はてなキーワード: トップレスとは
たとえばヒンバ族とか
服を生産するコストよりも別の手段で皮膚を守る方がローコストだっただけだと思うよ
例に上げたヒンバ族ならオーカと呼ばれる赤土と牛の脂肪を混ぜて作ったもの身体中に塗り込み、紫外線や乾燥から皮膚を守ってるとかさ
特に理由はないのだが、最近の通勤時間で「ラーマーヤナ」を読んでいる。特にインドに旅行する予定はないのだが、しいて言えば大学時代の友人二人がインド哲学科出身だったからかもしれない。そういえば、冒頭のムスカの台詞では長母音の場所が間違っている、みたいな話にもなった。
それはさておき、「ラーマーヤナ」である。英雄ラーマが囚われの妻シーターを仲間の助けで救いに行く話で、要するに古代インドのスーパーマリオなわけだが、そこで出てくる美人の形容が興味深い。たとえば「美しく黒ずんだ肌」という表現が出てくる。美白という美意識はやはり時代や地域によっては必ずしも自明ではないのだ。
また、ほっそりした腰つきや豊かな乳房の美しさを表現する箇所もある。
「二つの乳房はそれぞれの先端がむっちりと盛り上がって魅力的で、つやのあるヤシの実のように美しく、最上の宝石の装飾品をつけて輝いている」
この個所を読んで僕は首を傾げた。ここまで乳房の美しさを形容するってことは、シーターは上半身裸だったのか? 実際、インドや東南アジアの神々の像では女性たちは上半身裸だ。以下はエローラの石窟の姿である。
しかし、近現代のインドの叙事詩を描いた絵画では、上半身を普通に覆っている。
シーター姫を攫ったラーヴァナが助けに来たジャータユを返り討ちにする図
それを見て思い出すのは手塚治虫の「ブッダ」だ。正直なところ、みんなおっぱい丸出しで小学生の頃はエッチすぎて読めなった記憶しかないのだけれど、それはさておいて、あれは歴史的に見て正しいのだろうか? それとも、単なる手塚治虫の性的空想だったのだろうか?
そういうわけで僕は「ancient india topless」と検索した。すると、肯定的な証言をするサイトが数多く引っかかった]。特に、英語版ウィキペディアのtoplessの説明がわかりやすかった。
In many parts of northern India before the Muslim conquest of India, women were topless. ……(中略)……Toplessness was the norm for women among several indigenous peoples of South India until the 19th or early 20th century……(以下略)
ムスリム征服以前のインドの多くの地域では、女性は上半身裸であった。……(中略)……上半身裸は19世紀や20世紀初頭の南インドの先住民の女性の間では普通のことであった……(以下略)。
そういうわけで、古代インドの女性はおっぱい丸出しだった。手塚治虫は変態だったかもしれないが、古代のインドの服飾史については、嘘をついていなかった。
また、「古代インド おっぱい」と日本語で検索すると、次のようなツイートが見つかった。
https://twitter.com/tenjikukitan/status/1093099586778853378
古代インドに詳しい方が日本語で情報発信をしてくださると、大変助かる。
よく、東洋を舞台とした作品でブラトップ同然の格好をした女性が出てくることがあり、しばしば批判されるのだが、これは実際には上半身裸だったのを攻めておっぱいだけは隠しておこう、という配慮だったのかもしれない。
実際、いわゆる熱帯地域だけではなく、古代のクレタ島でも乳房は見せていたし、それこそ以前記述したように、日本の海女さんもかつては上半身裸が普通であった。
ところで、英語版のウィキペディアを読んでいたら、気になる記述を見つけた。
The Breast Tax (Mulakkaram or mula-karam in Malayalam) was a tax imposed on the lower caste (Shudra) and untouchable (Dalit) Hindu women by the Kingdom of Tranvancore (in present-day Kerala state of India) if they wanted to cover their breasts in public, until 1924. ……The tax was evaluated by the tax collectors depending on the size of their breasts.
乳房税(ムラカラム)とは、現在の(南インド)ケーララ州で低カースト(シュードラ)と不可触選民(ダリット)に属するヒンドゥー教徒の女性が、公共の場で乳房を覆いたければ支払わなければならなかった税である。……税金を集める役人が女性の乳房の大きさによって額を決めていた。
なんとも非人道的で、正直なところ読んでいてかなりのショックを受けた。身体の大きさを申告・検査しなければならない恥ずかしさ、支払えなかった女性の苦痛、いかほどのものであっただろうか。個人的には野外露出系のポルノは大好きだが、これが強制されたものだとなると不快だ。裸とは恥ずかしいものではなく、人間が生まれながらにして持つ、何物にも束縛されない自由を意味する気持ちのいいものであってほしい。それにこれはフィクションではない。歴史的事実だ。
これについて日本語の資料が見つからないかどうか探したが、幸いにしてナショナルジオグラフィック誌の記事があった。
古代ローマにトイレ税、世界5つのヘンな税 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
乳房税が廃止された経緯もまたショッキングである。ある女性が収税に来た役人に抗議するため、乳房を切り落として見せたことがそのきっかけだ。言葉もない。ローマの公衆便所から税を取り立てたケチで名高いウェスパシアヌス帝が単に合理的でまともに思える。
そのナショナルジオグラフィック誌だが、2018年に同誌は人種差別的であったことを公式に謝罪した。国内の有色人種を無視していたし、外国の文化も過去の姿をやや好奇の念をもって眺めていた。そして、異民族の過去の姿である上半身裸をピックアップしすぎた、と。
とても誠実な姿勢だと思う。確かに異文化への関心は、はじめのうちは興味本位や小ネタから始まるかもしれないが、それだけで終わってしまってはもったいないし、現在の姿を誤解したままでは失礼だ。それに、欧米や日本がオリエントの人間を過度にセクシャルに表現してきた歴史があり、それを是正することはまったく正しい。
それは欺瞞だ。伝統的に上半身を見せる文化を改変するのは子どもたちに嘘を教えることになる。乳房を恥としない相手の価値観や服飾文化の破壊ではないか、という意見もあり、それももっともだと思う。とはいえ、今のところ乳房は隠すものがデファクトなグローバルスタンダードになってしまっている。歴史的正確さと表現のふさわしさと、これもまた正解のない問いである。
シーター姫のおっぱいが気になった僕もこの罪とは無縁ではない。今を生きる人々の人格と彼らの先祖の文化や伝統、どうすれば両方に敬意を払えるかを考える日々である。できる限り正確性に努め、通説が誤っていれば訂正をするように心がけているが、それでも異文化への関心が性的な好奇心とは無縁ではないことを意識しないではいられない。
今回は古代インドではトップレスが普通であったことを示した。また、乳房の隠蔽はキリスト教だけではなく、イスラームの影響もあることも明らかになった。
今後は、世界の中で乳房がどのような文脈を持っていたかを調べたい。例えばシチリアの聖アガタも乳房を切断され、かつては形の似ているパンや鐘の職人の守護聖人であったが、いまでは乳がんの守護聖人ともなっている。また、戦時中の日本を含め、多くのプロパガンダでは、乳房は母性の記号として国土の豊かさを意味してきたし、しばしば女性を母としての役割に閉じ込める役割も担ってきた。逆に、女性自身が抗議の意味で露出することもある。私の身体は私のもので、勝手に意味を担わせないで欲しいという奪還の意図もあるのだろう。
加えて、世界各地ではどのような形の乳房が理想とされてきたのか、その変遷もいつかはたどりたい。
実際、「ラーマーヤナ」ではほっそりした体を(乳房の重みで)曲げて、と形容されるターラーという猿の夫人がいる。今も残るインドの彫刻から判断すると、古代インドには細い腰とそれに対する豊かな乳房への明確な好みがあったのではないかと推測される。また、この彫刻の特徴は東南アジアにも受け継がれている。その辺が知りたいのである。
このあたりは西洋の絵画史からたどるのがいいかもしれないが、芸術が個人の自己表現となった時代以降は、画家自身の好みも反映されて難しい。
また、逆にトップレスが世界の標準であった可能性についても検討したい。すなわち、ユダヤ教、キリスト教、イスラームの広がっていない地域の服飾史について検討し、トップレスでいることの自由がどのように失われていったかについても調査したい。
仕事を休職することになり、1ヶ月ほどなにもしないでいたのだが暇になり女性向け風俗で働きはじめた。場所は東京以外の都市部。
昔から、自分が射精しなくても相手が気持ち良くなってくれることに満足感があり、「はじめてちゃんとイけた」と言ってもらえる子もいままでに数人いた(優しさからの言葉だったのかもしれないが)。
なにがしたいかな…?と考えたところ、気持ちよかったと伝えてもらったときの精神的な満足感がふと浮かび「女性向けの風俗などはあるのか…?」と調べてみたところ、びっくり。結構あるんですね。この時点まで女性向け風俗の存在は知らなかった。
「住んでる土地名+女性向け風俗」と調べ、Google検索でトップヒットする店の求人情報を調べたのだが、入店までに何度か研修があり、研修費として数万円をとることのこと。他のお店を調べても基本はこのスタイルになっている。
この時点で「研修費を名目に少しでも稼がないといけない業界なのか…?」と疑心暗鬼に。研修が不要だとは思わないが、女性に不快感を与えない容姿であるかを基準に面接をして、合格したひとだけに研修を行えばいいのではないかと思うが、こんなところでお金を稼いでいるのかと。。
いきなり研修費に数万円を溶かすのは嫌だったので、研修費がゼロのお店を選ぶ。
LINEでいくつかのテンプレの質問(年齢や身長体重など)に答え、面接の予約をする。ここまで数日。
面接は多分「こいつは最低限(容姿、コミュニケーションなどの面で)働けるのか」というチェックだけされる。「いつから働けますか?」ということになり、すぐに入店日が決まった。
入店日までに登録作業なるものを行う。自店のHPに入力した内容を、いわゆる普通の女性向け風俗の情報サイト(ぴゅあらばさんや、fuzoku.jpさんなどが有名)に加え、「kaikan」という女性向け風俗専門の情報サイトに流し込んでいく。「トップレス可」などの文字に「ああ、こういう世界に来たのか…」という気持ちになる。情報サイトには登録用のフォーマットがあり、基本的なプロフィールの他に可能プレイにチェックをつけていくのだが、「即尺」など、ち○ぽが付いている前提のものはスルーしていくのがシュールだった。風俗向けの情報サイトはこんなふうにできているのかとおもしろく登録作業を見させてもらった。
多分、女性向け風俗とのいちばんの違いは「フリーで入るお客さまがごくごく少数」なところなのではないかと思う。
女性向けの風俗を普段から楽しまれている方はTwitterアカウントを持っている方が多く、セラピスト(女性向け風俗ではたらく男性をこう呼ぶのだそう)とかなり高頻度でDMのやり取りをしているらしい。
先輩いわく、「ほとんどのお客さまはまずDMをしてから来る、フリーの人は全体の1割にいるかどうか」ということだった。
なので「Twitterの無差別フォローでフォロバからフォロワーを増やす→ツイキャスを行う→コメントをくださった方などにDMを送り指名ではいってもらう」というのが女風の鉄板コースらしい。
恥ずかしながら入店1日目ではお客さまにあたることができず、どんな人が利用しているかなどはまだわからないのだが、働いている子はすごくいい子が多いという印象。
ホスト業界とかも恐らくこんなもんなんだろうと思い至った。日々のコミュニケーションから、お客さま候補の寂しさみたいなものを慰めて指名につなげる…。
男性向け風俗は、自身の経験から「ヌきたい→情報サイトで好みの子を検索(もしくはフリーではいる)→予約」というのが多いのかと想像していたが、女風ではまったくそうではない。
もちろん男性向け風俗でも、心がこもった接客をし固定客をつかまえる必要はあるのだと思うが、女風の世界はあまりにそこにウェイトがおかれているのがキツい。あまりおおっぴらには語られないことだが、自分のように、もう女の子とウェットなめんどくさい関係性になるのはしんどいので風俗を利用する、お金を払うのだからその時間は楽しませてねといったニーズの女性版を想像していたのだが、まったく違う世界だった。
入店して1日目なので、もしかしたらちょっとした自分へのご褒美や、男性的な割り切ったニーズで女風を使う方もいるのかもしれないが、いかんせん大部分がそうではないお客さまのようだ。
もちろんお店によって客層は違うのかもしれないが、他店のセラピストさんを見ていても大体の方がTwitterに力を入れている様子で「あれ、ちょっと思ってたのと違うな…?」と感じている。
ぼく自身はキャバクラなどは自分のお金ではほとんどいかないのだが、風俗はドライにその時間を楽しむという感覚で時々利用する(といっても、半年に一度ぐらいだが)。
限られた時間で、お互いの目的が分かっておりサービス化されたものをお金を払い受け取るというのは楽だ。資本主義の恩恵。
自分の力で最初から最後までつくりたい!というものはサービス化されてないところから取り組むべきだと思っているのだが、自分にとって射精はそこまで強い思い入れはない行為だった。
安直に「だれかと一緒にいたい」「出張中なので少しご褒美するか」といったニーズで、女風をつかうお客さまが増えればいいのになあと思いながら帰宅したのだが、そのような女性は一般的ではないのかもしれない。
結婚しない女性も増えていて、全体の所得も上がっているし、全員というふうにはもちろん思っていないが、もう少しドライに、気軽に女性向けの風俗が使われてもおかしくない条件はマクロ的には揃っているのだと思うのだが、これはぼくの感覚がおかしいのだろうか。女性への理解が足りていないんだろうか。それとも「女性向けの風俗」ということ自体の認知度が低すぎるのだろうか。
もし男性向け風俗で働いている女の子がみんなこのような努力をしているのだとしたら、すごい。もともとこの業界には偏見がなく、むしろ尊敬に近い気持ちがあったのだが、もしそんな苦労まで抱えているのだとしたらより尊敬が増す。
他人に迷惑をかけるつもりなどさらさらないが、全裸になるのが好きなので、オーシャンビューとか山の中の露天風呂とかが大好きだ。その好きが高じて、オーストリアの混浴サウナにまで行ったことがある。そこには25メートルほどのプールがあり、遠慮なく裸で泳ぐことができて大変気持ちがよかった。サウナと往復しながらだとそれこそ整うわけだが、こういう場所が日本にないのは残念だ。何も混浴にしろとは言わないので、素っ裸で泳げる広いプールはないだろうか。
さて、昨日(anond:20200907075225)の続き、競泳水着についてである。
以下の歴史は、wikipedia英語版の「History of Swimming」や「History of Swimwear」の拾い読みによる。
有史以前から人間は泳いできたが、大抵の場合全裸であった。ローマ時代にはビキニのようなものを身にまとった女性の壁画が残されているが(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/27/PiazzaArmerina-Mosaik-Bikini.jpg)、これが水泳に用いられたという証拠はない(この古代ローマのビキニには漫画「テルマエ・ロマエ」からも言及があった)。つまり、絵画の水浴図で誰もが全裸なのは、西洋の画家の猥褻な妄想ではない。
水着の歴史は、海水浴と入浴着との歴史が密接に絡み合っている。17世紀の終わりから欧州では公衆浴場で女性がガウン上のものを身に着けるようになったが、男性が裸で泳ぐことはしばらくは当然のことであった(河出文庫のシャーロック・ホームズ「ライオンのたてがみ」の注釈には、このシーンで登場人物は全裸で泳いだと思われる、とある。また、E. M. フォースターのどの作品だったか忘れたが、全裸で泳いでいる男性に悲鳴を上げる女性が出てくるシーンがある。「眺めのいい部屋」だったっけ? また、時代をさかのぼれば「デカメロン」で女性陣が男性陣の目を盗んで裸で泳ぐ場面がある)。
ところが1860年代にイングランドでは男性でも裸で泳ぐことが禁じられた。しかし、身体を見せることを極端に禁じたヴィクトリア朝の反動だろうか、それ以来、全身を覆う水着から現代のビキニへと、肌を見せる方向に回帰しているし、ビーチによってはトップレスが許容されている(親が持っていた海外の観光案内に、トップレスの女性の写真があって、面食らった覚えがある)。いまでも、ヌーディズムが盛んなドイツ・オーストリアなどの中欧では、裸で泳げる場所は少なくない。結局のところ、素っ裸が気持ちいのではないだろうか。
また、一部のスポーツ施設では、男性が全裸で泳ぐことを学ぶことは珍しいものではなかった。昔のYMCAがそうだったらしい。また、驚いたことに、wikipediaの「naked swimming」の項目には、1900年頃に男の子が裸、女の子が着衣で泳いでいる写真がある。こういう日本のCFNM系エロ同人みたいな状況が現実のものだったとは、驚きである(リンクを直接貼るのはなんかまずそうなので割愛)。
なお、女性の水泳の普及が遅れたのは、恥じらいとは別に、生理時の衛生管理の問題もあったそうである。
ところで、意外なのが川や湖ではなく、海で泳ぐ習慣は比較的最近のもので、17世紀ごろからのものだそうだ。海洋国家イギリスの娯楽としての海水浴の歴史は、意外に浅いのだ。また、人が速く泳ぐようになった時期というのも驚くほど遅い。たとえば、1870年代にアマチュアによる世界記録が打ち立てられたのだが、1878年に自由形100ヤードは、なんと76.45秒であった。ちなみに、マシュー・ウェッブ大尉がイギリス海峡を泳いで横断したのもおおよそこのころだ(1875年)。古式泳法もそうだろうが、おそらく速く泳ぐことよりも、長く泳ぐことや、戦場での実用性が重んじられていたのだろう。
この時期はVictorian Sports Maniaと呼ばれる時期で、水泳は数十年にわたって英国が世界をリードする国家的運動となったそうである。このあたりはジョン・サザーランドの英文学史の本にも載っている。
海水浴で使う水着とはまた別の歴史をたどったのが競泳水着である。
https://www.glamour.com/story/the-evolution-of-olympic-swimwear
上記の記事によれば、女性がオリンピックで泳ぐことを許されるようになったのは1912年のストックホルムでのこと。競泳水着の歴史は、ここから語られるべきだろう。
初めの競泳水着は絹でできていたそうだ。また、太ももの露出は少しずつ増えて行ったが、1928年頃まではあまり下着らしく見えないように、下半身が少し膨らんでスカート状になっていたそうである。
ナイロン製になったのは1964年で、1976年頃に少しずつハイレグっぽくなりはじめる。
1984年になると、どういうわけか突如かなりのハイレグになる。男性の水着の面積が極小となったのもおおよそこの頃だし、日本でも時期的にハイレグ水着の流行したバブルと被る。クレヨンしんちゃんのハイグレ、懐かしい。で、話題を戻すと、以前の記事に書いたような女性スポーツウエアのハイレグ化の時期(60年代)とは、若干ずれていることがわかる。しかし、肌を見せることによるスピードアップには限界が見られた。
そんななか、2000年代に一気に普及したのがスピードのボディスーツだ。今はこれが主流だ。簡単に言えば、水の抵抗を減らすために、大きな渦を減らし、小さな渦を作るそうだが、層流とか乱流とかその辺のややこしい話になりそうなので、省く。
つげ義春の「コマツ岬の生活」にはふんどし姿の海女さんが出てくる。これは能登地方のサイジと呼ばれるふんどしの一種らしく、この地域では1960年代前半までこの姿であった(これも写真があるが、今までのスポーツウエアと違って乳房の露出があるのでリンクは控える)。エッチなマンガの読みすぎか、日活ロマンポルノの影響か、なんとなく海女さんといえば、ふんどしというイメージがある。「海女(あま)のいる風景」という写真集の表紙もそうだ。しかし、浮世絵を見てみるとほとんどが腰巻である。私も、太田記念美術館で見たことがある。
https://www.ijikasou.com/monthly/2016/06/
https://www.pinterest.jp/pin/309481805630462018/
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9d/Yoshitoshi-Ariwara_no_Yukihira.jpg
これは恐らく、磯ナカネと呼ばれる別種の木綿の布である。江戸時代のこと、おそらく江戸湾近辺では海女さんはふんどしではなく、この格好だったのだろうと推察される。
昭和時代、中にはレオタードをまとって漁をする人々もいたという。というか、今でもいるそうだ。レオタードの中に海産物をしまうことで、取りすぎることを防ぐそうである。
http://www.chie-project.jp/001/no15.html
たぶん、女性のふんどしの使用は、生理用品としてのみに限られたのではあるまいか。団鬼六作品をはじめとしたイメージから来ているかもしれないが、SMは不勉強なもので詳しくない。そのうち調べるかもしれない。
考えてみれば、自分はふんどしについてそこまで詳しいわけではなかった。女性用の下着としてふんどしがどれほど用いられてきたか、あるいはそもそもふんどしとはどのような下着であったのか、その歴史についていずれ調べてみたい。
・巨乳を売りにしているついったらー
とかだしな。いや彼女らもフェミニストなのだろうけれど、アンチフェミは下半身に正直すぎる。恥ずかしくないのかと
理性と吟二を持てよ。アンチフェミならきっちり↑みたいのも反対しろよ。何自分がちょっとうれしくなっちゃうようなフェミの主張には迎合してるんだよ。アンチフェミとしての誇りはないのか。ないか。ないなそんなもの
そもそも「フェミニスト」って言葉自体、「アニメを批判したやつ」あるいは単に「気に食わないことを言う女」くらいの意味で使われて定義が無限に拡散している中で、「お前らはフェミニストだ。定義は特段決めていないが、なんとなくネット上で”俺たち”がフェミニスト認定したやつはフェミニストだ。フェミニスト認定されたお前たちはネット全域に渡って思想や主張を一致させろ」って無茶苦茶ではないか。
例えばフェミニストを自称する団体Aがいて、その団体の明確な構成員として活動しているaがおかしなことを言ったとき、団体Aに対してaを批判するよう求めることはできるだろうけれど、多くの場合そうではない。
思想的にも主張的にも関連性がない、そもそもフェミニストを自称してもいないネット上のひとつのつぶやきを拾ってきて、「フェミニストがこんな事を言ったぞ!さぁ全世界のフェミニストのみなさん、こいつを批判しないとあなた達はダメダメですよ」みたいなことを言われても、まずフェミニストの定義を明らかにしないことには何もリアクションできないでしょう。逮捕されたオタクなり表現の自由戦士を持ってきて「これだから表現の自由戦士は犯罪者予備軍」とか宣う輩と程度的に変わらない。
一口にフェミニストといってもパワハラセクハラマミートラック育休的なビジネスサイドの面もあれば緊急避妊薬がどうのとか風俗に従事する自由とかトップレスとか性に関することまで様々。それを十把一絡げにして全体で統一させないと嘘だって支離滅裂やぞ。
【追記】
「お前らはオタクだ。定義は特段決めていないが、なんとなくネット上で”俺たち”がオタク認定したやつはオタクだ。オタク認定されたお前たちはネット全域に渡って思想や主張を一致させろ。ついでに死ね」
これは誰を想定した発言?フェミニスト?フェミニストがオタクに対してネット全域に渡って思想や主張の一致を求めたり、そこから外れたオタクについてオタクの中で総括するよう求めている?そういう事実があった?それともあなたがそう思っているだけ?
他人を殴る時は十把一絡げに属性で殴り、自分達が攻撃されたら「一人一派」の印籠で関係ないと切断処理して知らんふりするからおかしいと言われるわけだけど散々言われてようやく自分達の支離滅裂さに気づいたのか
・そいつはフェミニストだと思う(あるいはフェミニストだと自称していた)
・なので俺たちはネット上すべてのフェミニストを十把一絡げに殴ってよい
一人一派は個々の思想の指向性が矛盾しても免罪符として機能し、フェミニズム内で矛盾も誤謬も詭弁も暴走も黙認される。つまり何でもあり。思想運動として問題がある。フェミニズムは一度解体されるべきと思う。
ネット上全域に渡って教条・思想が完全に一致した思想運動を寡聞にして存じ上げないのですが、そうした思想運動があるのですか。通常、ネット上の運動はゆるやかな連帯を以て進行するものと思いますが。
また、「アンチフェミニズム」や「表現の自由派」などがフェミニストに教条・思想の一致を求めるのであれば、同じく思想運動であるアンチフェミニズムや表現の自由派もネット上で構成員間の思想を完全に一致させる必要が生じますが、そんなん無理じゃないですか?
フェミニストを自称する人が一人一派なんて語るのはおかしいよ。本文で言うように他人が勝手にフェミニストと名付けて矛盾をあげつらうのももちろんおかしいよ。タイトルと本文の間に繋がりが見えないんだが何なの。
オタクの中にもガンダムオタクプリキュアオタクゲームオタク、ゲームの中でもRPGオタクFPSオタクと、単にオタクといっても中身は多様。しかしオタクであるという一点では共通し、ゆるく連帯もしている
フェミニズムも同様で、人類の半分の女性全般の権利を取り扱う運動なのだから主義主張が人によって異なり細分化されていくのは至極当たり前。で、イシューごとに必要に応じてKutooとかで連帯して成果を出しているわけでしょう。何も問題がない。
・自分の観測範囲ではそもそも「フェミニストを自称しつつ一人一派と主張する人」を殆ど見かけない
・むしろフェミニストは一人一派と言っているのは「アンチフェミ」の方
・またフェミニストを自称しつつ一人一派を主張する人がいたとして、それはフェミニスト思想全体への批判に繋げられるほど一般化された主張なのか?
・アカデミアの世界でも〇〇派、✗✗派といった主張の派閥が存在するのだから、ゆるく活動しているネット上のフェミニストが「一人一派」になることも自然ではないか?何が問題なのか
・逆に、一人一派を批判している思想集団である「アンチフェミ」なり「表現の自由派」はネット全域で思想を一致させているのか?NOならばアンチフェミや表現の自由派も一人一派なのだし、それでよいのでは?
【追記2】
「フェミニズムが運動や学問として成立するわけがない」とか評している人もよくわからないな。
事実として、MetooとかKutooとかは世界的なムーブメントとして成功してるじゃん。どう評価するとかじゃなくて、もう事実としてうまくいってるじゃんフェミニズム。
すでに運動としてバリバリ成功しているものに対して「運動として成立しない」とコメントする意図がわからない。私含め、ネットで書き込みしているだけの皆々様と違って、フェミニストはネットで活動した上で現実社会での成果にも繋げてるじゃん。そこは直視したうえで批判しようや
【追記3】
“むしろフェミニストは一人一派と言っているのは「アンチフェミ」の方”→追記でこいつが書いてる。この記事のタイトルと見比べろよ。一人一派で何が悪いの返しが、アンチが勝手に言ってるだけって。糞バカ以下だ
トラバでも触れたけれど
・フェミニストの中で明示的に「一人一派」理論を採用している人は少ない。一人一派との指摘を行っているのはアンチフェミニストが主である
・それはそれとして仮に(社会運動としての)フェミニストが一人一派であっても何が悪いのか
って矛盾なく成立するし、引用いただいた箇所の直後に「フェミニストが一人一派になることも自然ではないか」と明示的に書いてもいるのだから「アンチが勝手に言っているだけ」との理解は明らかな誤読ですね。文意を断ち切って部分的に引用するのはやめましょう。
攻撃してこないなら何でもいいよ 攻撃してくるやつが同じ看板掲げてるクセに土俵ころころ変えるのがダメなんだよ 考え方に対して対抗も出来んじゃないか 何で学者ですら一定の統一ルール持ってないんだ
この認知も本当にわからない。ネット上で「攻撃してくるやつ」はみな統一された主張を持っていないといけないと言っている?
フェミニストの側がフェミニストと自称して同じ看板を掲げているというより、アンチの側が攻撃してくるやつのことを勝手にフェミニスト認定しているパターンの方が多くないか?「攻撃してくるやつ」程度の認識で多数の相手を一纏めにフェミニスト認定しているのだから、相手方の主張が都度異なるのも同然では?
それとも悪の秘密結社が作り上げた恐怖の洗脳統合思念体フェミニストみたいな存在がいて、フェミニストっぽいことをしているからにはその思想や教義は全国で統一されているはずだ、されていなければおかしいと思っている?
【追記4】
世界を変えたいと望むならば、思想を推し進めた先にある「理想的な未来像」がどんなものなのかは示して欲しいんですよね。先に地獄しか見えないケースが多くて困ってます。
言っていることはわかるけれど、ふつーのフェミニストって「女性差別をやめて男女平等にしましょう」くらいのゆるい連帯であるし、その集まりで全世界単位でコンセンサスを取ってゴールはここですって設定するの物理的に無理だと思うんですよね。そもそものイシュー設定が巨大すぎるから。だからそのイシューをブレイクダウンして、ハイヒール辞めましょうとか医学部で女性と多浪を受験料だけきっちり取りつつ裏で差別して不合格にするのやめましょうとか、問題の具体化と短中期的なマイルストーンの設定が都度行えていればそれで良いと思っています。
おかしいというか、共食いを防ぐための内向きの言葉であって外側に向けて言っても意味がないのでは?同じ看板掲げて暴れまわる人たちが現れたことは気の毒に思ってる。結構そこらじゅうで起きてる問題だし。
PCR検査いるいらないみたいな科学分野でさえ専門家の間で派閥ができて混乱していたわけだから、同じく全世界的に現在進行系で動いている社会を舞台にしたフェミニズム活動で活動員全員の主義主張を統一するのなんて無理じゃね?おかしくね?と思っている次第。一人一派だから一切全体を批判するなと言っているのではなく、その性質ゆえ必然的に一人一派な状態になっているのだから、その事自体を批判するのは酷ではないか、と考えます。
右翼にだって安倍やめろと思ってる人がいくらでもいるだろうし、オタクなんてフェミと兼任の人もいるし、たいていの思想が普通は一人一派状態では? フェミにだけ教条的な意見の一致を求めるのはおかしいじゃん。
たしかに。アカデミアのフェミニズム界隈に一人一派の主張があるが、扱う問題の性質上、違和感はない
「フェミの一人一派」を問題と思えない奴らが、なぜか「オタク」とか「ネトウヨ」とか「ジャップ」とか「アンチフェミ」等とレッテルを貼って、一人一派は認めずその属性を理由に問答無用で殴ってくるの笑うしか無い
オタクは犯罪者、とかも当然ダメなんじゃない?ただこんな感じで
・なのでフェミニズムなる思想においてはオタクは全員犯罪者だと言っているに等しい。ああなんてフェミニストは悪い奴らなんだ
みたいな主張が理解できないというだけ。変なこと言ってる個人か、それを明確に支持している集団だけ批判すればよくね?というかそれ以外は論理的に批判不可能じゃね?
おかしなフェミニスト(あるいはフェミニスト認定されただけのただのおかしな人)の発言ひとつで、アカデミアのフェミニズムまで含めて批判するのは理路が通らない
通信制だが時には通学も必要で、地方から東京にわざわざ数日間通った。
当時ホテルの相場や東京の地理がわからなかった僕は、五反田の安ホテルに泊まった。
これはダウンタウンの松ちゃんが結婚した時の浜ちゃんのコメントで知っていた。
そしてこう思った。
せっかく一人で風俗街に泊まっているんだ。
直接店に行くのは怖かった。
王将でご飯を食べ、普段あまり飲まないビールを飲み、景気をつける。
思っていたよりずっと丁寧な対応。
思っていたよりずっと親身な対応。
確か指名なしでお願いをした。
今泊まってるホテルは門限ありの上、密会厳禁らしく、わざわざラブホテルを利用する。
お金が足りなかった。
焦ってコンビニへ走る。
幸いATMはまだやっていた。
本当にありがたい。
無敵感が凄かった。
そして、AVでしかみたことのないバスタブとガラス張りの浴室(後にこのホテルの設備がやたら良かったことを知る)、豪華なアメニティ。
ラブホテルってすげえ。
20分くらい待っただろうか。
嬢がやってきた。
だから僕は期待していなかった。
どんな太ったおばさんが来ても受け入れるつもりだった。
それくらいムラムラしていた。
でも、そこに現れたのは。
顔が地元で出会ったどんな人より綺麗。茶髪ボブが良く似合う。パーツが小さい。
背は160cmとドストライクで最高。
目が合うと笑ってしまう。
いっしょにシャワーを浴びた。
こんな綺麗な女性の手が僕の身体を、あそこを泡をつけて触っている。
そんな事実が信じられなかった。
そして身体を拭き拭きしてもらい、ベッドへ。
お姉さんはベビードールとトップレス、どっちが良いか聞いてくれた。
僕は半分遠慮してベビードールにした。
この店は今も贔屓にしてるが、この時以外ベビードールなんて提案されたことがない。
今思えばGJであった。
いよいよマッサージ。
それだけで僕はビクビク感じてしまう。
擦れるお姉さんの髪の毛もくすぐったくてたまらない。
お姉さんの細くて白くて綺麗な太腿に顔を埋めマッサージを受けたり、四つん這いにされ秘部をいじられたり。
それが終わって仰向け。
頭の中がはじけた。
こんな気持ち良いことがこの世にあるのか。
そう思った。
そして乳首舐め手コキで締め。
おさわりもキスもしなかったけど、それでも僕は幸福感で満たされていた。
帰りのエレベーター、遠慮してお姉さんと距離をとっていると、お姉さんから強引に手を繋いでくれた。
あぁ…こんなん彼女やん…お姉さん大好き。
多分ギリ年下かもしれないけど。
こうして初めての風俗は大満足の結果で終わり、ホテルの門限ギリギリになった僕は、急いで五反田を駆け抜けた。
泊まったホテルの受付の怖いあんちゃん店員も、この時だけは可愛い子供に見えた。
その一月後。
デリヘルに味をしめた僕は地元の繁華街に宿泊した際、デリヘルを呼ぶことにした。
そして部屋に現れたのは…
風俗は都会で遊ぼう。
ちゃんと高い店行こう。
薄々思ってたけどマジで一部のフェミって自他境界薄いんだな。自分がしたくない・しないことと他人に禁止することがごっちゃになってる。
別にお前が強調しなくてもいいけど他人がしてるのをわざわざバッシングするな。
これ、半分くらい皮肉で言われてるってわかってなさそう。
さんざんPersonal Is Politicalとか言ってきたんだからそりゃ「外見や年収で人の価値が決まるわけじゃないよ。まあ私は金持ちイケメンを選ぶけど!」なんてのが個人の自由として通用するわけないだろ、それはpoliticalじゃねーのかよ、ってツッコまれるわな。
「女性も社会進出していくのはいいことだし、性の自己決定権はあるべきだし、年齢で差別されるべきじゃないよ。まあ俺は若い処女と結婚して専業主婦になってもらうけど!」っていう男がいたらどう思う? って話ねw
まあそれは個人の自由でしょというのはその通りで別に批判されるいわれはないけど、同じ口で二度と「個人的なことは政治的なこと(キリッ」とか言ってんじゃねーよっていう。
四六時中フェミニズムを叩くからには、おそらくアンチフェミの中には「フェミニズム・リベラルはかくあるべき」といった理想像があると思うのだけれど、それって具体的にどんな思想?
・ブサイクで低年収な男性、キモカネおじさんと積極的に付き合う。ただし美人限定
・セクハラを訴えない。逆に自分の魅力を評価されていると考える
・kutooもウザいので訴えない
・医学部受験で合格点に達していても女性というだけで落とされるのも仕方ないことなので、訴えない
・女性の地位向上についての訴えを行うとキモカネおじさんをはじめ男性が嫌な想いをするので、そういうことは一切しない
・むしろこの世界で一番かわいそうなのはキモカネおじさんやその他の男性なので、フェミニストはその人たちのために活動する
# でも去年炎上した秋葉原の看板はアンチフェミ的もアウトらしい。線引きが謎 (https://twitter.com/milkfactory_/status/1190189530449473536?s=20)
・Twitterでフェミっぽい発言をしている人がいたら、togetterにまとめて晒し上げて垢消しあるいは自殺まで追い込む
・おかしい発言をしている女がいたらそいつをフェミニストと認定して、その女がおかしな発言をした責任を全フェミニストが取るべきとして徹底的に叩く
・逆に、犯罪・その他おかしい発言した男性/アンチフェミがいても、それはそいつ個人の問題なので、男性全体/アンチフェミクラスタ全体を責めるようなことはしない
男の胸に男は性を感じない人が多いけど、女の胸には女も性を感じる。
女性:男性 の sexy point が 2:1 の対応なので、男は股間に言及するしかないんだろ。
それを女は不公平だと騒ぐ。
性ってば、子孫へと世代を繋げるための大事な要素で、でも普段から意識する必要性は低いし、おおやけにするものでもない。
子を産み育てるには、女の2つの sexy point が必要なのだ。
男が普遍的に自分のおっぱいをあげることは、どうやったって無理なのだ。
だから女は女を隠せと言う。
一方で、乳首を隠さなければならないのは女性の人権侵害であると言う。
ポール・ハギンズ監督による映画『クラッシュ』という秀逸な映画がある。アカデミー賞を取っている。
人種の坩堝であるアメリカにおいては、日常様々なところで人種差別があるのは当たり前の日常になっていて、差別する方もしたくない方も疲れ果てている。しかし一旦大変なことが起こると、人種の壁など一瞬で超えることが私たちは出来るじゃないか。という主張の映画である。もう私はこの映画に感動しまくって、涙が止まらなかった記憶がある。批判もあった。そうはいっても差別をなくさなければならないのだから、この映画のように差別なんかどうでもいいじゃないか、という主張なのでは問題解決にもならない、など。
どちらの意見も整合的ではあるとは思った。が、どっしにしろ、私たち人間は協力しないとこの世界では生きてはいけないという、赤裸々な真実はあって、目をそらしていいわけではないのである。どちらの意味においても、である。
さて、フェミニズムの話題として、最近はあの石川優実さんによる#KuToo が話題をかっさらっている感がある。華やかな表舞台では#KuTooは石川優実さんとともに世界的に評価されつつも、その裏側では石川優実氏のあまりに矛盾した態度とそれをよく表した#KuToo本(靴から考える本気のフェミニズム)に対する猛烈な批判である。
私が気になったのは、どちらが正しいかなのではなく、どうしてそんなに極端に矛盾した状態になっているのか? であった。これは一旦はいってみる価値があるのではないかと、フェミニスト側の立場の仮面を被ってTwitter上で観測を始めた。
こうした問題は、双方の目を持たないと、実はその真相が見えてこないのである。実はこれ、全くの単純な考え方であり、例えば子供二人が喧嘩していた時、仲裁に入る人はどちらの目線にも立つはずであろう。別に仲裁したかったわけではないが、一方の側にばかり視点を偏重させると結局、人はため息か悪態をつく以外になくなってしまうのである。その視点を私に与えたのが、昔見た映画の冒頭の「クラッシュ」だった。
で、どうだったか。
結論を言おう。
#KuTooはそんなこと無関係に大いに役に立っている、それは間違い無いという単純な事実が一つある。石川優実さんがいう通り、少しずつ労働現場では強制がなくっていているなどということの他に、安倍首相と共産党小池氏が、日々国会で厳しく論戦を繰り広げていたのに、#KuTooの話で、小池氏が安倍首相の言質をとって、一時予算委員会が拍手と笑いに包まれたという名シーンである。あんな和やかなシーンはあまり見たことがない。
だが、一方で、KuToo本は最悪の駄本である。あんな酷い本もない。たとえ敵側の人たちをクソリプする人達と罵ろうとも、やってはいけないことのオンパレードで、現代書館までその人たちをなんの根拠もなく犯罪者呼ばわりするのである。やってはいけない改竄・捏造・酷い引用の仕方、到底倫理観のかけらもない行為としか思えないものである。裁判になりそうなので、そうなったらコテンパンにやられて欲しい。
そして、石川優実氏は相変わらずで、クソリプ攻撃応酬に疲れ果てたのか、とうとう「死にたい」とまでTwitter上で公言する有様。それをみる味方側も誰も批判しないという異常な光景、私はもはやこれはただ事ではないとしか思えなかった。
死にたい、と公言したのは、いわゆる死ぬ死ぬ詐欺である。あのねぇ、石川さん、それ女の弱さを利用する、フェミニズムに最も反する行為じゃないか。信じがたい暴挙である。
そして彼女はすぐさま、ハングルで韓国に応援要請(これは彼女が心を落ち着ける以外の目的はないと推測)、英語で同様にTweet拡散。あまりにもこれは自己本位であり、あんなのを許す味方も含め、頭おかしいとしか思えない様相。
私はその時点ではまだよくわかっていなかったが、何れにせよ、#KuTooを崩壊させかねない、愚行そのものであった。
どうしてそこまでに至ったのかについては、理由は簡単である。「怒り」に任せたからである。KuToo本ではっきりそう言っている。彼女の原体験は、彼氏にブチ切れて彼氏に女の苦労を認めさせた、そこにあるからだ。
だから怒りは一番正当であり、怒ってさえいたらなんとかなる、と。しかしそれは、あまりにも無知であり、彼女が受けたMeToo被害だって、失礼だけど有り体に言って無知だったからに他ならない。もちろん男が悪いのではあるが。
宇崎ちゃん騒動や、ラブライブ騒動も実は全てそれで、あまりに「怒り」に任せすぎるのである。
何故なのか。
それはもう、はっきりしている、女性差別が現に存在するからである。彼女は無知ながらも自分一人で「女性だけがどうしてハイヒールを履かねばならないのか」を発見できたのも、女性差別が現に存在するからである。そうした認知がなければ彼女は静々「ルールだから仕方がない」と大人風に冷淡にただ納得していただけであろう。
結局は、怒りに任せないと、理解させる方法がないのだ。少年ブレンダさんも、怒る以外に方法がない。どうしてもわかってもらえない。
ーーー追記
他にも女性差別に関し様々な怒りの声が世界で沸き起こっている。真っ先に思いつくのは前述した#MeTooでもある。
あるいは視点を変えて女性教育の重要性を主張するマララさんであったり、アメリカで女性もトップレスでも良いじゃないかと主張して上半身露出でデモを行う人たちもそうであろう。多くの女性差別への怒りに対する声はもう止められない。
それでもなかなかそれら勢力と反対側にいる人たちは理解しないのだ。
もちろん現実には共感して支持する人もいるにはいるが、それらは彼女達女性が「怒る」のは差別の大きな枠組みとして「女性差別」があると言うことをどうにか認めてほしいと言う切なる願いに他ならないとしか思えないのである。
本当に理解の壁というのは高過ぎて絶句するほどに思えることすらあった。
ーーーー
彼女たちに怒る理由は十分すぎるほどある。それは決して「あなたたちそんなに怒るな」なんて到底言えるレベルの話ではない。差別とは何か、もう一度原点に戻って考えるべきではあるが、冷めた目で事態をを見つめるのは、例えばブコメなどで、適当な意見をいう程度で済ませるのは、関心を持つのであれば、できたらやめて欲しい。
言論の自由はある。
私だって、そうした問題を見つけられたのははてブコメントやTwitterなどで、騒ぎになって可視化されたからそれは否定しない。
だけど、そうした悲しいフェミニズムの持つ現実、女性差別があるというのを少しでもいいから、どうしてもわかって欲しい。
ここ数年、ブラック校則が話題になっているが毎日新聞の記事に『中学校でどのような校則があったか』の年代別グラフがある。
こちらのグラフでは特に『帰宅途中の買い食い』『スカートの長さ』などの校則について、今(正確には2018年)の20台~30台で一度は緩和されたことが見て取れる。
つまり、毎日新聞の記事にあるような『昔より今が厳しく』という一直線の構図ではなく、昭和から平成へと移った1990年頃に“管理教育”への批判とそれに後押しされた校則を巡る人権救済案件や裁判があり、
その影響で1990年代後半~2010年頃には校則の緩和が行われていて、その揺り戻しが最近になって再び出てきているというのが正しい実態なのではないか。
そして、ちょうどその頃の『1990年版ブラック校則』をめぐる案件に関わった話をたまたま本で読んだので書いてみよう。
ちなみにその本とは、伊藤芳朗(弁護士)著・『ボクが弁護士になった理由』という本だ。
著者は「この事件と前後して綾瀬女子高生コンクリート詰め殺害事件があった」と書いているから時期はだいたい想像できる。内容については少し長くなるが以下に引用する。
この事件は、当時問題になっていた管理教育の最たるものでした。まず、登下校時には、100メートル置きに教師が立って服装、髪型、歩き方などをチェックする。もちろん決められたルート以外の道を通るのは許されない。
山手線の駅に近いため、駅には教師が変装してスパイ活動をしている。髪型は三種類に決められており、おかっぱ頭可、中くらいか、長いかだけ。中くらいの時は黒のゴムで2つに縛らなければならず、長い髪は三つ編みにしなければならない。
もちろんワンレンとかポニーテールは不可。パーマや毛染め、脱色はもってのほか(即退学)。しかも、三種類の髪型を変える時は教師の許可が必要。
また、下着の色が決められていて、肌色か白でないとダメ。ピンクは不可。そのため、全校一斉の抜き打ち検査が度々あり、全校生徒が体育館に集められ、男性教師が並ぶなか、一人ひとり服をめくられてチェックされる。
もし決まった色の下着を着ていなかったり、夏の暑い時にスリップを着用していなかったりすると、壇上に上げられて教師たちから「この子たちは娼婦です」と罵倒され、笑いものにされる。(中略)
体罰は横行し、女生徒も平気で教師から下腹を膝蹴りされる。顔を殴るのは当たり前。言葉による暴力も凄まじい。(上掲書。p.224-226)
平成の初めの時期ですらこのような管理教育があったという。このケースでは、中退した元生徒を申立人として弁護士会に人権救済を申し立て、最終的には校則・制服の全面改訂で妥結したそうである。
前者のパーマ事件があり、報道されたことを受けて別の生徒が『自分もこのような理不尽な退学処分を受けた』と訴えてきたのが後者であり、著者が主に関わったのは後者であったらしい。
男子生徒はS高校在学中にバイクに興味を持ち、免許を取得してときどきバイクに乗っていました。その後、先輩が事故死したことをきっかけに男子生徒はバイクに乗るのを止め、自主的にバイクの免許証を担任に預けていたのですが、元来メカいじりが好きな男子生徒は他人のバイクの修理などを自宅で行っていました。そのような経緯から男子生徒は今でもバイクに乗っているのではないかという疑惑が持たれ、免許証を預けていたなどの態度も一切考慮されず、弁解をする機会も与えられないまま退学願いを出すよう強要され、これを断ると退学処分を行ってきたというものです。(上掲書。p.241-242)
最近は見直されつつあるというバイク関係、いわゆる「3ない運動」を厳しく実施することに関する事件だったのだろう。そして
最初は学校側と復学交渉しましたが、あまりに学校側の弁護士(元検察官)の態度が悪いので(元生徒)本人が怒りだし、ボクたちも頭に来たので、たぶん全国でも初めてだったと思いますが、裁判所に申し立てて、学校に残っていた職員会議録や元生徒の生徒指導要録を証拠保全(裁判が始まる前に相手方が持っている重要な証拠を押さえてしまうこと。医療過誤訴訟でカルテの書き換えを防止するため行うことが多い)したのです。(中略)これも全国初だと思いますが、校則を正面から争った裁判で、生徒側が勝訴したのです。
という結果となった。
ボンタンというのは幅広ズボンのことだが、制服を改造したりするのが流行っていた時期だったのかその辺の影響はわからない。
とにもかくにも、男子生徒が校則違反のボンタンを履いて登校したところ学校からブロックアウトされ授業を受けられないという事例が埼玉県と千葉県で同時期にあったという。
学校側の理屈は、「授業を受けさせないと言った覚えはない。校門のところで『履き替えてきなさい』と指導したら家に帰ってしまっただけだ」というもので、まったくお話になりませんでした。
しかも、論争していると、驚いたことに両校とも言うことは全く同じで、「それじゃあ弁護士さんたちは女生徒がトップレスで登校してもよいと仰るんですか?」もうこれには言葉もありませんでした。ホントはこいつら女生徒のトップレスが見たいんじゃないか、と思わせるほど同じ言い方だったのには呆れるばかりでした。(上掲書。p.244-246)
1つは、『ブラック校則は場合によっては弁護士会の介入や裁判を招く』ことを多くの人に伝えたいと考えたから。
もう1つは、これらの事件に関して同書に興味深い記述があるから。その興味深い記述とは以下のようなものだ。
ある体罰教師は言いました。「ボクも、本当にこんなに暴力を振るっててよいのかと自問したことは何度もあります。でも、周囲が同じようにやっていて、自分も今まで体罰を繰り返していたのに、急に体罰をやめると、自分としてもやるべきことをサボっているという錯覚に陥り、やめることができなかったのです」(中略)
さらに、校長先生のお話はもっとも印象的でした。「私は、実は何度も管理教育を見直そうと悩んだんです。でも、もしウチが突然管理教育を止めたら、生徒は一時的にも荒れるでしょう。そうすると必ず親の方から、『なぜもっと厳しく躾けてくれない』とか、『学校が甘いからウチの子がだらしなくなった』とか、必ず学校が責められるんです。でも、今回は弁護士会という外圧がかかった。だから、親からクレームがついても、『弁護士会から圧力がかかったから、仕方がないから校則を緩めたんです。文句があるなら弁護士会に言ってくれ』って言えるでしょう。助かりました」
結局、管理教育をやる側の教師たちも、何も悩んでいない訳ではないのです。むしろ、内実を知らず、やみくもに厳しくすることだけを望む親との間で苦しんでいる姿がそこにはあるのです。
埼玉の方の学校は、帰りがけに教頭先生がポツリと、「実は私つい最近までアメリカに研究留学していましてね、本当はこんな服装のチェックばかりやらされて『アホらしい』と思っているんですよ」と仰るのです。
結局のところ、『無意味だから止めろ』というのは簡単だ。だが、実際には『管理を強化』が必ずしも安全の向上には繋がっていないとしても、『安全のため』を錦の御旗にされるとなかなか反対できない。
あるいは本当に止めようとなると始めた人の責任問題になったり、互いの空気の読み合いになったりする。だからなかなか止められない。学校に限らず、企業や役所や非営利団体でもありがちな話だ。
お持ち帰りできるトップレスいいなぁ