はてなキーワード: シドニィ・シェルダンとは
彼らとは基礎体力が違いすぎる。
描写や象徴による心象表現とかがめちゃくちゃ上手い小説でもその妙が感じ取れなかったらだれたパートに見える。
特に後々重要になってくるミステリの描写とか、時代物とか、何十年も前の文学だとか、海外文学とかイメージしにくい描写が長く続くのはつらい。
SF小説も、雰囲気を出すために存在しない専門用語やガジェット名などを多用して世界観を作る手法が多く、そこで引っかかる人は置いてけぼりにされる。
だから、とにかく凝った表現が少なく、世界観が現実の自分に近く、ストーリーがわかりやすくて魅力的であること、展開が早くスピード感があること
という条件で助言を仰ぐのがいいと思う。
今のアマゾンのオールタイムベストからだと「下町ロケット」とか「ハリー・ポッター」とかかな。
昔だったらシドニィ・シェルダンの「ゲームの達人」とかが定番だったんだけど。
https://anond.hatelabo.jp/20211116084612
ちなみに日本で1990年代にヒットした超訳は1970年代に書かれたもの。
特に血族は750万部も売れたんだね。
私も読んだけど、中学生の自分にとって堂々と摂取できるエロ描写がある作品はこれと清水一高の作品くらいだった。
どの作品かわすれたが、ナーサ・ムニェという名前の殺し屋がめちゃくちゃ印象に残っている。
1990年以降もアメリカでは作品を出しておりそこそこヒットしていたが日本では今でも翻訳されていない。
脱コルや反ワクチンのように怪しいものから抜け出した体験談を語るとみんなから褒めてもらえると聞いたので私の体験を書く。
むかしシドニィ・シェルダンの人が書いた小説でこんな話があった。たしか「時間の砂」か「星の輝き」のどちらかだったはずだ。
あるところに二人の姉妹がいた。最初お姉さんはブスだけど心優しい女性だった。妹は美人で誰からも愛されてた。
最初姉妹は仲良かったが、姉は何をやってもかわいい妹と比べられた。何をやっても妹は愛された。努力して何でも妹より良くできるようになったが、結局愛されるのは妹だけだった。
そんな姉の唯一の自慢は歌うことだった。歌を歌っているときだけは家族も褒めてくれた。何もかも忘れて歌うことが一番楽しい時間だった。あるとき、妹が勝手に姉の録音をテレビ局に送ったらプロデューサーが家族のもとにスカウトにやってきた。そのとき何も知らないプロデューサーは見目麗しい妹が声の持ち主だと思って熱烈にスカウトした。テレビ番組デビューまで持ちかけた。しかし、その声の持ち主が姉だとわかると途端に手のひらを返し、「声優事務所にでもいけ」と冷たくあしらい、なおも妹をスカウトしようとした。
唯一の心の支えだった歌すらも自分を苛むようになった姉は絶望し、すべての執着を捨てようと厳格に清貧な生活を求めるキリスト教の教会に入った。その修道会で数年は平穏な日々を過ごしていた。しかし、ある時事件に巻き込まれ男を知った彼女は、押さえつけていた欲望を取り戻す。そして、自分がすべてを諦めるきっかけになったあのときのことを深く恨んでいたことに気づく。その後はキリスト教という正義を元にやりたい放題するようになる。あのとき自分を否定したものを逆に否定し、自分のほうが正しいと証明しようとする。
見た目に反して心は美しいと語られていた彼女だったが、最後には自分に逆らうものは見境なしに攻撃するような、見た目にふさわしいおぞましい怪物になってしまったのである。
子供の頃この小説を読んだとき私は怖くて仕方なかった。私にも可愛い妹がいて、コンプレックスを感じていたから、将来こんななってしまうのかと思うと涙が止まらなかった。
今の社会では女性は誰かから愛されてようやく一人前という扱いをされがちだ。男性でなくてもいい、だれかから愛されないと人間失格のような扱いを受ける。
そういう状況で、自分は愛されないのに自分の妹がアイドルのように美人であり、妹だけが家族からも周りからも愛されているのを毎日のように見せられる生活を考えてみてほしい。
毎日のように自己を否定され続けた人間はいったいどうやって自己肯定すればよかったのだろう。
これは私だけの話をしているのではない。普遍的なテーマだ。ファイアパンチの作者も少し位相を変えて妹の姉という作品を描いた。
ほかにも美人の友達に嫉妬するブスのマンガはtwitterでしょっちゅうバズっている。ああいうものに「痛いほどわかる」などと軽い気持ちで共感する女が私は大嫌いだ。本当にわかるならそんな軽い気持ちで共感などできるはずがない。私はそういう漫画が賞賛されているのを見るたびに怒りで震えそうになる。
妹のことは好きなのだ。妹を憎んでるわけではないし、憎んでも解決しない。しかしそれならこの劣等感はどうやって解消すればいいのだろう。
答えは決まっている。フェミニズムだ。
こんな劣等感を感じさせる社会が間違っているのだからそれを打倒するしかない。ルッキズムを批判したり、若くてきれいな女を好む男社会すべてを否定するのだ。買春している政治家などこの世で最も許せない存在だ。妹への愛情と妹へのコンプレックスという矛盾を解消するには、社会を打倒するしかない。それができないならキリスト教にでもはいって神の元の平等を願うしかない。大抵の人間はフェミニズムを選ぶ。
一歩踏み出せばあとは簡単だ。自分は妹より美しくないというだけで否定されてきたのだから、自分よりキモい存在が市民権をえていることなど許せるわけがない。私の願いは、表面的には全ては自分を否定した男社会への復讐であるが、本心は「私も妹のように美しく生まれたかった。自信を持ちたかった」である。そのために努力しても報われなかったのに、なんの努力もせずキモい姿を晒しながらヘラヘラしてる連中が許せるわけがない。
リベラルフェミニズムは自分に自信がある女性が自分の能力に見合った評価を得たいとする真っ当な社会運動だ。しかしこの形のフェミニズムは私を救わなかった。私が求めていたのは男女平等ではない。私自身が男中心社会でコンプレックスを抱かずに自身を持って過ごせることだった。
一方でラディカルフェミニズムは「美しく生まれることがなかった女性」たちのコンプレックスを解消してくれた。全ては男が悪いのである。こんなに簡単に自分を救ってくれる思想が他にあっただろうか。ラディカルフェミニズムを唱え、男を攻撃しているときだけ、私は私のコンプレックスから解放された。
男性に限らず、コンプレックスを感じたことのない女性も、ラディカルフェミニズムにのめり込む私をバカにするだろう。私だって頭の片隅では何かがおかしいとわかっている。しかし他にどうすればよかったというのか。そのくらい日本という国は、美しくない女性の心を蝕む力学が強い。私は努力していい大学にも入ったし恋人を作ったこともある。ボランティアで人から感謝されたこともあるし企業を設立して人の上に立ったことだってある。それでも女性であるというだけで汚らわしいオタクどもよりも低い自尊心しか得ることができなかった。他の何者も、ラディカルフェミニズムほどには私を救ってくれなかった。
フェミニストたちは二次絵にまでいちいちキレる頭のおかしいやつだというが、こちらからしたらおかしいのは男社会中心の現実の方だ。
今もシドニィ・シェルダン読んでる増田民おる?
下に書いた、同じ女子と狭い部屋でお互い裸でいる状況があって、
ケイコちゃんが「男の人のオナニー見たい!お互い見せ合いっこしようよ!」ってノリノリで提案してきて、
吝かではないのだけど、見せ合いっこは不毛に終わるのを知ってるから、どうかなーと考えてると、
「女の子もオナニーするんだよ」って言いながら、鞄からiPhoneを出して、
「このサイトいいの。いつもこれで見ながらしてる」って、女性のためのアダルト動画のサイトを開いて「見て見て」って。
そのときケイコちゃんは、仰向けに寝て左手でiPhoneを持っている。
見るために僕も横に寝る。右側に寝たけど左手が邪魔だ、腕枕する関係じゃないし、身体方向真っ直ぐに伸ばしてた。
この時お互い全裸だからね。あ彼女は22歳で上戸彩に似ている。
「どれ見る?どれにする?」って聞かれたけど、僕としては本当にどれでも良いし、
それは今回のオナニーの主体であるあなたが決めればいいじゃん、と思ってたけど、
執拗に聞いてくるので「この男優知ってる。格好良い系だよね」と、いま画面に出てるのを選んだ。
「女の子向けのは、最初から仲がいいんだよね~」。眼はうっとり。
んで、ドラマになってるんだけど、導入部を早送りしないでずっと見てるんだ。
男子とは違うんだな―。と考えながら、髪をくんかくんかしたり。
ケイコちゃんが「胸を触って。。」って言ったんだ。その大勢で触るには、
やはり左腕で腕枕して、左手でケイコちゃんの左乳房を揉むのが適当だと思ったんだ。
だから腕枕にしようとしたら、少しやっぱり「えっ」みたいな動きを感じたけど、
「こうするしか」とか言っちゃって肩を抱いたんだ。
その時彼女の右手は自分のお股なのね。でも「触りたかったら(お股を)触ってもいいよ」とか言うんだ。
んでケイコちゃんは「乳首つねって」とか「指入れてもいいよ」とか言うんだ。
宮沢賢治の作品を思い出しながら、指挿れるのはこっちがちょっと怖い。爪伸びてたらどうするんだろうとか。まあ挿れるんだけど。
んで、これは、彼女に女性にとって、最高のオナにー環境、それは
「人肌温かい手が、言う通りに自分を触ってくれる(家畜人かな)」
だと思ったんだけど、どうせオナニーだし「えいっ」ってわざとらしく掛け声出して、
重ならない69の体勢でお股をぺろぺろしたんだ、この時でも僕のおちんちんカワイソス。
半分ふざけてだから2分位で息をついたら、
「指を入れて、もう少しそのまま舐めてくれたらイキそう」
シドニィ・シェルダン作品並の超意訳で「そのまま続けてイキタイから」と解釈した僕は、
それでも(本当かよ)と冷めた心で、あ決して嫌ではない、なめなめゆびくちゅくちしてたら、
「あん。気持ちいい。」って言ってたけど、「あ、イキそう。。」の後、
30秒ほど静かになったのね。俺はなめなめしながらでも解ったね。彼女、気持ちを集中させてるんだって。
「あ、イクっ。。」って、普通に体をびくんびくんして、オルガスムに達した。へぇ。っと思ったね。
僕のこれまでの人生で、もっと女子とやればよかったと思うエロいことは、
唾液もとい、つばをもらうことだったと考えたよ。唾液交換はディープキスでいいんだけど、
上からある程度まとまった量が。でもコーラの口移しじゃないんだそれはそれでいいんだけど。
いまからでも遅くない、2020年の東京オリンピックは、涼しい10月に開催しようよ。
読み直してない悪しからず。
正直なところ、「それで?」って感じなんだよな。
面白いことは面白いのだけど、そんなに評価が高い必要あるか?って言う感じ。
個人の問題ですと言われればそれまでなんだけど、ついでに言うと村上春樹も京極夏彦も同じくらい評価が高い、というかあんなにファンがいる理由がわからない。
っていうのはさ、中身なくない?ってことなんだよ。
これみんなエンターテイメントとってことでいいの?中身うんぬんよりもノリとか自分でもわかる嬉しさみたいのを楽しんでるってことだよね?
そこに物語の深さとか哲学の完成度とかそういうのは別に興味ないってことでいい?
なんか普段は小難しいこと嫌いですとか言ってる人間に限って、こういう作品の良さがわからないのは浅いみたいな感じになるのもすごく嫌。
シドニィ・シェルダンでも置いておきますね。
http://anond.hatelabo.jp/20141001193557
ライトノベルと言うと、表紙と挿絵にアニメ風の美少女イラストが入った内容の軽い低俗な本、がすぐ思い浮かぶだろう。
雰囲気としては合っている気がする。僕の読んできたライトノベルもだいたいそんな感じだった。
でもとりあえずは、無用な誤解をさけるために定義付けをしっかりしよう。
だけど、すぐに反証が見つかる。
例えばここに、さっき本棚を一分漁って見つけた佐々木マキのイラストが入った村上春樹の『カンガルー日和』がある。
この本が刊行された時、日本文壇は春樹は文学ではないと言っていたかもしれないけど、少なくともラノベとは言えない。
それに、児童文学はイラストが入っているのが一般的だから、イラスト=ラノベとはいえないんじゃないだろうか。
じゃあ内容が低俗だとか軽いのがラノベだ、ということだろうか?
いやそれはおかしい。シドニィ・シェルダンの『空が落ちる』は一般小説の棚に置いてある。
紅玉いづきの『ミミズクと夜の王』のイラストはどう見てもアニメ絵じゃないが、ライトノベルを名乗っている。
(表紙がアニメ絵の一般小説もちょっと名前は挙がらないけど、本屋でたまに見かける)
こんな感じで、ラノベがラノベである理由はおよそはっきりしない。
はっきりしているのは、ラノベであると名乗っている出版レーベルが幾つかあり、それについて一般的にラノベであると認められているという状況のみである。
こんなわけなので、定義はラノベのレーベルから出ている本がラノベだ、ということにしておくのが妥当だろう。
だから筒井康隆がラノベのレーベルから小説を出したらラノベになるし、『百瀬、こっちを向いて。』の中田永一がラノベを書いたらラノベになるし、中島梓がラノベのレーベルから本を出したらラノベになる。
大江健三郎が児童文学だと言いはって『二百年の子供』を書いたら児童文学になったように、大江健三郎がラノベのレーベルから小説を出したらラノベになるだろう。
その通りだ。
しかしそういう人は、日本文学が垂れ流した私小説という肥やしにもならない糞の山のことはどう考えているのか。
僕が言いたいのはつまり、未来のノーベル文学賞作家がラノベから出ないと誰が言い切れるのか、ということだ。
いや言い切れるはずがない。
さっき書いたように、ラノベがラノベであるのはレーベルの問題であって、その内容だったり作者には関係が無いからだ。
そんなものはない。
ラノベを馬鹿にしている人は、ハリーポッターが児童書版で出たら恥ずかしくて買えないのに一般書版で出たら買う人たちだ。
そういう人は自分の力で、自分だけの「ハリーポッター」を発見することは絶対にできない。
そういう人は本当に面白いものを見つけることも、それを評価することもできない。