりとさせてもらいます(汗)。
寒い時期だからよかったのですが、夏だったらドライアイスの購入が必要ですね。
翌日、朝一で市役所に行って死亡届を提出し、火葬許可証を発行してもらいます。次の日の午前10時に火葬予約が取れました。
早速、叔母さん本人が檀家だというお寺に行って、お坊さんにお経を読んで頂くためのお願いをします。
「叔母さんが昨日亡くなられました。明日10時から火葬します。お骨になったら都合のいい日にこちらのお寺に持ってきますので、その時にお経を読んでいただくことは出来ますか?大変失礼かもしれませんが、お布施の予算は3万円です!」
あらかじめお布施の予算をお坊さんに宣言してしまう私も私だと思いますけども、どこまでやってもらえるのかが全く解りませんし、あとで揉めないためにも仕方がありません。
住職のお坊さん、その唐突なお願いと内容に大変驚き、しばらく唸って考えていましたが、「わかりました。それでは、明日直接火葬場に出向きますので、お葬式としてのお経をそこで読ませて頂きます。お骨になったら、骨壺を持ってもう一度お寺に来てください。」と提案していただきました。
これでお坊さんの手配ができました。本来、枕お経(?)と言って火葬前にお経を読むこともあるようですが、お葬式としてそこで読むのは初めてとのこと。
ここまでで、この日に行う調整は全て終了です。老人ホームに挨拶に行くと、施設長さん(高齢の女性です)が応接室に通してくれました。
昨日からのお話をしたところこれまた大変驚かれ、「私もそうやって家族にやってもらいたいわ!」と感動されました。何でも、今の人達は全部業者(要は他人ってことです)にお金を払ってやってもらうのが普通で、「昔はそういうことは全部家族でやったのよ・・」と全てお金で解決して他人事のように進めてしまう現状を嘆いていらっしゃったのが凄く印象的でした。
帰宅して翌日の葬儀のための喪服を母と準備。ここで叔母さんは亡くなってから2日目ですけども、ハイエースバン霊安室にはあと1晩活躍してもらうことにします(汗)。
翌日、母と一緒に棺を載せたハイエースバンで火葬場に行きます。寒い時期なので、ドライアイスがなくとも車内に全く臭いはしませんでした。
火葬場の玄関に車を横付けし、火葬場の職員さんを見つけて「棺を降ろすのを手伝って頂けますか?」とお願いします。職員さん、承諾はしていただいたものの、何か怪訝な表情。
「葬儀業者の方?」と聞かれて「いいえ。家族です。自分で持ち込みました」と言ったところまた大層驚かれて「経験があるのですか?」「いえ、全くありません。何事も初めてですから教えてください」と答えるとさらに周囲の職員皆驚いている様子(←なぜそこまで毎回毎回皆さん驚くのか未だに全く解っていない私)。
そういうやりとりをしているうちに、お坊さんが15分前に到着。棺の前でお葬式(告別式)としてのお経を読んで頂きました。お経がめちゃ早口です(笑)。内容はわかりませんけど、それなりのお経だったのだと思います。10時ピッタリに読経終了。さすがプロですね。
火葬が終了するのは11時50分とのことだったので、それまでの時間を利用して、棺を降ろして空になったハイエースバンで老人ホームに向かい、残っていた荷物を引き取りに行きました。
お礼やら挨拶をして11時30分に火葬場に戻ると、職員さんが既に玄関先で待っていて「もう終わりましたので収骨に来てください」とのこと。
収骨は別室で行なわれます。通販で購入した6寸の骨壺は全骨収骨にはピッタリの大きさでした。骨箱に壺を収めてお寺に向かいます。
お寺に着くと、そのまま壇上に上げてお経を読んで頂きました。15分くらいでしょうか。檀家ってことで、壺に戒名?を書いて頂き、そのままお骨は預かってもらうことになりました。もしも拒否されたら散骨でもしようかと考えていましたけども。
「これで全部終わりました」とお茶を出されて母と一緒に一安心。(お坊さんが関わったのは車での移動を含めて約1時間程度)
住職に「今までこのような葬式をされたことはありますか?」と聞いてみると、「以前1回だけ、身よりの無い人に対してお経だけというのはしたことがありますが、こういうのは初めてです」とのこと。うん、そうなのですね。よほど珍しいのですね・・、まあいっか。
お約束どおり3万円の入ったお布施の袋を渡し、お礼を言って今度は近くのリサイクルショップに先ほど施設から回収した大量の衣服やキャビネット家具等の荷物を持ち込みます。「全部置いて行きますが、お金要りませんので処分もいいでしょうか?」との条件で交渉成立。
そのまま帰りにレンタカー屋さんに寄ってハイエースバンを返却。母と歩いて実家に帰ります。途中でお昼ご飯。
さて、火葬の手続きで前日に市役所に行ったとき、年金手帳や国民健康保険証等の返却等は除籍謄本が出来る1週間後でないと事務処理は無理だと聞いていましたので、私はここで一旦仕事のために岐阜の自宅に戻ります。
葬儀を執り行った連絡を先の5人の従兄弟に通知します。以下の内容でハガキを送付しました。
……………………………………………………………………………………………
叔母 ○○ ○○儀 かねてから特別養護老人ホームにて療養中でございましたが
ここに謹んでご通知申し上げます
葬儀におきましては 故人の生前の意志により 誠に勝手ながら家族のみにて執り行いました
本来ならば早速申し上げるべき処でございましたが ご通知が遅れましたことを お赦しください
生前中賜りましたご厚誼に心より御礼申し上げ 失礼ながら 書中をもってお知らせ申しあげます
〒○○ ○○-○○
○○ ○○
喪主 ○○ ○○
……………………………………………………………………………………………
一週間後、休暇をとって実家に戻り、市役所と年金事務所に行きます。この年金の手続きを行うため、あらかじめ私の居住地で自分の住民票(家族全員)、戸籍抄本を取得しておきます(これがないと叔母との関係を証明できない)。
また、生計同一関係に関する申立書(遺族年金・未支給・一時金)※配偶者・子以外が請求するとき っていう書式が必要となります。直系家族ではないので、関係があったということを第3者が証明するためです。理由は「毎月面会して日用品などを援助していました」とかでいいみたい。証明には老人ホームの施設長さんの名前と印が必要だったので、FAXしてあらかじめ返送をお願いしておきました。
市役所で取得するのが叔母の住民票の除票、叔母の除籍謄本、私の父の除籍謄本。返還するのが叔母の後期高齢者医療被保険者証(国民健康保険証)。これを返すと葬儀費用として3万円が支給されますので、棺とレンタカーの領収証を提出します。あとは介護保険の保険証や障害者手帳、印鑑登録証なども返却。自分の預金口座を通知します。
次いで年金事務所に行き、叔母の住民票の除票、叔母の除籍謄本、父の除籍謄本、私の住民票(全員)、私の戸籍抄本と準備しておいた生計同一関係に関する申立書を提出。これだけ揃わないと、叔母との関係を証明できないとのこと(謄本等に祖父母の名前が書いてあることで関係を確認)。ここでも自分の預金口座を通知します。
叔母が亡くなるまでの1ヶ月程度の年金が支給されるのですが、凍結されてしまった叔母の口座では入金できないため、私の預金口座にしないといけないのです。
ちなみに、こんなこともあるだろうと以前叔母の口座はネットから操作できるようにしておいたので、残っていたわずかな預金は凍結前に私の口座に振り替え済みなのでした(笑)。
これで叔母さんの葬儀と様々な手続き全てが終了しました。実際に私が動いたのは亡くなった日の夕方から葬儀終了までの2.5日間の間と、1週間後に市役所等の手続きに使った1日間の計3.5日間のみ。
直葬セット6点セット 27,600円
合計 72,360円、市から葬儀費用30.000円が支給されるので、
葬儀支出総費用は 42,360円 ←後日支払われる日割りの年金支給分で完全に相殺される予定
そして最後に 叔母さんのご冥福を心からお祈りして終了させていただきます。
合掌
人に話したら完全に俺が悪いと言われた。 それは認める。まぁでも鬱屈した気持ちをアウトプットさせてほしい。
その人とはもう10年くらいの知人。 最初に出会ったきっかけも忘れた。 インディーズの芸人さんをやっている。 芸風は何でもあり。 漫才もやるし漫談もやるし色々やる人。
今日突然メッセージが来た。「○月○日 25周年記念ライブを○○でやります。 来て!」
この人からはいつもこんな感じでメッセージが来る。 告知・・それはわかる。だけど何でダイレクトにメッセージが来るのかずっとわからずにいた。 で、返信しないことも度々あった。
その日は仕事があり、次の日も朝が早い。 どうしようか迷った。 25周年だし、付き合いもある。でも、何をやるか全く内容がわからない。
で、「何か特別なことするんですか」と返した。 そしたら「言えないけどビッグゲストが来る」と返信がきた。 また何をやるかは書かれていない。
「失礼ですが、あなたの舞台に行く度に知らない人が舞台上にいて(よくつるんでいてその時々で面白いと思ってる人を舞台にあげるらしい)よく知らない過去の話をして正直ポカーンとしてしまいます。 しばらく舞台を見に来ていない人でも楽しめると太鼓判を押していただけるなら参加させていただきます」と。
そしたら「もう来なくていい。25年やってる人間に言う言葉じゃない 二度と誘わない」 と返信が来た。
終わったな と思った。 自分は25年やってきた人のプライドを傷つけた。 その人とはよく行く飲み屋が一緒だ。共通の知人も多い。 顔を合わせたら相当気まずいだろう。最悪殴られるかもしれない。
だけど、自分の気持ちにウソをついてまで耐えられなかった。 たった一言「面白いにきまってるやん」と返してくれればよかった。 悲しい。
追記:ブコメで売れる売れないの話がでたけど、その人は売れる/売れないという価値観からは外れたところをベースにして活動されている。 売れなくてもいいやとは思ってないが、自分のスタイルを曲げてまで売れたい 売れるための行動をしたいとは思わないと思ってやってきたタイプの人 です。
今日本では大抵の人が朝9時には職場にいることになってる訳だ。
すると朝8時には電車や車に乗る必要があってその為には7時半には起きないと駄目な訳だ。
その状態で睡眠時間を8時間確保しようとしたら夜中の11時半には寝てないとおかしいって事になる。
それどころか3時ぐらいになってようやく砂嵐になる。
人によっては朝6時半とかに起きないといけないのに見たい番組が10時から始まったりする。
こんなんじゃ睡眠時間を安定して8時間なんて取れないじゃないか。
人間は睡眠時間を8時間取らないと少しずつおかしくなるように出来ている。
そりゃ狙ってそういう設計をされた訳じゃなくてそうしないと壊れる程度の強度にしか作れなかっただけの事だけどそういう風に出来ちゃってる。
それは現代人が忙しいとか言った所でどうしようもない。
どうにかしたかったら少し寝ただけで疲れが取れるホルマリンタンクなり遺伝子改造なりしちゃうしかない。
でもそんなの今の科学力じゃ無理。
というわけで現代人は忙しいけどちゃんと寝ないと駄目なわけ。
だけど現代社会はそんなの知ったこっちゃないと言わんばかりの作りをしている。
ちゃんと寝る必要なんてないんだどうにかなるんだからと言わんばかりだ。
しかし実際はどこもかしこも能率の落ちてる奴やヒステリー起こしてる奴が少なからずいやがる。
何を考えているんだそいつらをさっさと寝かせろその方が絶対世の中が上手く回るぞ。
それなのにどうしたことかこの社会は夜中の10時に家に帰る人に配慮して10時から面白い番組やるよとか抜かしやがる。
馬鹿だろ。
受験生にすら5時間も寝てるんじゃないとか言うらしいじゃないか。
本当に何を考えているんだこの国は根性論で睡眠時間が減らせるわけがないだろ。
何だ根性を出せば精神と時の部屋が作れるのか作れるなら今すぐ作ってもらおうじゃないか。
人間は寝ないと脳が壊れるように出来ている。
2011日3月9日は癌を患っていた私の母が安らかに逝った命日なんだが、慌ただしく葬儀の準備契約を済ませたところに大震災が来た。
葬儀社も震災による被害を受けて壊滅、列席予定だった人たちも多く亡くなり、私の母の葬式どころではなくなってしまった。
幸いにも遺体の安置されていた斎場は高台にあったので津波にさらわれずに済んだが、生きているものが優先される中で遺体は放置せざるを得ず母の遺体はそこに放置された。
ようやく母の遺体を回収したのは一ヶ月も過ぎた頃で、腐敗が進んで酷い状態だったので、葬式もあげずにそのまま県外の火葬場へと直行して、私の手元には小さな骨壷が一つ残っただけだ。
あれから5年が経過しようとしていて、震災で亡くなった沢山の方々を偲ぶ気持ちは私に当然あるし、友人や親戚も数多く亡くなった悲しみはある。
私の母が癌で死んだことを知っている人間がもう五年も経つのかと話題に上げ線香をあげにきてくれることは無いが、震災で亡くなった人は毎年のように慰霊祭やらで弔ってもらえる。
日航機の件でもそうだが、おそらく今後数十年以上はこの慰霊祭が毎年行われて、テレビで報道され、後世の人達が震災で亡くなった方々を偲ぶことだろう。
だがそこに私の母は入っていない。
金はあるが数年後に迫った定年退職後の余生を考えると、母の墓を守る人は遠からずいなくなるだろうし、私を弔ってくれる子供や家族はもういない。
なぜ大震災で亡くなった方々は毎年弔ってもらえるんだろうか。
311が近づいてその話題が毎年のぼるたびに私の心は嫉妬にも似た忸怩たる思いであふれるのだ。
死んだ人間には何の意味もないかもしれないが、すべての人が死ぬことを受け入れた上で指摘するなら、震災で死んだ人は幸せだ。
死んだあとも半永久的に弔ってもらえるし、それが忘れ去られるには相当の年月がいるだろうから、その間はずっと遺族や関係のない国民まで覚えていてくれて弔ってくれる。
私の母は、私は、遠からず誰も弔ってくれない無縁仏になるだろう。
寺に全額遺産を寄進して永年供養をお願いしてはあるが、どうしても私の頭からもし母が震災で死んでいたら、と思わずに入られないのだ。
正直よく分からんかった
とか
養子に来てくれる人見つけりゃ良いじゃん(これについては疑問あるからまた別で書く)
とか
日本はそういう国なんだよ、同じ苗字だから日本人たるなんだよーーバーーカ
みたいな内容とか
だとか・・・まあ原告に対する色々な反対ご意見がネットで飛び交った
私は 選択的夫婦別姓に一刻も早くして欲しい派!!
でも正直あの告訴内容では
結婚をためらう
★特に原告の主張はメディアに出て話てるご婦人はアイデンティティーの喪失を強く語ってらっしゃった
元の姓で死にたい等~
これ主張されて、そうですか!お気の毒ですねそれでは別姓とりいれましょうね
なんて思う??
私は思わないなー
なんとなく、この主張は申し訳ないけどただの気ままにい映ってしまってたと思う
これは早急になんとかして欲しいレベル(世界に向けて活躍してる女性は沢山いらっしゃる)
これが意外に一番被害者じゃなかろうか?
日本国民たる者!日本人ならば家族制度をして同姓を名乗るのが当然と
嫁たる者婚家に仕え・・・嫁に来たんだから、嫁のくせに、舅・姑にかしずけだの
この時代に未だ男が誉れ・男産んだら嫁の義理は果たせたなどなど
なんてね、この日本国民たるはって『家』というものを念頭に置くとさ
家族・跡継ぎ・家名を残す これを大事に思う気持ちは当たり前だよね
それでは・・・
って事なの?
これについては別で書こうっと
要は・・・
この内容の主張では夫婦お互いが話し合って解決出来るレベルの話でしょ?
http://anond.hatelabo.jp/20160115094121
こういう問題って、結局回答は「(自発的に)何かする」か「何もしない(流れに任せる)」かの二つに一つなんだよね。細かく選択肢を分割すればそりゃいろいろあるけど、それらはこの大きな2つに分類されるから。
んでもって、「何かする」ほうがいいのは、多分増田を含めてみんなわかってる。「何もしない」を選択したせいで、結局親に支配されたままここまで来ちゃったんだから、その選択はどうも幸福につながってらしいぞってのは、薄っすらとわかってるはず。
問題は「何かするって何するんだよ。何すりゃいいんだよ!?」って思うことなんだけど――これについては「それ罠だから」というのが言えるアドバイスだ。
「何かする」決意をするために「何をするか?(すればいいのか?)」っていう情報は、本来必要ない。
そりゃ、その情報があれば決意しやすい。でもそれって、本質的には「攻略Wikiを読んでからゲームを進めたい」と同種の欲求なんだよ。
理不尽で不確実なこの世界では、ある特定の選択が同じ結果を保証しない。それは人によって向き不向きがあるということでもあるし、同じ個人が同じ行為をしたところで結果が安定しないということでもある。
もちろん「結果が良くなりそうな選択肢」はあるけれど(たとえば増田の場合「大学に入学した」がそうで、そこまで間違ってないはずだ)、それだって100%じゃない。大学に入ったのが不幸の始まりだって人もいないじゃない。何をすればいいのか? ってのは完全攻略情報じゃないから、結局、「何かをする」という決意に完全な保証は与えられない。
少しでも良い選択肢を探してから動きたいというのが間違いなのか!? と顔を真赤にして怒る人がいる。お前は俺に間違いを選択させようとしているのか! 俺は賢く生きたいんだ! そんな無責任なTake it Easyを礼賛して失敗したらお前責任とってくれるのか!? そんなはてブコメント、たくさんつく。
でも思い出すべきなのは、人生は有限だってことで、特に大学生活なんて砂時計のようにカウント・ダウンされていくってこと。「より良い選択肢を探してさまよう」「良いチャンスを待つ」なんて「不選択」を続けていくうちに、どんどんチャンスは減っていくのが、この理不尽な世界なんだよ。確率が低くても、バットを振り回したほうが、出塁のチャンスはある。そんなことよりも「正解を選ばないかぎりひどい目にあう」という親の洗脳によって、全打席棄権するほうが、よほどチャンスを失う、地獄への直行バスだよ。
「何かする」決意をするためには、決意だけでいいんだ。賢い選択肢は、前提じゃない。
むしろ「何かする」決意をした後に「じゃあ何をしようか?」だよ。「なにかよい選択肢があれば、それをする」は順番が逆。
自分が役に立たないと思ってる趣味でも、バイトでも、なんでも「何かする」すれば、それでいいんだよ。レポートも、内容の出来不出来じゃなく、とりあえず、書けばいいんだよ。点数が低いなら、二本出せばいいんだよ。二本でダメならもっと書けばいい。「何かする」の本質って、「打席はこれで終わりじゃない」ってことなんだから、いっぱいダメなもの作って、そのうち、偶然だろうがなんだろうが、会心のものが生まれれば、それでいいんだよ。
私は変にプライドが高く、黒髪、メイクに抵抗があるスッピン喪女だった。外見に関しては世間の人様が私と一緒に歩いてる所を「誰かに見られたくない」と思われない程度の「清潔感」や「小奇麗」なスタイルをしていた程度だった。因みに腫れぼったい一重。コンタクトレンズも怖くて出来ない人間だったから授業中だけ眼鏡。
勉強を頑張ったり、何かしらの成果物を残す方向で、皆に認められようと努力し、クサイ言葉だけど「ありのままの自分」の姿で生きてきた。
メイクに抵抗があるのは、中学の頃からずっと。何だか顔に美術を施してるみたいで…何よりもメイクしたら最後。まるっきり自分の顔じゃあない。本来の自分はどこ?
正直顔面詐欺だ。詐欺な顔で友達を作っても(釣っても)、この顔で寄ってきた子達と友達になっても真の友達じゃないし、何か仕事をしても正当な評価じゃないから。だから、不細工だけど小奇麗にしていて数字を残していれば、私はそれで良いと思い込んでいた。
それは、非常に浅はかな考え方だった。それに気が付いたのは、進学してからだ。
1個上の先輩を好きになった。電車の窓に映ったスッピンの私の顔がどこか「女」の顔になっているのが、自分でも解った。ほっぺたはどこか赤いし、表情が違う。変な言い方をすると、世界中の人達を愛せる様な、今なら何でも許せる、そんな大らかな気持ちを抱いてた。体中がポカポカして、無意識にスキップでもしちゃうんじゃないかって位。
先輩に告白したい。でも出来ない。しちゃいけないって解ってた。理由は2つ。
好きだったけど、偏差値も人として(既に先輩は大人と対等に会話できる人だった)色々スペックが違い過ぎて。お呼びでない感はもう空気感で伝わった。私は告白なんてする土俵にすら上がれない事は、本能的に悟った。だから、告白できなかった。
それから、先輩は煌びやかな造形美な女性が好きだった。北川景子や佐々木希、滝川クリステル。同級生や学内に居る女子に対しても、そう言った華やかな女子に対する態度と、素朴な女子に対する態度とはあからさまに違っていた。
私は自分のちっぽけなプライドをへし折って、メイクしたり垢抜ける事は出来なかった。結局は自分の個性を、私は取ったんだ。初恋だったのに。今ある自分の素材の範囲内でのオシャレと減量(163cn 46kgになった)。私のプライドと折り合いを付けた努力は、その程度だった。案の定、造形美な華やかな女子や先輩方とは、足元にも及ばなかったし、一緒の空気さえ吸えない程の外見。
そうこうしていると、私は某男子から告白された。外見が太ってて背も低くてキモい男子だった。例えるなら、銀魂の「ハタ皇子」そっくりだ。性格は社交辞令を真に受ける様な、それでいてナルシストな男子。学校の皆は彼を茶化しちゃいけない相手として接してきた。何か茶化したら、ちょっとした一言で自殺しちゃうんじゃないか。そんな様な男子。
どこかのブログで「僕は性の対象として観てない女子から、性の対象として見られていたと知った時ゾッとした。好きでも無い女子から告白された時、「死ね」と思った。精神的にもダメージが大きかった。だから、不細工と自覚している自分からは絶対に告白しない。正直言って、相手の女性からしてみたらテロの被害者である。」というのを読んだ事がある。
まさにその通りだった。私は彼から告白された時、丸で末期がんを診断されたかのような、奈落の底に突き落とされた。
私の事が好きな事は何となく解ってたけど、クラスメートとして、適度な距離を取りつつ、挨拶をする程度にしていた。私は彼に対して決して誤解を招く様な発言も行動もしてなかったと思う。害はないと、思っていた。だから、ノーガードだった。突然呼び出されて、告白された。
「何で私なの?」
「だって、〇〇さんは美人だし、△△さんは可愛いし、僕には到底告白なんて無理だから。でも、貴女は僕とあいさつしてくれるし…」下を向いたまま、何故かコーヒーのストローの紙でずっと折り紙?をしている。
つまり、私は彼にでさえ「コイツなら嫌とは言わないだろう。素直だから、自分の意見を持たない良い子だから、自分にも手が届きそう。」と思われていた程度の存在だった。
自分の市場価値というものを、痛いほど実感した。先輩に好かれたいとか告白なんて、もう絶望的なレベルの人間である事も、十分痛感した。
こんな精神的に病む事を、先輩に経験して欲しくない。だから、今の私は、先輩を好きになる事すら迷惑がかかる存在。一方、ハタ皇子の気持ちもよく解る。だから丁重にお断りした。それでも毎日毎日、距離を縮めてきて「友達だから、良いよね?」と昼食を同席してきたり、フィールドワークの際もついてきた。終いには、「昨日、忙しそうだったけど、なんのイベントだったの?友達なんだから聞いても良いよね?」とやたら詰め寄ってきた。
「友達」という大義名分で、どんどんとハタ皇子が近寄って来て、気持ち悪いという気持ちがやがて、「ウザイ」になった。
「いい加減にしてよ!」と叫びたかった。でも、言えなかった。私も、一歩間違えれば絶対に先輩に盲目になり猛アピールしてたと思う。そうなったら先輩は私を再起不能にするまでに一喝するだろう。それを想像すると、背筋が凍った。だからハタ皇子の気持ちも解るし強い口調で「いい加減にしてよ!」だなんて言えなかった。
私は、考えるに考え、笑顔を作りつつも、徐々にフェードアウトして、なるべく同じ授業を取らない様に、気を使いながらニアミスしない様に、学校生活を送った。
そして7年が経った。
私は卒業してから、アイプチに手を出し、都内の有名美容院巡りを経て出会った女性スタイリストさんが独立して経営する小さな美容院に通っている。
お堅い仕事柄、スーツだけれども、私服も、シンプルながらも地味すぎない、小物を使ったファッションを採り入れて、無理のない、背伸びをしない、オシャレを楽しむ女性になった。雑誌は買わないけれど、オシャレな女性を見ては真似をしたり、服の配色や自分が絶対似合う服を把握。女を楽しんでると思う。
アイプチの効果は偉大だった。周囲の人たちの態度がまるで違った。人扱いから、贔屓扱いしてくれるようになった。「可愛くなったねえ」「お姉さんになっちゃってまあ」。苦手だったコンタクトも克服できた。因みに、つけま・カラコン無し。アイメイクもアイプチだけ。と言うか出来ないよね、アイプチノリだし。
社会に出てから、男性から告白されるようになったし、「美人」とか「班のマドンナ」とか言われるようになったり、視線も多く浴びるようになった。周囲から見返りを求めずチヤホヤされる事も初めてされた。女扱いが初めてばかりので必然的に私は、しどろもどろで腰が低くなる。「調子に乗らない良い子」「付け上がったり高飛車じゃないから良い」とか。
人間ってここまで私は変われるんだ…プライドをへし折った、それだけで。別世界な社会人生活を送っている。
人間ってここまで外見が違うと扱い方が変わるんだ…。人間不信じゃないけれど、人間の心って不思議だな、と思った。同じ「私」なのに。
漸く、軍資金も、経済基盤も、社会人としての生活も、衣食住も、整った。
けれど、卒業後から同窓会などには一切出ていない。例の先輩に私が何故か告白しフラれた事になっている様だ。そしてハタ皇子からはリベンジをされそうなので(実際FBに友達申請が来た)恐いし、正直行けない。先輩の件も、ハタ皇子の件にしても、その二つを考えると、どうにも腰が重くなった。
経済的にも精神的にも女としても、成長したら、先輩に告白するつもりだった。今がその時だと、思ってた。腰が重い…でも、その思いはムダだった。
既に先輩は就職して赴任先で出会った、同業他社の女性と結婚したみたい。去年から東京に戻ってきたみたいだけれども、もうパパなのかな。
「遅かったか」と思ったけれど、不思議とショックはそこまでなかった。だって、好きならお互い自然にそうなってたはずだし。それに、社会人になってから「人を好きになる事」という事を改めて実感した。身が焦がれるような恋が、この世にこんなにあるんだって事も知ってしまったから。素敵な男性が、沢山いるんだって、知ってしまった。
だったら学生時代に、告白してればよかった?という思いがよぎる度に、ハタ皇子からの告白の精神的ダメージを思い出し「私は正しかったんだ。」と思えた。
何よりも、このプライドの高い私が、メイクに手を出し、自分を変える・捨てる、なんて一新させ、今の生活があるのも、ハタ皇子のおかげなのだ。
ハタ皇子が私の市場価値の低さを、結果的には教えてくれた、目を覚まさせてくれたんだ。
いつか、私が好きになる男性に、失礼のない様に、見た目も可愛くなる様に、ほどほどに気を配るつもり。
因みに、二重になったので、今はアイプチを卒業。今は普通に昔の同期と会ったり、先生と会ったり、コミュ障も大分なくなったかな。
私にとって、自分を見つめる事は、とても大きな壁だったけれど、強引な形で向き合わざるをえなかった事で、喪女的外見から卒業できました。
でも、矛盾しているけれど、今でもスッピンで勝負している女性達にはエールを送りたい。私は負けたけれど、彼女たちの「ありのままの姿」で家族を持ち生活を送る方々には敬意を示したいと思っている。
乱文で御免。ここまで読んでくれて、有難う。
とのことで
とか
情報収集のために
とかよりよっぽど納得できるものだった
でもさ
なんでそれが「新聞」なの?
例えば「客も見てるから増田には毎日目を通せ」ってならわかるよ
ってかあっちゃいけないよね
つまり新聞に載ってることは他のメディアでも見れることなんだよね
むしろ新聞ってニュースを伝えるメディアとしてはかなり非効率的だよね
結局それって
ネットやテレビで話題のニュースより新聞で話題のニュースの方が重要だ
ってことなんだよね
なんかそのへんがどうにも納得できない
実際のところ知らなきゃいけないようなニュースは新聞読まなくても自然と入ってくるし
それ以外の記事は明日にはどうでもよくなってるようなことなんだよね(あくまで仕事上は)
例えば上司に「今日の日経新聞の○面読んだ?」といわれて「読んでない」と答えて
「〜〜(新聞記事では読んでないけど既に知ってるニュース)っていう超重要なニュースでてただろうが!!情報収集しとけやゴラァァァ!!」ってなることたまにあったりするけど納得できない
読んでも5分くらいで
土日版なんて目も通さず捨ててる
ポストに入ってるチラシ並の扱いで、部屋に持ち込むことすらなく
雨の日の靴に突っ込んだりするための新聞紙は一年分くらいは溜まってるしね
誰か毎朝一部50円くらいで買い取ってくれないかなあ
なんか官房長官の子供に関する話で話題になっているようだけど、あの人たちは何であんなに思考回路が短絡的なのだろう。
「国家に貢献」というフレーズに反応していたようだが、すぐに銃剣を持って敵影の前に飛び込み命を捧げろという風に解釈してしまうのだろう。
恐ろしくて震えますね。
普通なら、賢い人に対しては、共同体へ貢献して欲しいと思うものじゃないのか?
その頭脳を持ってして、例えばスポーツで活躍したり良い指導者になって欲しいとか、芸能の分野で活躍してさらなる新たな境地を開いて欲しいだとか、学術分野で優れた研究を行い文明の発展に寄与して欲しいだとか、農産業、行政、政治などなど、様々な共同体への貢献の仕方があると思うのだ。
確かに「国家」という単語は芳しくなかったかもしれない。別の言葉、例えば「社会」という言葉を使ったほうがよかったのかなと思う。
また、「産む機械」発言もあって公人の発言に対しては厳しい目が向けられているのは事実である。
厳密に言えば幽霊ではないのだけど、他の人には見えないものが見えていた。それを姉に相談したら、それはきっと霊感だよと言われた。だから、それを漠然と霊感だと信じていた。今で言えば共感覚と言われるものかもしれない。だが、そんな言葉も知らない幼少期は、自分には特別な能力が備わってしまったのだと思っていた。
ある程度の年齢を重ねてそんなバカバカしい物を信じているのはおかしいと考えるようになり、見えている自分を否定するようになった。見えていても見えていないふりをするようにしていたのだ。それを続けることによって見えていないと思い込むことは簡単だった。
だけどつい先日、それは再びわたしの前に現れたのだ。白昼の社内、人一人分の影が室内をウロウロとしていた。誰の影かはよく考えないとわからないが影の形やその動き方の特徴をよく見ていると、なんとなくそれが誰の影かがわかってくる。
今日のそれは部長のものだった。それに気づいて部長の机に目をやるが、部長はいつもの様に自分のデスクに座って書類に目を落としていた。
その2日後に部長は急な転勤になった。周囲の人間は入社して間もないわたしの前では一様に事情を話そうとしないが、どうやら会計に不正があったであろうことだけは分かった。
新人のわたしに誠実な態度で丁寧に仕事を教えてくれた人だっただけに、ショックは大きかった。
わたしの両親はわたしが物心がついた頃から自営で雀荘を営んでいた。幸いながら営業が順調だったこともあり母親も深夜まで働いていた。
わたしは小学校が終わると家ではなく両親のお店に直行した。そこでご飯を食べたし漫画も読んだ。暇になれば近くのゲーム屋さんや本屋さんに行っていた。眠くなれば片隅のソファで睡眠をとり、仕事が終わった母親に抱きかかえられながら家に帰った。放課後の大半はそこで過ごしていたのだ。
そんなある日、突然店の中を歩く人の影を見た。はじめは見間違いかと何度も見なおしたが、それは確かにそこにあった。その一部の空間だけが暗く、人の形に動いていたのだ。
それが誰かの影かどうかまで考えなかったが、その日の夜に信用していた従業員がお金を持ち逃げしたという話を、数日後に両親がしていているのを耳に挟んだ。
それからというもの、度々お店の中で人影を見るようになった。大半は誰の影かわからないままだがその影が現れると従業員が金を持ち逃げしたり、お客が金を借りたまま蒸発したりといったことが起こった。
そのことで親にも相談したことがあるが当然とり合ってもらえることはなかった。それどこか、子供が大人の事情に口を挟むんじゃないと強くたしなめられてしまい、それ以降は親に相談することもなかった。5つ年の離れた姉に相談したのはその頃だった。
中学に上がると時折学校でも影が見えることがあった。大抵はその日か数日後に長めのホームルームが開かれた。理由の大半は盗難だ。
クラスにはいじめも当然のようにあったために、このことを友達に話すことをしないまま高校に進んだ。
高校と言っても地元の公立校である。大半は見知った顔だった。その頃には毎日のように色々な影が見えたが、かと言って毎日学校で何かが起こるかというとそんなことはなかった。
そんな時、影の一つが見知った人のものだとわかってしまったことがあった。仲の良い友達の一人だった。本人に何かしら聞いてみようかと散々迷った挙句、気持ち悪るがられるのが嫌であきらめてしまった。
その友達は数日後に学校を退学した。万引というよりも窃盗に近い犯罪だった。
そのことがショックでわたしは影の存在を認めることが怖くなってしまった。友人と話すこともなんとなく避けるようになり、例え誰かと話をしていたとしても足元ばかりを見るようになっていた。当然のようにわたしの周りから人は離れていった。
不思議なことにそうすることで影を見る頻度が減っていくことがわかった。影そのものが減ったのかどうか疑わしく考えていた時に、教室内で音楽プレーヤーの盗難が発生した。沈黙が続くホームルームの中、わたしは一人で嬉しさを噛み殺していた。
それからも色々と試してみたが、どうやら普段から下を向いていればたまに顔を上げた程度では影がみえないことがわかった。くだらない事件は相変わらず周囲で発生していたが、影が見えなくなれば別に気に病むような事にはならなかった。
そうして非科学的なことを悩むこと自体がバカバカしいと思うようになり、とくに意識しなくても影なんてものは見えなくなっていった。そのうち、見えていたことが自分の思い込みだったのではないかと思うようになり、そうしてこの年までそんな話自体も忘れていたのだった。
部長の一件を含めて今になって考えてみれば、どうやら自分に備わっているのはその人の後ろ暗さを見抜く力のようだった。
幼少期から雀荘という特異な環境に身をおいていたことで、何の気なしに人の表情や行動、しぐさなどを見ている間に、その中から誰かから何かを奪おうとしている機微を見抜いていたのかもしれない。
人から何かを奪おうとする人間はそれだけ周囲に対する警戒心が強くなるということなのだろう。この歳になってオカルトな話をするようで恥ずかしいが、その相手から感じ取った漠然とした不安が影として見えていたのかもしれないということだ。
先日、社内の男性に食事に誘われた。部長が転勤になってからわたしの教育を買って出てくれた2つ年上の男性だった。こんなこともあって学生時代に満足に人付き合いもしたことのないわたしは、断る理由もなくなく誘いに乗ってしまった。
ところが、その日になってまた現れたのだ。事務所の室内を落ち着かない様子でウロウロとしている影である。しかも、最悪なことによく見ればその影は食事に誘ってくれた男性のものだった。
誘いを断ろうか寸前まで悩んだ。勤務時間内で何か事件でも起こってくれれば自然と食事もなくなってくれるだろうと淡い期待も抱いていた。しかし何事も無く終業時間を迎え、結局断るタイミングもないまま彼との食事に来てしまった。最悪自分の身の回りのものだけ肌身離さずにいればいい。食事が終われば用事があるなどと理由をつけてすぐにその場を後にすればいいのだ。
心なしか店に案内する彼からも得体のしれぬの緊張が伝わってくるかのようだった。
はじめのうちは仕事はどうか、人間関係は問題ないか、そんな当り障りのない会話をしながら食事を楽しんでいた。そうしてある程度お酒も進んできたところでふと顔を上げると、いまだかつて見たこともないような大きさの色濃い影が彼の後ろに迫っているのが見えた。
一瞬で酔いの覚めたわたしは身の回りの所持品に緊張を張り巡らせた。影の存在以前に、彼の表情が見るからに緊張していくのが分かった。
「こんな人の目がある中でまさか」
次に起こることが予測できない恐怖から逃げ出そうとした時だった。
次の行動を注意深く見つめるわたしに、突然彼は向き直って口を開いた。
「も、、、もしよければ、また食事に来ませんか?というか付き合ってください!」
しばらくの沈黙の後、やっと状況を理解したわたしは大声を出して笑い転げてしまった。
なんと融通の効かない能力なのだろう。彼が奪おうとしていたものはわたしの所持品ではなく、わたしそのものだったのだ。
そんな違いさえ判断できないなんて、なんて愛おしくもぶきっちょな能力なのだろう。
そんなわたしの気持ちなど知る由もなくあっけにとられている彼の手を握りながらわたしは答えた。
「こちらこそ。「こんなわたし」でよかったら。」
彼の表情が緊張から喜びに変わっていくと同時に、大きな影も姿を消していくのがわかった。
これはただの日記だけれど誰かに読んでもらいたくて書いているようなものだからそのつもりで書く
20になる前の日だった 何かと影響を受けやすい自分の性として誕生日に何かと意味を持たせようと上の空で考えていた
フェイスブックでは友達と肩を組み居酒屋かどっかで騒ぐ画像 自分にはそんな友達はいない
あとこんな比喩を幾つか続けるつもりだったけれど思いつかないからここら辺にしておく だいたいの感じだけわかればいい
バイトを終えてからふと思いついた事なのでとりあえず銀行へ直行 家賃とサイトで見た代金、余分なお金を引き落とす
いつもタバコを買っているコンビニで氷結を買ってとりあえず近くのゲーセンで一服しながら飲む
自分は思いつき第一で動いている人間なのでここでちょっとだけ冷静になって考えてみたけれど頭に浮かぶ事はどうでもいいことばかりではっきりと何を考えているのかわからなかった 良心の呵責とか社会勉強という言い訳とか自分についてとか 考えているフリをしているだけで何も考えてなかったのかもしれない というか何も考えたくなかったのかもしれない
結局何の感慨もなくピンサロに向かって歩き始めた
その途中で駅の近くのスタジアムでサッカーの試合がある事を知った
何となく気になるけれどそこまで肩入れはしていない程度のものだった
スタジアムに向かって歩く人たちを見てピンサロ行ったあとに行こうかななんて事を考えながら歩いた
ビクビクしながらタバコを吸っている間に今までにあったこういう場面を思い出してみるとたった20年でこれだけかとも思うし20年なんだかんだでいろいろあったなとも思う
どちらにしろ色々影響を受けすぎているなという結論に至りながら黒光りする壁をマジマジと見つめる
という訳で入店 いつも通りのぼそぼそとした小さな声で絞り出すようにしてフリーで とだけ言った
番号札を渡され15分ほど待つように言われた
順番待ちの席に着く 隣には無表情のバイタリティが溢れ出そうなサラリーマン バイタリティが溢れ出そうなサラリーマンはやっぱり風俗に行くのかと妙に納得
座って待っている間 恥ずかしまぎれの言い訳のように俺はなんでここにいるんだと心の中で繰り返していた
なんだか何においてもまともに考えていなかった気がする そんな中でうずくまって傍目から見れば何とも言えない 言い難いような格好をしているなら
寝ないと。また起きられない。
今日も起きたら12時だった。また、現場に直行してますと嘘をついた。
現場に直行、してないこと、課長は知っている。でも見逃してくれている。我々の仕事柄そういうこともある、って見逃してくれている。自分に関して言えば全くもってただの寝坊なのに。
なんで起きられないんだろう。目覚ましは何度もかけている。しかし起きられない。
間違いなく気持ちの問題。「よし今日はこれをやらねば」と思っているときは起きれる。
それがないと起きれない。仕事にいきたくない。
いやいや、もしかして本当にただのなまけ病だ。
朝おそいやつもいるけど、それなりに遅い時間まで働いているので勤務的にはこなしている。
俺はなにもしていない。
朝起きれない。その分勤務しているわけでもない。実績も出していない。
せめて朝起きて勤務さえしていれば、実績がなくとも許されそうなものを。
どうしても起きられない。
【幼稚園】
建物のなかで1人で遊んでた。だれかに外で遊ぶように誘われたこともあったが恐怖でしかなかった。
早く家に帰りたかった。
【小学校】
低学年
後にも先にも”友達”と呼べる存在がいたのはこの時だけだった。ただし5人ぐらいのグループで4人が盛り上がっているなかでつられて笑っているようなだけだった。当時の小学生の話題といえば漫画ゲームテレビぐらいしかなかったが、そのどれもが親の教育方針で禁止されていたので会話に参加することができなかった。放課後遊びに誘われることもあったが楽しくなく、嫌で仕方がなかった。
中・高学年
前述のグループからハブられる。ぼっちの道をいくことに。グループ(ペア)を作りましょうというのが苦痛だった。自意識過剰だった自分はその際に1人だけ余って注目されることや、先生と組むことになって初めに皆の前で例を見せるのが嫌だった。
通信簿(勉強以外)や3者面談(家庭訪問)も嫌だった。常に自分を否定されるだけだった。そのせいで親から怒られることが特に。普段周りから貶されてることが明確に承認されることを感じた。自分が間違ってるんだ、自分がおかしいだという思いが強く心に刻まれた。
【中学校】
ぼっちは相変わらずなんだが、強制参加の部活動が何よりも敵だった。部内では暴力を伴うはっきりとしたいじめにあった。それでも誰かに相談することはしなかった。変なプライドから親に知られることは恐れていた。顧問は知っていたが見てみぬふりをしていた。
辞めることもできなかった。辞める際の顧問・親等からの精神的な攻撃を酷く恐れたからだ。幽霊部員になるなど到底許されざる雰囲気であるし、ここを辞めてもまた別の部活に参加しないといけなかったことも一因だった。結局毎日行きたくない行きたくない辞めたい辞めたいと思いながら3年間通った。
【高校】
ただある一瞬で耐え切れなくなった。絶対に辞めてやると決意した。ものすごくハイになってこういうときにいじめられっ子が殺人を犯すんだなと思った。それから顧問からの半年近くに渡る執拗な攻撃や、親の説教を耐え晴れて幽霊部員の地位を獲得することができた。
【大学】
奨学金を借り家から出て誰も知らないところへ行った。大学生活は快適そのものだった。誰からも強制されず自分の責任において1人で完結することがこれほどまで素晴らしいものかと思った。講義を受け、家に直行しひきこもるだけの生活をした。もちろん話し相手などできなかった。バイトもサークルもしなかった。
就活は鬼門だった。何よりまともな会話と呼べるものをした経験がこれまでの人生で数えるほどしかないからだ。面接試験の結果はひどいものだった。初めは一次面接で10回連続で落ちた。だが落ち込みはしなかった。客観的に見て自分の価値が低いということは、何よりも自分が一番わかっていたことだったからだ。1から自分の設定をつくりトライアンドエラーを繰り返した。面接35社目にして奇跡的に内定を得ることができた。節穴の面接官もいるものだ。
【社会人】
自分の社会性というものを信頼していなかったので1年ともたないと思っていたが、意外とそうではなかった。
割りと当り(ホワイト)の会社だったというのもあるが、会社での会話は目的や動機、力関係がはっきりしているで案外楽なのだ。ただ場を持たせるだけの会話でも、仕事(お金)だと思うと割り切れる。なにより人に興味があるふりをしていても、本質的には無関心なことが心地いい。
大きめの会社で頻繁(3〜4年)に全国転勤があるのもよかった。終わりが見えてると精神的にだいぶ楽。
そして今に至る。
特定のヒロインのルートを行くのに、周りのヒロインを一通り味見して何も解決しないまま
まだ比較的マシなましろ色も友人Aが滑り台しなくちゃいけなくなったし端折り方がいい加減だ。
特定ヒロインルートに突き進むのなら大事なキャラ以外のヒロインは紹介程度に留めてくれ。
でなければ、無駄に期待して嫌な思いをする。
その点じゃヨスガ(やエロゲじゃないけどアマガミ)はヒロイン毎にルートを作っただけ遙かに良心的な設計だった。
また、オマンツェも割と最初から主人公がピンクに固定してたからジョストとかいうロックユー!のパクリみたいな事やらかしても充分許容できた。
私、したことあります。
わりと田舎のほうなんですが、塾から帰る途中にお腹が痛くなっちゃって。
まわりには公衆トイレがあるような公園、お寺も無ければ、最寄りの民家も数百メートルあるような場所で。
さすがに数十歩ぐらいしか耐え切れないなと思ったので、すぐ近くの茂みに入り、
その・・・お花を、摘んだんです。
誰もいない、虫の声が良く聞こえるような場所で、モノがドスッと落ちる音がしました。
そのときはもらさずに済んだ事と、腹痛から逃れられた事で安堵の気持ちで一杯でした。
自然にはおしりを拭くような紙はありませんので、手頃な葉っぱをさがすのですが、見当たりませんでした。
観念した私は、下着にモノがつかないよう、背筋と足をピンと張るような歩き方で、歩みをすすめることを決意しました。
自宅はそこから1キロ程離れていましたし、そのような歩き方ですとすごく時間がかかりました。
夜遅くに帰宅し、親にこっぴどく叱られ、泣きながら風呂場に直行し、下着とチンコを洗った記憶があります。
今となっては良い思い出です。
私が小学生から高校生の間、黒猫を飼っていた。名前はハナ。近所の神社に捨てられていた3匹の子猫のうちの1匹だった。従兄弟が可愛いからと連れて帰って来たものの、彼はマンション暮らしでペットを飼えなかった。そのため、我が家と祖父母の家のある敷地で飼うことになったのだ。成り行きでなぜかうちで飼われるようになったハナだったけれど、わりと私の家族や祖父母は歓迎した。
ハナは気性の荒い猫だった。撫でれば嫌な顔をするし、気に入らないことがあるとすぐに引っ掻いた。それでも私は猫が好きだったので、小学校高学年くらいまでわりとたくさん構った方だと思う。黒い毛のしたに、灰色の柔らかい毛が生えていた。ハナのお腹の下の柔らかい部分が特に好きで、幾度となく触ろうとしては蹴られたり引っ掻かれたりしていた。私はハナを手なづけようと必死だったし、ハナは適当にあしらってくれていた。
話は変わるけど私が小学生の頃、悩み事があった。ひじの裏やひざの裏、首元や耳の後ろ等、皮膚の柔らかい部分に赤い湿疹ができていたことだ。なぜできるか分からないそれが好きじゃなくて、いつも肌を隠すことばかり考えていた。
でも、転機が訪れた。その発疹が、中学生になり、家に居ることが少なくなるとピタッと止んだ。私は猫アレルギーだった。中学生になって、部活がすごく忙しくて、家に帰るとベッドに直行していた。当然ハナと接する機会が減ったので、私のアレルギーは止んだという訳である。それが分かったその日から、ハナは大分肩身の狭い思いをしたと思う。とにかく、家に入れてあげなくなったし、私もハナを抱かなくなった。もちろん、ハナを触りたい気持ちもあったけれど、あの湿疹と決別できたことが私にとって何よりも重要だった。
最初ハナは若干戸惑っていた。いつも構ってくれる人間が「ちょっと、こないで!湿疹が出るじゃない!」「あっちにいって!ハナちゃん触ると痒くなっちゃうの」と言い始めたから当然のことだ。でも、ハナもクールなもので、あっという間にで慣れてくれた。私を見ても「あ、いるな」くらいの間隔の距離を保ってくれた。私を見ると、ハナは少し尻尾を振った。
そのうちハナもおばあちゃんになり、祖父母の家から出なくなった。ますます、私はハナを構わなくなって、そのうちハナのことを考える時間もほとんどなくなった。ハナはいつの間にか年老いていて、静かに天に旅立った。12年生きてくれた。でも、そのうち、6年間はほとんど接していない。最後に触ったのは、多分高校生1年生の冬。祖父母の家のこたつに足を突っ込んだらハナがこたつの中にいたのだ。私はびっくりしたけれど、これぐらいでは湿疹が出ることはないだろうと思って放っておいた。その時、ハナはこたつの中でそっと私の足に寄りそった。本当に、遠慮がちにそっと。
ハナが死んだ時、大学受験の真っ最中だった。私は、ハナが死んだことすら1週間気付かず、母の「ハナちゃんがいなくてさみしいね」という一言でようやく知った。悲しみはなくて、淡々としていた。もう6年も適度な距離感があったペットに、私は特に心を動かされたりはしないと思っていた。でも、やっぱりふとした瞬間にハナが恋しかった。庭先のツバキの下や、祖父母の家の縁の下、陽のあたる畳の上、こたつの中に、ハナがいないのは違和感があった。あるいは、庭先で何かを追い掛けて軽やかに駆け回るハナがいないことに、喪失感を覚えた。だんだん、ハナがいない違和感は消えたけれど、誰も猫を飼おうと言い始めはしなかった。猫アレルギーの私が就職して一人暮らしを始めてもなお、猫を飼い始めようという話はない。ハナであれば、あの気性の荒い、でも本当は優しい猫でなければ、私たち家族は嫌なのだ、結局。
命は切ない。一瞬で、消え去ってしまう。
ハナが死んであっという間に5年経った。早いものだなぁと思う。私はもうハナの目の色や、耳の形を覚えていない。写真も、あまり残っていない。
でも、時々思う。あの、遠慮がちにそっと身体を寄せた、暖かいからだを。あの時、ぎゅっと抱けばよかった。アレルギーなんて気にせずに、なりふり構わず、あの瞬間を生きていた小さな命をぎゅっと抱き締めたらよかった。
**
アレルギーの件:皮膚のアレルギー症状…発赤(ほっせき)・かゆみ で、私はこれに該当するアレルギーだと思います。皮膚科で血液検査しました。
いぬ、うさぎ、チンチラ等の毛もNGで、未だに治っていません。恋人の飼っている犬にも触れず、つらい思いをしています。なおせるものならなおしたい。
漏らしたうんことともに流れていった。
仲の良い母親同士が集まって、となり町に住む友人の家まで出かけていったんだ。
その中には初恋のあの娘もいた。
彼女はそんなぼくの恋心を知ってか知らずか、とても無邪気な様子で祭りを楽しんでいた。
わたあめか?りんごあめか?それともお昼に食べた冷やし中華か?
目の前には憧れのあの娘がいるのだ。
流れていく笹舟を眺めながら、「うんちがしたい」の一言だけは口が裂けても言えなかった。
今の自分くらいのベテランになれば、腹痛の種類と波長で緊急度が判断できたであろう。
しかし当時はまだ毛も生えていないこどもだ。
それがどの類の便がもたらす便意かの判断をすることはできなかった。
幾度なく襲いかかる腹痛と便意。
その度に立ち止まっては括約筋を限界まで締め付けた。
友人の家まで行ければなんとかなる。
そう言い聞かせながらも、友人たちが縁日の奥へと進んでいくことに絶望を予感していた。
わたしは自分の括約筋に限界があることを間もなく知ることとなった。
最も緊急度とお漏らしリスクは高いながら個体を伴わない液便だったのだ。
抑えきれなかった一緩みを感じた後、腸に集まっていた血液が身体に戻っていくことを感じた。
この様子ならまだいけるかも知れない。
その後は友人グループと付かず離れずの距離を保ちつつ、ひと通り祭り会場を回るまで緊急を伴う便意に襲われることはなかった。
ミッションは最低限のダメージで切り抜けられたと思われていたのだ。
そんな帰り道、突然イタズラっぽい表情を浮かべながらで初恋のあの娘が近づいてきた。
「なんか、さっきから臭うけど、○○くん漏らしたりなんかしてないよね(笑)」
しかし、その直後の表情から、彼女が全てを察したことがわかった。
その一言で青ざめたぼくの顔と、近づくことでいっそう強くなった臭いが合わされば当然だろう。
何かをごまかすようにあの娘がぼくの元を離れていったのは、友人の家の玄関まで30mのところだった。
真っ先にトイレに直行したぼくはズボンをみて驚愕することになる。
ほんの一緩みと思われた液便は、尻からももにかけて激しくズボンの色を変えていた。
もちろんわかっていたのだ。
ももが湿ったような感覚が、夏の湿気と汗によるものではなかったことを。
その事実をもっと早くに認めて、一人勝手にでも離脱してしまえばよかったのだ。
そこからの記憶は曖昧だが、おそらく一向にトイレから出てこない息子を心配した母親に発見され、ろくに挨拶もせず家に帰ったと記憶している。
この雨が続けば織姫と彦星の逢引はまた一年持ち越されてしまうからだ。
「さっきは変なこと言ってごめんね。増田くんは漏らしたりしてないし、誰にも言ったりしないからね。」
そう言い放ち、こちらの返答も待たずして受話器の置かれる音が響いた。
もういいんだ。一番知られたくない人に知られているのだから。
結婚して実家を出てから、もしかして私の親は毒親だったんではないか?と思い始めたのでここで話させてください
三十路、既婚、子無しです。
実家にいた頃はとにかく親の言うことをよく聞いていました。
土日両方遊びに行くと怒られる(家で休みなさいと言われる)
一度学校とかから帰宅したら徒歩5分のコンビニとかに行くのも許されない
家の中にあるタオルなどのルールが決まっていて、間違えると怒鳴られる
外から帰ってきた時一度でも外で床においたものをを床に置くと汚いと怒られる
海外旅行(特に東南アジア)から帰ってくると汚物扱い。荷物は新聞紙の上にしか置けない。服は玄関で全てぬがされ、新聞紙の上しか歩けず、風呂場に直行させられる
こんな感じで息苦しかったです。
家を出てからは束縛されることもなく自由に暮らしているのですが、
仕方がないので予定を合わせたりするのですが、
土日はほとんど旦那と遊びに出掛けているので予定が合いません。
土日両方遊ぶなんて許されない、とか。
それが嫌なので実家から連絡が来ても無視したり、と疎遠にしています。
実家の超近くに住んでいますが、年に一度正月にしか合わなくなりました。
行ったことがバレると遊びすぎたと怒鳴られます。
遊ぶために共働きして頑張っているのに、なぜ怒られなくてはいけないのか。
そんな感じなので、旅行に行っても親にはおみやげは買わないし、そもそも旅行に行くことすら伝えなくなりました。
その結果旅行中に気がついたら祖母が死んでいたこともあり、通夜も葬式も出ませんでした(帰国したら山のような着信履歴)
これって、親は毒親なんですかね。過干渉なんですかね。
めんどくさいので交流してないのですが、実際こんな親いたらどうなんでしょう。