はてなキーワード: 中学生とは
主人公→中学1年生のときに見た名門野球部の試合によって野球少年に目覚めその高校入学を目指す
中1~中3でやったこと→名門野球部の入試における体力テストの合格点とライバル選手についてリサーチしてその攻略に全力を注ぐ
ここまで見ると完全に「おっコイツめちゃくちゃデータ集めてんだな」って思うじゃん。
んでその高校のスカウト部長の名前とかも普通にフルネームで覚えてんだよねこの主人公。
でどうなったかというと
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その名門高校には野球に関するデータを集める解析チームがいて、主人公みたいに相手選手の解析によって結果を出すタイプの選手なんて最初から目じゃなくて、フィジカルしか見られてなかったので落ちた。
そもそも主人公が希望していた捕手のポジションは最初から採用人数が1名しかいない狭き門だったので、自分よりフィジカルに優れた選手が居た時点でどう足掻いても合格できるチャンスがなかった。
は?
お前?
何が駄目って、主人公が知ってて当然の情報を話の都合で知らなかったことが駄目なんですよ!!!!
だって名門校に入りたくていっぱい研究して、その学校のスカウト部長が誰で、試験はどの競技でどれぐらいやれば合格化諳んじれるところまで行ってたんですよ???
なんでそんな人が「なに!!この学校には解析班がいてフィジカル面しか選手には求められていなかったのか!!!!」ってなんなんすか?
そりゃこの主人公が超野生児で「腹減った~~え?野球じゃ足を使っちゃ駄目なのか?しょうがねえなあ……」みたいなキャラだったらこういうのあってもそういうキャラだから良いですよ。
でもこの主人公はめっちゃデータ分析して情報収集するタイプなのに、作者が作劇をするに当たって都合が悪い知識だけが抜け落ちてるんですよ。
それは漫画の嘘として駄目な嘘でしょ。
漫画の嘘ってのは、漫画の世界においてはそういうものであるっていう前提に立った嘘じゃないと駄目でしょ。
ギャグ時空で死んだキャラは1コマ後には完全復活していいけど、シリアス時空で交通事故にあったキャラが次の週にあっさり復活したらその漫画の何を信じれば良いのかもうわからないよ。
そんなのもう全部ボーボボだよ。
シリアスモードで雑な嘘ついてインチキするならそれはもうボボボーボ・ボーボボになるんだよ。
この漫画はボボボーボ・ボーボボの癖に散々さも真面目な漫画であるかのように「まず内角に投げてそれから外角に」とか言ってるけど、それもうたった一つのインチキな嘘で全部ごみになったよ。
もうこの漫画は「まず内角に投げてそれからトラップカード発動!オシリスの天空竜滅びのバーストストリーム!!!」とかやるような世界観になってるからね?
漫画は無限の嘘が許されているけど、嘘にも文脈が必要だからね。
好き放題嘘ついていいならもうその漫画からはストーリーや整合性は全て剥奪されてただのなんでもありだから。
ボールの代わりにトマトを投げてもいいし、バットの代わりに大根を振っても良い漫画だからね既に。
なんなの?
この作者はまさか本気で「自分の入りたい野球校についてめっちゃリサーチした学生が解析班の存在を試験が終わった着後にようやく知った」なんてアホみたいな話が十二分なリアリティのあるものだと思ってるの?
もう一度言うけどもしもこの漫画が中学生が300kmの速球を投げて10mジャンプして目からビームを出してホームランを阻止する漫画なら俺もこんなこと言わないからね。
某件、災害でネタツイをするなというのは分かる(ただ、実際被災すると、ネタツイよりも上っ面だけの心配してますよ的なツイの方が大分癪に触る)し、ネタとして面白くないというのもまあ分かる。
ただ、批判意見の中に、ネタをネタだと分からない人がいるからそういうネタツイはやめろ的なものがあるのは見過ごせない。
嘘を嘘と見抜けない人は云々という言葉はインターネットに入り浸っている人間なら誰でも知っている言葉であるが、実際嘘を嘘と見抜くのは思っているよりも遥かに難しい。
ネットでは中学生レベルの化学知識があれば簡単に見抜けると言われているエセ科学だってその中学生レベルの化学知識すら持たない人はごまんといる(正直、俺も怪しい)し、最近話題の陰謀論だって、自分の頭で考えて嘘と見抜けている人間がどれほどいるのだろうか。
また、ゲイ向けポルノやネットに強い弁護士といった、特定のネットミームを知らないとネタと分からないものもあまりセンシティブな題材と組み合わせるのは避けた方がいいであろう。
ただ、そうはいっても、これはネタと見抜けない方が悪いというものはある。
アメリカ大統領が牛丼チェーン(しかも食券制)で食い逃げとか、手づから極東の島国の井戸に毒を投げ込む(これが毒を投げ込むよう指示だったらギリギリ悪質なデマに成り得るが)とか流石に真実だと思う方に問題があるだろう。
別にネタをネタとして楽しめる古き良きインターネットに戻ろうとか言いたいのではない、というか古き良きインターネットなんてただの幻想だろう。
ただ、日常生活に支障を来すであろうレベルで読解力に問題のある人間に合わせたツイートをしろという意見には賛成出来ないだけだ。インターネットは情報リテラシー皆無の人間にも対応しなければならないお役所じゃないんだぞ。
その日は、普段料理を作ってくれる母を労うため、夕食の支度を担当すると申し出た。予算が言い渡されて、その中で献立を考えることになった。その頃自分は、ステーキ肉の脂身から卒業して、刺身のうまさに目覚めた頃だった。刺身ならご馳走だし、ややこしい調理もない。包丁さえ操れれば料理初心者の自分でもなんとかなりそう。というわけで、父親にダイエーまで連れて行ってもらい、刺身用のアジを丸ごと一匹買ってきた。値段もお手頃だし、それでいて王道のマグロより光り物の方が大人っぽく贅沢な気がした。しかしそもそも魚など捌いたことがない。雰囲気で三枚おろしに挑戦するも、案の定、身がボロボロになりとても刺身にできる状態ではなくなった。涙目になる僕。そこへ父が助け舟を出してくれた。父が言うには、アジを細かく刻んで味噌やらネギやらと一緒に包丁で叩いた「なめろう」なる料理があるらしい。そこで急遽、もはや刺身とするには目も当てられないほどよれよれのアジの身を、証拠隠滅の勢いで叩いてなめろうに仕立て上げ、人生初の手料理を母に振る舞うことができた。母はいたく感動したらしく、それを同級生のママ友に触れ回ったせいで、それからしばらく僕は周りからからかわれることになった。基本口数少なめで、ラグビー部に所属しているような思春期の男子校生が料理なんて、と。まだ昭和だった頃のなめろう一口話。
※ここで言う「下手くそ」はどっからどう見てもパースが狂ってたり強烈な違和感を覚えるような絵のことで、漫画家なら全員が完璧な絵を書けって言ってるわけじゃない。
※
漫画家は絵が上手い人しかなれない特別な職業だと思っていけど、近年はTwitterで一発当てて書籍化する漫画家が沢山いてひっくり返ってる。
小説も音楽もバズったやつから質とか関係なしに売れていく節があるし、そういう世の中なんだなとは思うけれど。
でも漫画(絵)ほど善し悪しが分かりやすいものなんて無いのに、だれが表紙絵の時点で関節がありえない方向に曲がっている大判の漫画本(1000円)を買ってるの?いや売れてるからポコポコと何度も同じような本が出ているんだろうけどさ…
話が面白いとかコマの魅せ方が上手いとか何かしら素敵なポイントはあるんだろうけど、でも画力=説得力じゃん。
少女漫画のイケメンが赤面しながらも告白してくる大ゴマにそこらへんのオタク中学生と同じレベルの落書きみたいな絵がどーんと載っていて萌えるか?萌えないだろ、線汚いし目寄ってるし唇の下の線おかしいしまず顎が歪んでるなって容姿の方が気になってしまうだろ…
無料のマンガアプリでオリジナル連載されてる半素人の作品なら画力が商業漫画に及んでいなくても文句を言う筋合いはない。黙って読むし合わなかったら離れる。
でも商業漫画、しかもエッセイやギャグじゃないシリアスな恋愛モノとかで、下手したら美術部の学生よりも歪な絵を描いているのはもう、どういうことなんですか?と。
そういう支持層が謎すぎる不思議本と何10万部も増版してる作者の本が並べて平積みされていて、本屋の新刊コーナーは特に混沌としている。
不思議本の作者は自分の画力不足に気づいているのだろうか?近所の本屋に言って他の漫画と並べて置かれている自分の本を見て、惨めな気持ちにはならないのだろうか?←この考え方物凄く性格悪いよね、不快になったら申し訳ない。自覚してる
とにかく、
何が理由なのかね。自分は元々絵柄の好みが激しいので、個性以前に基礎的な絵が出来上がっていないのは気持ち悪くて見ていられないのかもしれない。YouTuberがテレビでオリジナル曲を披露してるのを見た時に近い共感性羞恥も感じる。
自分は嫌いなんだけど、どこかの誰かは好き好んで不思議本を買ってるんだよな…。
絵が上手い下手は別として、話をまとめてコマ割りして人に読ませられる形に整えられる人は凄い。自分は出来なかったから。物語を形にできる時点で外野から「画力ガー」とか言ってる奴とはステージが違うんだよな。
終わり。でもやっぱり何コレとは思い続ける。
思ったより伸びてて驚いてる
お察しの通り増田は特段漫画に詳しいわけではないので、コメントで挙げられてる「下手くそ」な漫画家の名前も殆ど知らない!色々とごめんな
始めの方で触れてるけど、俺が下手くそな不思議本だと思ったのはSNSでバズった四コマ漫画をそのまま引き伸ばして単行本にしたようなやつ。こんな話題を撒いといてアレだけど万一本人のエゴサに引っかかったら申し訳ないから具体例は出しません。バズったのを売りに出すのは理にかなってるかもしれないけど、それにしたってその画力でええんか??と疑問に思ったの。だから書きました。文章が曖昧だから色んな捉え方されてるけど、「絵が下手くそな商業漫画」はちょっと主語デカすぎたかも。増田はミーハーだから有名所は全部「うめぇ!おもしれぇ!」で読んでるよ。もし四コマ下手くそ漫画が売れまくってたら、俺も尻尾振って購入してたかもしれん。知らんけど…
「攻めが受けに言う『待"""た"""ない』と『待"""て"""ない』は全然違うけど推しカプにはどっち言わせたい?」って感じのツイートがバズってた。
それに対して、「『待たない』はSっ気のある攻めが意地悪で言う感じだけど、『待てない』は受けに煽られて余裕なくした感じっていう解釈です!」ってリプがついてた。しかも複数。
いや、それ、解釈でもなんでも無くないか?解釈じゃなくてただの元ツイの言い換えだろうが。例えば、物語のなかで普段は「待たない」って言ってるキャラがその日だけは「待てない」って言ったとしたら、それに気づいた読者が「このセリフには抑えきれずに溢れ出した強い気持ちがこもってるんだろうな」って解釈をインターネットに発表するのは分かる。ある描写に気づいて、そこから作者の意図を読み取って、それを解釈って言うんすわ。でも元ツイはハッキリと強調して「待たない」と「待てない」の違いに言及してるんだわ。議論したいのは言葉の意味ではなく、「あなたの推しカプはどっち?」なのよ。「2つの言葉の違いはこう解釈したのですが、あなたの見解と合っていますか?」って確認ならまだ分かるよ。でも「自分はこれこれこう解釈しました!」って胸張って宣言するレベルじゃないのよ。その程度の読解力は中学生でもあるわ。論点ちゃんと見ろよ。アホなのか???
って思ってたら、そのリプに対して「あなたは天才ですか???」ってリプがついてた。
あの、書き換えただけなんですが。元ツイを、分かりやすく、書き換えただけなんですが。お前はその程度の読解力しかないのか。いや怒りとかもうない、悲しくなってくる。
私は文字書きの端くれだ。漫画をかける画力も描くスピードもないから、下手くそな文章を書くしか能がないが、それでも下手くそなりに精一杯表現を考えている。頭の中で出来るだけ精密に映像を思い浮かべつつ、どこを描写しどこを省略して読者の想像に委ねるか、描写する部分はどう描写するか、足りない頭で必死に考えている。そんなふうに頑張って文章を書いたところで、1パーセントも伝わらないのではないか。
そんな奴らは相手にしなければいいと言えばそれまでの話だ。大手ジャンルの腐女子だったこともあるが、今はちっちゃいジャンルのNL厨をしていて、決して人口が多いわけでもなし、やや複雑なストーリーを理解出来る人間しかジャンルにはいないのだから、気にする事はない。それでも、いち創作者として、悲しい。創作の無力さを感じさせられる。
あと単純に疑問なんだが、その程度の頭で腐女子やってて楽しいのだろうか。いや、わ~えっちだ~くらいしか思ってないんだろうな。
「イリアス」は捕虜の奴隷女の配分をめぐった交渉がこじれた結果、勇者が拗ねて戦場に出ず、味方がどんどん死ぬところからスタートするので、昨今の倫理観からは問題があり、神話初心者にはこっちをお勧めしたい。「オデュッセイア」も家で待っている妻を忘れてよその女のところで数年過ごすが、まあ魔法をかけられていたということでこっちのほうがマシだ。舞台もあちこち移動するから飽きないし。
ユニークなのは、劇中劇的にオデュッセウスが時間をさかのぼって事件の進展を語る箇所があることで、ホメロスの時代にはすでに出来事が起きた通りに語る手法が飽きられ始めていたのかな、と想像できる。
実は「ラーマーヤナ」とある共通点があるが読んでみてのお楽しみ。
聖書はなんせ二千年前以上の宗教書だから、原典に当たる前に基本的な出来事の流れと時代背景や当時の常識を理解していないと読解が難しい。当時のユダヤ民族の偏見も混じっているし。加えて、ところどころ立法全書的に当時の習慣や禁忌を延々述べる箇所があり、通読はさすがにできてない。新約聖書だけは何とか意地で読破した。
ところで、どうして「創世記」だけを取り上げたのだろう。たとえば物語として盛り上がるのは「十戒」の「出エジプト記」だ。「ハムナプトラ」とかでエジプトが悪役になるのは大体これのせい。いきなりこれにチャレンジするのなら、手塚治虫の聖書物語のほうがいいかもしれない。
犯人探しが不幸を呼ぶことから嫌ミス的な要素もあるし、ギリシア神話の「不幸な運命を避けるために必死になって行動した結果、結局その運命を呼び寄せてしまう」というアイロニーが大好きな自分としては、その典型例なので好物だ(予言を鵜呑みにした結果ドツボにはまる「マクベス」も好き)。
これが面白かったら、アイスキュロスの「オレステイア三部作」もおすすめしたい。何世代にもわたる恨みの念が恵みの女神として祀られることで鎮められるというモチーフは、異国のものとは思えない。
一般教養で唐詩の授業を取ったので岩波文庫でぱらぱらとめくった覚えがある。なにぶん昔のことなので記憶は曖昧なのだが、はっきり覚えているのが王梵志の「我昔未生時」で、天帝に生まれる前の時代の安らぎを返してくれるように願う詩だ。当時は反出生主義が哲学・思想界隈でここまでホットなトピックになるとは予想してはいなかった。
酔っ払いの詩。酒が飲める酒が飲める酒が飲めるぞーという内容。著者は文学者であっただけでなく天文学者・数学者としても知られるが(三次方程式を解いた実績がある)、ここで展開されている詩はひたすら現世の美しさとはかなさをうたったもので、酔っ払いは世の東西を問わず、というところか。イスラム世界の厳格なイメージをひっくり返してくれるので面白い。ガラン版のアラビアンナイトや高野秀行の「イスラム飲酒紀行」とあわせてどうぞ。
フィレンツェを追放されたダンテが苦しみの中生み出したキリスト教最高峰の文学のはずだけれど、とにかく気に食わない政敵を地獄でめちゃくちゃな責め苦に合わせているところを面白がる下世話な楽しみ方ができる。地獄にいる人物は聖書やギリシア神話、歴史上の人物も多く、ヨーロッパの歴史や文学をざっくり知っているとダンテがどれだけやりたい放題やったかがわかるので愉快。
ただし、地獄編の続きの煉獄編・天国編はキリスト教哲学をかじっていないと結構しんどく、しかも風景が山あり谷ありの地獄と比べてひたすら恵みの光が明るくなっていくだけなので、絵的に面白いのは地獄のほうだ。
ついでに、ヒロインがかつて片思いをしていたベアトリーチェという女性なので、ベアトリーチェの美しさを歌う箇所も下世話な目線で楽しめる。妻帯者の癖に未練たらたら。
未読。後述のラテンアメリカ文学とかジョイスとかは読んだんだが、そこに出てくる過剰なものや糞尿譚も結構楽しんだので、いつかは読みたいと思っている。
四大悲劇と「ロミオとジュリエット」はざっくりと読んでおくと、いまにも受け継がれているネタが結構あることがわかって楽しいし、意外と下ネタのオンパレードなので当時のイギリス人に親しみを持つことができる。ついでに上記のうち二作は黒澤明の映画の元ネタでもある。
興味深いのは、劇中劇というかメタフィクションが必然性を持って登場することだ(父を殺した叔父の目の前で、その殺人の場面そっくりの劇を演じて動揺させるシーン)。すごく先進的だ。かっこいいぞシェイクスピア。
基本的には正気を失ったおじさんが繰り広げるドタバタ劇で、下巻では著名になったドン・キホーテをからかう公爵夫妻までも出てくる。これだけだと精神を病んだ人をおちょくる悪趣味な書物だとしか思えないのだが(というか最初は時代遅れの騎士道精神を批判するために書かれた)、昨今はドン・キホーテに同情的な解釈が主流。最近テリー・ギリアムが映画化した。
自分が道を踏み外した元凶。誰だこんな子供を人間嫌いにする本を児童書の棚に並べたのは。クレヨンしんちゃんを夕方アニメにするレベルの蛮勇だ。四部作だが、最後の馬の国では人間という存在の醜悪さをこれでもかと暴き立てており、おかげさまですっかり自分は人間嫌いで偏屈な人になってしまった。作者の女嫌いの影響を受けなくて本当に良かった。
とはいえ、当時のアイルランド支配はこれほどまでの告発の書を書かせるほどひどかった、ということは知っておきたい。
夏目漱石「吾輩は猫である」に出てくる。基本的にはふざけた話であり、著者が自分の誕生から一生を語り起こそうとするがなかなか著者自身が誕生せず、しかも物語の進捗が遅いせいで半年ごとに本を出す約束なのにこのままでは永遠に現在の自分に追いつかない、みたいな語りで笑わせてくる。挙句の果てに著者が途中でフランス旅行に出かけてしまう。英文学というジャンルがまだ黎明期なのに、こんな愉快なのが出てくる懐の深さよ。
だが、これだけふざけているのに、登場人物の一人がうっとうしい蝿を「この世の中にはおれとおまえと両方を入れる余地はあるはずだ」といって逃がしてやるシーンはいい。
未読。「毛皮を着たヴィーナス」と「眼球譚」は読んだんだが。バタイユどんだけおしっこフェチなんだよ。自分もお尻とかブルマーとか競泳水着が好きだから笑わないけどさ。
個人的にはとても好き。人生できっと何かを成し遂げられるはずという万能感ある思春期に読みたい。主人公の行為は決して褒められたものではない。様々な悪事を働き、幼い少女を妊娠させたうえ捨ててしまう。このシーンのせいで、もしかしたら二十一世紀には読み継がれない古典になってしまうかもしれない。しかし、主人公が最後にたどり着いた境地の尊さの価値は失われることはないと信じている。現世で最も美しい瞬間とは何か、あらゆる物質的な快楽を手に入れた主人公が見つけた答えを読んでほしい。後半はギリシア神話を知らないとつらいかもしれないが、そのためにギリシア神話入門を読む値打ちはある。
未読。同著者の「赤と黒」は貧乏な青年がひたすらのしあがろうとする話で、あまりピンとこなかったのだが、文学サークルの友人から最近来たメールに「訳者を変えて再読したら面白かった」と書いてあった。
さえないかわいそうなおじさんが好きなので好き。ロシア文学というものは、名前がややこしいうえに同じ人物が様々に呼ばれるので敬遠されがちなのだが(イワンが何の説明もなくワーニャと呼ばれるなど)、登場人物をメモしたり、ロシア人名の愛称の一覧を頼りにしたりして飛び込んでほしい。このハードルさえ超えれば最高の読書体験が待っていることは保証する。ロシア文学はいいぞ。
ポーは大好きなんだけどどうしてこれを代表作に選んだのかはよくわからない。個人的には王道の「黒猫」とか「アッシャー家の崩壊」とかを最初に読むのがいいと思う。中学生の頃、狂気や暗鬱さにどっぷり浸っていた頃に読んだのだが楽しかったし、作中の詩が今でも世界で一番好きな詩のひとつだ。ちなみに、東京創元社のポー全集には、ポーのユーモア作品もいくつか収録されており、意外な顔を知ることができる。もっとも、今読んで面白いジョークかどうかまでは保証しないが、こじらせ文学少年・文学少女としては必読か。
最高の昼ドラにして非モテ文学。俺は愛されずに育った、俺は永遠に誰からも愛されない、だから他人の幸福を破壊してもいい、的な気分に一度もでもなった人は何としても読んでほしい。
映画「マチルダ」の中で児童書に飽きた天才少女がこれを読もうとする場面があるんだけど、これ小学生が読む本じゃないだろ。単純に難しいのではなく、とにかく話が脱線しまくる。まともにストーリーが進まずに、著者自身のクジラに関するうんちくが延々と続く箇所もある。雑学隙の自分は楽しく読んだが。
敵のクジラを殺してやろうとするエイハブ船長の狂気についていけるかどうか。
自分が人妻萌えを発症した元凶の一つであり、世界文学初のカーセックスシーンがあることでも知られている(自動車ではなく馬車でだが)。ストーリーは夢見がちな女性が夫に幻滅して若い男やチャラ男と浮気し、サラ金から借金を重ねて自殺するという「闇金ウシジマくん」的なノリ。妻の浮気を知ったさえないボヴァリー氏の哀れな反応は必見。自分が寝とられ文学が好きになってしまった元凶の一つ。
炊き込みご飯が残ったときは、予めおにぎりにしておき、夜中に焼きおにぎりにして焼いて、鶏ガラスープとか、中華スープの素みたいなやつを溶いて、焼きおにぎりにぶっかけて食うと香ばしいおじやみたいでうまいぞ。
25年位前の中学生のときに思いついてやってみたらうまかったので、その後しばしばやっていたのだが、ふと今検索したら似たレシピがいくつか見つかって、同じようなこと考える人はおるんやねぇと。
夫と花火大会に行く待ち合わせをしてた。
浴衣を着て、何故か中学校の頃の昇降口で下駄に履き替えていた。
そこに、中学生の頃散々私をいじめた男子の成長した姿が出てきて
ニヤニヤしながらあの馬鹿にした口調で「女って浴衣着る時パンツ履くの?ww」と煽ってきた。
「人によるけど大抵履いてるよ。私は履いてないけど」と、靴を下駄箱に入れながら返した。
私は今大学四年で、生まれて21年彼氏ができたことがない。小・中・高・大となんとなく素敵な男性だなと思ったことはあるが、告白したりされたりということが一切なかった。危機感はあるものの、友人には恵まれたので楽しく毎日を送っている。
友人A子とは小学校4年で同じクラスになった。当時クラス内の女子たちの間では仲間外れやイジメに近いことが起きていて、そういったグループ付き合いが嫌になった頃にA子と仲良くなった。
A子はほかの女子たちとは違い、男子と混ざって外でドッヂボールをするタイプの活発なタイプだった。最初はグループから少し距離を置くためにA子にくっついて苦手なドッヂボールをしたが、次第にA子がとても魅力的な同級生だと気がついた。スポーツ万能で頭も良く、少し口下手だがとても優しくそんなA子がとても好きだった。
A子と同じクラスになったのはこの1年間だけだった。
中学に進学する際A子は地元で1番賢い私立の中高一貫へ、私はふつうに校区内の中学へ進学した。
ちょうど中学生になってすぐに携帯電話を買ってもらえたのでメールアドレスを交換し、1年に一回夏休みなどの長期の休みの時に遊ぶ関係が続いた。
高校に進学しても同じように1年に一回遊び、近況を報告しながら楽しく過ごした。本当はもっと頻繁に遊びたかったけど、誘うのは毎回私からだったからあまり嫌がられないように慎重に時期を考えた。なによりA子も私も進路希望は大学進学だったので勉強をしなければだめだった。
そしてお互い大学生なってやっといっぱい遊べる!!!!と思ったら、A子は地元から出て別の地で一人暮らしするということだった。私は県外の大学に進学したが、実家からギリ通える範囲だから今までみたいに気軽に会えなくなってしまった。
しかし、大学入学前にA子は「一人暮らしする前に遊ぼう」と初めて誘ってくれたのだ!
嬉しかった。初めてA子から遊びに誘ってもらえたから。今までの関係は私の一方通行ではなかったのだ。(これを本人に伝えると、「えー誘ったことなかったっけ?」ととぼけられた。)
大学生になってからも、なんだかんだで1年に一度遊んだり、LINEで数ヶ月おきに連絡を取っていた。
大学3年の時にA子が住んでいる一人暮らしの部屋に遊びに行った。その時に初めてお付き合いしている彼がいることを聞いた。先に彼氏を作られた悔しさと、A子を取られた!という悔しさがあったが、A子の魅力が分かる男が現れ、おめでとうという気持ちになった。
(書き忘れていたがA子はなかなか変わった所があり、わたしはそこが彼女の最大の魅力だと思っているが、A子自身はともだちが少ないと嘆いている。)
最後に連絡を取ったのは半年ほど前の5月ごろで私はちょうど就活真っ最中。A子は資格試験の勉強中ということだった。
そして前置きが長くなったが先日A子から久しぶりーと連絡が来た。娘が生まれた。と
衝撃的すぎてスマホを床に落とした。こんなドラマみたいなことあるんだなと思った。
え?娘???旦那さんは???資格試験は???結婚は???といろいろ聞きたかったがLINEだと少し聞きにくく、まずはおめでとうと送った。
後々聞くと旦那さんは前会った時話していた彼氏で、籍もいれたと。
おめでとうと送ったがなぜかとてもショックだった。どんな状況にしろ無事に娘が生まれて、結婚もするなんておめでたいことなのに、自分の中でぐるぐると消化できないモヤモヤが出てきた。そしてそんな自分を自己嫌悪した。なによりその旦那にすごく腹が立った。詳しい事情もまだ知らないくせに。
大好きな友達のおめでたいことを純粋な気持ちで祝えない。なんて嫌なやつなんだ。
その気持ちを抱えたままバイトに行き、偶然休憩が一緒になった社員の男性に「かくかくしかじかでちょっとだけショックなんですよね」と抱え込んでいるモヤモヤを10分の1くらいの軽さにして吐き出してみた。
それ聞くと社員さんは「好きだったんやねー」と言った。ストンと。腑に落ちるとはこういことかと納得した。
私はA子が好きだったんだなと。友愛なのか親愛なのか恋愛なのか細かいのは分からないけど、友に向ける以上の愛を、複雑な愛をA子に向けてしまったんだなと思った。小学校の時からの憧れは年月を追うごとに、友だちの好きから変な形の愛に変わってしまった。
題名には失恋と書いたが、失恋なのかどうかもよく分からない。今までの経験値が0だから。
ただ、最初から恋愛感情を持っていたらこんなに複雑な気持ちにはならなかっただろうなとおもう。
もう少し落ち着いたら、コロナの状況もみつつお祝いにA子と娘ちゃんに会いに行きたいと思っている。その時にきちんと純粋な気持ちでおめでとうを言いたいから、ここに書き綴っておく。
文書を書くのは苦手だから変に長い文になってしまったけど、もし最後まで読んでくれた人がいたらお礼を言いたい。ありがとう。誤字脱字は許して下され。
高校1年生の1953年に、冷蔵庫、洗濯機、トースターなどがようやく登場する。
32歳の1969年に、第32回衆議院議員総選挙に立候補する。
選挙直前の一族会議中に、近隣の家から出火した。この時、森は決死の覚悟で家にとびこみ、仏壇を抱えて出て来たという。当時の北陸地方は仏教への信仰が篤い土地柄であったこともあり、この行動は風向きを変えることになった。
51歳の1988年に、日本が初めてIPインターネット接続をする。同年、リクルート事件発生。森は約1億円の売却益を得ていたとされ、一時謹慎する。
63歳の2000年に、当時の小渕首相が脳梗塞で倒れる。その3日後に第一次森内閣発足。日本国の長となる。
前任者の急病による就任であり、総裁になるための正式な準備無しでの登板だったため、内心「正直いってえらいことになったな」と思ったという
64歳の2001年に、えひめ丸事故発生。森はプライベートでゴルフ場におり、第一報が入ったとき関係者からその場を離れないよう指示されていたらしいが、第三報が入るまでプレーを続けた。ゴルフを続ける映像が繰り返しテレビ放送されかなりの悪印象となる。
同2001年、森は総理大臣を辞任する。約1年の任期期間だったが支持率は低く、前述のえひめ丸事故の印象やたびたびの「失言」が支持率低下の原因だったとされている。
73歳の2010年に、育ての母が亡くなる。
76歳の2013年に、アルゼンチンのブエノスアイレスで行われた第125次IOC総会に現地入りし、東京オリンピック (2020年)開催決定の瞬間に立ち会った。
77歳の2014年に、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長に就任する。
84歳の2021年に、失言により、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長を辞任する。
森が物心がついたのはいつ頃だろうか。仮に小学1年生の頃として、この頃は1944年である。母が亡くなった年である。
森が小学2年生のときに第二次世界大戦が終結している。どんな時代であっただろうか。戦後教育なので、今よりはるかに奔放な教育がなされていただろう。有り体に言えば体罰や、現代の倫理観では時代錯誤とされることが、当然の教育としてなされていただろう。
そのような教育を通して、森は育ったのだ。
日本にインターネットが誕生し、私達がWindows98でテレホタイムをしていたころには、既に森は61歳で定年を過ぎている。
森は内閣時代もとにかく失言が多いイメージであった。生来の性格とみるか?育った時代、教育、環境も影響しているはずだろう。
私達の感覚では、「時代に合わせて感覚をアップデートできないものは置いていかれる」「アップデートできないものが悪い」というのが通常だが、森にこれが可能だったとは到底思えない。
特別に森がというより、一般論としての森の世代がである。Twitterが誕生したころには70手前の世代である。
自分の母親や父親、職場の上司に「感覚をアップデートしろ」というレベルではない。それよりもっと上の世代の人間である。学生時代に戦後を経験した世代にである。
PCが使えなくて当たり前だろう。スマホが使えたら上々だろう。その世代の人間は、感覚をアップデートするのが嫌なのでなく、どう感覚をアップデートすればいいのかわからないのではないのか。
この世代の人達は恐れているのではないか。自分の古くさった感覚をアップデートできてないことは自覚しつつ、言葉ひとつで多くのバッシングが飛んでくるこの時代を恐れているのではないか。
哀れと思うこそすれ、責められないと思うのだ。私達も、いずれきっと行く道である。
一目惚れをした。コロナで家計が不安定になったから、昨年末から荷物仕分けの短期バイトを始めた。その職場で会った男性に一目惚れをしてしまった。
一目惚れをする相手と言ったら、イケメンとか、誰が見ても外見が魅力的な人なんだろうけど、正直 彼にはそういった素質は一切ない。見た目だけで判断すると、秋葉に居る派手なタイプのオタクって感じだろうか。もしくはメガネの元ヤン。煙草吸いながらパチンコ打ってそうなそうな顔してる。銀縁の四角いメガネかけてて、目付きの悪さはどっかの指名手配犯みたいだし、マスク下ろすと不精髭がちょっと伸びてて、おまけに若干出っ歯。喋り方もちょっと舌足らずな感じ。出会って数日の知らん小娘に言われてもまじでうるせぇって感じだと思うけど、お世辞にもモテそうにない。だけどわたしはなぜか妙〜〜〜に惹かれる。色気???わからんけどとにかくフォルムが好きで。ヒョロっと背が高くて、足が細くて、なで肩で、がに股歩きで、首が細くて喉仏が突き出てて、背中はちょっと猫背気味で、なんか童話に出てくる二本足で歩く狐みたいなイメージ。とにかくそのシルエットがたまらない。あとあの鋭い目が好き。不器用そうな感じが好き。かまって欲しい時に素っ気なくされそうな感じも好き。ドS感ダダ漏れだけど、たまにめっちゃ甘えてきそうな感じもたまらん。要するにツンデレ(誰かこの妄想を止めてくれ)
だけど彼とまともな会話はしたことがないし、これからもすることはたぶんない。業務上で必要なやり取りだけで、空き時間にお互い暇でも世間話をしたりとかは一切ない。彼はそんなに喋るタイプではないし、社員さん同士ではよく喋ってるけど、人見知りっぽいから新人に声かけるようなタイプてはない。わたしはわたしで短期バイトだから、そんなに人間関係深めようという気持ちもなく、ただ淡々と仕事して帰るだけ。だからわたしが知ってるのは彼の名前だけで、年齢(たぶん30代半ばくらいだと思うけど)も住んでる所も、独身か既婚者かすらも知らない。ただわたしがいつも遠くからひっそりと眺めてるだけ。マスクの下で1人でニタニタしてるだけ。でもなんだろ、もうそれだけで幸せなんだよね。あれ?これって恋だよね。あとから(これって恋やん)って気づくタイプの、無意識的な恋愛感情が育ったのが久しぶりすぎる。たぶん中学生ぶり。
中3の時に初めて同じクラスになった素性の知らない男子を好きになった時と全く同じ感覚。バックグラウンドを全く知らないし喋ったこともないしこれと言ったキッカケもないのにいきなり好きになった。っていうのが「=一目惚れ」ってことなんだろうな、とわたしの中では定義してる。思い返せば中3の時に一目惚れした男の子も、犯罪者みたいな目付きしてたな。頭でかくて、目細長くて、青白くて、アヒル口だった。全然モテない冴えない男子だったな。あたしの趣味どうなってんねん。あたしは学生時代陰キャだったから、そんな冴えない男子のことすらいつも遠くから眺めてるタイプの恋だったけど。でもその子に会えると思えば学校行くのも楽しかった。
今もその時と全くおなじ。その人に会えるって思うだけでバイト行くのが楽しみすぎてワクワクするし、朝頑張って起きられる。家で夕飯作りながら(今頃彼はどうやって過ごしてんだろうなー)(どんな部屋住んでんのかな)とか考えちゃうし、このままだとストーカーになりかねないくらい熱を上げてる。大人になってからこういうの、なかったな。そもそも大人になると関わる人が大体決まってきちゃって、こういうなんの意図もない出会い方をする機会ってものが減るからね。
業務中、いつもみんなバタバタしてる中わたしだけ早く上がるからほとんど挨拶もできずに帰ることが多いけど、今日は割と余裕があってみんなプラプラしてたからみんなに挨拶してたら、彼も「はいお疲れ様でした〜」と笑顔で声掛けてくれて、もうスキップして家に帰りたいくらいテンション爆アゲだった。この関係からたぶん1ミリも進展することなく今月で短期バイト終わっちゃうけど、それまでずっとこの想いを1人で温め続けるよ。暇な時間に話しかけてみようかなとか考えたりもしたけど、バイト始まってから中途半端に期間経っちゃって、今まで全然話してこなかったのに今更いきなり世間話するのも変だし、そもそもどうやって話しかけたら良いかわかんないし、初っ端から本当に素っ気なく返されたら立ち直れる気がしなくてめちゃめちゃ怖いからやめた。現実を見るのやめました。もう残りあと1ヶ月もないのに余計なことをして思い出を汚したくない。安全パイを選ぶよ。
昨日の事。買い物帰りにガラガラの電車で座っていたら、老夫婦が乗ってきて自分の正面の席に座った。
「なるほど、これがマスクから鼻を出す人間か」と思って凝視していると、婆さんの方が自分の視線に気づいたのかマスクを引っ張り上げ鼻をしまった。
「ふーん、鼻はわざと出してるわけじゃなかったのか。つけてるうちにズレ落ちたんだな」と思って見ていると、爺さんも婆さんが鼻をしまったのに気づいてマスクを付け直した。
「もしかして、マスクをつけると呼吸が苦しいから駅のホームとか外では鼻を出してマスクをしていたのかもな」と思ってしばらく見ていると、なんと、爺さんの方が一度しまった鼻を再びマスクから露出したのだ。
少し驚きはしたものの「ああ、爺さんは婆さんに合わせて仕方なくマスクしているってとこかな」と考え、目的地の確認のためGoogleマップを見ていると、今度は婆さんが動いた。
信じ難いことだが、爺さんが鼻マスクするのに合わせるように、婆さんも再びマスクから鼻を露出したのだ。何も言わず夫に合わせる様子はまさに旧態依然の女の姿。三歩下がって鼻を出す、とでも言うことだろうか……。
わたしはひどく混乱した。目の前の出来事はにわかに信じ難いことだった。かつてーーーまだくびれの無い腰にサスペンダースカートをさげていたーーー中学生のころ、みんなして靴下の長さまで周りと合わせようと必死だったことを思い出さずにはいられなかった。あの頃は、ヘアピンのさし方ひとつとっても人と違うことが許されなかったものだった。母に渡された柄入りの布マスクがどれほど嫌だったかことか。
爺さんと婆さん、いや、ジジイとババアは鼻を出すにも出さないにもお揃いじゃなくちゃいけないのだろうか。
もう70を過ぎているだろう老人たちが、まるで13の子どものようにマスクを上げたり下げたりしている様はあまりに衝撃的であった。
しばらくして電車が止まり、制服姿の学生たちがどっと乗り込んできた。その中には三つ子のようにお揃いのストレートヘアの女の子達もいた。今はお揃いの彼女たちも、10年後の同窓会では皆違った女性になるのだろう。周囲に合わせることに囚われるお年頃の彼女らが可哀想でもありどこか羨ましくもあった。
学生時代の友人とも、もうコロナで丸一年以上会えていない。白い不綿布のマスクの下小さく溜息をついた。
男友達がいる。1人だけ。
元々は中学生の頃のひとつ下の後輩だったが、別の高校に行っても私だけ大学に入ってもお互いに社会人になってもお互いに別の人と結婚しても私に子どもが生まれても向こうが離婚しても、まだ年1くらいのペースで会って昼ごはんを一緒に食べて互いの近況を交換する。
多分だけどお互いに恋愛感情は抱いたことはなく、当然そういう関係もない。
なんでそんな関係が続いているのかというと、お互いに一線は弁えているからじゃないかな、と思っている。例えば、夜に会って酒を飲んだりとかはしない。
一度だけ、まだ私が大学生で一人暮らしをしていた頃、向こうが私の家に泊まりたがったことがある。全力で断ったが、多分あの日泊めていたら例えその日は何もなくとも、今のような関係は無かったと思う。向こうもそれ以降は誤解を招きかねない無茶は言わなくなった。
そもそも女友達も少ない私だけど、こういう友達が居てくれるのは何の役にも立たないがありがたい。
会社や学校、家族や友人関係など様々なしがらみの中で生きている 時にはすべてを投げ出したくなる時もあるかもしれない
すべてのしがらみを捨て「異世界転生」すること自体が贅沢に感じるのだ 甘えに見えるのだ
冗談で学校や会社をやめたいなどと言っても、本当にやめるわけにはいかない
逃げ出したくとも、皆がそれぞれの思いをもって頑張っているのだ
まっさらな気持ちで全くの見知らぬ土地で生活することなど、社会の中で生きる人間にはしたくてもできるはずがないのだ
そんなしがらみのなかで頑張っている人間が、どうして「異世界転生」などどいう贅沢を経験した主人公に共感できるのか?(物語の中で主人公が挫折を経験するといわれても)
画用紙にクレヨンで描いた幼稚なイラストを、過去によく母親や幼稚園の先生に見せていた。「描けたよ〜!見て見て!」……と。すると、それを見た大人は言う。「わぁ!上手に描けたね〜!」
珍しい体験ではないだろう。現に私もそう褒められた過去を持つし、子どもが絵を描いたら皆そうやって褒める。
腐女子の私もTwitterを始めた頃は、パースも構図もデタラメなBLのアナログな落書きを、写真に撮って投稿していただけだった。しかし数少ない閲覧者にいいねやRTをもらい、たまにリプをもらい、だんだん自信をつけていったのだ。そしてアナログから板タブになり、液タブを新調し、iPadで絵を描くようになった。次第にフォロワーも増え、本を出し、アンソロに参加し……。まだまだ欠点だらけなものの、以前よりも多くの人間に絵を見て貰えるまでになった。
振り返れば、ここまで同人活動を続けてこられたのは、フォロワー1桁代の頃の数人による反応が大きい。言うなれば幼子にとっての『ママ』である。絵を見てもらって褒めてもらう行為が、どんなに貴重であるかを今回の事件で痛感したのだ。
私の表現を不快に感じる人も居るだろう。反応がなければ絵を描かないのか?自分が絵を好きなら問題ない?他人の評価など気にしない?そう思う人はそれで大いに結構。だが私はそれを踏まえても、やはり多くの人に作品を見て欲しいし、その承認欲求が大きなモチベーションとなってきた。絵を投稿したあと、ソワソワと5分ごとに通知欄を覗く人以外は以降の文章を読まないでくれて構わない。
これから書き連ねるのは、私の懺悔と後悔も含んだ、小さくも悲しい出来事である。説教したい訳では無い。ただ思ったことを垂れ流している、ただのオタクの戯言である。
さて、今回の事件は──ただのフォロワー同士の諍いなのだが──、Twitter上で『ママ』を求めすぎた絵描きによるものだ。その絵描きはフォロワー数よりフォロー数のほうが多く、いいね数もほぼ無いオリキャラ絵をよく描いていた。よくリプを頂くので私は彼女と相互なのだが、正直に言って絵が上手くない。投稿頻度が高くTLを追いにくいため、こっそりミュートにしている。
この時点ではただの絵描きだ。だが彼女は違った。相互になった絵師や小説書きのもとに、DMやリプで自身の絵を貼っつけるのだ。相手の推しキャラや推しカプではなく、自身の考えたオリジナルキャラを。そして感想を求める。いいねやRTを欲しがる。彼女はそういう人なのだ。
私も例に漏れずその絵を送られる対象のうちの一人であったが、適度に受け流していた。無視したり侮辱したりしては、彼女を傷つけてしまうと懸念したからだ。この頃、私は自分が絵を投稿した初期にフォロワーから『ママ』のように褒められていたことを自分に投影し、「自分よりも下手な絵を褒めてあげる私って素敵!」などと酔っていたのかもしれない。少なくとも、尊敬の念で褒める気など微塵も無かった。それこそ幼い子の絵を褒めるように、『この装飾が素敵だね』『可愛い色使いだね』『雰囲気に合っているね』など。毒にも薬にもならないようなコメントをしていた。
しかし、そのコメントは彼女にとって承認欲求を満たす麻薬になっていたらしい。私以外の人にもそういった感想を求め続けた。他の絵師にもその行為を繰り返し、受け流すことで承認欲求は倍増した。「あなたも○○ちゃんから絵送られてきた?あれってどうしてる?」などと他のフォロワーから相談されたこともしばしば。腫れ物に触るように、私たちは彼女を取り扱っていた……と、思う。
昨夜のことだ。とある絵師が投稿した作品に彼女はリプライで自分のオリキャラ絵を貼った。しかし当の絵師は無視し、それを見て彼女は拗ねた。メンヘラ気質なことは知っていたが、その行為ひとつで病みツイを連投し、あからさまに拗ねたのだ。(『拗ねた』という表現をあえて使わせて欲しい。それほどまでに幼稚だと思えるからだ)
絵師はエアリプで「私だって興味のある作品を選ぶ権利はある」とのこと。その通り。絵師には同情しかない。だって絵師本人は何も悪いことなどしていないのだから。とはいえ、ある意味で私のほうは重罪だ。適当に褒めそやして、彼女の承認欲求を膨らませてしまったのだから。
絵描きのはしくれである私としては、絵を描く行為を好きでいて欲しくて、そうやって褒めていた。しかし、私は彼女の良き『ママ』にはなれなかった。適切に指摘し、良い方向へと導くことは出来なかったのだ。ただただ自尊心を高めるだけで、彼女自身のスキルを成長させるには至らなかった。
そういえば──。幼稚園の頃は落書きを褒められていた私だが、中学生の頃、美術の時間にクラスメイトから言われた。「お前の絵、それだと腕の動きおかしくね?」
今でもセリフを覚えているのだ。当時は悔しくて悔しくて仕方なかった。なんとか笑顔を繕い、「え〜?何それひどくなーい?」と笑い飛ばした。だが、クラスメイトの言葉はその後の私を大きく変えた。確か、その頃からだろう。私が人体パーツを意識するようになったのは。過去の絵を光に透かして、反転した絵が歪んでいたと自覚したのは。
お絵描きをするのに大切なのは、褒めてくれる『ママ』ではない。ズバリと指摘してくれる『クラスメイト』が必要だったのだ。そしてそれをバネに描きまくる不屈の精神と、自己を分析し見直すポテンシャルも同様に不可欠なのである。そこまでして絵を描かなければ、膨れ上がった承認欲求など満たされないのだ。世間はお前のママじゃない。そんなにSNSは生ぬるくない。
思えば、私がパースも構図もぐちゃぐちゃな頃に褒められていたのも、別に私が無条件に愛されていた訳では無い。当時は、下手でも下手なりに工夫や伸び代が見られたからこそ、フォロワーは褒めてくれたのだろう。「描く度に色塗りが上手になってる!」「どんどん自分の絵柄を確立しているね!」と、フォロワーは私の絵と向き合って評価してくれていたのだ。『ママの甘やかし』ではなく、適切な評価だったと、今更になって思う。
もちろん、絵が下手なまま、話が面白くないままSNSに投稿し続ける人はいるし、それが悪いとは微塵も思わない。無条件に認めてくれる存在を求めるから反感を買ってしまうのだ。
そういった面では私も当然未熟者だ。高い評価を得る絵師を見ては、劣等感を感じ、深く落ち込む。予想していたよりも投稿が伸びなければ、反動で承認欲求がどんどん膨れ上がる。だがそれではダメなのだ。自分の絵が認められないのは、そうである理由が存在するはずだ。成長なしに、手放しで褒めて貰おうなど甘ったれた考えでしかない。この事件を通じて私は痛感した。己のいい加減さと、未熟な考えを。
結局、彼女は筆を折るのだろうか。まだ絵を描き続けるのだろうか。私のもとにオリキャラ絵が届けられた時はなんて言おう。当事者の絵師は今後どうなるのだろう。
とはいえ、絵描きはいつでも褒めてくれる優しい『ママ』の存在を、心の奥底では欲しがっている。私も無意識のうちに『ママ』を求めているのだろう。きっと、この甘えん坊状態はいいねの数を気にしている状況ではずっと変わらないはずだ。絵描きとして、早く独り立ちしたいものである。