「必然性」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 必然性とは

2015-02-03

http://anond.hatelabo.jp/20150203110307

悪目立ちしなかったのは、秋葉原がまだ「観光地」になってなかったか

自作PCオタとか無線オタとかは、どうしてもそこに行かなくてはいけない必然性があったからだろう

観光地になった秋葉原はおのぼりさんだらけになって、おのぼりさんは「アキバなら何やってもオッケー」と勘違い

2015-01-27

http://anond.hatelabo.jp/20150127174728

基本的人権確立されたおかげでわざわざ不便なところに住む必然性がなくなったんだ

墾田永年私財法の時代には持たざるものフロンティアを求めて不便な地域開拓したものだが

2015-01-25

今後テレビは贅沢品になるんじゃないだろうか

テレビというものは一家に一台の存在であったが、携帯ネットの普及によりテレビを持つ必然性はやや薄くなり、一人暮らしをする若者の中にはテレビを持っていない人もいるなんて話も最近はよく聞く

需要携帯ネットテレビになりつつあるこの流れから行くと、テレビが金銭的に余裕のある家庭にしか置かれないような、贅沢品として認識されるような時代が来るんじゃないだろうか。現在でいう固定電話的な感じでね

そうなるとテレビ報道の質も変わっていくのかなあ、貧乏人が見ないようになれば全体的に高尚なもの報道するようになるのかなあ

2015-01-13

レゴムービーレンタルして見た(ネタバレ)

概ね面白かった。

ただ、終盤のメタネタ(お仕事社長であるお父さんと、息子の衝突と和解物語)について、ネタバレを知らずに素の状態で見た俺の個人的感想は、アイデア面白いけど、見終わった後の気分がなんかちょっと微妙というか、深い感動を得る手前で終わってしまった、という感じ。

すごく大雑把に言えばトイ・ストーリー3の方が見終わった後の気分が良かった。

まあ、劇場で見た人の話で、外国人の親がゲラゲラ笑ってたという書き込みも見たのでそもそもこの落ちは感動とかそういう話ではないのかもしれないけど。

もうちょっと親子の関係について具体的に描写して欲しかった。

父親が息子を怒ってたところから認めるに至る心境の変化がいまいち予定調和っぽく感じて、わざわざメタネタっていう意外な展開を盛り込んだ必然性が薄い気がした。

もちろん、良くできた映画なんだけど、別に海外でヒットしたのに日本全然ヒットされなかったのはおかしい」とは思わなかった。

自身レゴにそんなに思い入れがないから、「この映画が見られて本当に良かった!劇場で見れなくて損した!」というようなテンションにならなかったし、まあ日本ではアメリカにくらべればレゴ思い入れがない人が多いのだからヒットしないのもしょうがないかな、と思う。

レゴ思い入れがないと、この映画メッセージである

レゴには色んな楽しみ方があるんだよ、大人も子供も、好きに遊んでいいんだよ」

みたいな話がいまいちピント来ないんだよね(もうちょっと違うことを言ってるかも知れないけどそれもよくわかんないんだよね)。

からレゴに興味がないひとがみても面白いのは面白いんだけど、傑作とまで言うには少なからレゴに対する思いが必要かもしれない。

2015-01-12

艦これというブランドをまず考えて、授業参観で終わっていいのか

もっといろんな艦これ経験したほうがゲームにとってプラスじゃないのか、と


そう、アニメの一話を見て思いました。

端的に言えば満足できない、この先満足するのは難しいかと思ったのです。


はいっても、アニメスタッフが手を抜いているとか、まじめに作ってないんじゃないかと

非難したいわけではありません。

私が艦これアニメ1話を見た時の印象は、下記のようなものでした。

@ham1975: 艦これアニメ、めんどくさい顧客相手に慎重に書かれたパワーポイントプレゼンのようだった

https://twitter.com/ham1975/status/552972215201718273


しろ逆に、アニメスタッフは大変頑張られたと思います

ただその頑張りの方向が『最大多数の最小不幸』を目指している感じであり、

かつそれが視聴者にも伝わるがために、「あ、うんまあ悪くなかった……んじゃないかな」

と褒めることもできないが文句を言うには忍びなく、

結局出た出ないを話題にする授業参観アニメなっちゃったのかなあと思います


まあ、5W1Hすら設定しないというのはどうかと思うんですが、いろいろあったんでしょうね。


Who(誰が)    艦娘が(ただし何者かよく解らない)

What(何を)    敵の深海棲艦を(ただし何者かよく解らない)

When(いつ)    ヨクワリマセン

Where(どこで)  ヨクワリマセン

Why(なぜ)    ヨクワリマセン

How(どのように) 砲撃や雷撃で倒しました


ノベライズやTRPGでは、艦娘が人ベースなのか転生なのか、どちらかに決めた上でやっています

コミカライズだとボカしているものもあり、誤魔化せる表現が可能なら曖昧にしていくという指針でもあるのかもしれません。



ただ、ぼかさずに済むHow、戦闘手段アニメに落とし込めていないのは大変気にかかります

水上スキーはまだしも、あのサイズあの形態で戦うのであれば、艦の戦闘準拠する必然性はありません。

からこそ、水雷戦隊クロニクル天龍は剣を振るいヲ級はその頭部で噛み千切ろうとし、side金剛金剛は敵戦艦を投げ飛ばすという表現になったのでしょう。

言ってしまえば、魚雷有効だって人型であることと相反しちゃうんですよねえ。


巷でどうこう言われてる弓の話も、どちらかというとなんで矢が艦載機になるのか、

弓の鍛錬をする意味がどの辺にあるのかをアニメ世界の中できちんと説明できるか、理由づけられるか、の方が大事だと思うんですけどね。

現状初見さんが素朴な疑問を抱きそうな点はいくつかあるんですが、その殆どゲームユーザーも慣れただけで説明できないわけで、

アニメでその辺の説明がされることを期待していた向きもあるんですが、こうも「そういうものから」で流していくのをみると、

しろ「設定に触る部分は説明しない(できない)」という意思表示にも思えます

説明しないことによるメリット、というよりすることによるデメリット、というものに心当たりがなわけではありませんが

そこまで厳しく語ることを制限されていると、何のためにアニメを作ってるのかよくわかりませんし、

スタッフも作っていて面白くないんじゃないかなあと思います

配慮もうれしいのですが、まず面白くするために考えて、そのあとで可能限り配慮を尽していく形であればなあ、と



ところで、本当に巷でいわれてるんですかね弓の話。

指摘された! 弓道やってるやつはめんどくさい! と範囲限定しない中傷はざらなんですが、肝心の指摘はあまり見ません。

おそらく今回の発端はこのツイート

https://twitter.com/shockn55/status/553844214698504192

画像だと思うんですが、わざわざ掲示板あたりで使われていた画像を引っ張り出してきて、

面倒な人たちに目をつけられたと主張、拡散されていくのを見ると「面倒ってなんだろう」と考えてします。

しかも、(別の方ではありますが)「キービジュアルに対する指摘を受けて直しても(註:但し指摘を受け入れてたという根拠はない)、結局突っ込まれる。テロリストに譲歩しちゃダメってことだ」

という主旨の呟きも目に入ってしまい、比叡カレー吹いてしまいました。テロリストってお前。

と思ったら、2か月前の時点ですでにテロリストに準えるコメントがあるまとめブログ記事があり、

http://kantama.net/archives/16344385.html#comment

指摘が入ると「仏の提督さんでもキレました」と闘争に入るスタイル確立

および艦これへの言論によるテロに対する、高い意識存在が伺えます

また、件の記事自体今日を予期した念入りなシャドーボクシングであり、

どちら側が原因かはさっぱりわかりませんが、元々開戦の機運が高まっていたのだなあと感じ取れます。どちらが原因かはさっぱりわかりませんが。


なお私は剣道部であることを付記いたします。



長くなりましたが、あくまアニメに対する懸念は一話時点での懸念であり、今後の十一話で払拭してくれることを期待していますし、

不惑に至って尚、新しいことであるシナリオライディングや作詞に手を出す挑戦心を忘れない、

中年の星たる原案田中謙介氏のシナリオライターとしてのシンデレラストーリーになるような成功

および中村ノリというブランド継続をお祈り申し上げます

2014-12-30

http://anond.hatelabo.jp/20141229223302

まあぶっちゃけ発達した食料保存技術コンビニスーパー外食が徒歩圏内にいくらでもある現代社会において、

気分の問題以外でおせちを食う必然性は0だわな

2014-12-25

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰3

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰1

※本稿は上記を始めとして分割投稿されたものである

ヒロイン

ほとんどの場合ラノベヒロイン必要不可欠である水島飯田は主張する。反例はもちろんあるが、ヒロインを据えたラノベがそうでないラノベよりも圧倒的に多いことは事実である

このヒロインについて、水島は「フラッグシップヒロイン」という独自単語を用いて説明している。フラッグシップヒロインとは、その出会いによって、主人公は平凡な日常から日常へと放り込まれる、という点で特徴を持つヒロインである水島はこのフラッグシップヒロインは一人であるべきで、また傍若無人タイプが好ましいと言う。日常が非日常へと変わるのは多くの物語で最初の1度であり、従ってそういった存在は必然的に一人であらざるをえないと言えること、前述の人物間のギャップを想定する場合ヒロイン傍若無人であるならば主人公は面倒見のいい親切な人物となり、このような人格は読者の倫理観を満足させやすく、ゆえに感情移入させやすい、という点で効率的である。ゆえにこの水島の指摘はこれまでの内容とも矛盾しない。

一部の例外を除いて、ヒロイン主人公に惚れなければならない。榎本はヒロイン主人公に惚れる理由はしっかりと、読者に分かる形で描写するべきだという。一目惚れ場合は「外見に惚れ、次に魂に惚れなおす」という形で段階を分けるべきだとする。

突如登場したこの「魂」についての説明は一切ないが、筆者が理解する限り、この「惚れる理由」や「魂」とは主人公の「行為」であり、精神的な何かではない。

クーンツ登場人物個性とは「行為」によって示されるべきだと言う。これは例えばヒロインは優しい性格の持ち主だ、と説明することよりも、読者がヒロインを優しい性格だと感じる行為描写することの方が好ましい、という指摘である

中の人物はテレパシー能力が無い限り他人の思考を読み取ることはできず、その人物設定の書かれた地の文を読むこともできない。ゆえにその行為によってのみ、どういう人物であるかを理解していくことになる。もちろんクーンツや榎本が指摘するように、それらの行為には動機必要である。現実と異なり、なんとなくで登場人物が行動していくことは読者は作家の思考放棄であり、ご都合主義だとみなす。

従って主人公ヒロインが惚れるに足る行為をなさねばならず、それは作中で明示的に描写されなければならない。

さらに、この指摘は主人公ヒロインに惚れることについてもまったく同じである美少女であるツンデレであるといった属性があるから主人公が惚れるのではなく、当該人物の行為によって主人公は惚れる必要があるのであり、さらにその行為が読者にとっても惚れうるものであればこそ、魅力的なヒロインとして意識づけられるものだろう。

登場人物オリジナリティ

水島登場人物オリジナリティなど不要であり、パクればいいとする。一方で五代/榊はそれを「チグハグで安っぽいもの」と批判する。両者の主張は実のところ特に対立するものではない。

西谷は次のような指摘をしている。

ライトノベル作家を目指している人の原稿を読むと、大ヒットした小説に登場したキャラクター名前だけを変えて自分小説に登場させ、自分ではそれに気がついていないことが多いのです

五代/榊が批判しているのはまさにこうした模倣だと筆者は考えている。水島意識的に模倣しており、さらにそれはバレないようにするべきだ、と言う。バレない模倣とは一体なにかについて水島特に踏み込まないが、この点で大塚既存キャラクター抽象化し、別の値で具体化することが正しい模倣だという。例えばオッドアイという属性を「左右で異なる目を持つ」と捉え、そこから「左右で見える世界が違う」と具体化する。

確かにこれは既製品の加工、変形に過ぎない。ゆえに大塚オリジナリティとは「パターンの組み合わせ」「パターンの再発見なのだとする。この2つは、クーンツの「われわれは古い物語の要素を新しく配列し直しているだけなのだ」という指摘、また榎本の「オリジナリティとは「全く新しいもの」ではなく「読者たちが知らないもの、見たことのないもの」の呼び名だ」という指摘を端的に表していると言えるだろう。

一方、様々な属性ランダムに組み合わせ、新たなパターンの組み合わせを発見しようというワナビは珍しいものではない。スクール水着巫女の組み合わせはこれまでにない!オリジナリティだ!といったそれに対し、大塚は「設定の上だけで奇をてらった個性オリジナリティを追求しても意味がない」と指摘する。

繰り返しになるが、大塚はそれが「主題」と深く結びついていることが必要不可欠であるとする。主題関係性を持たせられず、物語上の必然性もない「オリジナル属性」に価値は無いと言っていいだろう。

プロット

プロットについての学術定義としては例えばフォースターが有名であるが、それらを踏まえてプロット定義明確化した文献はフィールドぐらいしか確認できなかった。

よって本稿においては各説の最大公約数的に機能する定義として、「世界」や「登場人物」の変化を「出来事」とした上で、プロットとは「出来事配列」と定義することとした。

さてこの「プロット」について論じるにあたっては、当然ながらプロット不要論と向き合わねばならない。

プロットに重きを置かない理由はふたつある。第一に、そもそも人生に筋書きなどないから。第二に、プロットを練るのと、ストーリーが自然と生まれ出るのは、相矛盾することだから

キングはこのようにプロットを練る必要などないとする。

このキングの著作を高く評価し、手本としても例に挙げているクーンツプロットに関して次のように述べている。

作家にとって望ましいのは、ただひたすら登場人物たちの進んでいく方向に、ストーリーを方向づけていくことであるというのだ。どこやらあいまいなこの方法に従えば、より「自然」なプロットが得られるというのだ。ばかげた話である

作家登場人物小説の方向や狙いをすべてまかせてしまえば、必ずみじめな結果におわる。

ただしクーンツもごく一部の天才であればプロットを練らずとも名作を書きうるだろうとしていることは事実である。よってキングをその例外であるとすれば上記の見解の相違は回避可能となる。

ところが同様にプロットなど考えたりしないという主張は、例えば宮部みゆきや五代によっても主張されている。彼女らがクーンツより文才溢れる天才であり、キングと同格なのだとすることはさすがに暴論であろう。

しかしここでもこれは単なる手順上の相違に過ぎないと筆者は考えている。

まずキングは「原稿を寝かせる」ことを非常に重視している。書き終えた原稿キングは6週間寝かせるが、それは「プロットキャラクターの穴がよく見えるようになる」からだという。こうしてプロットの欠陥を認識し、書き直し、そしてまた6週間寝かせる。キングは欠陥を認識しなくなるまでこれを繰り返す。

確かにキングプロットを事前に練っていないが、これは推敲における徹底したプロットの練り直しに他ならない。もちろんキングが筆の赴くままに書いてもそれなりの内容を書くことができる、という前提はあるだろう。しかキングもまたプロットを最終的に納得いくまで練り込んでいるという事実は、単純にプロットなど不要だとする主張とは明らかに一線を画している。

宮部もまた、書き終えた後での推敲段階で物語の全面改稿を含む大幅な変更がありうること、よって発表後の現行を改訂できない連載小説などは「よく失敗」すると自嘲し、従って自分のやり方は非効率であるから真似するべきではない、と述べている。

このように彼らの意見をまとめると、プロットを先に練って書くことは確かに必須ではないが、それはプロットを練らないことを意味するものではなく、推敲段階で徹底して練り直さねばならない、ということと理解できる。先にプロットを練ることの効果は後で練るより執筆量の少ない段階で修正できることにあり、効率が良いという点に集約できるだろう。

プロットの手順

以上のように整理したところで、ではプロットを練ればそれだけで自動的に良いプロットになるのか、といえばそうではない。重要なのは魅力的なプロットを作り上げることで、練るという行為それ自体ではない。

練り方という点でラノベ作家陣は様々な「プロットの作り方」を提案している。その内容には「どのように作るか」という手順と「どのようなプロットであるべきか」という構造についての両方の側面があり、極端に言えば前者についてはどうでもよく、明確に意識するべきは後者であると筆者は考える。

従って手順について詳細に踏み込む必要は無いと考えているが、似て非なる様々な内容が提案されている点を簡単に紹介したい。

キング同様、西谷は「最初のシーンから順に次のシーンへと書いていく」というシンプルプロット作成手順を提案しており、そのメリットスケールの大きい物語ができること、デメリット時間がかかることだとしている。

他方、西谷は「主題をもとにして最初のシーンを考え、次にクライマックスとなるシーンを考え、その両者をつなぐシーンを考えていく」という手順も提案している。こちらは前者より物語構造を決めやすく、早く書き上げられる手順だという((この指摘はプロット不要に関する筆者の解釈とも合致するところである))。

水島の提案はこの西谷後者の説に類似しているが、「ヒロイン出会う事で主人公の平凡な日常がどのように変化するのか」「クライマックスで何をするのか」「ラストはどのように終わるのか」を最初に決め、次にその間を繋ぐ出来事を作っていくとするものである

榎本は「(人物)が(行動)をして、(結果)になる」を最小プロットとして位置づける。その上で登場人物たちの目的、遭遇する事件葛藤、対立、成長といった要素を盛り込みつつ、まず200字で作成するという。200字で納得のいくものが作れたら次に400字、800字と同様に徐々に増やしていく。これによって効率的プロット作成できるとしている。

大塚は上記とは全く異なり、下記の項目それぞれについて、暗示的な意味を付したカードオリジナルでもタロットのような既製品でも問題ない)をランダムに割り振ることでプロット作成できるとする。

割り振られたカードの暗示から想像を膨らませることで具体化するという。また、これとは別にグレマスの行為モデル主体、援助者、敵対者、送り手、対象受け手の6種の役割をもつ人や物によって物語構造化できるとする説)によってもプロットは作れるとしている。

これ以外ではさら物理的な手順への言及もあり、例えば榎本は単語帳やExcelで各アイディアカード化してこれらを並べ替えながら考えるのだとしていたり、大塚も場面単位で時刻、場所、人物、行動をカードに書き、それを時間軸に沿って並べて考えるのだ、としている。最後1972年初版であるクーンツの指摘を挙げて本項を終わる。

プロットカードとかストーリー構成リストとかの奇妙な発明品は、どれもかつて、作家アイディアを得るための手助けをすると称して売られたものであり、この手のもの現在もなお売られている。が、実際のところ、そんなものはまともな作家にとって、まったく無価値に等しい。


プロット構造

ラノベ作家陣によるプロット構造に対する言及曖昧なものが多く、またまとまった説明になっていないものが少なくない。

いくつか断片的にこの点について言及している部分を拾い上げると、例えば西谷は「キャラクターに新鮮みがあること」「魅力的なストーリーであること」「類似作品差別化できていること」といった要件を上げており、「魅力的なストーリー」とは何かという点については「主人公に苦労させる」「強い悪役を出す」「魅力的な仲間を出す」「新しい場所を訪ねる」としている。作中でそれぞれの出来事の起こる順番への言及特にない。

水島は順序について言及しているが、「タイトルも含めて最初に読者をツカむ」「ラストシーン一歩手前で盛り上がる」「ラストは短くだらだらせず、良い読後感を与える」「それ以外は読者が飽きないよう時々盛り上がるようにする」というもので、具体性に乏しいと言わざるを得ない。

あえて言えば「どんでん返し」と「天丼」への言及があり、「どんでん返し」はクライマックスの決着、直前、ラストシーン最後のいずれかに位置することで効果的に機能するが、当たれば評価を大きく上げるが外れると大きく下げる点に注意が必要だとしている。「天丼」は意外性があり、重要なことを最初は大袈裟に、二回目は間を空けた上でぼそっということで効果的に機能するとしている。

確かにこれらの要素は盛り上げるための1つの技術ではあるだろうが、プロット構造における要素とは言い難い。

さて、榎本は次のような構造プロットが持つことが望ましいとする。

クーンツもまた、古典的プロット成功パターンとして以下のようなプロット構造を推奨する。

念のため触れておくとクーンツミステリにはまた注意すべきプロット上の必須要素があるとして、それを15項目に別にまとめている。つまり上記だけであらゆるジャンルプロット必要十分条件であるとしているわけではなく、様々なジャンル必要十分条件最大公約数として機能するのだ、という指摘であると筆者は解釈している。

大塚プロット構造については後述するヒックスのそれが参考になるとして作中で丸ごと引用している。しかし同時にプロット本質的構造アラン・ダンデスを参考に「主人公の欠落が明かされる」「主人公は欠落の回復目的とする」「主人公は欠落を回復する」の三段階であるとしており、これは榎本やクーンツの主張をさら抽象化したものだと言いうるだろう。

ところでクーンツの主張するプロット構造は「三幕構成」と呼ばれるものである((三幕構成とは序破急であるという言説はラノベ作家の本でもよく見かけるのだが、あれは世阿弥風姿花伝における序破急概念を正確に理解した上でそう言っているのだろうか。まさか読んだこと無いけど字面的にたぶん同じだろといった糞みたいな思考で「教科書」と自称するものを書いているはずはないので、風姿花伝の解説書、待ってます))。榎本は「起承転結」を用いて説明するが、上記のように両者はそれほど乖離したものではない。この三幕構成はとりわけハリウッド映画脚本原則として確立されており、その端緒ともいうべきフィールド、そして大塚乙一などが参照するヒックスについて本稿では整理する。

フィールドプロット理想的構造を三幕構成によって説明する。三幕構成とはあらゆる物語はAct1, Act2, Act3の3つに分割可能だとする考え方である(その意味でいえばクーンツもまた「クーンツの三幕構成」というべき独自の三幕構成を定義しているというべきである)。これはパラダイムであり、ゆえに三幕構成は史上最高傑作にもメアリー・スーにも等しく存在する。

フィールドはこの三幕構成を下敷きに、次のような役割を持つ出来事が順に配列されることが望ましいとしている。

PlotPoint1と2はそれぞれ各Actの最後に、次のActへの橋渡しとなる機能が求められている。またMidPointはConfrontationの真ん中で起こることが望ましいされている。さらにはそれぞれのActはいずれも小さな三幕構成で出来ており、すなわちフラクタル構造であることが望ましいという(フラクタル構造への言及は榎本なども指摘するところである)。

映画脚本における理論であることからフィールドはMidPointが上映時間のちょうど中央で起きることが望ましい、としている。

クーンツがあげる「ついに最悪の事態に陥る」はMidPointのようにも思われるが、クライマックスのようにも思われ、それが作中の後ろにあるのか中央にあるのか言及がないため、判断しかねるところである。これに対してフィールドは明確にそれを作品中央で発生するべきだ、としている点で、クーンツのそれをもう一歩先に進めたものだと言いうるだろう。

なお、MidPointは必ずしも派手なものである必要は無い。例えば映画マトリックス」におけるMidPointはネオ救世主ではないとオラクルに告げられる場面である。争いの無い静かな場面であり、生命の危機に直面しているわけではない。しか物語をこれまで動かしてきた大前提崩壊した瞬間である。MidPointはこのようにもはや後戻りができず、先の絶望的状況の回避方法が読者に容易に想像できない出来事であることが期待されているものであり、派手な出来事 Permalink | 記事への反応(1) | 20:47

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰2

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰1

※本稿は上記の続きとして分割投稿されたものである

作家人格登場人物人格

西谷は「主人公作家分身」であり、それは「五感を共有していること」、「心の奥底まで共感しあうこと」だとするが、だからといって「主人公作家の思うように考え、行動することを意味するのではありません」と警告する。五代/榊もまたありがちなワナビラノベについて「キャラクターが作者を代弁するただのお人形になってる」と揶揄している。

このように見てみると登場人物作家関係について、作家が主なのではなく登場人物が主である、と主張しているように見える。しかし当然ながら各場面における登場人物の言動や思考作家によって執筆されるのであり、作家が考えないのであれば誰も考えてはくれない。

この点でヒックス登場人物作家の一部であるとして、作家のある面を誇張したものであることを求めている。つまり嫉妬深い人物を描くならば自分嫉妬深い側面を誇張した人格創造する、というもので、全くの新たな人格創造するのではなく、そのベースあくま自分自身だとする。

これに基づけば「キャラクターが作者を代弁する」状態とは、その人物を描くにあたり作家の誇張が無い状態、いわば作中に作家自身名前だけを変えて登場した状態だと言える。作中に登場する作家自身がどれだけ失笑を買うかはくぅ疲の例を見るまでもないだろう。

登場人物作家自身である主人公は間違いなく作家の思うように考え、行動する。しかしその作家の「思う」主体作家人格そのままではなく、登場人物それぞれの設定によって歪められ誇張された人格であり、その結果時に作家人格そのままであれば決して選択することの無い言動に出ることになる。

キャラクターはある瞬間、勝手に動くものです」とは大塚の言だが、逆に言えば登場人物はだいたいの場合作家の想定通りに行動する、ということでもある。当たり前だが一定合理性をもって人間は行動するものであるし、他人ならまだしも登場人物人格ベース自分自身である以上、ほとんど常に作家想定外の行動を登場人物がするんです、という状態はありえない。もしそうだとすればそれは単に何も考えておらずその場しのぎで適当に考えているからか、もしくは薬物でもやっているからだろう。

なお突如として想定外の動きを登場人物がした場合ヒックスはそれにあわせてプロットを書き換えるべきだとする。ヒックスは後述するようにプロットを重視するが、それ以上に登場人物を「愛さなければならない」という。

ヒックス登場人物創造する際、その登場人物の将来の夢は一体何なのかと作家に問いかける。これは夢を作家が事前決定しろという意味ではない。それではヒックス否定する「組み立てられた登場人物」にしかならない。

ここでいう「夢」はその登場人物人格依存して考えだされるべきものである。これは大塚世界設定で指摘した、ある条件を前提にしてそこからどうなるのか、ということを演繹的に導き出していく方法とよく似ている。

もちろん何の事前設定もなく人格を作れと言われても作家当人人格しかなりえない。ゆえにいくつかの設定は事前定義必要である。それは主題や、もしくは世界による必然性を伴った定義であることが望ましいだろうが、それら断片的な設定に後付で作家適当にどんどん設定を付け足していくのではなく、演繹的に設定が導出されていくべきだ、というのがヒックスの考え方であると筆者は理解している。

西谷ヒロインブラジャーの形状にこだわった逸話はしょーもないの一言で済む話だが、そこに人格から来る必然性があるのであればわからなくもないと言えよう。

読者による登場人物への感情移入

以上のように作家登場人物関係について述べてきたが、一方で主人公を決して困難な状況に陥らせないワナビにそれを指摘したところ「だってかわいそうじゃないですか」と反駁したという事例を西谷が挙げている。この点だけ見ると作家主人公に同化し過ぎたり、感情移入し過ぎることに問題があるように思えるが、西谷がここで問題にするのは、ワナビとは裏腹に読者がまったく感情移入できていないことにある。読者も同様に感情移入しているのであれば、徹底して登場人物への虐待作家が行うことに逆に嫌悪感を覚えることすらあるだろう。

西谷同様、筒井は「自分作品感情移入しているからといって、読者も必ず感情移入してくれるだろうと思うのは間違い」と指摘する。

本格ミステリSFなど、感情移入必要とせずとも最後まで読ませる魅力を持った小説存在する。しか感情移入が読者に続きを読ませる原動力として強く機能することは言うまでも無く、感情移入できないという状態は読むのをやめようという動機になりうる。読者が感情移入をしてくれるに越したことはない。

さて、基本的に読者の感情移入物語の中心を担う主人公に対してなされるべきであるが、ではどのような要素が感情移入を誘うことができるのか、という点について各説を整理する。

まず榎本水島主人公年代ターゲットとなる(と下読みや編集部が想定する)読者層と重ねるべき、としている。すなわちラノベ主人公中高生であることが望ましいと言う。同じ理由性別男性の方が好ましいと言いうるだろう。スレイヤーズブギーポップのように女性主人公成功例はもちろんあり、水島のようにそれを地雷ジャンルとまで言うのもいかがなものかと筆者は思うが、女性より男性の方が主たるターゲットである男子中高生感情移入を誘いやすいことは想像に難くない。

まず作者自身モデルとして主人公に据えるやり方について、「基本的に失敗する」「ナルシズムか自虐に陥るのがオチ」と榎本は断言する。もちろんそれで成功している例もあるが((森博嗣などは成功例と言えるだろう))、分の悪い賭けであることは確かだろう。

主人公に求められる特質について、西谷榎本飯田は読者の憧れを具現化していることであるとする。憧れとは立場的、能力的、性格的に秀でていることでもたらされるものだと榎本は言い、クーンツもまた「高潔」「有能」「勇気」「好感」という要素を挙げ、これらを満たしていることが必要だとする。

そして最も重要な点は、完璧超人では読者の共感が得られない、という点である。「ジェームズボンドのような例外はあるが」とクーンツは言いつつ、共感を得られやす主人公には上記の要素に加えて「不完全さ」が必要だとしている。これは人によって「欠点」「弱点」と表現は異なるが、いずれも同じ意味である

一方で「低スペックで卑屈、無個性へたれ」な主人公像については、飯田は「マスな読者のニーズとはマッチしない」として、そういった主人公ラノベは「実売数千部のマイナー作品」に見られる傾向だという。榎本もまた、読者が作品を読む理由の最も大きなものは「自分とは縁遠い出来事を手軽に楽しく疑似体験するため」であり、現実の平凡な中高生に近い主人公像ではそれが得られない、という。

しかしながら水島は「平凡な主人公」でも問題ないとする。超人能力を持った主人公像を否定することはないが、榎本飯田のように平凡さを否定することもない。西谷も同じであり、憧れへの言及最近のヒットしたラノベを見ているとそのような傾向がある、と言うにすぎず、読者の分身として機能する平凡な主人公像も肯定している。

さて、筆者はこれらの各説は人物の能力精神倫理区別せず論じていることで生じた混乱だと考えており、ここで対立があるとみることは無意味だと考える。

能力とは例えば「直死の魔眼」のような、その人物だからこそ実行可能な、常人には実行不可能行為名称である。この点での超人性を主人公が備えているかべきかは物語上の必要性によって判断されるべきであって、主人公がそうした点で無能であることは全く問題なく許容されるし、また絶対に負けず死ぬこともない完全無欠の超人能力を持っていても(それが物語必要ならば)問題ない。

次に主人公精神についてであるが、これは完璧であってはならず、平凡でなくてはならない。あらゆる誘惑に対して微塵も揺らぐことなく、確固とした信念を持ち理性と知性に溢れた決断をし続ける聖人君主はご立派すぎてうさんくさく、クーンツが言うところの「好感が持てること」という要件を満たさない。飯田にしても「ヒーローは悩む存在である」としてこの点での超人性を否定する。自分の将来や恋愛といったわかりやすく、読者が共感できる悩みを主人公は持つべきであり、さらに「何を考えているのか、わかりやすく書くほうがよい。感情オープンにならないキャラには感情移入しづらい」とする。

最後主人公倫理は、読者の倫理に反してはならない。主人公への感情移入によって「あらゆる女の子モテまくる存在であるという全能感」を読者は得るのだと飯田は言うが、しかしどれだけモテようとも複数同時並行で交際することは一般に許容されない。「主人公は鈍感でなければならない」とする指摘は、倫理的正しさを保ったままその状態を維持する点で(安直だが)効果的に機能する。

一方で木刀を持って不法侵入の上傷害沙汰を起こした同級生に対して警察を呼ぶことなく、彼女の空腹を察してチャーハンを振る舞い、自分の恥を晒しながらも穏やかに話し合いで事態を解決する主人公は、まさしく完璧超人と言うべき存在である

Unlimited Blade Worksとかマジカコイイ!憧れる!といった読者もいるだろうが、失笑する人も少なくないだろう。しか倫理的にそうすべきと読者が思い、また自分にも物理的には不可能ではないだろうがしかしなかなかそうはできないと思うことを主人公がやってのけることにこそ、多くの読者は「憧れ」を抱くのではないかと考える。

さて、憧れは感情移入の要素として極めて強力に機能するが、冒頭からいきなりその段階に持ち込むことは容易なことではないだろう。まず最初主人公へ興味を抱き、好感度を稼いで少しずつ感情移入を誘い、そして上述のような行為によってその感情移入を一気に深め、確固たるものとして確立する、というのがより無難戦略だと言える。

こうした興味喚起、好感度向上に役立つ要素として、例えば西谷は「肉体的な苦痛を与える」ことを有力な手法だとしている。クーンツの「主人公を冒頭で過酷な困難に放り込む」も同様の指摘と考えられ、冲方による「苦しい場面での感情移入成功すると、自然ハッピーな場面ではそのまま感情移入してもらえることが多くあります」というのも、苦痛を伴う場面は幸福な場面よりも感情移入効果が高いという指摘だと言えよう。

西谷が肉体的苦痛をあえて挙げている点は特に説明はないものの、おおむね誰にとっても明確でわかりやすいという点で精神的苦痛よりもメリットがあるからだろうと筆者は理解している。

そしてもう一つ効果的と思われる方法が、飯田が指摘する登場人物ギャップである

登場人物ギャップ

本項では「キャラ」と「登場人物」を区別しないが、新城はそれぞれ異なる意味定義しており、曰く登場人物を「内面があって葛藤と選択をする人格」、キャラを「こういうシチュエーションではこういう言動をみせそうな、いかにもそんな外見の人物」とする。

飯田は「人間は意外性のある物語に弱い。とくに、内面なんてなさそうな人物に内面があった、というパターンに弱い」と述べ、人物の外面と内面ギャップを設けるべきだとしている。すなわち新城がいうところの「キャラ」としてまず描かれ、それが物語を通して「登場人物であると描いていくことで読者の感情移入が誘えるのだ、とする。

ところで飯田は良いツンデレと悪いツンデレがあるとして、良いツンデレ多面的感情の一つにツンとデレがあるが、悪いツンデレにはツンとデレの2面しかない。だからハルヒは不人気でルイズは大人気なのだ、とする。筆者はツンデレに良し悪しがあるとすれば、それは新城の言う「キャラ」と「登場人物」であろうと考えるため、飯田の説には同意しない。

ツンデレ」は言動まで類型化された属性である本来内面であるはずの照れ隠しの典型的言動はまさしく「こういうシチュエーションではこういう言動」であり、そこに人格を読者は感じられず、むしろ「お人形」として認識されると考える。

良いツンデレがあるとすれば、同じ典型的発言をするにせよ、そこに「葛藤と選択をする人格」があると読者に理解されることが要点と考える。ツンデレ喫茶バイト事務的発言する様を見て「ツンデレ萌え!」と興奮できるオタクがいないとは言わないが、ドン引きするオタクの方が多いだろう。

さて、さら飯田ギャップは「属性」についても適用できるとする((「属性」についての議論としては東のデータベース消費論などがあるがどうでもいいので無視する))。登場人物へは二つの落差のある「属性」を付与することが効果的だと飯田は言う。例えば「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」における「モデル」と「オタク」という組み合わせを挙げ、「モデル」が持つ華やかでリア充イメージと「オタク」が持つ根暗コミュ障イメージを同一人物に同居させることで意外性を与え、興味を喚起できるとする。なお当然ながらこの手の単純な「属性」の組み合わせはそれ以上工夫する余地が無く、すぐに陳腐化する点は飯田自身が指摘するところである

このギャップについては、陳腐化しやすい「属性」の組み合わせよりもその個別の設定においても有効機能する。

例えば「とらドラ」における「目つきが悪いヤンキー」かつ「家庭的で親切」という主人公の設定、「小柄で可愛い」かつ「家事は苦手で暴力的」というヒロインの設定はそれぞれ落差のある設定だと言えるだろう。これは個人的レベルでのギャップであり、また同時に登場人物間のギャップにもなっている。

西谷主人公ヒロインを組み合わせると完全な人格になるよう相互補完関係を持たせること、また主人公には対照的な人を親友として持たせるのが好ましいとする。しか主人公ヒロイン親友という限定した関係に留まらず、主人公格として機能する集団を想定し、それぞれは別の仲間とその設定にギャップをつけること、というように拡大解釈可能だと筆者は考えている。

投稿文字数上限により、下記へ続く

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰3

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰1

2014/1/1 全文が正しく表示されていないことに気づいたため修正した。遅ればせながら指摘に感謝したい。

はじめに

ラノベ作家になりたいワナビは二種類存在する。

才能のあるワナビと才能の無いワナビである

才能のあるワナビは己の思うがまま書き連ねればそれで問題ない。一次落ちなど経験することも無く、一発で新人賞を取ったり、取れなくても編集者が連絡してきたりして遅かれ早かれデビューに至り、そしてワナビに向けたラノベ創作論を書いたりする。私はこうやってプロとして本を書いてます、どうぞ参考にしてください。

これが意味するところは、才能のあるワナビ他人の書いた創作技術本を読んで必死トレースしたりなどしなかった、という非情現実であるノウハウ本を欲するのはいだって才能のないワナビで、そして才能の無いワナビ今日選考落ちの通知を見て顔を覆うのである。○○先生の本に書いてある通りにやったのにどうしてダメなんだろうか。何がダメなんだろうか。

ラノベ創作技術本は本当に役に立つのだろうか。

スティーブン・キングプロットなど不要だと言う一方でディーンクーンツプロットの無い作品など糞だと断じる。大塚がまずキャラから作れと言う一方で冲方世界から作らないようでは話にならないと言う。

ラノベに限らず小説創作技術本はそれぞれの主張がまるでバラバラであり、まとまりがない。もっともこの手の本は意識の高いサラリーマンがこよなく愛する成功体験本と同じカテゴリである。ゆえに真面目に考える必要は無いとするのも一理あるだろう。

しかし、本当に彼らの主張はバラバなのだろうか。

実のところ彼らは単に表現が違うだけで、最終的に同じことを述べてるのではないだろうか。

手順が違うだけで、結局同じことをしているのではないだろうか。

もしそうだとすれば重要なのは手順ではなく最終的にどういう状態であるかにあり、その状態がいずれの作家も共通しているのであれば、それこそが欠かすべきではない要素ではないのか。

大沢は「技術は教えられるが、才能は教えられない」という。だがヒックスは「モノを書くことでの才能の問題は、相当に過大評価されて」いるとして、「それはやっていくことで獲得」できるものだと言う。

Hard work beats talent when talent doesn't work hard.

Tim Notke

本稿は個別の手順というより、最終的にどういった状態を目指しているのか、という観点ラノベ創作技術本の各説を整理し、俯瞰する。筆者はワナビではなく、単なる興味本位でこの整理を行ったに過ぎない。しかし才能が無いことを自覚し、それでもなお努力によってこれを覆そうというワナビにとって、本稿がより効率的努力を実現する上での一助となれば幸いである。

ラノベ定義

本稿ではラノベを「ラノベの主要レーベル新人賞に向けてワナビ執筆する、新人賞を取りうる内容の小説」と定義し、本質的ラノベ定義へは踏み込まない。このことからカテゴリエラーをめぐる問題このラノベの本質的定義限界を探ることと同義であり、本稿では割愛する。

参考文献

本稿執筆にあたり参考とした文献を下記に記載する。

作家名で適当に並べたに過ぎず、記載の順に意味は無い。

まだ参照すべき文献は多くあるが、ひとまず本稿執筆にあたっては上記で一区切りとした。

ラノベの読者

ラノベ作家商業主義であらねばならない、と五代/榊は明言し、飯田キャッシュフローを生む作品こそが素晴らしい作品なのだという。実際、ラノベ新人賞商業的に売れるラノベの発掘を目的としているのであって、ワナビ承認欲求を満たすためにあるわけではない。

新城ラノベの読者の多くは男子中高生であり、すなわち「毎月のお小遣いが限られている学生であるとする。飯田さらラノベの読者はアニメ漫画ニコニコ動画を好むオタクであるとする。そしてラノベは彼らの限られた小遣いの使い道として選択される商品でなければならない。榎本西谷水島も、いずれも同様に読者が誰かを意識しろと主張する。

ところでワナビが書いた新人賞用のラノベの読者は、中高生ではない。

新人賞の下読みの多くは大学生バイトであり(あるいは主婦新人編集者)、選考するのはプロ作家であり、プロ編集者である。いずれにせよ選考過程中高生存在しない。

読者が誰かを考えるべき、という指摘はもっともだが、プロ作家ワナビでは立場が違う。ワナビラノベレーベルで勤めるサラリーマン編集者想像する『中高生』にウケるラノベを書かなければならない。榎本現実中高生とふれあい彼らの考え方を理解しろと言うが、本当にそんなことをすれば事案待ったなしのワナビは少なからずいるだろうし、現実中高生には圧倒的にウケる20代30代の編集者には全く理解できないものがあったとすれば、それは間違いなく一次落ちである

行頭は一段空けましょう、といった小説執筆上のお作法ができていなかったからといって間違いなく多くの中高生は気にしない。しかプロは気にする。そうした基礎的作法の欠如は中高生云々の前にまず彼らに不快感を生じさせる、という点を理解しておく必要があるだろう(応募に際してはあらすじを付すようにという指示に対して小説煽り文や序文を付けるといった無理解なども根は同じだろう)。

ラノベ創作の段階に関する整理と比較

最終的なラノベに至るまでの執筆上の段階や要素は論者の数だけ存在する。例えばキングによるアイディア原稿の2段階、クーンツを始めとするアイディアプロット原稿の3段階、冲方による能書き、種書き、骨書き、筋書き、肉書き、皮書きの6段階などがある。

本稿では「アイディア」「プロット」「原稿」の3段階を用いて各説を俯瞰する。この各段階は「アイディア」が最初であるという点を除けば、随時行き来することがいずれの説においても許容される。一度「プロット」に移行したら「アイディア」へ戻ってはならないなどと主張されることはないし、「原稿」の完成に至ってから再度「アイディア」の段階に戻る作家存在する。

一方で、これらの「段階」はそれぞれ独立しているわけではないことに注意する必要がある。いずれもその前段階の上に構築されている。つまり、あるワナビが「プロット」に問題があると認識したとしても、その前段階に問題がある可能性は否定できない。これは感想や選評においても言えることであり、問題点の指摘がまったく的外れでなかったとしても、その問題引き起こしているそもそもの原因は何なのか、という点を突き詰めなければ、根本的な問題はいつまでたっても解消されないままだと言えよう。

以下、それぞれの段階についての各論に入る。

アイディア

アイディア」とは筒井がいうところの「妄想」であり、単語キーワードフレーズ、断片的な会話や場面など様々なものであり、その創作で用いるかもしれないし、用いないかもしれないネタである

冲方は「アイディア」を3段階に分けており、まず主題を考え(これを能書きと称する)、次にそこから様々な雑多なアイディア連想し(種書き)、今回はこのあたりのアイディアを使おう、と決めて整理する(骨書き)という。

しかし実際には冲方自身、これらを行きつ戻りつして執筆を進めていくとしており、「骨書き」の段階からは後戻りしないと固定しているわけでもないことから、本稿では参考として紹介するに留める。

この「アイディア」の種類についてもいくつかの主張があり、例えば冲方主題世界、人物、物語文体の5種であるとするし、榎本キャラクター世界設定、ストーリーの3種としている。分類それ自体意味を持つものではないが、それぞれが独自用語を用いて自説を主張している状態では整理のしようもないため、本稿では「主題」「世界」「登場人物」の3種に分けて整理する。

主題

本稿では主題テーマは同一の概念とみなすが、主題とは、そのラノベ創作において根幹となるアイディアのことである冲方大塚はこの主題を根として木構造状に各アイディアが繋がっていることを主張する。

主題を確定するタイミングについて冲方は真っ先に考えるとするし、大塚作成した主人公像の要素を深化させそこから主題抽出するとしている。榎本プロット作成の段階で必須としていることからそれ以前に考えておかねばならない。西谷執筆段階で突如として「物語の核」を意識する、と述べるが、この「物語の核」が主題とみなせるのであれば、プロット後に主題を決めてもいいということになるだろう。

このように主題をいつ考えるかは説によって大きな差があるが、結果としてラノベ創作において「主題」が必要不可欠だと多くの作家が述べていることに変わりはない。

繰り返しになるが、全てのアイディアの共通の祖先として「主題」は位置付けられる。従って本稿の分類で言うならば「世界」や「登場人物」は必ずこの主題関係する要素を持たねばならない。言い方を変えれば、「主題」はアイディアアイディアの共通要素として機能するため、ワナビ本人は主題として位置づけたが、それが「世界」や「登場人物」に関係していないのであればそれは「主題」ではない。

この「主題」があることの意義について、「読者は「設定資料集」を読みたいのではなく、「物語」を求めている」という榎本の指摘、また「「細部」には主題が宿る「細部」とそうでない「細部」があります。そしてあなた方の小説がしばしば欠いているのは「主題の宿る細部」なのです」という大塚の指摘を踏まえるなら、読者が「物語」と捉えるか「設定資料集」と捉えるかは「主題」の有無次第だ、ということになるだろう。

設定資料集が好きな人存在することは事実であるが、彼らは設定資料集ならなんでも好きなわけではなく、特定物語を好んだことで、その物語のより詳細な背景情報を知ることを好んでいるに過ぎない。興味のない物語設定資料集など誰も目を通してくれはしない。

このように「主題」は重要な要素であると考えるが、その表現方法に関して榎本主題台詞地の文で語ると胡散臭く、説得力が無くなるとしているし、クーンツ主題で読者を説教してはならないと注意を促している。台詞地の文での表現を避けるとなれば、多くの場合登場人物の行動、またそれによって引き起こされた出来事によって表現されることになると考えられる。

世界登場人物

本稿では会話文の主体になりうるものを形作る上で用いられる情報名前性格容姿、口調など)の総体を「登場人物」と定義する。「キャラ」「キャラクター」とこれを区別するものもあるが、特筆の無い限り本稿ではまとめて「登場人物」とみなす。

一方で、登場人物以外の全ての設定を本稿では「世界」と定義する。具体的には魔法の有無などの自然法則身分制のような社会構造、もしくは携帯電話の無い世界といった現代社会との差分もまた「世界である

いずれを先に考えるかについては諸説ある。例えば冲方水島世界が先だとするし、大塚西谷登場人物からだとする。榎本のように特に順序には言及しないものもある。

しかしながら冲方大塚の「世界」と「登場人物」が揃った状態についての言及は非常に似通っている。

冲方は「人物たちの性格や言動や行動の全般は、結局のところ、大半が、世界時代に左右されたもの」と言い、このような世界からこそ、そこに登場するこの人物はこのような設定になるのだ、という必然性要求する。

大塚もまた登場人物個性については「キャラクター所属する「世界」の物の見方価値観に由来するもの」があるとしており、その人物の設定は彼の存在する世界の設定から必然的に生じたこのような価値観に由来するのだ、という必然性要求する。どちらの側から見るかの違いだけで、冲方大塚も目指している状態は同じだと言っていいだろう。

世界登場人物リアリティ

ワナビの「世界」について「リアリティ自分身の回り3mくらいしかない」「おまえの世界には学校コンビニと自宅しか存在していないのか」と五代/榊は批判し、リアリティには細部の設定が必要不可欠だ、という立場をとっている。一方で「登場人物」の細部情報への批判としては「異能力の内容だけやたら細かい」にもかかわらず「話に全然関係ない」としており、両者をまとめると「主題」の宿る細部こそが必要不可欠であり、それ以外の細部の設定は不要だとする大塚説とほぼ同一と言っていいだろう。

冲方は「そのテーマが内在する世界を、しっかり構築することができるようにならなきゃ話にならない」と世界における主題を重く位置づけた上で「実際にその世界について書かなくても、少なくとも自分は知っていたいし知らないと駄目」と細部の設定の充実に言及する。

その一方で登場人物については、冲方はそれが主題関係しないのであれば「性別や年齢をあとから決める」とする。水島登場人物プロット上の必要性が出てから作れと述べ、最初長大キャラ表を作るというワナビありがちな行為を繰り返し否定する。ヒックスは事前定義表に基づいて穴埋めで作られた登場人物を「組み立てられた登場人物」と表し、そして「最良の脚本には、組み立てられた登場人物存在していない」と断じる。

だがこれらは登場人物に細部の設定が必要ない、という意味にはなりえない。例えばクーンツプロットをまず作ることを前提とした上で、リアリティを持った人物描写のためには、登場人物に関しても細部設定が必要だとして、身長体重、体型、年齢といった肉体的特徴、声や話し方、動作や仕草など多岐に渡る項目の設定を列挙している。

登場人物」であれ「世界」であれ、リアリティは細かな設定によって得られるものだ、という点はいずれの主張とも矛盾しない。その細部の設定が「主題」と関係する場合最初に考えるべきとする見解はあるが、関係しない場合、それがとりわけ「登場人物」の細部設定の場合、これを最初に考えることは多くの見解で明示的に否定されている、ということになる。

これとは相反する主張として、西谷はまず人物設定から始めるべきだとする。「積極性」「肉体的な強さ(美しさ)」「いざというときリーダーシップ」「やさしさ」「辛抱強さ」「頭の良さ」で点数をつけてチャート作成するのが良いとして、さらには性格趣味、髪の色からメイクの仕方、ブラジャーの形状までを設定例として挙げており、そこには「主題」との関係性への言及はない。

ところが西谷は実際の作例において仮置きの主人公を用意するに留めており、チャートについては一切触れず、細かな設定も一切用意しない。まず最初に「世界」と「主題」に取り掛かり、「企画を練り上げる段階で、主人公を変えてしまう」「主人公を引き立てる脇役は、書いている途中で思いつく」とすら述べる。

最終的なこの作例が実際の西谷の手順なのだとすればその手法はむしろ冲方寄りである Permalink | 記事への反応(5) | 20:41

2014-12-02

http://anond.hatelabo.jp/20141202185532

人型である必然性が欲しいのか、欲しくないのか、よく分かんねえ文章だな。

富野はいまでも「子供がかっこいいと思うプロレスとしてのロボットアニメ」も大事にしているし、

Gのレコンギスタ」はそのあたりを上手く描いていると思うよ。

観たくなくても、観ろ!

ガンダムリアルリアルロボット 人型である必然性

別に語れるほど知識もないんだけどさ。

最近ロボットが巨大で人型なメリットって何とか? 戦車じゃだめなの? とかを見て。なんだかなーって。

ロボットものってそこが大事か? って。

巨大な人型のなにかが暴れるのが爽快なんじゃないのかー!? なんて思ったりしてるんだけど。ロボットものSF的な要素とか、科学考証とか求める人が多いんだなー。

ってのがなんかロボットものが少し元気のない理由なんじゃないのかな? なんて思ったりしたんだよね。

でさ、そういうロボットアニメにおける人型の必然性を求めちゃうのってガンダムからなのかなって思うけどどうなの?

ロボットもの歴史なんて知らないけどさ。

手塚治虫アトム横山光輝鉄人とか永井豪マジンガーとかがロボットものの土台を作り上げてきたんじゃないかなーとか思う。

そんな時代を経て宇宙戦艦ヤマトの様な大人向け?SFアニメ放送され、満を持して機動戦士ガンダムかい戦争を描くロボットアニメが生まれた。のか?

なぜガンダムが生まれたのかとか、富野監督はどういう人なのかとかを語るきはないのだけど。多分ガンダムは当時ものすごく斬新だったと思うのと同時に必然的に出来上がった作品だろう。

アニメ子供向けかつ勧善懲悪正義と悪を極端に線引きしてた時代があったらしい。それを何だか嫌だなーと感じてる人はいっぱいたらしく。富野さんとかもその一人で、なんでも海のトリトンという手塚先生原作漫画アニメ化した際に富野監督ラストをなんともいえない感じに変えてしまった。

子供だましを嫌う富野さんはアニメリアルを入れようと、現実はそんなに単純じゃない正義と悪は色分けできない事を、まあやろうとしてたんじゃないかな?

当時を知らないのでなんとも言えないけど。

手塚先生SFばかり描いてたらしいし、ゴジラとかウルトラマンとかの怪獣ブームもあったらしいし、永井豪ちゃんは徹底的に日本を巨大なもの破壊する漫画を描いてたし、スタートレックとかスターウォーズとか松本零次はスペースオペラ?とかを描いてて。

その流れでガンダムやろうって、ロボットっていうジャンルリアルを入れようってなったのかな。






前置きが長くなったんだけどさ。

ガンダムリアルだって言われてるというか、リアルロボットものって言われるのはさ。

ガンダムというモビルスーツ構造とか仕組みとかがリアル物理法則がどうのこうので、科学考証がしっかりしてるとか、してないとか。ではないんだよね。

これは、よく言われてる話で。ガンダムリアル人間描写人間ドラマの部分だ。なんて皆しってる。戦争を扱っていることとか、どちら側にも正義があるとか、ないとかであって。ロボット部分ではないと。どこかで聞いた事があるかもしれない。

しかに俺もそう思う。20メートルの巨大ロボット二足歩行するなんて冷静に見ればリアルじゃない。でもガンダムはそこら辺の事情を開き直ってる訳じゃないんだよな。

ロボットの扱いはあくま兵器なこととか量産されてるとか。そういうところにリアルさを描いてるし、二足歩行や人型な理由も説明している。

例えばミノフスキー粒子とか、作業用ロボット兵器転用したとか、宇宙空間では人型は対象物がないから大きさが分からずに人と間違えて、敵の戦艦に近づけるとか。AMBACシステムとか、頑張ってるんですよ。頑張って巨大なことや人型な事に必然性を持たせてるんだよね。後付とかもあるけど。

で、俺はガンダムって作品ロボットものにおけるいろんな部分をリアルっぽくしていこう、っていう流れをつくってしまったと思うんだよね。

より戦争という部分を濃くしたボトムズとか、現実世界ロボット運用している雰囲気をうまくだしたパトレイバーとか、量産兵器としての二足歩行ロボットを描くガサラキとか、設定をしかり練ってSF考証をしっかりと散りばめているフルメタルパニックとか、一期は市街戦描写の多いコードギアスナイトメアとか。

士郎正宗メカSF部分のリアルさを求めて、押井監督が甲殻とかレイバーとかを刑事ドラマみたいに作り変えて、カサハラテツローさんのライドバッグみたいな、ほとんどバイクみたいなロボット漫画もでてきている。

富野さんはガンダム人間ドラマの部分をリアルに描きたかったのかもしれない。でもそこをリアルに描けば描くほど二足歩行や巨大ロボットという部分もリアルにせざるを得なくなってくるのかも知れない。

どんどん小型化していくロボット、足裏に車輪を付けて走り、ワイヤーを射出し街中を飛び回る。リアルっぽい!

でも小型化すればするほど現実世界でも運用できそうではある。

あるけども、そういう方向でリアルさを求めれば求めるほど。

戦車でいいじゃん、戦闘機じゃだめなの? ミサイルでやったほうが効率よくない? なんていうロボットアニメ視聴者あるまじき突込みが返ってくる。

でもそれって当然のことで、マジンガーとかゲッターとかみたいに現行兵器よりも強いとか、エヴァンゲリオンみたいにもとから人型でしたーとか、勇者シリーズとかエルドランシリーズみたいなロボットものは、ロボットヒーローであって、そんじょそこらミサイルじゃなんともないぜってもんなんだよね。

でもガンダムリアルロボット? は量産兵器であり、秘密組織でもない公の軍隊運用している。じゃあなんで巨大でなければならないのか二足歩行メリットは? 人型の意味は? ってなるのもしょうがないんだよ。

できればリアルっぽいロボットものを作ってる人たちには。

なんで人型なんだよ!? って突っ込みに対して、ロボットものからって開きなおるんじゃなく。一生懸命二足である意味人型である必然性を考えてほしいよね。














俺がロボットものに求めるのは巨大感とかスケール感とかで、街を破壊し敵の怪獣を引き千切ってバシバシとなぎ倒していくようなもを求めているので、そこらへんを描写するロボットものが減ったのが悲しい。

2014-11-17

日本語ヒップホップ老害

http://kai-you.net/article/10438

AV女優上原亜衣さんが業界に横行する疑似中出し疑義を呈したラップソング「REAL」

疑義を呈したってのが、リリックからまり伝わってこないのとあいまって、ところどころでしつこく引用される人間発電所(のリリック

私はこれを聴いて、率直に嫌悪感を抱いた。

ブッダに対するリスペクトはそこにあるのか、そこで引用する意味必然性は?

と、同時に、こういったヒップホップに疎い層をターゲットにした曲で、クラシック引用されることは、多分そんなに悪くはないことだという考えもあり、自分老害化しているのではないかとハっとした。

加藤ミリヤマイクリレーを収録した三人に直接意見を伺ってみたいところである

なにはともあれ。

ヒップホップ日本の文化に浸透したのか、という話題がいまだに一定の盛り上がりを見せるところから、逆説的にその命題否定され続けているのだけれど、先人たちの礎は着実に受け継がれ、積み重ねられている。

トラックリリック引用に対して、いちいちケチをつけるような大人になりたくないと思っていたのに、すでに片足踏み入れつつあるのかと思い、自戒、怖い。

用心せねば。

2014-11-14

http://anond.hatelabo.jp/20141114104803

セックスは、コミュニケーション手段の一つではあるけど、それは「ヤッてる当事者間」だけの関係からだよ。第三者に知らせる必要必然性もない。

個人的メール勝手に全世界さらしてもOKなわけないのと一緒だ。

2014-11-10

http://anond.hatelabo.jp/20141110100642

自分ニートであることに、天からの啓示的な必然性と、強い誇りを持ってるのなら、人の評価などを気にする必要はないのですよ

そのままニート道をつきすすみ、庇護者がいなくなった瞬間に死ねばいい

2014-11-09

http://anond.hatelabo.jp/20141107091114

話が逆というか。「正社員」という概念自体が、メンバーシップ型を前提としないと成り立たないわけ。

被雇用者ってのは、雇用契約に定められた範囲で労務を提供して報酬を受け取る。契約範囲フルタイムパートタイムか、有期か無期か、裁量労働制かどうか、など色々なバリエーションはあれど、双方にメリットがある契約形態相談して選べばいいだけで、「正社員」と「それ以外」という大きな二分法を入れる必然性がない。「正社員」ってのはつまり会社にとって恒久的なメンバー」ってことだから、「身内」と「流れ者」を区別する観念があって初めて意味を持つんだよ。

2014-10-19

世の中なんでもリモコンにしすぎだわ

エアコン扇風機、照明とか、一度スイッチ入れたらほぼ放置するような機械までリモコンにしてもしょうがないだろ。

テレビなんかは、チャンネルかえるから必然性あるけど。

エアコンは昔のやつみたいに有線で壁に固定するコントローラーでいいじゃん。

エアコンリモコンは壁のフックにひっかけて、固定コントローラーと同じような使い方しかしてないけど、壁にぶら下げたままじゃ角度的に赤外線が届かないから一度手にもってエアコンに向けないといけないから面倒だし。(ちゃぶ台の上に置いておくと絶対どこかに行って探すことになるから、壁にぶら下げて使い終わったら速攻で戻すって使い方以外したくない)

扇風機リモコンなんか冬にしまって夏に出すと、絶対リモコンが紛失していて結局本体操作になるし。

家電無駄リモコンつけすぎだわ。

2014-10-18

マッサン

3週目まで見てきたけど、なんかチグハグな出来になっていると思う。


主役の二人含め、キャストの演技と配置は申し分ない。

曲者ぞろいの実家住吉酒造、鴨居キャサリン

どれも魅力的で、現状だともったいないくらいのアクの強さである

群像劇としてすごく面白くなる余地はふんだんにある。

しかしこのままでは、

朝ドラありがちなテンポの遅さ、回想の多さ、繰り返しの多さ、

毎日濃い歌を聞かされることには目をつぶっても、

見続けるのが辛くなってくる。

総集編だけやって欲しい状態になる。


なんというか、脚本が慎重すぎるんだと思う。

初の外国人主人公お茶の間に浸透させるため、という気持ちもわかるけど、

目に余るほどベタ昭和ホームドラマになってしまっている。

広島でも大阪でも、本筋ないがしろにしてまでイビリを入れる必要があったのか?

これではどっかの段階の会議馬鹿な偉い奴が

「で?この脚本のどこにいけずが入るんや?ウケるはいけずやでぇ」

とか何とか言ってゴリ押ししたみたいに思える。

それでも最初の週くらいはいいかなと思ってたけど、いい加減飽きる。

臭いホームドラマに「初の外国人!」「初の外国人!」という

しつこいアピールが盛りつけられてるだけのドラマを誰が見たいだろう?


で、いけず問題がなんとなくうやむやに終わったと思ったら、

今度は更に輪をかけてベタな家庭と仕事問題である

仕事とワタシのどっちが大事!?」なんて、

いくらなんでも陳腐すぎないか?

これじゃスコットランドから単身日本に乗り込んだという

大前提さえ怪しくなるような人物造形じゃないか。

はっきり言って視聴者馬鹿にしすぎである

もう少し複雑な物言いだって耐えられるぞ、視聴者は。

マッサンスコットランドで何を学んできたの?

 家族も大切に出来ない人においしいウィスキーは作れない!」

くらいの設定を活かしたセリフを言わせればいいのに。


ピン子の泣き落としと言い相武紗季の塩ドバーといい、

妙に人格者過ぎて亀山ダメさが際立ってしま鴨居社長といい、

すべての要素がつまみ食い程度で、今作独特の設定を活かした

掘り下げが全然されていないのが気になる。

エリー自身はずば抜けて自然かつ繊細な演技をしてるから見ていられるけど、

脚本的には「なんでスコットランド人なの?」というレベルである

ただの恋愛結婚との差別化全然出来てないんじゃないですか?

後先考えずに気に入った女を攫ってきた馬鹿日本人男の話じゃないでしょ?

ウィスキー作りを支えるパートナーとしての活躍をさせて差し上げろよ。


結局のところ、「派手な外人が出てるけど、普通日本ドラマですよ!」と

言い続けてるだけなのだ、この脚本は。

からピン子のいけず中途半端相武紗季いけず中途半端

キャサリンの面倒見も中途半端マッサンの男気も中途半端

わかりやすホームドラマセリフを再現するためだけに手駒を動かしているから、

キャラクター自然な動きがほとんど阻害されっぱなし。

アイディアはいいのに、失敗しないことにこだわりすぎて陳腐化してる。

そりゃね、新しいことを始めるときは変える要素は一つだけってのもわかりますよ。

でも現状だと、変えた必然性を一つ一つ潰してるだけなんだよ。


からウィスキーが飲みたくなるという深刻な問題点を除けば、

マッサン」の題材もキャストもここ数年で一番と言っていいくらい好きなので、

ほんとなんかもっと頑張って欲しい。

ガツンと来るシーンをいっぱい作って欲しい。

NHK大阪頑張れ。超頑張れ

2014-10-14

http://anond.hatelabo.jp/20141013113642

東京から時間以内の、人口300万の市に住んでいるけど、増田みたいな半分当てはまるし、半分当てはまらない人ならいっぱいいるよ。勤務先は東京が多いけど、近いだけに一人暮らしする必然性がないから実家住まい多い。

マイルドヤンキーもっともっと仲間の密度が濃い印象だ。

2014-10-13

Matzが出てるRubyが創る島根未来というローカル番組を見てる

Matzが凄いという話はわかるんだけど、古来から島根発信の宝があり現代にはRubyという宝があると島根県推しな紹介で、Matz現在島根在住なだけで島根にそんなに必然性はないと思うし、確かRubyが生まれたのMatz島根いるときじゃなかったと記憶していてwikipedia見たら静岡県って書いてあった。番組でもプログラミング地理的な制約を受けないとか言っててなんかモヤモヤする。島根Rubyが盛んなのは知ってるけど、それもMatzを軸に県とかが支援して広がりを見せてるからで、結局Matz様様。まあ細かいはいいんだけど、番組意図いまいちからなくて、森永卓郎氏がゲストな点や人口流出阻止や県の産業Rubyを使ったシステム開発だ(プログラミング言語ありきでの開発もどうかと思うけど)みたいな意図で県とかが支援して作られた番組なのかな~と勘ぐりながら最後まで見た。森永卓郎氏の例え話は分かりやすいなと思った。

追記

番組最後に「企画 島根県」と書いてあった。県民ルビーストにしたいようですね。

2014-10-08

http://anond.hatelabo.jp/20141008110429

ココット耐熱容器)に入れて上にとろけるチーズをまぶしてオーブン10ちょっと焼けばいいんですよ

まあ、そばである必然性はないんですがw

2014-10-01

ラノベ馬鹿にしている奴らは馬鹿なのではないか

http://anond.hatelabo.jp/20141001193557

ジャンル小説判断する奴は馬鹿だ。

ライトノベルと言うと、表紙と挿絵アニメ風の美少女イラストが入った内容の軽い低俗な本、がすぐ思い浮かぶだろう。

雰囲気としては合っている気がする。僕の読んできたライトノベルもだいたいそんな感じだった。

でもとりあえずは、無用な誤解をさけるために定義付けをしっかりしよう。

ラノベというジャンル定義はなんだろうか。

ラノベ定義イラストが入っていることだろうか?

だけど、すぐに反証が見つかる。

例えばここに、さっき本棚を一分漁って見つけた佐々木マキイラストが入った村上春樹の『カンガルー日和』がある。

この本が刊行された時、日本文壇は春樹は文学ではないと言っていたかもしれないけど、少なくともラノベとは言えない。

よって、イラストが入っていることはラノベ定義ではない。

それに、児童文学イラストが入っているのが一般的からイラストラノベはいえないんじゃないだろうか。

じゃあ内容が低俗だとか軽いのがラノベだ、ということだろうか?

いやそれはおかしい。シドニィ・シェルダンの『空が落ちる』は一般小説の棚に置いてある。

入っているイラストアニメ絵からか?

だけど今度はラノベの方に反証がいくつか見つかる。

紅玉いづきの『ミミズクと夜の王』のイラストはどう見てもアニメ絵じゃないが、ライトノベルを名乗っている。

(表紙がアニメ絵の一般小説ちょっと名前は挙がらないけど、本屋でたまに見かける)

こんな感じで、ラノベラノベである理由はおよそはっきりしない。

はっきりしているのは、ラノベであると名乗っている出版レーベルが幾つかあり、それについて一般的ラノベであると認められているという状況のみである

こんなわけなので、定義ラノベレーベルから出ている本がラノベだ、ということにしておくのが妥当だろう。

から筒井康隆ラノベレーベルから小説を出したらラノベになるし、『百瀬、こっちを向いて。』の中田永一ラノベを書いたらラノベになるし、中島梓ラノベレーベルから本を出したらラノベになる。

大江健三郎児童文学だと言いはって『二百年の子供』を書いたら児童文学になったように、大江健三郎ラノベレーベルから小説を出したらラノベになるだろう。

ラノベゴミの山だと皆は言う。

その通りだ。

しかしそういう人は、日本文学が垂れ流した私小説という肥やしにもならない糞の山のことはどう考えているのか。

僕が言いたいのはつまり未来ノーベル文学賞作家ラノベから出ないと誰が言い切れるのか、ということだ。

いや言い切れるはずがない。

さっき書いたように、ラノベラノベであるのはレーベル問題であって、その内容だったり作者には関係が無いからだ。

だとするとどこにラノベ馬鹿にする論理的必然性があるのか。

そんなものはない。

ラノベ馬鹿にしている人は、ハリーポッター児童書版で出たら恥ずかしくて買えないのに一般書版で出たら買う人たちだ。

そういう人は自分の力で、自分だけの「ハリーポッター」を発見することは絶対にできない。

そういう人は本当に面白いものを見つけることも、それを評価することもできない。

周りの価値観ではなく、自分価値観で何かを判断することができない。

そういう人間を僕は馬鹿だと定義している。

2014-09-30

http://anond.hatelabo.jp/20140930195050

たまたま読んだので感想。賞めてないので、賞められたいなら読まないこと推奨。

以下、気になったところ。

最初三人称視点で始まって、途中から主人公視点になるのは別に構わないが、なぜそうなったのか、必然性が感じられない。むしろ最初から主人公視点であった方が、すんなり感情移入できたと思う。

シチュエーションちょっと特殊姉妹のうち一人が、ではなく、姉妹全員が喫茶店経営に関わっている、など)なのに、説明がないのが不親切。

登場人物の年齢関係が分からないので、春香は幼いのか痛い子なのか分からない。また、マスターの人物像(せめてイケメンなのかおっさんなのかくらい)もゼロなので、読み手の側で「誕生日を祝いたい」と思ってる主人公の心情を、どう扱っていいか分からない。

・「ほほえましいエピソード」なのか「痛い不思議ミステリー」なのか、読み終わるまで話の方向性自体も分からない。見せない書き方もあるとは思うが、いかにも「微笑ましい日常雑記短編」かと思わせて最後まで読むと実は「ミステリーの序章だった」、ならまた別の面白さがあるだろうが、「どうなのか」と思って最後まで読んで「やっぱり単なる日常雑記でした」では、せっかく最後まで読んだ相手もがっかりさせる。

・「りんご」がテーマなら、季節感としては冬の初めが適切だが、Appleと引っかけたかたから秋になったのか。しかし、そもそも「iPhone6」を「あっぷるろく」とは言わないだろうし、言ったとしても、それを林檎6個と間違えるというのは、相当難しい。春香小学校低学年という設定ならまだ分からなくもないが、「アップル林檎」が分かるのにiPhoneが分からない、というのは現代っ子らしくないし、また林檎6個を自由に(姉妹相談なく)買えるお金をもっているというのも、なんだか奇妙。

お話の狙っている「おもしろさ」が、誰にヒットするものなのかがよく分からない。怪しいおっさんマスターに揺れるアラサー女子の心情を描きたかったのか、青年マスターときめく不遇な女子高生の初々しさなのか? どちらにしても、この話を面白いと感じる人は一体誰なのか?(前者だとして、アラサー女子はこれを読んで「分かる分かる」って面白がるのか? 後者だとして、女子高生が「あるよねー」って思うのか? あるいは女子高生時代を懐かしむお姉さんがたが微笑ましく読んでくれるように書いているのか? ということ。)


結論、まとめると

 「設定が分かりにくく読みづらい」

 「ネタの詰めが甘い」

 「ねらいが絞れてない、または、ねらいに向けて効果的にアピールできてない」

という感想

以下、少しだけ賞め内容。

よいところは、おそらく書き手の中に「世界」があって、それを構築するだけの力量はあるのだろうな、と感じられるところ。それのあるなしで、細かい部分の書きようが違ってくる。情景が浮かぶように書けるし、読ませるものはあると思う。秋の空気が感じられた。あと、書いたモノをどんどん出そうという前向きな姿勢もよい。

書く能力を上げるにはたくさん書くのが大事と思うが、上の2つは、たくさんモノを書いていく上で必要な才能なので、その両方を持ち合わせているのだから、どんどん書いていけばひとかどの書き手にはなれると思う。上の批判も、たぶん肥やしにしてくれるだろうと思ったので書いた。

物を創り出せる人というのは偉いと思う。素直に尊敬する。頑張ってほしい。

2014-09-09

ひまつぶしに命つぶすってか

こういう記事にこういうブコメhttp://b.hatena.ne.jp/entry/uzuramadoka.hatenablog.com/entry/2014/09/08/225010)つけちゃう(それにスターつけちゃう)ようなひとってさ、この発言が特定クラスタにとってどれだけ深刻で失礼で致命的なことか、わかっててやってんのかなあ?

無知(鈍感・想像力がない・社会性に乏しい)」なの? 「悪意(とてつもなく底意地が悪い)」なの? どっちなの? ”言い訳”は多様にあったとしても、可能性としてはこのふたつにひとつだよね? すっごい気になるんだけど。

続き気になる。結局、親からの愛が無い家庭で育ったせいですオチ出ないことを祈る 2014/09/09Add Starguldeendadabretonwatto

良かれ悪しかれ(それは多くの場合表裏一体)人が生まれながらに背負ったもの(肌の色、生得健康状態・身体機能、親の資産状況etc)に関して、こんなノリで口にするっていうのは……よぼどの……でしょ。

良かれ悪しかれ黒いものを、黒いと言うなというの? たとえ真実でも、根本の原因を、なかったことにしろというの? あなたのたのしみ(ひまつぶし)のために?

ねえ、あなたカジュアルな(とくに必然性もない)ひとひねりで、あなたの、ひまつぶし梱包用のプチプチをつぶすような行為で、あなたの親指の下で、必死に、文字通必死に日々を生きている人間存在が悲痛な叫びをあげて潰されていくの、その悲痛な叫びを親指の下に感じるの、どんな気持ち? ねえ、どんな気持ちなの? 教えてよ。

政治的観点から作品への批判に抗する際、内容の「よしあし」まで、語る必然性はないんだけどね…

2014-09-06

http://anond.hatelabo.jp/20140906162128

まあ多分学生さんなんだろう。

自発的能力教養が関連してることに気付けば動機となって成績は後から付いてくる訳で、能動学習を求める姿勢評価できると思う。

特に表現の軸を捉えた人はあらゆることに素材や教養を見出す。

ただし教養重要性に気付くことも才能と言えなくはないんだよなぁ…

あともうひとつ学校勉強する場所だけど、勉強できない人を受け入れるだけの懐はある。

義務教育には託児所の発展系という面は確かにある。

なので勉強できないからといって居場所を自ら捨てる必然性などないよ。

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