画用紙にクレヨンで描いた幼稚なイラストを、過去によく母親や幼稚園の先生に見せていた。「描けたよ〜!見て見て!」……と。すると、それを見た大人は言う。「わぁ!上手に描けたね〜!」
珍しい体験ではないだろう。現に私もそう褒められた過去を持つし、子どもが絵を描いたら皆そうやって褒める。
腐女子の私もTwitterを始めた頃は、パースも構図もデタラメなBLのアナログな落書きを、写真に撮って投稿していただけだった。しかし数少ない閲覧者にいいねやRTをもらい、たまにリプをもらい、だんだん自信をつけていったのだ。そしてアナログから板タブになり、液タブを新調し、iPadで絵を描くようになった。次第にフォロワーも増え、本を出し、アンソロに参加し……。まだまだ欠点だらけなものの、以前よりも多くの人間に絵を見て貰えるまでになった。
振り返れば、ここまで同人活動を続けてこられたのは、フォロワー1桁代の頃の数人による反応が大きい。言うなれば幼子にとっての『ママ』である。絵を見てもらって褒めてもらう行為が、どんなに貴重であるかを今回の事件で痛感したのだ。
私の表現を不快に感じる人も居るだろう。反応がなければ絵を描かないのか?自分が絵を好きなら問題ない?他人の評価など気にしない?そう思う人はそれで大いに結構。だが私はそれを踏まえても、やはり多くの人に作品を見て欲しいし、その承認欲求が大きなモチベーションとなってきた。絵を投稿したあと、ソワソワと5分ごとに通知欄を覗く人以外は以降の文章を読まないでくれて構わない。
これから書き連ねるのは、私の懺悔と後悔も含んだ、小さくも悲しい出来事である。説教したい訳では無い。ただ思ったことを垂れ流している、ただのオタクの戯言である。
さて、今回の事件は──ただのフォロワー同士の諍いなのだが──、Twitter上で『ママ』を求めすぎた絵描きによるものだ。その絵描きはフォロワー数よりフォロー数のほうが多く、いいね数もほぼ無いオリキャラ絵をよく描いていた。よくリプを頂くので私は彼女と相互なのだが、正直に言って絵が上手くない。投稿頻度が高くTLを追いにくいため、こっそりミュートにしている。
この時点ではただの絵描きだ。だが彼女は違った。相互になった絵師や小説書きのもとに、DMやリプで自身の絵を貼っつけるのだ。相手の推しキャラや推しカプではなく、自身の考えたオリジナルキャラを。そして感想を求める。いいねやRTを欲しがる。彼女はそういう人なのだ。
私も例に漏れずその絵を送られる対象のうちの一人であったが、適度に受け流していた。無視したり侮辱したりしては、彼女を傷つけてしまうと懸念したからだ。この頃、私は自分が絵を投稿した初期にフォロワーから『ママ』のように褒められていたことを自分に投影し、「自分よりも下手な絵を褒めてあげる私って素敵!」などと酔っていたのかもしれない。少なくとも、尊敬の念で褒める気など微塵も無かった。それこそ幼い子の絵を褒めるように、『この装飾が素敵だね』『可愛い色使いだね』『雰囲気に合っているね』など。毒にも薬にもならないようなコメントをしていた。
しかし、そのコメントは彼女にとって承認欲求を満たす麻薬になっていたらしい。私以外の人にもそういった感想を求め続けた。他の絵師にもその行為を繰り返し、受け流すことで承認欲求は倍増した。「あなたも○○ちゃんから絵送られてきた?あれってどうしてる?」などと他のフォロワーから相談されたこともしばしば。腫れ物に触るように、私たちは彼女を取り扱っていた……と、思う。
昨夜のことだ。とある絵師が投稿した作品に彼女はリプライで自分のオリキャラ絵を貼った。しかし当の絵師は無視し、それを見て彼女は拗ねた。メンヘラ気質なことは知っていたが、その行為ひとつで病みツイを連投し、あからさまに拗ねたのだ。(『拗ねた』という表現をあえて使わせて欲しい。それほどまでに幼稚だと思えるからだ)
絵師はエアリプで「私だって興味のある作品を選ぶ権利はある」とのこと。その通り。絵師には同情しかない。だって絵師本人は何も悪いことなどしていないのだから。とはいえ、ある意味で私のほうは重罪だ。適当に褒めそやして、彼女の承認欲求を膨らませてしまったのだから。
絵描きのはしくれである私としては、絵を描く行為を好きでいて欲しくて、そうやって褒めていた。しかし、私は彼女の良き『ママ』にはなれなかった。適切に指摘し、良い方向へと導くことは出来なかったのだ。ただただ自尊心を高めるだけで、彼女自身のスキルを成長させるには至らなかった。
そういえば──。幼稚園の頃は落書きを褒められていた私だが、中学生の頃、美術の時間にクラスメイトから言われた。「お前の絵、それだと腕の動きおかしくね?」
今でもセリフを覚えているのだ。当時は悔しくて悔しくて仕方なかった。なんとか笑顔を繕い、「え〜?何それひどくなーい?」と笑い飛ばした。だが、クラスメイトの言葉はその後の私を大きく変えた。確か、その頃からだろう。私が人体パーツを意識するようになったのは。過去の絵を光に透かして、反転した絵が歪んでいたと自覚したのは。
お絵描きをするのに大切なのは、褒めてくれる『ママ』ではない。ズバリと指摘してくれる『クラスメイト』が必要だったのだ。そしてそれをバネに描きまくる不屈の精神と、自己を分析し見直すポテンシャルも同様に不可欠なのである。そこまでして絵を描かなければ、膨れ上がった承認欲求など満たされないのだ。世間はお前のママじゃない。そんなにSNSは生ぬるくない。
思えば、私がパースも構図もぐちゃぐちゃな頃に褒められていたのも、別に私が無条件に愛されていた訳では無い。当時は、下手でも下手なりに工夫や伸び代が見られたからこそ、フォロワーは褒めてくれたのだろう。「描く度に色塗りが上手になってる!」「どんどん自分の絵柄を確立しているね!」と、フォロワーは私の絵と向き合って評価してくれていたのだ。『ママの甘やかし』ではなく、適切な評価だったと、今更になって思う。
もちろん、絵が下手なまま、話が面白くないままSNSに投稿し続ける人はいるし、それが悪いとは微塵も思わない。無条件に認めてくれる存在を求めるから反感を買ってしまうのだ。
そういった面では私も当然未熟者だ。高い評価を得る絵師を見ては、劣等感を感じ、深く落ち込む。予想していたよりも投稿が伸びなければ、反動で承認欲求がどんどん膨れ上がる。だがそれではダメなのだ。自分の絵が認められないのは、そうである理由が存在するはずだ。成長なしに、手放しで褒めて貰おうなど甘ったれた考えでしかない。この事件を通じて私は痛感した。己のいい加減さと、未熟な考えを。
結局、彼女は筆を折るのだろうか。まだ絵を描き続けるのだろうか。私のもとにオリキャラ絵が届けられた時はなんて言おう。当事者の絵師は今後どうなるのだろう。
とはいえ、絵描きはいつでも褒めてくれる優しい『ママ』の存在を、心の奥底では欲しがっている。私も無意識のうちに『ママ』を求めているのだろう。きっと、この甘えん坊状態はいいねの数を気にしている状況ではずっと変わらないはずだ。絵描きとして、早く独り立ちしたいものである。
あっそ
またお前か
Twitterはほんとに絵描きにとっちゃ悪魔のツールだね、誰しも最初は「これが描きたい!」で筆を取ったはずなのに、気がついたら承認欲求だけが膨れて何が好きなのかがわからなくなっ...
せやから描いたもん他人に自慢せえへんかったらええんやで
今北産業のために 「相互になった絵師や小説書きのもとに、DMやリプで自身の絵を貼っつけるのだ。相手の推しキャラや推しカプではなく、自身の考えたオリジナルキャラを。そして感...