はてなキーワード: 自覚的とは
元増田:
極端かもしれんが一般論として、作品の面白い・つまらないというのが作品の側で全てが決まるという信念は間違いであり、あらゆる作品について受け取る側の人間の感想はその人の状況やタイミングに大きく作用されるものであるというものがあると思うのだが、かなり作品に接する経験値が高そうな人でもこの前提について意識してない場合があるのが不思議だ。
自称横増:
満腹の時にはたべないけどちょっとお腹すいてるときとめっちゃすいてるときは食べるし
その二つでおいしさは違ったり違わなかったりするんじゃね
同上
大学の友人でぺドを名乗る男性がいるので、思い切って話を聞いてみることにした。
彼は正直典型的な非モテ男性と言っていい。覇気のない、あまり気を使っていない外見。コミュニケーション能力も高いわけではなく、気が利くか否かと言ったら、まぁデリカシーはないタイプだった。
彼は中高は男子校で過ごしており、今現在通っているのも理系の学部なのでほぼ男子校のような環境に身を置いているといえる。人生の半分が男子校コースだ。
性的指向(嗜好)の話に戻るが、彼曰く、彼は「小学生くらいの女子」しか恋愛対象として見れないそうだ。敢えて性愛対象ではなく恋愛対象と言ったのは、彼がしたいのは性行為だけではなく、デートや同棲生活など、そういう恋愛一般をその年齢の女子と達成したいと言っていたからだ。
最初は彼が先天的なペドフィリアなのかと思って聞いていたが、途中でどうやら違うらしいということがわかってきた。
彼は今でも淡い恋の夢を見るそうだ。相手は小学校の時の片思い相手。同級生だった彼女の姿は成長しておらず、性欲に自覚的になった今でも彼女のことが忘れられないのだそうだ。
……なるほど。
彼は先天的にどうこうというよりも、「女性像」が小学生の時から更新されていないのだと感じた。
漫画などの影響が取り沙汰されることも多く、私個人としてはその可能性もゼロとは言えないが、異様に男女別学が多いこの日本社会では、こう言った事例も少なくないのではと思った。
旧劇エヴァ(EoE)に感動しQからの流れがめっちゃ好きなので、皮肉ではなく本気で称賛として書いてる。
前回の増田(anond:20210308160516)にも書いたが、
何百億というお金が動くプロジェクトで、誰の顔色を伺うことなく、シン・エヴァをやり切った60歳という事実が最高にクールである。
・あなたは、60歳になった時に自分の一存でプロジェクトのすべてを仕切れるような影響力を持っていそうか?
・ あなたは、60歳になった時に己の感性のみを信じて突き進む事はできそうか?
しかも何百億というお金が動くプロジェクトの矢面に立つ総監督(脚本兼任)という立場で
「さすが庵野!」
「おれたちにできない事を平然とやってのけるッ そこにシビれる!あこがれるゥ!」 としか言う他ない。
庵野監督のようなビックプロジェクトに関わる事はないにせよ、一応若者の区分の自分も頑張りたい尖りたいと純粋に思った。
ただ感動した事実は事実として、ストーリーについて忖度なしに言えばタイトルの通りゴミだったので以下に感想(お気持ち長文)を書き連ねていく。
(注意:シン・エヴァの造形や絵作りや音楽については専門のお兄様たちの批評・感想をあたってください。この増田では映画を構成する様々な要素のひとつ "ストーリー" についてしか触れません。)
ファンのためにファン向けた作品を作ることのいったい何が悪いか?と思うかもしれない。
なので先にシン・エヴァの結末を書く。
庵野監督のアバター "シンジくん" は 声優:緒方恵美 (14歳) から 俳優:神木隆之介(スーツ) に変身、
安野モヨコ氏 (庵野監督の妻) のアバター "マリ" と お手て繋いで駆け出し、
庵野監督の地元 "宇部新川" で 前前前生 して終劇。
ーーー・・・普通にバッカじゃねぇの?😒である。 シン・エヴァじゃなくて庵野監督のエッセイでやれ。
大マジである。
エヴァンゲリオンイマジナリー、ゴルゴダオブジェクト など急に設定を生やしたり、
無かったことにされていた 渚カヲル司令 をサルベージしたり (なお、予告にいたキカイダーエヴァみたいなヤツのことは忘れろ)
カヲルと加持と冬月とゲンドウ で "ジェバンニが一晩でやってくれました" をしたり、
ソードマスターヤマト 並みの怒涛の畳み掛けを 新劇 を終わらせるためにかましたのに、
マリ が何者なのかについて "だけ" 、最後まで触れなかった。
その影響で、マリが(当然シンジも) なぜ エヴァに乗れる・操れるのか、劇中で言及されること無く終わった。
もちろん、劇中の情報からなぜマリがエヴァに乗れる・操縦出来るかについて、推測・想像・妄想は出来る。
劇中でネブカドネザルの鍵を自らに付与したゲンドウがエヴァを操縦していたように、おそらく後天的に仕組まれたのだろう。
けれど、カットはもちろんセリフで匂わせすらなく、まったく劇中で語られていない以上、推測・想像・妄想でしかないので、
忖度なしに言えば "どうかしている" としか言いようがない。
なんでも説明してしまうのはつまらない? 想像・妄想の余地がある方が面白い? よろしい、では、
シン・エヴァ:|| (本作) になるまでシンジが名前すら知らなかった "マリ"、しかも、シンジにとっては、"パラシュートの人" でしかない "マリ"と、
庵野監督の地元 "宇部新川" で 前前前生 したのは 何故なのか?
意外で驚いたぁ〜?(笑) だけがしたいのであれば、前前前生するのは、北上ミドリ や トウジの妹(鈴原サクラ) でも よかったはずだ。
なんなら、シンジはマリよりも彼女たちのことについての方が名前も人となりも知っているまである。
"シンジは急速にマリが好きになったのだ!人を好きになるのに、恋に落ちるのに、理由も時間も要らない!" で押し通すにしても、
"マリは最初からシンジに対して一定以上の執着を持っていた" についてはどう説明するのか?
それも "どこにいても必ず迎えに行くから。待ってなよワンコくん" と口にしたり、"命をかけて裏宇宙に行く" ほどの執着だ。
ヒロイン(マリ)が抱いている、まどマギのほむらレベルのマリ執着を 言及しないで オッケー👌とかあり得る??? あり得るとしたら何故?
そもそも"執着以前にマリが何者であるかも明らかではない"が、そんなことって通常のストーリーで許容されるもの???
しかも、外そうとしたらカヲルくんみたいに頭ボーンして死ぬ "DSSチョーカー" をラストシーンでひょいと外せる謎能力を持った超超超超超超超超重要人物だぞ???
マリは庵野監督の妻である安野モヨコ氏の投影キャラ。だからシンジ(庵野監督)の心の枷を外せた。
そしてメアリー・スーでもあるマリついてのすべてを劇中で言及不要とした。"
い、いや、エヴァ漫画版ではマリについての描写があったから(震え) にしたって、
漫画版の設定を引き継いでいるなら 同性愛者設定 はどこへいった?だし、
実年齢だって、『破』の時点で33歳、『Q』の時点で47歳くらいだということになる。
まどマギのほむらレベルの執着をみせているのに、この実年齢でマリがシンジを親族の家に預けたままにしていたのは何故?
忙しい云々ならマリより年若いミサトがシンジを預かっているので別に不可能ということもないだろう。
そして "DSSチョーカー" を外せる理由やそもそも何者なのかについて触れない理由は???
なんにせよ、とても褒められた出来のシナリオでは無い。
せやね、誰よりも劇中でセリフが長そうなゲンドウの自分語りとか。
「Beautiful World」はゲンドウの歌だったんだな、ユイに出会って世界が変わった云々は絶対庵野監督自身のことを重ねてるな、つかこれ旧劇で見たけど?と思ったけど。
旧劇でそれ見たよ?の展開だけなら褒められないが初見向けとして許容出来た。
しかし、突如悟りを開いた シンジ様 が登場人物達のカウンセリングを始めるのである。
709 名無しが氏んでも代わりはいるもの 2021/03/08(月) 21:33:24.38ID:???
シンジ「どんなに探してもユイはいねえよ現実を受け入れて責任を果たしていけ」
シンジ「お前は俺のことを幸せにしたいんじゃなくてそうやって自分が幸せになりたいだけだろ」
シンジ「昔はお前のこと好きだったけどいい加減自分の人生を生きたら?」
オーケー、悟りを開き覚醒したシンジ様がグループセラピーを始めるのはヨシとしよう。
・・・でもな?
シンジが覚醒した理由について劇中で言及されないのである!!!!
本当に、本当にありがとうございました。
精一杯、善意的な解釈をすれば シンジは "生命の書" にカヲル同様に名前を連ねているからループを繰り返している。
村とポカ波の一連の出来事でシンジは違う世界線の経験の活かせる状態に覚醒した・・・みたいな???
(これも劇中で言及されない以上、推測・想像・妄想でしかない)
他は、なんちゃってジブリでナディアの島編のような冗長さがある村での描写とか、
エヴァ無し・ほぼ丸腰でハイカイ(首無しエヴァもどき)がいる世界でシンジ・レイ・アスカ無事(危機に陥る描写無し)だったとか、
Exactly(そのとおりでございます)
映画・アニメは総合芸術だ。ストーリーは総合芸術を構成する要素のひとつにしか過ぎない。
絵作りが素晴らしければただそれだけで名作になることもある。
造形・絵作り・音楽について長文を書き連ねたい情熱も専門性も持ち合わせていないので省略するが、
パリ以外でも大好きな絵作りのシーンがいくつかある。
(ヴンダーの戦艦アクションや映画館向きじゃないぐるんぐるするアングル好き)
この増田はあくまで"ストーリー"だけを切り取ったとき、出来は酷かったという個人的な感想(お気持ち)で、
シン・エヴァが駄作だと評しているわけではないので誤解なきよう。
狂気を魅せたという意味ではなくて圧倒的に低レベルなシナリオ完成度的な意味で
摩砂雪とか貞本がいなくなったばかりではなく、
『男の戦い』や『最後のシ者』など旧作で重要な話は 薩川昭夫 脚本、SF要素は磯だがそれらもいなくなった
▼供養の設定資料
もう20年以上前の某アニメで作った脚本回の設定。地下施設の詳細が決まってなかったのでセントラルドグマとか名称や細部を私が設定していった。他にも中盤は私が作ったセリフや展開が結構使用されているが結局全部ノーギャラ。
https://twitter.com/isomitsuo/status/823830687400636416?s=21
Aパート→絵コンテなし、さらに作られては壊されめちゃくちゃに
Cパート→時間とスタッフ足りなかったからブラッシュアップしきれなかった
Dパート→とりあえず締め切りに間に合うように作った
理解ある彼くんなワイはオタクへの反撃(Qの恨み)とモヨコとの私小説が書ければあとはどうでもいいだったんだなってすぐさま読み取ったけど
自分自身を映画に重ねるキョロ充の非オタな豚どもは感動したり勝手に意味を読み取ってたな
正解はパンフレットに書かれてたスタッフから『意味不明』『謎』『もっと客観性を持って作品作りを』ってメッセージ
NHKのドキュメンタリーでも、スタッフに意味不明って言われたし、絶対に破れない締切のせいでああなった様子が映し出されてた
あとドキュメンタリーで映像面ではグルグルアングルに並々ならぬこだわりがあるってやってたね
なにしてるかわからないって評判が多かったけど、ワイは初めからグルグルアングルは面白いって評してたぞ
(現実に帰れっていうテーマは)あったと思うよ、庵野くんEOEの頃からずっと的外れだけど
押井のビューティフルドリーマーで見たけど?だったけど
EOEの狂気が凄まじいのと作品としての完成度が高いから許された
(もちろん激怒したやつもいる)
そもそも虚構の世界に逃げているとされる人たちのオタ活の中心はとっくにエヴァなんかじゃないぞ
炎上商法狙ってるにしたってクソ寒すぎ
シンを観て隙あらば氷河期世代をしているのは商業ライター・個人ともに闇が深すぎるのでノーコメント
メンヘラ女(アスカ)の相手は理解ある彼氏くんなぬいぐるみペニス以外には出来ないは正しいが
"常識的な嘘"を書けば、アスカとケンスケを受け入れる人は多かったと思うんだよな
メンヘラはこうだについても嘘がつきたくなかったし
アスカ厨ムカつくについても嘘がつきたくなかったし
エヴァもうやりたくないんだよなぁと俺が思うエヴァからの解放にも嘘がつきたくなかった
何よりも嘘つかないでも商売としてやっているけるレベルで信者を集めていることに確信的だからな
276 公共放送名無しさん 2021/03/22(月) 20:37:24.34 ID:cd47Rl9
ぼく「じゃあもういいや」
ぼく「しょーがねーなぁ」
ぼく「お前なんなん?」
今
庵野くんに少しは反省して欲しかったので大ヒットしないで欲しかったな
庵野くんは何しても許されることに自覚的だからエヴァやりたくねーアピールしてエヴァ串刺しにして
>なんらかの作品を見て、起こってることしか感じられないのは可哀想だと思う。
ワイ的にはこっちのが理解し難い
キョロ充「成長 (ちらっ)」
キョロ充「救い(ちらっ)」
ワイ「キミらのいう "希望" 、"成長"、"救い"、"大人" 、"人生"、"人間" 、"対話" とは? シン・エヴァのどの辺りから感じたの?」
カサカサカサカサカサカサカサカサカサカサ(キョロ充逃げる)
あんだけ尺取るなら真面目にやろうよって思った
庵野くんはメカアクションや組織で大事を成すカタルシスをケレン味たっぷりにやる作家で
エヴァが庵野くん物語ということも承知しているし庵野くんがエヴァやりたくないことも承知している
けれどそれでもなぁなぁにできないレベルのクソゴミシナリオだったと思うよ
EOEの時に庵野くんを支えた人がいなくなったからでは?と言われても致し方ないレベル
今、テレビアニメ放送中の魔術士オーフェンはぐれ旅の原作小説について、雑に語ろうと思う。ネタバレ満載原作4部まで話すので、ネタバレ苦手な人は回れ右。
魔術士オーフェンというシリーズは90年代ファンタジーラノベの金字塔と言われている。私は98年くらいからオーフェンを読んでいるが、確かにあの頃にとても売れていた。いわゆる夢と冒険のファンタジー的な売り文句だったと思うが、今思うとほぼ全ての読者がこの物語の本質を誤解していたから売れていたのだと思う。
私もオーフェンを夢と冒険のファンタジーだと思っていた。が、当時巷に溢れていた物語とは何かが違うとも思っていた。その時にはただの予感でしかなかったが、あれから20年以上経った今になって、それはようやく確信となった。魔術士オーフェンという物語は夢と冒険のファンタジーではない。人間の倫理についての思考実験だったのだ。
まず、第一部である西部編。これは罪と償いについての物語である。一巻でチャイルドマンを殺したアザリーが、その罪を償うために何が出来るのかを模索したのが第一部だ。
先に言っておくと、作者の秋田禎信氏は殺人という罪を否定しているが、それを人間の絶対的な汚点とは見做していないと考えられる。なぜそう思うのかというと、第一部では主人公も含めて殺人者が登場するが、彼らに物語の神の立場で罰を与えてはいないからである。しかし、安易な赦しも与えていない。彼らが殺人者であるという事実に直面させ、その上で彼らの生き方を描いている。これについては同作者のエンジェル・ハウリングにも同様の特徴がある。
そして第一部では、アザリーのチャイルドマンへの償いを通じて、この世界の秘密が語られる。この秘密の明かし方は非常にドラマティックに演出され、私は陶酔すらした。
この演出の妙があまりにも素晴らしかったので、私も含めて多くの読者はこの物語を夢と冒険のファンタジーだと誤解したのだと思う。精緻に設定された世界を楽しむ物語なのだと。
しかし違った。作者は世界を描くということに、もっと自覚的であった。その自覚が存分に描かれるのが第二部、東部編である。
東部編は西部編で明かされた世界の秘密、滅びに晒されている世界を6種のドラゴン種族の長たちだけで守っているという事実に対して、そのために現れる世界の歪みと、その世界の在り方をどう捉えるのかということを克明に描いていく。これもまた、倫理的な話である。
最終的に、オーフェンにはその歪みを好きなように書き換える機会が与えられた。歪みを正す機会ではない。好きなように書き換える機会である。
この時の彼は神にも等しい魔王の力を持っており、ドラゴン種族の守りをより完璧にすることも、自身がドラゴン種族の代わりに世界の守護者になることも、好きに選べた。
しかし、オーフェンはごく僅かな人々が世界を守るという在り方を否定した。世界が滅ぶことによって死ぬかもしれないというリスクは全ての人で平等に背負うべきだという道を選んだ。そして、ドラゴン種族の守りを消し去ったのである。
例えば、これをかつての王制になぞらえることも出来ると思う。王制と言えば王権による暴力ばかりが注目されがちだが、政治という大きなものをひと握りの人間に押し付ける装置でもあった。これをドラゴン種族の長達による世界の守りと同等の問題だと見做すことは出来るだろう。
そうした世界の在り方を認めてよいのか?という問題に否という答えを出したのが第二部であった。
第四部では、力と人間の極限を描く。力の強大化が行き着く先はどこか。人間が強大化する力を持ったとき、いつまで人間と呼べる存在でいられるのか。そうした問題を扱う。
オーフェンが第二部のクライマックスで手に入れた魔王の力はそれから20年経ってもまだ彼の中に残っていた。しかし、オーフェンはその力を振るえば自分は人間ではいられなくなると考え、その力を自らの自制心だけで抑え続けてきた。オーフェンがドラゴン種族の守りを消し去ったことが原因で遭遇することになった神人災害でどれだけの人が死のうとも、それらを全て蘇らせることが出来るのに、だ。
この、とても人間とは思えない自制心故に人間でいられるという二律背反を背負ったオーフェンと、それを生み出した作者の秋田禎信氏に深く敬服の念を抱く。
忘れていたので追記。ミステリをろくに読まずにアンチ・ミステリを読んで気取るのもどうかと思ったが、メタフィクション的なものにひかれる性分なもので手に取ってしまった。
これはミステリを楽しむ読者に対する批評(いやがらせ)であり、こじらせ文学青年崩れの自分は、こうした読者に喧嘩を売る態度を好んでいる。だから、旧劇場版のエヴァンゲリオンや新劇場版のQも同じ理由で偏愛している。かなり楽しんだ。
余談だが、「トップをねらえ2!」もまた、自分のやっていることに対してかなり自覚的・批評的だと感じている。まっすぐな努力と根性の物語にも見えるくせに、根性論に否定的な者が終盤になって気合で新たな力に目覚め、努力と根性ばかり口にしていたキャラクターが実は才能の塊であった、という皮肉が好きだ。
小説というのは何歳になって読んでもいいものであって、ペースも人それぞれだから、何歳までの必読書という声は基本的に無視していいと自分は考えている。自分が学生の頃に古典ばかり読んでいたのは単純に背伸びがしたかっただけで、振り返ってみればそれ以上の意味はない。また、「ラノベにエロシーンが出てきてもどうせパンチラかせいぜい裸を見るくらい。だったら本番行為やそれ以上の何でもありの純文学を読みたい」と考えたからでもある。もしかしたら、自分が男子校出身者だったから、女子のいる高校生活を読むことがうらやましくて耐えられなかったからかもしれないが。
さて、好きに読めばいいと書いたものの、若いうちに読んでおいたほうがいいと考える理由もそれなりにある。一つは体力的な問題だ。年齢を重ねると物理的に目が酷使できなくなってくるし、重苦しい物語を読む体力もなくなってくる。自分も身につまされる話よりも、読んでいて気持ちがいい話ばかり読むようになってきてしまったし、芥川賞さえ読んでいない作品が多い。もう一つの理由は、だんだんとフィクションに飽きてくることだ。飽きるというか、何となく手が伸びなくなってくる。その代わりにエッセイ的なもの、身辺雑記的なものに魅力を感じるようになった。「永日小品」とか「武蔵野」とか、古典の日記文学だとか。
それも飽きたら、ノンフィクションを手に取ることにしている。最近読んで面白かったのはリチャード・C・フランシス「家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか」だ。好きなものを好きな時に好きなように読む。読書ってはそういう私的なもので、他人からとやかく言われる筋合いのものではない。
正直なところ、同時代の作品を読んだほうが財産になる気がする。古典は、好きな作家が薦めていたのだとか、尊敬する人が影響を受けた作品だとか、国語の授業で出てきて面白そうなのや、読書家の友人の一押し作品、くらいを読めば十分だろう。現在の僕らの問題意識に直接答えるのは現代の作品だ。現代の作品に飽きたら古典に手を出すのはありかもしれないが。
もちろん、古典はいいものばかり残っているからはずれを引きにくい、というメリットもある。自分が読んでいた理由の一つがそれだ。加えて、古典が答えをくれることもある。古典の場合、素朴な問いに正面から取り組んでいることが多く、僕らみたいな一般人が考える哲学的な疑問はとっくに古典で扱っているので、さまざまな疑問を僕らの代わりに考えてくれており思考の節約になるし、多くの場合安易なハッピーエンドとも無縁だ。好きになったから読んだ、それだけのことだ。
それに、古典の知識があると、同時代の芸術をより楽しめたり、当時の日本や世界の空気を空想する楽しみが増えたりする。古典の翻案作品も深く楽しめる。だが、古いのばかり読んでいては現代から目を背けてしまうことになるだろう。
もちろん、現代から逃避するために古典を読むのもありではあるけれども、自分にとって古典を読むことは、現実に直面するための準備・バッファでもあった。言い換えるならば、最初は逃避のつもりだったけれども、古典を読むことで蓄積された感受性が、面倒くさい現実に対処する能力を多少は授けてくれた、ということだ。
また、もしもまっとうな作家を目指しているのなら、最先端の作品のみならず、そのジャンルの古典的な作品を最低限読む必要は出てくる。ミステリなら基本的なトリック、SFなら実在架空を問わず科学的な理論を知らないと書けない。けれども、読書エンジョイ勢としては気にする必要はない。必読書リストが必要になってくるのは作家になりたい人間くらいだろう。
ちなみに、度を越して読破量を自慢してくる人間は気にしなくていい。そういうのは根本的に、ポケモンの名前をどれだけ言えるようになったかを見せびらかしているようなものだ、と自分は考えている。何かを全部暗記したリコレクションしたりするのは楽しいものだけれども、興味がない人に自慢してもしょうがないし、敷居を高くするだけのことだ。それよりは、気に入った作品を何度も読み返すほうがよほど豊かな読書ライフを送れる。通読でなくても本棚から二三冊手に取って、ぱらぱらとお気に入りのページを読み返すことでどれほど心が休まることか。
自分にとって文学とは、わけのわからない世界に対する防壁だった。近頃は昔ほど心に壁を築いてはいないかもしれないが、物語が今まで自分を守ってくれた記憶に、今でも支えられている。
気が向いたら日本文学編、あるいは池澤夏樹の世界文学全集編を(オリジナルで)やるかもしれない。しかし、面倒くさいので相当先になりそうだ。
以上。
消えてしまったが、これを必死にネトウヨの戯言と叩いているのが涙ぐましかった。
おそらく増田個人についてはフィクションだろうが、中国市場に関しては、全く増田の言う通りだよ。
14億の市場で商売させてやんねーぞ、は人口3億の米国が同じことをやるより遥かに効く。
共産党独裁国家がジェノサイドの隠蔽のために、自由貿易を逆手に取るといった妙手に、どの国も対処に手を焼くことになっている。
ちなみに日本の保守政権は米国どころではなく、この点完全にヘタレているのだが。
先のプレジデントの記事では、中国の「暗い近代史観」に触れられていたが、アヘン戦争このかた中国市場の抗いがたい魅力がその近現代史の背景にあった。確か清朝時代で3億くらいではなかったか。
その意味では中国市場に出遅れた米国こそそれに最も自覚的であったはずで、日本が満州国の市場開放について米国に更なる便宜をはかっていれば、その成立を認めることもやぶさかではなかっただろう。実際GMやGEといった民間企業は満州国で活動をしていた。
その後の、日本の華北侵略や南方進出といった愚策によりそれどころではなくなっていくが、
大日本帝国の評価としては今後、米国を疲弊させ国共内戦に介入する体力を奪ったことで、結果的に中華人民共和国の成立を手助けしたという辺りに落ち着くのではないか。
だって新コロがなければ、オリンピックの延期なんてなかったし、延期がなければこんな騒動も起きなかったんだからさ。
だいたい、この騒動自体がどうにもこうにも気持ち悪すぎるからな。
一体、どうしてしまったんだ?
やっぱりさ、少しおかしいぞ。
なんか森さんを責めてるやつとかおかしいじゃん。
森さんみたいな老人を強制収容所に収容して思想改造するべきだ、とか言い出すようなやつばっかりじゃん。
いやいやいやいや、森さんなんかより明石家さんまのほうがよっぽどヤバいですよ!
こういうやつはさ、戦中に生きていたら、あいつは非国民なことを言っていた!、いやあいつのほうがもっと非国民だ!非国民!とかって他人の言論の揚げ足をとってチクリ・密告、お手のものだったのじゃないかな?
まあ、あれだよ。
古い言い方でいうと因果応報。
基本的に表現の自由とか言論の自由は統制されるべきである、ということでしょ?
いや、そういうことではないよ、とかいうかもしれないけど、そういうことだよ。
そういう方向へと、世の中は向かっていくべきである、という思想の持ち主だよ。
そこはさ、わかっていませんでした、知りませんでした、では済まされないよ。
どうも、文章が上手だとブクマで褒められることのある増田です。
意見を文章で述べるには、言いたいことを早い段階で提示するのが大切です。何故そう思うのかはあとから書きましょう。
貴増田は文章を書き終えた段階で言いたいこととズレたということが分かるくらい言いたいことに自覚的なので、この手法が良いと思います。
この文章もそうした手法で書いています。ここから先はあまり重要ではない補足です。
文章を書くにあたって、毎回同じ手法を使うわけではありません。何故なら、文章を書く目的自体が違えば取るべき手法や取れる手法にちがいが出てくるからです。
例えば、意見をまとめて考えるツールとして文章を使うのであれば、最初に言いたいことを書くなどというのは不可能です。その場合、まず自分の疑問を書き出すことが重要です。
恐らくですが、貴増田は意見を書きながらまとめるときに有効な手法がクセになっているのだと思います。であるから、文章を書くうちに本来の文意とは違うところに引っ張られてしまうのでしょう。
意見を述べる文章として、最初に疑問や議題を提示してから考察を深め結論を出すものも確かにありますが、この目的と手法の組み合わせは非常に難しいですし、数千字程度の短文に向いた手法でもないと個人的に思います。
貴増田の強みは言いたいことがはっきりとしていることです。そして個々の文で言いたいことが分からないということもないです。
大人に楯突く子供の歌、思春期特有の全能感の歌みたいな見方をしている人が多いけどMVとか歌いかたと照らし合わせるとちがくない?という
むしろ社会の息苦しさに気づいてしまった少女の悲劇性の歌だと思う
社会の息苦しさに気づく程度の賢さはあるのに社会を変えるほどの力はなく、見て見ぬふりをしてしたたかに生きる力もないままもがいた末力尽きる
主人公を囲むのがレーザーだというのも象徴的で、見えなければ無害だが気づいてしまえば視界にちらついて不愉快。糸と違って実体がないから振り払おうともがいても無意味。ルールもマナーもそういうものだ
途中で主人公が力無く座り込む描写も主人公最強ソングなら不要だ
やり玉にあげられている「私が俗に言う天才です」もこの場面を踏まえた文脈からすると心が折れかけているのを奮い立たせるための言葉ではないかと感じる
最後には撃ち殺されてしまうわけだし、結局彼女は社会に打ち勝てていない
そもそも大人を馬鹿にするだけ曲にしては全体を通してあまりにも余裕がない
もっと余裕ぶっこいて煽ればいいのに
言ってること自体は間違ってないし、社会で生きる上でそれが通るかは別として言われればまあそれなりにうぐぐ…となるだろう
それを笑ってやれば良い
必死こいて怒鳴るよりよっぽど優位にたてるし、周りをこき下ろして悦に入るだけならそれで十分じゃないか
ざっくり過去作を聞いた限りだと、その気になればそういう曲も作れる人のように思える
でもそうじゃない
彼女はただ自分を誇示したくて大人を笑っているのではないからだ
もしかしたら序盤はそうだったのかもしれないがラスサビは違う
大人がとうに諦めた壁を許せずにボロボロになりながら体当たりを繰り返している
自分を奮い立たせ、必死で己の強さと周りの愚かさを声を枯らして空に叫んでいる
でもどんなにがなって、煽って、怒鳴ってもそこにあるのはレーザーだけで、彼女を苦しめる人間はビルの外で悠々と銃を構えていることだろう
叫びは結局誰にも響かないし、まあ今のTwitterの様相を見る限り滑稽だと笑われるのが関の山
ラスサビにはそういう、強い言葉の裏に潜む悲壮感がちゃんとある気がする
経済や流行を把握するのにも空いたグラスに酒を注ぐのにも違和感を覚えないという人はいて、それはある種の強さだし
あるいは違和感を感じつつ生活のためにそれらをこなせるというのもまた強さで
そのどちらも持ち得なかった、ひねくれたようでどの大人より愚直な少女の末路の歌だと思うし作り手も歌い手もそれを自覚的にやってるんじゃないかと思う
補足
もちろん解釈は自由だしあまりにも合う人がいないので驚いたな、というだけの話でなにかを否定する意図はないです
うっせぇわとうっせぇわを好きな少年少女をを笑い者にする奴らは許せないが
なに!?プリキュア燃えてるの!?今週めちゃくちゃ良かったやん 良かった話するぞ
まず前提として、個人的にヒーリングっど♥プリキュアの一番の良さは、パートナーとの関係性の描き方が上手なところだと思っている。
地球を守りたいヒーリングアニマルたちの想いに応える形で少女たちはプリキュアになり、互いに支えあって影響し合ってこの1年かけて成長してきた。ヒーリングアニマルは自分たちの無力さに自覚的で、実際に戦う力を持っているプリキュアを想い支え続けてきた。プリキュアはそんな健気なヒーリングアニマルの手を取り、悩み迷いながらも大事なものを守るために戦ってきた。
で、今週はそんな一年の積み重ねがよく表現された、集大成とも言える回だったんだよ。
ラビリンの、自分の使命を気にしてのどかが本当の気持ちを言えずに悩んでいるのではという心配。のどかの、ヒーローとしてプリキュアとしてみんなを救いたいという想いと、病気はつらくて怖くてもう二度となりたくないという素直な気持ち。
自分の気持ちを言えず喧嘩もしたことがある二人が、いま腹を割って各々の気持ちを伝え合える関係性を築けたことがまずこの一年の積み重ねの結果だし、のどかのその気持ちを聞いてラビリンが「のどかは自分を一番に考えていい」って言ってくれた、その言葉でのどかは背中を押され、自分を大切にすることを決める力になったことは……もう……ラビリンとのどかのこの一年の関係性あってこその救いだし、双方の成長なわけじゃん。
そもそも我々だってのどかたちのことを一年見てきてるわけで。しかも私情を挟むといま病気で絶賛長期入院中。だからめちゃめちゃのどかの気持ちに共感してたよ。嫌だよ、自分が死ぬかもしれないって思うほどのつらさ怖さ苦しさが続く日々。二度と経験したくないよ。ヒーローなんだから受け入れなきゃ、救わなきゃなんてこと正直思えない。
そんな思いをしたのにダルイゼンのことであれだけ悩んだのどかは、自分があれほど大変でもいつも周りの人の気持ちを思いやって、つらいところを見せないように悲しませないようにって、もう書いてて泣きそうなんだけど、優しくて他人思いで、そういう子なんだよ。
そういう子が、自分を一番に考えてもいいんだって、ラビリンが言ってくれたからそう思えるようになったんだよ。成長と絆の集大成なんだよ今回は。
確かに「目の前で苦しんでる人を救いたい」って気持ちは正しいこと。でも、それよりも、まず何よりも「自分を一番大切にする」が最初でいいんだって、自分が苦しんでまで救う必要はないんだってこと。
それは本当に素直なメッセージで、ここで言いたいことなんだろうなって伝わってきた。
自分は世の中のいろんな人に会って、自分を大事にするのを上手にできない人は意外とたくさんいるんだなって思った。だからこそ、ここでこのメッセージをくれるプリキュアは良い作品だなと思った。痛い、つらい、怖い、苦しい、そういうのが嫌だって自分の気持ちを認めて、素直に言えることの大切さ。そしてみんながその気持ちを一番大事にしていいんだ。
こういう力強いメッセージをまっすぐにわかりやすく伝えてくれるから、こうしてプリキュアをいつまでも見ていたくなるんだ。大好き。
“ただし研究者としては別だ、とも上野氏は語っている。先述のような議論の“弱点”は研究者として知っておくべきで、それに自覚的であらねばならないというのは、研究者の矜恃としてごく真っ当なものであるように思える。ここに批判を加えるのは難しいように感じるが、どうだろうか。”
お前が言う“弱点を網羅して示すべき”はそもそも上野氏自身が語っていたことで自身の思想についても批判的な見方をする程度にはちゃんと研究者倫理に則って研究、発表をしてるわけで、お前がこれを認めてないだけ お前の主張は全部反論にも批判にもなってない いい加減に理解しろ
最近の社会学バッシングにおいて「査読がないこと」に並んで使われがちな「社会学者の上野千鶴子が『自分に不利なエビデンスはもちろん隠す。それを悪いと思ったことはありません』と発言した」というエピソードについて。
※その件についてのTogetterまとめ
https://togetter.com/li/1214735
Twitterで検索したところ、2018年4月2日にこのエピソードが話題になったようだ。(元ツイートは現在アカウントが凍結されているらしく、現在閲覧することができないため、元ツイートに最初に言及したと思われる閲覧可能なツイートのリンクを以下に示す)
https://twitter.com/rionaoki/status/980726397747408896?s=19
まとめの中で貼られている画像は何度か引用されているらしく、高村氏のツイート以前にもこのツイートで引用されている。(https://twitter.com/silver_fishes/status/980840049842401280?s=19) ※おそらくだが、元ツイートに貼られていた画像だと思われる
では本題に入る。
この引用箇所をもって、「上野氏が『不利なエビデンスは隠す。それを悪いと思ったことはありません』と発言した」と言えるのか、検証する。
画像で示されている箇所をまとめるとこうだ。
上野氏:パフォーマンスレベルの話としては当然。ただし研究者としては自分達の議論の弱点について正しく理解し、それに目を瞑ることがあってはいけない。そのことについて、小熊さんには「社会運動家としては正しい選択だ」と評価された。
ここで重要なのはパフォーマンスレベルにおいて、つまり社会運動の中で示すデータと、研究者として理解しておくべきデータは異なるということである。
社会運動は他者に対する啓蒙、啓発を目的に行われるものである。あるイシューについて無関心な他者に理論を説き、自分の陣営へと引き込むこと、そして同じ考えを持つ人々で連帯して社会を変革(もしくは維持)させていくことが社会運動の目的であり、それ以外ではありえない。
この「社会運動」の他者への啓蒙において、戦略として(不利な)データ、つまり議論の“弱点”を示さないこともある、と上野氏は述べているのである。
例として、反表現規制運動という社会運動について考えてみる。「あらゆる表現への規制は不当であり、反対すべきものである。」といった立場を啓蒙しようとする場合はどうか。(文脈上、その主張を仮定せざるをえないため論点先取になってしまうが、J・S・ミルの「自由論」における議論を元にしていることを了解いただきたい。)
この立場には「誹謗中傷やヘイトスピーチは表現の自由によって擁護されるべきものなのか」という疑問が生じうる“弱点”がある。そしてこの弱点について反表現規制陣営はこう説明するだろう。「我々は誹謗中傷やヘイトスピーチを推奨しているわけではない。それらは法によってではなく、人々のモラルによって抑制されるべきものである。」しかしそれでも疑問が生じうる。「表現に法による制限を全くかけない場合、誹謗中傷やヘイトスピーチが(法によっては)放置されているというデメリットは果たして“人々のモラル”だけで解決するものなのか、表現の自由が“完全に”行使されているというメリットと釣り合うものなのだろうか」
ここに「あらゆる表現に対する規制は不当である」とする立場の決定的な弱点がある。「もし自分や家族が些細なきっかけで不当な誹謗中傷に晒されたとしても、法によって罰することが出来なかったとしたら…」「人々のモラルによって解決されるべきものとは言うものの、誹謗中傷によって村八分になってしまえば誰にも助けてもらえずじまいなのではないか…」啓蒙された人がこのような不安を抱く可能性は大いにあり、そうなればその啓蒙は失敗に終わってしまう。
このような“弱点”を伝えるよりも、表現規制の恐ろしさや自由な発言が出来なくなることへの危機感を説くほうが「(啓蒙によって連帯を形成するという)社会運動の目的を達成するための戦略」としては当然だ、と上野氏は語ったのであり、小熊氏もそれを「社会運動家としては正しい選択だ」と評価したわけだ。
ただし研究者としては別だ、とも上野氏は語っている。先述のような議論の“弱点”は研究者として知っておくべきで、それに自覚的であらねばならないというのは、研究者の矜恃としてごく真っ当なものであるように思える。ここに批判を加えるのは難しいように感じるが、どうだろうか。
さて、上野氏は「『不利なエビデンスは隠す』と発言した」と言えるのだろうか。
たしかに、研究者として自身の議論の弱点を知っておきながら、社会運動においてはその弱点を示さない、というのは不誠実な行為に思われるかもしれない。しかし、社会運動の中で議論の弱点をそのまま晒すということはすなわち社会運動の失敗を意味するのであり、そうならないためにも積極的にメリットを伝えるほうが効果的だ、ということは先述した通りである。
そもそも、研究のレベルにおいては“不利なエビデンス”も網羅し把握すべきである、ということは上野氏自身が語っていることであり、ここに誤解があるように思われる。もし研究において“不利なエビデンス”を意図的に無視することがあったなら、上野氏はそれを許さないだろう。しかしパフォーマンスレベルにおいては当然のことだと語ったのであり、この前後を混同した誤読によってこのエピソードが「社会学はエビデンスをないがしろにしている」という社会学批判に利用されているのだと推測する。
以上から、この記事の結論としては「上野氏は不利なエビデンスも研究者としては把握すべきだが、社会運動においてはそれを示さなくても許容されるうるものと語った」とする。
創作上のキャラは自我をもたないので、作者がそう動かして(アニメ化/実写化で一部改変されて、演じ手の演技が加わって)そのキャラになっているわけで、不快な要素はそもそも誰かが表現したものでしかないんだから、
アンチになって叩く対象はそのキャラじゃなくて、嫌いな要素を生み出した誰かにならないのか、
というか各(メイン)キャラは物語の構成要素をちょっとずつ背負わされていて、
物語の歪みか、そのアンチが嫌いな要素を特定のキャラ(仮に△△とする)がたまたま背負わされてしまっただけじゃないかと、
ありとあらゆる創作物において思う。
作者が作る物語全体の中で、
・成長する/しない過程
・意外性
(↑適当に書いたが他にもたくさんあるだろう)
こんな要素をメインキャラにちょっとずつ配分されて、友情/恋愛/師弟/敵対関係と人数やキャラの能力、掛け合いがバランスよく収まるように設定して配置されてるのが創作なわけで。
このバランスを欠いていて△△だけ出番が多いのは△△が出たがってるからじゃなく作者の責任。
意外性のためだけにキャラが犠牲になったように見えるのもそうさせた作者の力量不足であって、そのキャラを意味もなく殺した△△のせいじゃない。
△△が無能なのは作者がバカか、作中で否定されるべき行動だから、
△△の台詞/主義主張が受け入れられない場合、作中で否定されるために言わされた主義主張なら否定されるまで嫌いでいい。
到底受け入れられない△△の価値観が作中で肯定されて嫌なら、それは作者と合わないのであって、△△のせいで物語が崩壊したわけではない。
△△の行動言動が痛くて見ていられなかったりテンションが苦手なのも、場面を明るくするためかキャラ全体を見たときのバランスの都合、あるいはキャラ同士の掛け合いのしやすさからそうなってるだけで、△△がうざいわけじゃない。
外見、キャラデザが受け付けないのは、そう描いた作者、アニメの作画班、俳優のルックス、メイクのせい。
(アンチの中で歪んだものの見方になってる可能性はいったん置いておく)
ただ、なんとなく△△が苦手と思ったときに作者がどうこうまで踏み込まないのは当然だし、この程度だとアンチ化しないので理解できないとは思わないが。
嫌いな要素を作った作者が嫌いなんだが、作品全体は好きだから作者を嫌いとは言えず、(↑に書いたことなんか分かりきった上で)
[B! 性犯罪] 【独自】銭湯でわいせつ行為の男性2人を書類送検 被害相次ぎ貼り紙も|TBS NEWS
こういうのは一部の人、というには多すぎるんだよなあ。
何を言いたいのかわからない。
「一部というには多すぎる→全体もそうであるに違いない」といったミスリードでないのなら、どういう意図でもってこのコメントを残したのか説明していただきたい。
"かわいそうランキング"上位になれば好き放題できるようになる。本件に対する批判もすぐさま「差別」認定されるだろう。
当事者から見てもこれは明確な犯罪行為なのだから、このコメントは揶揄にしても筋が悪い。
この場合で言えば、本件の被疑者に対する批判とゲイ全体に対する非難とは、分けて考えなければいけない。
ハッテンしたきゃハッテン場行けや。
ハッテン場という単語には「ハッテンする場所」というぐらいの意味しかない。だから「彼ら」にとってはこの銭湯もハッテン場ということになってしまう。
「有料ハッテン場に行け」なら問題なく成立する言い分ではあるし、おそらくはそういう意味で言っている人も多いと思われるので、この指摘は揚げ足取りでしかないのだが。
ホテル行けよ・・
自分の家でやれ
これもよく見る反応だが、「それができれば苦労はしないんだよ」と言いたくなるゲイも少なくないのではなかろうか。
男同士での宿泊を断られるラブホテルは未だ多いし、かといって自宅に他者を招き入れるのは、「ゲイ」が被差別属性として機能している現状では(身バレ等)社会的な死に直結しうるハイリスクな行為である。
結局のところ、手っ取り早くそういう行為に及びたければ有料ハッテン場に行くしかないのである。(それさえも知人に目撃されればどうなることやら、という話ではあるのだが)
こうやって一部の心無いゲイが数百年の歴史をもつ共同浴場文化を潰すわけだ。本来であればゲイの団体から一番に批難声明が出てしかるべき。
「ゲイ」「共同浴場文化」の部分に他の単語を代入してみて、それでも問題ないと思うのであれば、俺から言えることは何もない。
個人的には、一部の心無い人物の行為によって彼らの属する集団が声明を出す必要にかられる、というのは健全な慣習と思えないが。
社会に対して価値観のアップデートを謳うと今まで自分たちがお目溢しされていたこともアップデートしなければいけなくなるんやで。
言わんとしているところはわかるのだが、同様のフレーズを目にする昨今のケースを鑑みれば「価値観のアップデートなど求めてない」という当事者もままいるだろうことは想像に難くない。
そもそも、今までだって「お目溢し」をされていたのかどうか。本件のような行為はもとより犯罪なのだし、数はともかく摘発もされていただろう。誰が、どのように、このような行為を「お目溢し」してきたというのだろう?
ネットで“同性愛者の出会いの場”と書かれている以上、同性愛者を指定した注意喚起は仕方がないんじゃないかな。迷惑行為をする人に伝わらなければ意味がない。
これに対しては「結局伝わりませんでしたね。残念です」としか言いようがない。本件に限らず、同様の被害に頭を悩ませる全国の公衆浴場の管理者に対しては気の毒に思うが。
ゲイ(もしくはバイ)のみならず性的少数者全般に対する印象操作として機能しうる注意書きに、いかほどの正当性があるのか。そもそも、社会の規範を逸脱するような人間に対して、貼り紙での注意喚起がどこまで有効なのだろうか。
そう考えると俺はこの注意書きを妥当とは思えないし、効果もそれほどなかったのではないかと訝っている。
ラブホでシャワー浣腸するやつが多いからゲイカップルお断りを掲げたらゲイ差別だって叩かれたのを思い出した
数年前にホッテントリ入りした
[B! 差別] 男性同士でラブホ、断られ 「あ、差別されたんだ」:朝日新聞デジタル
このニュース(および関連の増田)が念頭にあったのだろうが、妥当性を欠く偏見か、もしくは悪質な印象操作としか受け止められない。
俺個人としては「お断り」に憤ることもないが、それは実際に利害のあるホテル側の判断だからであって、第三者がネットを通じて偏見を助長することに対しては差別だと呼ぶ他ない。
なお、ゲイコミュニティではおよそ、男同士でも入れるラブホテルの情報が共有されている。
女性専用車両と同じだよな。誰が痴漢かわからないから男全体を排除せざるを得ないように、誰がハッテンするかわからないからゲイ全体を拒絶するしかない
俺はこの感性を悪だとは断じたくないが、どれだけヤバいことを言っているのかについては自覚的であって欲しいと思う。
はてな民はなぜ公然猥褻を擁護して、銭湯サイドを袋叩きにするのか?LGBTだから?
ここまで全てのブコメに目を通したが「公然猥褻を擁護」しているidは1人も見当たらなかった。こいつは一体何を見たんだろう。
・追記
犯罪行為を指摘したら差別、という論拠は流石に無理があると思うが。社会が悪い、それを正すべき、と話持っていくのはいいが、現状犯罪なものを批判するなというのは違うかと。
うっかりミスなのか悪意なのか判別つかないので真面目にお伺いしたい。どこに「犯罪行為を指摘したら差別」と書いてあった?
特定の犯罪を、行為者の持つ属性と分かち難いものとして結び付けるな。という話だったんだが、それが何故「現状犯罪なものを批判するな」に置き換えられてしまうのか不思議でならない。
supercellがヒットした以降にボカロで楽曲を発表した世代は、DTMを始めたばかりで音源を買いそろえる余裕がなかった。
クオリティの高い音源を使用するよりもまず楽曲を作ってリリースしたい世代は、DAWの付属音源で妥協して楽曲を作っていたわけである。
彼らの多くはエレキギターとバンドサウンドから音楽制作を始めており、ベロシティやタイミングの変化で生の楽器を再現するスキルがなかったと思われる。
だから、彼ら自身は根底に生楽器へのコンプレックスがあった。多くのボカロPは音楽制作の経験を重ねる過程で、楽曲に演奏家を巻き込んでいったり、
IvoryやTrillian、addictive drumsのような、より”生っぽい”音源を買って、音質をアップグレードしていったわけである。
(メジャー音源をリリースするに際して、有名なプロを読んで再収録をするケースもあった)
とはいえショボい音源を使った楽曲の中でも、今もカラオケランキングで上位に入るような定番のボカロ曲が生まれて、一般的に認知されている「ボカロっぽさ」が生まれてきた。
YOASOBIのサウンドは、そういった当時の「ボカロっぽさ」をジャンルとして再現したものである気がしている。
彼らのチープさは、「ワンルームにこもってノートパソコンに向かい合って作った楽曲が、世間に認められて有名になっていく」ストーリーを連想させる。
そして、そのストーリーを駆けあがってメジャーになったのが、ハチやwowakaなどの世代。今の10代からすれば、米津玄師は「自分たちの世代のアーティスト」ではなく、「少し上の世代で、すでにヒットしたアーティスト」である。
たしかにすごい音楽家であるが、ティーンエージャーからしたらもっと気軽に”推せる”アーティストに出会いたい。そんな気持ちにぴったりと当てはまったのが、YOASOBIである。
学生時代にボカロを聞いていたアラサーとしては、インターネット発のミュージシャンは、メジャー化に際して音質が良くなる印象を持っていた。
だから、デビューしたてのボカロPのようなチープな音源(でも、当時のボカロPよりはミックスの質は断然に良い)が、そのまま街頭のスピーカーからドバドバと流れている状況には少々面食らってしまう。
学校の放送室から、そのまま家で焼いてきたボカロを流している中高生を連想する。
たぶん、そうやって世間に対するカウンター的にショボい音源がヒットしていくのが、今の若い世代にはウケているんじゃないだろうか
(YOASOBIの作曲家自体がその再現を自覚的にやってるかは知らんが、ある程度の音楽知識はあるものの、制作環境的になんらかの縛りがあるような気がする。
で、その縛りから生じた個性が、結果的に彼らの売りになっているんじゃないだろうか)
それにしても、80年代のレトロさをリバイバルするかのように、2010年前後の音質がリバイバルの元ネタとして消費されるとは思わなかった。
反射で適切な発話が出てこないのは発話の練度不足かもしれない
英語を喋れる人がある場面で適切な英語を言うときに逐一自覚的に思考して表現を選択するわけじゃないのと一緒だと思う
そのようになるためにはある場面でこのように反応するというパターンを反復練習することによって場面と適切な反応を結びつける神経を連絡させる必要がある
うまいものを食べたときに美味しいと発話したり、一緒に食べている人に対して美味しいねこれという発話をするのは、そういう経験の積み重ねによって身体化させればいいと思う
これを幼児期に両親とか周りの大人からの模倣で学習する段階で身につけた人間は意識的にそれを学習する必要はないけれども、身につけなかった人にとっては外国語学習と同じプロセスが必要になるんだと思う