はてなキーワード: 必然性とは
人気どころでいうと「監獄学園」「下ネタという概念が存在しない退屈な世界」。
これは、かなり過激にエロいけど、世界観上の必然性があるから、まだ許せる。
私も、毎週楽しみに見ているし。
「奥さまは生徒会長」「ToLOVEる-とらぶる-ダークネス 2nd」。
これは単なるハーレム物か?よくしらないけど。
これらも相当エロいが何の目的でエロがあるのかよく理解できない。
せっかく地上波で流すなら、もうちょっと中身のあるものにすればいいのに・・・。
前期の「響け!ユーフォニアム」が懐かしい。あれは本当に素晴らしかった。
非常に真面目な作品であると同時に、若葉が香るようなさわやかな色気があった。
青春の甘酸っぱさを思い起こさせるような、ああいう色気ならいいんじゃないか。
今期の「さわやか枠」作品をあえてあげれば、「赤髪の白雪姫」くらいか。
ただ、「響け!ユーフォニアム」ほどの感動はないけど。
エロさに関して言えばほぼゼロだ(まあ、そんなことはどうでもいい)。
エロをなくせとはいわない。ただ、物語上必然性のないエロは、地上波で流さないでほしい。OVAか何かのエロアニメで充分じゃないのか。
アイディアや発想というのはより多くの人間からより多くの案を集めて実行に移していくことで
より良いものが選定されることにより爆発的な利益を得られるようになる。
そうすると人口のおよそ半分が女性であるからにして、その女性の発想や意見をどんどん取り入れて
しかし今現代においては社会が女性の働きや活動を応援していない点が多々ある。
育児は女の仕事、炊事洗濯は女がやるもの、というイメージがまだまだこの社会にはある。
だがお金さえ払えば育児や家事は代理のものに任せる代行業が行われているため、
家事育児の必然性というのは既にもう無いといっても過言ではない。
男と同じ、それ以上に優秀な女性は育児家事から解放されるべきだし、
どんどん働いてお金を稼いで世の中を盛り上げていくべきだと思う。
SF小説とプロットについて - Togetterまとめ(http://togetter.com/li/846848)
この話、SFに限らないと思うのだけど
おもしろいんだけど整合性がとれてないのが気になる作品があったり
作品によって受け取り方がまちまちな気がする
ラピュタあたりはツッコミどころはあれども勢いでおもしろいと思えるけど
ポニョなんかはその行動はおかしいだろとかよくわからんってのが先に立ったりしてしまう
宮崎駿自身も「整合性なんてどうでもいい」みたいな発言をしてるみたいだけど
細かいこたあいいんだよ、の精神で気にせず楽しめたらいいのだけど、
気になる作品と気にならない作品はどこで差がつくのかは、私、気になります!
上記togetterまとめの話に戻ると、
「整合性」(まとめの中では「破綻」という言い方かも)といっても、
1. 2つの要素がうまくかみ合っていない
3. 細かい部分でありえない描写がある(その部分を修正しても物語の大勢には影響がない)
みたいな話が混在していた気がする
まとめの趣旨としては、おもしろいかおもしろくないかという話ではなくて、
でも、
>女性差別に関心の無い男性や社会にフェミニズムが「女性差別を解消すべき」というのもお門違い
という可能性があることが分かった以上、それとは別のステージで今フェミニズムの必然性は疑われている。
この部分には僕の見る限り何の応答もない。ただ「無茶振り」であることだけ言ってるフェミニズム側の人が大半だなあというのが僕の実感です。
「自分のクラスのいじめに立ち上がる」こと(フェミニズムで言えば「女性のために立ち上がること」)は批判されるべきではないでしょう。
でもフェミニズムはそもそも他勢力や社会に対して「女性のために立ち上がらないこと」を批判することでしか「女性の権利を拡張すべき」という命題の必然性を主張できません。
つまりフェミニズムは「自分のクラスのいじめに立ち上がらないこと」をクラスみんなに責めている、ことになるわけですが、
一方で「弱者男性」という自分のクラスの別のいじめに対してはフェミニズムは立ちあがっていない。
そこが矛盾です。
ところで上記にももしかしたら違和感を感じたかもしれませんが、僕の中ではフェミニズムにとっても弱者男性いじめは「自分のクラスのいじめ」です。
なぜ「他のクラス」になるのかわかりません。弱者男性はあなたと同じ社会に間違いなく暮らしています。
もし仮に「フェミニズムは女性クラスに属していて、弱者男性は男性クラスに属している、だから別のクラスだ」と言いたいなら、女性差別は一体どのクラスのいじめでしょうか?それはむしろクラス間の争いになってしまう。比喩としては不適切と考えます。
「海外の難民が救われない現状」を肯定したってことにならないとしましょう
それに対して何の行動を起こさない人は
そしてもしならない場合、一体誰が「女性が差別される現状」を変えるために努力しなければならないのでしょうか?
繰り返しますが問題は「女性の権利を拡張すべき」という命題の真理性です。
仮に女性差別に対して何のアクションも起こさないこと(女性の権利を拡張しないこと)が「女性が差別される現状」を肯定したことにならず、そしてそれが何も悪くないなら、
「女性の権利を拡張すべき」必然性はどこにもないということになり、「女性の権利を拡張すべき」は偽ということになります。つまりフェミニズムは間違いだった、ということになるわけです。
黒人型の奴隷ロボットは許されないだろう、と同じ理由だろうに。
それすら分からないのか。
家事ロボットという機能のみを考えたら、女性型である必然性なんて何もない。
家事のうち例えば掃除ロボットだったら既にルンバがあるけど、「箒を持ったメイドロボ」なんかよりルンバの形状の方が適しているのは明白。
料理ロボットも、現在外食産業だと自動オーブンとか自動炒め機とか使われてるけど、
家庭用が出るとしたらああいう機能を集約してコンパクトにした形状になるだろう。
それ、「農業用の機械を黒人の人間型にしたい。だって黒人奴隷が大農園で使われていた時代のようで癒されるから」と何が違うの?
チェーンのファミレス通ってたら顔覚えられた。
読書したり作業したりしてるから長居してるし、深夜だから店員もいつも一緒だし、セルフの店じゃなくて注文取りに来るとこだから接触回数も多い。覚えられるのは仕方ないと思う。長居して迷惑かけてるなーとかも思ったけど、出禁はされてない。ありがたい。
だけど、いちいち「いつもありがとうございます」とか「今日は◯◯なんですね」とか毎回言われるのが面倒くさくなってきて、ぱたっと行かなくなってしまった。
そういう風に話しかけないでください、と一言伝えればきちんとほっといてもらえるのだろうけど、それをわざわざ伝えてまでそこに通いたいとも思わない。仕事ならともかく、プライベートで説明してまで関係築きたくないんだよな。察してちゃん状態だけど、別に察してもらわなくていい。行かなくなるだけ。
そういう店が他にもいくつもある。
どこかのレジの並び方に長文連ねてた増田がいたけど、あの熱意は俺にはねえわ。またその店に行く必然性があるからだとしたら、俺は選択肢がほかにあるから店を乗り換えて逃げてるだけか。俺クズだな。
うるさいフェミは放っとけばいいんだが、こういうrepresentationの問題ってのは確かにあるんだよ。
ひとつひとつのゲームや番組が悪いんじゃないんだ。全てのゲームで男女半々にしろとか、一律に女に家事させたらアウトとか、そういうのは極端で無意味な意見。それに、男女の役割が固定されていたある時代・地域を題材にしてるなら、そうでない描写はむしろ嘘になる。
問題なのは、「なんとなく」「あまり考えずに」「これまでそうだったから」役割が振られたり性別が固定されたりすること。その結果としてそういった常識がより強固になっちゃうこと。これはどっちかっていうと作り手の感覚の問題で、「どっちでも良い」時に不要な常識に引きずられないように作る方が配慮しないとならない。理由があって男女固定だったり役割固定だったりするのはまったくokなんだよ。非難されたとしたら、それは「男女比が偏っている」ことそのものじゃなくて、「作り手がそのことに無自覚である(ように見える)」ことだから。
representationの力については、このウーピー・ゴールドバーグのインタビューが象徴的。このケースは性別と人種の両方だけど。
[W]hen I was nine years old Star Trek came on," Goldberg says. "I looked at it and I went screaming through the house, 'Come here, mum, everybody, come quick, come quick, there's a black lady on television and she ain't no maid!' I knew right then and there I could be anything I wanted to be."
「旧スター・トレックが放映された時、私は9歳だった」ゴールドバーグは語った。「それを観るなり、家中を駆け回って叫んだの。『ママ、みんな、来て、観て、早く早く。テレビに黒人の女の人が出てるんだけど、メイドじゃないの!』その時、私は自分がなりたいと思えるものには何だってなれると知ったのよ。」
黒人女性の多くがメイドをしていたのは事実だし、そういう時代を描く時にメイドとして黒人女性を登場させるのは構わない。けれども全てのコンテンツが、その必然性のないものまで、そういうステロタイプな表現をしていたら、そういう社会で育った子供は「そういうものだ」と思って育っちゃうわけ。それでもいい、とする意見もあるだろうけれど、作り手にちょっとした自覚があれば何とかなる問題なら、直した方がいいんじゃない? っていうのがこの手の(まっとうな)主張の背景なわけ。
作品が悪いとは言わないが、私の好みに合わなかった。絶望的に合わなかった。
姫様を巡って二人の(自称)騎士が争う話と二人の騎士が自分を巡って争うのを姫様がやめさせる話というのは自分の中ではだいぶ違う。
もっといえば、スレインという一人の人間が狂っていく様をみんなで止めるという話になってしまった。
2期も、二人が争い、そしてザーツバルムを始末する展開までは良かった。競り合ってる感じがした。
優秀なイナホに対して、スレインがコウモリ呼ばわりされ、どこにも居場所がなく、もあがき苦しみ一気に駆け上がっていく様はとても見応えがあった。
ついには二人が同じ場に対等な立場で立ち、旧世代のザーツバルムを始末する様をみて、いよいよ本番が始まったと思った。
その後は二人が争うことがなく、スレインの独走をただぼんやり眺めているだけの展開だった。
スレインは姫様の方だけ向いて行動しており、イナホを意識している様子があまり見られなかった。
1期においてはスレインがザコでイナホの方がエースであったために見向きもされなかったことの対比なのかもしれないが
直接対戦してお互いの脅威ぶりを確認した後にしてはあまりにも不自然だった。
ただ騎士を順番に逐次投入していくという、戦略としてクソみたいなことを繰り返していた。
機体とか能力とか格好いいのに戦略が糞なので戦闘には全く見応えがなかった。はいはいテンプレテンプレ展開。
イナホ側はイナホ側で問題があって、姫様を取り戻すべくいろいろ行動していたし、騎士たちと戦っていたが、
相並び立つ存在として受け止めるにはあまりにも二人の間のバランスが悪すぎる。
スレインがぐいぐい目的に向けて駆け上がっているのに対して、イナホはあまりにも歩みがゆっくりとしていた。
チートな能力を持っていたのはイナホ側であり、スレインは機体こそ強いものの普通の人間である。
イナホも、戦闘ではなく別の戦い方で本気を出すべきだったのではないのか。
その結果として、二人の重要度がまるでつり合わなくなっているのである。
終盤において二人が対峙するという本来一番大事なはずのシーンが訪れるが、
これがどうにも偶然の産物であり、必然性がないように感じられる。
ここをいかにドラマチックに、避けがたい運命のようなものとして描写するかが大事だったのではないのか。
また、この対峙が全体の局面からしても重要度が低いというような描かれ方、位置づけになってしまっている。
スレインの立場では、一兵卒にすぎないイナホとの対決よりも重要な事があるという状況になっており、
引き合いに出す例が古くてなんだが、アムロとシャアの対決のような盛り上がりを期待できなかった。
一番大事なシーンであまりにもひどい盛り下がりぶりである。やってらんねー。
更に情けないのが、二人の対決は、アセイラム姫の決断によって、さらに重要度の低いものへと貶められる。
「騎士の誇りをかけた戦い」が、姫様からすると「あほなことやってないでさっさと帰ってらっしゃい」という感じで
カーチャンの叱責によってあっさり収められてしまうようなガキ同士の幼稚な戦いレベルまで落ちているのだ。
結局この物語は最初から最後までアセイラム姫の意思が重要であり、
二人の戦いは、そのアセイラム姫の意思が発揮されない間だけ成り立つような、くだらない思い込みでしかない。
こうして二人の物語は途中まで寝ていた姫様によってあっけなく簒奪され、回収され、放棄される。
姫様が宣言をした時点で、もはや二人はこの物語には不要な存在となっている。
だから、ラストシーンでスレインが生き残ろうが死のうが、改心しようがしまいがもはやたいして重要ではない。
スレインは姫様の意思によって生かされ、飼い殺しのまま死ぬ。イナホもただ姫様への思いを抱えたまま一兵卒として死ぬ。
姫様だけが、いっときの恋を過去のものとして自分の物語を自分の意思で歩んでいく。なんてひどい話だ。
殺さないまでも、私は、姫様が最後まで目覚めない物語こそを見たかった。
それでも、姫様が助かって、この物語が姫様のものになったことを二人は喜んでいるのだろう。
そのくらい強くその人の幸せを願える存在に出会えたということは、そしてその人が幸せになることは二人の幸せなのだろう。
視聴者である私は二人の感情にまったく共感できないものの、この物語はそういう形で終りを迎える。
でも私はこういう物語ではなく、もっと凄惨な殺し合い、周りを巻き込んで破滅させつつも己の目的を達成していくわがままな戦いが見たかった。
最近見かけるコンテンツの大半が10年以上前に出尽くしたネタの使い回しのように思える。
ネットとは疎遠だった層のユーザが続々と流入し、一昔前に流行ったネタの劣化コピーをSNSに拡散するだけで非常に多くの人に承認してもらえる時代になった。
その結果、他人のコンテンツをパクって手軽に承認欲求を満たしたいというライトなユーザ層が極めて厚くなったのだろう。
これは大多数のユーザにとって、手軽に満足感と依存性を味わえるシステムが構築されたともいえる。
おそらく、新規に参入してきたユーザにとっては、それなりにハッピーな環境なのだと思う。
そもそも、一人の人間が一生の間に消費できるコンテンツの量は(非常に大きいが)有限である。したがって、ある程度までコンテンツの総量が増えてしまえば、コンテンツの新規性を判別することすら極めて困難となる。
新規性の判別が困難である上、新たなコンテンツを生み出すインセンティブが小さい社会がひとたび到来すれば、コンテンツの増加は非常に緩やかになり、再利用コンテンツの拡散速度にかき消される程度になるだろう。これから将来に渡ってコンテンツの異なり数が増え続ける必然性など存在しないということだ。
とはいえ、今はまだ過渡期である。今やマイノリティとなりつつある古参ユーザたちは、「新たなコンテンツ」を求めてネット上を徘徊する「老害」となった。
艦これアニメがつまらなかったのは、弓道警察が一役買った可能性はないだろうか?
去年11月に加賀さんの弓を構えるポーズが全然弓道やってないと話題になったやつ。
伊達や酔狂であんなポーズになるわけないんだから、あのポーズで弓を射る必然性のあるシーンがあったはずで、
例えば足元に着弾した砲弾を避けながら反撃する、といったダイナミックなシーンが予定されていたのではないか?
空母がそういったダイナミックな攻撃をするシーンは一切なかった。
全部、中途半端に本物の弓道を意識した、地味なポーズで弓を射っていた。
話題になったのが去年の11月なのだから、修正する時間はなんとか捻出できただろう。
あの騒ぎを敏感に察知した艦これ製作陣が、本来あったはずの、ダイナミックで爽快な発艦シーンを消した可能性がある。
もちろん、修正にかかった時間は、他のシーンのクオリティを下げることで取り返すしかない。
最終話に艦娘が戦闘中なのに棒立ち会議しているのは、このためだったのではないか?
どうにも、今回の艦これアニメの製作陣は、視聴者の反感を買うことを異常なまでに恐れているように見えた。
それも変な所で。
例えば提督を出すと、「男を出すな!」って荒れると思って、不自然なまでに提督の姿が出てこないのがそれだ。
如月轟沈の大バッシングを受けて、史実通りなら祥鳳は轟沈するはずなのに、大破炎上で済まされた。
海中に沈みゆくシーンを無理やり改変した物だと思えばしっくりくる)
製作陣は異常なまでに、「これはダメだ」というメッセージを受け取ったのではないか?
この所ネットの自称ゲーム好きの間では「子供にソーシャルゲームをやらせるのはよくないだろプンプン」と発言している人をよく見かける。
自分もソーシャルゲームをやるのは余りよいことだとは思わない。
しかし良いことではないからこそ子供がソーシャルゲームから学ぶことは多いと思う。
イラスト1枚に何十万もかけられる人間たちの姿を通して子供は何を感じるだろうか?
子供は馬鹿だから「いいなー羨ましい。僕も大きくなったらいっぱい課金するんだー」と考えるに決まっていると思う大人は流石にいないだろう。もしもいるのならば他人を軽んじる癖を治すために小学校からやり直した方がいい。
子供だってゲームを何十本も買える額の金でガチャってレアカードを出すことの虚しさを知っている。
その理解できないという感覚が子供に金銭価値の多様性を身につけさせるのである。
これは一生の宝だ。
子供はソーシャルゲームを通して「利用しあう関係の虚しさと必要性」を知る。
フレンド機能とは名ばかりで実際は「お互いのレアカードを貸してもらうための相互契約」である。
最初のうちプレイヤーはチュートリアルに従って次々とフレンドを増やしていく。
しかしすぐにフレンドの数は頭打ちとなり吟味するようになりやがては弱いリーダーカードのフレンドを切り捨てて強いレアカードをリーダーにしている相手に必死に申請を送るようになる。
この友情などどこにあるのかと言いたくなる弱者切り捨てシステムを通して子供は何を感じるだろうか?
子供は馬鹿だから「やったーレアカードで人気者だー。僕ちん友達いっぱーい」と考えるに決まっていると思う大人は流石にいないだろう。もしもいるのならば他人を軽んじる癖を治すために幼稚園からやり直した方がいい。
子供だって切り捨て切り捨てられという関係の空虚を知っている。
それでもフレンドシステムをうまく利用していかなければイベントダンジョンを突破できない。現実は厳しい。
その過酷な生存競争が子供に利用し合う関係を気づくことの必然性とその虚しさを教えるのだ。
そしてそれは逆を言えばお互いを利用しあうという考えのない友情の暖かさも教えてくれる。
これは一生の宝になる。
子供はソーシャルゲームを通して「やめるべき習慣からは逃げ出さなければいけない事」を知る。
ソーシャルゲームは他のゲームとくらべて辞めたいと思っても辞めるのが難しい。
ゲームから長時間離れている間刻々と漏れていくスタミナ、今まで積み上げたキャラクター、期限の迫るイベント、それらが辞めようという気持ちの反対から強烈なモーメントをかけてきてシーソーを辞めないという方向に強引に引き戻してくる。
もしかしたら辞めたいという気持ちは一過性のものですぐにまた戻ってきたくなるかも知れない、その時に捨ててしまった様々なチャンスを勿体無いと感じるかもという不安に抗わなければソーシャルゲームを辞めることは出来ないのだ。
だがゲームとは本来楽しむためのもの、それに大きな苦痛を感じているのならばいっそ距離を置くべきではないだろうか、そのとき子供は何を思うのだろうか?
子供は馬鹿だから「スタミナもったいないでちゅー。ゲーム100本並行して遊ぶために学校やめましゅー」と考えるに決まっていると思う大人は流石にいないだろう。もしもいるのならば他人を軽んじる癖を治すために前世からやり直した方がいい。
将来にわたって有限であることを知らなくても日々の時間は有限であることは理解している。そうあの頃は未来も永遠なのではという錯覚があった。
有限な時間の中でやりたい事・やるべき事を24時間という枠に収めていかなければ行けないことを強く感じる機会をソシャゲは作ってくれるかもしれない。
そして有限の時間を使いこなすためには不要な習慣を切り捨てていくことが大切だということを実感できるかもしれない。
これは一生の宝になる。
しかし同時に多くを手に入れるかもしれない。
私はそのなかで子供が失うものが手にするものよりも少ないとは思わない。
危険な存在だからこそ多くの経験を子供につませてくれる、ソーシャルゲームは雄大な自然と同じく子供の危険な学び場なのだ。
(まあこれぐらいの出来ならホッテントリ狙ええるだろ)