はてなキーワード: 帰属意識とは
無事に乗り越えていくためには、次の4つの施策を取るのが効果的です。
創業時からの社員と中途採用した社員間の意識の統一を図るためには、経営理念や企業のビジョンを浸透させることが重要な意味を持ちます。企業の成長のためにがむしゃらに働いてきた場合は、一度立ち止まって経営理念を再確認し、社員への浸透をめざしてください。
共通する経営理念の浸透により、社員同士の考え方や意識の統一を行いやすくなります。ビジョンがあれば、どのくらいの時期までに目標を実現できるかが明確になるため、社員たちも逆算して求められているものを理解しやすくなるでしょう。
また、人数が増えると社員一人ひとりの行動に目を配ることが難しくなるため、ある程度は社員の自主性に委ねなければならない場面も出てきます。普段から経営理念やビジョンを浸透させていれば、社員が個別に臨機応変な判断を行うこともできるようになるでしょう。
クレドと呼ばれる行動指針をカードにして携帯させるのも効果的です。仕事で困った時や休憩時間などに取り出して見ることで、現場レベルでの判断が必要になった際に、企業の一員として正しい行動を取れるよう意識できるようになるでしょう。
経営者一人で30人前後の社員全員をマネジメントするのは、非常に難しいといえます。
企業の成長と比例して経営者としての仕事が増えるため、社員へ目を配ることが余計に困難になってしまうのです。
そこで、経営者の代わりにマネジメントを行える人材の育成を行いましょう。企業としての理念とビジョンを共有できる人材をマネジメント層として据えるべきです。起業時からのメンバーを昇格させたり、外部からマネジメント経験のある人材を採用する方法があります。
マネジメント層には人材の育成や人材の評価などを担当してもらいましょう。社員の一ひとりの状態を把握できる体制にするのです。社員の意見がマネジメント層を通して、経営者まで届くような組織であることが理想的だといえます。
社員とともにマネジメント層が成長するのは、今後の更なる社員数増加にも対応できる土台づくりになります。30人の壁を越えても問題なく企業を運営していくには、早い段階でのマネジメント層の擁立と育成が鍵を握っています。
企業がまだ小さい頃は、経営者が人事や経理などの業務を兼任することができました。しかし、企業規模が大きくなり社員数が増えてくると、そうもいきません。企業として成長していくためには、社員への福利厚生が適切に実施されている必要があるでしょう。
バックオフィスを担当する部署の設立や、スキルを持った人材の育成を行うのが先決です。初期から働いている社員にバックオフィス業務への移動を依頼するか、中途採用による専門のスキルを持った社員に任せるのがよいでしょう。
また、社員が増えることで業務上のトラブルや精神的不調を訴える社員が増えてくることが予想されます。これらが原因による離職者を出さないためにも、人事を担当するバックオフィスの充実をめざしましょう。
企業した当初、気心の知れたメンバーと少人数で運営していた頃は簡易的な評価制度でも問題ありませんでしたが、社員数が増えることできちんとした評価制度の整備を急がなくてはならなくなります。
多様な社員が増えたことによる価値観の違いが生まれやすくなるため、基準となる評価制度を整備しておかないと、多くの社員から不満の声が上がるようになってしまうのです。公平性のある評価制度は社員のモチベーションアップにつながり、企業の成長に大きく関わる部分です。
評価制度を整えるにあたって、経営理念やビジョンを踏まえたものにすることで、社員の成長意識を高められるでしょう。
マネジメント層を配置したら部下との間に1on1ミーティングを実施し、社員の考えを把握できるようにしておくのが重要です。社員の帰属意識を高めることで組織力の強化を行い、30人の壁を打ち破って行きましょう。
4 30人の壁の先にある50人・100人の壁とは?
さまざまな企業内努力によって、30人の壁の壁を打ち破ることができたとします。
しかし、その先は平坦な道のりではありません。今度は「50人の壁」や「100人の壁」が立ちはだかっているのです。
4−1 50人の壁の特徴
社員数が50人前後になった時、今度は50人の壁に当たります。ピラミッド型に変化した組織が、更に複雑化していくことで、マネジメント層に機能不全が起こりやすくなるのです。
事業の拡大によって複数の部署が設立され、新入社員も増加します。マネジメント層は増え続ける問題に対し、的確に対処することが求められるのです。プレーヤーとして活躍してきた社員が出世し、マネジメントの役割を担うようになった場合、どのように部下と接すればよいのか迷うケースも多くあります。
経営理念やビジョンをどのようにして全社員に浸透させていくかが、壁を乗り越えるための鍵となってくるため、マネジメント層の活躍が大きな意味を持つのです。
4−2 100人の壁の特徴
企業が成長軌道に乗り、社員数が100人に達した時、新たな100人の壁が現れます。
社員数の増加に伴い多様性が拡大。さまざまな考え方やバックヤードを持った社員たちが企業を支えていくことになります。それを管理するマネジメント層も10人以上に増え、彼らの働きによってうまく組織をまとめていくのが重要です。
経営者は部下の対応を各マネジメント担当者に任せ、企業の方向性の舵取りや、新規事業への対応など、先を見据えた行動に全力を出せるようにしておくとよいでしょう。
また、各部門には高い専門性を持った社員を配置することも重要になります。企業の更なる成長のためには、より専門性の高いスキルを持った人材を増やし、問題解決に当たらなくてはなりません。
営業や開発、人事など、その道のプロフェッショナルを迎え入れましょう。もちろん、初期から活躍している社員が担当するケースもあります。
5ch←いまどき5chかよ
はてな←偏った思想に☆が集まるシステムによっていつの間にか偏った思想を正しいと信じてしまっていく危険人物が多すぎ
ツイッター←TLは自分で構築するんだから個人差が有るということを理解できないやつのヤバさよ
ニコニコ←まだここに居座ってる連中は思考の硬直化がヤバいすぎる
YOUTUBER←配信者に対して帰属意識を持ち出すとマジでアカンぞアイドルグループよりヤバイよ
ふたば←自分がキチガイである自覚のない完全なキチガイになる特急券
同性愛いじり←集団イジメとか今どき流行らなくなってきてるって気づかないのかな
e-スポーツ←ゲームがうまくなっても人間的に素晴らしくなることはないことに気づけなかった奴から狂う
RTA←ラーメン早食いのためにアイスクリーム頼んでぶちこむような遊びをしてるくせに自分たちこそが一番愛してると言い張ってる
小学生。近所に住んでいた友達と些細なことでもめ、いじめられた。幼稚園までは親の転勤で新しい環境に飛び込んでもすぐに友達を作れるくらい明るかったが、いじめられたことで私の強みは潰された。自分が何を言っても誰にも聞いてもらえないが、言動で私を傷つけようとしてくる人があまりにも多く、少しでも人に話を聞いてもらいたくて異様なほどの早口で話したり傷つかないために自分に対する悪口を軽く受け流したりする癖はこの頃ついたと思う。
中学生。音楽部に入った。ピアノ等未経験の音楽初心者で入ったなりに努力して1年生の頃の顧問の先生にはたくさん褒められていたが、2年になってその先生が退職し、新しい顧問には嫌われ、3年生になっても自分だけ役職につけてもらえないなどの仕打ちを受けた。
家に帰ると勉強はあまりせず、全然楽しくない部活の憂さ晴らしとしてアニメばかり見て絵を描いていた。
そのせいで親にはよく怒られており、小学生の頃いじめてきた子を引き合いに出して〇〇さんよりいい高校に行きなさい、悔しくないのなどと言われ続けていた。
高校受験では3年夏には国際系の行きたい高校を見つけたものの、内申書と数学と理科が最後まで振るわなかった。本命1校の公立高校に落ちたら私立に行かなければならない県に住んでおり、私立に行かせる金はないと毎日気が狂いそうなほど言われた。やる気のない生徒が集まる塾に通っていて、講師もいかにも大学生バイトという感じであまり教えてくれないし、親に塾を変えたいと言ったものの、お金がかかると言われて叶わなかった。
最終的に家から近い、自分の偏差値で行けそうな公立高校を受験し、合格した。通っていた塾にも私と同じ高校を受験した人が何人かいたが、私以外は落ちたようだった。私より高い偏差値の高校に行った生徒はいなかったらしい。
高校生。トラウマと化した中学とは180°違う運動部に入った。先輩の中にも初心者で始めた人がいて、とても優しく教えてくれた。友達もでき楽しくて良い環境ではあったが、初心者だったこともあり周りと比べて体力もなく競技は全く上達しなかった。そのうち教えてくれる先輩とか友達にも引け目みたいなものを感じ始めた。先輩や友達は強かったため地区大会や県大会の応援に行くたびに交通費がめちゃくちゃかかり、お小遣いでは足りなくなった。親からは毎月のように応援に行くたびにそんなことをして何の意味があるのと言われた。もうお金は借りられないと思った。
親に黙ってアルバイトを始めた。部活と勉強との両立はとてもキツかったが、将来のために少しでも働いて、お金を稼いでいると思うと何か安心感のようなものがあった。この頃にお金を稼ぐことの楽しさを覚えた。
特に頭がいい高校ではなかったからか高校時代の友達は美醜の話で盛り上がる人が多く、昼休みのたびに誰が可愛いとか誰がブスとかそういった話ばかりしていた。ブスで恋人もいなかった私はそういった話を聞くのも嫌だったが別の話題に持っていく力もなく、適当に相槌を打つことしかできなかった。
高2の3学期に大学受験に対して危機感を持つようになった。前述の部活とバイトの掛け持ちで学校の勉強は疎かにしており、特に2年生の頃は学校をサボりがちで午後から高校に行ったり部活だけ参加したりしていた。そのため、親が最も期待していた指定校推薦は望めそうになかった。
高3になる直前くらいに部活もバイトもやめ、親に頼み込んで塾に入れてもらった。部活もバイトも辞めるのはすごく気が引けた。親のせいと周りには話したものの、全部自分で決めたことだった。子供の頃から学歴コンプや貧困などの話を読み漁っており、親から絶対に私立には行かせられないと言われたことも相まって絶対にお金のない大人にはなるまいという思いが強かった。
大学受験では入りたかった塾に入れたが、中学時代から得意だった国語以外あまり成績は伸びなかった。英検をとれば有利になる大学が多数あることを知り、受けた。検定には合格したものの一番行きたい大学の英検利用はスコアが足りず諦めざるを得なかった。
受験の前、大学に全落ちしたらどうするかの相談を親に持ちかけたところ、お前は女なんだし、落ちたら浪人しないで働け、結婚して早くいい旦那さん見つけろと言われた。自尊心がズタズタになっていた私はつらくなって泣いた。
その頃は12月だったためなんかもう全てのやる気を失ってしまったが、英検と得意だった科目を活かしなんとか2月、一般受験で世間的に有名な大学に合格することができた。
親も喜んでくれた。塾の先生も高校の先生も喜んでくれた。見返せた気がして嬉しかった。
大学が決まると以前働いていたバイト先に戻り、たくさんシフトを入れて働いた。その頃の店長や先輩がいい人だったこと、先輩に同じ大学同じ学部の人がいたことも私のバイト先への帰属意識を強めた。他のバイトを探すなど考えられなくなっていた。
4月になり大学に入学した。東京の大学だったためダサいのは恥ずかしく、今まで友達が本当に少なく親からあんた親友いないよね、と毎日馬鹿にされていたので東京でも生きれる普通の女の子になってみたいという気持ちがあり、大学デビューしたいとの思いから服や化粧に金を注ぎ込んでバイト代は一瞬で飛んだ。家では夜10時までに帰ってこいと門限が決められ、お金もなかったためサークルや部活の新歓期間は逃したまま結局入らなかった。
大学で最も楽しかったことは(私の周りだけかもしれないが)人を容姿で揶揄する子がいなかったことだ。周りはみんな頭のいい高校を卒業した子ばかりで、発言に強要が含まれていて聞いてるだけで面白かったし、オタクでも1人でいても陰口たたかれないし後ろ指を指されることもないしすごく快適だった。プライベートでは相変わらずバイトばかりしていた。
秋になり、バイト先では私がお世話になった店長が別の店に飛ばされた。そのころからバイト先の環境は少しずつ悪くなっていった。めちゃくちゃ気が強い先輩が何人も入ってきた。今思うとここで辞めておけばよかったのだが、当時のバカな私はそれをしなかった。
2年生になった。コロナが流行り、授業は全部オンラインになった。生活リズムはグチャグチャ、なんのために生きているのかよくわからなくなったが、2年から入ったゼミの授業が週2であり、カメラオンのzoomで同期や先輩と話ができたことだけが精神安定剤となった。この頃には授業とバイトの両立が不可能と親に訴えたことで門限はなくなり、2年生からやっとサークルに入り直せると思ったがコロナのせいでできなくなった。
というのも親はとてもコロナを気にしており1年くらいバイト以外の外出ができなくなった。友達と遊ぶというとものすごく苦言を呈され、一緒に住んでいる人のことも考えてと言われた。落ち着いた頃友達とチケットを取ったディズニーランドもバレて延期せざるを得なくなったし、成人式もそのあとの友達との軽い夕食の話も断らざるを得ず、そのあとだんだんと誘われなくなっていった。
唯一の息抜きはゼミの教授がきっかけで始めた昆虫観察だけだった。自然がたくさんある郊外に住んでいるため、邪魔されずに散歩だけはできた。自然の中を歩いて、虫を観察している時だけは面倒な親のことも溜まっている課題のことも忘れられ、癒された。そうして私のつまらない大学2年は終わった。
3年生になり対面授業が再開し始め、相変わらず親は文句を言っていたものの少しずつ大学に行くことができるようになった。
5月ごろに就活を意識しいくつかの長期インターンに応募したが全て落とされた。夏休み、やっと参加できた地元のボランティアの活動期間はまたしてもコロナが猛威を振るい、親にはまた文句を並べられた。東京に行くなんてもってのほかで、ずっと地元から出られなかった。ボランティアもコロナのせいであまり活動できなかった。
8月に親の職域でワクチンを打つことができ、9月からは感染状況の落ち着きもあって割と自由に出歩けるようになった。1年も延期していたディズニーランド、ゼミの同期との飲み、泊まり、1年生から憧れていた「大学生らしいこと」をやっとできた。
さらに転機が訪れる。大学でやっていた勉強会に参加し、そこで今まで会ったことないくらい頭がよく、私に色々な世界を教えてくれる人たちに出会った。そこで初めて勉強の楽しさを知った。なんでこんなに楽しいのに今まで気づかなかったんだろうと思った。高校受験で諦めさせられて以降嫌になっていた外国語も、友達と一緒に高校の時履修したけど知識は身についていなかった政治経済も学び直し始めた。遠くへ行って、知らない世界をたくさん見たいと思った。生まれ直した気分だった。
しかし、11月ごろから周りは一気に就活ムードに入りそれどころではなくなる。夏からインターンには応募していたが、1年次から興味のあることが一切できておらず、環境は最悪だったが6年続ければ何か足しになるだろうとしがみついていたバイト先でも、社員や先輩に嫌われ責任者にはなれなかったため、俗に言うガクチカも自己PRもなく、落ち続けた。周りには何人か休学して長期インターンやボランティアなどをする人も出始めた。私も一度きりの新卒就活、後悔しないように休学か就留か就浪して長期インターンをし自分のしたいことを見つけたい、ちゃんと何かに打ち込みたいと相談したところ親にこっぴどく怒られた。家を出てってくれと言われた。インターンも何も参加できず、就職先が決まらないかもしれないと言うと、女なんだからバリバリ働けないでしょ。就活なんか適当に地元ですればいい、それより男に好かれる、愛されて結婚するための努力をしろと言われた。あまりに呆れてしまい、返す言葉がなかった。私の人生ってなんなんだろう。
実は大学に入り、見よう見まねで都会の女子大学生としておしゃれをしてみて何か嫌悪感のようなものを感じるようになった。女として扱われるのが嫌だ。バイト先で自己肯定感の低い私をたくさん褒めてくれる先輩が入ってきて仲良くなったが、軽く肩を叩かれる程度でも体を触られたり、下ネタの話をされると途端に気持ち悪くなり、おまけにとんでもないクズだったので、関わるのをやめた。親とか同性の友達とかにも体を触られるのが嫌で喧嘩になったこともある。飲み会で酒が進み、恋バナや性行為みたいな話になっても嫌悪感があった。そのせいか恋人は今まで一度もできたことがないしまだ処女だ。
それなのになぜ女として振る舞い、男に好いてもらうために努力しないといけないのだろう。憤りしか感じなかった。自分のためだけに生きたい。
この間中学時代の友達と話す機会があったが、彼氏と同棲するなら〜とか、結婚を考えると全国転勤ありは嫌だよね〜とかの話をされ、私はやっぱりそういう考え方はできないなと思ってしまった。
年が明け、またコロナの感染者が増え始めた。親は毎日毎日感染者数をLINEで送りつけてきて、外出しているとどこにいるの早く帰ってきなさいと頻繁に連絡してくる。もう外食もできない。
こないだ休日のランチタイムにバイトしていたら普段は担当しないホールに回された。満席になった店で楽しそうに食事をする家族連れを見ているとなんだか辛くなってきた。コロナがなければ、もっと自由に生きられたのだろうか。誰も何も悪くないけど、涙を堪えながら接客をした。
人をまとめる力もなく、卒業見込みの大学に見合った頭もなければ普通に女として愛嬌を振りまくこともできない、これからの私はどうしたらいいのだろう。
今興味があるのはコロナ禍で始めた一眼レフでの写真撮影と昆虫と小学生の頃から好きだった自然、あとは自分が悩んだジェンダーとかお金とかの問題で、私みたいにやりたいことを諦めなければならない女子もいるだろう現状の社会には割と不満を持っているけど、別にものすごい性差別を受けたとかめちゃくちゃ貧しかったとかではないから何かの志望動機にするにしても説得力ないなと思っている。志望動機を書いていても自分ごとにできてないってキャリアセンターの職員には言われた。多分大学時代にあまり興味のあることも好きなこともしてないしどこにも行けてないからだと思う。
強みは今でも偏差値が70以上ある国語と、性格面では小学生の頃いじめられたからか自分と違う意見でも人の話をよく聞こうと意識しているのと最近いろんな友達との交流を経てやっと取り戻した明るさ、あと昆虫について詳しくなろうとする探求心だと、友達とか教授に教えてもらった。これが活かせるところがあれば知りたい。
それか生まれ直した私でもう一度勉強し直したい。もう4年生なので、そのためには社会に出てお金を貯めてからもう一回大学に入り直すか大学院に行くことかなと思う。
もう自分の人生において、お金にこだわる私はいない。今までは親の影響でコスパばかり考える気味が悪い子供だったが、たくさん遠回りをしてこそ学べることがあるのではないかと考えるようになった。
一度自立し、一人暮らしをしてからであれば親からはなにも言われないだろう。けれど1人で生きていくにあたってやっぱり職がないのは困るし、20代後半で大学を卒業してもちょっと貯金ができ、一人っ子なので自分しか頼れない両親の老後の面倒を見れるようなお金がもらえるところに就職できるかが不安だ。それかとりあえず行けるところに就職して、後々自分の興味関心があることができるところに転職するか。転職のことを考えると気が重くなる。新卒キャリアがどんなものでも、そこから転職ってできるものなんだろうか。
とりあえず早く親元を離れたい。
私の大学生活を返して欲しい。
本当に無知ですみませんが、向いてそうなものとか、どこに転職するにしても役立つスキルみたいなものがあれば教えて頂きたいです。
オタクゆーのは社会不適合者でな、人付き合いとかコミュニケーションが苦手なんや。
人間関係が築けへん、まともに意思疎通もでけへん故に、社会的な成功とは無縁の、孤独でショボクレた人生を送るわけや。まぁ例外はあるけどな。
そこで一念発起して、前向きに努力してくれればエエんやが、大抵は現実逃避、妄想の世界に逃げるわけで。
それがアニメ・マンガ・ゲームなんかのいわゆるオタクコンテンツやな。
虚構の世界を疑似体験することで、現実社会での欲求不満を解消するっつーこっちゃ。
それ自体はストレス解消、人生楽しく生きるための娯楽、悪いことやあらへん。
ところがオタクは現実社会で報われんがゆえに、オタクコンテンツに異常に入れ込んでまう。
そうしてオタクは、自らの価値観を共有・補強するために同好の士で固まるんやな。
そこんとこは宗教と変わらんな。まぁ布教とか信者とか、親和性は高いわけや。
また、帰属意識の強さは、商売にも利用されて、オタク相手のビジネスも結構ごっつい市場なっとる。
また公的機関やら自治体が人集めやPRにオタクコンテンツを利用するっちゅーのもよう見るようなりましたな。
そこで問題なるんが、オタクコンテンツは現実社会のアンチテーゼであるがために、非現実的・反社会的であることを宿命づけられとるちゅーこっちゃね。
つまり、コンテンツそのものが社会的な良識とは相容れない価値観によって形成されとる訳で。
ガワだけ使うなり漂白するならまだしも、ナマで世間様に開チンしたら猥褻物チン列罪でっせ。
そういうわけで、世間様がオタクコンテンツをキモイ、不健全だ言わはるのは当然のことであり、この程度問題ない、っちゅーのはオタクバイアスですわナ。
表現規制をやめろと言うのも間違いで、むしろ規制されるべき表現がオタクコンテンツであり、我々は迫害されるがゆえにオタクなのである、ちゅーことですわ。
misochige いい加減ゲームの話題ぐらい「日本人が」にフォーカスをしないのが普通になってほしい。ゲームの中でまで国籍に拘るのはSTEAMで日本語音声別売りにする連中だけでもうお腹いっぱいだぜ
League of Legendsというゲームで、日本代表が過去最高の成績を出した。
その成績は何によるものか?
日本人のユーザーが集まるサーバーがあり、日本人のコミュニティが活発であること。
そういった日本の環境&成長を含めた結果なんだから、「日本の偉業」として喜ぶのは自然だ。
スポーツに国の色が反映されるように、eスポーツも国の色が反映される。
League of Legendsでは国ごとにスタイルの違いがあり、ヨーロッパ圏と韓国とで違いがある。
国ごとにeスポーツの文化が異なり、その国の環境が各国代表に色を持たせる。
であれば、日本に帰属意識が生まれるのは自然だし、代表戦で実況が日本びいきするのも当然だ。
他国のスーパープレーに感動することはあれど、やはり日本が活躍する時の感情とは別モノだ。
感情といえば、日本代表の外国人をどれだけ許せるか? という問題もある。
League of Legendsの日本代表の快挙には、韓国人の助っ人が大きく関わっている。
もっとも、その3人は長らく日本で活躍してきた選手だから、文句を言うつもりは微塵もない。
そもそもLJL(日本リーグ)は日本人のリーグってわけじゃないし。
釘を差しておくと、モヤっとする層は「韓国」という国を気にしてるんじゃない。
むしろeスポーツファンは、韓国に対して好印象を持つ人間が多い。
それに韓国はeスポーツ先進国で、League of Legendsの強豪国だ。
日本リーグの顔であるCerosが外れ、引き抜いた選手がスタメンになる。
となれば残念に思うのも致し方ない。
現在の結婚制度の思想は"家"に他人が組み込まれることによってファミリーとしての基盤の強化や影響力を増大させるという機能的な意味がある。
でも別姓にするってことは個人と個人が共同体の中で協力関係を作ってともに生きていくという意味に変わる。
これは帰属意識を減らして共同体間の移動をスムーズにすることを意味する。
簡単な例だけど、結婚しても離婚しても姓が変わらないなら同僚、友人、知り合いにはばれないでしょ?
なので"家"の知名度が減って影響力を保てなくなる。
でももともと人脈が薄い人とか庶民レベルだとたいして変わらんと思っちゃってる。
あるいは自分自身の力で人脈を作れる人とかね。
イデオロギー的な別姓賛成派はこの家の仕組みが既得権益だから変えたいと思ってる。
あるいは家に縛られて自由にコミュニティを移動できない人も変えたいと思ってる。
なので利益が絡むそういう人たちはかなり別姓賛成に強硬的になる。
この思想の変化は当然社会的仕組みをごそっと変えるということだし、影響がないというのは残念ながらありえない。
俺は別姓があって別にいいと思うしなんならそっちの方が性に合ってると思うけど、何も変わらないってのはただ不勉強か嘘をついているだけでしょう。
『公助は削って、福祉は家族による相互扶助を基本とする』に対して、そんなことしたら社会が貧困化するよという主張が感想レベルだからダメですかそうですか。そもそも自助や互助で貧困は防ぎきれず、その貧困への対策が共助、公助なわけなんだけども。こんなことは常識の範疇と思っていたよ。
この自助・共助・公助という3分論は、自民党の綱領(平成22(2010)年)で政策の基本的な考え方として採用されている。「自助自立する個人を尊重し、その条件を整えるとともに、共助・公助する仕組みを充実する」とある。菅氏の発言は自民党員として、党の綱領に忠実であったともいえる。また、社会保障制度改革推進法の第2条には、「社会保障制度改革は、次に掲げる事項を基本として行われるものとする。一 自助、共助及び公助が最も適切に組み合わされるよう留意しつつ、国民が自立した生活を営むことができるよう、家族相互及び国民相互の助け合いの仕組みを通じてその実現を支援していくこと。」とあり、法律の文言にもなっている。
総理大臣になった菅氏が、この社会像としての3分論を具体的な政策の中でどのように生かしていくのかは分からないが、これまで、介護保険制度の創設と運用にかかわり、自助・互助・共助・公助という4分論を唱えてきた筆者としては、共助の主体に地域とともに家族が含まれていることと、地域以外に共助の主体が想定されていないことに若干のコメントをしておきたい。
われわれは、人生の途中で、老化に伴う日常生活上の困難や思いがけない病気、事故、災害など、さまざまなリスクに直面する。このように何か問題が生じて解決を迫られたときに、まず、本人が自助努力で対処する。しかし、それでは無理なときは、本人の身近にいる家族・友人・隣人などが手を差し伸べる。これがインフォーマルな支援、すなわち互助である。自助と互助ではカバーしきれない場合にはシステム化された地域・職域の自治組織が支援する(共助)。この共助システムではなお解決しえない場合に行政が支援する(公助)。この4分論も、いわゆる補完性の原則に基づく社会形成の考え方であるが、自助と共助の間に互助を考え、共助としては地域以外にも社会保険を想定している。
個人が直面するリスクを、その本人の自助努力だけで克服せよというのは無理な話で、社会は、何らかの形で共同してリスクを分担する仕組みを備えていなければならない。自助から出発するにしても、自助の次に互助を想定せず、家族の支えを「共助」に包摂してしまうと、例えば、いつまでたっても家族を老親介護の責任から解放できないのではないか。家族は大事だが、それに頼りすぎては家族が参ってしまう。
互助は、自発性とゆとりと思いやりに基づく支え合い活動であって、その活動範囲も支援能力も限定的である。それは、家族・友人・隣人が無償で行う支援活動であるからである。しかし、自助のすぐそばに、この互助が息づいていることが自助の励みになるのである。老いて心身が弱っても、自分の生活に関することは自分で判断し、できるだけ自分で行おうとする個人の自助努力を尊重し励まし支援する、それが互助の意義である。自然災害のときにも、真っ先に頼りになるのは自助と互助の結びつきである。新型コロナ禍の困難の中でも自助に寄り添う家族・友人・隣人の親身な支援こそが大事である。
わが国にはシステム化された地域の自治組織として、自治会・町内会があり、近年は地域運営組織が台頭し、これらは市区町村行政と相互関係をもって活動している。この地域が共助の主体として期待されている。ただし、同じ共助のなかに、リスクを共有するもの同士で助け合う社会保険制度が存在し、国と自治体の行政(公助)が関わっているから、共助の主体は地域だけではない。共助システムである医療や介護の社会保険制度は、経費の約半分を国と自治体の公費(租税)で賄っているし、介護保険では保険者を市区町村にしているから、この共助システムは共助と公助の混合型といえる。それだけに、公費負担をしている国から、システム運用を通ずる効率化圧力が絶えず加えられる結果、公助から共助へ、共助から自助へとリスク負担を逆流させようとする動きが出てきやすい。要注意である。
共助、公助の成り立ちと役割については、このリンク先の厚生労働省白書に良くまとまっている。https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/12/dl/1-01.pdf
(工業化に伴う人々の労働者化により、血縁や地縁の機能は希薄化した)
産業資本主義の社会では、企業が潰れたり、解雇されれば失業してしまい、また、けがや病気などで働けなくなった場合、労働者は所得を得られなくなる。その一方で、労働者が血縁や地縁の関係から一定程度独立した結果、それら血縁や地縁で結ばれた人間関係を基礎とする支え合いの機能は、近代以前の社会と比べて希薄化しているため、個人にとって、生活が立ちゆかなくなってしまうリスクは大きなものとなる面があった。また、産業資本主義の社会では、労働力の商品化の結果、モノやサービスの生産が「使用者-労働者」の関係を軸に展開するようになる。近代以前の社会と異なり、労働者は自己の労働力以外に機械や原材料などの生産手段を持たない。生産手段は使用者(資本)によって所有され、労働者はそれを借用しながら自己の労働力を提供する。この関係の下では、自ずと労使の力の差が生じる。使用者に比べて力の弱い労働者は、低賃金、長時間労働という劣悪な労働条件を強いられ、解雇のリスクにさらされるようになる。過酷で貧困な生活を送る労働者は増え、労働問題が大きな社会問題になっていった。労働者たちは、同業者の間で相互扶助的組織を設けるなどして生活上のリスクに対応してきたが、これらの組織に加入できたのは、経済的に多少の余裕のある熟練労働者などに限られ、多数の非熟練労働者などは、それらの組織に加入することができなかった。
(近代的な社会保障制度の創設はドイツから始まり、欧州各国に広がっていった)
近代的な社会保障制度が世界で最初に創設されたのは、大陸ヨーロッパのドイツであった。ドイツでは、19世紀終盤に、帝国宰相の地位にあったビスマルク(Otto von
Bismarck, 1815-98)により、法律上の制度として世界で始めての社会保険制度(疾病保険法(1883年)、労災保険法(1884年)、老齢・障害保険法(1889年))が制定された*3。社会保険制度は、事業主の負担と併せて被保険者(労働者等)自ら保険料を負担(拠出)することにより給付の権利を獲得するという関係があるため市場整合的であるとして、多くの工業国で社会保障の手法として第一義的に選好される傾向が強いものとなっていった。そして社会保険による給付は、市場経済的な権利関係の裏付けを欠くために、社会の負担、あるいは自助能力を欠く者との差別や偏見から逃れられず、受給にスティグマ(汚名)が伴っていた恩恵的・救済的福祉の給付とは異なっていた*4。また、あらかじめ生活リスクに備える点で、それまでヨーロッパ各国で主流であった事後的な「救貧」施策から事前の「防貧」施策への第一歩を踏み出した点でも大きく評価された。
(略)
(社会保障は、個人の生活上のリスクに社会的に対応する仕組みとして求められるようになり、産業資本主義の社会と国民国家の発展を支えていった)
このように、産業資本主義が発展する中で、血縁、地縁がそれまで果たしてきた人々の生活を保障する機能は限定的なものとなっていった。それらの機能を代替するため、傷病、老齢、失業などのリスクに公助又は共助という形で社会的に対応する仕組みが必要となり、現在に通じるような社会保障制度が求められるようになったといえる。
そして、社会保障が血縁や地縁の機能を代替*8することにより、人々は経済活動に注力することができるようになったという意味で、社会保障は産業資本主義の社会、国民国家の発展を支えていったともいえる。
(世界恐慌から第二次世界大戦までの間に、戦後社会保障の構想が練られていった)
1929年には、アメリカのニューヨーク証券取引所での株価の大暴落をきっかけに世界恐慌が発生した。その影響は大変大きなもので、1930年代には各国で多くの企業が倒産し、街は大量の失業者で溢れ、社会不安はますます増大した。
(略)
ケインズの理論によって完全雇用に近づければ、失業給付を激減させ、なお残る失業者に手厚い給付ができ、また、社会保障によって全国民に最低限度の生活を保障すれば、有効需要が増え、さらに失業者が減る。このように、ベヴァリッジとケインズの考えは互いに補強しあう関係にあった。これは「ケインズ・ベヴァリッジ主義(体制)」、「福祉国家の合意」などと呼ばれる。その後、ベヴァリッジは、第2次世界大戦中の1942年に、いわゆるベヴァリッジ報告(『社会保険および関連サービス』)を英国政府に提出し、「ゆりかごから墓場まで(Fromthe Cradle to the Grave)」のスローガンの下、新しい生活保障の体系*10を打ち立てた。このベヴァリッジ報告の影響を大きく受け、第二次世界大戦後には世界の多くの資本主義諸国で、経済の安定成長と完全雇用*11、国民福祉の充実を目指す「福祉国家」の潮流が広がっていった*12。
(戦後、どの先進諸国にとっても社会保障は不可欠なものになった)
(1970年代―オイルショック後の経済成長の鈍化等により、社会保障・福祉国家批判は大きな潮流になった)
(1980年代―新自由主義的な政策が採用され、社会保障・福祉国家の「見直し」が行われた)
(新自由主義的な政策は、経済のグローバル化の趨勢とも親和的だった)
(社会保障・福祉国家の「見直し」がもたらした弊害は大きなものだった)
(当初の「見直し」という目的が実際に達成されたかについても、見方は分かれる)
(1990年代以降、社会保障の重要性が再認識され、過去に指摘された問題点に応える努力をしながら、社会保障・福祉国家を再編成する時期に入っている)
(今日では、社会保障は様々な機能を持っており、私たちの経済社会に欠かせない重要な仕組みである)
今日では社会保障は、個人の視点からみれば、傷病、失業、高齢など自活するための前提が損なわれたときに生活の安定を図り、安心をもたらすことを目的とした「社会的セーフティネット(社会的安全装置)」という機能を果たしている。また、それを社会全体としてみれば、所得を個人や世帯の間で移転させることにより貧富の格差を縮小したり、低所得者の生活の安定を図る「所得再分配」や、「自立した個人」の力のみでは対応できない事態に社会全体で備える「リスク分散」という機能を果たしているといえる。
さらに社会保障は、必ずしも恵まれない人たちにも社会の一員としての帰属意識を共有してもらうことで社会的な統合を促進させる。また、消費性向が高い低所得の人たちに所得移転し購買力を高めることで個人消費を促進したり、医療、介護、保育などの社会保障関連産業における雇用の創出を通じて経済成長にも寄与する。こうした「社会の安定及び経済の安定と成長」といった機能も果たしている*20。
このように、社会保障は私たちの経済社会にとって欠かせない重要な仕組みとなっている。だからこそ、支え手である現役世代(働く世代)の人口が減る少子高齢社会において、どのようにして持続可能な制度を構築していくか、若年者等の失業問題や社会的弱者が孤立を深める状況(社会的排除)を改善するためにどのように社会保障制度を機能させていくべきか、経済のグローバル化に伴う国際競争の激化が雇用の柔軟性や流動性を要求する状況など社会保障が前提としてきた雇用基盤の変化や経済の低成長が続く中で、どのような所得再分配や雇用政策が適切なのかといった点は、先進諸国にとって、重要な政策課題となっている。
社会は貧困化するの件が感想でしかないので、感想に対する反論などありません残念でした
人生に遅いということはないよ
Wikipediaによると、DaiGoは幼少期にいじめられていたらしい。
彼はお金=社会的承認に飢えている一方で(あるいは飢えているがゆえに)、既存の倫理観に対してかなり挑戦的だ。
彼のこうした人格には、当時の経験がかなり尾を引いているのではないかな、と思っている。
いじめられるに至った経緯は不明だが、興味は無い。いじめの経緯なんていつも些細なことだし、どうでもいい。
道徳の授業で、暴力はいけない、揉めたらよく話し合おうと教えられる。相手の人格に問題があったとしても、暴言や暴力を向けていい道理は無い。いじめは許されない。法に触れていれば犯罪だ。
しかし、建前がどうあれ、学校というコミュニティにおいては往々にしていじめが発生してしまう。学校には何故か警察は介入してくれない。彼の場合、頼みの綱の先生も助けてくれなかったようだ。
社会に適応的な人間からすれば、虐められた原因を正して社会と和解すればいいだけのことかもしれない。
しかしいじめられっ子は、たまたま生贄に選ばれてしまっただけだ。仮にいじめられる側に原因があったとしても、どこを正せばよいのか伝えられないまま、突然暴力によって存在を否定される。いじめられっ子からしてみれば、理由はどうあれただ理不尽に暴力を向けられただけである。気に入らない奴に暴力を振るい、尊厳を踏み躙り、見て見ぬふりをするという社会の悪性を一身に向けられたいじめられっ子は、果たしてそんな社会の仲間でありたいと思うだろうか?
ひとたび社会の強烈な不正義に晒された人間からしてみれば、適応は不正義への降伏に過ぎない。
彼がナタを投げるという脅迫によっていじめを克服し、しかも本人がそれを成功体験としているのも悲しい話である。
周りの大人や先生が助けてくれたなら、まだ世の中捨てたもんじゃない、正義だってある、自分には味方もいると思えたのだろう。そうした経験を欠いた彼の世界には、おそらく未だに愛も正義もない。自分の行動によって世界は変えられるという本人の言は、承認は行動によって勝ち取るしかないという不安の裏返しではないだろうか。
無条件の承認も社会への帰属意識も身につけられなかった人間は、自分に居場所があることを確認するため、社会的承認をかき集め続けなければならない。
これこそ彼が、目に見える成果が出るまで時間のかかる心理学研究でなく、すぐにお金を稼いで世間に自分の非凡さを思い知らせられる、うさんくさいパフォーマーとしての生き方を選んだ理由ではないだろうか。
私は、彼の信じられないほど酷薄な発言も幼少期のいじめに由来するのではないかと考えている。
非納税者を蔑視する発言は、相手にされないことへの不安から来たスタンドプレーという一面もあるが、既存の倫理観への不信からくる本音でもあるのだろう。暴力はいけないという一般論を教育されつつ暴力を振るわれた過去故に「口でいくらヒューマニズムを謳っても、本心は違うに違いない」と思っているのではないだろうか。
別に私はDaiGoも被害者だから哀れむべきと言いたいわけではない。理由はどうあれ、非納税者への福祉に関して無理解なまま、倫理にもとる発言をしたことは批判されてしかるべきである。
しかし「悪い奴だから懲らしめてやる!」と義憤に燃えている人は、自身が正義などではなく、気に入らない人間を積極的に排除しようとする側、いじめっ子気質の人間であることを認識した方がいい。
自分の非を認めていない人間に数の暴力でサンクションを与えたところで、暴力によって従わされたという心の傷が残るだけではないだろうか。
DaiGoの件に関して言えば、浮浪者への差別発言の問題点を大して理解していなそうな人まで「レイシズム=ナチス=悪」という借り物の価値観で脊髄反射敵に叩いているのも気持ち悪かった。Twitterで支配的な反レイシズムという規範に沿わないという理由で叩くのなら、クラスの空気に沿わない人間を吊るすいじめと大して変わらない。
DaiGoのように成功者になって世間を見返すのに躍起になり、果たしてそれが上手くいったとて、こんな風に問題行動を起こしてしまう。
逆に完全にいじけて人生を放り投げれば、黒子のバスケ事件の犯人のように社会の敵になる。
これらは元いじめられっ子の中でも極端な例である。しかし私には、帰属意識の喪失や社会の正しさへの不信、自尊心の低さ、自分の影響力を確認することへの執着といった、いじめによってもたらされる人格の歪みが遠因になっていると思えてならない。
手立ては色々ある筈だ。
これまでの話は全部私の臆測であり、一から十までこじつけである。どこかに論文があるわけでもないし、私は何の専門家でもない。
しかしDaiGo本人がオリジンとして語っている以上、暴力による自力救済でいじめを克服するしかなかった経験は、彼にとって大きな意味を持っていたのだろう。
DaiGoをいじめたりそれを傍観したりしていた同級生、彼を救えなかった教師、もしかすると「やっぱアイツ変だったしな〜」などと考えていないだろうか。
お前らが歪めたんだ。
ごく個人的な事だけれど、残しておきたかったのでここに書く。自分の今も心にわだかまる、あるささやかな思い出の話だ。
地元の町では毎年、みどりの日(今でいう昭和の日)にお祭りがある。
朝早くから山車(だんじり、という。これで大体出身地は絞り込めるかな)を、町内会ごとに、男たちが威勢の良い掛け声と共に担ぎあげる。だんじりは、筋骨隆々の大人の男性が数十人でようやく持ち上げられるほど重く、立派だ。
だんじりの中心は幕で覆われており、中には大きな太鼓がひとつ。次代の町内を担う小学生の男子たちが、太鼓を交代で延々と叩き続けリズムを作る。
それぞれがそれぞれのルートで出発しては町を練り歩き、八幡の神社に昼前くらいに集まる。
それから神社で何やら神事らしき事をおこなったのち、昼過ぎくらい出発しては、どの町内会のだんじりも、夕日がさすくらいまでに再び担ぎ出して帰る。
さて、僕の話だ。
僕ら一家は町内会①に、祖父母が少し遠い町内会②に暮していた。
両親は、仕事から帰ってくるまでの間の僕の世話面倒を祖父母に任せていたので、
保育園の迎えは祖母だったし、放課後は祖父母の家…つまり町内会②で過ごしていた。
両親は仕事が終わると迎えに来てくれ、夜は町内会①で暮らす。そんな日々をずっと送ってきた。
友だちも、まあそれなりにいた。たいていは子どもの自由時間である放課後に過ごす町内会②での繋がりで。
なにせ、僕は祭りの日にだんじりに一度も乗ることができなかったからだ。
町内会①も②にも僕が乗ることはなかった。
祭りが近づくと町内会の子らが太鼓の練習に当たり前のように行く中、
とても寂しく切ない気持ちを抱えて、1人で遊んでいたように思う。
覚えてないが、乗りたくないと言ったのか。親が町内会との折り合いが悪かったのか、はたまた本当に地域の慣習上疎外されるべき存在だったのか(なんらかの伝統的な基準を満たさなかったのか、次男だったからなのか)、分からない。
ただ当時の僕は、「自分が町内会①と②のどっちつかずだから、どっちにも認めてもらえないのだ」と思っていた。
両親も、まともに祭りに参加していなかった。住んでいる町内会①の祭りには、ろくに出ていなかったように思う。
一方で、祖父はみんなが担ぐだんじりの上に乗るという栄誉(と思われる)にあずかった事もあるくらい、祭りには毎年参加していた。その写真が、額縁に今も飾られている。
僕はそれを見ながら、誇らしい気持ちと共に、寂しく切ない気持ちになる。
一度だけ、祭りの日に友だちについて行って、違う町内会の休憩しているだんじりの太鼓をこっそり叩いた事がある。どうしても叩いてみたかったんだ。
みんなは練習しているから、カッコよく慣れた手つきで叩くし、どこでどんな風に叩いたら良いかも分かっているなか、僕だけがみっともなく不恰好な太鼓を叩いている。
その居心地の悪さは今でも覚えている。
自分の町内会でもない太鼓で、練習してもない腕で、太鼓を叩いているグロテスクさへの嫌悪感と
自分が欲しかったのは太鼓を叩く事ではなく、当たり前のように太鼓を叩くことを求められ、それを、当たり前に思う帰属意識だったのだとわかった失望。
幼かったので言葉にはできなかったけれど、「これは違うんだ」と、だんじりから降りてからジリジリと、違和感を感じていた。
……
その後、ありがたい事にお勉強ができた僕は、東京の困難な大学へ合格し、就職。
10年ちかくキャリアを積んで、いま長年の夢を叶え、働きたかった会社で働いている。
東京の暮らしは心地よかった、だって、ここでは本当に他所者なんだから。
名実ともに故郷であるはずのふるさとに、疎外感を感じながら居ることの方がつらいのだ。
………
こうして僕は、ついぞ大人になる過程の中で故郷という居場所を得ることはなかった。
いや、地元は好きだよ?でも僕の帰る場所じゃない。そんな思いが根強くある。
でもぼんやり思う…もし僕があの頃、本当の意味で太鼓を叩いていたなら、人生は変わっていただろうか?
いや、きっと何も変わらないのだろうけど。
でも老後の暮らしの選択肢に故郷がないのは、きっとこのせいだぜ。
おわり。
ただ1人、こんな淋しさを抱えて生きている僕という人間がいる、と自分を悲劇的に酔いながら書いただけの話だ。
何の薬にもならないだろう。
誰か知らないけど、読んでくれてありがとう。
社会人として意味がないからではなくて単純にオタクではないからだろ虚しいのは
ありとあらゆる趣味や分野と違ってアニメ・ゲーム・マンガだけは『視界に入れるだけでオタクを名乗れる』が
ありとあらゆる趣味や分野ではそれがオタクとは呼ばないし名乗らない
ただそれが悪いとは言ってない。弱者だから比喩抜きに死ぬこともあるので救いになることもあるだろう
もちろんネトウヨのように(つか兼ねていることが多い)これからも毎回毎回毎回毎回歴史をねつ造したり
仮初の帰属意識は持ってもいいけどポリコレで配慮されるべき属性の人間である自覚はあっていい
全然知識もこだわりもないけどアイドルグループ○○の△△オタです
当人も重篤なコミュニケーションのハンデキャップを抱えていなければ話題についていけないことを自覚して輪に加わらないと思う
けれどアニメ・マンガ・ゲームだけは何故か違って"知識もこだわりも求められない"
弱者の駆け込み寺になってる
この枠を無視してる作品は大人向けの限られた愛好者で消費される娯楽みたいな認識も作ろう