「必然性」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 必然性とは

2014-09-02

http://anond.hatelabo.jp/20140902120947

大元はVRエロゲがどうこうという話だったんだが話ズレてね?

そういう絵柄だったら3Dにしなければならない必然性がそもそも無いだろ。

2014-08-22

NAVERまとめ文章をパクられた上に1000円払うことになった

サイト記事本文をNAVERまとめコピペ引用要件を満たさないやり方で)されたので、NAVERまとめ権利侵害を報告したら、こんなメールが返ってきました。

メールの要点

以下、メール本文より引用

弊社サービス内に掲載されている内容の削除要請などにつきましては、

プロバイダ責任制限法特定電気通信役務提供者の損害賠償責任制限

及び発信者情報の開示に関する法律)に則り、対応を行わせて

いただいております

大変お手数ではございますが、以下《返信用URL》より、必要項目の記載

ならびに必要書類を添付しご連絡くださいますよう、お願い申し上げます

----------------------------------------

□お知らせいただきたい内容□

下記サイト内の書式:侵害情報の通知書 兼 送信防止措置依頼書

にあります必要項目をお知らせください。

http://www.isplaw.jp/p_form.pdf

1)申告者の氏名、住所、連絡先

2)掲載されている場所(まとめURL、まとめ投稿詳細URL

3)掲載されている情報

4)侵害されたとする権利名誉毀損誹謗中傷プライバシー侵害など)

5)権利侵害されたとする理由

6)発信者に対し、お客さまの氏名を開示しても差し支えないか否か

※2~5につきましては、掲載者への意見照会の際、

 そのまま通知することに同意の上、ご連絡ください。

----------------------------------------

□添付いただきたい書類□

本人確認書類

1)申告者が権利侵害されているご本人(個人)である場合

 下記よりいずれか2点

 ・印鑑証明書原本)、運転免許証住民基本台帳カード住民票原本)、

  パスポート

2)申告者が権利侵害されているご本人(法人である場合

 下記の2点いずれも

 ・貴社の印鑑証明書登記事項証明書

3)申告者が代理人その他の第三者場合

 1または2の書類に加え、下記1点

 ・ご本人から貴殿への委任状

----------------------------------------

弊社では、上記書類を受領し、お客さまよりお寄せいただいた本件対象情報

確認できた段階で、プロバイダ責任制限法第3条第2項第2号に基づき、

送信防止措置を講ずることに同意するか、発信者意見照会を行います

文章をパクられた上、金銭的・時間的負担まで強いられるってさ……

このメールによると、法人場合、盗用記事を削除してもらうには、登記事項証明書印鑑証明書を提出しなければなりません。双方の発行にはあわせて1000円くらいかかる。こちらはパクられた被害者なのに、なぜ修正してもらうためにここまでしなきゃならないのだろう。個人でも、パスポートがない人は、住 基カード住民票を取り寄せなきゃならない。役所に取りに行くにせよ、取り寄せるにせよ、なかなかの手間がかかるよね。

サイト記事権利確認なら、記事本文に指定のコードを貼る等の簡単なやり方で対応できるはず。実際、以前は問い合わせフォーム必要情報入力すれば、すぐに記事を削除してくれたんだ。 (例 http://kazu8.net/546.html  )

なぜパクられた被害者に金銭的・時間的負担がかかる仕様にしたんだろう。しかも、これだけやっても削除には相手の同意必要ってさ…

文章をパクられて被害を受けた上に、被害回復のためにも金銭的・時間的負担を強いられるって…なにこのセカンドレイプ。いや、1000円が惜しいんじゃなくてさ…なんだろう、財布をすった奴に「お前がそんなに言うなら財布は返すよ!でも、返してほしかったら1000円ちょうだい」って言われたみたいな気分。

こんなの絶対おかしいよ!

追記

なお、パクリ記事URLはこれです。http://matome.naver.jp/odai/2138302024536241901

私のサイトは、このひたすらコピペされているサイトの中の一つです。( 特定はされたくないので、この内のどれかは勘弁。申し訳ありません)リンク先を見ればわかるように、ただひたすら文章コピペしただけでオリジナルな部分が皆無です 。著作権法上の引用要件を明らかに満たしていません(もちろん、その旨も最初のメールで指摘しました)

こんなあからさまな著作権侵害でも対応してくれないんだなぁ…

追記2 NAVERまとめは「引用」にあたるんじゃないの?という意見について

NAVERまとめは、引用マーク出展URLを書いているから、著作権法的に認められる「引用」じゃないの?と感じる人もいるかもしれません。

でも、NAVERまとめ引用は、著作権法で認められた「引用」には当たりません。著作権法で認められた「引用」の条件を満たしていないからです。

文化庁は、著作物例外的な無断利用ができる「引用」は、以下の要件を満たす必要があると回答しています

ア 既に公表されている著作物であること

イ 「公正な慣行」に合致すること

報道批評研究などの引用目的上「正当な範囲内」であること

引用部分とそれ以外の部分の「主従関係」が明確であること

カギ括弧などにより「引用部分」が明確になっていること

引用を行う「必然性」があること

キ 「出所の明示」が必要コピー以外はその慣行があるとき

文化庁 (2010, §8. 著作物等の「例外的な無断利用」ができる場合 ⑧ ア、「引用」(第32条第1項))

確かにNAVERまとめは「出展の明示」「引用範囲を明確にする」は確かに満たしています。が、

ウ…主従関係が明確であること 

もともとの著者が書いた部分が「主」、引用している部分が、質的にも量的にも「従」にならなければいけません。NAVERまとめ場合、単なる切り貼りなので、「主」の部分がないため、この主従関係要件を満たしていないのですね。

サイトからコピペ部分が「主」なのだ、と思う人もいるかもしれませんが、それがOKなら、他人著作物切り貼りして、自分の本だと言いはることも可能になりますよね。だから、やはりNAVERまとめは、この主従関係要件を満たしていないと考えるべきでしょう。

また、金銭を得る目的作成されたコピペまとめが『ウ 報道批評研究などの引用目的上「正当な範囲であること』かどうかも疑問です。

さらに、「カ 引用を行う必然性があること」も、そもそもの保護すべき「主」になる創作物がないため、その「主」を補足・例証するための「引用必然性」が生まれるとも思えないのですよね。

ということで、NAVERまとめ著作権法で認められた「引用」にはあたらないと思います

2014-06-30

酵素スムージーマスター(笑)が通ります

そろそろはっきりさせておこうよ

ちまたで流行ってる酵素健康法って、要するに、

発酵食品は体に良い」

ってイメージと、

発酵酵素名前が似てる」

って二点から、うまく素人に混同させた商法ですよね?

ニセ科学と言われないための提案は、ただひとつ

酵素

じゃなくて

発酵抽出物」

とかに言い換えればよいだけ

もっとかっこいい名前がいいなら、

発酵エクストラクト」

そしたら商売したい人と、正しい知識を伝えたい人で衝突しないでしょ

発酵食品に含まれるものに体に良いものがあるってのはニセ科学でもなんでもないし、

商売したい人は別に酵素って名前にこだわる必然性がない

そもそも酵素を売ってないんだし


ちなみに俺はバリバリ酵素学が専門の教員です。

あ、「発酵エクストラクト」で商売するなら俺にも売り上げ分けてください

2014-06-17

BLOGOS-ポップソングが「閉塞感」ではなく「楽しさ」を共有する時代へ(柴那典) は間違っている 〜アベノミクス時代音楽、そしてミスチルのこと〜

http://blogos.com/article/88464/
「ポップソングが「閉塞感」ではなく「楽しさ」を共有する時代へ」という文章を読みました。
強い違和感を覚えたので備忘録代わりに書き残しておきたいと思いますBLOGOSコメント欄だと字数が足りないので。

 

柴那典氏(@shiba710)の文章は間違っていると思います
理由は以下の三点になります

 

まず第一にアベノミクスが将来への希望を本当にもたらしているのかという疑問があります
消費税増税過去の景気状況から国民が景気に対し、継続した右肩上がり希望的観測を持てるとは思わないからです。
加えて失業高齢化原発等、解決しない社会問題も山積する上、庶民不安はむしろ拍車がかかるのではないかと思います
まり人々は楽しさや楽観という価値観のもとに生きていないのではないでしょうか。

 

第二に日本ミュージシャン特にメインストリーム)は"カナリア"のような存在ではないということです。
これは楽曲への批判ではありませんが、翼を広げ瞳を閉じ桜舞い散る季節の中で君に出会えたキセキを歌うJ-POPには時代が反映されることはなく、それを許されてもいません。
時代を反映する曲を歌うということはつまり楽曲がある種の政治的側面を帯びるということです。
現代日本人にとって音楽政治性とは最も嫌うものです。よって必然的時代性(政治性)は排除され、似たような要素を持つ楽曲が量産されることになります
日本ではSex Pistolsの「Anarchy in the U.K.」もGrandmaster Flash and The Furious Fiveの「The Message」のような楽曲は生まれないでしょうし、また生まれてもチャートの上位に入ることはないでしょう。

そこから導ける結論としては、J-POP日本音楽の特徴はむしろ時代を反映しない」ことにあるのではないでしょうか。
現在楽曲10年前、20年前とを比較してそこに主題テーマ)の大きな変化はあるでしょうか。
せいぜい電話ポケベルLINEメールに変わったくらいで、その根本は大した変化はないというのが実情ではないでしょうか。

「いいくらし」「ええじゃないか」等、氏の挙げる楽曲はどれもJ-POPスタンダード、「励まし系」の枠を超えるものでもないと思います
これらの楽曲時代必然性を見い出すことははっきり言ってできません。
当然それが悪い訳ではありません。繰り返しますが楽曲の善し悪しとはまったく別の話です。
日本のポップミュージックの作り手は、時代の空気を先端で感じている“カナリア”のような存在ではないのです。

 

第三に「ミスターチルドレンがポップソングを通じて現代の閉塞感を共有する時代の一つの象徴になった」という考察が完全に間違っています
氏はその代表例として「マシンガンをぶっ放せ」を挙げています
本当に「ミスチルがポップソングを通じて現代の閉塞感を共有する時代の一つの象徴になった」のならば、その「マシンガンをぶっ放せ」は彼らの代表曲であるべきです。
しかし、一般人ミスチル代表曲を挙げてみて欲しいと質問しても「マシンガンをぶっ放せ」と答える人が果たして何人いるでしょうか。
せいぜい「イノセントワールド」か「Tomorrow never knows」か「シーソーゲーム」くらいでしょう(最近なら「しるし」や「HANABI」かもしれません)。

マシンガンをぶっ放せ」は、出せばミリオンを達成できた時代に唯一100万枚を割ったシングルです。
加えてその曲が収録されたアルバム深海』は前作『Atomic Heartから100万枚もセールスを落としています

私はそもそもミスチル現代社会の閉塞感を曲として昇華し、それを「売り」にするバンドだとは全く思っていません。

仮に100歩譲ってそのようなバンドだったとしても、本当にその「閉塞感」とやらって「共有」されていましたか

ちなみに氏の言う「時代の閉塞感を内面化させていたミスチル」のセールスは、CDバブルに沸く世間とは対照的に見事なまでに右肩下がりでした。
アルバム『Q』は遂にミリオンを割ります

 

しかし、仕切り直し的な意味を持つベスト盤とそのツアーを挟んでの次作、『IT'S A WONDERFUL WORLD』で彼らは文字通り“蘇生します。
世の中のCDセールス頭打ちになる中、セールスは前作から50万枚も回復するのです。
このアルバムからミスチルメロディーは「ポップで王道的に」、歌詞は「前向きな内容」になり、彼らの得意分野であった「ラブソング」が完全に復活します。
ものすごく簡単に言ってしまえば「ハッピー」な作品になります

以後、今日までの彼らの方向性はこの延長線上にあります
嘘だと思ったらアルバムクレジット欄を片っ端から調べてみて下さい。前作『Q』まで二転三転してきた制作環境スタッフが、このアルバム以降基本的に統一されます
この事実意味するものは、この『IT'S A WONDERFUL WORLD』からバンドが目指す方向性が「確立」されたということです。
しかも氏の言う「時代の閉塞感を共有する」とは真逆の方向で。
その後の活躍は説明するまでもないでしょう。氏の方がご存知ではないでしょうか。
さて、本当に「ミスターチルドレンはポップソングを通じて閉塞感を共有する時代の一つの象徴になった」のでしょうか?

 

改めて見てみましょう。
00年代に売れたシングルは上から順に「四次元」「Sign」「youthful days」「しるし」です。
ミスターチルドレンはポップソングを通じて閉塞感を共有する時代の一つの象徴になった」のならば、その楽曲社会批判的な世を憂う内容のはずです。

自分を信じたならほら未来が動き出す/ヒッチハイクをしてる僕を迎えに行こう」(「未来」)

「傷つけ合う為じゃなく/僕らは出会ったって言い切れるかなぁ? /今 分かる答えはひとつ/ただひとつ/I love you/and I love you/and I love you」(「and I love you」)

「繋いだ手を離さないでよ/腐敗のムードをかわして明日を奪うんだ」(「youthful days」)

ダーリンダーリン/いろんな角度から君を見てきた/共に生きれない日が来たって/どうせ愛してしまうと思うんだ」(「しるし」)

一体このどこを聴いたら「時代の閉塞感を共有している」などという言葉が出てくるのでしょうか。
楽曲の内容は至って前向きなものか、もしくはラブソングの括りに入るものかと思います

 

本文の「終末のコンフィデンスソング」に関するミスリードも目を覆いたくなるような酷さです。
本文では「たまに不吉な夢見るんだよ/走っているのに進まない/ひょっとしたら実際に起きてることを夢の中で知らせるメタファーかも」という歌詞のみ引用されていますが、この曲の結末部分はこうです。

「今僕らの目の前で起こってること/楽観も悲観もなく/ちゃんと捕まえたら/足元に落とした視線を/上にあげ/胸を張れ!」

なんと前向きで力強い、ハッピーエンドな曲なのでしょう!
しかもこの曲が収録された『SUPERMARKET FANTASY』というアルバムリード曲「エソラ」に象徴されるような、とても「カラフル」で「楽しさ」を前面に打ち出したアルバムなのです。

 

今まで挙げた事例を見て頂ければ分かる通り、残念ながらミスターチルドレンは氏の望むような「ポップソングを通じて閉塞感を共有する」音楽活動は行っていないようです。
仮にそうであったとしても「ポップソングを通じて閉塞感を共有する時代の一つの象徴になった」ことは一度もないのは明らかです。

 

このような基本的事実を踏まえずして「アベノミクスで失われた20年は終わった!これからは楽しさを共有する時代だ!ミスチルという閉塞感を共有する時代の一つの終わりだ!」とか炎上目的ゴシップ誌の見出しのようなことを得意げに抜かすのが、私が日頃愛読している「musica」という音楽雑誌関係の深いのライターの方なのです。
私は情けなくて仕方ありません。これが「プロ」の書く文章なのでしょうか。
ちなみに同じ筆者が書いた「なぜBUMPは「国民バンド」になれないのか」という記事も酷いものでした。
願わくばこのような暴論を振り回す音楽ライターが、私の敬愛するミュージシャン音楽に関わらないでくれと祈るばかりです。

2014-06-06

英語東洋の諸言語と比べ、基礎段階で覚えることはかなり少なくて、実用性重視ならひたすら単語数がモノを言う。

覚えても覚えても複雑な単語が沸いてくるので、毎日少しずつ覚えるしかない。

新たな文法など、基礎段階を学んだ後はほとんど増えない。

一つ確かに言えるのは、日本語との相互翻訳ではなく、完全に別体系の分野として英語学習する必要があることか。

頻出単語と基礎文法を覚えたら、英和・和英よりも、原文と英英辞典でひたすら「体系の空白」を埋めるような方法効果的だと思う。

ここまで書いてなんだが、最も効くのは旅行論文読解など、「使う必然性がある」ことかと。

「使えるとかっこいい」も悪くはないけど、それならば実用性に拘らず、知的好奇心を満たす方向のほうが身に付き易いと思う。

2014-06-04

http://anond.hatelabo.jp/20140603200841

もっと深みのある記事かと思ったら、ただの不倫関係必然性からくるだけの猿のような記事だった。

相手の猿男は別に名前で呼びたくも離婚してまで結婚したくもないだけだよ、猿女。

2014-05-30

http://anond.hatelabo.jp/20140529141107

これはそのまま同感

> 勢いはあった。

ネタ的に引く。

正直タイトルいじめ)も引く。

読む前(読み始め)から嫌な気分。

1ページ目の流れがよく分からない。

読む順番を間違えたのか、ページを読み飛ばしたかと思う。

ネタ必然がない(チェーンソーガソリン臭)

ストーリー必然性がない=流れが不自然イケメンの登場など)

リズムが悪く読みにくい。

無駄なアップ、コマぶち抜き。

http://anond.hatelabo.jp/20140529141107

佐賀出身者なんで、そのあたりのことだけいうと、地元ギャグはくさるほどあるのに、

あまつさえ佐賀は「はなわ」もいるのに、

掘り下げが浅すぎやしないか。

たとえば、米がなんで「ひとめぼれ」なんだ。東北の米じゃん。

はしはしで、佐賀である理由がわからない。福岡熊本も、それぞれであるための必然性が感じられない。

地域性を女子高生になぞらえて創作しました! というのがミソなんでしょ?

この路線のまま新味を出そうというなら、もっとドロドロした現実に突っ込むとか(武雄の図書館とかか?)、

スレスレを狙わないと二番煎じのままで終わっちゃう。

2014-05-11

友人関係の維持コスト

休日犠牲にした友人付き合いが苦痛

  • 時間……休日に友人と会うと意味のない、無駄な、特に目的も実りもない会話がだらだらと続く。別に10分とかならまだいい。それが平気で数十分数時間と続くのは苦痛しかない。解決策を模索するための相談ならまだ収穫はあるし他人と会話をすることも「必然性」を見いだせる。けれどその前後に数時間無意味な会話がオプションとして続くのには耐えられない。例えばその数時間があれば家に掃除機がかけられるうえ風呂掃除までできる。水槽の水換えができる。来週一週間分弁当の下準備もしなければならない。Pocketに溜まった雑多な記事を整理できる。本業副業休日にやりたいことはいっぱいある、それらもスムーズに進めばいいところまでいけるだろう。メールカレンダーのチェックをして来週中の予定を詰めたい。他人と会話していると何も残らない。辛い。
  • お金……休日の昼だかに友人と1000円ランチ。不味くはないが格別美味いわけではない。外食は好きだが、どうせするならその「外食してもいい券」は自分のためだけに使いたい。仕事で失敗してどうしても疲れた夜なんかにひとりで吉野家牛丼大盛りネギ乗せなんかを頼むために使いたい。しかもそのたかが食事にこれまた時間がかかる。だいたい一食1000円は高価だ。月一とかならまだしも月に何回もそういった予定が入る。耐えられない。
  • 維持しないと損失がある……そうはいっても私は私が他人抜きで過ごすことができないことを知っている。ストレス解消としての友情は便利な手段の一つだ。しかし使いたいときにだけ使えるわけではない。また他人をストレス解消に使うためには自分自身も他人のストレス解消に使われなければならない。面倒くさい。

仕方がないので友人を友人として維持することのメリット(※)を探して付き合っているが、冷静に考えてみるまでもなくそう考えている時点でこれは無駄なのだろう。「維持コスト」という考えに至っている時点で、そのメリットデメリット釣り合っていない。そろそろ踏ん切りをつけなければならない。さもなくば私は、自分人生の不幸の責を他人に求めてしまうだろう。こうして匿名ダイアリーにくだらない文章を吐き出すだけでなんとか溜飲を下げられるうちに、実の友人達に当たってしまわぬうちに、なんとか規模を縮小しなければならない。

久々に会う友人に呼び出されて三時間くらい会話につきあったのちに「まあこんなくだらない会話してるくらいならお前も作業頑張れよなw」などとその友人に言われ顔面を殴りたくなった。

「君と仕事を比べたら、仕事の方がよほど私にとって重要から帰ってくれ」そう私は言うべきだったのだ。

※友人維持のメリット

2014-04-23

音楽理論/レット・イット・ゴー〜ありのままで〜(Let it go) /「アナと雪の女王主題歌

アナと雪の女王」のテーマソング『レット・イット・ゴー〜ありのままで〜(Let it go)』、テレビや街でめちゃくちゃ流れていますよね。かっこいい。

まだ映画は見てないのですが、とにかく曲がかっこいい。映画みてないのに、きっと主人公アナが背負った生い立ちを受け止めて、最後自分らしく生きていく決心をする映画なんだろうな、と涙しています

https://www.youtube.com/watch?v=cvj3-MZO9Tw&list=FLF_clbmzwu_aTTbnVmXSsPg&index=2

早速、iTunes松たか子さんの歌う日本語バージョン買いました。

https://itunes.apple.com/jp/album/anato-xueno-nu-wang-orijinaru/id834877950

色々バージョンがあるのですが、今回は日本語バージョンをとりあげます。やっぱりミュージカル映画ですからダイレクトメッセージが伝わってくる日本語がいいですね。

それにしてもディズニーの曲って全部かっこいいですよね。私はアラジンテーマソングホール・ニュー・ワールド」が好きでした。男性の方はピーボ・ブライソンという人なんですが、けっこういい曲をたくさん出していて、よくDJでかけてます

このアルバムが最高です。スプレッドウィングが最高!4時半くらい、もうだんだん人がかえるかなあってくらいの最後の盛り上げにベスト。切ない。

https://itunes.apple.com/jp/album/crosswinds/id715936499

ということで本題に入っていきましょう。

最初にはったYOUTUBE時間を指定していきますので参照ください。

また今回はこちらに楽譜を用意しました。

再生もできるので便利です。

http://www.noteflight.com/scores/view/99eca90e7551876a3ec94a53a0ad00e5639fa1eb

例のごとくキーをCになおしてあります原曲は、Abですので、原曲と一緒にプレイしたい人はM3下げて演奏して下さい。

日本語入力ができないようだったので歌詞ローマ字で。やり方分かる人はおしえてください。

で、楽譜の部分は大サビ動画でいうと2:00から場所ですね。一番盛り上がるところ。CMなんかで放送されているのはおそらくこれだと思います

とても素晴らしい曲なんですが、それゆえ説明すべき場所ほとんどありません!笑

小手先の技でできている曲ではない。ただただシンプルにいい曲。

野球でいったらただのストレートなんだけど、速すぎて誰も打てない笑、みたいな。

コツとかない。ひたすら練習して投げれるようになった速い球、みたいな感じです。

そういっちゃうと終わってしまますが笑

https://www.youtube.com/watch?v=SV2hshsChlk

ということでボブ・マーリー名曲『ノー・ウーマン・ノー・クライ』を引っ張り出してきました。最初オルガンのリフ、鍵盤やってる人なら絶対練習したことがあります。かっこよすぎ。

で、なんでこれを出したかというと、レット・イット・ゴーのサビと、1:16ぐらいからの平歌部分、いんざがばめんとやーどいんとれんちたうんー、というところのコード、一緒なんですね。キーはもちろん違いますが。

ノー・ウーマン・ノー・クライではキーDbなので、Db Ab Bbm Gb演奏してます

このコード進行と、レット・イット・ゴーのサビは全く同じ進行です。

同じだからなんなんだってとこですけど。

好きな曲が同じコード進行ってやっぱり嬉しいじゃないですか。

コードが同じだとパクリだとか定番だとか、良くないことのようにいう人がいますが、そんなことはない。コード同じなのに全然違う良さがある。逆に音楽ってすごいなって思いませんか?同じ構造なのに感動が違うんですよ。すごいですよね。

で、ちょっとこのコードを見て行きましょう。

C G Am F の繰り返しですね。

僕的にポイントなのは、FからのCに戻る部分です。

ここすごい好きです。個人的には切ない感じがする。ぐっとくる。

このブログでも何回も書いているんですが、FからCに戻る進行は、ソウルっぽいというか、ゴスペルぽいんですよね。

書いてて思い出したんですが、絢香さんの i believe も多分同じコード進行ですね。サビ。レット・イット・ゴーと同じように、女の子自分自身を受け止める歌ですよね。

https://www.youtube.com/watch?v=sJItuaykRRk

なんというかこう、自分と向かい合う、内向的な、しかし力強くまえに向かう。そんなテーマにあってるんでしょうか。このコード進行は。

ボブ・マーリーの歌も日常にある悲しさと、それでもやっていくしかない、っていう前を向くところがテーマとして似ています

ここでいいたいのは、このコードを使えばいい曲が書けるとか、切ない雰囲気がだせる、といった小賢しいことじゃあないんです。

自分がいいなあと思う楽曲にたいして向き合い、なるべく多くのことを引き出そうとする営みなんです。より音楽を深く味わうための。

美味しい料理を食べたら、どうやって作るのかな、材料は?香辛料は?焼いているのかな?そういうことが気になるでしょう。

それで、例えばタイ料理好きだったら、そうか!!!私が好きなこの味は、パクチーだったのか!!って発見があったら嬉しい。スーパーに行って大量にパクチーを買ってなんにでもかけちゃう。みたいな。

好きなものがあれば調べて、どうなってるのかたくさん知りたいでしょう。音楽理論も同じです。対象を深く知るための行為だといえると思います

なのに最近は、「タイ料理パクチーがかかっているから美味しいんだ!」みたいな雑な人が多くて残念です…それは嘘ですよね。

今食べているこの味はパクチーだということはできても、パクチーを入れれば美味しくなる、ということはできない。

我々ができるのは、何が起きているのか、ということに向かい合うことだけだと思います

話が長くなってしまいました。戻りましょう。

コードはC G Am Fの繰り返しであると述べました。

次はメロディを見て行きましょう。

やはり特徴的なのは、ありのーままでー、という部分ですよね。二回繰り返されています

シドーという部分ですが、これ非常にマイナーキーっぽいサウンドですよね。

コードはFからCに帰る部分ですから、どちらもコードだけ見ると明るいサウンドだといえますが、メロディーマイナーっぽい。いいですね。

ありのーのあと、Amを弾いてしまいそうになるくらい暗いメロディですが、実際のコードはCなので、この対比が面白いです。

ままでー、はG G D、完全にコードに含まれる音を使うことで力強い印象になっています。またGとDの完全五度の跳躍も力強い。ありのー、の繊細な雰囲気と、ままでー、の力強い雰囲気がうまく対比されています

二回目の、ままでーは、G 「E」 D とほぼ繰り返しなのですが、「E」でグッとテンションを上げてきています。ここまでは「D」が一番高い音でしたので、さらに高い音「E」が初めて使われたことで、聞いているひとは注目します。

そしてそこから、飛び出してみるのさー、から一気に音高もテンションもあがります。「F」というこの曲中、二番目に高い音が出てきますし、メロディーラインもぐねぐねと動くテンションの高いラインになっています

そして最後の、二度と〜、部分です。

高々と「G」を唄い上げます

「二度と涙は流さないわ。」

彼女の決意が曲中の最高音「G」と共に表明されるわけですね。

はいつもあまり歌詞については言及しないのですが、この曲は歌詞と曲の構造完全に一致し、聞く人を引き込んでいきます。パーフェクト。

ミュージカルの良さが発揮されてます

このシーンでこのうたを歌う必然性がしっかりとあり、メッセージの高まりと音高の高まりリンクして、目の前でアナが地面を蹴りつけて氷面ができる。

すごい!

あと動画をみていて思ったのですが、アナは片方しか手袋してませんね。

全く映画をみていないので詳細はわからないのですが、くらい水色の手袋は、アナの心理的なガードの象徴なんでしょう。序盤は全く生身の手を見せずに、手袋しかみえません。

しかし、0:52ごろから、悩んでいたけれどそれももうやめよう、というあたりから左右の手をみせます。つまり生身の手袋をしていない自分自身を、しっかりと見せるのです。

それでバーンと投げてサビへ!!!

自分ネガティブな部分?から開放される瞬間です。

すごいリンク具合。

あの…映画みてないので、もしからしたとんでもない誤解をしているかもしれませんが、許してください。そもそもこの人アナじゃない可能性もありますね笑

映画見なくてもこの動画みるだけで泣けてきます

映画館明日行きます!!!

ではお疲れ様でした。

2014-04-06

http://anond.hatelabo.jp/20140406191544

うん、ていうかね、どこも親がリッチ過ぎます

こんなこと書いたら「上流階級の子息乙!」とか言われんのかな。

でも今の20代から見ると、自分達の親世代ってほんとリッチだよ。ちょっと信じられないくらいに。

からリスク取って肉体労働する必然性もあんま無いんだよね。

そういえば昔は野原ひろしが「あの年齢でその程度w」みたいな扱いだったのが時代が進むにつれ「ひろしスゲー!」「俺はひろしになれなかったよ・・・

っていう扱いに変わってきたのと関連してるのかな。

とにかく今の世代って完全に諦めてます。いろいろと。

http://anond.hatelabo.jp/20140406191544

2014-04-04

「うまく言えない感」と哲学芸術

哲学は「うまく言えない」ことをうまく言おうとする過程で生じるものだと個人的には感じる所が多い。

物事を明快に言い切る言論人(評論家コメンテーターさらには評論的なブロガーまで含む)の中には

「うまく言えた感」に酔ってるだけで、その先を追究しようという気概を感じないこともあるが、

哲学者というのは概して「うまく言えない≒うまく分からない」感じをどこまでも追究するタイプ人間が多いと思う。

それはある種の不器用さとも関係しているのかもしれない。教科書的ないしは常識的スパッと説明とされても、「なんか違うんだよなぁ」という引っかかりを感じてしまうような。

そんな不器用さがある。かのエジソン小学校で「なぜ1+1か」に躓いたというが、創造的な人間にはそんなある種の不器用さを抱えた人間が多いのかもしれない。

多くの人は「うまく言えない」「分からない」と思ったらそこで踵を返して、ウンウン唸って考えずに済む明々白々なこと(と思い込んでること)だけを扱おうとする。そのほうがラクと言えばラクだ。

それが出来ないのが哲学者の苦悩であり芸術家の苦悩なのだと思う。

あるいはあえてしない。あえて理解インコースギリギリを攻めていくスタイルをとる人もいる。全く分からないことは分からないとキッパリ捨てられるが、

分かりそうで分からないことというのは妙に気になってしまう。だから別にスルーできるけどあえてそのオンザエッジに留まって苦しみ続ける。そういうタイプ哲学者もいるに違いない。

とにもかくにも、哲学者はうまく言わないといけない。うまく言えないことをうまく言わないといけない。そこに哲学ジレンマがあるように思えてならないのだ。

別に一般人に分かりやすく言う必要はない。一般人平易な言葉で解説されないと理解できない。専門知識がないのだから当然である

平易な言葉しか理解できないから平易な言葉で話せる人だけが一般人の目には「理解している人」であり、専門用語ばかり並べる人は「よく理解してないことを

訳の分からないまま回りくどく語っている人」に見えてしまう。それは仕方ないのであって、専門家がそんなことに気配りする必然性はない。

むろん、啓蒙活動する哲学者もそれはそれで社会的には意義があるだろうけれども。

話がそれたが、哲学者一般人に分かりやすく言う必然性はないけど、他の専門家には分かりやすく言う義務がある。

いくら分かりにくいテーマを扱っているからと言って、何を言っているのか分からない言葉で語ったのでは相手にされない。

そこに哲学者という仕事の難しさがあるなと素人目には感じるし、インコースギリギリを攻めずにいられない一部の言論人にしたって

そうした苦悩とは無縁じゃないのだなと勝手ながら同情してしまうことが多い。

芸術にしたって同じだろう。哲学既存哲学の延長線上に新たなページを付け加える行為であるが、

芸術に至っては容易には消費されない新鮮さが求められる。そこに独特の難しさがある。ネットで簡単に違法アップされた音楽が聴ける時代である

1度聴いて満足するのではなく何度も聴きたくなるような新鮮さ、それもCD音質で聴きたくなるような魅力がなくてはならない。

私も音楽制作現場にいて、コレクターの所有欲に訴えかけるようなプロモーション戦術に手を染めたこともあるが、

そういうのは芸術としては糞くらえだと思う。本当はきちんと価値のあるものを作りたい。私だけでなく芸術業界の人はみなそう思っているはずだ。

価値あるものとは繰り返すが新鮮さのあるものである

新鮮であるには「奇抜すぎず普通すぎない」、「しかも分かりやすい」、そのバランス感覚を常に維持しなくてはならない。

芸術業界には日常生活からそのようなギリギリスタイル暮らしている人も少なくない。着ている服のセンスも奇抜すぎず普通すぎず。

そんな絶妙バランス感覚を日々の暮らしの中で養っているのだ。そんなギリギリバランスの中で、

普通じゃないのに分かりやすい」着地点を模索していく。どうすればうまく言える(表現できる)のか。

うまく言えない感とぶつかり闘いながら、胴体着陸も辞さない構えで、何度も着地し、一番いい着地点を探し出す。

いわゆる「芸術家」に限らずとも、芸術家肌の人間というのは、そのような延々とした作業をしているものだと思う。

2014-04-03

http://anond.hatelabo.jp/20140329153431

元増田です。

本当は純然たる増田をきめこもうと思っていたのですが、少しだけ。

想像以上のコメントがあり、本当に驚きました。

コメントをくださった方、ありがとうございました。

留年経験のある人、似た仕事環境で働いた経験のある人、書かれた内容に共感してくれる人がこんなにいるのが分かって、おもしろかった。

とても勇気づけられました。けっこうみんなやってますね!

僕は日雇いアルバイト経験した直後に大学卒業して就職していたのですが、会社になじめず、3年間で退職して自営業をしていました。

それがいろいろあって、この4月から12年ぶりくらいに組織所属することが決まりました。

元記事は、4月を目前に高まる不安のもと、ふと、そうだ自分を支えてくれる言葉があったぞと思って書いたものです。

http://anond.hatelabo.jp/20140330222040

文章に関する仕事です。

割に長くつづいている仕事なので、向いていないわけではないと思います

でも、向いている仕事ひとつに限られる必然性はないと思います

http://anond.hatelabo.jp/20140330133123

http://anond.hatelabo.jp/20140330112007

やっぱりどこも似てるところがあるのかもしれないですね!

しかに独特な人間関係だと思いますが、本質はとてもシンプルな気がします。

社会との力関係人間関係も決まるというか、社会との力関係人間関係露骨に影響するというか。

もちろん、悪い面もたくさんあると思いますが、分かりやすさが最大の魅力な気がします。

通常の人間関係は、それに比べるとかなり分かりにくい気がします。

良く言えば個人的、悪く言っても個人的というか。

その分かりにくさがどこからきているのかを考えると、個人的事情の複雑な絡みあいで、いとも簡単に想像の範囲を超えてしまます

http://anond.hatelabo.jp/20140329165201

アルバイトとは直接関係しませんが、寿町から歩いて行ける距離の◎びす温泉によく行ってました!

また書きたくなったら、増田として書きます

それでは純然たる増田に戻ります

ありがとうございました。

2014-03-21

友達ってどうしたらできるの

自分友達ができない理由ははっきりわかる。

ちょっとでも不愉快な思いをすると、その人との関係を断ち切る。

・人と会話をするのが苦手、というか、気を使うのがしんどい。疲れる。

一番の原因は、

・一人でいても平気

だと思う。

一人で飯を食えない、遊べない、暇をつぶせない…というのは、

切実な友達を作る理由になる。

(女だけじゃなく、男も)

一人でいても寂しくないし平気(だしむしろ楽)だと、友達を作る必然性が薄い気がする。

とは言っても、たまに無性に寂しくなるから友達を作りたいのだけれど。大人になってからの新規開拓って難しい。

2014-02-12

意味

意味を知りたい、見つけたい、という欲求がある。こういったことを人間が抱くようになったのはいからだろうか。食べることと寝ること、そして子孫を繁栄することからは、そういった疑問は生まれないだろう。なぜなら、食べなければ死んでしまうし、寝なければ疲れつづけて動けなくなるし、子孫を残さなければ種が止まってしまうことを我々は先天的に知っている。そこには必然性があり、問う必要がないのだ。

おそらく、「娯楽」や「想像」がそれを生み出すのだと思う。つまり、生きることにも死ぬことにも、必然的な影響を及ぼさないこと。たとえば、原始人だったら、星空を眺めてみる。自分で、または仲間と一緒に、夜空に浮かぶてんてんはいったい何なのだろう、この世界はどこまで広がっているのだろう、そして、自分たちは何者なのだろう、なんのために生まれてきたのだろう、というパンドラの箱を開けてしまうのだ。そこに答えを見つけることができたとしても、それは「自分はこう思う」といった程度である。だからこそ、本当の「意味」を知りたくて、人間科学を発展させ、この世にある不思議を具現化し、意味定義してきた。

僕はものごとを自分の手のとどかないところまで含めて考えてしまうことがある。自分が生きれるのは多くとも70年ぐらいなのに、宇宙のはじまりから宇宙のおわりまで、気になってしまうのだ。

ものを作るときに思うのは、これを作ったところで、多くの人間に見てもらっても、どうせ地球太陽もいつか無くなるし、宇宙も最終的にはひとつの点に集結する。だから意味ない。という脳内の(負の)思考プロセス誕生してしまい、作業が滞ることがしばしばある。

これ、よくない。まず、自分は「残す」ことを作ることだと思っている節がある。そして、地球人を信用していないところがある。自分の作品はもっと動物とか、虫とか、はたまた宇宙人に見てもらいたいなんていう欲求がある。馬鹿だと思われるかもしれないが、人間よりも確実にわくわくするのだ。

残すことが作ることの最大の意義ならば、意味はないだろう。ただ、その最大の意義は、科学の根拠によって成り立っている。地球太陽に飲み込まれること、宇宙が一点に収縮すること。それは人間発見したことで、多くの人々は「その通り」だと思っているだろう。つまり自分はそういったみんなが「正しい」と思うことに囚われているのである

まり、先程言った「自分はこう思う」ということが全てなのだ。いま世の中にある考えに囚われすぎると、そのなかでしか動けなくなる。自分は思っている以上に何かによって考え方が固着しており、不自由な状態になっている。

意味」は、あなたけが持っていていいのだと思う。

自分はこう思う。

~~~~~~~~~~~~~~~~

ものをつくるということは少なくとも「残す」ことよりも、その場にいる人に「みせる」ことの方が大切なのだろうと思い始めている。そして、宇宙の始まりから終わりや地球の始まりから終わりのような大きな話よりも、自分の長くて短い人生のようなことを考えていきたいと思う。

・・・が、どうなんだろう。そうは考えられない。だって自分地球の一部だし、宇宙の一部だと思うから。他人も自分みたいなもので、友だちや、家族や、いつも寝ている布団や、いつも使ってるシャーペンだって、昔を生きた百姓だって、ましてやこれから生まれるベイビーだって自分なのだしかしこれは話すと厄介なので、言葉にしたいのだが、この問題をここで処理するのは今度にしよう。自分自分という存在を肉体で境を作ることが苦手なのだ君と僕はどこかで互いに影響し合っているのだ。それは密な関係でも、ほんのささいな関係でも、まるで関わりなんてなさそうでも、きっとどこかでつながっている。と信じたい。

だれか教えて下さい。答えなんてないかもしれないけど、あなたがどう思うか、教えて下さい。

2014-02-01

http://anond.hatelabo.jp/20140201140950

「有限個のリンゴが生まれない」事は分かりますけど、だからって「0」になるっていう必然性がよくわからなかったんですよね。

その考え方では「不定」でもいいじゃないですか

2014-01-23

いとこ婚について

遠い親類がいとこどうしで結婚した。

結婚式に参加する必要も、祝儀を送る必要もないくらいの遠い親類なんだが、それでふと疑問に思った。

というのは「いとこどうしで結婚する」ということに対する反応に、世代によってかなり温度差があった気がしたからだ。

自分(三十代)の親の世代(もう還暦近い)だと「そうなんだ」くらいの反応だったのだが、十代ではけっこう忌避感があったように思った。

ちょっと調べてみたのだが「いとこ婚」という括りで統計をとったものは見つけられなかった。

いくつかそれっぽい記事は見つけたのだが「いとこ婚は減っている」ということが確からしいくらいのことしかからない。

考えてみれば、現代日本で、いとこどうしが結婚することに、あまり必然性はないように思える。

少なくとも、積極的にそれをする理由はあまりないだろう。

もちろん出会いは人さまざまだから、どんなきっかけがあるかはわからないわけで、逆に積極的に否定する理由もない。

ただ、自分が見聞きした範囲の温度差が気になった。特に身近な十代の反応が、遺伝的な問題云々以前の生理的嫌悪感に近いようなものだったのが気になる。

自分としてはそこまで特殊なことだとは思わず、親の反応に近かったので、なおのことだ。

実際のところ、どうなのだろう。たまたま自分の見た範囲での反応がそうだった、という個人差の話なのか、あるいは世代的に、近年に近づくにしたがっていとこ婚に対するタブー意識が強まっているのか。

そのあたりの意見を求めたい。

2014-01-17

http://anond.hatelabo.jp/20140117164316

主要論点でもなければ各論の話ではありますが、当該テレビドラマ表現が過激にすぎるし、放送時間からして様々な人に視聴可能性があり、実写で現実社会舞台設定にしていることからイジメや誤解の原因になる可能性が高いものだと、私は思います連続テレビドラマであっても毎話ごとに一本のコンテンツであって、いちいち毎話見続ける人ばかりではありませんから、「最後まで見てくれれば真意がわかります」というのは正当化する理由にはならないとも私は思っています。「あまり知られていないので啓発したい」という理由であっても、最初から最後まで見るのが想定されているような一本の映画などとは異なり、シリーズものテレビドラマテレビアニメなどでは一話単体で見られたときにどうなるか、という観点必要です。

さてそれで、論点はそこではなくて、視聴率で測るのをやめたらどうか、という話ですが。

いわゆる民放広告主がいるということになると、広告料を定め広告効果を測定するということが、少なくとも現在業界では行われています定量的に測定不可能だと、広告主を説得することが難しくなります。いまどきの企業は大概は、広告効果がないとやらない、カネにならないとやらない、と言います費用効果適当でなければ経営者責任問題にもなりますし、広告を打つ担当者管理職責任問題にもなります。そういうショボい社会ですので、「視聴率やめるべきだ」といった主張はずっと有力でありながら現実化していません。端的にいえば、いわゆる「民放」をやめて、視聴者スポンサーになり、さらに言えば後払い方式にすればよいのかもしれませんが、それで売上が確保されるのかどうかというと、ショボい社会ぶっちゃけて言えばみんなバカ)ですのでボランタリー視聴料が払われてビジネスモデルとして成りたたたせることは難しいでしょうね。(それができるんだったら、例えば、ソフトウェアプロプライエタリである必要はなく、Windowsなんかがデファクトスタンダードではなくなっているでしょう。強制徴収制度にしないとビジネスモデルとして成りたたないわけですよ。)。

あと、地上波デジタル双方向という話ですが、そもそも地上波デジタル双方向化ということがもともと論理的必然性がないものです。地上波デジタル化という結論が先にありきで(剛力彩芽でもないが)ゴリ押しし、その言いわけとして「双方向性」を主張してきただけのことです。そしてなぜデジタルテレビリモコンの四色ボタンなんかいほとんど活用されていないかというと、そもそもテレビというのが受動的なメディアから見られてきたということと、言いたいことがあってもそんなボタンじゃ使えねーということなのでしょう。だから、言いたいことはメールツイートで送るわけでしょう。まあ昔からテレビ番組双方向といえば、電話ファックスハガキでしたよね。

2014-01-11

http://anond.hatelabo.jp/20140110193735

そうやって、「俺はお前らと違う」「俺は本質的なことを分かってる」

というアピールをわざわざネットでしているあたり、

その気持ち悪い人たちと同じ穴のムジナだということにお気づきだろうか。

 

本当に熟した人は、「そんなん違うわ」と「俺にもそういうキモい面がある」という両面性を併せ持つの人間ってものだ、と受け止め、あくまで自分バランス感覚に対する戒めとするのみ。

絡まれなければ、セルフブランディングな人にも、ちげーよバカだろな人にも、どちらに対しても何も言わないし、見下したりもしない。そういう人たちが存在することの必然性を受け入れているからだ。

2014-01-07

HikakinTVが不愉快しょうがない2

ネットで大体事足りているので、私の家にはテレビがない。

しかし、なんとなく今世の中で流行っているもの、話題になっている音楽なんかも知りたいので

そういった情報は「youtubeで人気」にある動画を参考にしている。

もう1年くらいになると思うが、このスペースに毎日必ずHikakinTVが入ってくる。

いくら貰ってるのか知らないが、毎日Hikakinが「みた」という言い訳をしつつ

企業商品宣伝を堂々とやっている。

彼はボイスパーカッションが得意な一点を除けば、ただの一般人ではないのか。

Hikakinボイスパーカッション講座その1、とかでアクセスを稼いでるのならまだ分かる。

しかルックスいいわけでも、話術が優れているわけでも、ボイスパーカッションが学べるわけでもない、

彼がただ商品宣伝してる動画に、一体何の価値があるんだろう。

またそれを喜んで見ている視聴者は、何がうれしくて見ているのだろう。全く理解できない。

楽しい話が聞きたいのなら、芸人の話を聞けばいいし、

上手な商品紹介が聞きたいなら、ジャパネットおっさん動画でも探せばいいだろう。

Hikakinの動画にはそういった見るための必然性付加価値が一切ない。

そんな動画が「youtubeで人気の動画」の枠を一つ埋めてしまうことで

私の新しい情報を得る機会が一つ失われるのだ。

さら不愉快なことに、最近は味を占めたHikakinの兄が同様の手口で

youtubeで人気の動画」をまた一つ占拠してしまっている。

これは断じて嫉妬告白しているのではない。

私はボイスパーカッションをしたいと思ったこともなければ

内容のない動画で一山当てたいと思ったこともない。

ただ、この現象自体が、不条理だと言っているのだ。

誰か論理的に、HikakinTVの魅力を語れる者はいるんだろうか。

信者妄言は、彼の動画コメ欄だけで十分である

2013-12-29

ロボット性奴隷を作る試みは世界中でなされている

フェミは「レディーファースト男女平等先進的な白人様がそんなことするわけない!」と発狂するだろうけど、事実はそうじゃない。

権威的な国際会議でも半ば冗談めかして、議論がなされていたりする。

おそらく10年以内にアメリカで一番最初セックスマシーンが発売される。

それが一般に普及するまでどう見積もっても20年はかからない。

ここらで一つ、日本人真剣性奴隷を開発することを検討するべきだ。

ビデオデッキの規格競争AVのある方が勝った。

インターネットがここまで普及したのもエロ動画のおかげだ。

特に、人型ロボットを作っている人は「なぜ人型?」という批判をよく受けるだろう。

ロマンとか人間社会への親和性など、お固い理由も十分あるが、エロ目的なら必然性は俄然高くなる。

綺麗事ばかりでは大人の社会は回らない。

悪趣味に大々的に宣伝する必要はないが、それとなく匂わせることは戦略的にきわめて重要だ。

そういう意味で、今回の人工知能学会誌の表紙絵は絶賛せざるを得ない。

2013-12-28

あの程度で「性奴隷を作りたがってる」とか言ってるんじゃねーよ

 

長文が読めない奴のための3行要約

 人口知能学会誌の表紙が女性差別であるとして炎上した件について考えた。

 結論1.学会誌の表紙が差別的印象を与えかねないという指摘は妥当だが、批判者たちのことばは過激にすぎる。

 結論2.その結果、こうした性差別的問題に関わること自体が非常に厄介なものになっている。

 

当該表紙の是非についての私見

 俺自身は、当該学会誌の表紙を見ても女性差別的だとは感じなかった。例えば表紙の女性露出度の高い服を着ていたり、首輪をつけていたりといった明確な性的/奴隷モチーフがあれば別だが、表紙の女性虐待されたり奴隷待遇を受けていると感じさせる描写は特になかったように思う。

 そもそも掃除ロボットが人にそっくりな姿形をしている必要があるのか、という疑問はないではないが、人工知能というイメージをわかりやす表現するためにあのような形になったのだろう。

 いずれにしても、俺は、ことさらあの表紙がひどいとは思わなかった。

 他方、あの表紙を非難している人の意見には、頷けるところもある。

 例えば、女性奴隷的に家事労働を担わされてきた/担わされているという事実があり、家事労働女性がするものである、という性別役割を結びつけるような差別的意識が多かれ少なかれあるという現状を踏まえたときに、ことさらそうした差別的意識助長するような表紙を掲載することは倫理的妥当ではない、という主張は、一定妥当性を持つ。学会側にそうした意図がなかったにせよ、差別的メッセージを読み取って傷つく人がいるかも知れず、そうした人に配慮すべき、という主張は、おそらく"倫理的に"正しい。

 とはいえ、そうした倫理的な配慮の欠如は、果たしてそこまで非難されるべきものなのか。特に学会イラストレーターに対して「差別主義者」だの「性奴隷を作りたがってる」だのと言うのは言いすぎだ。せいぜい、「配慮が欠けている」くらいではないだろうか。これは炎上案件の多くに言えることだが、犯した失敗に対して制裁が強すぎやしないか

 また、学会誌の表紙に女性イラストを載せること自体男性的な欲望の発露で気持ち悪いという意見も聞くが、これについては、今回の表紙で言えば、女性の服装も容姿も姿態も特に萌え性的イメージ押し出しものではないので、的外れ意見だ。初音ミクが表紙になった学会誌比較的好意的に話題になったことを踏まえても、今回の表紙がことさら逸脱したということはないだろう。

 

対立構図の不毛

 今回の騒動を見て感じたのは、性差別に関する感覚絶望的な断絶だった。

 何を差別的だと感じるか、どこまで差別的だと感じるかというのは、明確に線引するのが難しく、曖昧な部分というのは多くある。例えば、今回の表紙だってコミックス小説の表紙であればここまでの反発を受けることはなかっただろう。そこには、「学会誌の表紙」はコミックス小説の表紙に比べてより公的であり、それゆえより繊細な倫理的配慮が求められる、という前提がある。少なくとも、批判者はそういう前提があると考えている。

 しかし、実際にはあの学会誌はかなり限られた人向けに向けて作られている(人工知能学会誌を購読するためには、人工知能学会に入会する必要がある)。そのため、あの表紙案にそれほど公的な配慮が求められるとは考えていなかったのだろう。表紙を描いたのは女性らしいが、役員構成は22名中21名が男性で、性差別に対する配慮という点では、内部のチェック機能が働きにくかった可能性もある。

 つまり学会側にしてみれば「不用意に歩いていたら地雷を踏み抜いた」といったところで、このような炎上はおそらく青天の霹靂だったろう。性差別比較的敏感な人達にとってあれだけ問題となった表紙であっても、性差別に鈍感/寛容な人達にとってはその何が問題なのかよくわからない、という状況なのではないだろうか。

 ヘイトスピーチや直接的暴力があったならともかく、今回の炎上はむしろ差別意識に対する認識の違いに起因しているように思う。例えば、今回の炎上を受けて、人工知能学会は以下のようにコメントしている。

ネット上で広く議論をしていただくのは有り難いと思っています学会としては、女性差別したり蔑視する意図はありません。ただ、そういう意見もあるときちんと受け止めて、今後の表紙デザインを考える上で参考にしていきたいと思っています

人工知能学会誌の表紙、女性イラストレーターが描いていた

 このコメントは、「私たち女性差別意図はないが、差別であるという意見は受け止める」という趣旨であり、やはり認識のズレの問題だとされている。であれば、そのギャップを埋めるための理性的な話し合いの余地はあるし、そうしたコミュニケーションこそが重要だと思う。

 トゥギャッターまとめなんかを見ていると、互いの主張が噛み合わないまま、悪罵と中傷を投げ合っているような印象を受けた。それでは、まとまる話もまとまらないと思う。悪罵や中傷揶揄をしても説得可能性は著しく低いわけで、むしろそうした振る舞いはコミュニケーションチャンネルを狭める結果にならないだろうか。

 

差別について語ることの難しさ

 差別の問題というのは、なにが差別でなにがそうでないのかという線引きが難しい部分がある。

 具体的なヘイトスピーチ暴力であればわかりやすいが、例えばセクハラであれば、肩をたたいたり、容姿や服装についてコメントしたりするとセクハラになる場合がある。黒人の唇を厚く描いたら抗議を受けた漫画もあった。

  そういう、「差別」の境界線が見えにくい部分は数多くあるが、特に言及に注意が必要なのはマイノリティについてだ。マジョリティにとって、マイノリティに対する配慮を感覚的に行うことは難しい。例えばセクシャルマイノリティのの中には、履歴書などの性別欄に男と女という選択肢しかないことに悩む人がいる。あるいは、性別欄がある事自体に悩む人がいる。そうした悩みは、マジョリティにはなかなか共感しにくい。

 多くの人は、差別などしたくない。したがって、自分の言動が誰かを傷つけないように配慮している。しかし、繰り返すが、どういう振る舞いが差別になるのか、ということがわかりにくいことが多々ある。差別的意図など全くないのに、それが差別だと受け取られることは起こりうる。

 そうして、うっかり誰かの地雷を踏んだときに一瞬で炎上する可能性があるというのは相当にリスキーだ。不用意なひとことによって差別主義者のレッテルを貼られたり、職場などで不利な立場に追い込まれるとしたら、それは地雷原を歩くようなものだ。差別的意図がなくても、一定確率地雷を踏む。

 それゆえ、比較的賢い連中は、マイノリティに言及すること自体を避ける。言及すれば、一定確率で誰かの地雷を踏み炎上するおそれがあるから、一切言及しないという対策を取るわけだ。こうして、マジョリティマイノリティの断絶が拡大する。 マジョリティ側の人間にしてみれば、おそらく断絶は合理的だ。マイノリティに関わる必然性基本的にないし、必然性があった時だけ、最小限の関わりを持てば良い。しかし、現に何らかの差別に苦しんでいるマイノリティがいるとしたら、こうした対応をされることはおそらく不利だ。マジョリティと断絶すれば、差別をなくすための運動社会的な賛同を得られず、力を持たない。差別が現にあるならば、その差別はあり続ける。

 したがって、マイノリティマジョリティ側の不用意な発言に悪罵や嘲笑を向けるのは自滅的行動だ。そうして発言者炎上させれば、マイノリティは怖い存在になり、いわば「弱者という強者」だと誤解される。そうなれば先に論じた断絶は進むし、あるいは在特会のような気持ち悪い連中がでてくるかもしれない。いずれにせよ、マイノリティの地位は決して向上しない。

 これは、マジョリティ不用意な発言を批判するなと言っているのではない。批判の方法を考えるべきだと言っている。少なくとも、SNSで悪罵とともに晒しあげるのは妥当な批判方法ではないだろう。

 以上の話は、主にセクシャルマイノリティ念頭に置いて書いた。しかし、これは他のマイノリティ左翼一般にも当てはまる。特定秘密保護法にせよ都条例にせよ反原発にせよ、人権を振りかざした絶叫デモを行ったところで、それは彼らの孤立を深める結果にしかならない。

 マジョリティを説得するためには、もうすこしやり方を洗練させる必要があるのではないか

2013-12-27

http://anond.hatelabo.jp/20131227211441

悪いけど何について書いているのかわからない。

人工知能」という言葉あなた表現しているものは、どこまでも人間女性のものに過ぎない。

あなたの記事の「人工知能」を「女性」に置き換えると、一昔前にフェミニズムについて書かれた文章として立派に通用してしまう。

エクスキューズのためにケーブルに接続されて描かれている女」の、当然もつであろう自由意志について述べている。それ以上のものが読み取れない。

自由意志定義を後回しにしたのがなおのこと良くない。それはある意味人間定義それ自体にも等しく、そこから差別性を説明することのできる重要ポイントたり得たのに、そこをぼかされたまま「人工知能自由意志があることを前提とする」と始められても意味がない。

自我」「知的存在」「コミュニケーション」にしても然り。これだけ定義の広い言葉AIがらみでポンポン繰り出されても、曖昧イメージが飛び交うばかりで何を説明されているのかさっぱりわからない。

人工知能についてどれくらいのことを知っているの? 実際にローブナー賞に挑戦している人工知能と会話したことは?

2-2の解釈を取ることについての説明は? 何を根拠に2-2なの? 妥当性、正当性、何でもいい。

まさか自分勝手定義不明のままおいた「人工知能には自由意志がある」という前提にだけ基づいているわけじゃないよね?

「すべての人工知能には自由意志がある」

イラスト女性人工知能搭載型のロボットである

「従ってイラスト女性自由意志に基づいて行動しており、使役されているように見えても実際は自由な行動であり、差別ではない」

こんな三段論法まさかイケると思ったりしてないよね。

よくわからない。想定されているとかされていないじゃなくて、素直に表象を読めば「ボディを持った人工知能」以外の何物でもないと思うのだけど。

人工知能に実際にボディを持たせてもあのイラストのようにはならない。

あれが「ボディを持った人工知能である」という解釈は単に記号的に付け足されている充電ケーブルが担保しているに過ぎない。

Photoshopでケーブルを消してしまえばあれは「家政婦さんの絵」だ。それくらいあの絵は「ボディを持った人工知能」にあるべき必然性を欠いている。

からあの絵を見る側も「ボディを持った人工知能」ではなく「人工の人間(女)」として見ている。あなたのように。

そこはそういう設定じゃないと思う。そもそも設定されていないか、あるいはホモサピエンスに対して「エネルギー補給中である」ということを示すためのわかりやす記号メタ的には、あの絵を目にした人が一目で「人間以外の存在である」ということがわかるようにするための記号

都合のいい解釈だことw 元ネタ掃除機接続がケーブルなら「休憩を入れずに充電しながらでも広範囲を掃除するため」と解釈することはむしろ当然じゃないか

一目で人間以外の存在であるとわからせるのにいい方法なんていくらでもある。人型でありながら人間とはかけ離れたデザインにした方がよっぽど一目でわかるよ。

充電表示だってもっと直球で「充電中」とどこかに表示されるようなデザインにしたっていい。

「描いた人間がそれじゃイヤだから」以外の、そうしない合理的な理由があるなら教えてもらいたい。

ここもちょっと決めつけすぎじゃないかなぁ~。明らかに掃除に向いた格好じゃない(よくわからんワンピース)以上、本業家事労働代行とは言えないでしょう。だからといってセクサロイドとか設定をつけるのもやりすぎ。それだけ。

完全に「人工の女」について語っているけど、格好だけを根拠に家事労働者ではないとは言えない。というか現にホウキ持ってるのに。

ちなみに「人工の女じゃない」ものとしてあのイラストを見ると、話はもっとシンプルになる。

すなわち、明らかに掃除に向いた設計じゃない、デザインの段階で「女のかたち」に用がある向きの欲望が大きく作用している、よって性差別である、と。

これもちょっと疑問だな。人間社会では人間のようにふるまうことが、人工知能にとっては適切な行動でしょう。なにしろ世界はたいていの場合人間のすがたかたちをした生物が最大値のフィードバックを受けることができるようにできているのだから(人工環境は勿論、自然界ですら進化論を引っ張ってくればそういうふうに言うことも可能だよね)。

人工知能生物ではない。「適切な行動」とは「生き延びるために適切な行動」の略ではなく、「パフォーマンス最大化のために適切な行動」のこと。

人間に合わせて本を視覚で読んでいては、データを一気にダウンロードして処理した場合比較してどれだけパフォーマンスが落ちることか。

これだけ「人工の女」として人工知能を取り扱っておきながら、実在の生きた女に対してならば当然要される配慮がこのイラストの「人工の女」に対しては行われていないというところに疑問を持っていないのが一番不可解で怖気を誘う。

家事労働を行うにあたっての作業を助けるような利便性の欠如や、読書掃除という相性の悪い動作の同時並行を描いていること自体が、「そんな配慮が要るという発想が無い」「眉目麗しければそれでいい」ことを如実にあらわしているのに、すべてを「この人工知能自由意志でやっている」でくるみ込んでノーコメント

自由意志および自我を持ち相互にコミュニケーション可能な知的存在にはそれがホモサピエンスであろうとなかろうとも人権及び契約の自由が認められうる」?

冗談を。あなたはそれがホモサピエンスであろうともなかろうとも、彼女にはルンバ掃除機クイックルでなくホウキを与え、代わりに読書に耽る自由は取り上げることに全く反対していない。

2013-12-21

ロジック・ロック・フェスティバル』と〈古典部シリーズの類似点

はじめに

中村あきの星海社FICTIONS新人賞を受賞したデビュー作『ロジック・ロック・フェスティバル』が、古野まほろメフィスト賞を受賞したデビュー作『天帝のはしたなき果実』と類似していると指摘され話題になっている。『ロジック・ロック・フェスティバル』は星海社ウェブサイトで無期限全文公開されている(http://sai-zen-sen.jp/works/awards/logic-lock-festival/01/01.html)ので読んでみた。その結果『天帝のはしたなき果実』だけでなく、米澤穂信の諸作品との類似点が見られたので検証したい。ちなみに現時点で私は『天帝のはしたなき果実』を未読であるが、これから読んでみる予定である

以前から米澤穂信作品との類似は指摘されていた

読書メーター12月4日投稿されたjinさんのレビューhttp://book.akahoshitakuya.com/cmt/33836748)。

読んだ印象としては、米澤穂信西尾維新になったつもりで古典部シリーズを書いたらこうなるんだろうなと思った文学部員が書いた同人誌と言った感じ。

読書メーター12月11日投稿された×(旧らっきーからー。)さんのレビューhttp://book.akahoshitakuya.com/cmt/34001390)。

米澤穂信とかを目指した結果、残念ながらそこに至らず。そんな印象。

物語構成

まず『ロジック・ロック・フェスティバル』の物語の流れを説明する。以下が『ロジック・ロック・フェスティバル』の章タイトルだ。

  1. 四人の申し分なき閑人
  2. 実行補佐
  3. 回想と回送
  4. モバイルコード
  5. 葉桜の季節
  6. 大脱出
  7. バス班室写真消失事件 前編
  8. バス班室写真消失事件 後編
  9. そして、時は来たれり
  10. フェスティバルフリーク
  11. 健康と対策
  12. アイの告白
  13. それは清き学び舎を妖しく濡らして
  14. さよならコージー
  15. 現場検証
  16. 見捨ていくプリコンディション
  17. 星のお告げと逆転密室(万亀千鶴告発
  18. 失われた血の絆(成宮鳴海告発
  19. 浪漫秘密の抜け穴(衿井雪の告発
  20. 犯人探偵中村あきの告白
  21. 名探偵』の復権(鋸りり子の告発
  22. 顚末
  23. 探偵の動機

全部で23章で構成されている。『ロジック・ロック・フェスティバル』のメインとなる事件は文化祭開催期間中に起きた密室殺人事件だが、文化祭が始まるのは「9.そして、時は来たれり」からだ。ではそれ以前はというと小さな謎解きが2,3あるという構成になっている。具体的には「4. モバイルコード」で携帯メール暗号の謎解き、「6. 大脱出」で閉じ込められた蔵から脱出、「7. 女バス班室写真消失事件 前編」「8. 女バス班室写真消失事件 前編」で写真盗難事件の謎解きが行われる。

次に米澤穂信デビュー作『氷菓』の物語の流れを説明する。以下が『氷菓』の章タイトルだ。

  1. ベナレスから手紙
  2. 伝統ある古典部再生
  3. 名誉ある古典部の活動
  4. 事情ある古典部末裔
  5. 由緒ある古典部封印
  6. 栄光ある古典部の昔日
  7. 歴史ある古典部真実
  8. 未来ある古典部の日々
  9. サラエヴォへの手紙

この章タイトルだけではどんな物語かわからない。『氷菓』のメインの物語ヒロインである千反田えるの叔父、関谷純が関わったと思われる33年前の事件を解明することであるしかし、その謎がはっきりするのは「4. 事情ある古典部末裔からであり、「2. 伝統ある古典部再生」では千反田える地学講義室に閉じ込められた謎解き、「3. 名誉ある古典部の活動」では、ある本が毎週借りられている「愛なき愛読者」の謎解きが行われる。

はじめに小さな謎解きがいくつかあり、中盤からメインの大きな謎解きになるという物語構成は特定作家専売特許ではない。であるが『ロジック・ロック・フェスティバル』と『氷菓』の物語構成が類似していると指摘するのは間違いではないだろう。

ヒロインのお屋敷にはじめて行くシーン

ロジック・ロック・フェスティバル』の「6. 大脱出」では、主人公中村あき)がヒロイン(鋸りり子)の家をはじめて訪れるシーンが描かれる。これを『氷菓』の「6. 栄光ある古典部の昔日」で、主人公折木奉太郎)がヒロイン千反田える)の家をはじめて訪れるシーンと比較したい。

 目に飛び込んできたのは圧巻の庭園だった。手入れの行き届いた刈り込まれた木々。配置を整えられた岩。雨粒を受けてなお静謐を湛える。その中を悠然と泳ぐ色とりどりの錦鯉。そしてそれらを統べるかのように鎮座する絵に描いたような日本家屋。その向こうには立派な蔵も見えた。

 道なりに設置された飛び石を歩きながら息を呑む。家柄でここまで住む世界が違うものなのか。自身の境遇比較すると、少しばかり悲しい気持ちになってしまう。

(中略)

 唖然としているうちに僕は言われるがまま三和土で靴を脱ぎ板張りの廊下彼女に説明された通りにんでいた。


ロジック・ロック・フェスティバル

 広大な田圃の中に建つ千反田家は、なるほどお屋敷と呼ぶに相応しかった。日本家屋らしい平屋建てが、生垣に囲まれている。水音がするところを見ると庭にはがあるらしいが、外からは綺麗に刈り込まれたしか見えない。大きく開かれた門の前には、水打ちがしてあった。

(中略)

 無視する。門をくぐり飛び石を飛んで、玄関先のベルを鳴らす。

(中略)

 石造りの三和土で靴を脱ぎ、千反田に先導されて板張りの廊下を進む。


氷菓角川文庫版、135~136頁

太字で示したのが二つの作品で完全に一致した箇所である。いくつか単語が一致しているが、文節単位での剽窃は行われていない。単語の一致も同じ「日本家屋を初めて訪れたシーン」を描いたのだからあって当然だ。むしろ庭園に入ってから周りを描写している『ロジック・ロック・フェスティバル』、生け垣の外から庭をうかがっている『氷菓』という点が大きく異なる。

そもそも、高校一年生のヒロイン日本家屋の豪邸に住んでいるという設定がめずらしいが、かといってこの設定が特定作家専売特許というわけでもない。

氷菓』において、千反田える日本家屋の豪邸に住んでいるのは、千反田家が桁上がりの四名家といわれる名家からだ。『ロジック・ロック・フェスティバル』において、鋸りり子が日本家屋の豪邸に住んでいる理由は説明されない。家柄は明らかにされていないし、両親も学者だ。一般的学者であれば豪邸を建てるほど高給とも思えない。シリーズ化されこれからの作品で明らかにされるのかもしれないが、現時点では主人公たちが閉じ込められる蔵を登場させるためぐらいしか物語必然性がない。背景が説明されないので、どうしても取ってつけたような印象を受けてしまう。

主人公ヒロインが閉じ込められるシーン

ロジック・ロック・フェスティバル』の「6. 大脱出」で描かれる主人公ヒロインが閉じ込められるシーンは、〈古典部シリーズの4作目『遠回りする雛』に収録されている短編「あきましておめでとう」と類似点が多い。例えば、どちらも冒頭に閉じ込められている主人公述懐を置き、時間を巻き戻す形でなぜ閉じ込められることになったのかを記述する形式をとっている。

あらすじはひとことでまとめると以下のようになる。

具体的に『ロジック・ロック・フェスティバル』では、

具体的に「あきましておめでとう」では、

となっている。

以下、『ロジック・ロック・フェスティバル』におい主人公中村あき)とヒロイン(鋸りり子)が小屋(蔵)に閉じ込められるシーンと、「あきましておめでとう」におい主人公折木奉太郎)とヒロイン千反田える)が小屋納屋)に閉じ込められるシーンを比較したい。

 目が慣れてくると、そこは本当に本の山だった。本しかないといってもいいくらい。備え付けの本棚に、そこらに積まれたボール箱に、ぎっしりと詰められた本、本、本――今すぐ古本屋が何件だって始められそうだ。

 りり子に案内され、その後ろに付いていく形で奥の方に歩いていく。中はそれほどの広さでもないようだったが、薄暗さと障害物のように設置された本棚のせいで、なんだか迷路に迷い込んだような眩暈感があった。

推理ものは確か……」

 一応分類されているのだろうか。背表紙を見流す限りでは全く統一感がないような気がするぞ。

 と、その時。

 ぎぎぎ、と何か引きずるような音がして、室内の明度が明らかに落ちた

 なんだろう?

 りり子も一度こっちに振り返り、異変があったことを確かめ合う。

 そして二人同時に思い当たった。

 扉が閉まったのだ。そんな当たり前の結論に到達するのにいやに時間がかかった。

 慌てて扉の方に引き返す僕ら。見るとやはり扉はぴっちりと閉められていた。風やなんかであの重い扉が閉まるだろうか。疑問に思いながらも、とりあえず僕は扉に近づいて手を掛けてみる。

「……あれ?」

 開かない。まさか

 がちゃがちゃがちゃがちゃ。

 扉の外側から響く、金属が打ち付けられるような硬質な音。

 いやいや、冗談でしょ?

「鍵が……閉められてる……?」

強く揺さぶってみると扉はほんの薄くだけ開いた。その間から無慈悲にも完全に閉じられた錠が覗けて。


ロジック・ロック・フェスティバル

 闇の中に手を突き出し摺り足で進んでいく。目が慣れればもう少しマシになるのだろうが、いまはこうしないと危ない。そろそろと奥に進み、手に酒粕が当たらないかと気をつけてみるが、どうも手ごたえがない。

「簡単なお使いかと思ったら、なんだか面倒なことになってきたな」

「あの、折木さん」

 いつの間に近づいてていたのか、千反田が俺のすぐ後ろで名前を呼んだ。背後でアルミドアが風に吹かれて閉まってしまい、納屋の中はいっそう光が入らなくなった


『遠回りする雛』角川文庫版、218~219頁

「おう、開いてるぞ」

 そして、なにやら不吉な、がこんという音。

「え? いまのは……」

 とピンと来ていない千反田。俺はすぐさまドアに、暗くてよくわからないので正確にはドアがあったと思しき場所に飛びついた。アルミノブの、冷たい感触はすぐに探り当てられた。

 しかし。

 がたがたと揺れるだけのドア。オレは千反田を振り返る。千反田の輪郭もはっきりしないけれど、なぜか、心配そうに小首をかしげるやつの顔が見えたように思う。

「どうしました?」

 どうせ見えないだろうけれど、肩をすくめてみせる。

「閉じ込められた」


『遠回りする雛』角川文庫版、221頁

 まず、このドアが閉められている構造をもう一度考える。このドア自体には鍵はない。だから強く押せば、ほんの少しだけ開く。それ以上開かないのは閂のためだ。


『遠回りする雛』角川文庫版、228頁

今度は先程と違い完全に一致する箇所ではなく、同じ事象を別の表現にしている箇所を太字にした(そもそも完全に一致する単語ほとんどない)。非常に似通ったシーンを描いているので、一致している箇所がいくつかあるが、文節単位での剽窃はおこなわれていない。

違和感があるとすれば『ロジック・ロック・フェスティバル』において、「扉はほんの薄くだけ開いた」という点だろう。「あきましておめでとう」では脱出が困難なことを示すために閂がどのようにかけられているか仔細に描写されており、「強く押せば、ほんの少しだけ開く」というのも話の流れから違和感がない。一方の『ロジック・ロック・フェスティバル』においては、どのような扉なのか、どのように錠がかけられているかは具体的に示されておらず、一般的な扉と錠であれば扉が薄く開き外の錠が覗けるというのはおかしい。

「あきましておめでとう」では、折木奉太郎脱出するために様々な方法を試す。そこにはどうやって脱出するのかというハウダニットの愉しみがあるが、『ロジック・ロック・フェスティバル』では、早い段階で窓から脱出できることがわかっている。謎解きの興味はほとんどなく、むしろそれまで葉桜仮名先輩一筋だった主人公中村あき)がヒロイン(鋸りり子)を女性として意識するシーンとして描かれている。

私感

ロジック・ロック・フェスティバル』と〈古典部シリーズ両方を読んでいる私としては、影響は受けていると感じた。しかし、文章の剽窃など著作権法違反に問われるような箇所はないと判断していいだろう。他にも中学時代探偵していたが、とあることをきっかけに探偵することをやめたという鋸りり子の設定が、〈小市民シリーズの小鳩常悟朗の設定と類似するなど気になるところがあるが、それはまたの機会に検証したい。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん